しかし、文蔵の頼ってきたときの印象とまったくちがって、古林徹三の場合、なにかしら暗い、陰惨なものを感じさせるのはなぜだろうか。それはかれの頬っぺたにあるなまなましい古疵と、それからかれが到着した直後に起った事件のせいだろうか。
文蔵はわが身に引きくらべて、古林徹三にたいして親切で寛大である。かれを鉄平石工場のなんらかの部署につけるつもりらしい。しかし、文蔵の表面にあらわれた親切は、ほんとに心の底から出たものだろうか。なんとなく文蔵の伯父さまも、古林徹三というひとをうさん臭く思っているのではあるまいか。……
まだ若い都には父が遁世者のような性格だけに、いろいろ考えることが多いようである。
「そうですか。みなさんがそうおっしゃってくださるならば、はなはだ厚顔のようですけれど、もうしばらくご厄介になることにいたしましょう」
それはお葬いのすんだ翌日の晚のことである。一同に引きとめられるままに、金田一耕助もいましばらくの居坐りを決意すると、さて改めて一同にむかって切出した。
「こういう場合、日本人の習慣からいえば、臭いものに蓋式に、当分のあいだなるべくならば、こんどの事件にふれないのをもってしてエチケットとするようです。しかし、それではぼくの役目がすみません。できるだけはやくこの事件を解決するためには、みなさんが触れたくないとお思いになるような問題にも触れなければなりません。そのことはみなさんもご承知してくださるでしょうねえ」
金田一耕助がそう念をおすと、男の誰もがまだ口をきかないまえに、まっさきに、例によってもったいぶった切り口上で答えたのは峯子であった。
「それはもちろん、そうでございますとも。先生、なんでもご遠慮なしにどんどんご質問くださいまし」
慎一郎は憮然としてひかえており、文蔵はただうなずきながら、しずかに頭髪をなであげている。古林徹三の眼はどこか狐の狡猾さを思わせた。都は無言のままじぶんの膝に眼をおとしている。
慎一郎と峯子
「それではまず奥さんからお訊ねいたしますが……」
と、金田一耕助はそのほうへむきなおって、
「このあいだ……こちらのご老人が亡くなられた晚、あなたは妙なことをおっしゃいましたね。二十三年まえの事件のとき、朋子という婦人は底なし井戸へ身を投げたのではなくて、教会のほうへ逃げていき、当時、あの教会にいたパウル神父というひとにかくまわれ、そのひとが帰国するとき、いっしょに日本を脱出したんだと。……」
「ええ、ええ、そう申しましてございますよ」
峯子はじろりと良人の顔を見ながら、それがくせのねつい調子できっぱりといいきった。
「しかし、それにはなにか根拠があってのことですか」
「根拠といわれると困りますんですけれど、まず第一に朋子……さんがのこしていった、あの奇妙な書置きでございます。――あたしはいきます。でもいつかかえってきます。蝶が死んでも、翌年また美しくよみがえってくるように。――と、いうあの思わせぶりな。……」
「そうそう、そのことはこのあいだぼくも、亡くなられたご老人からうかがいましたが、それで……?」
「それで、父は……先日亡くなりました父は、はじめから朋子さんが死んだということには、ふかい疑いを抱いていたのでございます。しかし、そのころには、この家の裏にある入口と、玉造家の裏にある入口と、そのふたつしか鐘乳洞の入口は、ないものと思われていたのでございます。そして、そのふたつの入口は両方とも、朋子さんが鐘乳洞へかけこんで以来、げんじゅうに見張りがついておりましたので、そこから逃げだした形跡がない以上、やっぱり朋子さんはあの井戸へ、身を投げて死んだのだろうかと、父も半信半疑だったんです。ところが、そののち偶然のことから、教会のほうへ出られる口が発見されましたので……」
「ちょっと待ってください。その入口が発見されたのはいつごろのことですか」
「英二さんの事件があってから、一年ほどたってからのことでした」
金田一耕助はだまって視線を峯子から、峯子をとおりこして庭のほうへ走らせた。そしてそのままぼんやり庭のおもてを視ていたが、やがてまた峯子の顔へ視線をもどすと、
「なるほど、それで……?」
「その時分、あの教会にはパウルという神父さんがいらっしゃいまして、とても朋子さんを可愛がっていたんです。ところが、そのパウル神父というのが、朋子さんの失踪後、十日ほどして急に帰国しているんです」
「あれはなにも急に帰国されたわけじゃない。任期がみちて、まえから帰国することにきまっていたんじゃないか」
慎一郎がにがりきって言葉をはさんだ。
「ええ、それはあなたのおっしゃるとおりでございますけれど……」
と、峯子はあいかわらず押えつけるようなねちねちとした調子で、
「時期が時期でしたからねえ。……それで父は帰国のさい、神父さんが荷物のなかに朋子さんをかくまっていったにちがいないと、いつもそういって口惜しがっていたんです」
「その事件は、奥さんがまだこちらへお輿入れをなさるまえのことですが、そのじぶん奥さんはどちらに……?」
この質問は峯子のいたいところをついたらしく、彼女の眉間にいっしゅんさっと青白い稲妻が走った。
「はあ、あのそのじぶんからあたしはすでにこの家へきておりました。但し、まだ嫁ではなく、矢部家の厄介者だったんです」
自嘲するような峯子の言葉をとりなすように、そばから兄の文蔵が口をはさんだ。
「いや、そのかんの事情は、わたしからお話をいたしましょう」
こんやの文蔵は、白いさらしの肌襦袢がすけてみえる、黒地の縮みに角帯をしめ、ゆっくりと白扇をつかっている。南方から引揚げてきたじぶん、くろぐろと陽焼けしていたのが、ここ数年来の信州住まいですっかりと色がぬけて、どちらかというと色白の、ゆったりとした人柄である。
処世的にはどこか自信のなさそうな慎一郎や、なんとなくおどおどしている古林などからみると、態度なり、口のききかたなりが、よほどおとなっぽかった。年齢も慎一郎よりは四つ五つ上らしくみえ、これでは杢衛老人に信頼されたのもむりはないと思われる人柄だった。
男振りも悪くなかった。
「そのじぶん、わたしどもの家、宮田家というのがすっかり没落してしまって、にっちもさっちもいかなくなっていたんです。しかも、両親があいついで亡くなったもんですから、そこでわたしが決心したんです。わたしが宮田家の跡取り息子で、当時すでに結婚していたんですが、こんなところでぐずぐずしていたところではじまらん。とても宮田家の家運を起すことはおぼつかない。いっそフィリッピンへでもわたって一旗挙げてみたら……と、いうのはちょうどそのころ、わたしの識合いのものがむこうで相当成功していたもんですから、それを頼っていこうということになったんです。さいわい、家内も賛成してくれまして、いくんならいまだ、子供ができてからじゃいきにくくなると、むしろ、家内のほうがすすんでくれた状態なので、そこでそのことをおじさん、……せんだって亡くなったおじさんに相談してみたんです」
と、そこまで語って文蔵は、つめたくなった渋茶で咽喉をうるおすと、また淡々としてあとをつづける。
「それというのがここにいる慎一つぁんと峯子とは、幼いときから許婚者になっていたんです。なんでも亡くなったわれわれ兄妹のおやじというのが、おじさんの若い頃、なにかお役に立ってあげたことがあって、……なに、ごく些細なことなんでしょうが、そういう点、ひどく義理がたいところのあるおじさんで、峯子をじぶんの跡取り息子の嫁にすることによって、昔の恩返しをしようというわけですな。ちょうどそのじぶん峯子は女学校の四年生でした。で、わたしがフィリッピン渡来の相談をもちかけると、おじさんもちょっと考えてはいましたが、けっきょく家内も乗気だときいて賛成してくれ、そんなことなら峯子をうちへ引取ろうと申入れてくれたわけです。そんなわけで、峯子をこの家へたくして、われわれ夫婦はフィリッピンへわたったんですが、あの事件のおこったのはその翌年の夏のことで、そういうわけで峯子は当時、未来の矢部家の嫁としてこの家に寄寓していたわけです。あれはたしかおまえが女学校の五年生のときだったね」
「はい」
峯子は屈辱に頬を青白くけいれんさせながら、それでも例の切り口上でキッパリ答えた。
なるほど、これではその当時、峯子のうけた心の|傷《いた》|手《で》は深刻だったであろう。そしてそのことがいまもなお尾をひいて、この女を片意地な底意地の悪そうな女にそだてあげたのかもしれない。
「なるほど、するとそのじぶん、あなたはこちらにいらっしゃらなかったんですね」
「はいマニラで便りをききました。どういう事情かくわしいことがわからないので、びっくりしてしまいました。その翌年、峯子の結婚式に呼びもどされて、はじめてその間の事情をしったというわけです」
さすがにそばにひかえている慎一郎をはばかって、終りのほうは曖昧な調子だった。
「古林さんはそのときこちらにいらしたんですね」
「はあ」
古林徹三はちらと金田一耕助の顔をぬすみ視すると、
「それはこのあいだの晚も申上げたとおりで、あのじぶん、夏休みといえば毎年こちらに厄介になっていたもんです。宮田さんのいまのお話でもおわかりのとおり、亡くなったおじさんというのがしごく物分りのいい人のうえに、若者を愛するという気性のひとでしたから。……」
「ところで……」
と、しばらく考えていたのち、金田一耕助は慎一郎のほうへむきなおって、
「あなたがごらんになってどうでしょう。君江という婦人を、朋子さんとおなじひとだとお思いですか」
「いや、ところが……」
だしぬけに話しかけられたので、慎一郎はいささかどぎまぎしながら、
「いや、ところがわたしはいちども君江という婦人に会っていないので……なにしろあのひとは、部屋に閉じこもったきり、めったに外へ出なかったということですから」
「でも、古林さんはあのひとを、朋子さんにちがいないと断言してますわ」
例によって例のごとく、峯子の口調は良人をおさえつけるようにねちねちしていた。
そうだ。そのことは金田一耕助も知っている。教会のまえで君江を見たとき、古林の顔色はまるで幽霊にでも出会ったようだった。……
しかし、その君江はどうしたのか。
鐘乳洞のなかの底なし井戸のそばから姿をくらましたきり、きょうでもう三日目になるというのに、いまだにゆくえがわからないというのは。……
鐘楼の影
射水の町はいま大さわぎである。
杢衛の死もさることながら、いま町へきているブラジルのコーヒー王の養女の母なるひとが、ゆくえをくらましたというのだから、これはたんに射水の町だけの話題ではなかった。全国的に一大センセーションをまきおこしているのである。
この事件によって信州の山奥の湖畔にある、射水というささやかな町の名が、全国的に大きくクローズ.アップされたといっても言い過ぎではない。
鐘乳洞のなかは、むろん、いくどとなく捜索された。あの底なし井戸のなかも調べられた。
しかし、金田一耕助もその捜索に立会って、あの井戸の底を調べるということは、ぜったいに不可能だということをしった。
土地のひとがその井戸を、地獄までつづいているというのも、けっして誇張でないことがわかった。百ひろにあまる綱のさきにおもりをつけて垂らしても、まだそれは底までとどかないのだ。いったい、それはどれくらいの深さがあるのか見当もつかないのである。
こうして君江の失踪は、謎につつまれたまま、はや五日たった。警察ではちかく、町の青年団をかりあつめて、本格的に鐘乳洞のなかを調べようといっている。
こういう騒然たる空気のなかにあって、マリの態度なり、様子なりこそ、不思議というよりほかはなかった。ときおり彼女も泣くらしく、眼をまっかに泣きはらして起きてくる朝もあったが、それでいて、母のゆくえを心配しているのかいないのか、いつも、
「母はいずれかえってまいります。母はとても信心ぶかいひとですから、きっと神様がお守りくださいますでしょう」
と、誰にむかってもただそういうだけで、それ以上のことはなにを聞かれても語ろうとはせず、また、とくにひどく取乱しているふうも見せなかった。
そのことについては由紀子も不思議がって、
「ねえ、金田一先生、外国でそだつと親子でも、あんなふうに冷淡になるのでしょうか。あたし、お姉さまのお気持ちがわからないわ」
と、あるとき金田一耕助にうったえた。
しかし、その場にいあわせた田代がすぐにそれを打消して、
「そんなことないよ、由紀ちゃん、ぼくブラジルへ招聘されたとき、ゴンザレスさんのお宅でしばらくご厄介になったんだが、あんなに愛情にみちた親子はなかったぜ。影の形にそうごとくって言葉があるが、マリちゃんとおばさんはかたときだってはなれたことはなく、いつもたがいにいたわりあっていたのだ」
「そうかしら」
と、由紀子はなかなか承知しかねる顔色で、
「でも、それならそれで、もう少し人をやとって、お母さまをおさがしするとか、……お金に不自由のないひとですもの」
「ひょっとすると、マリはやっぱりお母さんを疑っているんじゃないかな」
「だけど、それだとずいぶん変よ」
「なにが変なんだい?」
「だって、お姉さまのお母さま、ぜんぜん、杢衛おじいさんと縁のないひとでしょ。おじいさんになんの怨みもないはずよ。もしそれがあるとしたら……?」
と、いいかけて、由紀子は口をつぐんでしまった。もしあるとしたら、マリの母親は、やっぱり杢衛が疑っていたように、朋子叔母ではないかといいたかったのである。
「金田一先生、あなたこんどの事件について、なにか……?」
「いやあ、ぼくはまだぜんぜん白紙。だいいち、この事件の関係者の性格さえも、まだよくわからないんだからね」
金田一耕助は困ったように、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわしている。
「どうも変だなあ。そういえばマリはすっかり人間がかわってしまったよ。ブラジル時代には、ぼくととっても仲よしだったのに、こっちへきてみると、なんだか、ぼくを避けるように、避けるようにするんだもの……」
不平そうにつぶやく田代の顔を、由紀子は横眼でにらみながら、
「うっふっふ! お気の毒さま。いい気味だといったら田代さん、おこる」
それだけいって由紀子はプイと立ってしまった。
そのあとで金田一耕助は康雄にむかって訊ねてみる。
「その後、お祖母さまはいかがですか」
「はあ。……」
と、康雄はそのことにふれるのを好まないらしく、金田一耕助の視線からおもてをそらせるようにしながら、
「べつに。……」
と、小さくつぶやいて言葉をにごした。
それにたいして金田一耕助もあえて追及しようとはしなかった。
このあいだの晚の、あの鐘乳洞での出来事は、たしかに印象的な情景であった。それはながらく憎みあい、闘いあってきたふたりの男女の、うつくしい和解のシーンでもあったのだろう。しかし、じぶんの祖母の胸に、じぶんの祖父以外の男性のおもかげが、ながく秘められていたのだとしることは、孫としては辛いことにちがいないと、金田一耕助も同情することをしっているのである。
それからまもなく玉造家を辞した金田一耕助は、ふと思いついてニコラ神父をたずねてみた。
独身の神父は、教会のわきにある小さなコッテージに住んでいる。そして、いつかマリの会のとき、手伝いにきていたお作という女が、毎日通いでやってきて、掃除や炊事をしていくのだ。この小さな町の教会には、ニコラ神父と鐘つきの爺や以外にはだれもいないのである。
その神父は金田一耕助の顔をみると、いきなり大きな手をさしのべて、金田一耕助の手をにぎりしめた。
「おお、金田一さん、よいところへきてくれました。わたしとても困りました」
と、金田一耕助をじぶんの居間へひっぱりこんだニコラ神父は、しんじつ困ったようにまんまるな童顔をくもらせている。
「お困りとは?」
「妙な話あります」
「妙な話とおっしゃいますと」
「わたし、不思議でなりません。そうそう、お作さん、お作さん」
と、ニコラ神父がアクセントのちがった呼びかたでお作さんを呼ぶと、お作さんは濡れた手をふきながら、台所から居間のほうへやってきた。そのお作さんの顔にもなんとなく、ただならぬ色がただようている。
「お作さん、ゆうべの話、金田一さんにしてあげなさい。あなた、さきに見つけたのだから」
「はあ、あのお話ししてもよろしゅうごぜえますか」
と、お作さんはなんとなく怯えたような眼の色になる。
「よろし、よろし、金田一先生、わかってくださる。先生、きっとこの秘密解いてくださる。お作さん、お話しなさい」
「はあ、それでは……」
と、お作はおどおどしながらも、やっぱりこの話がしたいらしいのである。
「金田一先生、ゆうべほんとに妙なことがごぜえましただ」
「妙なことというと?」
「それはかようでごぜえます」
と、お作さんがとつとつとして語ってきかせたのは、つぎのような話であった。
きのうもお作さんはここへ手伝いにきていた。そして、あとかたづけをしてひきあげていったのが、九時ちょっとまえのことだった。
お作さんは教会を出て、しばらくいってから、なにげなくうしろをふりかえったが、そのとたんおもわずぎょっといきをのんだ。教会のうえにそびえている鐘楼にだれやらうごく人の影がみえたのである。
「はじめのうちわたしは、鐘つきの爺やさんだろうくらいに思うておりましただが、どうもそうでなさそうでごぜえますから、いまごろだれがあんなところにいるのだろうと不思議に思いましただ。だいいち爺やさんなら、ちょうど、そのまえにお使いにいきましただし、神父さんとはたったいんまさようならをしたばかりでごぜえましただから……」
「ふむ、ふむ、それで……?」
「それで、わたしもなんだか怖うなりまして、ひきかえして神父さんにそのことを申上げようかと、思案しておりますやさきに、むこうの山の陰からお月さんがのぼってきましただで、その月の光でよくよくみると、それがなんと……」
と、お作さんはいきをのんで眼をくりくりさせてみせる。それがいかにじぶんがおどろいたかということの、お作さんとしては精いっぱいの表現なのだろう。
「それがなんと……? どうしたの?」
「いえ、あの、それがあのかたなんで……」
「あのかたとは……?」
「はい、あの、マリさまのお母さまで……」
金田一耕助はおもわずいきをのんだ。
「マリさんのお母さんというと、いまゆくえ不明になっている……?」
「はい」
「そして、警察でやっきとなって捜している婦人のことだね」
「はい、さようで」
「それで、お作さんはどうしたの?」
「どうもこうもごぜえません。すぐにここへとってかえして、神父さんにそのことを申上げましただ。神父さんもびっくりなさってここをとび出して鐘楼をごらんになりましただ」
金田一耕助はニコラ神父をふりかえって、
「それじゃ、神父さん、あなたも鮎川君江という婦人の姿をごらんになったのですか」
「いや、それが……」
と、神父さんは小鬢を指でかきながら、
「はっきりいえません。ベールで顔かくしていましたから……でも、ああいう姿をしているひと、マリさんのお母さんよりほかありません」
神父はそのとき、すぐに鐘楼へあがっていったそうである。お作さんもこわごわそのあとからついていった。
ところがその鐘楼へあがるには、教会の内部と裏側と、ふたつの階段がついている。だから神父さんは内部の階段をのぼっていくとき、お作さんに裏側の階段の下で見張っているようにいったそうだが、それをお作さんに期待するのはむりだった。お作さんはニコラ神父にしがみつくようにして、内部の階段をあがっていったのである。
ふたりが鐘楼までたどりついたときには、むろん怪しの影は見当らなかった。
神父さんとお作さんは、鐘楼のうえからあたりを見まわした。そんなに遠くへいくはずはないから、まだ教会のちかくにいるにちがいないと思ったからだが、そのうちにお作さんが、逃げていく怪しの影のうしろすがたを見つけたのである。
「どちらのほうへ逃げていきました?」
「金田一先生は、どちらへ逃げたと思いますか」
意味ありげなニコラ神父の質問に、金田一耕助ははっとあることに思いあたった。
「あっ、そ、それじゃあの鐘乳洞のなかへ……?」
「そうでごぜえますだよ、金田一先生、わたしがそのうしろすがたを見つけただ。それで神父さんにそう申上げたんでごぜえますだ」
「わたしがそれを見つけたときには、ちょうど鐘乳洞のなかへとびこむところでした」
ニコラ神父はそこでぴったり口を閉すと、鳶色の眼でまじまじと金田一耕助の顔を見ている。お作さんは不安そうにエプロンをひっかいていた。
「それで、神父さんは警察へそのことを……?」
「いいえ」
と、神父さんは当惑したように、まるい顎をなでながら、
「わたし、お作さんに口どめしました。そんなこと評判になる。わたし、困ります。矢部の奥さん、わたし、マリのママさん、かくしているようにいいます。わたし、たいそう、たいそう、調べられました。こんな評判たつ、わたし、また疑われる。それ、困ります。でも、わたし、不思議です。マリのママさん、ここにいるはずない。ゆうべのひと、いったいだれでしょう。不思議です。たいへん不思議です」
ニコラ神父の顔色には、しんじつ当惑のいろがかくしきれなかった。
だが、しかし、それにしてもニコラ神父はどうしてここに君江がいるはずがないと、ああはっきりいい切れるのだろうか。
疑惑のマリ
「ところで、金田一さん」
それからまもなく、お作さんを去らせたニコラ神父は、なにやら深い思案にくれたおももちで、部屋のなかをいきつもどりつしていたが、急にそのあゆみをとめると、くるりと金田一耕助のほうをふりかえった。
「金田一先生、わたし、あなたに訊ねたいこと、あります」
「はあ」
「矢部家のグランド.ファーザー、殺されたとき、マリはたしかに、あなたといっしょにいましたか」
「ええ、それは……」
と、金田一耕助はぎょっとしたように、神父の顔を見なおしながら、
「あのひと、たしかにわたしといっしょにいましたよ。しかし、なにかそれが……」
と、金田一耕助は瞳をさだめて、さぐるようにあいての顔を視つめている。
そういえばこのひとは、あのときもひどくそれを気にしていたが、ひょっとするとニコラ神父は、マリを疑うなんらかの根拠をもっているのではあるまいか。
「マリさんとカンポ君、由紀子さんとぼくと、この四人が立話をしているところへ、矢部のご老人の怒りにみちた罵声がきこえてきたんです」
「そして、それにまじって、女の声がきこえた、いいましたね」
「ええ、そう、女の悲鳴がきこえたんです」
「その女、いったいだれでしょう」
「だから、それがマリさんのお母さんでは……」
ニコラ神父はちょっと黙っていたのちに、
「ああ、そう、そうでしたね」
と、あわてたようにそういうと、それきりまた黙りこんでしまった。
いったい外人の考えは、日本人にはなかなかわからないものだが、このときのニコラ神父の言動はまことに不可解千万だった。神父はマリの母よりもマリじしんを疑っているのではあるまいか。しかし、もしそうだとしたらなぜだろう。
「じつは、そのマリさんのお母さんのことについて、きょうはおたずねにあがったのですが、あのひとはよくこの教会へおまいりにきたそうですね」
「ええ、そう。ときどき。わたし、ゴンザレス氏にたのまれているものですから」
「えっ」
と、金田一耕助はおもわずあいての顔を見なおして、
「それじゃ、あなたはゴンザレス氏をご存じですか」
「いえ、直接にはしりません。マリにあったのもこんど、はじめてです」
「と、おっしゃると……?」
「教会にたくさん寄付してもらいました。マリたちが日本へくるについても、ゴンザレス氏から手紙もらいました。玉造の家、わたし世話しました」
そのことは金田一耕助にとって初耳だったし、そこに、なんとなく怪しい胸騒ぎのようなものをかんじずにはいられなかった。
「失礼ですがゴンザレス氏が教会へ寄付をなすったのは、いつごろのことですか」
「去年の秋、でした」
「それまで、なにかゴンザレス氏と関係でも……?」
「いいえ、ぜんぜん。それですから、だしぬけに、未知のひとからたくさんの寄付をうけて、おどろきました。ブラジルの公使館へといあわせました。ブラジルの大富豪だときいて安心しました」
ゴンザレス氏はまたなんだって、異国の、しかもこんな田舎にある無名の教会に、寄付をする気になったのだろう。だいいち、どうしてこの教会をしっていたのだろう。……
金田一耕助のあやしい胸騒ぎは、いよいよつのるばかりである。
「そうですか。そういうご関係だったんですか。それはちっとも存じませんでした」
と、金田一耕助はあいての顔を注視しながら、
「すると、あなたはもしや、パウル神父というひとをご存じじゃありませんか」
「ああ、せんにここにいたひと……」
と、ニコラ神父は金田一耕助の視線をぴったりうけて、
「名まえ、聞いています。しかし、会ったことありません。時代、ちがいますから」
ニコラ神父の鳶色にすんだ瞳が、まじまじと金田一耕助の眼を視かえしている。まるで、なにかの暗示をあたえるように。しかし、金田一耕助には、それがなんの暗示であるのか見当もつかなかった。
「ところで……」
と、金田一耕助は話題をかえて、
「このあいだの晚、すなわち矢部のご老人が殺された晚のことですがねえ」
「はあ」
「あなた、古林徹三という男を、鐘乳洞のなかでつかまえたでしょう」
「はい、わたし、つかまえました」
「そのときの模様を、くわしく聞かせていただけませんか」
「それ、どういう意味ですか」
と、ニコラ神父の鳶色の眼は、ふしぎそうに金田一耕助のもじゃもじゃ頭を視つめている。
「いや、べつにどういう意味というわけでもないのですが、そのときの状態、つまり、どういう状態のもとで、あなたがあの男を見つけたか、そして、そのときあの男がどういう態度に出たか、それをくわしくしりたいのですが……」
「ああ、そう、それならば……」
と、ニコラ神父の眼からいぶかしそうな色は消えなかったが、それでも金田一耕助の質問に応じて、快活に話しはじめた。
「あの晚、わたし、マリから招待うけていました。ところが夕方になって、信者のひとりが病気だといってきました。そのお見舞いにいったので、約束の時間、おくれました。それで、ふつうの道をいくよりも、鐘乳洞のなかの路、いくほうがはやいと思ったので、そっちの路をいくことにしました」
「ああ、ちょっと」
と、金田一耕助がさえぎって、
「それじゃ、あなたはちょくちょく、鐘乳洞のなかをとおって、マリさんやマリさんのお母さんのところを訪問されるのですか」
「ええ、そう、マリも二、三度、鐘乳洞をとおって、ここへきたこと、あります」
「えっ? なんですって?」
と、金田一耕助ははじかれたような眼で、ニコラ神父を視かえしながら、
「それじゃ、マリさんも鐘乳洞のなかの路をしっているのですか」
ニコラ神父は無言のままこっくりうなずくと、
「それ、マリ、いいませんでしたか」
「いや、いや、それは、ぼく、しりませんでした。しかし、マリさんはどうして鐘乳洞のなかの路をしっているのです」
「わたしが教えました。マリ、とても鐘乳洞をめずらしがりました。それで、わたしが二、三度、案内しました。マリはすっかりおぼえました。河野朝子先生もよくしっています」
「それでは、マリさんのお母さんは……?」
ニコラ神父はしばらくだまっていたのちに、
「それはしっているでしょう。マリがしっている以上は……?」
金田一耕助はふたたび怪しい疑いに、胸がざわめくのをおさえることが出来なかった。
あの晚……矢部杢衛が殺された晚、マリはそれをいわなかった。いや、いや、いわなかったのみではなく、かえって、ぜんぜん不案内のような態度をとっていたが、それはいったいなぜだろう。
しかし……と、金田一耕助にはまたべつの考えもうかんでくる。
マリの母の君江というのが、杢衛老人がうたがっていたように、かつての朋子であったとしたら、彼女は鐘乳洞の地理に通暁しているはずである。と、すればマリはなにもニコラ神父におそわらなくとも、母から直接聞くことができたはずである。
そのことについて金田一耕助は、それとなくニコラ神父にさぐりをいれてみたが、マリはまったく神父によって、鐘乳洞の地理をしったらしい。と、いうことはマリの母の君江という婦人は、やはり朋子ではないということになるのではないか。
金田一耕助はせわしく頭のなかを整理しながら、
「いや、失礼しました。それではあの晚の古林徹三のことをお話しください」
「ああ、そう、それでは……」
と、ニコラ神父はあらためて、またあの晚のことを語り出した。
「わたし、この裏山の入口から、鐘乳洞のなか、もぐりこみました。もちろん、わたし、懐中電灯もっていました。そして、まもなく、底なしの井戸の、少しこちらまで、やってきました。すると、あの男に出会いました」
「ちょっと待ってください」
と、金田一耕助がさえぎって、
「そのとき、あの男はかくれようとしましたか。かくれようとするまえに、あなたに見つかってしまったのですか」
ニコラ神父はびっくりしたような眼の色をして、金田一耕助の顔を視なおしたが、急に小首をかしげると、
「そういえば。……」
と、眉をひそめて、赤ん坊のような手でまるい顔をなでながら、
「少しへんですね。あのひと、かくれようと思えば、かくれることができました。わたし、懐中電灯もっていました。あのひと、わたしが気づくまえに、わたしに気づいたにちがいありません。そこ、まっすぐな一本道でしたから」
「なるほど、それで……」
「わたし、すぐそばへくるまで、あの男に気がつきませんでした。気がついたとたん、あの男わたしの手から、懐中電灯をたたきおとしました。懐中電灯消えて、あたり、まっくらになりました。暗がりのなかで、わたしあの男つかまえました。あの男、逃げようともがきました。わたしの腕に咬みつきました。わたし大声あげました。そしたらまもなく、署長さんきました。田代さんきました。それで、三人であの男、つかまえました」
「そうすると……?」
と、金田一耕助はなにか考えをまとめようとして、ゆっくりともじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「古林徹三というあの男は、あなたの眼をのがれて、つまり、どこかにかくれて、あなたをやりすごそうと思えばやりすごせないことはなかったわけですね」
「さあ。……」
と、ニコラ神父は顔をしかめて、
「しかし、あの道、一本道でした。どこにもかくれるようなわき道、ありませんでした」
「洞窟の広さはどうだったんです。つまり幅ですが、すれちがっていけないくらい狭かったのですか」
「いや、広さはかなりありました。五メートルくらいありました。だから……」
と、ニコラ神父はまた困ったように顔をしかめて、
「あのひと、洞窟の壁にへばりついていたら、あるいはわたしの眼、のがれられたかしれません。それだのに……」
「それだのに……?」
「気がついたとき、わたしの真正面に立っていました。そして、懐中電灯たたきおとしました。たしかに変です。どうしてでしょう」
ニコラ神父はいまになって、そのときの古林徹三の行動に疑惑をおぼえはじめたらしく、しきりに、どうしてでしょう、なぜでしょうをくりかえしていた。
そのあとで金田一耕助は鐘楼と、鐘乳洞の入口をしらべさせてもらったが、べつにこれという発見もなかった。ゆうべ現われた黒衣の婦人は、それがマリの母であったにしろ、なかったにしろ、これという遺留品はのこしていなかったのである。
昏迷の泥沼
金田一耕助はいまやすっかり、昏迷の泥沼のなかへおちこんでいる。
ゆうべ教会の鐘楼へ出現したのが、マリの母の君江であったかどうかはしばらく|措《お》くとしても、いったいそこにはどういう意味があるのだろう。
こんどの事件はあきらかに、二十三年前の事件から尾をひいているようだが、二十三年前のその事件では、なにかあの教会が重要な役割を演じているのではないか。すなわち、杢衛老人がうたがっていたように、康雄や由紀子の叔母にあたる朋子という婦人は、底なし井戸へ投身したとみせかけて、当時まだだれにもしられていなかった秘密の通路をとおって、教会のほうへ抜けだし、パウル神父に救われたのではないか。
そして、それがこんどマリの母親と名のって、故郷へかえってきたのではないかと、金田一耕助もいちおう考えてみるのだが、しかし、それだからといって、ゆうべ鐘楼へ出現したというのはいささかとっぴである。これが食に飢えて台所へ現れたというのなら話もわかるのだが、そういう気配はさらになかったと、ニコラ神父もお作さんも強調している。
それにしても、ゆうべ鐘楼へ現れたのが、やっぱりほんとのマリの母親だとしたら、彼女はその後、どうして活きているのだろう。マリの周囲には厳重に警察の監視の網が張られているはずだから、マリにしろ、河野朝子にしろ、またカンポにしろ、その眼をくぐって、君江と連絡がとれようとは思えない。そういう気配があったとしたら、すぐ警察にしれるはずである。