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作者: 当前章节:4804 字 更新时间:2026-6-23 06:02

「気長にね。——精神的なショックかもしれない。何かのきっかけで、良くなることもあります」

「ええ……」

 いつも同じ説明。——少しは、何か違うことを言ってほしい。

 しかし、それは望むのが無理なのだろう。

「ありがとうございました」

 と、啓子は礼を言って、歩き出した。

 病院を出る。——もう、五月も半ばを過ぎていた。

 太陽が、少しまぶしい。啓子は、痛む片足を、少し引きずりながら、歩き出した。

 病院から家までは、普通の足なら、五分ほどでしかない。しかし、今の啓子では十五分くらいもかかった。

 もう、佳子が学校から帰る時間だ。早く戻らないと……。

 気はせいても、足はそれについて行けなかった。

 佳子と二人の生活も、大分慣れては来たのだが、しかし、夫がいつ回復するかも分らない状況では、収入もいつまで保証されるか……。不安は大きくのしかかって来ていた。

 家の近くまで来て、啓子はふと足を止めた。

 あの笑い声。——佳子じゃないかしら?

 小さな公園の中を覗き込んでみると、佳子が、ランドセルをベンチへ置いて、ブランコに乗っている。誰かが、それを押してくれていた。

「佳子。——佳子」

 と、啓子は呼んだ。

「あ、ママ!」

 と、佳子が手を振ると、ブランコから降りて走って来た。「あのお姉さんに、押してもらってたんだよ」

 啓子は、揺れるブランコの向うに立っている、グレーのセーターの少女を、愕然として見つめていた。安西澄子……。

「——ランドセルを取ってらっしゃい」

 と、啓子は言った。

「うん」

 佳子がランドセルを取りに行く。啓子は、ゆっくりと、少女の方へ歩み寄った。

「相手をしていただいて、どうも」

 と、啓子は言った。

「いいえ」

 少女が、言った。「友だちじゃないの、啓子」

 啓子は、青ざめた。そして言った。

「うちへいらっしゃらない?」

「構わないの?」

「ええ。——主人は入院してるわ」

「聞いたわ。お気の毒に」

 啓子は、佳子を連れて、歩き出した。——少女が、二人の後を、ついて来る。

 家に上ると、啓子は、佳子に、

「ね、お友だちの所へ遊びに行っていなさい」

 と、言った。

「いいの?」

 佳子が戸惑うのも当然だろう。いつもは、ちゃんと宿題をやってから遊びなさい、と口やかましく言っているのだから。

「いいわよ。——あんまり遅くならないようにしてね」

「うん!」

 佳子は、家から元気よく飛び出して行った。

 啓子は台所へ行くと、お茶をいれた。

「——お構いなく」

 と、少女が言った。「相変らず、部屋の趣味が悪いのね」

「どうぞ」

 啓子は、真直ぐに、少女を見つめた。

「どうしたのよ? そんなに怖い顔して」

 と、少女が笑った。「古いお友だちなのに」

「やめて!」

 と、啓子は遮った。「あなた、一体誰なの?」

「忘れたの。安西澄子よ」

「あの人は、生きていないはずだわ」

「そう。——死んだはずよね。あなたが殺したんだから」

 少女は、冷ややかな笑いを浮かべていた。「あなたが、工事現場で、私を突き落したんだわ。ビルの基礎工事のコンクリートの中へね。——柔らかいコンクリートに埋って行く苦しさが、あなたに分る?」

「あなたは……」

 啓子は、血の気のひいた顔で、言った。「私に復讐しに戻ったの? それならそれでもいいわ。でも、夫や娘に手を出さないで!」

「あなたが、吉田君を好きだったなんてね」

 と、少女は首を振った。「——だから私を殺したのね。私が吉田君へ手紙を出すと言ったから」

「あなたは、少しもあの人のことなんか好きじゃなかったのよ。ただ、私が好きだというのを知って、邪魔したかっただけじゃないの」

「そうかもしれないわね。私が手紙を出していれば、あなたの手紙なんて、彼はきっと、読みもしなかったでしょうからね」

 ——奇妙な対話だった。

 一人は十五歳の少女、一人は三十七歳の主婦。だが、二人の対話は、全く対等のものだった。

 おそらく、誰の目にも異様だったろう。

「ともかく——もう、彼は私の夫よ。手を出さないで!」

「夫、ね。意識がなくても?」

「私が看護する。必ず元の通りにしてみせるわ」

 と、啓子は、身を乗り出した。「出て行って! そして、二度と姿を現わさないで!」

「強気ね。人を殺しておきながら」

「私は、自分の幸せを守っただけよ」

 啓子は、鋭く尖った包丁を握りしめていた。「今でも、守るわ」

「刺すつもり?」

 安西澄子は笑った。「私はもう死んだのよ。どうして刺し殺せると思うの?」

「やらないと思ってるのね。私は、夫と子供を守るのよ。何をしてでも!」

 啓子は、包丁を構えて、安西澄子へと迫った。——相手は、全く逃げる様子を見せない。

「約束しなさい。——もう二度と、私や夫や子供の前に姿を見せない、と」

 ——不意に、安西澄子が笑い出した。

 その笑いは、二十数年前のある笑いを思い出させた。

 そうだ。——啓子が、吉田のことを好きで、彼が転校すると知って、泣いたとき、それを見た澄子が声を上げて笑った。あのときの笑いを。

 啓子は、もうためらわなかった。包丁の切先が、少女の胸へと食い込んだ。

 啓子は、相手が映画の吸血鬼のように、灰になって消えるか、それとも、刺しても何の手応えもないかもしれない、と思っていたのだ。

 しかし、包丁には手応えがあった。そして血が激しく噴き出して、啓子の胸を一杯に濡らして、さらに噴き上げる。

 包丁を抜くと、少女の体は、ゆっくりと倒れた。

 啓子は、胸から下を返り血で染めて、しばし呆然と座っていた。

 この少女は——生きていたのか?

 安西澄子本人ではなかったのだろうか?

 ビルの土台のコンクリートの中へ埋められた澄子が、ビルの解体で、よみがえって来たのかと思ったのだが……。でも、そんな馬鹿なことが、あるだろうか?

 やはり、この少女は、澄子の娘なのか?

 では、私は生きている人間を殺したことになるのだろうか?

 玄関のドアが、激しく叩かれた。

 啓子は、じっと座っていた。ドアを開けて、誰かが駆け込んで来る。

「——何てことだ!」

 居間へ入って来たのは、意外な人だった。

「先生……。主人に何か……」

 と啓子は、医師を見て言った。

「奥さん……。あんたは何てことを——」

 医師の後から、病院の警備員らしい男が二人、入って来て、目を丸くした。

「私は、守ったんです」

 と、啓子は言った。「この家庭を。——誰にも邪魔をさせません。この人にも」

 と、振り向いて、啓子は、愕然とした。

 そこに、少女の死体はなかったのだ。

 だが——自分の手には包丁があり、血しぶきは啓子の胸や手を真紅に染めている。

「一一〇番するしかないね」

 と、医師は言った。「——奥さん。あんたが疲れていたことは、私も証言してあげられる。しかし、どれくらい役に立つか……」

「私のことは——いいんです。ただ、主人をよろしく」

 と、啓子は、頭を下げた。

 医師は戸惑ったように、

「どういう意味かね。ご主人は、君が刺し殺したんじゃないか」

 啓子は、そろそろと顔を上げた。

「今……何とおっしゃいました?」

「ご主人は、血まみれで死んでいる。刺されてね。——君がさっき出て行ってから、誰も病室には入っていない。あのとき、君はもうご主人を刺していたんだね。上から薄いコートをはおって」

「主人が——死んだ?」

 啓子の手から包丁が落ちた。

 嘘だ。そんなはずがない!——私が刺したのは、安西澄子だ! それなのに……。

 佳子は、一人で遊んでいた。

 砂場は、黄昏の中で、少し薄暗くなっていた。

 誰かが、佳子のそばへやって来ると、

「もう、帰りましょう」

 と、言った。「遅くなると、パパが心配するわ」

「うん」

 佳子は、バケツを手に、立ち上った。「ママ、帰ろう」

「一緒にね」

 二人は手をつないで歩き出した。

 平穏で退屈な、しかし、幸福ともいえる光景だった。

 そうよ。——これでいいんだわ。

 こうなるのが本当だったのよ、と澄子は思った。

 あの人にふさわしいのは、私で、あんなパッとしない灰色の女の子じゃない。

 私をコンクリートの中へ突き落とそうとして、自分が落ちてしまった、哀れな女の子……。

 そう。これで間違いは正されたのだわ。

 正しい人生が、今やり直されているんだ……。

「パパだ」

 と、佳子が言った。

 薄暮の空を背景に、母と子の方へ手を振りながら、吉田がやって来るのが見えた。

「走ろう、佳子」

「うん!」

 澄子は、佳子と手をつないで走り出した。

 その二つの影は、待ち受ける影と、やがて一つに溶け合って、幸福な笑い声を夕空に響かせたのだった。

本書は、平成七年十二月、小社より刊行されました。

告《こく》別《べつ》

 赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》

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平成13年11月9日 発行

発行者  角川歴彦

発行所  株式会社  角川書店

〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3

shoseki@kadokawa.co.jp

Jiro AKAGAWA 2001

本電子書籍は下記にもとづいて制作しました

角川文庫『告別』平成 9年 4月25日初版発行

      平成12年 6月20日 9版発行

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