「さあ。……」
と、金田一耕助も困って言葉をにごした。
「それに、夢遊病者が提灯をぶらさげてたって話も聞いたことがないようだな」
神崎署長も皮肉った。
由紀子がうしろを振返ると、蒼白んだマリがつよく唇を噛みしめている。
「田代さん、あんたよけいなことをいうもんじゃなくってよ。どっちにしても、おばさまがこの鐘乳洞へお入りになって、そのあとを、うちのお兄さまが追っかけていったらしいって、それだけのことがわかってればいいの。それより足跡を見失わないようにしてちょうだい」
「だけど、おばさま、なんだっていまごろこんなところへ……」
「また!」
と、由紀子につよくたしなめられて、
「はい、はい」
と、田代は肩をすくめると、それでもあとは忠実に由紀子の命令を守って、無言のまま暗闇のなかをすすんでいく。ほかの連中も口をつぐんで、全身の皮膚の感覚をもって、この暗闇のおくにひそむ秘密を嗅ぎつけようとしているかのようである。
三つの懐中電灯と、四本の裸蝋燭のまたたきのなかにうきあがった、七人の黒い影法師の集団には、なにかしら、一種異様な緊迫感がひそんでいる。こういう洞窟のなかでも、空気のながれがあるとみえて、おりおり蝋燭の灯が消えそうになり、そのたびに七つの影法師が、伸びたり縮んだり、ねじれたりした。
いちばんしんがりにひかえた金田一耕助は、この冒険に少からぬ魅惑をかんじている。かれにはまだこの探検を喜劇とみてよいのか、それともスリルにとんだ冒険とかんがえるのが至当なのか、はっきりわかっていないのだ。今夜のこの奇妙な探検が、誰かによってあらかじめ組立てられていた筋書きによるものなのか、それとも、はからずも持ちあがった事態なのか、それすらまだかれにはわかっていないのである。
ただ、おぼろげながら感得できることは、マリの母なるひとが、射水の町のひとたちのまえに、顔を見せたがらないらしいという一事である。しかし、それならなぜわざわざ、町のひとたちを招待したのであろう。招待した以上、客のまえに顔を出すことを余儀なくされるであろうことは、わかりきった話ではないか。……
「ひゃあっ!」
とつぜん、先頭に立つ田代が、世にも異様な叫び声をあげてとびあがったかと思うと、かれの掲げていた裸蝋燭の灯がふっと消えた。それにつづいて金田一耕助も、なにやら一瞬の空気の動揺を頬にかんじたかと思うとかれの掲げていた蝋燭の灯もふっつり消えた。金田一耕助も思わずあっと呼吸をのむ。
「由紀ちゃん、由紀ちゃん、いまのはなんだ。たれかがつめたい手で、おれの頬っぺたをなでてったよ」
「なによ、田代さんの意気地なし。|蝙《こう》|蝠《もり》じゃないの?」
「こ、蝙蝠……?」
「そうよ、ほら、天井をごらんなさい」
由紀子が懐中電灯の光を天井にむけると、なるほど、そこには無数の蝙蝠が、体をさかさまにしてぶらさがっている。
それはまるでボロ布でもぶらさげたようなかっこうで、大半は眠っているらしかったが、なかには鋭い眼をひらいて、下を視おろしているのもあった。完全に眼をさましたのが二、三匹、ひらりひらりと一同の頭上をとんでいる。
「ああ、もう蝙蝠の|窟《いわや》へきたんだな」
と、杢衛はあわてて蝋燭の灯をかばいながら、頭上を見上げて呟いた。
「蝙蝠の窟というんですか、ここ……?」
金田一耕助は裸蝋燭に灯をつけなおして訊ねた。
「ええ、そう。どういうもんですかな。ひろい洞窟のなかでもこのへんだけに蝙蝠があつまってるんですな。気をつけてください。また羽根で灯を吹き消されますよ」
「おじさん、蝙蝠はわざとああして灯を吹き消すんですか」
「ええ。そうらしいんですよ。田代さん。蝙蝠は灯をもってるやつが嫌いなんだな」
「ちっ。いやな眼をしてにらんでやあがる。咬みつきゃしないかな」
「|悪《いた》|戯《ずら》をすると咬みつくかもしれないわよ」
「おどかしっこなしにしてくれよ。由紀ちゃん、ちょっとすまないが、懐中電灯をかしておくれよ」
「あら、どうしたの?」
「びっくりしたひょうしに蝋燭を取りおとしちゃった」
「案外、臆病なのねえ。田代さんは?」
「ちがわあ。誰だって暗闇のなかからだしぬけに、ひいやりしたもので頬っぺたをなでられてみろ。肝をひやさずにいられるもんかてんだ。ああ、あった、あった」
田代が蝋燭をさがし出して、灯をつけなおしているあいだに、金田一耕助は少しそのへんを步いてみる。
世に天の摂理ほどふしぎなものはない。そこには乳灰色の鐘乳石の柱が、まるで数十、数百匹の白蛇がからみあったようなかっこうをして連なり、それが洞窟の壁をなしているのである。洞窟はもうかなり、ひろくなっていて、天井まで五メートルくらい、洞窟の幅は四メートルくらいもあろうか。床もかたい岩石からできているが、ところどころに水溜まりがあり、また、いたるところに天井からしたたりおちた滴がたまりたまって、鐘乳石のかたまりが、筍のようににょきにょき生えている。
いつまでも立ち去らぬ裸蝋燭や懐中電灯の光に眼をさましたのか、天井を舞う蝙蝠のかずはしだいにふえてくる。
杢衛はとつぜん、金田一耕助の腕をにぎると、片手にもった裸蝋燭で、天井に舞う蝙蝠を指さしながら、骨をさすようなきびしい声でいった。
「金田一先生、あの蝙蝠たちの親か、あるいはその親たちは見ていたんですよ。玉造の朋子が、わしの可愛い倅の英二を刺し殺すところを。……英二の死体が発見されたとき、そのうえを五、六匹の蝙蝠が舞ってましたからね」
その声はマリの耳もとにもとどいたのにちがいない。むこうむきになった肩のあたりが、はげしく痙攣したのを、金田一耕助は見のがさなかった。
洞窟の怪人
それから間もなく、ふたたび態勢をととのえて、一同は蝙蝠の窟を出発したが、しばらくすると、
「さあ、弱ったぞお」
と、先頭をいく田代が叫んだ。
「田代さん、どうかしてえ?」
「どうもこうもねえよ。このへん、岩ばっかりで地面がかちんかちんなんだ。足跡なんかどこにもありゃしねえ」
「あら、困ったわ。それじゃおばさまやお兄さま、どっちへいったかわからなくなってしまう。だってこの鐘乳洞、これからさき、迷路みたいになってるのよう」
「ほんとうか、由紀ちゃん」
「ほんとうよ。お兄さまはいいけど、おばさま迷い子になってしまうわ」
「玉造のやつはどこへいきゃあがったのか。おうい、玉造やあい。康ンベ、やあい」
田代が声を張りあげると、洞窟のはるかおくから、それに呼応するかのごとき声が、とおくはるかに聞えてきた。
「あっ、しめた! 誰かが返事をしてるぜ」
「嘘よ。いまのはこだまよ」
「こだまァ……?」
「そうよ。嘘だと思うならもういちど呼んでごらんなさい」
「ようし、きた。玉造やあい。康ンベ、やあい。……」
叫んでおいて耳をすますと、なるほどしばらく間をおいて、とおくかすかに聞えてきたのは、いま田代がさけんだのと、おなじ言葉の繰り返しだった。
「ほらね」
「ちっ、やっぱりこだまかあ」
田代が、がっかりしたように肩をすくめているところへ、少しおくれてほかの一団がやってきた。
「田代君、どうしたの。なにを大声で叫んでいるんだ」
「いえね、金田一先生、ここまでくると、ほら、このとおり、岩がかちんかちんで足跡なんかどこにも見えないんです。それに由紀ちゃんの説によると、これからさきは八幡の藪みたいな迷路になってんで、おばさま、どっちへいったかって呼んでたとこなんです」
「いや、それならなにも心配はいりません」
と、落着きはらって杢衛がこたえた。
「奥さんはきっと底なし井戸へいかれたにちがいないからな」
「だって、おばさま、底なし井戸がどこにあるか、ご存じのはずがないじゃないの」
由紀子が喰ってかかったが、
「いや、ところが、それをしってるから不思議だというのさ。あっはっは」
杢衛のどくどくしい笑い声が、鐘乳洞の壁に反響して、底しれぬ闇のおくから、魔物の雄叫びのようにもどってくる。
マリは無言のまま唇を噛んでいるが、由紀子は憎らしそうに杢衛の顔をにらんだ。
「由紀ちゃん、なんだい、その底なしの井戸というのは……?」
「なんでもいいの。とにかくいきましょう。お姉さま、大丈夫……?」
「ええ、あたしは大丈夫」
マリは蒼褪めた顔をしながら、それでも由紀子にたいして、感謝といたわりの微笑を忘れなかった。
それからまた七つの奇妙な影法師は、黙々として二、三百メートルほどやってきたが、そこではじめて洞窟がふたまたにわかれているところにぶつかった。
「お姉さま」
と、由紀子は立ちどまってマリのほうへ振返る。
「こっちの路を右へいくと、矢部家の裏の崖へ出られるのよ。おばさま、どっちへいったのかしら」
「そら、左の路にきまってるがな。誰がじぶんの殺した男の家のほうへいくもんか」
「だって、おばさま、そんなことご存じのはずはないわ」
「ご存じでもご存じでなくても、左の路にきまってる。そっちへいけば底なしの井戸があるんだから」
田代はちょっと途方にくれたような表情をして、杢衛とマリ、それから由紀子の顔を見くらべていたが、そのあいだに金田一耕助と神崎署長は左の洞窟へもぐりこんで、地面のうえを調べていた。
「ああ、田代君。やっぱりこっちの洞窟のようだ。ほら、ここに足跡がのこっている」
「それに、ほら、マッチの|擦《す》りかす」
と、金田一耕助はほとんど燃えつきそうになった、マッチの軸を一本拾いあげた。その軸はあきらかにまだ真新しかった。
「由紀子さん、お兄さんはたばこを吸うんでしょうねえ」
「ええ、それは……」
「それに、お兄さんはこの洞窟の地理に相当くわしいんでしょうねえ」
「ええ、底なしの井戸まではときどきいきます。あたしもいっしょにいくんです」
「どういうわけで……?」
「はい、あの……」
と、由紀子はちょっとためらって頬をあからめたが、それでもすぐに昂然と首をあげると、
「ひょっとすると、そこから叔母さまがかえっていらっしゃりはしないか。そして、一家の恥辱をそそいでくださりはしないかと、そう思っているからでございます」
と、まるで教師の質問にこたえる善良な生徒のように、敬虔な切り口上でこたえた。
「なるほど、そうすると、これはこういうことになりはしないかな」
と、金田一耕助は杢衛がまた、なにか毒舌を浴せそうにするのをいちはやくさえぎって、
「この洞窟の地理に明るいお兄さまは、ここまでは一本道だから、暗闇のなかを手さぐりでも来られた。ところがここで路がふたつにわかれているので、マッチを擦っておばさまがどちらへいかれたか調べてみた。……」
「しかし、金田一先生」
と、神崎署長がそばから言葉をはさんだ。
「康雄君はそれでよいとして、奥さんはどうしてここまで辿りついたか。暗闇のなかを、あのおびただしい鐘乳石の|筍《じゅん》にもつまずかずに。……奥さんはやっぱり猫のように、暗闇のなかでも眼が見えるのかな」
「なあに、だからやっぱり明りを用意していたのさ。あらかじめ、こういう筋書きができていたんだろうよ」
「いや、ここで議論をしていてもはじまらない。とにかく前進をつづけましょう」
「よし、では、また、ぼくが先頭に立ちましょう」
田代は裸蝋燭を取りなおして、地面に印せられた足跡を調べていた。
「田代さん、お母さまの足跡……?」
マリの声はふるえている。これがあらかじめ書きおろされた筋書きによる演出であったにしろ、また、そうでなかったにしろ、この場の情景はマリのようなわかい女にとって、かなり強い衝撃だったにちがいない。
「いや、それがなにしろ、ぬかるみのなかへ深くめりこんでいるので、靴の形まではわからない。しかし、ごく最近、誰かがここを辿っていったことだけはまちがいないようだ」
「とにかく、いってみましょう。カンポ、しっかりあたしにつかまってて」
左の洞窟へ入っていくと、いままでとうってかわって、|踝《くるぶし》までめりこみそうなぬかるみである。広さは相当あったが、天井がうんとひくくなって、しかもその天井からいちめんに、氷柱のように鐘乳石がぶらさがっているので、うっかり頭をあげて步くことも出来ない。おまけにゆく手は底しらぬ闇だ。
「由紀ちゃん、底なしの井戸というのはまだ遠いのかい」
「ええ、まだずっと奥」
「それまで、ずっとこんな路?」
「ううん、もう少しいくともっと楽になる」
「そうか。それで安心した。こんな洞窟がどこまでもつづいていたらやりきれん」
「でも、路をまちがえるとたいへんなのよ」
「たいへんて、どうたいへんなんだい」
「まだ、誰もその奥をたしかめてみたことのない洞窟があるの。なんでも途中に河が流れてるって話だわ」
「地の底に河が流れてるのかい」
「そうよ。逃げ水の淵っていうの。どこから流れてきて、どこへ流れていくのか、たぶん湖水の底へ流れていくんだろうといってるけど、まだはっきりわからないの」
「ちぇっ、薄気味悪いんだなあ」
「そうよ。だから逃げ水の淵からむこうへは、まだ誰もいったひとがないのよ」
「そんな薄っ気味悪い洞窟へ、おばさまはなんだってまた……」
「また、それを……」
「うん、もう聞かない、聞かない。ああ、ここでまた路がふたつにわかれてるぜ」
「左のほうへいくのよ。右へいっちゃ駄目よ」
「右へいったらどうなるんだ」
「いま言った逃げ水の淵……」
「ふうん」
と、田代は裸蝋燭をかざして、右の洞窟の奥をのぞいた。気のせいか洞窟のはるか奥から、河のせせらぎのような音が聞えてくるような気がする。田代は思わずゾクリと体をふるわせた。
「だけど、由紀ちゃん、おばさんがこっちのほうへ迷いこまなかったとどうして保証することができる」
「田代さん」
と、うしろからまた杢衛が、嘲弄するような調子で声をかけた。
「奥さんはこんりんざいそっちのほうへいきっこない。あのひとはこの洞窟の地理をよくわきまえているんだからな」
「田代さん」
と、その言葉をさえぎるようにマリが叫んだ。
「足跡を調べてみて、どっちの洞窟に足跡がのこっているか」
「よし」
裸蝋燭をかざして調べていた田代は、すぐ左の洞窟の床に足跡らしいものを発見した。
「ああ、やっぱりこっちだ。ここに足跡がのこっている」
「古い足跡じゃない?」
「いや、たしかにいま步いていった足跡のようだ。あっ!」
「田代さん、どうかして?」
と、由紀子が訊ねた。
「ほら、このマッチの擦りかす」
と、田代が拾いあげたまだ真新しいマッチの軸の燃えのこりを見て、一同はしいんと顔を見合せた。
「カンポ、しっかりあたしにつかまってて。あたしなんだか怖いのよ」
じじつ、マリの声はふるえていて、必ずしもお芝居をしているとは思えなかった。
「田代さん、もういちど呼んでみて。お兄さまの名を……」
由紀子も異様な昂奮と緊張に、蒼白く声をふるわせた。
「うん、よし」
田代は呼吸をふかくうちへ吸うと、真っ暗な洞窟の闇にむかって、
「玉造やあい。……康ンベやあい。……」
と、いかにも肺活量の強そうな、ひびきのふかい声を張りあげた。それからしいんと一同は闇にむかって|利《きき》|耳《みみ》を立てていたが、やがてはるかにかえってきたのは、あざけるようなこだまの声ばかり。
「駄目だな、もういちど呼んでみようか」
「いや、そんなことをしているひまには、どんどん進んでいったほうがいい。どうせいくさきは底なし井戸ときまっているんだ」
だが、そういう杢衛もじぶんひとりではいきかねるらしい。
「さあ、田代さん」
と、促されて、
「ええ、それじゃ……」
と、田代が步きだしたときである。
「あっ、ちょっと!」
と、低い、鋭い声で呼びとめたのは神崎署長である。
「えっ?」
「みんな明りを消して! むこうから誰かやってくる!」
その声に由紀子とマリは懐中電灯のボタンを押し、ほかのものはいっせいに、蝋燭の灯を吹き消した。
なるほど、洞窟の奥から誰かこっちへやってくる。忍びやかに、ためらいがちに、それでも正確なリズムを刻んで、足音はしだいにこちらへちかづいてくる。その足音の聞える方角からしてわかることは、この洞窟はなかへ入ると、すぐ大きくカーヴしているらしいことである。
間もなく洞窟の壁に揺れるような光の反射があらわれた。安定したその光線の照明からして、それはマッチの焔のようなものではない。誰か懐中電灯をたずさえた人物が、洞窟の奥からやってくるのだ。と、すると、それは康雄ではない。君江だろうか。……由紀子は心臓がドキドキする。
とうとう、懐中電灯を片手にもった黒い影が、十メートルほどさきのカーヴを曲ってあらわれた。
「おばさまあ……?」
思わず由紀子が声をかけ、懐中電灯のボタンを押してそのほうへむけた。そのとたん、
「あっ!」
と、いう叫びとともに、相手はくるりと身をひるがえすと、た、た、た……た、た、た……と、いまきた道を一目散に走る足音が、しだいに闇の洞窟を遠ざかっていく。
「誰か! 待て!」
ちょっと虚をつかれたかたちの神崎署長は、懐中電灯をつけなおすと、すぐそのあとを追いはじめた。
「署長さん、署長さん、ぼくもいっしょに……」
裸蝋燭をつけるひまのなかった田代は、署長のかざす懐中電灯の光をたよりにこれまたあとを追っていく。ふたりの姿はすぐカーヴのむこうに見えなくなった。
「いまのひと、男のようだったわね」
由紀子がふるえる声で呟いたとき、
「カンポ、来てえ、あたしもいってみるわ」
「お姉さま、駄目! 駄目よ、いっちゃ……」
だが、もうそのときにはマリとカンポも、カーヴを曲って迷路の闇にのみこまれてしまって、あとには由紀子と杢衛と金田一耕助のただ三人。
第一の殺人
「まあ、どうしましょう。お姉さま、きっと路に迷ってしまうわ」
由紀子は懐中電灯をふりかざしたまま、暗闇のなかに立ちすくんでいる。体がこまかくふるえていた。
金田一耕助は裸蝋燭に灯をつけながら、
「由紀子さん、この奥にはわき路がたくさんあるんですか」
「ええ、とってもたくさん。これからがたいへんなんです。網の目のようになっているんです」
「由紀子さんは、しかし、底なし井戸へいく路をしってるんですね」
「ええ、それはよく……」
「そう、それじゃ、とにかくいってみましょう。矢部さん」
何気なく杢衛の顔をふりかえって、金田一耕助は思わずおやと眉をひそめた。
なにに驚いたのか、杢衛は張り裂けんばかりに眼を見張って、前方の闇を凝視している。金田一耕助の声も耳に入らなかったらしい。
「矢部さん、もし、ご老人、どうかしましたか」
金田一耕助にポンと肩を叩かれて、杢衛ははじめて夢からさめたように、ぎっくりそのほうを振りかえった。その顔色にはまだおどろきの色がうかんでいる。
「矢部さん、なにか……?」
「いや、いや!」
と、杢衛は手の甲で額をこすりながら、きょろきょろとあたりを見まわしている。
「矢部さん、なにか……?」
「いや、蝋燭……」
杢衛はさっきびっくりした拍子に、手にした蝋燭を落したらしい。
「蝋燭ならそこに落ちているわ」
「ああ、ほんとだ」
金田一耕助はそこに落ちている蝋燭を拾いあげると、それに火をうつして杢衛の手に握らせた。杢衛の手はなぜかかすかにふるえている。
「矢部さん、どうします。前進しますか。それともここから引きかえしますか」
「もちろん、前進じゃ」
杢衛は怒ったようなぶっきら棒で言いすてると、みずからさきに立って步きだした。
十メートルほどいくと、洞窟は大きくカーヴしていて、そのむこうに漆のような闇がつづいている。もう誰もそのへんにまごまごしているものはなかった。
さっきの男はこのカーヴからとび出してきたのだ。誰もいないと思ってとび出してきたところが、だしぬけに由紀子に懐中電灯の光をむけられて、あわててもときた路へ逃げだしたのである。
「矢部さん、あなたはもしや、さっきのあの男をご存じだったんじゃありませんか」
「どうして?」
と、杢衛は怒ったような眼を耕助にむけると、
「わしには懐中電灯の光しか見えなかった」
「由紀子さん、あんたどう?」
「鳥打帽をかぶってたわね。ただ、それだけ。……それと洋服のうしろ姿と。……」
「金田一先生、あんたは見たんだろう。どんな男だった?」
「いや、それが……あの男がこのカーヴを曲って出てきたとたん、署長さんがぼくのまえに立ちはだかったもんだから。……まあ、とにかくいってみましょう」
それきりあとは無言で、三人は黙々として、底しれぬ闇のなかを步いていく。みんなどこへ消えてしまったのか、あたりには人の気配はもちろんのこと、灯の色さえも望まれない。
ときどき、由紀子が声を張りあげて呼んでみるのだが、かえってくるのはこだまの音ばかり。墓場のような静けさが、地底の冷気とともに身にしみる。
いくほどに迷路はしだいに複雑になってきて、いたるところにわき路がある。
「由紀子さん、大丈夫でしょうね。路に迷やあしないでしょうな」
「ええ、大丈夫。あたし、お兄さまとよくこの路をいったんですもの」
路は急に広くなるかと思うと、また巾着の口をしぼるように狭くなる。あるところでは、匍うようにして進まなければならぬところがあるかと思うと、また、あるところでは、どんな長い竿をもってきても、天井までとどかぬという洞窟がある。
「金田一先生、ここが『とどかぬ|窟《あな》』というてな。二十三年まえ、英二が殺されていたのはこのへんだった」
杢衛の声にはいまさらのように、いきどおりのひびきがこめられている。何年たっても杢衛の胸には、そのときの無念さがくすぶっているのである。
見ると、巌窟をきざんだくぼみに、小さな石地蔵がまつってあった。おそらく英二の冥福を祈って、杢衛がきざませたものだろう。三人はそのまえで手を合わせた。
「ところで、底なしの井戸というのは、まだ遠いのですか」
「いや、もうすぐだ。間もなく崖っぷちへ出るからな、気をつけてくださいよ。足踏みはずすと、それこそ地獄まで落ちてしまいますからな」
やがて三人はその崖っぷちへ突きあたったが、金田一耕助はそこに立ったとき、いまさらのように自然の妙の偉大さに、驚嘆しずにはいられなかった。
洞窟の広さもここまでくると、どれくらい奥底があるのか測りしれない。そこはひとつの真っ暗な世界であった。うえを見ると、どんな長い竿をもってきてもとどかぬという天井が、どこにあるともしれず、闇のなかにおおいかぶさっているのだ。そして下を見ると、いま三人が立っている岩石を、巨大な斧でたちわったように、|千《せん》|仭《じん》の谷が、奈落までつづくかと思うばかりの闇のなかに落ちている。
「底なしの井戸というのはこれのことですか」
さすがに金田一耕助の声もふるえていた。全身からつめたい汗が吹き出すような感じである。
「いいや、底なしの井戸はこの谷のむこう岸にある。灯りがついていればここからでも見えるのだが……」
だが、その言葉もおわらぬうちに、三人は思わずぎょっと呼吸をのんだ。
まっくらな地底の断崖のむこう岸に、そのときぼっと、かすかな光が見えたからである。それはカンテラの灯らしかった。しかも、そのカンテラをもって、朦朧と闇の中に立っている黒衣の女。……
一瞬、杢衛も金田一耕助も、思わずしいんと呼吸をのんだが、つぎの瞬間、由紀子が気ちがいのように金切り声を張りあげた。
「あっ、おばさまだわ。おばさまだわ。おばさまあ!」
由紀子の声が聞えたのか、黒衣の女はふっとこちらを振りかえった。ベールをあげているので顔が見えたが、マリによく似たその顔は、この世のものとは思えぬほど白く、かつ、淋しげに見えた。
「朋子だ!」
杢衛が思わず絶叫した。
その声がむこう岸にとどいたのか、黒衣の女はカンテラをさしあげるようにして、じっとこちらをのぞいている。
そのとき、カンテラの光をまともにうけて、女の顔はいっそうはっきり浮きあがったが、それこそ、マリの母親にちがいないと思われた。マリのどちらかといえば丸顔なのにくらべると、マリの母は面長なほうだが、それでもふたりのあいだには、ある種の相似がうかがわれる。
「朋子だ! 朋子だ! やっぱり朋子がかえってきおった!」
杢衛は気ちがいのように叫ぶと、いきなり由紀子の手から懐中電灯をもぎとって、かたわらの洞窟へとびこんだ。断崖のむこう岸へわたるには、また、地底の迷路をたどらねばならないのである。
「おばさま、逃げてえ! いま、そっちへ矢部のおじいさまがいってよう。間違いがあるといけないから、はやく逃げてえ!」
由紀子がこちらから絶叫すると、むこう岸の黒衣の女は、それが聞えたのか聞えないのか、不思議そうに小首をかしげてこちらを見ていたが、やがてふうっとカンテラの灯を吹き消した。あとはぬば玉の闇である。
「金田一先生、いきましょう。矢部のおじいさまとおばさまを会わしちゃいけないわ」
「よし!」
と、いったものの、杢衛に懐中電灯をうばわれては、頼るものといったら裸蝋燭一本きり。裸蝋燭をかざしては、そう速く走れない。それに、そこからさきにも、いたるところにわき路があるので、よほど気をつけて進路をえらばないと、とんでもない迷路へ迷いこんでしまうのである。
だが、間もなくふたりは先へいく、杢衛のうしろ姿をはるかむこうに見出した。由紀子ほどこの迷路になれない杢衛は、懐中電灯をもっているとはいえ、そう無鉄砲に走れなかったのだろう。
「矢部さん! 矢部さん!」
金田一耕助がうしろから叫んだが、杢衛にはその言葉も耳に入らなかったのか、あとも見ずに突進していく。
「おじいさま、おじいさま、待って!」
叫びながら杢衛のあとを追うふたりの眼に、むこうからやってくる懐中電灯の光がうつった。
「おや、誰だろう」
金田一耕助がつぶやいたとき、杢衛はちょっと立ちどまって、懐中電灯のぬしになにやら訊ねていた。と、思うとすぐまた気ちがいのようにわめきながら走っていく。
金田一耕助と由紀子が駆けよってみると、それはマリとカンポだった。
「あら、お姉さま」
「由紀子さん、どうしたんでしょう。矢部のおじいさま、気ちがいのように走っていったわ」
「おばさまの姿が見えたのよ。底なしの井戸のそばに、おばさまが立っていらっしゃるのが見えたのよう」
「底なしの井戸……?」
と、マリは声をふるわせて、
「底なしの井戸っていったいどこにあるの。あたしたち路に迷ってしまって……」
「ええ、この奥よ。このへんとくにわき路が多いから、気をつけなきゃあ迷ってしまうわ。お姉さまもいっしょに来てえ」
「由紀子さん、由紀子さん、そして、その底なしの井戸のそばに、お母さまが立っていたってほんとのこと」
由紀子のそばについて走りながら、マリは呼吸をはずませた。
「ええ、ほんとうよ。お姉さまによく似たお顔がはっきり見えたわ」
「だって、こんな暗闇のなかで、どうして顔なんかが見えるの。いったい、どこから由紀子さんは見たの?」
「むこうの崖っぷちから。……おばさま、カンテラみたいなものをぶらさげていらしたわ。それではっきりお顔が見えたの」
「お母さまは……どうして、また……」
マリが|喘《あえ》ぐように呟いたとき、とつぜん、洞窟のおくから、怒りに満ちた杢衛の声が聞えてきた。その声はものに狂ったようになにかを罵っているらしかったが、あちこちの壁にこだまして、かえって言葉の意味は聞きとれなかった。
二度、三度、猛り狂う杢衛の声にまじって、ひいッ! と、尾をひいて聞えてきたのは、たしかに女の悲鳴である。
「あっ、いけない。おばさまだわ」
いったん立ちどまっていた由紀子は、またさきに立って走りだしたが、そのとき、わあっと吹きあげるような男の悲鳴が聞えてきた。
「あら、あの声はなんでしょう」
由紀子はまたその場に立ちどまってしまった。いや、立ちどまったというよりは、足がうごかなくなったというほうが当っていよう。それほどいまの声は印象的だった。しかも、それきり、なんの物音も叫び声もやんでしまって、あとは骨を刺すような静けさである。
とつぜん、金田一耕助がはげしく身ぶるいをした。
「マリさん、懐中電灯を貸したまえ。ぼくがひとついってみよう」
「いいえ、あたしもいきます」
「あたしも……」
ふたりの女とふたりの男は、マリのかざす懐中電灯の光をたよりに、また前進をはじめた。
やがてトンネルのような洞窟を出ると、急にあたりがひろくなったのが感じられた。空気の肌ざわりが、狭い洞窟のなかとはちがっているのである。
「お姉さま、ちょっと懐中電灯を貸して……」
マリの手から懐中電灯をうけとった由紀子は、ふるえる手でそれを前方にさしむけたが、
「ほら、むこうに見えるのが底なしの井戸……」
なるほど懐中電灯の光のなかに、井桁に組んだ井戸がまえらしいものが浮きあがっている。
「人が落ちるといけないから、ああして井戸をかこってあるの。あっ!」
「ゆ、由紀子さん、ど、どうかして……?」
「あの井戸のむこうから人間の脚のようなものが……」
そのとたん、金田一耕助が由紀子の手から懐中電灯をもぎとった。そのかわり、マリの手に裸蝋燭を握らせて、
「あなたがたはここに待っていらっしゃい。ぼくがちょっといってみる」
金田一耕助は一同をそこに残して、用心ぶかく井戸のそばへ步みよった。
由紀子が叫んだように井戸のむこうに誰か倒れている。その顔へ懐中電灯の光をむけて、金田一耕助は思わず呼吸をのんだ。
倒れているのは杢衛であった。杢衛の胸には剣のような鐘乳石が突っ立っていて、むろん、呼吸は絶えていた。
金田一耕助は杢衛がわしづかみにしているものに眼をとめた。
それは君江のかぶっていたショールみたいな大きな紗のベールである。
底なし井戸
「まあ、おばさまのベール……」
いつの間にうしろへきたのか、由紀子が呼吸をのむような声で、
「それじゃ……それじゃ……おばさまが矢部のおじいさまを……」
と、さすがに終りまではいいえなかった。途中で言葉を切ったけれど、そのかわり急にはげしく泣き出した。
跳ねっかえりのお茶っぴいでも、年がいかないだけに、いざとなったとき、由紀子には自制心が欠けているのである。悲しいとか、怖いとかいうのではなく、はげしいショックが彼女の涙腺を刺戟するのだ。|霰《あられ》のような涙が両眼からはふりおちて、子供が駄々をこねるように、地団駄をふんで泣き出した。
「いやよ、いやよ、そんなこといやよ。おばさまがこんな怖ろしいことしたなんて、嘘よ! 嘘よ! そんなこと嘘よ!」
子供がいやいやをするように、はげしく頭を左右にふっている由紀子の肩を、うしろからやさしく抱きしめたものがある。マリであった。
「有難う、由紀子さん。でもまだ誰もお母さまが、こんな怖ろしいことをしたなんておっしゃっちゃいないのよ。気を鎮めてね」
「ごめんなさい。お姉さま、でも矢部のおじいさまの握ってるあのショール……あれ、おばさまのショールじゃなくって?」
「ええ、そう、でも、なにか間違いなんだわ。マリのお母さまはけっしてこんな怖ろしいことはしません。由紀子さんはそれを信じてくれなきゃいやよ」
「ええ、ええ、でも……」
と、由紀子はまだ泣きじゃくりながら、
「おばさま、どこへいらしたの? いいえ、どうしてこんな淋しいところへひとりでいらしたの?」
「さあ。……」
と、答えるまえにマリはちらと金田一耕助のほうを見た。
金田一耕助は杢衛の屍体のそばにひざまずいたまま、マリの顔へ懐中電灯の光をむけている。したがって、金田一耕助の姿は暗闇のなかにあり、どういう顔色をしているのかわからなかったけれど、おそらくマリの表情を読もうとしているのであろう。
マリはその光から顔をそむけた。
「それがお母さまのご病気なの。悲しいお母さまの宿命なの。でも、お母さま、間もなくかえっていらっしゃるわ」
マリは由紀子の肩をはなすと、金田一耕助のほうへよってきた。
「矢部さま……もういけませんの?」
と、金田一耕助のそばからのぞきこみながら、ささやくように訊ねる声がしゃがれている。
金田一耕助はものうげにうなずきながら、
「ひと突きでおしまいだったようですね。手のつくしようもありません」
マリは無言のまま金田一耕助の手から懐中電灯をうけとると、杢衛の顔をてらしてみる。