「失敗とおっしゃるのは?」
「いえね、金田一先生」
「はあ」
「わかい男とわかい娘を、すえは夫婦にしようと思えば、いっしょに住まわせるものじゃありませんね。それじゃ、おたがいに欠点がわかってしまうし、たとえ愛情らしいものが交流したとしても、それは兄と妹の愛情でしょう。だいいち、あまりなれなれしすぎて、異性としての新鮮味にかけてしまう。いまさら夫婦だなんておかしいような気もちになってしまうんです」
それで、玉造家の娘の朋子に接近していったんだと、慎一郎としてはいいたかったのであろう。
「なるほど、そういうこともありましょうね」
金田一耕助はただそう合槌をうっただけで、それ以上は追及せずに、またふたりは暗い洞窟のなかを黙々として步いていった。
むろん、ふたりともただ步いているだけではない。地図と照らしあわせて袋小路のような洞窟にいきあたると、いちいち奥をさぐってみるのである。この鐘乳洞のなかには迷路のように錯綜した路のほかに、いたるところに袋のようにいきづまりになった洞窟が散在している。
そういう洞窟のおくをさぐるとき、いつもひとりがなかへ入りこむと、ひとりが外で見張りをしているのである。
「金田一先生」
しばらくすると、こんどは慎一郎のほうから声をかけた。
「はあ」
「古林君はさっきなぜあんな嘘をついたんでしょう」
「嘘……?」
慎一郎の声になにかしら憤りのあるようなひびきをかんじたので、金田一耕助はおもわずその顔をふりかえった。慎一郎の瞳にはふかい疑惑のいろがかげろうのようにもえている。
「矢部さん、古林さんはいったいどういう嘘をついたんですか」
「それはこうです。わたし、すぐあなたがたの背後を步いていたものですから、聞くともなしに古林君の問わず語りを聞いてしまったんです。古林君はひさしくうちへごぶさたしていた理由として、気がとがめたというようなことをいってましたね。そして、気がとがめたという事情をこう説明したでしょう。つまり、英二が鐘乳洞へとびこむ直前に出会って話を聞いた。なぜあのとき、英二といっしょに鐘乳洞へ入っていかなかったかというようなことを……そうじゃなかったですか」
「ええ、そんなお話でしたけれど……」
「そんなこと嘘です!」
吐きだすようにいいはなつ慎一郎の語気は鋭かった。
「嘘とおっしゃるのはどの点が……?」
「それはこうです。朋子さんとわたしの計画が露見すると、おやじはかんかんにおこって、わたしを洋館の二階へとじこめたんです。その部屋は崖のほうをむいているので、窓からのぞくと鐘乳洞の入口がむこうにみえるんです。わたしは断腸のおもいでその入口をみつめていました。よっぽど窓からとびおりて……とも思いましたが、窓の下には屈強の男が眼を光らせているんですから、そういうわけにもいかなかったんです。そのうちに英二のやつがうちのなかからとびだして、鐘乳洞のほうへ走っていくのがみえました。そのときばかりは、わが弟ながら英二のやつを、八つ裂きにしてやりたいくらい憎らしかったんです。ですから、英二のうしろすがたをわきめもふらずに睨んでいたんですが、英二はだれにもひきとめられずに……いや、その洋館から鐘乳洞の入口までのあいだには、ちょっとした繁みがありましたから、いっしゅん英二のすがたはみえなくなりましたけれど、すぐまた繁みのなかから出てきましたから、そのあいだにひとにあって、事情を説明してたなんて思えません。英二はうちをとびだすと、だれにも逢わずにまっすぐに、鐘乳洞のなかへとびこんでいったんです。いや、そればかりではなく……」
話しているうちにしだいに昂奮してきたのか、慎一郎の語気は熱をおびたように激していたが、そこでちょっとひといきいれると、
「そればかりではなく、英二が鐘乳洞のなかへとびこんでから、わたしはかたときもそこから眼をはなしませんでした。英二につかまった朋子さんのみじめさをおもうと、わたしは胸が張りさけそうでした。ところが、三十分ほどたっても英二がかえってまいりません。そこでおやじが心配したんでしょう。裏庭へ奉公人を集めてなにやら評議をはじめましたが、そこへひょっこり古林君がかえってきたんです」
「どこからかえってきたんですか」
「たぶん裏門からでしょう。裏門はその窓からみえないんですけれど、そっちの方角からちかづいてきたのをおぼえています」
しばらくふたりは黙々として步いていたが、やがてまた慎一郎が言葉をついで、
「古林君はもう二十三年も昔の話だし、それにわたしが窓からのぞいていたとはしらないものだから、ああいう嘘をついてもとおると思っているらしいが、わたしにとってはあの日のできごとは、きのうのこと、いや、たったいまのできごとのように、新鮮な、いたましい記憶としてのこっているのです」
慎一郎の言葉の調子は、もうさっきみたいに激してはいなかった。いくらか涙をおびた声音で|悵然《ちょうぜん》としてそういうと、ふかくふかく頭をたれた。
慎一郎の言葉がじじつだとすると、古林徹三はあきらかに嘘をついたのだ。しかし、古林はなぜそんな嘘をつかねばならなかったのか。
金田一耕助はあたまのなかで、話題がその問題にふれていったいきさつを思いだしてみる。古林徹三はあの事件以来、矢部の家と音信不通になっていた弁解として、ああいう嘘をつきはじめたのであった。と、いうことは久しく音信不通になっていたには、なにかべつの、しかも重大な理由があるのではないか。たんなるズボラで通信をおこたっていたのなら、ごていねいにそういう嘘をならべたてる必要はないわけである。
「古林さんはまさか、鐘乳洞のなかから出てきたんじゃないでしょうねえ」
「いや、それは絶対に。さっきもいったとおり、わたしはかたときも鐘乳洞の入口から、眼をはなすようなことはなかったのですから」
「いったい、それは何時ごろのことでした?」
「夕方の七時ごろ……したがって、そろそろあたりは小暗くなっておりましたけれど、古林君が鐘乳洞のなかから出てきたのでないことだけは断言できます」
「しかし……」
と、金田一耕助がなにかいいかけたときである。
とつじょ奥のほうからきこえてきたのは、けたたましい怒号と悲鳴……ふた声三声、たかく、ながく尾をひいて、あたりの空気をふるわせたかと思うと、やがて洞窟の闇のなかに消えていった。
第二の殺人
「あっ、あの声はなんだ!」
金田一耕助は弾かれたように、声のしたほうへふりかえる。
「なんだかいやな声でしたね。まるで断末魔のような……」
と、いってから慎一郎ははっとしたように、首をつよく左右にふった。じぶんの言葉の不吉さに気がついて、そのまがまがしい印象をふるいおとそうとでもするかのように。
ふたりはそのままの姿勢で、しばらく洞窟の闇のなかで耳をすましていたが、怒号も悲鳴もそのままとだえて、あとは凍りつくような地底の静寂である。その瞬間、全洞窟内は呼吸をとめて、つぎにおこる反応を待ちかまえていたのであろう。そして、その反応がいつまでたってもおこらぬことに気がつくと、俄然、鐘乳洞内の空気は活溌にうごきだした。
あちこちで呼びかう声、あわただしく走りまわる足音。――その騒音がひとつになって、洞窟から洞窟へと反応をつたえてくる。
「いって、みましょう!」
金田一耕助はみじかく、きれぎれにそういうと、はや袴の裾をさばいて走っている。慎一郎もそれにつづいて走りだした。
「金田一先生、いったい、なにが……?」
「さあ、ぼくにもわかりません」
と、金田一耕助も呼吸をきらせながら、
「なんでもないことかもしれない。だれかが鐘乳筍に足をすべらせ、滑ってころんだというような……」
「それだといいんですが……」
しかし、ふたりともそれがそんな単純な悲鳴でなかったことを、全身の感覚をもってしっている。ことに金田一耕助はいまの怒号と悲鳴のなかに、杢衛老人が殺害されたときに耳にした、あの怒号と悲鳴に共通したものを感じるのだ。いきおい不吉なおもいが走馬燈のようにあたまのなかを駆けめぐる。
やがて、路が三つ股にわかれているところで、金田一耕助と慎一郎は数名の捜索隊員にぶつかった。
「あっ、金田一先生! いまの叫びはなんです」
その捜索隊員のなかには康雄と田代もまじっていた。声をかけたのは田代だった。
「君たち、どっちの路からやってきたの?」
「ぼくたち、こっちのほうからです」
と、田代は左側にひろがる洞窟を指さした。
みんなそっちのほうから駆けあつまってきて、いま金田一耕助の出てきた路と、もうひとつの路と、どちらのほうへいこうかと相談していたところだったと、顎紐いかめしい警官がいくらか昂奮ぎみに話しかけてきた。
「よし、じゃ残るひとつはこっちの洞窟だ。たしかにさっきの声は、この方角からきこえてきましたね」
「そうです、そうです。まるで断末魔のような声でしたぜ」
と、田代も慎一郎とおなじようなことをいう。
「田代、つまらないことを……」
康雄はあいかわらずむつかしい顔色である。
「ああ、ごめん、ごめん。まあ、そういったような声だったということさ」
田代が頭をかいているところへ、江藤警部補とほか二、三人、またばらばらと、駆けつけてきたが、いずれも田代たちがやってきた路を追ってきたものばかりで、第三の洞窟からはひとりも出てこない。
地図でみるとその洞窟は、いつか由紀子がいっていた地底の河、すなわち逃げ水の淵へつづいているらしく、いままで一同がさぐってきた部分ほど、地理がはっきりしていないらしい。ところどころに曖昧な点線の部分がある。しばらくは一同評議まちまちだったが、
「金田一先生、とにかく入ってみようじゃありませんか」
江藤警部補の提案に、
「ええ、そうするほかありませんな」
金田一耕助は決然として、袴の股をたくしあげて、まずいちばんに洞窟のなかへもぐりこんだ。その洞窟はからだをかがめて、やっとひとひとり步けるほどの広さしかなく、したがって捜索隊員も一列縦隊にならぶよりしかたがなかった。
田代と康雄が金田一耕助のすぐうしろにつづき、江藤警部補がそのあとを追うことになった。
「先生、なにか足跡のようなものはありませんか」
「だめだよ、田代君、この水溜りじゃ……」
じじつその洞窟の内部では、天井や岩の裂目から、ひっきりなしに水が滴りおちていて、かたい岩床のうえに浅い流れをつくっている。それでいてその水が、いままで一同のさぐってきた洞窟のほうへ流れてこなかったのは、むこうへ傾斜しているからだということが、進むにしたがってはっきりしてきた。路はしだいに下り坂になってきたが、そのかわり幅員もひろくなって、かたい岩床をえぐって路のほとりにひとつの溝ができている。
金田一耕助はじめ一同は、はじめて冷めたい水のなかからはいあがった。
「金田一先生、足跡は……?」
俄か探偵の田代幸彦はあくまで足跡にこだわっている。
「田代、先生ばかりをたよりにしてないで、おまえ、ひとつさがしてみたらどうだ」
「よし、玉造、おまえも手つだえ」
岩床はかたかったけれど、それでもふたつの靴跡がどうやら発見された。捜索隊はだいたいふたりひと組に編成されたのだから、ここをとおっていったものも、捜索隊のひと組ではないかとおもわれる。岩床のうえは濡れているところもあるが、乾いているところもあり、その乾いた部分のうえにくっきりと、ふたりならんで步いていった靴跡が、まだ濡れたままのこっている。
「よし、じゃ、この靴の跡をつけていこう」
こんどは田代と康雄がせんとうに立った。
いくにしたがって洞窟のなかはしだいにひろくなり、また、あちこちにわき路がついている。それらのわき路のなかにはすぐいきどまりになるような、浅い袋小路もあったけれど、なかには相当ふかいのもあり、また、なかにはどこかの洞窟へぬけているのではないかと思われるような、底のしれぬ洞窟もあるらしかった。しかも、それらはいずれも地図にのっていないのである。
「おや、おや、こりゃあ、ま、たいへんだな」
と、田代がおどけた調子で感嘆の声を放つのもむりはない。神の摂理の偉大さはいままでにしられている部分より、こっちのほうがはるかにひろいのではないかと思われるほどだった。
しかし、さいわい岩床にはところどころ水溜りがあり、ふたりの先導者もその水溜りを踏まずには進めなかったので、乾いた部分にはいつも足跡がのこっており、それがよいみちしるべになっているのである。
「田代君、もうそろそろなにかないかね。さっきの叫び声がこの洞窟からきこえてきたとすると、そう奥ふかくはないはずだが……」
「しかし、金田一先生、洞窟の反響というのも考慮にいれなければね。ほかへ逃げていきようのない音波は、われわれが考えているよりはるかに遠方までとどくんじゃないですか。しかるによって……」
田代がもっともな理屈をこねているとき、とつぜん、康雄がしっとかれの多弁を制した。
「ああ、ちょっと、あれ、水の流れる音じゃない……?」
康雄の声に一同はぎょっとしたように呼吸をのんだが、なるほどしんと耳をすましていると、暗闇のなかからさらさらと、せせらぎのような音がきこえてくる。それはたしかに悠々と流れる水の音のようだ。
「ああ、いつか由紀子ちゃんがいってた逃げ水の淵というのはここだな。とにかくもう少しいってみよう、足跡は、ほら、まだ、つづいている……」
路はゆうにふたりならんで步けるくらいの幅員をもっているので、康雄と田代は肩をならべて、懐中電灯の光を前方になげかけながら、せんとうに立って步いていたが、とつぜん、ぎょっとしたように立ちどまると、
「あ、あそこにだれか倒れている!」
と、異口同音のさけび声が、期せずしてふたりの口からほとばしった。
「な、なに!」
その声にうしろからきた連中もいっせいにかけよってそのほうへ懐中電灯の光芒をむけた。
そして、一同ははじめて気がついたのである。じぶんたちが、すでに地底の河のほとりまできていることを。
幅三メートルくらいの地底の河は、かなり豊富な水をたたえて、ゆっくりと、ほとんど音もたてずに数メートルかなたを流れている。十数本の懐中電灯の光芒のなかに浮きあがった、くろぐろとした地底の河の音もない流れは、ただ、それだけでも一種異様な戦慄をひとびとにあたえずにはおかないのに、なおその河のほとりには男がひとり倒れているのだ。がっくりと頭を河のなかへつけるようにして、背中だけしかみえないので、まだだれともわからなかったけれど。
いっしゅん、そこに立ちすくんだ恐怖の群像のなかから、とつぜん、ふかいすすり泣きのような溜息がもれた。
「き、金田一先生」
と、それは慎一郎だった。慎一郎は恐怖と緊張に声をうわずらせながら、
「あ、あれ、ふ、古林君じゃ……」
慎一郎の声に金田一耕助もやっと呪縛から解けたようだ。やにわに駈けだそうとする田代の腕をとってひきもどすと、
「君はここに待っていたまえ。江藤さん、わたしといっしょにきてください。矢部さん、あなたもどうぞ」
そのへんから地底の河へかけて、岩床がいくらか柔かくなっているので、二種類の靴跡がはっきりのこっている。それを消さないように注意しながら、三人が倒れている男のそばへちかよっていくと、江藤警部補の爪先がからりとなにやらを蹴とばした。拾いあげてみると、きっさきの鋭くとがった、手頃の大きさの鐘乳石だが、鋭くとがったきっさきが、ぐっしょりと血に染まっている。
「畜生! 金田一先生……」
江藤警部補は指でちょっとその血にさわってみて、歯ぎしりをするように金田一耕助をふりかえった。
金田一耕助はその鐘乳石から眼をそらすと、懐中電灯の光芒を倒れている男の背中に浴せたが、顔を見るまでもなくそれがだれであるかわかった。見おぼえのある古ぼけた洋服。――それはさっき慎一郎がつぶやいたとおり、古林徹三にちがいなかった。
それでも、念のために河にむかって垂れている男の顔を、のぞきこもうとして身をかがめた金田一耕助は、そのときはじめて死体の下から流れだした血が、岩床のうえに大きな血だまりをつくっているのに気がついた。
男はたしかに古林徹三だった。金田一耕助はそっと手頸をにぎってみたが、もとより脈搏はとまっていて、そろそろ体もひえかかっている。おそらく杢衛老人とおんなじに、心臓をひとえぐりにえぐられているのだろう。
金田一耕助はゾクリと大きく体をふるわせると、袴の裾をはらって立ちあがった。
「江藤さん、医者をさっそく。……それから神崎さんを探させてください」
江藤警部補がむこうにむらがっている連中に、金田一耕助の意向をつたえると、言下に二、三人、もときた路へととってかえした。
「金田一先生、古林君は……?」
「いけないようです。おたくのお父さんとおんなじですね」
と、金田一耕助が江藤警部補の手にしている鐘乳石に顎をしゃくると、慎一郎はだいたい想像はしていたものの、やっぱり顔色をかえてたじろいだ。
金田一耕助はきょろきょろあたりを見まわしながら、
「ときに、矢部さん、古林さんはだれとコンビになっていましたっけ」
「宮田の兄といっしょでしたが……」
と、慎一郎もはっと思いだしたように、
「それにしても、兄貴はいったいどうしたのか……」
と、あたりを見まわしているうちに、ふと眼のまえを流れている、地底のくらい流れに眼をおとすと、おもわず怯えの色をふかくした。
「金田一先生、兄貴はひょっとするとこの河のなかへ……?」
「まさか」
と、金田一耕助は横に首をふりながら、
「ほら、ここをごらんなさい。さきのとがった女の靴跡と、男の靴跡がこの河の流れにそって下流のほうへつづいていますよ。文蔵さんはおそらく洞窟の魔女のあとを追っかけていったにちがいありません」
「あっ、ほんとだ!」
と、叫んで江藤警部補もあらためて岩床のうえを調べはじめたが、そのときである。
下流のほうからポッカリと懐中電灯の光がみえてきたかと思うと、やがて急ぎあしにこちらへちかづいてくる足音がきこえてきた。
「だれ? そこへくるのは?……」
金田一耕助が声をかけると、
「宮田文蔵。……そちらは……?」
「あっ、そう、こちらは金田一耕助、それから矢部慎一郎さんもごいっしょです」
暗闇のなかをちかづいてきた宮田文蔵は、ぐっしょりと汗をかき、瞳の色もうわずっている。
「宮田さん、あなた、犯人を追っかけていったんですか」
「ええ、それが……もう少しでつかまえるところでしたが、岩につまずいてころんだものですから……」
と、文蔵は額から流れおちる汗をぬぐっている。
みればなるほど洋服のところどころに泥がついていて、右脚を少しひきずっている。その右膝のズボンが大きく裂けていた。
「犯人はどんなやつでした」
と、これは江藤警部補である。
「真黒なスカーフというのか、ベールというのか、そいつをすっぽり頭からかぶったやつで、顔はもちろん見えませんでしたが、たしかに女だったようです」
と、宮田文蔵はつかれたように、かたわらの岩に腰をおとすと、右の膝をなでながら、
「それにしても、この鐘乳洞、おどろくべきもんですな。この河を二十メートルほどくだったところから、また迷路がはじまって、それこそ八幡の藪しらずみたいになっています。おかげですっかり路に迷ってしまって……」
「すると、女はその迷路の地理に通暁してるんですね」
「どうもそうのようでした」
と、文蔵は流れる汗をふきながら、急に思い出したように、古林徹三の死体のほうへ眼を走らせると、
「古林君、いけないんでしょうねえ」
「ええ、そう、そのことについてご説明ねがいたいんですが……」
「承知しました」
と、文蔵がこたえたところをかいつまんで話すと、かれらも金田一耕助や慎一郎がやったとおなじ方法で洞窟のなかをさぐっていたのだ。つまり、ひとりが袋小路のなかへ入ると、ひとりが表で見張りをしているというやりかたを、交互にくりかえしながら、この河のほとりまでたどりついたのである。
「ところが、そこにある……」
と、文蔵はちょっとあたりを見まわしたのち、すぐ河っぷちにある洞窟の入口を、懐中電灯の光でしめすと、
「その洞窟はわたしがなかへ入る番でした。そこで古林君をここに待たせて、わたしがなかへ入っていったんですが、その洞窟案外おくがふかくて、約二十メートルもありましたろうか。わたしがやっとその奥底をたしかめて、こちらへひきかえそうとしたときに洞窟の外で悲鳴がきこえたんです。そこで急いで洞窟からとびだしてくると、ここに古林君が倒れています。しかも、河にそって下流のほうへ、懐中電灯の光が逃げていくのが見えました。そこでわたしが、あとを追っかけ迷路のなかへ踏みこんだんですが、もう四、五メートルというところで岩につまずいて……」
と、文蔵はいまいましげに顔をしかめる。
「それはどのへんでしたか」
と江藤警部補の質問にたいして、
「さあ、どのへんといっても、なにしろ八幡の藪しらずみたいな迷路のなかですから、……もういちどそこへつれてけっとおっしゃっても、まっすぐにはご案内できかねるでしょうねえ」
「それで、つまずいてころんでいるあいだに女は逃げてしまったんですね」
と、これは金田一耕助の質問である。
「はあ、なにしろ向う脛をしたたか打ったもんですから、しばらくはいたくて起きあがれなかったので……」
文蔵はいかにもすまなそうに悄然としてこたえたが、そこへ神崎署長をはじめとして、大勢の警官たちがかけつけてきた。
しかし、万事はもうあとの祭だったのである。
神崎署長の命令で、またあらためて地底の河の下流にひろがる洞窟のなかが、しらみつぶしに捜索されたが、それはただいたずらにこの鐘乳洞の奥底しれぬひろさと、その複雑怪奇な迷路ぶりに、ひとびとを驚嘆させるにとどまって、洞窟の魔女のゆくえはついにたしかめることができなかった。
(それにしても……)
と、金田一耕助は心中ひそかに考えるのである。
犯人はなんといううまいタイミングで、古林徹三を屠ったことであろう。かれが生きていたら二十三年まえの事件に、新しい角度から照明があてられたことであろうに。……
それを考えあわせると、このたびの一連の殺人事件は、やはり二十三年まえの事件に、つながっているとしか思えなくなってくる。……
コムパクトと白紙
射水の町はいまやかなえが沸くような大騒動である。洞窟のなかには魔女が棲んでいる。そして、その魔女はたれかれの見境なしに、ちかづくものを殺すのだ……と。
いやいや、騒ぎは射水の町ばかりではない。鮎川マリというのが国際的な女性だけに、この事件は全国の新聞にとりあげられて、いろいろと|揣《し》|摩《ま》|臆《おく》|測《そく》がくだされて、ひとびとの好奇心をあおりたてた。それだけに射水の町の警察署長神崎氏は、国際的な脚光のもとに立たされたかんじで、すっかり当惑しきっている。
そういう騒然たる空気のなかにあって、マリはあいかわらず謎のような沈黙を守っていたが、ただ、じぶんの素性についてはつぎのごとく語ったという。
「あたしはじぶんがどこでうまれたかは存じません。でも、物心ついたころにはもうゴンザレスの家にいました。母はその当時からゴンザレス家の家事取締りをしていたのです。わたしの父が日本人であることだけはたしかですが、どういうひとだったか詳しくは存じません。なんでも母があたしをみごもっているうちに、不慮の事故で亡くなったのだと聞いております。父と母がどういういきさつで、どこで結婚したのか、それも詳しいことはきいておりません。父の名は鮎川太郎というのですが、生国は日本のどこなのかそれも存じません。母についてもおなじことでございますの」
これではまるで雲をつかむような話で、警察がいかにやっきとなっても、調査のしようがないではないか。しかもマリはそれ以上のことについては、なにひとつ語ろうとはしなかった。この謎の女は神秘な謎をうちに秘めて、貝のごとく口を喊して語らないのだ。
第二の事件の場合、警察が手に入れたと思われる唯一の証拠は、岩床のうえに印せられた女の靴跡である。
しかし、それもさきのとがった女の靴というだけで、はっきりとした形状をつかむことはむつかしかった。それというのが、死体のまわりにのこっている靴跡は、爪先だけで步いていたとみえて、踵のほうはほとんど跡がのこっていない。しかも、地底の黒い河に沿って走っている靴跡は、故意にか偶然にか、女のあとを追っかけていった文蔵の靴のために、ほとんど踏みあらされているのである。これはちょっと興味のあるところで、おなじ方向にむかって走っている文蔵の靴が踏んでいない女の靴跡は、かれがひきかえしてくるときに、ひとつひとつ、ごていねいに踏み消している。
金田一耕助がひそかにそれを指摘したとき、神崎署長の顔色はかわった。
「すると、金田一先生は、宮田文蔵という男に共犯の疑いがあるとおっしゃるんですか」
「いや、まだ、そうはっきりとは断言できませんが、いちおう杢衛老人の殺された晚の、あのひとの行動を調査しておかれたらいかがですか。アリバイやなんか……」
「いや、承知しました」
と、神崎署長は胸騒ぎがおさまらぬ顔色で、
「そういえば、あの男には杢衛老人を殺害する動機が充分考えられますな。宮田文蔵という男は矢部家乗っ取りをたくらんでるんだという噂が、一部にながれているくらいですからね。いや、それではさっそく調査してみますが、そうすると、先生、古林徹三が殺されたのは、杢衛殺しの真相をしっていたからだということになるんでしょうかね」
金田一耕助はしばらく考えこんでいたのち、
「署長さん、それはもちろん、そういうことになりましょうねえ」
と、答えると、
「畜生!」
と、神崎署長ははげしく拳固でデスクをたたいて、
「そういうことなら、あのとき、もう少しあいつをしぼってみるんだった!」
と、口惜しがった。
金田一耕助は金田一耕助で、べつの意味で神崎署長とおなじ思いであった。
その翌日、金田一耕助は思いだしたようにニコラ神父をたずねてみた。
「どうです、神父さん、その後、鐘楼の幽霊は現われませんか」
「鐘楼の幽霊……?」
と、ニコラ神父はさぐるように金田一耕助の顔を見ていたが、すぐ童顔をほころばせて、
「おお、金田一先生、幽霊、あれきり現われません。わたし、安心しました。しかし……」
と、いったんほころばせた童顔を、ニコラ神父はまたひきしめると、
「幽霊、また、ひとり殺しました。金田一先生、それについて先生にお訊ねしたいことがあります」
「はあ、どういうことでしょうか」
「古林徹三、殺されましたね。あの日、マリはどうしておりました。マリもいっしょに洞窟いきましたか」
「いいえ、マリさんは捜索隊の仲間にはくわわりませんでした。マリさんはあの別館で終始一貫ピアノをひいていたそうです。これは由紀子さんというりっぱな証人があります」
「由紀子さん、マリがピアノひくところ、見ていたのですか」
「いいえ、由紀子さんは母屋にいたのですから、直接マリさんの姿をみたわけではありませんが、ピアノの音は小止みなくきこえていたそうです」
金田一耕助はそういいながら、探るようにニコラ神父の顔をみている。ニコラ神父はまぶしそうに顔をそむけながら、
「ピアノは河野先生もおじょうずです」
と、つぶやくようにいってから、はっとしたように金田一耕助と顔見合せると、またいつかのように鳶色の眼で、まじまじと耕助の瞳を視つめている。まるで、なにかの暗示でもあたえようとするかのように。
ニコラ神父はやっぱりマリにたいして、疑惑をもっているらしい。それについて金田一耕助が、なにかいおうとしたときである。ニコラ神父が急に思い出したように、
「おお、そうそう、金田一先生、あなたにひとつ、たのみあります」
「はあ、どういうことですか」
ニコラ神父は机のひきだしをあけると、
「マリのママさん、いちばんおしまいにきたとき、これ忘れていきました」
と、取りだしたのは一個のコムパクトだった。みるとデリケートな唐草模様を彫った黄金の地に、ダイヤをあしらったぜいたくな品だったが、相当使いふるしたものらしく、唐草模様もしっとりと落ちついている。いかにも中年婦人の持物らしく、趣味のよい高雅な品だった。
「金田一先生」
「はあ」
「あなた、もし玉造のほうへおいででしたら、これマリにとどけてくれませんか。たのみます」
「ああ、そう、承知しました」
と、なに思ったのか金田一耕助は、ハンケチを出してていねいにコムパクトをくるむと、
「それじゃ、たしかにマリさんにおとどけしましょう」
と、だいじそうにふところへしまいこんだ。
それから二十分ののち、金田一耕助は玉造家の別館で、マリとむかいあって坐っていた。
マリはあいかわらずつめたく取りすましているけれど、どこかやつれの色がみえていたいたしい。金田一耕助がそれを指摘すると、マリはさびしげなかたえくぼを頬にきざんで、
「それは、先生のおっしゃるとおりでございましょう。こう警察のかたがたや、新聞記者におしかけられちゃあねえ」
「それというのもマリさんが、ほんとのことをいわないからですよ」
「ほんとのこととおっしゃいますと……?」
「お母さんがどこにいらっしゃるかということを……」
マリは瞳をすぼめてまじまじと、金田一耕助の顔をながめていたが、やがてまた謎のような微笑をうかべると、
「ひょっとすると、先生はそれをご存じなんじゃありませんか」
「はあ、だいたい想像がつくような気がするんですけれど……」
「それじゃ、先生から警察のひとたちへ、いっておあげになったらいかがですの。そうすればよけいな手数がはぶけるというものじゃございません?」
「ところが、あいにくなことには、わたしのは想像だけで、これという根拠がないものですからね。それで弱ってるんですよ」
「証拠がほしいとおっしゃる?」
「ええ、そう」
マリは椅子から立ちあがると、なにか考えこみながら、二、三度ゆっくりと部屋のなかをいきつもどりつしていたが、
「先生、それはやっぱり先生の手でさがしていただきますわ、その証拠というのを……」
「あなたから提供していただくわけにはいきませんか」
「ええ、もうしばらく」
「どうしてですか」
マリは立ちどまって、金田一耕助の顔をうえからまじまじと眺めていたが、
「金田一先生、あなたの眼からみればあたしのような女、さぞ馬鹿な女にみえるでしょう。でも、あたしにはあたしの考えがございますの。あたし、この問題に生命をかけているといえば大袈裟かもしれませんけれど、……いえいえ、けっして大袈裟でもございませんのよ。そして、いまのところ着々として成功してると思うんです。だれかがあたしの思うつぼにはまってる……と、そんな気がしてならないんです。そして、そいつはいまに尻尾をあらわすだろう。いいえ、きっと金田一先生がそいつの尻尾をとっておさえてくださるだろうと、それを期待しておりますのよ」
「いや、ご期待くだすって光栄です。しかし、マリさん」
「はあ」
「あなたのご計画はかなり危険なものだとはお思いになりませんか。げんに一昨日もひとり犠牲者をだしましたよ」
「存じております。古林徹三というひとでしたわね」
マリは眉毛ひと筋うごかさず、冷然としていいはなった。
「ええ、そう、あなたはあのひとを気の毒だとは思いませんか」
マリはそれにたいして、なんと答えようかと迷っているふうだったが、やはりつめたい表情をくずさず、
「あのひと、なにかしっていたんですわ。矢部のご老人が殺された晚、あのひときっと犯人をみたのでしょう。それをいわなかったのがいけなかったのね。あのひと、犯人をかばおうとした。それにはそれだけの理由……犯人をいえない理由があったにちがいございませんわね。と、いうことは、それだけあのひとに、うしろ暗いところがあったんじゃございません?」
「しかし、マリさん、うしろ暗いところのある人間なら、殺されてもしかたがないとおっしゃるんですか」
この質問はたしかにマリの急所をついたらしい。一瞬さっと怒りの炎がマリの瞼際を染め、ちょっと言葉にも困ったようだが、しかし、すぐまた落着きをとりもどすと、
「金田一先生、この問題はもうこれくらいにしておいてください。そのほかになにかご用は……?」
これは明かにもう面会はおわったのだから、かえってほしいという意志表示である。
金田一耕助は腰をあげると、
「いや、失礼いたしました。それではそろそろおいとまをいたしますけれど、そのまえにちょっと見ていただきたいものがあるんですが……」
と、手帳のあいだから取りだしたのは、一枚のすべすべしたアート紙である。四つに折ったそのアート紙を、金田一耕助はていねいにひろげると、
「失礼ですが、こういう質の紙をいままでにごらんになったことはありませんか」
「さあ、なんでございましょうか」
と、マリは不思議そうにそのアート紙を手にとってみていたが、裏も表も白紙である。
「いえね、ぼくがこちらへ立つまえに、一種の脅迫状みたいなものが舞いこんできたんですよ。つまり、射水へきてはならぬ。生命が惜しいと思ったら、射水の町へ近よるな……と、いう意味の脅迫状なんです。ところが、その脅迫状というのがこれとおなじ質の紙に書かれていたものですから……」