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作者: 当前章节:15362 字 更新时间:2026-6-23 06:02

 私はエンジンのスイッチを入れてため息をついた……。

 社へ戻ったのは八時過ぎだった。

 八代景子が、まだ残業している。——私が席に戻って、タバコに火をつけると、

「課長が待ってるわよ」

 と、彼女が言った。

「僕を?」

「そう。会議室で作業中」

「分った。——何の話かな」

「何か知らないけど」

 と、八代景子は首を振って、「あんまり期待しないほうがいいと思うわ」

「今以下ってことはないさ」

 と、私は言って席を立ち、灰皿にタバコを押し潰した。

 会議室のドアをノックすると、

「入れ」

 と、課長のいつもの不機嫌な声がした。

「——ご用ですか」

 と、私は入って言った。

 課長の高田は、ひどく太った男である。色は黒いが、健康な日焼けとは違って、どす黒い感じだ。

 飲みすぎて肝臓を悪くしているのが、素人にも分る。——いつも不機嫌なのは、体調のせいもあるだろう。

 太い眉毛の下から、ジロッと私を見上げて、

「遅いな」

 と、言った。「道草でもくってたのか」

「道が混んでたんですよ」

 と、私は言った。

「今日は都内は空いてる、とニュースで言ってたぞ」

 と、高田は無愛想に言って、「まあいい。——車はどうした」

「レンタカーです。中古の安いのを捜してますが」

「見付けたのか?」

「いえ、まだ」

「レンタカーは高くつくだろう」

「会社で払ってもらえませんか。何日も続くと、痛いですよ」

 と、私は言ってみた。「もちろん、できるだけ早く、見付けるつもりですが」

「見付けることはない」

 と、高田は言った。

 私は、戸惑った。会社の方で、いらなくなった古い車でも、回してくれるつもりだろうか?

 いい話でも、悪い話でも、高田は同じ調子で話をするのである。

「どういうことですか」

 と、私は訊いた。

「お前には辞めてもらう」

 高田は、ごく当り前の口調で言った。

 私は、しばらく身動きしなかった。呼吸するのも忘れていたかもしれない。

「——課長」

 やっと、かすれた声が出た。「どういうことですか」

「言ったろう。お前はもう辞めるんだ。車なんか買っても仕方ないだろ」

「クビ……ですか」

「退職金は出るさ。いくらか知らんが」

 私の中に、やっと怒りがこみ上げて来た。

「そんな! どうして——どうしてです!」

「でかい声を出すな」

 と、高田が顔をしかめた。「お前の働きと賃金と、はかりにかけて、マイナスになったのさ。それだけのこった。決めたのは社長だぞ。俺じゃない」

「でも——そんな突然……。無茶です!」

「わめいたって仕方ないだろ」

 と、高田は肩をすくめた。「退職金を、わずかでももらってやめるか、それとも、裸で放り出されるかだ。どっちでも好きにしろ」

 ——もう、何を言ってもむだだと分った。

 よろめく足取りで、私は席に戻った。

「大丈夫?」

 と、八代景子が、私を見てびっくりしたように言った。「真青よ。——どうしたの?」

「クビだ」

 と、私は言った。

「え?」

「クビだよ。——こんなに簡単なことはないじゃないか! クビさ」

 私は笑い出していた。

「小坂さん! しっかりして!」

 八代景子が私の肩をつかんで揺さぶる。

「——何だ、やかましいぞ」

 高田が、戻って来た。「そんなに嬉しいのか?」

 高田が鼻先で笑った。それが私の怒りを爆発させた。

「小坂さん! やめて!」

 と、八代景子が叫んだ。

 しかし、もう止められなかった。私は高田の方へ大股に歩み寄ると、拳を固めて、ほとんど肉に埋った高田の顎を、殴りつけていたのである。

     4

「おはよう、パパ」

 と、早苗が言った。

「どうしたの?」

 と、和枝が不思議そうに、私の顔を見上げる。

「何だい、どうしたの、って」

「こんなに早く起きて来て」

「目が覚めたのさ」

 と、私は言った。

「コーヒー、いれてないわよ」

「自分でやるよ」

 私は台所に立った。

「早苗、早く食べて」

 と、和枝が苛立ちを隠そうともせずに言った。「本当にもう、ぐずなんだから」

「人間には、それぞれのテンポってもんがあるのさ」

 と、私は言った。「食事ぐらい、ゆっくり食べさせてやれ」

 和枝はチラッと私の方を見たが、何も言わなかった。

「パパ」

 と、早苗は言った。「今日、遅いの?」

「さあ。どうかな」

「パパに訊いてもむだよ」

 と、和枝は言った。「ほら、もう仕度しなきゃ」

「うん。これ食べてから」

 早苗は、コーンフレークを凄い勢いで流し込んで、立ち上った。

「パパ」

「何だ?」

「今日、どの背広着てくの?」

「何だって?」

 面食らって、私は振り向いた。「玄関にかけてあるやつさ。どうしてだ?」

「何でもない!」

 早苗はパッと駆け出すと、すぐにランドセルをしょって、戻って来た。「——行って来ます!」

「はい。——ハンカチ、持った?」

「うん」

 玄関のドアの音がして、早苗の足音がパタパタと遠ざかって行く。

「——何か食べる?」

 と、和枝が台所へ来て言った。「卵でも焼く?」

「いや、トースト一枚あればいい」

 と、私は言った。「まだ胃の方は目が覚めてない」

 コーヒーをいれ、トーストが焼ける間に、ワイシャツを着て、ネクタイを絞める。

「——今日は遠出?」

 と、和枝が、トーストを食べ始めた私に訊いた。

「少しな。仕事だ。しょうがないさ」

「分ってるわ」

 和枝は、何となし息をつくと、「大変ね」

 と、言った。

「何が?」

「疲れてるでしょ。少し休めば?」

 和枝がこんなことを言うとは! 何年ぶりに聞く言葉だろう?

「そうもいかんさ。みんな忙しいんだ。俺だけじゃない」

「そうね」

 と、和枝は肯いた。

「レンタカーも、今日には返すつもりだ」

「どうするの、後は?」

「何とかする。大丈夫さ」

 私も、この朝、いつになく妻へやさしくしていたかもしれない……。

 ——玄関へ出て、上衣を着ると、和枝が送りに出て来た。これも珍しいことである。

「行って来る」

「気を付けて」

 と、和枝は言った。「寝不足で、事故、起さないでね」

 全く、今日はどうなってるんだ?

 聞きなれない言葉ばかり聞かされて、私は戸惑いながら家を出た。

 出たといっても……。もう、二度とこの家には戻って来ないかもしれない、と思いながら……。

 会社をクビになったことは、和枝に話していなかった。

 もちろん、高田課長を殴ったことで、会社側は、一円の退職金も払わずに、私をお払い箱にできたわけである。

 文句でも言おうものなら、向うは私を暴行罪で警察へ突き出せばすむのだ。

 もちろん、私としては、会社をクビになったことで、腹も立てていたが、高田を殴ったのを後悔したことは、一度もなかった。たぶん、社内にも同じ感想を抱いた人間は、少なくないはずだ。

 ——それでも、クビになった私には、即座に「明日の生活」という重荷が、のしかかって来ていた。

 これは、私のひそかに考えていたことを、実行するための、最後の引金になった。

 私は、心安らぐことのない家にも、そして報われない会社にも、何の未練も持っていなかった。今や、その一つからは完全に、切り離されてしまっていたのである。

 ——私は車を走らせながら、まだ迷ってはいた。

 どうなるのか、見当もつかないという気持があり、また恐怖もあった。

 しかし、やってみたところで、一体何を失うだろう? 失うものが何もないのなら、思い切ってやってみてもいい。——自分を、そうやって納得させようとした。

 車で、一旦、会社へ行った。

 私物の整理をしていなかったので、どうしても一度、来なくてはならなかったのである。

 会社の近くで車を停め、歩いて行くと、

「——待ってたわ」

 と、出て来たのは、八代景子だった。

 両手に大きな紙袋を下げている。

「八代君——」

「あなたの車が窓から見えたの」

 と、八代景子は言った。「上役と顔を合せるのもいやでしょ?」

「そうだね」

「あなたの物、まとめといたわ」

「悪いね」

「これぐらい、どうってことないわ」

 八代景子は微笑んで、「お茶でも飲みましょうよ」

 と、言った。

 ——近くの喫茶店に入って、私は八代景子から、高田課長が高血圧で入院した、と聞いた。

「同情する気にゃなれないね」

 と、私はコーヒーを飲みながら言った。

「気持は分るわ」

 と、八代景子は言った。「でも、課長にも家族があるわ」

 私は、ちょっと目を伏せた。

「——そうだったな」

「もし、入院が長引くようなら、きっと社長はすぐに高田さんをクビにするわよ」

「全くな。——どういう世の中なんだ?」

 と、私は言った。

「生きていかなきゃね。何とかして」

 八代景子は、紅茶を飲み干すと、「——仕事のあて、あるの?」

「ある、と言えばあるし、ない、と言えばない」

 私は正直に言った。

「小坂さん」

「うん?」

「会社辞めたこと、奥さんに言ってないんでしょ」

 私はドキッとした。まさか、そんなことを言われるとは思わなかったのである。

「まあね」

「いけないわ」

「心配かけたくないのさ。次の仕事を見付けてから言うよ」

 と、私は言った。

「心配かけたくない、ってのは他人のことを言うのよ。——一緒に心配するのが夫婦じゃないの?」

 八代景子の言葉は、確かに私の胸を刺した。しかし、本当に和枝に話したとして、どうなるだろう?

 私には目に見えるようだった。ヒステリックに、騒ぎ立て、泣き出す和枝の姿が。

 私は、そんな場面を見たくなかった。——絶対に。

「ともかく、ちゃんと話して。それから、その後のことを話し合うのよ。——ね?」

 八代景子の気持は、嬉しかった。本当に私のことを思ってくれていることは、よく分った。

「分ったよ」

 と、私は言った。「帰ったら話す」

 帰ったら、ね……。

 私は車を走らせながら、何度も時計を見ていた。

 あの日、私は午後の三時に、彼女を迎えに行ったのである。三時ぴったりに。

 恭子は、時間に関しては几帳面な子だった。だから、私も正確にその時間に行くようにしていたのである。

 大丈夫、充分間に合う。

 車は、あの間道を辿って行く。——明るい昼間に見ると、同じ道が全く別の場所のように見えて、少々不安になって来る。

 本当にここでいいんだろうか? 道を間違えたんじゃないか。

 それに——あの電話ボックスは、昼間でもあるだろうか?

 近付くにつれ、不安が大きくなって来た。——これまでのすべてが、夢だったような気がして、行先が闇に閉ざされているかのような、そんな気がした……。

「——頼む」

 と、口に出して言っていた。「頼む」

 とたんに、あの電話ボックスが目に入って来た。

 車を停め、大きく息をついてから、外へ出る。ポケットの中の十円玉が音をたてた。

 ——果して、どうなるのだろう?

 もし、十八歳の誕生日を迎えたあの日、私が、恭子とドライブに出かけなかったとしたら。

 もちろん、あの日の過し方は、色々あったわけだ。ドライブだけでなく、映画へ行っても良かったし、展覧会に足を向けても良かったのだ。

 もし、ドライブへ行かず、そうしていたとしたら、恭子は死なずにすんだだろう。そして、私と恭子は……。

 そんなことが可能だろうか? 自分の人生を書きかえる、などということは。

 私は、やってみる決心をしたのだ。——もし、うまく行けば、私は恭子と結婚し、恭子の父親の会社を継いでいるかもしれない。

 そうなれば、私の人生はまるで違ったものになっていただろう。

 私も考えなかったわけではない。——万一、恭子と結婚し、新しい人生を手に入れたとしても、それが今以上に、不幸なものかもしれない、という可能性を。

 人生には、何が起るか分らないのだし、あの時、私が恭子をどれだけ知っていたのか、自信もない。しかし、少なくとも、そこには、「良くなり得る人生」がある。

 私は腕時計を見た。——二時を少し回っている。

 三時には、十八歳の私が、車で恭子を迎えに行くだろう。それを止めることは、たぶんできない。

 とすれば、恭子が「家にいなければ」いいわけだ。

 私は、十円玉を入れ、恭子の家へかけたのだった。

「——はい、二神です」

 恭子の声が、飛び出して来て、一瞬私は、言葉が出なくなった。「もしもし?」

「——僕だよ」

 何とか、私は気楽な調子で言った。

「あら、どうしたの?」

 と、恭子は明るく言った。「今、何を着てくか、選んでるところよ。楽しみにしてね」

「そうだね。——恭子、実は……」

「どうしたの?」

「車がね——せっかく楽しみにしてたんだけど、借りた車が故障しちゃったんだ」

「あら」

 と、恭子は言った。「車をかえてもらったら?」

「うん、それが、出払ってて、だめなんだよ」

「本当。——残念だわ。がっかりね」

「でも……どこかへ出かけようよ。いいだろ? 君の好きな場所でいい。音楽会でも、展覧会でも」

「うん!」

 と、恭子は、すぐに元気を取り戻して、「今、私の好きな絵を展示してるの。見に行っていい?」

「もちろんさ。じゃ、どこで?」

「上野。——じゃ、すぐ出るわ。閉っちゃうと困るもの」

「分った。じゃあ……」

「上野駅の公園口でね。四十分もあれば行くわ」

「分った。それじゃ——」

「うん。ドライブはこの次にね」

「そうしよう」

「——ね、お誕生日、おめでとう」

 と、恭子は言って、短く笑うと、電話を切った。

 私は、息を吐き出した。——やった!

 これで、三時に、私が車で迎えに行っても、恭子はいない。——もちろん、何がどうなっているのか、みんな首をかしげるだろう。

 しかし、ともかく恭子はあの日にドライブに出ないですむのだ。いや、万一、上野駅に私がいないので、家へ戻って、それからドライブに出たとしても、時間は大きくずれているから、あのトラックに出くわすことはない。

 ——私は、戻った十円玉をポケットへ戻した。ともかく、やってしまったのだ。後は、もう、運を天に任せる他はない。

「——何だ?」

 上衣のポケットに、何か、ガサッと触れるものがある。取り出してみると、ピンクのマンガ入りの封筒である。

 戸惑いながら、開けてみると、小さく折りたたんだ手紙。——開くと、早苗のとても上手いとは言えない字が並んでいた。

〈パパヘ。

 おたんじょう日、おめでとう!

 私はまだおこづかいがもらえないから、プレゼントがかえないけど、パパのことが大すきです。

 パパが、かいしゃをやめたってこと、ママもしってるの。かいしゃの女の人が、おしえてくれたから。

 でも、すごくいやなかいしゃなら、やめてよかったね。いいかいしゃがみつかりますように!

 こんやは、できたら早くかえってきてね。

 ママがケーキを作るって、いってた。

 いつまでも元気で、がんばってね。

早苗ちゃん 

でした〉

 ——私は、凝然と立ち尽くしていた。

 早苗! 私はお前を消してしまおうとしていたのか?

 和枝……。早苗……。

 私がお前たちのせいで不幸なのではない。私のせいで、お前たちが不幸なのだ。

 それなのに——私は——私は、何をしたんだ?

 私は、再び十円玉を入れて、急いでダイヤルを回した。——間に合ってくれ!

「——はい、二神でございます」

「あの——小坂です」

「あら、何か? 恭子、今、出かけましたけど」

「呼んで下さい! 急いで!」

「間に合うかしら。待ってね」

 恭子の母親が、受話器を置く音がした。

 永遠かと思うような長い時間がすぎた。——そして、

「もしもし。どうしたの?」

 恭子の声が、聞こえて来た。

「君か。ごめんよ」

「もう、出るところだったのよ。どうかしたの?」

「あのね——車が見付かったんだ。だからやっぱりドライブに——」

 私は、言葉を切った。

 恭子。——君は死ぬんだ。そのドライブで、十八歳の命を散らすんだ。

「そうなの? どっちでもいいけど……。でも、絵も見に行きたかったの」

「うん……。だけど、車の借り賃ももったいないしさ……」

「そうね。じゃ、待ってる。三時に来られる?」

 恭子……。僕はもう一度、君を殺すのだ。許してくれ。

「行くよ。三時に」

 と、私は言った。

「待ってるわ、それじゃ」

「恭子」

「え?——何なの?」

「君は……すてきだよ」

 涙で、視界がくもった。「本当だ。大好きだよ」

「ねえ……。どうしたの? 大丈夫?」

 涙が頬を伝い落ちた。——恭子。君のことは忘れない。一生、忘れない。

「大丈夫さ……。じゃ、三時に」

「うん。待ってる。事故、起さないでね」

 私は胸をつかれた。

「大丈夫だよ。——大丈夫」

「三時よ。ちゃんと来てね」

 恭子が電話を切った。

 私は、震える手で、受話器をフックにかけたのだった……。

 玄関を入ると、

「どなた?」

 と、言いながら、和枝が出て来た。「——あなた」

 私は、じっと立っていた。

「早かったのね……」

 和枝は、両手を真白にしていた。「今、夕ご飯の仕度を……」

「和枝」

 と、私は言った。「悪かった」

 和枝は、ちょっと微笑んだ。

「会社のこと?——八代さんって方が、知らせて下さったのよ。でも、あなたが怒るのも当然だって……。次の仕事、捜してたんでしょ?」

「隠しておくつもりじゃなかったんだが、言いにくくてね」

「いいのよ」

 和枝は肯いた。「もう早苗も五年生だし。退屈だから、私もどこかへ働きに出ようかって思ってたの」

 私は、和枝の穏やかな顔に浮かぶ疲れと、そしてやさしさに、今初めて気付いたような気がした。

 私は、和枝を抱きしめた。

「あなた。——手が真白で——背広につくわよ」

「わーい」

 と、後ろで声がして、私はびっくりして振り返った。

 早苗がニコニコ笑っている。

「ママにキスしたの?」

「こら! あっちに行ってろ!」

「はあい」

 早苗がスキップして行ってしまうと、私は和枝と顔を見合せ、一緒に笑った。

「——ケーキも作るわ」

「そうか」

 私は和枝の額にそっと唇をつけた。「最高の誕生日だ」

 和枝が頬を染めた。それから、

「油が、熱くなりすぎちゃう!」

 と叫んで、台所へと飛んで行ったのだった……。

 自習時間

     1

「チェッ、また赤信号だ!」

 息を弾ませながら、雄一は思わず舌打ちした。

 こんなときに限って、やたら赤信号に出くわすんだからな、全く。

 しかし、河田雄一は、いつもきちんと信号を守らなきゃならないと考えているわけではない。ごく普通の中学二年生の少年らしく、赤信号だって、車が通ってなかったら——そして警官か先生が近くにいなかったら——遠慮なく横断歩道を駆けて渡ってしまう。

 運動神経には自信があった。勉強の方には——あまりなかったけど。

 しかし、いくら足の早い雄一だって、朝の、この国道だけは渡る気になれない。何しろ、十トンクラスのダンプカーが、次から次へと、よくまあこんなに沢山、世の中にはトラックがあるもんだ、と呆れてしまうくらい、重い土砂を満載して走って行く。

 目の前をダンプカーが駆け抜ける度に、足下の大地が震動する。だから、朝はひっきりなしに揺れていることになるのだ。

 今、大地震が来たって、きっとしばらくは分んないだろうな、と雄一は思った。

 しかも、産業優先というわけか、信号は至って長く、一旦赤になるとなかなか変らない。青の方は、急ぎ足で向うへ辿り着くとすぐ点滅を始めるくらいに短いくせに。

 ああ、やっと青だ。

 雄一は、やはり苛々しながら待っていた大人たちから一人飛び出して、一気に横断歩道を駆け抜けた。鞄の中じゃ、弁当箱が踊っている。

 でも、いくら今から走ったって、もう遅いのだってことは、雄一にも分っていた。始業時間を、たっぷり十分も過ぎているのだから。

 それでも学校へと雄一が必死で走っているのは、早く授業に出たいから、ではもちろんなくて、急いで駆けて来たというところを、先生に見せなくてはならないからだ。顔を真赤にして、ハアハア息を切らして教室へ入って行けば、皮肉かいやみの一つも言われ、頭をちょっとこづかれるかもしれないが、それで終り——廊下に立ったり、というヤバイことにはならずに済むからである。

 しかし、その手も、あまり度重なると効果がなくなる。そして雄一の場合は、「度重なり」つつあった……。

 でも、ともかく——雄一は校門を駆け抜けて、目の前の校舎へと飛び込んで行ったのである。

 靴箱の所で上ばきにかえていると、

「何だ、雄一、遅刻かよ」

 同じクラスの治郎がやって来る。

「あれ? 何してんだ?」

 雄一は、治郎がサッカーボールを手にしているのを見て言った。一時間目は物理で、サッカーボールとは関係ないはずだ。

「サッカーやるんだよ」

 と、学生服のままで、治郎はポンとサッカーボールをけり上げた。

「一時間目、物理だろ?」

 と、雄一は訊いた。「体育と入れかわったのか?」

 いや、入れかわったって、学生服のままでサッカーをやるわけはない。

「一時間目、自習」

 と、治郎が愉快そうに言った。

「ええ? 本当かよ!」

 雄一はガックリ来た。だったら、こんなに急いで来る必要はなかったのである。

 物理の教師、村木が、雄一の担任でもあったのだ。

「村木先生休みなんて、珍しいなあ」

 雄一が言うと、治郎は首を振って、

「休みじゃないよ」

 と言った。

「じゃあ——」

「何だか臨時の職員会議だってさ。みんな自習らしいぜ」

「へえ」

 珍しいことだ。「何かあったのかな」

「知らねえ。ともかく、こっちは自習で、万歳さ」

「そうと知ってりゃ、こんなに急いで走って来ることなかったな!」

 雄一はフウッと息をついた。

「サッカーやるか?」

「ああ、当り前じゃないか! 鞄置いたら、すぐ行くからな!」

 雄一は、また急に元気になってドタドタと廊下を駆けて行った。

 雄一の学校は、未だに珍しく木造の古びた校舎のままだった。もっとも、ここ一、二年の内には建て替えられる予定になっていたので、雄一たちは、ほとんど最後の生徒たちになるわけである。

 階段を駆け上ると、雄一は、クラスの扉をガラッと開けた。

 教室には誰も残っていなかった。自習といっても、何をやったっていい、ということなのだから、残って真面目に勉強する奴なんかいるわけがない。いや——一人、いた。

 教室へ入ったときには気が付かなかったのだが、雄一が自分の席に鞄を置いて(正確にいうと投げ出して)、さて、早速運動場へ飛び出そう、と思ったとき、

「おはよう、河田君」

 と呼びかけられたのである。

「ワッ!」

 びっくりした雄一は一瞬飛び上った。「——お前かあ。どこにいたんだよ」

「ごめん。びっくりした? 机の下に落し物をしちゃったんで、潜り込んで捜してたの」

 おかしそうに笑っているのは、沢野涼子だった。

 雄一の方は、ちっともおかしくない。

「びっくりさせんなよな。お前、一人で勉強してたのか?」

 雄一がそう訊いたのは、別に深い意味があってのことではない。沢野涼子なら、一人でここに残って勉強していたって、少しもおかしくないからだ。

 沢野涼子は、いつもクラスのトップだった。ライバルといえるほどの子もいないので、涼子がいつも一番というのは、いわば既定の事実みたいなものだ。

 当然、いつも下から数えた方がずっと早いのが既定の事実である雄一にとっては、苦手な相手である。

 といって、別に、涼子はそう「いやな奴」ではなかった。「ガリ勉」でもないし、雄一のように成績の良くない生徒にも、別に軽蔑の目を向けたりはしなかったからだ。

 いや、成績に、あまりの落差さえなかったら、雄一だって涼子に少々惚れたかもしれない。スラリと背も高くて、いかにも爽やかな少女だったのだから。

「私、人を待ってたの」

 と、涼子が机の間を、雄一の方へやって来る。

「へえ。教室で待ち合せか。先生とデートでもすんのか?」

 と、雄一はからかった。「じゃ、俺、サッカーして来よう、っと!」

 ダダッ、と駆け出す雄一へ、

「河田君を待ってたのよ!」

 と、沢野涼子が声をかけた。

 雄一は、さらに二、三歩進んで、足を止めた。

「——俺のこと、待ってたって?」

「そう」

「何だよ、一体? 俺、お前に借金してたっけ?」

「そんなことで待ってたんじゃないわよ」

 と、涼子は、少々ふくれて言った。

「じゃ、何だ? 急がないんだろ? 俺、サッカーして来るからさ」

 雄一は、また駆け出して、教室の戸を開けようとした。

「河田君にとっちゃ、大切なことなんだけどなあ」

 雄一は、戸に手をかけたまま,

「もったいぶんなよ! 何だっていうんだ?」

 と涼子の方を振り返った。

「知りたかったら——」

 と、涼子は、ゆっくりと雄一の方へ歩いて来る。「サッカーは諦めて、この自習時間、私に付き合ってよ」

「ええ?」

「サッカーはいつだってできるでしょ? でも、こんな機会、二度とないんだから」

 雄一は、顔をしかめて、

「何だっていうんだよ?」

「ついて来りゃ分るわ」

「言ってみろよ」

「ついて来なきゃ、分らないの」

 雄一は、諦めて、息をついた。

「分ったよ。——これでどうってことなかったら、ぶっ飛ばしてやるからな」

「どうぞ、どうぞ」

 涼子は、平気なものである。「河田君にだけ、特別に教えてあげるんだからね」

「ありがたくって涙が出るよ」

 と、雄一は言い返した。

「じゃ、行こう」

「どこへ?」

「黙ってついてらっしゃい」

 涼子は、さっさと戸を開けると、廊下へ出て、どんどん歩いて行ってしまう。

 雄一は、あわてて涼子の後を追って行った。

     2

「職員室に何の用だ?」

 と、雄一は言った。

「入りにくい?」

 そりゃまあ、職員室に入るのが大好き、という生徒の方が珍しいに決っている。

 特に雄一のように、大して成績の良くない者には、喜んで足を踏み入れたくなる場所ではない。

「平気さ」

 涼子の手前、雄一は、ちょっと肩をすくめて見せただけだった。

「でも、心配することないわ」

 と、涼子は愉快そうに言った。「今はここ、空っぽよ」

「空っぽ?」

「そう。——ほらね」

 ガラッと、職員室の戸を開ける。——確かに、今、職員室は空っぽだった。

「へえ、どうしたんだろうな」

 と、雄一は中を見回して言った。

 そういえば、治郎の奴が、臨時の職員会議だとか言ってたな。

「何かあったのかな」

「ともかく、入りましょう。突っ立ってたって、仕方ないわ」

「こんな所に入って、どうするんだ?」

 と、雄一は訊いた。

「いいから、戸を閉めて、いらっしゃい」

 涼子が、職員室の奥の方へと歩いて行く。仕方なく、雄一もその後について行った。

「——なあ、何しに来たんだ、こんな所にさ?」

 涼子は、答えずに、奥の大きなキャビネの所まで行くと、鍵のかかった引出しを、トントン、と指で叩いた。

「ここに、何が入ってるか、知ってる?」

 と、雄一の方を見る。

「知らないよ。お前、知ってるのか?」

「うん」

 と、涼子は肯いた。「全員の成績」

「ええ?」

 雄一はドキッとした。「お前、どうしてそんなこと——」

 そう言いかけて、口をつぐんでしまったのは、涼子が、どこやらの机の引出しを開けて、中をかき回し出したからである。

「おい。何やってんだよ。——おい」

 雄一が声をかけても、涼子は返事もせずに引出しの中を探っている。

「確かこの辺に……」

 と、独り言を言っていたが、「——あった、あった」

 と、中から鍵の束を取り出した。

「何するんだ?」

 雄一はキョトンとして、涼子を見ていた。

「このキャビネを開けるのよ」

 これには雄一もびっくりした。

「おい、そんなことして……」

「見たくないの、自分の成績?」

 涼子は、さっさと鍵を開けると、引出しを引いて、中のファイルを探った。

「おい、もし見付かったら……」

 雄一だって、別にそう臆病ではないつもりだが、しかし、いつ先生が入って来るかと、気が気じゃなかった。

「——あ、これだわ」

 涼子の方は、まるで気にもしていない様子である。

「おい、よそうよ」

 と、雄一は言った。「やばいよ、見付かったら」

「大丈夫よ」

「それにさ、俺、そんなに自分の成績、見たくないよ」

 雄一の言葉に、涼子は笑い出してしまった。

「正直ね。それが河田君のいいとこだけど」

「そりゃ、お前くらいの成績なら、見たって楽しいだろうけどな。俺、自分の成績なら、見当ついてるよ」

「そう?」

 涼子は、真顔で言った。「そんなことないと思うわ」

「どうして?」

「見てごらんなさいよ。ともかく」

 涼子が、ファイルの一つから、一枚のカードを抜き出して、雄一に手渡した。

 あまり気は進まなかったけれど、雄一は、それでもいくらかの好奇心もあって、カードを見た。

〈河田雄一〉とある。間違いなく、自分のだ。

 が——見ていく内に、雄一の顔からは、段々血の気がひいて行った。

「——何だよ、これ!」

 思わず、雄一はそう叫んでいた。

「どう?」

 と、涼子が言った。

「こんな——こんなのってあるかよ!——全部、落第点じゃねえか!」

 数学2、物理1、国語2、歴史2、現代社会1……。

 目を疑うような点数。これが十点法での点数なのだから!

 いくら勉強に自信のない雄一だって、落第しないスレスレぐらいの点は、いつも取っていた。

 このところ、突然テストの点が悪くなったということもないはずである。それなのに……。

「こんなひどい話ってあるかよ! どうしてこんな——」

「落ちついて」

 と、涼子は、雄一の肩を叩いた。「何か心当り、ないの?」

「あるわけないだろ!」

 雄一は憤然として、「大体、こんなひどい点、もらういわれ、ないぜ」

「だから気になって教えてあげたのよ」

 と、涼子は言った。

「断固、抗議してやる!」

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