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作者: 当前章节:15358 字 更新时间:2026-6-23 06:02

TITLE : 告別

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 目 次

長距離電話

自習時間

優しい札入れ

愛しい友へ……

雨 雲

敗北者

灰色の少女

 長距離電話

     1

「参ったな!」

 と、私は言った。

 もちろん、そう言ったところで、誰も聞いてはくれない。私の周囲には人っ子一人いなくて……。

 夜、まだ深夜というには少し早い十一時ごろではあったのだが、何しろここは山の中の細い間道で、こんな所を他の車が通る見込みは、ほとんどなかったのである。

 よりによって、こんな場所で車がいかれてしまうとは。——私が、つい、

「参ったな!」

 と、言ってしまったのも、無理からぬことだったろう。

 雨が降っていないのがまだしもで、エンジンの中を覗き込んでも、濡れずにすんだ。この前、やはり年老いたエンジンが息切れして、軽い発作(?)を起した時は、どしゃ降りの中で、油まみれになって格闘しなくてはならなかったのだ。

 しかも車の中には、疲れ切って、とげだらけのヤマアラシみたいになった女房と、眠りこけた子供がいて、焦りと雨で、もう泣きたくなったものだ。

 今日は私一人だし、多少帰りが遅くなったところで、女房は気にもしないだろう。どうせ、先に寝てしまっているのだから。

 ただ、この前より悪かったのは車の状態で、どうやったところで息を吹き返しそうになかったのである。

 この山の中、どうしたらいいだろう? 私は途方にくれてしまった。

 ——私は小さな商事会社の外回りの営業マンである。この不景気の中、どんなに小さな仕事でも、飛びつくようにして我がものにしなくては、競争相手にとられてしまう。

 そんなことが三回も続けば、私のクビなど、いとも簡単に飛んでしまうに違いない。どんなに馬鹿らしいと思っても、こうして遠い道を、車を飛ばして出かけて来なくてはならないのである。

 まあ、ほんの雀の涙ほどの話をまとめて、それでも多少はホッとしながらの帰り道。ちょうど町と町との中間辺りで、車はダウンしてしまった。といって、車を責めるわけにはいかない。

 会社の方が、社長のベンツ以外の車を全部売り払ってしまって、我々営業マンはみんな自前の車で回っていたのだ。車がいかれても当然というものだろう。

「さて……。どうするか」

 私は、考え込んだ。——単なる勘だが、どっちかといえば、この先の町の方が、いくらか近いのではないかという気がした。それでも十キロはあるだろう。

 歩いて二時間! 私は、腹も空いていたし、うんざりしたが、他にどうしようもなく、アタッシェケースを車から取り出し、曲りくねった道を歩き出した。

 ——月夜で、歩くのには苦労しなかった。闇夜だったら、お手上げだったろう。

 涼しくて、少々肌寒いくらいだが、これで家へ帰ればムッとするほど蒸し暑いのである。

 ——仕方ない。ともかく歩くんだ。

 歩いて、歩いて……。何かいいことにでも出くわさないとも限らない。

 そうだろう? 人間、一生の間に一つぐらいは「幸運」ってものにめぐり会う資格があろうじゃないか……。

 もっとも、やっと四十だというのに、頭の方はすっかり心細く透けて来た。この疲れた中年を見たら、「幸運」の方で遠慮してよけて行くかもしれない。

 しょうがないだろ。俺だって、好きでくたびれた中年になったわけじゃないよ……。

 私は足を止めた。

 何だろう?——前方、道がカーブして、その向うに隠れているのだが、何か明りが見えている。

 こんな所に家があるのか? それとも——まさか、ハンバーガーチェーンがこんな場所に出てるわけもないが。

「——まさか」

 と、私はそれが目に入る所までやって来て、目をみはって呟いた。

 どうしてこんな所に?

 私は、しばらくの間、幻でも見ているのではないか、と思いつつ、夜の中でポカッと明るく光を放っている、その電話ボックスを眺めていた。

 しかし、いくら目をこすってみても、その電話ボックスは消え去りはしなかった。

 何の気紛れか、こんな所にボックスを設置した人間がいるのだ。バスも通っていない間道に。

 それにしても——近寄ってみると、何とも昔風の電話ボックスである。最近のやつは、もっと洒落たデザインで、こんな風に完全な「箱」になっていないものが多い。

 どうしよう?——電話があったからといって……。

 そうか。JAFに連絡するという手もある。加入していないが、連絡すれば来てくれるだろう。

 あのポンコツが動くかどうかは疑問だが、それに、家へかけて——。家へかけて? 何て言うんだ?

 和枝は、夫が、車の故障で困っているからといって、別に何もしてくれやしないだろう。実際、何もできないだろうし。

 家からここまで、タクシーなんか飛ばしたら、何千円——いや、何万円もかかるに違いない。

 家にかけるのは、電話代のむだってものだ。

 何かいい手はないだろうか?

 その時、ふと若井のことを思い出したのは、全くの偶然でしかない。若井……。そういえば、あいつはこの近くから、通っていたのだ。——もちろん学校のことである。

 私が通っていた私立の男子高校で、一番家が遠かったのが、若井だった。毎日、二時間かけて通って来ていたものだ。

 私は一度、彼の家へ遊びに行ったことがあって、それで憶えていたのだろう。若井の家は、この先の町の、古い酒造家だったのである。

 私は、しばらく迷っていた。——いくら、仲のいい友だちだったとしても、もう二十年以上も昔の話だ。向うがこっちを憶えているかどうか。

 それに、たとえ憶えていたとしても——いや、おそらく若井自身、あの生家に住んでいないだろう。きっとどこかの企業に就職して、別の場所に住んでいるに違いない。

 電話してみたところで、あの家がまだ存在しているかどうか……。

 考えれば考えるほど、電話してもむだだという気持が強まった。しかし——私は丸く開いたドアの穴に手をかけて、ボックスの中へ入り、十円玉しか使えない、旧式の電話のフックから、受話器を外していたのである。

 十円玉があったかな?——五枚ある。あの家なら、充分にかかるだろう。

 もし、両親でも出れば、若井がどこに住んでいるかも訊ける。この近くでなかったら、何の意味もないが。

 番号?——番号はすぐに思い出せたのである。〈1〉の並ぶ、憶えやすい番号だったから。

「——まあいいや」

 ものはためし。——この言葉が、これほどぴったり来る状況はなかっただろう。

 ダイヤルを回す感触、ジーッと音をたてて戻るのも、懐しい感じだ。

 ルルル……。呼出し音が聞こえた。少なくとも、誰かが、この番号の家に住んでいるらしい。

 思いがけず、すぐに向うが出た。

「もしもし」

 元気のいい男の子の声が聞こえた。「若井です。——もしもし?」

 私は一瞬、めまいにも似た感覚を覚えた。この声は——若井とそっくりだ。高校生だったころの若井と。

 突然、二十年以上前の記憶が、よみがえって来たのである。若井と長電話して、電話代がかさみ、母に叱られたことを、思い出していた。

「もしもし。誰?」

 話し方もそっくりだ。きっと、若井の息子だろう。当人であるわけはない。それにしては声が若すぎる。

「もしもし」

 私は咳払いしてから言った。「夜分、すみません。小坂というものですが……」

 向うは、ちょっと黙ってから、

「何だ勇一か?」

 と、私の名を言ったのだ。「びっくりするじゃねえかよ。変にていねいな言葉使いやがって。何か用か?」

 私の方が面食らう番だった。どう考えても、二十数年ぶりに電話して来た友人に対する話し方とは思えない。

 一体どうなってるんだ?——しかし、確かに、相手は私の「勇一」という名を呼んでいるのである。

「あの——太君かい?」

 彼の名は若井太というのだ。

「当り前だろ。お前、大丈夫か?」

 と、向うは呆れた口調で言った。「そういや何だか変な声だな。風邪でも引いたのか?」

「あ——いや、別に」

 と、私は言っていた。

「明日のことだろ。分ってるよ。ちゃんとうまくやってやるから、心配するなって」

 と、若井は言った。「だけど、もしデカにばれたら、こっちもただじゃすまねえんだ。見付かるなよ。いいか」

「あ、ああ……」

「何をおどおどしてやがるんだよ」

 と、若井は笑って言った。「憧れの女とデートだろ。あんまりガチガチになると嫌われるぜ」

「そうだな……」

「そんじゃ、まあ心配しないで行って来な。頑張れよ!」

「ありがとう——」

 言い終らない内に、電話は切れていた。

 私は、なおしばらく、受話器をフックに戻すのも忘れて、突っ立っていた。

 今の声——あれは確かに、若井太の声だ。しかし、二十年以上も前の、若井太の声である。

 いつの間に電話ボックスを出たのか、私は自分でも分らない内に、故障した車の方へと戻って行った。

 すると——車の音が聞こえたのだ!

 空耳だろうか? いや、そうじゃない。ライトが木立ちの間を見え隠れして、やって来る。

 トラックだった! 大方、ここを抜けて近道しようというトラックがいるのだろう。

 私は近付いて来るライトに向って、手を振った。

「車はどうするのよ」

 と、和枝は言った。

「まあ、レッカー車ででもないと引張って来れないな。JAFに頼んで——」

「そうじゃないわよ。車なしで仕事になるの?」

 和枝は苛々を私に向って叩きつけるように言った。

 和枝は別に私の帰りを待って起きていたわけではなかった。深夜TVで、見たい映画をやっていたので、見ていたのである。

 私は冷めたおかずで、ご飯を食べながら、胃の痛むような、妻の文句を聞いていなくてはならなかった……。

 運良く通りかかったトラックに乗せてもらえなかったら、朝までに家へ帰りつけたかどうか。しかし、その話をしても、和枝は、

「良かったわね」

 の一言も口にしない。

「まあ、もちろん——」

 と、私は何とか穏やかな声で、言った。「あの車が修理できりゃ、それにこしたことはないけどな。まず無理だろう。中古でも一台買うしかないさ」

「また何十万円もローンを抱え込むの? 一体どこからそんなお金が出るっていうのよ」

「何とかするさ」

 怒鳴っても、どうにもならない。——私には分っていた。

「結構ね」

 と、和枝は肩をすくめた。「毎日、お財布とにらめっこで買物をするのは私なのよ」

 私は黙って食べ続けた。食欲などなかったが、食べていれば、口をきかなくてすむ。

「——先に寝るわ」

 と、和枝は立ち上った。「早苗の学校があるからね」

「ああ。——おやすみ」

 と、私は言ったが、返事はなかった。

 一人になると、ホッと息をつく。こんなものが「家庭」と呼べるのだろうか?

 もちろん、和枝の苛立ちにも、それなりの訳はある。この古い公団住宅は、家賃も安いが、狭いし、いたみもひどい。

 引越したい。——それが和枝の苛立ちのもとになっていることは、私にも良く分っているのだ。

 しかし、会社の業績が上って、月給、ボーナスの額がもっと安定しないと、ローンを組むこともできない。私のような平社員がいくら頑張ったところで、どうすることもできないのである。

 私は、食べた食器を流しに運んで、水をはっておいた。——私も、朝七時には起きなくてはならない。これから風呂へ入るのは、近所の苦情を招くので、とても無理だ。手早くシャワーを浴びるだけにしておこう。

 布団へ何とか潜り込んだのは、もう三時を回っていた。四時間も眠れない。

 布団に入ってから、私はやっと、今日の奇妙な経験のことを考えたのだった。もちろん、和枝には一言も話していない。

 あれは、一体何事だったのだろう……。

 暗い、ひび割れのある天井を見上げていると、やがて、そこに一つの顔が浮かび上って来た。

 明るい笑顔。少しのそばかすと、ちょっと上向き加減の鼻と、きれいな弓形の眉を持った顔が。

 その顔を——長く、思い出すこともなかったその顔を見ている内に、私は眠りに落ちて行ったのである……。

     2

 たった一本の電話をかけるのが、こんなに怖いことだとは、思ってもみなかった。

 昼休み。——課長は接待ゴルフに出かけ、会社の中は閑散としていた。

 私は営業にしては珍しく、自分の机についていたのだ。昨日の出張の整理をしておかなくてはならなかったのである。

 ——電話。

 かけてみようか。それとも……。

 何度も、手を伸しては、やめた。なぜだ? 怖いのか。ゆうべの、あの不思議な電話を体験するのが、恐ろしいのか……。

 しかし、電話は電話で、何の害も人に与えるものじゃない。かけてみればすむことじゃないか!

「——小坂さん」

 突然声をかけられて、私はギクリとした。

「あら、何をそんなにびくついてるの? 私、そんなに恐ろしい顔してる?」

 と、楽しげに話しかけて来たのは、同じ課の八代景子だった。

 そろそろ三十に手の届くベテランで、私にとっては、気さくな話し相手だった。

「やあ、今日は、課長がいなくて気楽だな」

 と、私は言った。

「そうね。——ゆうべ車がいかれちゃったんですって?」

「そうさ。家へ帰ったのが二時半だよ」

「お気の毒」

 と、八代景子は隣の椅子にかけて、「たまにゃ休んだら?」

「休みか。そんな言葉もこの世にあったんだな」

「たまには早苗ちゃんの相手でもしてあげたら?」

 八代景子は、至って記憶力がいい。一度会った人の顔と名前は、まず忘れないのである。

「早苗ちゃん、もう十歳でしょ?」

「うん。確かそうだ」

「早いわねえ。——あなた、来週がお誕生日でしょ」

「え?」

 そう訊き返してから、私はカレンダーへ目をやった。「——本当だ! すっかり忘れてたよ」

「どう、私の記憶力は」

「いや、脱帽だね」

「休みをとって家族旅行でも。——どう、このアイデア?」

「最高だ」

 と、私は首を振って言った。「課長が、『休暇届と一緒に辞表も出せ』って言うだろうね」

「休んじまえば、何とかなるもんよ」

 と、八代景子は言って、「ね、お茶、いれかえて来てあげようか?」

「頼むよ」

 八代景子が、私の湯呑み茶碗を手に、行ってしまうと、私は電話に手を伸した。

 ——向うが出るまでが、ずいぶん長かった。留守なのだろうか?

「——はい」

 弱々しい声がした。「若井でございますが……」

「あの——若井さんですね。私——太君と高校で一緒だった小坂といいますが」

 少し間があってから、

「ああ、小坂さん。——小坂勇一さん、でしたっけ?」

「そうです。あの——お母さんですか?」

「ええ。まあ、お懐しい」

 その声は、すっかり老女のものになっていた。「お元気でいらっしゃいます?」

「ええ、おかげさまで。あの——太君ですが、まだお宅に? ちょっと連絡したいことがありまして……」

 少し、向うは沈黙した。私は、聞こえなかったのかと心配して、

「もしもし? 太君の——」

「あの子は死にました」

 私は、一瞬、時の流れが止ったような気がした。

「お知らせもしなくてね、本当にすみませんでした」

 と、母親は言った。

「いや、それは……。いつのことですか?」

「もう五年くらいになるでしょうか」

「じゃあ、まだ若くて……。病気か——事故で?」

「いいえ。そんなことでしたら、ちゃんと小坂さんにもお知らせしたんですがね」

 と、母親はためらいながら言った。「自殺したんです」

「自殺……」

 あの若井が? まさか!

「ええ、それも、結婚していたのに、他の女の人を好きになりましてね。いやがるその女の人を殺して自分も……。無理心中したんです。——お恥ずかしい死に方で、とてもお友だちにはお知らせできなくて……」

 母親の、老け込んだ姿が、目に見えるようだった。

 私は、それ以上訊くこともできず、慰めの言葉もなく、電話を切った。

 ——無理心中。あの「元気の塊」だった男が。

 私は、ショックを受けていた。

 しかし、これで一つ、確かになったことがある。ゆうべの、あの電話ボックスからかけた電話は、今の若井家にかかったのではない、ということだ。

 しかし、そんなことがあるのだろうか?

 電話が「過去にかかる」なんてことが。

 他人の話なら、一笑に付しただろう。しかし、私はこの耳で、あのころの若井の声を聞き、「デカ」という体育教師のあだ名を聞いたのだ。

 あれは、いたずらや人違いなんてものではない。間違いなく、高校三年生の時の、若井太だったのだ。

 私の目は再びカレンダーに向いた。来週が私の誕生日……。

 ゆうべの電話で、若井は何と言っただろう?

「明日のことだろ……憧れの女とデートだろ……」

 そう言ったのではなかったか。

 憶えてる。——あれは、ちょうど十八歳の誕生日の一週間前だった。

 偶然だろうか? それとも……。

「——何、怖い顔してるの?」

 と、八代景子がお茶を出してくれて、私はやっと我に返った。

「ありがとう」

「何か、思いつめた顔してたわよ」

「そうかい?」

 私は、微笑んで見せて、「一つ、年齢をとるんだな、と思って、ショックだったのさ」

 と、言った。

 そこへ着いたのは、夜、十時を少し回っていた。

 いい時間だ。——九時前では、早すぎただろう。十時ごろでないと、計算が合わない。

 私が心配していたのは、まだそこに電話ボックスがあるだろうか、ということだった。

 しかし、確かに、そこに電話ボックスは立っていた。闇の中、そこだけが明るく、まるで別の次元ででもあるかのように。

 私は、車を降りた。——レンタカーである。

 中古車を手に入れるにも、何日かはかかる。

 十円玉を沢山用意していた。ボックスの中に入って、その番号を回す時は、手が震えた。そしてもちろん、胸も震えていた……。

 ルルル。——ルルル。

 本当に、もし私の考えが正しければ……。

「——はい、二神です」

 私は、こわばった喉から、声を押し出した。

「あの——小坂といいますが、恭子さんはいらっしゃいますか」

「ああ、小坂さんですか。恭子の母です。今日は恭子がお世話になって」

 明るい声だった。「ちょっとお待ち下さいね」

「はい」

 汗が流れた。——やったのだ! 私の考えは正しかった。

「小坂さんよ」

 と、母親の言っている声が聞こえる。

 タタッと駆けて来る足音。

「あ、もしもし?」

「やあ」

 私の体は震えた。——恭子! 恭子の声だ!

「今日はありがとう。楽しかったわ。もうお宅に帰ったの?」

「あ——いや、外なんだ」

 できるだけ若い声らしくしゃべらなくてはならない。

「何してるの?」

「うん、つまり……今日の楽しかったことをね、思い出してるんだ」

「まあ」

 恭子は、ちょっと甲高い声で笑った。——私の心を、かつて魅了した笑い声。

「ロマンチストなんだ、小坂君って」

「そうだね。君もそうだろ?」

「女の子はそうよ。でも、ちゃんと醒めてるとこもある。——ね、ずいぶんお金つかったんでしょ?」

「大丈夫だよ。気にしなくたって」

「あなたの誕生日の時は、私が全部面倒みちゃうからね」

「そんなこと——」

「いいの。ね、今日は、学校の方、大丈夫だった?」

 と、恭子は声をひそめる。「さぼった、ってこと、お母さんには内緒なの」

 恭子の通っている私立は休みだったのだ。私は若井に頼んで、出席しているように細工してもらったのである。

「心配ないさ。ちゃんと手は打ってある」

「そう?——私ね、本当はもっと退屈じゃないかと思ってた」

「僕が?」

「あなたが、っていうより、デートなんて、慣れてないでしょ? だから、間がもたないんじゃないかなって。でも——おしゃべりしてるだけで楽しかった。本当よ」

「僕もだよ」

「——あ、お父さんが呼んでる」

 と、恭子は言った。「男の子が近寄ると、ご機嫌悪いのよ。じゃあね」

「恭子!」

 と、思わず私は言っていた。

「え?」

「——すてきだよ、君」

 間があって、

「ありがと」

 声が、上気した表情を想像させて、「あなたもよ」

 と、付け加え、電話は切れた。

 ——私は、電話ボックスを出た。

 まだ心臓が高鳴り、喘ぐように呼吸しなくては苦しかった。

 二十年以上も前の「恋」が、突然、その時のままの姿で立ち現われたら、誰だってその「切なさ」に胸をしめつけられるに違いない。

 恭子。恭子。

 私の考えは正しかった。——もちろん、理屈ではない。

 現実だ。この電話は、私が間もなく十八歳を迎えるという年の「今日」につながっているのだ!

 こんなことが——。夢を見ているのだろうか?

 私は、思い切り車を飛ばした。まるで本当に自分が十八歳のころに戻ったかのように……。

「パパ……」

 早苗が、玄関にパジャマ姿で出て来た。

「何だ。まだ起きてたのか? 早く寝ろよ」

 私は靴を脱いで上った。

「宿題やってたんだもん」

「ふーん。そんなに沢山出るのか」

「うん。——じゃ、おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 私は、早苗の頭を軽くなでてやった。

 ——リビング、といっても、ダイニングキッチンと合せて、せいぜい八畳間ほどのものだ。

 和枝が新聞を広げていた。

「レンタカーを借りたよ」

 と、私は言った。「高くつくからな。早いとこ中古を捜すが、二、三日はレンタカーでやるしかない」

「そう」

 和枝は、大して関心もないようだった。

「何か食べるもの、あるか?」

「残りでいいのなら」

「何でもいいよ」

 私は、ネクタイを外し、息をついた。

「——遅いのね、いつも」

 と、台所に立った和枝が言った。

「仕方ないだろ。仕事だ」

「早苗がずっと待ってたのよ」

「——どうして?」

「宿題の分らないところを、パパに訊くんだって」

「俺に?」

「毎晩、二人でせっせとやってるのよ。あなたは知らないでしょうけど、今の五年生は大変なの」

「そうか……」

 私は、肩をすくめた。「早く帰れる時は帰るさ」

「今日みたいに?」

「——どういう意味だ?」

「早苗が会社へ電話したのよ、八時ごろだったかしら。もう出た、って聞いて。じゃ、もうすぐ帰って来るねって……。ずっと寝ないで待ってたわ」

 私には、何も言えなかった。——確かに、早苗には可哀そうなことをした。しかし、今日は特別だったのだ。

「付合いがあるんだ」

 と、私は言った。

「分ってるわ」

 和枝は疲れ切った声で言った。「あんまり遅くお風呂に入らないでね」

「ああ……」

 重苦しい気分で、私はあたため直したみそ汁を飲んだ。

 私の中に、束の間、よみがえっていた「若さ」は、和枝のため息一つで、シャボン玉のように、はじけて消えてしまっていた……。

     3

 その考えは、いつ私の胸の中に芽生えたのだろう?

 あの電話ボックスから、初めて若井の家へかけた時? いや、あの時はただ呆然としていて、状況を理解することさえできなかったのだ。

 おそらく、徐々にこの奇妙な出来事を受け入れて行く過程で、その考えは私の胸の中に生れて来たのに違いない。

 それはある意味で恐ろしく、またある意味ではすばらしい考えに違いなかった。——ただし問題は、もしそれを実行に移すのならば、あまり時間がない、という点であった。

 ——私は車を降りた。

 その家は、以前の通り、そこにあった。しかし、記憶の中の姿に比べると、その家は人間のように、老い、疲れて、うなだれて見えた。

 昼間の明るい陽射しの中でも、そこだけは影に包まれてでもいるようだったのだ。

 のんびりと感傷に浸っているわけにはいかなかった。仕事中、ちょっと立ち寄るには少々遠い場所まで来ていたのだ。

 レンタカーも三日目だった。早く、安い中古車を、と思っているのだが、捜すだけの時間がない。

 私は、かつてはきれいに手入れされていた前庭が、今は荒れ放題になっているのを、寂しい気持で眺めながら、玄関へと歩いて行った。

 まるで空間でなく、「時間」の中を歩いているようだ。過去へ向って。

 呼鈴を押した。——インタホン、というものは付いていない。昔の通りの、「呼鈴」である。二度、三度と鳴らした。

 諦めかけた時、

「誰だ?」

 と、声がして、玄関の引き戸の向うに人影が揺れた。

「失礼ですが」

 と、私は言った。「二神さんですね」

「だったら何だ?」

「二神恭一さんですか」

「ああ。何の用だ?」

 用心深い声だった。——当然だろう。得体の知れない客には用心しなくてはならない。

「お忘れかもしれませんが、小坂といいます」

「小坂? どこの小坂だ」

 と、閉じたままの戸の向うから、その老人は訊いた。

「お嬢さんの恭子さんと、付合っていた小坂です」

 ——思い出そうとしているのか、それとも開けるかどうか迷っているのか。長い沈黙があって、戸がガラガラと開いた。しかし半分ほどしか開かない。

「建てつけが悪いんだ」

 と、その老人は言った。「入ってくれ」

 ——居間は、あまり変った様子がなかった。といっても、そう詳しく憶えているわけではない。

「かけてくれ」

 と、二神恭一は言った。「お茶も出さんが、何しろ一人暮しなのでね」

 二神恭一は、ほぼ、予想していた通りの老人になっていた。何といっても、もう七十近いはずだ。

 あのころの面影はある。そして、彼女の面影もまた。

「ごぶさたしています」

 と、私は言った。

「そうだな。もう何年になる? 十年か。いやそれ以上だな」

「二十二年ですよ、二神さん」

「二十二年? そんなにたつか」

 と、二神恭一は意外そうに言った。「年齢をとると、時間はゆっくりたつようで、それでいて、ひっそりと流れて行くんだ」

「私も四十です」

「四十?——そうか。大分頭の方も薄くなったな」

 と、二神は笑った。

「あの——奥さんは?」

「家内はもう死んだ。七、八年もたつかな。ま、いい加減なもんだ。本当は十年かもしれんし、三、四年かもしれん」

「そうでしたか」

「君は——何をしとるんだね」

「勤めですが。小さな会社の営業マンです」

「営業。——営業か。懐しい言葉だ」

 老人の顔に、わずかに生気が戻った。働いていたころのことを、思い出したのだろう。

「それで……何の用かね」

 と、二神は訊いた。

「用というほどのことでも……。ただ、仕事でこの近所へ来たものですから、どうなさってるかな、と思って、お寄りしたんです。それに——」

 と、私は、少しためらってから言った。「お嬢さんのことで、はっきりお詫びもしないままでした」

「恭子のことか……」

 二神は、呟くように言って、私を見た。「いや——私もね、ずっと気にしていたんだよ」

 二神の言葉は、やさしかった。弱々しいというのとは、違っている。

「私のことを、ですか」

「そう……。君にはずいぶんひどいことを言ってしまった。——あの時はカッとなっていたのでね。勘弁してくれたまえ」

「いや、とんでもない」

 私は、長い間の、胸のつかえが下りたように感じていた。「恭子さんの死は、私の責任です。その点は、言いわけの余地もありません」

 ——あの日。

 私の誕生日に、私と恭子は出かけることになっていた。

 私は十八歳になると同時に車の免許をとっていて、まだ三か月ほどの経験しかなかったが、恭子を乗せて、レンタカーで、ドライブに出たのである。

 決して無茶な運転はするまい。——私はそう決心していた。

 私は、いたずらにスピードを上げて喜ぶ馬鹿な手合いではなかった。

「安全運転で行くからね」

 と、恭子に宣言し、恭子も、そんな私を、気に入ってくれていたはずだ。

 それは裏目に出た。——国道で、巨大な(と私には感じられた)トラックが後ろについて、クラクションを鳴らした。

 私たちをからかっていたのだ。——私は少しスピードを上げた。すると、トラックもスピードを上げ、ピタリと後ろにつけて来たのだ。

 先へ行け、と合図しても、トラックは後ろを離れない。クラクションを派手に鳴らし、危うく追突しそうなほど、距離を狭めて来た。

 私もカッとなった。——ぐっとアクセルを踏んで、一気に百キロを越えるスピードを出した。

 その先に急なカーブがあることなど、初めてそこを走っている私には、分らなかったのである。

 車はガードレールを突き破り、急斜面に突っ込んで、大破した……。

 私の左足のふくらはぎには、今もその時の傷が残っている。しかし、私は運が良かったのである。

 恭子は——フロントガラスに突っ込んで、動脈を切り、救急車がやって来た時には、もう出血多量で、虫の息だった……。

 当然、恭子の父親の怒りは烈しかった。

 私を罵り、けがをしていなければ、半殺しの目にあわせるところだったろう。

 一人っ子、それも、可愛く、明るくて誰にも好かれる、自慢の娘だったのだ。父親の怒りは当然だった。

 私は、恭子の葬儀に出ることもできず、退院してずっと後に、墓に花を供えただけだった……。

「——いや」

 と、二神恭一は言った。「事故の状況は、警察から聞いたよ。ひどいトラックもいるもんだ。君のせいではない。——君に、いつか詫びようと思っていた」

 思いがけない言葉に、私は胸が熱くなった。

「あの子も、君のことが本当に好きだったんだよ」

 と、二神は言った。

「私も好きでした」

「そうだろう。——君に会ったら、ぜひ話しておこうと思っていたんだ」

 と、二神は言った。「あの子は、病院で、少し意識を取り戻したんだよ。よく言う、燃え尽きる前の、最後の輝きかもしれなかったがね」

「そうですか」

「その時、私と女房の顔を見て、何と言ったと思うかね? 『あの人が悪いんじゃないの』と言ったんだ。『あの人のせいじゃないんだから』とね……」

 私は、体が震えた。——恭子!

「後になって——何年もたってからだがね、女房がふと言ったんだ。『あの子が元気でいたら、きっとあの小坂って人と一緒になって、今ごろは孫でもいたかもしれませんね』と……。私もそれを聞いて、涙が出たよ。その光景が、まるで目の前に見えるようでね……」

 私は、烈しくこみ上げて来るものを、必死で抑えつけなくてはならなかった。——これ以上、ここにいたら、我を失って泣き出してしまいそうだ……。

「——心残りなんですが」

 と、私は立ち上って言った。「仕事の途中なので、もう失礼します」

「ああ、そうかね。いや、来てくれて良かったよ」

 と、二神は微笑んだ。「また、機会があったら、寄ってくれたまえ」

「ありがとうございます」

 ——二神家を出て、車に戻った私は、ここへ来て、本当に良かった、と思った。

 しばらくは、エンジンをかけるのも、はばかられた。——美しい追憶と、心の熱くなる再会を、もっともっと、かみしめていたかったのである。

 しかし——時は、私の感傷などにはお構いなしに過ぎて行く。

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