杢衛はもうかれこれ七十だけれど、肉の厚い体はまだみずみずしく、色艶も若々しかった。おそらくこういう兇事がなかったら、まだ幾年かは生きたであろう。しかし、その若々しい肉体もいまはもうつめたくなりかけて、くゎっと見張った瞳の色にもむなしいものが感じられる。頬に光っているみじかい銀色のひげが、妙にいたいたしく思われた。
マリは金田一耕助に懐中電灯をかえすと、杢衛にむかって日本流に合掌した。それから両手を顔におしあてると、声をのんで嗚咽した。それこそ、胸をえぐるような声をあげて嗚咽した。
金田一耕助は茫然として、マリのその横顔を凝視している。
この女はなぜこのように泣くのだろう。じぶんの母が殺したかもしれない男にたいして、なぜこのように涙をそそぐのだろう。いや、それよりもこの女は、さっきから母のゆくえを少しも気にするふうがない。この女は母が杢衛を手にかけて、無事に逃げのびられることを信じて疑わないのだろうか。
しばらくすると、マリはやっと泣きやんだ。ハンケチでしずかに涙を拭きおさめると、
「失礼いたしました。あんまりびっくりしたものですから。……由紀子さんとおんなじね」
たしかにある種の女は、あんまりびっくりするとその瞬間、ただわけもなく涙腺を刺戟されて泣き出すものである。しかし、いまのマリの涙はそれだったであろうか。それにしてはこの女は落着きすぎている。
「先生」
マリは眩しそうな眼で金田一耕助を振返った。
「はあ」
「さっき、矢部さまの声にまじって、女の声が聞えたようでしたわね」
「はあ、たしかに」
と、金田一耕助は言葉をつよめて、さぐるように相手の顔を視る。
「そうすると、矢部さまを殺したのは、女だということになるのでしょうか」
「さあ、そうはっきり断言するのはいささか早計でしょうが、惨劇の演じられたおなじ場に、ご婦人が居合せたということはたしからしいですね」
そのご婦人があなたの母ではないかと、さすがに金田一耕助もいいえなかった。
「金田一先生」
と、マリは臆する色もなく、真正面から金田一耕助の顔を視つめて、
「きょう由紀子さんに聞かせていただいたんですけれど、いまから二十三年まえにも、この鐘乳洞のなかで人殺しがあったということです。そのときも犯人が用いた兇器は鐘乳石だったということですが、こんどもまた……」
「こんどもまた……?」
「はあ、それですから、二十三年まえの事件と、こんどの事件と、どちらもおなじ犯人の手によって、演じられたと考えるのは、あまり考えすぎになるのでしょうか」
いったいこの娘はなにを考えているのだろうかと、金田一耕助はさぐるように相手の顔を視ながら、
「いや、それは必ずしも不合理ではありませんね。論理的にいってありえないことじゃないかもしれない。しかし、|些《いささ》かとっぴすぎるようには思われますね」
「とっぴ……? とっぴな考えかただとおっしゃるのですか」
「ええ、まあ、なんとなく……」
と、金田一耕助は相手の眼の中を覗きこみながら、
「それより、マリさん、あなたのお母さまはどこへいってしまったんでしょうねえ。われわれはたしかにここに、お母さま……いや、あなたにとてもよく似た中年のご婦人が、立っているのを目撃したんですがね」
「母は……母はいまごろ、お家へかえってるんじゃないでしょうか。でも、申上げておきますが、さっきの悲鳴は母ではございません」
「どうしてそんなにはっきりとおっしゃれるんですか」
「どうしても。母はそんなひとじゃありませんから」
と、マリは静かに杢衛の屍体のそばから立上ると、
「ああ、崖のむこうに誰か来たようですわね」
なるほど、谷のむこうがわにふたつ三つ灯が見えて、神崎署長の声が聞えた。
「誰だ、そこにいるのは……?」
「ああ、署長さん、はやく来てください。たいへんなことが起ったんです」
「ああ、金田一先生ですね。金田一先生、たいへんなことってなんです。まさか人殺しがあったってわけでもないでしょう」
混ぜかえすように訊きかえしたのは、のんき坊主の田代である。
「あら、田代さん、そんな冗談をいってる場合じゃなくってよ。はやくこっちへ来て……」
「ああ、そういう声は由紀子さんだね」
と、神崎署長の声で、
「こっちへ来いたって、どこへどういけばいいのかわからない。われわれ、すっかり迷い児になってしまって……」
「あら、お兄さまは見つからなかったんですの」
「ああ、会わなかったよ。お兄さまにもさっきの怪しい男にも……由紀ちゃん。そこにもいないのかい」
「ええ、いないわ。どこへいっちまったのかしら」
そのとき由紀子の胸には、ふっと怪しい胸騒ぎがわきあがってきた。
お兄さまもこの洞窟の闇のどこかにひそんでいるはずなのである。そして、そのお兄さまは矢部のおじいさんを憎んでいる。ことに都さんとのことがしれたら、どんなことになるかもしれぬと怖れている。
二十三年まえにも、この暗い洞窟のなかで、玉造家の朋子叔母さまと、矢部家の慎一郎おじさんとが恋をかたって、そのことからひいて、英二さんというひとが殺され、その疑いが朋子叔母さまにかかってきた。そして、こんどもまた、おなじようなことが起るのではないか。いや、すでに起ったのではないか。……
「由紀ちゃん、由紀ちゃん」
そのとき、崖のむこうから田代の呼ぶ声が聞えたので、由紀子ははっとわれにかえった。われにかえると同時にはげしい戦慄が背筋をつらぬいて走るのをおさえることが出来なかった。
「そこにいるのはいったい誰と誰……金田一先生と由紀ちゃんと……?」
「お姉さまとカンポさん。……あたし、お迎えにいきたいんだけど怖くって……」
「カンポ、おまえ、由紀子さんについていってあげて。……由紀子さん、カンポといっしょじゃおいや?」
「いえ、そんなことはありませんけれど……」
「ああ、ここに懐中電灯が落ちている。うまくつくかな」
それは杢衛が刺されたときに、かれの手から離れてとんだものらしく、岩の裂目にころがっていた。金田一耕助がこころみにボタンを押すと、べつにこわれたところはなかったらしく灯がついた。
「由紀子さん、じゃこれを持っていらっしゃい」
と、いいかけて、
「いや、これはこっちへとっとこう。それよりこちら……マリさんの持ってた懐中電灯……これなら気味悪くないでしょう」
「おうい、由紀ちゃん、なにをぐずぐずしてるんだ。署長さんがお待ちかねじゃないか」
「ええ、ただいま。田代さん、あなたがたもそこの洞窟へ入って、最初のふた股になってるところで待ってて。そこまでカンポさんとお迎えにいくわ」
「ようし」
頼もしい田代の声がきこえて、それきり谷のむこうの灯は見えなくなった。由紀子もカンポをひきつれて、こちらから洞窟のなかへ入っていく。
あとには金田一耕助とマリのふたりきり。真夏とはいえ地底の洞窟の空気はつめたく、鬼気が肌に迫ってくるかんじである。ひょっとすると、杢衛を殺した犯人が、まだそのへんの暗闇から、ふたりのようすをうかがっているのかもしれないのだ。
金田一耕助はそっと井戸のそばへよって見た。
岩の裂目にできたその井戸は、直径五尺くらいの不規則な円型をして、そのまわりに井桁に組んだ囲いがしてあり、囲いにはしめなわが張ってあるが、囲いもしめなわもボロボロにくさって、うっかりもたれでもしようものなら、囲いごと井戸のなかへ落っこちそうである。
金田一耕助は懐中電灯を照らして、そっと井戸のなかをのぞいてみた。さすがに底なしの井戸といわれるだけあって、はてしらぬ深い闇の底までは、とうてい懐中電灯の光もとどかない。こころみに岩のかけらを落してみても、小石は井戸の暗闇へ吸いこまれたきり、いつまでたってもなんの反響もつたえてこなかった。
金田一耕助はいっしょに覗きこんでいたマリと顔を見合せて、思わずゾクリと首をちぢめた。
「深いですね」
「深そうですわね」
文字どおりそれは底なしの井戸である。おそらく地獄へでもつづいているのであろう。
金田一耕助が溜息をつきながら、やけになったようにもじゃもじゃ頭をかきまわしているところへ、由紀子とカンポに案内されて、神崎署長と田代幸彦が駆けつけてきた。
ニコラ神父
「金田一先生、ど、どうしたんです。矢部老人が殺害されたんですって?」
肥満型の神崎さんは駆けつけてくるのが苦痛だったらしい。額に汗をにじませて、ゼイゼイと肩で呼吸をしている。
金田一耕助は無言のまま井戸のそばから一步さがると、懐中電灯の光で屍体をさししめした。
「ふうむ!」
神崎署長はうめき声をあげると、屍体のそばへひざまずいて、じぶんも懐中電灯の光で傷の状態をしらべていたが、
「これじゃ、たったひと突きですな。あっと叫んだがこの世のわかれか。元気な爺さんだったが……おや」
と、署長は杢衛のにぎっているベールに眼をとめる。と、片手でちょっとひろげてみて、
「金田一先生、こ、これはどうしたというんです。ひょっとするとこれは、そこにいるお嬢さんのお母さんのベールじゃないのですか」
「ああ、署長さん、由紀子さんからお話をお聞きじゃなかったですか」
「いや、なにも……ただ、矢部のお爺さんが殺されてる。底なしの井戸のそばで、鐘乳石で突きころされてるって、ただ、それしか聞いてないんだが……」
由紀子はマリをはばかって、それ以上のことはいえなかったのであろう。
「ああ、そう、それじゃわたしから一応、前後の事情を話しておきましょう。マリさんも由紀子さんも、こういうことははっきりしておいたほうがいいんですよ」
「はい」
マリは少しも悪びれたふうはなく、意志の強さを現わしてキッパリ答えた。そのうしろにカンポが忠実な犬のようによりそった。由紀子は田代の腕にすがりついている。
そこで金田一耕助がさっきからのいきさつを、要領よく説明して聞かせると、神崎署長の昂奮はいよいよ大きく、
「それじゃ、そこにいるお嬢さんのお母さんが、矢部老人を殺害したと……?」
と、いまにも飛び出しそうな眼玉をギョロつかせながら、またゼイゼイと肩で呼吸をした。
「いや、わたしはそこまでハッキリとは断言いたしません。ただ、むこうの崖ぶちからここに立っている、マリさんにとても似たご婦人の姿を見たということ。それから矢部老人が朋子だ、朋子だと叫びながら、あの洞窟へとびこんだこと。わたしと由紀子さんもそのあとを追って洞窟へとびこんだが、途中でマリさんとカンポ君に出会ったこと。四人そろって老人のあとを追っかけてくる途中、老人が誰かをつかまえたと見えて、口ぎたなくののしっているのを聞いたこと。そのうちに女の悲鳴らしきものが聞え、ついでわあっと男の……おそらく老人のでしょう、たまぎるような叫びが聞え、それからここへ駆けつけてみると、こういう態たらくになっていたというわけです」
「しかし、金田一先生、それだけ聞けば君江というひとが犯人としか思えないが、金田一先生はそうじゃないかもしれないとおっしゃるんですか」
金田一耕助は『犬神家の事件』の際に大働きをやってのけたので、信州の警察界では尊敬の念をもって、その名を記憶されているのである。
「いやあ、前後の事情から考えれば署長さんのおっしゃるとおりですが、一応大事をとってみたんです。これがぼくの主義でして……それに、さっき出会った怪しい男のこともありますし……」
「それにしてもその婦人は……? その婦人が犯人であるにしろないにしろ、その婦人はそれからどこへいったのか……」
と、言いかけて神崎署長は底なしの井戸に眼をとめた。
「まさかこの井戸へとびこんだんじゃ……」
と、そばへよろうとするのを、
「あっ、署長さん危いですよ。井戸の囲いがくさってるようですから」
と、そばから金田一耕助が注意をした。
「ああ、そう、有難う」
と、神崎署長は注意ぶかく、井戸のなかを懐中電灯で照らしていたが、
「ちょっ、なんにも見えやあしない」
と、舌打ちしながら金田一耕助のほうをふりかえって、
「金田一先生、あなたのお考えはどうなんです。犯人……いや、その婦人はここからどこへ消えたんです」
「さあ、それには三つの場合が考えられますね」
「三つの場合というと……?」
「即ち、この井戸へとびこんだのだろうというのが第一、それから、いまわれわれの辿ってきた洞窟には、たくさんわき路がありますから、そのわき路に身をひそませてわれわれをやりすごし、そのあとで外へ逃げ出していく場合。それから第三の場合としては……」
「第三の場合としては……?」
「いや、それには由紀子さんに訊かねばならない。由紀子さん」
「はい。……」
「この洞窟はここでいきどまりになっているんですか。それとも更にこの奥があるんですか」
「はあ、あの、むこうの崖の下にはまた洞窟があって、それを進むと教会のうしろの山へ出られるんです」
「あっ、それじゃ、さきほどぼくたちが入ってきた入口と、矢部家の邸内にあるという入口のほかに、もうひとつ入口があるんですね」
「ええ、そうなんです。昔はうちのお庭にある入口と、矢部のおうちにあるのと、入口はふたつしか知られていなかったんだそうです。それですからはじめのうちは、朋子叔母さまもこの底なし井戸へ身投げして、死んだんだとばかり思われていたんです。ところが、それから一年ほどたって、教会のうしろの山へ出られるもうひとつの入口が発見されたんです。しかも、その入口が発見される少しまえに、そのじぶん教会にいらした神父さんが、この土地を去ってスペインかどこかへかえっていかれたんです。しかも、その神父さんというのが、とても朋子叔母さまを可愛がっていられたとかで、だから、矢部のおじいさまは、朋子叔母さまは第三の入口から逃げだして、しばらく教会にかくまわれていたのちに、神父さまといっしょに日本をぬけだしたんだと、そのじぶんからそう言ってたそうです」
由紀子の話を聞きおわると、金田一耕助はあらためて、懐中電灯の光でいまおのれが立っている地底の台地をしらべてみる。
その台地は不規則な半円型をなしており、直径にあたる部分は約二十メートルもあるだろうか。そして、その部分は地獄までつづくといわれる谷へ逆落しになっており、三方には果しらぬ天井までつづく崖がそそり立っている。その崖は例によって鐘乳石の柱が何十本、いや、何百本となくよじれあいながら、不規則な屏風のようなたてのひだをつくっている。
「由紀子さん、そして、第三の入口というのはどこにあるの」
「ええ、ここ……」
由紀子はしばらくあたりをさがしていたが、やがて、小さなくぼみを見つけて指さした。
なるほど、それは屏風のひだのふもとにできた、やっと人ひとりくぐれるかくぐれないかというような小さな孔で、それが奥深い洞窟になっているとはちょっと信じられなかった。
「なるほど、この洞窟をつたっていくと、教会のうしろの山へ出られるんだね」
金田一耕助がかがみこんで、洞窟の入口を懐中電灯の光で調べていると、とつぜん、おくのほうからけたたましいわめき声が聞えてきた。
「あっ! あれはなんだ!」
金田一耕助が思わず叫んで立ち上ったとき、ほかのひとたちにもおなじ叫び声が聞えたとみえ、バラバラと洞窟の入口へあつまってくる。
耳をすますと、まっくらな洞窟のはるかおくから、なにかを言い争うような怒号の声と、どたばたと取っ組みあいをするような音が、大きな反響をともなって聞えてきた。
「ああ、ひょっとするとおばさまが、さっき逃げだした怪しい男にとっつかまったんじゃない……?」
由紀子の声はふるえているが、しかし洞窟のおくから聞えてくる声のひびきは、ふたりとも男のようである。
「とにかくいってみよう。田代君、君も来ないか」
神崎署長は頑丈な体をすぼめて、きゅうくつな入口へもぐりこむ用意をしながら、田代幸彦をさそった。
「ええ、いいです。お供しましょう」
お坊っちゃんの田代には、こういう冒険がおもしろくてたまらないのである。
「金田一先生、それじゃここはたのみます」
神崎署長は意味ありげな視線をマリのほうにむけながら、金田一耕助の耳にささやいた。
「はあ、承知しました」
神崎署長が田代をつれて洞窟のなかへもぐりこんだときには、闘争はもうおわったのか、怒号する声も、格闘のひびきもやんで、骨をさすような静けさがしいんと闇の底にひろがっていた。
「お姉さま」
なに思ったのか、とつぜん由紀子がガチガチと歯をならしはじめた。
「ひょっとすると、いまのひとり、うちのお兄さまじゃなかったかしら」
「ええ、由紀子さん、あたしもそれをいまかんがえていたところなの」
「そうよ、そうよ、きっとそうよ」
と、由紀子は恐怖がつのってきたのか、急に泣き声をだしはじめた。
「お兄さま、悪者に出会ってひどいめにあわされたのよ。ひょっとすると殺されたのかもしれないわ。お兄さま、気は強いんだけど、力はあんまりないのよ。お兄さま、きっと殺されてしまったにちがいないわ」
由紀子はヒステリーを起したように泣きだしたが、しばらくすると、洞窟のおくから人の話声と足音がちかづいてきた。その足音はひとりやふたりではないらしく、やがてあのきゅうくつな入口から、ひとつひとつ人影が這いだしてくる。
金田一耕助が懐中電灯の光をむけると、まずさいしょに出てきたのは田代だった。
「あっ、田代さん、お兄さまは……」
「ううん、由紀ちゃん、康ンベのすがたはみえなかったぜ」
田代は両手と膝の泥をはらいおとしながら、首を左右に振ってみせた。その田代のうしろから這いだしてきた男の顔を懐中電灯の光で照らしてみて、金田一耕助はおもわずぎょっと呼吸をのんだ。
それはここへくるとちゅう、汽車のなかで会った男……すなわち、頬に傷のある古林徹三ではないか。古林も金田一耕助の顔をみると、ギョッとしたように無気味な眼をひからせた。
さて、そのあとから這いだしてきた、背のたかい男のすがたをみると、
「あら、ニコラ神父さま!」
と、マリがびっくりしたように眼を見張ったが、マリの言葉をきくまでもなく、金田一耕助にもそのひとが、きのうみた教会の神父であるらしいことがすぐわかった。
国籍まではわからなかったけれど、背のたかい、肉付きのゆたかな白人で、かたいカラーをうしろまえにつけたところから、ひとめでカトリックのお坊さんだとわかるのである。
「おお、マリ、ごめんなさい」
神父はマリを見つけると、達者な日本語で話しかける。
「ちょっと用事があって、こんやの会、出席するの、おくれました。それで、ここ、通っていったほう、早いと思って来かかったら、そのひとに会いました」
神父に指さされた古林徹三はふてくされたような顔をしてつったっている。そこへさいごに神崎署長が這いだしてきた。
ニコラ神父はその署長に訴えるように、
「このひと、わたしのすがた見ると逃げようとしました。わたし、怪しんでとがめると、このひと、だしぬけに打ってかかりました。わたし、ここ、ふたつ三つ打たれました」
マリはふしぎそうに頬に傷のある男、古林徹三の顔をみていたが、すぐその視線を神父のほうにむけると、
「ニコラ神父さま、あなた、もしやマリのお母さまにお会いになりませんでしたか」
「マリのお母さまに……?」
と、ニコラ神父はマリの顔をみて、びっくりしたように眼をまるくする。驚きが露骨にあらわれると小児のように見えるあどけない童顔である。
「ええ、そうよ、神父さま」
と、マリはおっかぶせるような早口で、
「ここで矢部のおじいさまが殺されたんですの」
「えっ、矢部のおじいさまが……」
ニコラ神父はまたびっくりしたように、マリの顔をみて眼をまるくする。
「ええ、そうなんです。そして、みなさんはマリのお母さまが殺したと思っていらっしゃいますの」
神父はしばらく唖然とした顔色で、マリの顔を視つめていたが、やがてむこうにころがっている杢衛の死体に気がつくと、
「おお!」
と叫んで大股にそばへちかより、うえから死体をのぞきこんでいたが、急にくるりとマリのほうをふりかえると、
「マリ!」
と、叫んだその調子には、なにかしら相手の非をとがめるときのような、つよいひびきがこもっていた。
「いいえ、あたし、なんにも知りませんの」
と、マリは早口にいって、つよく首を左右にふると、
「あたしこのかたがたと、むこうのほうで立話をしておりましたの。そしたら、ここで矢部さんと誰か女のひとが、言いあらそっているような声がきこえて、それから、矢部さんの悲鳴がきこえてきたんです。だから、矢部さんが殺されたとき、あたしはこのかたがたといっしょにいたんです」
マリは由紀子と金田一耕助を指さした。
しかし、彼女はなんだって神父にたいして、そのような言訳がましいことをいわなければならないのか。
金田一耕助にはマリというこの女がまるでわからないのである。
「だから、あたしはなにもしらないんですけれど、このかたがたはむこう岸から、ここにお母さまが立っていらっしゃるのを見たんですって。そして、お母さまが矢部さまを殺して、どこかへ逃げたと思ってらっしゃるのよ。ねえ、神父さま、あなた、お母さまにお会いになりませんでしたか」
ニコラ神父はきびしい眼つきで、しばらくマリの顔を視つめていた。それから杢衛の死骸に眼をうつすと、やがておもおもしく首を左右にふった。
「いいえ、マリ、わたし、お母さんに会いません、そこにいるそのひと……」
と、古林徹三を指さして、
「……のほかには誰にも会いませんでした」
と、そういいながら、ニコラ神父はおごそかに胸に十字を切った。
祖母乙奈
なにはともあれこのことを一刻もはやく、家に待っているひとたちに、報らせなければならなかった。と、いって杢衛の死体をそのまま放っておくわけにもいかないので、田代と由紀子がひとあしさきに洞窟を出て、医者や警察に連絡することになった。
田代はマリも誘ったが、
「いいえ、あたしはもうすこしここにいることにします。みなさんがいらしてからいっしょにかえりましょう」
と、その場をうごかなかったのは、おそらく母のことを気にしているのだろうと、田代もしいてはすすめなかった。
「ねえ、田代さん、うちのお兄さま、いったいどうしたんでしょうねえ」
暗い洞窟をさきに立って案内しながら、由紀子にはそのことが気になってならないのである。
「なあに、康ンベのことだから、いまごろはさきにかえってのうのうしてるよ、きっと」
と、康雄のことに関するかぎり、田代はいたって楽観的だった。
「あいつにはそういうところがあるんだ。人騒がせをしておいて、じぶんはケロリとすましている。はたが騒ぐとなにをそんなに騒ぐんだいという顔をしている。学生時代からそういうところがあったよ」
そういえば、そういうところのある兄だった。けっしてエゴイストというのではない。戦後の一家の経済事情の大変化に、ひどい精神的打撃をうけたせいか、田代みたいに底抜けののんき坊主になれないのである。それでいて仲間といっしょに遊んでいても、ときどきとっぴなことを思いつき、みずから率先して実行する。しかし、仲間がそれに興味をおぼえ、熱中しはじめるころには、発頭人のご当人はもう冷静になっているというふうだった。
当人もそういう性癖をさびしいとも、悲しいとも思っているのだが、みんなといっしょに遊んでいられるご身分ではないという反省が、若人らしい無鉄砲な行動に冷水をぶっかけるのである。こうしてかれはいつのまにか、哲学者みたいに周囲から孤立した存在になっていた。
しかし、こんどの場合にかぎって、それだったらどんなにうれしかろうと由紀子は思わずにはいられなかった。どうぞ、お兄さまがこの事件の渦中にまきこまれるようなことがありませぬように。……
「だけど、由紀ちゃん、ほんとなのかい。マリのお母さんがあそこに立っているのを見たというのは……?」
暗闇のなかを由紀子についてあるきながら、田代はまだ腑におちない調子である。
「ええ、それはほんとなの。それはそうと田代さん」
「なあに」
「あたしはじめておばさまのお顔をかなりはっきり見たんだけど、とってもお姉さまに似てらっしゃるわね」
「それはおやこだもの。だけど、どちらかっていうと、おばさんのほうがきれいだぜ」
「あら、あんなこと。……」
「いや、ほんとなんだ。おばさんは純日本式美人なんだね。ものしずかな、やさしさに溢れた……そこへいくとマリはすこしバタくさい。当然といえば当然だがね」
「それにしても。お姉さま、とっても日本語がおじょうずね。むこうの家庭でも日本語つかってらっしゃるの」
「ああ、われわれがいくと日本語つかうね。それというのがご主人のゴンザレスというひと……こんどマリを養女にしたひとだね、そのひとがだいの親日家で、農園の使用人なんかもほとんど日本人なんだ。結局、移民のなかでも日本人ほど勤勉にはたらく人種はほかにいないんだね。そこでしぜん、マリのお母さんが重用され、信頼されるようになったというわけらしい」
「お姉さまのお父さまってかたどういうひと?」
「さあ、それは聞かなかったな。ただいちどおばさまに、お郷里は日本のどちらかってきいてみたことあったけど、だまってて答えなかったな。いつもこう、さびしそうにしてるひとだったよ。だけど、由紀ちゃん、これ、いったいどういうことなのさ、あの底なしの井戸というのに、なにか因縁ばなしでもあるのかい」
由紀子はちょっとためらったが、考えてみるといずれはしれる話である。べつにかくさなければならぬ理由は見あたらなかった。そこで、二十三年まえの事件のてんまつを手みじかに話して聞かせたのち、こんどきたマリの母の君江というのが、その事件の犯人と目されている朋子叔母さまに似ているというのが、今夜の騒ぎの原因だと語ってきかせると、さすがのんき坊主の田代も肝をつぶさんばかりにおどろいた。
「なんだ。それじゃ今夜の事件の背後には、そんな複雑な伏線がよこたわっていたのか」
道理できょうのパーティには、妙にギコチない空気がただようていたが……と、田代もはじめていまこの町に流れている、一種異様な底流に気がつくのである。
「それで、田代さんはどうお思いになって? ブラジルで会ったとき、マリさんのお母さんというひと、そんな暗い過去をもったひとのようにみえて?」
「さあ。……そりゃあ、さっきも言ったとおり、いつも淋しそうにはしていたが、まさかね」
と、ちょっと思いに沈んだ口調だったが、すぐ持前の勝気な性質をとりもどすと、
「だけど、そうすると、由紀ちゃん、もしかりにそれが事実とすると、あの大金持ちのマリが君たちきょうだいのいとこということになるのかい? こいつは凄えことになってきたな」
と、わざとおどけた調子になるのを、
「田代さん、いまはそんなのんきなことをいってるばあいじゃないのよ」
と、年はわかいがしっかりものの由紀子が、暗闇のなかで腹立たしげにたしなめる。
「ごめん、ごめん」
と、田代はちょっと首をすくめて、
「しかし、こいつはひとつ慎重に考えなきゃならん問題だね」
そうはいうものの田代のような単純な頭脳では、とてもこういう複雑な事件を解剖することはおぼつかなかった。田代じしんそういう自覚をもっていたが、それでもいちおう神妙らしく、それきり無言のまま考えこんでしまった。
それからまもなく。――
マリの客間に残っていたひとびとが、田代と由紀子によってもたらせられたこの凶報を聞いて、愕然として色をうしなったことはいうまでもない。
「な、なんですって? お父さまが殺されたんですって?」
おどろいて、ごったがえすひとびとの背後から、たまぎるような女の金切り声が聞えたかと思うと、蒼白の顔面をひきつらせてとびだしてきたのは、都の母の峯子だった。
「あら、おばさん、あなたも来ていらしたんですか」
由紀子はあらわな敵意をみせて、蒼白くひきつった峯子の顔をにらみすえる。わかくて、それだけにセンチメンタルな由紀子は、不幸だった叔母の恋敵なるこの峯子を本能的に憎むのである。
「ええ、ええ、来ておりましたよ」
幼い由紀子の敵意が反射的に反応するのか、峯子はそれがくせのねちねちとした調子で、
「今夜は来ないつもりでしたけれど、急に気になって、来ずにはいられなくなったんです。年頃の娘をもっていると油断ができませんからね。どこに狼がいるかわからないから」
「狼ですって?」
それが兄の康雄を諷刺しているのだとさとって、由紀子は思わずくゎっとする。
「ええ、ええ、そうですよ。世間にはわかい年頃の娘をねらう狼がうようよするほどいるということですからね。ことに貧乏人のあいだに……」
由紀子がなにかはげしい口調でやりかえそうとするとき、そばから良人の慎一郎が、たまりかねたように、
「峯子!」
と、きびしい声でたしなめる。その慎一郎の背後には都がおびえたような顔色でおどおどと立っている。
しかし峯子はかえっていきりたち、
「いいえ、あなたは黙っていてください。いまこちらで聞いたんですけれど、康雄さんと都がしばらくどこかへ雲がくれをしていたというじゃありませんか。そしてこの娘が……」
と、峯子はにくにくしげに由紀子を指さしながら、
「このおしゃまなチンピラ娘が、ふたりのあいだを取りもってるのだと、もっぱら評判ですよ。あなたも気をつけてくださらなきゃ、世間のものわらいの種になりますよ」
と、峯子がますます言いつのろうとするのを、そばから都がいまにも泣きだしそうな声で、
「お母さまったら! そんな、そんな……お祖父さまがお亡くなりになったというのに……」
「田代さん、矢部のご老体が殺されたというのはほんとうかな」
町長の立花老人がそばから呼吸をはずませた。
「ええ、ほんとうなんです。ああ、河野先生、至急、担架になるようなものを用意してください。鐘乳洞のなかでみなさんがお待ちですから。……それから、たれか警察とお医者さんへこのことお報らせになって……」
言下に誰かが母屋へ走った。母屋の玉造家には電話があるのだ。こうして由紀子と峯子との小ぜりあいのあと、客間のなかは騒然たる空気につつまれた。
物を考えることは不得手だけれど、行動的なことに関するかぎり、このさい、田代の右に出るものはなかった。田代の命令で女中が頑丈な物干竿を二本さがしてくると、河野朝子が二階から大きな毛布をもってきた。由紀子や都も手伝ってさっそく担架づくりにとりかかる。
たれもかれもが浮足立って、田代と由紀子にかわるがわる質問の雨を浴せかける。しかし、由紀子も多くは語らず、また、田代もこの事件の背後にかくされている複雑な底流をしったいまとなっては、かれとしては珍しく慎重になっている。
「詳しいことは金田一先生や神崎署長に訊いてください。由紀ちゃんをいじめるのはかわいそうだ」
と、口を緘して、これまた多くを語ろうとしなかった。
当然、客間のなかには不安と恐怖にみちた沈黙がたてこめて、息詰まるような緊迫感がひとびとの胸をしめつける。慎一郎はこの沈黙を傷つけぬように、足音をころして客間のなかを步きまわりながら、おりおり、さぐるように田代と由紀子の顔を視ている。
峯子は愛嬌にとぼしい、険のある眼つきをして、担架づくりを手伝っている娘の都を視つめていたが、急に気がついたようにあたりを見まわすと、
「それはそうと、康雄さんはいったいどうしたんです。この騒ぎをよそに康雄さんは、どこでなにをしているんです」
その峯子の疳高いキーキー声は、それでなくとも大きな恐怖と不安にとざされたこの沈黙の一群に、より大きな恐怖の爆弾を投げつけたも同様の効果をもたらせた。そこにいあわせたひとびとが、いっせいにギクリと体をふるわせたなかにも、由紀子と都の怯えはひときわ深刻だった。
由紀子もさっきからそれを気にしていたのだし、都は都で、康雄が洞窟のなかへはいっていったことをしっている。……
「由紀子さん、兄さんはどうしたんです。兄さんはあんたがたといっしょじゃなかったんですか」
峯子の声はまえよりいっそういきりたって、まるで相手をきめつけるような調子である。
「いいえ、あたし、知りません。兄さん、どこへいったのか……」
由紀子の声は蚊が啼くように小さくて、しかもかすかにふるえている。そのかたわらでは都も蒼ざめた唇のわななきを、ひとに覚られぬようにとうつむいて、毛布を青竹にゆわえつける作業に没頭している。その指先もかすかにふるえていた。
「あんたが知らぬというはずはないでしょう。ひょっとすると康雄さんも洞窟のなかにいたんじゃないの。そして、その康雄さんが……」
と、峯子の毒々しい声がそこまでいったとき、とつぜん、ベランダのほうからひくい、落着きはらった声がきこえてきた。
「康雄がどうしたというんじゃな。康雄ならここにわたしといっしょにいるが……」
一同がぎょっとして振返ると、康雄にかかえられるようにして、ベランダからなかへ入ってきたのは、康雄たち兄妹の祖母である。
いま玉造家の事実上の主権者である乙奈は、さっきも話題にのぼったとおり、ことし七十三歳の高齢である。同年輩の杢衛が|矍鑠《かくしゃく》として壮者のみずみずしさを保っていたのに反して、乙奈の肉体は戦争以来うちつづく家庭の不幸に影響されて、すっかり健康を|蝕《むしば》まれている。康雄の肩につかまってやっと步行できる乙奈は、痩せて、しなびて、空気の抜けたゴム風船のように皺ばんでいる。しかし、彼女の強い意志は、魂は、彼女の肉体とはべつに、いまもって玉造家の一員として、高い誇りを堅持しているのだ。その証拠にはきっと峯子を視すえた双の瞳に、何者をもおそれぬ不敵な闘志が烈々としてかがやいているのである。