死者と生者との対決
「おお、ご隠居さん、あんた、まあ、思うたよりお元気のようで……」
町長の立花さんが気拙いその場の空気をとりなすように口を出したが、乙奈はそのほうへ眼もくれず、
「そこにいるのは矢部の嫁女のお峯ではないか」
と、この誇りたかき老女にかかると、峯子のごときも呼びすてだった。
さすがに峯子もむっとしたようだが、|禿《はげ》|鷹《たか》のように鋭い相手の視線に射すくめられると、出かかった言葉も咽喉のおくで凍りついてしまうのである。
なるほど、乙奈は肉体こそ痩せおとろえてしまったが、銀のようにうつくしい白髪といい、痩せて、おとろえているゆえに、いっそうとがってみえる鼻の|隆《たか》さといい、あたりを払う威厳と誇りにみちている。
「お峯、そなた、康雄の名前をしきりに呼んでいたようだが、なにかこれにご用かな」
「いえ、あの、べつに……」
と、相手の威厳に圧倒されてちょっとどぎまぎした峯子は、どぎまぎしたことによっていっそういまいましさを掻きたてられたらしく、敵意にみちた視線を乙奈にむけると、もちまえのキーキー声を張りあげた。
「おばさんはなにも知らないんです。こんやうちのお父さんが殺されたんです。鐘乳洞のなかで誰かに殺されたというんですよ。二十三年まえに英二さんが殺された鐘乳洞のなかで……」
「そのことなら知っている」
と、乙奈はその年輩とも思えぬような力のこもった声で峯子の言葉をさえぎると、
「知っているからこそここへ出てきたのじゃ。新蔵が電話を借りにきたので聞いた。それでお峯はそのことを康雄のしわざだとお思いなのか」
「いいえ、そういうわけでは……」
と、峯子はちょっと鼻白んだが、すぐまた負けてはおらぬ強い視線で相手の顔を視かえすと、
「しかし、こういうことがあったときには、関係者はいちおう人殺しがあった時刻に、どこにいたかはっきり申立てねばならぬことになっていると思ったものですから。……それくらいのことはおばさんもご存じでございましょう」
峯子もようやく落着きをとりもどして、日頃のもったいぶった切り口上になっている。乙奈はギロリとそれを尻眼にかけると、康雄にいたわられながら、一同の視線の中心にゆっくり腰をおろしたが、これが貫禄というものだろうか。この小さな、しなびた老婆があたりを払って、客間を圧倒するかと思われるばかりに、大きく浮きあがってみえたことである。
「お峯さん、いま話のあった康雄のことだけれどね」
と、乙奈は禿鷹のような眼をひからせて、
「この子はうちにいたんですよ。わたしといっしょに。……元来、この子はこういう賑やかなこと好きじゃない。そういうところはそこにいるお茶っぴいの由紀子とは正反対にできている。……それはそうと、由紀子、おまえはなにをしているのじゃな」
「はい、お祖母さま、担架をこさえておりますの」
お茶っぴいといわれて由紀子は、ちょっと下唇をつきだしたが、それでも最上級のうやうやしさをもって答えた。
「担架……?」
と、乙奈が首をかしげるかたわらから、
「矢部のおじいさんの死体を迎えにいくためでしょう、お祖母さま」
と、康雄が|慇《いん》|懃《ぎん》丁重に註釈を加えた。
担架はもうあらかた出来上っていた。あとは警官の到着を待つばかりである。
「ああ、そうか、そうか、杢衛どんが殺されたのじゃったな」
と、乙奈は眼を閉じてなにかを追想するような顔色になったが、すぐまた、ギロリと鋭く瞼をひらくと、
「ところで、お峯や、いまもいうたとおり、康雄は元来こういう席は好きでないのじゃ。しかし、まあ、招待された義理もあることだし、それに、そこにおられる田代さんが、ぜひこちらの女主人のマリさんに会いたいとおっしゃるもんだから、いちおう顔だけ出して義理をすますと、すぐ母屋へひきかえしてきて、いままでわたしといっしょにいたのじゃ。おわかりかな」
峯子がなにかいいかけたとき、どやどやと医者や大勢の警官たちがかけつけてきた。
かれらは田代や由紀子の口から、かんたんにことのいきさつを聞くと、
「それで、うちのおやじは……?」
「署長さんなら鐘乳洞のなかにいます。死体の番をしているんです」
「ああ、そう、それじゃたれかご案内を願えませんか。八幡の藪知らずみたいな迷路だということだから。……」
評議の結果、こんどは康雄が案内に立つことになり、慎一郎も当然、同行することになったが、そのときになって、乙奈が世にも意外なことをいいだした。じぶんもいっしょにいくといいだしたのである。
「お祖母さま、そんな、そんな、あなたがなにもいらっしゃらなくとも……」
康雄はあわててとめたが、強い意志の権化のような乙奈は、いったんいいだしたらあとへはひかなかった。
「いいえ、わたしはいきますよ。杢衛さんとはずいぶん長いあいだの……なんじゃったからの。最後のお別れをせんというほうはない。……と、いってわたしは矢部のうちへいくわけにはいかぬからの」
この女がいる限りは……と、いわぬばかりに峯子をギロリと尻眼にかけて、
「これだけ屈強の若者が大勢いるのじゃ。わたしひとりぐらい、かわるがわる背負うていけぬということはあるまい」
このもっともな乙奈の要請にたいして、いちばんに同意をしめしたのは、これまた意外にも都の父の慎一郎だった。
「承知しました、ご隠居さん、それでは父に会ってやってください」
と、なぜか咽喉のおくに熱い声をつまらせて、
「康雄君、きみとぼくとでかわるがわるお祖母さまをおんぶしていこう」
「はっ、おじさん」
いまや完全に|良人《お っ と》から無視された峯子は、真っ黒な怒りの焔につつまれていたが、さりとて、力ずくでそれを阻止するわけにもいかなかった。
「ありがとうよ、慎一つぁん」
と、乙奈は巾着のような口をよろこばしげにつぼめて、
「それじゃ、まず、あんたにおんぶしていただきましょうか。康雄、鐘乳洞までいったらかわってあげておくれ」
矢部家の一員が玉造家の主権者をおんぶしていく。……それは射水の町の住人たちにとっては、とうてい信じられないことであった。しかし、その信じられないことがいま起ったのだ。慎一郎は欣然として乙奈に背をむけ、乙奈はまたいかにもよろこばしげにその背中にとりすがった。
こうして、立花町長をはじめとして、一同のあきれかえった視線におくられて、この奇妙な一行は、洞窟のおくへ杢衛の死体をとりに出かけた。
後日、その場に立ち会った人物……たぶん、刑事のひとりの口から洩れたのだろうが、死体となった杢衛と乙奈の対面こそ、世にも印象的な光景だったそうである。
康雄の背中からおろされた乙奈は、よろばうように杢衛の死体のそばへ這いよった。
矢部家と玉造家とのあいだにわだかまる、綿々たる憎悪をしっている神崎署長は、乙奈が死体を傷つけようとするとでも思ったか、あわてて彼女を引きとめようとした。
だが、その署長の腕をよこからおさえたのは、康雄とかわるがわる乙奈をここまでおんぶしてきた慎一郎である。
「いいから、お祖母さまのすきなようにしてあげてください」
慎一郎の声は押しころしたようにひくかったけれど、なにかしら強い感情がこもっている。その声のひびきに圧倒されて、署長もおもわず腕をひかえた。
乙奈は杢衛の枕もとにひざまずくと、慎一郎のてらす懐中電灯の光で、しげしげと、杢衛の顔を視つめている。杢衛の眼はまだ見開いたままだった。その瞳はもう生命をうしなって、ただむなしく懐中電灯の光を吸ってかがやくばかりである。だが、乙奈の顔がうえからのぞきこんだとき、一瞬、その瞳がにっこり頬笑んだように思われたのは、懐中電灯をもった慎一郎の手がふるえたからであったろう。
乙奈は|見《み》|倦《あ》きぬ瞳でしげしげと、杢衛の顔をのぞきこんでいる。その態度なり、視線なりには、なにかしら、神聖な儀式でも執行するもののような敬虔さがうかがわれた。
一同は呼吸をつめ、手に汗握るような想いで、この死者と生者との対決を視まもっている。
マリはカンポの腕によりかかっていた。もとより蒼くこわばっていた彼女の皮膚は、乙奈の出現をむかえた瞬間、いっそう蒼白くそそけだって、なにかしら、叫び出したいのをやっと押えているという風情である。
金田一耕助にとって乙奈ははじめて会うひとだった。しかし、康雄に背負われてきたことによって、それがたれであるかすぐわかった。
なんどもいうとおり、乙奈は年老いて、しなびて、しぼんでいる。しかし、彼女が康雄の背中からおりるとき、金田一耕助はひとめその顔を見て、ああ、このひと、昔はきっと、とても美人だったにちがいないと看てとった。
とつぜん、乙奈の鼻孔から、かすかなすすり泣きの音がもれはじめたので、一同はぎょっとしたように眼を見張って、あらためて、この死者と生者との対決を見直した。
乙奈は両手で顔をおおうている。しなびた指のあいだから涙がつたわりおちて、きらきらと真珠のようにかがやくのが懐中電灯の光で見えた。
「杢衛どんや」
と、乙奈はひくい、沈痛な声でつぶやいた。
「おたがいに、長い、長いたたかいじゃったな。そなたは生涯、わたしを憎みつづけてきなさった。わたしはまたその憎しみに負けまいと、魂をやぶるような苦しみにも、骨をつらぬくような悲しみにも耐えてきました。それもこれも家という一字のためじゃった。……」
それから、また、かなり長いあいだすすり泣きの声がつづいた。それは魂をえぐるような、ふかい、深いところから出る悲痛の訴えであった。涙は|滂《ぼう》|沱《だ》として指のあいだからしたたりおちた。
「しかし、もうその長い長い苦しみも、悲しみももう終った。そなたもわたしにたいする憎しみを忘れてくだされ。そして、墓のしたで静かに、やすらかに眠ってくだされや。わたしもおっつけいくほどにのう」
それからまたひとしきり、魂もついえるばかりむせび泣いていた乙奈は、やがてやっと落着きを取りもどすと、しずかに涙をぬぐいおわった。
「慎一つぁんや」
「はい、お祖母さん。……」
慎一郎は咽喉をつまらせている。大きな感動がかれの魂をゆすぶっているのだ。いや、魂をゆすぶられたのは慎一郎ばかりではない。そこに居合せたひとびとは、みないちように、なんともいえぬ厳粛な空気にうたれたのである。
「あんたにひとつお願いがあるのじゃが……」
「どういうことでございましょうか」
「杢衛どん……いや、あんたのお父さんのこの眼を、わたしの手でねむらせてあげたいのじゃが……」
「お祖母さん、どうぞ……おやじもきっとよろこぶことでございましょう」
喰いしばった慎一郎の歯のあいだから、かすかにすすり泣きの声がもれた。
「ありがとうよ、慎一つぁん」
老婆はしなびた細い指で、さも、いとしそうにそのかみの恋人の瞼をねむらせた。……
この町に古くから住むひとたちは知っているのである。
若かりしころ、杢衛と乙奈ははげしい恋におちた。しかし、乙奈は玉造家のひとり娘であり、杢衛は矢部家の総領息子であった。杢衛はしかし、矢部家の相続権を放棄してでも、乙奈の良人たらんことをのぞんだ。そして、話はその方向にすすんでいる……と、杢衛じしんは思っていたのに、とつぜん、乙奈が他から婿をむかえたのである。
矢部家と玉造家とのあいだにわだかまる確執は、そのときからはじまったのであった。
古林徹三
宵にいちどあがった雨が、またザーッと軒を鳴らして降りだした。しかもこの雨は夕立のたぐいではなく、どうやら地雨になるらしかった。
ひとびとは雨のしぶきを避けて、あわててフランス窓のガラス戸をしめにかかる。
湿度がたかまると同時に気温もあがったのか、そうでなくとも重っくるしい空気に支配されている玉造家の別館のこのサロンは、ガラス戸をしめきってしまうと、人いきれと煙草の煙で、まるで咽喉でもしめつけられそうな息苦しさだった。
家庭教師の河野朝子はおろおろしながら、
「由紀子さん、あまり遅くなりますし、雨にもなりましたし、もうみなさんに引きとっていただいたほうが、よろしいのじゃございませんかしら。……」
「さあ。……」
と、幼い由紀子がなんとも決断をくだしかねているそばから、
「いや、それはいけないでしょう。河野先生」
と、町長の立花さんはさっきからつくづく弱りきっているのである。
矢部家の老人が殺されたということだけでも、この静かな湖畔の町にとっては、神武以来の大椿事だのに、さっきから直面している玉造家の一族と、矢部家の主婦峯子との、かなり尖鋭化している感情的な葛藤に、さすがもの慣れた立花さんも、ほとほとと匙を投げた感じである。
しかし、それかといってこのままこのパーティを解散すべきでないことくらいはわかっている。
「まあ、もう少し待ちましょう。神崎君がかえってきてから。……あの男から何か訊ねることがあるかもしれませんから」
町長の言葉もおわらぬうちに、そばから峯子が例によってねちねちとした口調でいった。
「わたしはここに残りますよ。誰がお父さんを殺したかわかるまではね。都、あなたもここにいなければいけませんよ」
美しいけれど愛嬌にとぼしいこの女は、生理的にも良人から満足をあたえられることが少く、中年女のヒステリー性が、いっそうその人柄をとげとげしいものにしているのである。
誰もかえろうとするものはなかった。
杢衛と君江のいきさつは、射水の町のすべてのひとが知っている。それだけに杢衛のこのとつぜんの横死については、みんな大きな好奇心につつまれているのである。
落着いてくると一同は、田代と由紀子のふたりにむかって質問の雨を降らせた。
さっきまでの田代なら、それにたいして得意になって弁じたてたことだろう。しかし、この事件の底に二十数年来のふかい暗流があるとしっては、うかつなことはしゃべれなかった。そこで勢い、ひとびとの質問にたいしてこたえるのは、幼い由紀子の役まわりだった。
「まあ、それじゃ、矢部さんのご老人が突き殺されたとき、マリさまは由紀子さんや金田一先生とごいっしょだったんですのね」
由紀子の話を聞いて、家庭教師の河野朝子は、なぜかほっとした顔色だった。
「ええ、そうでしたの、河野先生。あたしども、あたしと金田一先生が矢部のおじいさまのあとを追っかけて、底なしの井戸のほうへいこうとする途中、路に迷ってむこうからやってきた、マリさんとカンポさんに出遭ったんです。そこで立話をしているところへ、矢部のおじいさまのわめくような声が聞えてきたんです」
「あの、……そして、そのとき矢部のご老人は、誰か女のひとと言い争いをしていたとおっしゃいましたわね」
「ええ、そうなの。それですからこちらのおばさまが……」
「ば、ばかな! そ、そんな!」
「どうしてですか、河野先生。矢部のご隠居が誰か女と話をしていたとしたら、こちらの奥さんしかないはずだが……」
もっともな立花さんの質問に、
「はあ、あの、……それはそうでございますけれど。……」
「ございますけれど……」
と、疑わしげな立花さんの視線を、河野女史はまぶしそうに避けて、
「あのようにお優しいかたが、そんな恐ろしいことを……」
と、唇をかんでそれきり黙りこくってしまった。
「由紀子さん、それで、こちらの奥さんのゆくえがわからないというんだね」
「ええ、みんなでずいぶん探してみたんですけれど、どこにも姿が見えませんの。だから、ひょっとすると、またあの井戸へとびこんだのじゃないかって。……」
そのとき、サロンの一隅から、ケラケラとけたたましい笑い声が起ったので、一同がぎょっとしてふりかえると、いうまでもなくそれは峯子だった。
「底なし井戸、底なし井戸って、ずいぶん便利な底なし井戸だこと。二十三年まえのときもそうだった。そして、こんども……ほ、ほ、ほ、立花さん、その手にだまされちゃだめですよ」
「お母さま!」
と、都がそばからこのはしたない母をたしなめようとかかったとき、ベランダの外の雨の中に、ひとびとの足音の気配がして、神崎署長と金田一耕助をせんとうに、探検隊の一行が、少しばかり濡れそぼれた恰好でかえってきた。
峯子は良人のすがたを見ると、
「あなた、お父さんは……?」
と、ベランダの外をすかして見ている。
「おまわりさんに頼んで、直接うちのほうへ送りとどけてもらったよ。うちには文蔵さんがいるから大丈夫だろうが、おまえ、すぐにかえってお通夜の支度をなさい」
「ああ、それじゃ、やっぱりいけなかったんですの」
「うむ」
と、慎一郎はきっと唇をへの字なりに結んだまま、夫婦としては冷淡なうけこたえであった。
「それで、あなたは……?」
「神崎さんの命令で、わたしはもうしばらくここに残っていなければならないんだ」
「康雄さんや玉造のご隠居さんは……?」
「玉造のご隠居は母屋へおかえりになった。康雄君はすぐにここへ来るだろう」
「ああ、それじゃ、わたし……」
峯子はちょっとためらったが、そのとき、マリやカンポやニコラ神父のうしろから、古林徹三が警官に手をとられてやってくるのに眼をとめると、
「あら、古林さん!」
と、弾かれたように大声をあげた。
「あなた、どうして、ここへ……?」
「古林君はね」
と、慎一郎は吐きすてるような声の調子で、
「鐘乳洞のなかをうろついているところをつかまったんだ。それについて古林君は、しかるべき釈明をしなければならないんだよ」
「まあ!」
峯子はさぐるように古林の顔を見ていたが、やがて都をふりかえって、
「都、あなたはさきへかえって、おじいさまのお通夜の支度をしてあげてちょうだい。お母さんはもうしばらくここにいます。誰がなんといっても、お父さんを殺したひとがわかるまでは、わたしはここを動きませんからね」
峯子はきっぱりそう言いきると、|梃《てこ》でも動きそうにない顔色だった。
署長の神崎さんは立花さんをつかまえて、何か小声で話をしていたが、
「なるほど、するとわれわれが鐘乳洞へむかってから、誰もここを出ていったものはありませんな」
「はあ。それはわたしが保証する。みんなひとところに集まって、こちらの奥さんと、矢部のご老人の噂をしていたんだから」
「いや、ありがとう。それでだいぶん捜査の範囲もせばまるというもんだ。それじゃ、古林君」
と、神崎さんはもったいぶった咳払いをすると、頬に傷のある男をふりかえって、
「ひとつ、君の話を聞かせてもらいましょうか。なんだっていまじぶん、鐘乳洞のなかをうろついていたのか。……」
誰の眼にも古林徹三の様子はうさん臭かった。尾羽打ち枯らした服装のうえに、頬っぺたにあるあの古傷が、いっそうその印象をわるくしている。
一同が気味わるがって、そっと後じさりしたのも無理はない。
古林は白い眼で、じろりとあたりを見まわすと、ひくい、陰気な声で、ボツリボツリとはなしはじめた。
「みなさんがわたしを怪しまれるのも無理はない。しかし、わたしがどういう人間だかわかってくだされば、なぜ鐘乳洞へはいっていったか、そのわけもしぜんご諒解ねがえると思う。わたしはそこにいる慎一郎君とはふたいとこに当るものです。したがって、わたしのおふくろというのが、こんや亡くなった杢衛のおじといとこ同士になるんです。それはさておき、二十三年まえのあの事件の際、わたしは矢部家に厄介になっていました。それのみならず鐘乳洞のなかで、英二君の死体を最初に発見したのは、かくいうわたしなんです。そういうわけであの事件は、わたしにとっては非常に印象がふかい事件だったわけです。なあ、慎一郎君、そうだろう」
古林徹三は慎一郎の同意をもとめるようにふりかえる。しかし、慎一郎はうなずきもせず、無言のままひかえていた。
古林徹三はむっとしたように下唇をかみしめたが、すぐ自嘲するような笑顔になって、ボツリボツリとあとをつづける。
「あの事件ののち間もなく、わたしは満洲にわたり、そこでまあ、相当の成功をおさめたんです。結婚もし、子供も出来た。ところがこんどの戦争だ。なにもかも一切合財うしのうてしまった。一切が空の空、財産はもちろんのこと、妻子さえもなくしてしまったのです。そして、ごらんのとおり尾羽打ち枯らしてかえってきたが、ほかにいくところもないままに、杢衛おじさんを頼ってきたというわけです。ゆうべ、杢衛おじさんや慎一郎君にあって、どうやらまあ、身のふりかたもつきそうになりました。そのことは、ここにいる慎一郎君に聞いてもらってもわかります」
慎一郎はあいかわらず無言だったが、そばから峯子が言葉をはさんだ。
「そのことなら、わたくしも承知しております」
「ありがとう、お峯さん」
と、古林徹三はかるく峯子に会釈して、
「さて、わたしはここへくる途中、汽車のなかでそこにいるひと……金田一さんとおっしゃるそうだが、……そのひとにお眼にかかった。そして、たまたま話が二十三年以前の事件にふれたうえに、汽車からおりて、矢部の家へいく途中、世にも不思議な人物に出会ったんです」
古林はマリの顔を凝視しながら、
「あとで聞くとそのひとは、鮎川君江と名乗る婦人だということだったが、わたしの眼にはどうしても、二十三年まえに、底なしの井戸へ身を投げた……いや、身を投げたと信じられている、玉造朋子としか見えなかったのです」
マリはだまって聞いている。マリのそばには田代とカンポが、護衛兵のように付添っている。少しはなれてニコラ神父が当惑したように小鬢をかいている。
いつやってきたのか、康雄が由紀子とならんで腰をおろしていた。
古林は言葉をついで、
「わたしにはそれが不思議でならなかった。しかも、矢部のおじもわたしと同じ疑いを抱いていると聞いて、いよいよ強い好奇心にとらえられたんです。そこで、今夜、矢部のおじや慎一郎君、それからお峯さんが出かけたあと、つい、ふらりと鐘乳洞のなかへ入ってみる気になったんです。問題の底なしの井戸がどうなっているか。……なんとなく気になったというわけです。わたしの話というのはそれだけですが……」
なるほど、古林の話はいちおう筋がとおっている。辻褄があっているのである。鐘乳洞のなかをうろついていたからといって、必ずしも怪しむべきではないかもしれない。
「しかし……」
と、神崎署長が質問を切りだした。
「それじゃ、あんたはなぜ、われわれの姿を見て逃げだしたんですか。あの鐘乳洞の曲角で出会ったのはあなたじゃなかったんですか」
「もちろん、そうですが……」
と、古林は語気をつよめると、
「それはやっぱりなんというか、そんなところをひとに見られたくなかったんです。なにしろ、この風態ですから。……」
古林はじぶんの服装を顧みて苦笑をもらした。
「なるほど、それであなたは教会のほうの出口から、逃げだそうとしたんですね」
「そうです、そうです」
「あなたは途中で誰かに会いませんでしたか。たとえば、きのう教会のまえで出会った婦人と……」
「いや、誰にも会いませんでしたね」
と、古林はふたたび語気に力をこめて、
「ただ、あの底なしの井戸を過ぎ、教会堂のほうへ出る鐘乳洞……いや、もちろん、そこをいけば教会堂のほうへ出られるなどとは夢にもしらなかったんですが、……とにかく、そこへもぐりこんでからまもなく、うしろのほうでののしるような男の声がきこえました。いまから思えば、それが矢部のおじと、みなさんが探していらっしゃる問題の婦人だったんでしょう。それを聞くとわたしは驚いて、引きかえそうかどうしようかと、まごまごしているところをこのひとにつかまったというわけです」
と、古林はニコラ神父を指さした。
それについて金田一耕助が、何か言おうとしたときである。だしぬけに、あわただしい足音をひびかせて、駆けこんできたのは刑事である。
「署長さん、こんなものが見つかりました。底なし井戸の途中の岩にひっかかっていたんです」
と、ひろげてみせたものを見て、一同は思わず大きく眼を見張った。
それは夜会服のように裾のながい、そして喪服のように真っ黒な服だった。いうまでもなくマリの母が着ていた衣類のようだ。
「お嬢さん、これ、ひょっとするとあなたのお母さんのでは……?」
手にとって服地を調べるマリの指は、熱でもおびているかのようにぶるぶるふるえた。
「はあ、あの……河野先生、お母さまの服のようだわねえ」
「はい。あたしもそう思いますけれど……」
河野朝子もまっさおに色のくちた唇を、けいれんするようにわなわなとふるわせている。
「そうすると、奥さんはまたあの井戸へ身投げしたことになるのかな」
神崎署長が当惑したように、ロマンス.グレーの小鬢を指でかいているとき、とつぜんサロンの一隅から、はじけるような笑い声をばくはつさせたものがある。
峯子であった。
「よして……よしてください。そんなお茶番。……誰が身投げをするのに着物をぬぐひとがありますか。わたしはその女がどこへ逃げたかしっている」
峯子ははげしいヒステリーの発作にわななく指を、ニコラ神父にむけながら、
「あの女は教会のほうへ逃げたんです。そして、神父さんがそれをかくまっていらっしゃるんです。二十三年まえのときもそうでした。あの女は教会のほうへ逃げていき、当時、あの当時教会にいたパウル神父にかくまわれ、パウル神父が帰国するときともなわれて日本を脱出していったんです。お父さんはいつもそういってらっしゃいました。だから、今夜のことも、みんなこのひとたちがぐるになってやったんです」
そういいながら狂ったように、峯子はマリや康雄や由紀子やカンポ、最後にニコラ神父と順ぐりに、ひとりずつ指さしていくのである。
宮田文蔵
金田一耕助はすっかり当惑しきっている。
杢衛のお葬いは一昨日すんだ。金田一耕助をわざわざこの町へよびよせたそのひとがすでに死亡し、お葬いまですんでしまったいまとなっては、いつまでここにいてよいものだろうか。……
そのことについて慎一郎は、
「どうぞ、ご遠慮なくいてください。父を殺した犯人がわかるまでは……」
と、いっているし、また、妻の峯子も、
「ほんとにそうでございますわね。あの憎らしい朋子のやつのいどころがわかるまで、いつまでもこちらにご逗留くださって結構ですよ」
と、慎一郎にあてつけがましく付加える。
しかし、もともと、じぶんをここへ呼ぶことについては、慎一郎は反対だったということを、金田一耕助も知っているし、それに峯子の言葉にはいつもどこか|棘《とげ》があった。
さらに二日三日と逗留しているうちに、金田一耕助は気づいたのだけれど、この家を事実上動かしているのは、慎一郎でもなく、峯子でもなく、峯子の兄の宮田文蔵らしかった。
宮田文蔵というのは、和服のときはきちんと角帯をしめ、洋服のときにはネクタイを忘れないという、いつも服装をととのえている男で、口数こそは多くなかったが、それでいて如才ないところのある人物である。
金田一耕助はもちろんはじめのうちこの男のことを、べつに家をもっていて、この家に通勤しているのだろうと思っていた。ところがのちにわかったところによると、かれもまた引揚げ者のひとりで、妻も子もなく孤独の身を、この矢部家の一隅で飼い殺し同様にやしなわれているのであることがわかった。
文蔵は亡くなった杢衛老人の信用を博していた。およそ世俗的なことにかけては無能力者にちかい慎一郎には、矢部家のかなり大きな家政経営はまかせられなかった。といって杢衛はもうよる年波であった。当然、そこに信頼するに足る番頭のような人物を必要とした。文蔵はそれに打ってつけの人柄だったのである。
戦後、国家の至上命令で農地は解放されてしまった。玉造家などはこの痛手で、ひとたまりもなく没落してしまったのだが、矢部家は大きな山林をもっていた。山林は解放の対象にはならなかったのである。しかも矢部家の持山からは、この地方特有の鉄平石というのが豊富に掘り出された。鉄平石は戦後建築資材として重用視されている。
即ち、戦後矢部家と玉造家との経済力に、大きな懸隔ができたのはそこにあった。
玉造家はこのへんきっての大地主であった。農地をもっていることにかけては、矢部家はとても玉造家の足下にもおよばなかった。そこで杢衛老人はしだいに山林をふやしていった。その山林から鉄平石が発掘されはじめたのである。
つまり、矢部家は鉄平石の出る山をもっているのみならず、それを掘り出して、都会へ送る施設と工場をもっている。戦前はこういうことは、旦那としていささかヒンシュクに値する仕事ということになっていたらしいのだが、戦後の世相の一変から、杢衛老人は堂々と、近在きっての大旦那ということになっていた。
さて、こういう事業を経営している以上、そこに相当腕のある経営担当者が必要なのはいうまでもない。慎一郎にはその資質がかけていた。それを埋めたのが、戦後南方から引揚げてきた宮田文蔵である。
かつて、マニラで対南洋貿易の商社を経営して、かなりの成功をおさめていた宮田文蔵にとっては、この田舎の鉄平石工場を経営するくらいはなんのぞうさもなかったのだろう。かれは杢衛の信頼を博し、下のものからも気受けがよかった。
かれがここに落着くにつけ、周囲のものは妻帯をすすめた。しかし、気にいった女がいなかったのか、それとも独り身の気安さになれたのか、文蔵はなかなかうんといわなかった。女房よりは仕事がだいいちといわんばかりに、毎日、いそがしそうに駆けずりまわっていた。だから、町のひとびとは宮田さんの気がしれない。女房ももち、家も建ててもらって、ちゃんと身分を立てればよいのにと、文蔵の気持ちを不思議がった。
しかし、当の文蔵はひとの噂もどこ吹く風と、当てがわれた矢部家の物置きみたいな小屋をじぶんの手で改造して、結構小綺麗に住んでいる。元来がマメな性分なのである。さすがにこの町ではあそばなかったが、ときどき湖水の対岸の町へは遊びにいくらしい。そこには馴染みの女もいるらしいという噂だったが、かれの働きからすれば、それくらいのことは当然と、杢衛老人も見て見ぬふりをして過してきた。
この宮田文蔵でもうひとつ気のつくことは、都をたいそう可愛がることである。引揚げのときマニラで亡くした娘に似ているとかで、都を目の中へ入れても痛くないほど可愛がった。かれが女房をもって独立することを躊躇しているのは、ひとつは都とべつの家に住むのが辛いのではないかと思われるくらいだった。
しかし、人間というものは、他人のことをいいようにばかりは言わないものである。いやいや、その反対になんとかかんとか難癖をつけたがるものである。ことに相手が羽振りのよい人間である場合には。……
ひとのわるい連中は宮田文蔵のいささか腑に落ちぬ生きかたに対して、ひそかにつぎのような意地悪い憶測を下している。
宮田さんは矢部家の乗っ取りをねらっているのじゃないか。いまに矢部のご老人が死んでしまえば、あとにのこるのは慎一郎さんとじぶんの妹。その慎一郎さんは学者肌で、なんたらむつかしい勉強するばかりで、仕事のことはチンプンカンである。これを騙して矢部家の事業を乗っ取るのは、朝飯前の仕事である。だからその下工作として都さんを手なずけているのではないか。……
人の口に戸は立てられないというのはこのことである。
さて、その矢部家の主権者がとつぜん急死してしまった。果して慎一郎には事業のことも家政のこともいっこうチンプンカンである。ここにいたって宮田文蔵という存在の、この家における比重が目に見えぬ大きな威圧となってのしあがってきたのである。じじつ慎一郎はこの義兄に相談することなしには、お葬いひとつ出せなかった。……
だが、その文蔵も金田一耕助に切望するのだ。
「そんなにご遠慮なさることはありません。ひとつ、いつまでもご逗留なさって、おじさんを殺した犯人をつかまえてください。こんな田舎の警察になにができるもんですか。ひとつぜひ先生の手で犯人を……」
もうそのころには、かつて金田一耕助が、おなじ信州の犬神家における、血で血を洗う相続争いから起った、あの恐ろしい連続殺人事件の解決にあたって、重要な役割りをはたしたことを、射水の町でたれひとり知らぬものはなかった。
内心はともかくも文蔵の言葉にも、いちおうは誠意がこもっているように思われた。したがって金田一耕助は、かならずしも居心地がよかったとはいえなかったけれど、さりとて、このまま東京へひきあげる気にはなれなかった。
二十三年まえの事件だけならばともかく、げんにじぶんの鼻さきで殺人が行われたのである。このままのめのめ東京へひきあげることは、かれのプライドとファイトが許さなかった。
それと、もうひとつ、金田一耕助をこの家にひきとめる理由としては、都という娘のいじらしさがあげられる。
そりのあわぬ父と母とのあいだにはさまれて、いつもおどおどと気をつかっている都を見ると、少くとも事件のかたづくまではここにいてやりたいと思うのである。
杢衛という祖父が生きているあいだは、両親のあいだにそれがひとつの緩衝地帯となっていたのだ。その祖父が亡くなってしまったげんざい、両親のあいだになにか不幸な衝突が起るのではないか。……
都はそれを恐れているようである。
それともうひとつ都は、いまこの家に滞在している古林徹三という男を信用できないらしい。あの男のために、なにかまた厄介なことが起るのではないか。
おなじひきあげ者とはいうものの、敏感な都は文蔵とこの男とのあいだに、いちじるしい体臭の相違をかんじるのである。文蔵がこの家へたよってきたときも、妻も子も財産も、一切合財うしなって、徹底的に尾羽打ち枯らしていた。この点は古林徹三と条件はまったく同じである。