「気長にね。——精神的なショックかもしれない。何かのきっかけで、良くなることもあります」
「ええ……」
いつも同じ説明。——少しは、何か違うことを言ってほしい。
しかし、それは望むのが無理なのだろう。
「ありがとうございました」
と、啓子は礼を言って、歩き出した。
病院を出る。——もう、五月も半ばを過ぎていた。
太陽が、少しまぶしい。啓子は、痛む片足を、少し引きずりながら、歩き出した。
病院から家までは、普通の足なら、五分ほどでしかない。しかし、今の啓子では十五分くらいもかかった。
もう、佳子が学校から帰る時間だ。早く戻らないと……。
気はせいても、足はそれについて行けなかった。
佳子と二人の生活も、大分慣れては来たのだが、しかし、夫がいつ回復するかも分らない状況では、収入もいつまで保証されるか……。不安は大きくのしかかって来ていた。
家の近くまで来て、啓子はふと足を止めた。
あの笑い声。——佳子じゃないかしら?
小さな公園の中を覗き込んでみると、佳子が、ランドセルをベンチへ置いて、ブランコに乗っている。誰かが、それを押してくれていた。
「佳子。——佳子」
と、啓子は呼んだ。
「あ、ママ!」
と、佳子が手を振ると、ブランコから降りて走って来た。「あのお姉さんに、押してもらってたんだよ」
啓子は、揺れるブランコの向うに立っている、グレーのセーターの少女を、愕然として見つめていた。安西澄子……。
「——ランドセルを取ってらっしゃい」
と、啓子は言った。
「うん」
佳子がランドセルを取りに行く。啓子は、ゆっくりと、少女の方へ歩み寄った。
「相手をしていただいて、どうも」
と、啓子は言った。
「いいえ」
少女が、言った。「友だちじゃないの、啓子」
啓子は、青ざめた。そして言った。
「うちへいらっしゃらない?」
「構わないの?」
「ええ。——主人は入院してるわ」
「聞いたわ。お気の毒に」
啓子は、佳子を連れて、歩き出した。——少女が、二人の後を、ついて来る。
家に上ると、啓子は、佳子に、
「ね、お友だちの所へ遊びに行っていなさい」
と、言った。
「いいの?」
佳子が戸惑うのも当然だろう。いつもは、ちゃんと宿題をやってから遊びなさい、と口やかましく言っているのだから。
「いいわよ。——あんまり遅くならないようにしてね」
「うん!」
佳子は、家から元気よく飛び出して行った。
啓子は台所へ行くと、お茶をいれた。
「——お構いなく」
と、少女が言った。「相変らず、部屋の趣味が悪いのね」
「どうぞ」
啓子は、真直ぐに、少女を見つめた。
「どうしたのよ? そんなに怖い顔して」
と、少女が笑った。「古いお友だちなのに」
「やめて!」
と、啓子は遮った。「あなた、一体誰なの?」
「忘れたの。安西澄子よ」
「あの人は、生きていないはずだわ」
「そう。——死んだはずよね。あなたが殺したんだから」
少女は、冷ややかな笑いを浮かべていた。「あなたが、工事現場で、私を突き落したんだわ。ビルの基礎工事のコンクリートの中へね。——柔らかいコンクリートに埋って行く苦しさが、あなたに分る?」
「あなたは……」
啓子は、血の気のひいた顔で、言った。「私に復讐しに戻ったの? それならそれでもいいわ。でも、夫や娘に手を出さないで!」
「あなたが、吉田君を好きだったなんてね」
と、少女は首を振った。「——だから私を殺したのね。私が吉田君へ手紙を出すと言ったから」
「あなたは、少しもあの人のことなんか好きじゃなかったのよ。ただ、私が好きだというのを知って、邪魔したかっただけじゃないの」
「そうかもしれないわね。私が手紙を出していれば、あなたの手紙なんて、彼はきっと、読みもしなかったでしょうからね」
——奇妙な対話だった。
一人は十五歳の少女、一人は三十七歳の主婦。だが、二人の対話は、全く対等のものだった。
おそらく、誰の目にも異様だったろう。
「ともかく——もう、彼は私の夫よ。手を出さないで!」
「夫、ね。意識がなくても?」
「私が看護する。必ず元の通りにしてみせるわ」
と、啓子は、身を乗り出した。「出て行って! そして、二度と姿を現わさないで!」
「強気ね。人を殺しておきながら」
「私は、自分の幸せを守っただけよ」
啓子は、鋭く尖った包丁を握りしめていた。「今でも、守るわ」
「刺すつもり?」
安西澄子は笑った。「私はもう死んだのよ。どうして刺し殺せると思うの?」
「やらないと思ってるのね。私は、夫と子供を守るのよ。何をしてでも!」
啓子は、包丁を構えて、安西澄子へと迫った。——相手は、全く逃げる様子を見せない。
「約束しなさい。——もう二度と、私や夫や子供の前に姿を見せない、と」
——不意に、安西澄子が笑い出した。
その笑いは、二十数年前のある笑いを思い出させた。
そうだ。——啓子が、吉田のことを好きで、彼が転校すると知って、泣いたとき、それを見た澄子が声を上げて笑った。あのときの笑いを。
啓子は、もうためらわなかった。包丁の切先が、少女の胸へと食い込んだ。
啓子は、相手が映画の吸血鬼のように、灰になって消えるか、それとも、刺しても何の手応えもないかもしれない、と思っていたのだ。
しかし、包丁には手応えがあった。そして血が激しく噴き出して、啓子の胸を一杯に濡らして、さらに噴き上げる。
包丁を抜くと、少女の体は、ゆっくりと倒れた。
啓子は、胸から下を返り血で染めて、しばし呆然と座っていた。
この少女は——生きていたのか?
安西澄子本人ではなかったのだろうか?
ビルの土台のコンクリートの中へ埋められた澄子が、ビルの解体で、よみがえって来たのかと思ったのだが……。でも、そんな馬鹿なことが、あるだろうか?
やはり、この少女は、澄子の娘なのか?
では、私は生きている人間を殺したことになるのだろうか?
玄関のドアが、激しく叩かれた。
啓子は、じっと座っていた。ドアを開けて、誰かが駆け込んで来る。
「——何てことだ!」
居間へ入って来たのは、意外な人だった。
「先生……。主人に何か……」
と啓子は、医師を見て言った。
「奥さん……。あんたは何てことを——」
医師の後から、病院の警備員らしい男が二人、入って来て、目を丸くした。
「私は、守ったんです」
と、啓子は言った。「この家庭を。——誰にも邪魔をさせません。この人にも」
と、振り向いて、啓子は、愕然とした。
そこに、少女の死体はなかったのだ。
だが——自分の手には包丁があり、血しぶきは啓子の胸や手を真紅に染めている。
「一一〇番するしかないね」
と、医師は言った。「——奥さん。あんたが疲れていたことは、私も証言してあげられる。しかし、どれくらい役に立つか……」
「私のことは——いいんです。ただ、主人をよろしく」
と、啓子は、頭を下げた。
医師は戸惑ったように、
「どういう意味かね。ご主人は、君が刺し殺したんじゃないか」
啓子は、そろそろと顔を上げた。
「今……何とおっしゃいました?」
「ご主人は、血まみれで死んでいる。刺されてね。——君がさっき出て行ってから、誰も病室には入っていない。あのとき、君はもうご主人を刺していたんだね。上から薄いコートをはおって」
「主人が——死んだ?」
啓子の手から包丁が落ちた。
嘘だ。そんなはずがない!——私が刺したのは、安西澄子だ! それなのに……。
佳子は、一人で遊んでいた。
砂場は、黄昏の中で、少し薄暗くなっていた。
誰かが、佳子のそばへやって来ると、
「もう、帰りましょう」
と、言った。「遅くなると、パパが心配するわ」
「うん」
佳子は、バケツを手に、立ち上った。「ママ、帰ろう」
「一緒にね」
二人は手をつないで歩き出した。
平穏で退屈な、しかし、幸福ともいえる光景だった。
そうよ。——これでいいんだわ。
こうなるのが本当だったのよ、と澄子は思った。
あの人にふさわしいのは、私で、あんなパッとしない灰色の女の子じゃない。
私をコンクリートの中へ突き落とそうとして、自分が落ちてしまった、哀れな女の子……。
そう。これで間違いは正されたのだわ。
正しい人生が、今やり直されているんだ……。
「パパだ」
と、佳子が言った。
薄暮の空を背景に、母と子の方へ手を振りながら、吉田がやって来るのが見えた。
「走ろう、佳子」
「うん!」
澄子は、佳子と手をつないで走り出した。
その二つの影は、待ち受ける影と、やがて一つに溶け合って、幸福な笑い声を夕空に響かせたのだった。
本書は、平成七年十二月、小社より刊行されました。
告《こく》別《べつ》
赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》
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平成13年11月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『告別』平成 9年 4月25日初版発行
平成12年 6月20日 9版発行