雄一は、すっかり頭に来ていた。
「だめよ。これを見たことを、どう説明するの? それだけでも停学ものよ」
「じゃ、どうしろってんだ?」
「頑張って勉強するのね。これからのテストでいい点取れば、望みはあるわ」
「そんなこと言っても……」
雄一は、ふくれっつらで、「そんなに急にできるようにならねえよ」
「でも、その成績、お家へ持って帰れないでしょ?」
こう言われると辛いのだ。
雄一も、母親のことは大好きだったからである。こんな成績を持って帰ったら、どんなにお袋が嘆くか……。
「参ったなあ! どうすりゃいいんだよ!」
雄一も頭をかかえてしまった。
——涼子は、雄一の成績カードをファイルに戻すと、元の通り、キャビネの引出しへ入れ、鍵をかけた。
「なあ、お前はどうしてこんなこと、知ってるんだ?」
と、雄一は訊いた。
「ちょっと、ね」
と、涼子は曖昧に言った。「さ、行きましょ」
「——どこへ?」
「ついてらっしゃい」
涼子は、職員室を出ると、またさっさと歩き出した。
雄一も並んで歩いていたが、
「——なあ」
と、言い出した。
「何?」
「どこか——塾にでも行った方がいいのかな、俺?」
涼子は、ちょっと雄一の顔を見て、
「そんなこと必要ないわ」
と言った。
「だけど、あれじゃ——」
「教科書を最初からキチンとやり直すのよ。分らない所を何度もくり返して。そうすれば——東大へ入れるとは言わないけど、誰にだって分るようになるわ」
「そうかなあ……」
雄一は、心もとなげであった。
「こっちよ」
と、涼子が曲って行く。
「——今度はどこへ行くんだ?」
「ついてらっしゃい」
涼子は、行く場所を、ちゃんと心得ているようだった。
「——何だ、ここ?」
と、雄一は言った。
「しっ! 大きな声を出さないで」
妙な場所だった。——いうなれば、物置なのだ。
狭苦しくて、やたらガラクタがつめ込んである。
「こっちよ」
涼子は、その物置の奥の方へと入って行った。
「——何してんだ?」
「ほら。この机の上に上って」
ちょっとガタの来た机が、壁際に置いてある。
「どうすんだよ?」
「上の方に、隙間があるでしょ。板が割れてる所」
この校舎、前述の如く、ボロなので、廊下もいくつか穴があいている。壁にもこうして割れ目があるのだ。
「あれが?」
「隣の部屋が覗けるの」
「へえ」
雄一は目をパチクリさせて、「女子の更衣室なのか?」
「馬鹿」
涼子は、雄一の横腹を肘でついた。
「いてて……」
「職員会議の最中よ。話を聞いてごらんなさい」
「隣で?」
雄一は、机の上に、そっと上った。——なるほど、会議か何かをしているらしい声が、耳に入って来る。
雄一は、少し伸び上って、割れ目から覗いて見た。
3
「——これしか方法はないと思いますね」
と、誰かが発言を終えた。
——会議室のかなりの部分が、雄一の目に入った。
もちろん、知った顔ばかりが並んでいる。しかし、どうやら、あまり楽しい会議ではないようだった。
重苦しい様子で、誰もが腕組みをしたりして、考え込んでしまっている。
「——ともかく」
と、口を開いたのは、校長だった。「十五歳というのは、もう子供とはいえない。自分のしたことの責任は取れる年齢ですよ」
「しかし法律上は大人ではありません」
と、一人が言った。「体が大きいというだけで、大人扱いしてはいけないと思いますが——」
「それは分ってるよ」
と、他の一人が受けて、「しかし、何でも社会のせい、では、少し甘やかし過ぎじゃないのかな」
「我々の責任もある」
「もちろん、そりゃ分ってるが……」
「実際に、下校した後の、生徒一人一人の行動まで、こっちはつかめませんよ」
「そうそう。教師の方も人間だ。毎晩パトロールに出ていたら、こっちの生活がおびやかされる」
「大体、それは警察の仕事でしょう。我々が——」
方々から話が飛び交って、何だか分らなくなって来た。
「ちょっと——ちょっと待って下さい!」
と、女性教師が甲高い声で、議論をストップさせた。「話がこの事件からどんどん離れてしまっていますわ」
「同感です」
と、校長が言った。「差し当りは、この問題を起した生徒のことに絞りましょう」
——一体、何があったんだろう?
雄一は首をひねった。
こんなにもめるくらいだ。相当な事件だと思うのだが、そんな噂も耳に入っていない。
「一つ、申し上げたいんです」
と、女性教師が言った。「私たち、この生徒のことばかり話していますけど、忘れてはいけないのは、被害者になった女の子のことです」
「しかし——」
「確かに、うちの生徒ではありませんわ。でも、私も娘を持つ母親として、考えずにはいられません。中学一年生ですよ。——男の子に乱暴されて、その記憶は一生消えないでしょう。もし、うちの娘が被害にあったら、たとえ相手が中学生でも、私は許しません」
——誰もが、口をつぐんでいた。
こいつは大変だ。雄一もツバを呑み込んだ。うちの学校の誰かが、女の子に乱暴した!
大事件だぞ、こいつは!
「しかしねえ、中学三年生を、一度の間違いだけで——」
「間違いで済むことではありませんわ」
と、女性教師が言い返す。
「その女の子にも未来がある。しかし、彼の方にも未来があるんですよ」
「彼の未来のためにも、罪の大きさを、よく自覚させるべきです!」
「まあ、ちょっと——」
校長が手を上げて、止めた。「今、問題の生徒の母親が、この外に来ているそうです。ぜひ話をしたい、と言っているようですが……。どうしますか」
「聞かない方がいいと思いますわ」
と、女性教師。「同情で判断を狂わせては——」
「いいじゃありませんか」
と、他の教師が苦笑した。「こっちはそう甘くありませんよ」
「まあ話ぐらいはねえ」
——全体的に、いいだろう、という空気になっていた。
「じゃ、中へ入ってもらいましょうか」
校長はそう言って、隣の主事に向って、肯いて見せた。
主事が会議室を出て行くと、すぐにまた顔を出した。
「さあ。——どうぞ」
と、主事が促して、その母親が、おずおずと会議室へ入って来た……。
雄一は、唖然として、声も出なかった。
それは、雄一の母だった!
そんな馬鹿な! 俺が何したっていうんだ! どうして母さんがこんな所へ引張り出されるんだ!
雄一の母は、二、三歩、よろけるような足取りで、中へ入って来ると、いきなり、その場に座り込んだ。そして、
「申し訳ありません!」
と、絞り出すような叫び声を上げると、床へ頭をこすりつけんばかりにして、泣き出したのである。
母さん——よせ! 俺は何もしてないじゃないか! やめろ!
「母さん! 立ってくれ!」
我知らず、雄一は叫んだ。そして、そのとたん、足下の机がゆらいで、雄一は転げ落ちていた。
後はもう——何が何だか分らない。
夢中で、教室へ駆け戻った。
「——早く座れ」
教壇に、担任の教師がいた。
クラスの連中は、ちゃんと席についている。
訳が分らないままに、雄一は、自分の席に座った。
「みんな揃ったな」
と、教師が言った。「——みんなに悲しい知らせがある」
教室の中が、ふと緊張した。
「沢野涼子君が、今朝、登校途中、ダンプカーにはねられた。即死だった」
ええっ、という声にならない声が、教室に満ちた。
そんな!——雄一は、すんでのところで、笑い出してしまいそうだった。
今、俺は一緒だったんだ。ちゃんと話もして、現にあいつはいつもの席に——。
沢野涼子の席は、空いていた。
「——学校としても、あの国道に歩道橋を作ってほしいと何度も要望を出していたのだが、結局、間に合わず、こんなことになってしまった。残念だ」
と、教師が目を伏せた。
クラス中の女の子が、泣き出した。
雄一は、ゆっくりと涼子の席から目を戻した。
——あの成績。あの会議。あれは幻だったのか?
雄一は、ハッとした。——中学三年生。十五歳。
あの会議で言っていたのは……一年後のことだ。
あれが一年後の俺の成績、俺のしでかすことなのか?
「——涼子」
と、雄一は呟いた。
お前は、俺に、このまま行ったらどうなるか、教えてくれたのか?
どんどんだめになり、グレて、非行に走ることになる、って……。
涼子、お前は……。
雄一は、もう一度、涼子の席の方へ目をやった。
「——沢野君は、真面目で、いい生徒だった」
と、教師が言っていた。「今朝も、ちゃんと信号を守って、横断歩道を渡っていた。日直なので、早く出て来ていたんだ。トラックの運転手は、寝不足で、居眠り運転だったらしい。全くブレーキをかけずに、沢野君をはねてしまった。——この悲劇を、二度とくり返してはいけない。沢野君の死をむだにしないためにも——」
教師は言葉を切った。
女の子たちも泣きやんだ。そして、机に突っ伏して、一人、泣きじゃくっている雄一を、当惑したような顔で、眺めているのだった……。
優しい札入れ
1
俺だって……。
田代光明は、いかにも面倒くさそうに彼の上衣をハンガーにかけている妻の背中を見ながら、思った。——俺だって、お前が思っているよりは、いい男なんだぞ。
もちろん、田代も自分がそれほどいい男じゃないことぐらい、承知していた。何といったって、もう三十八歳なのだし、少し頭も薄くなりかけている。
腹は出ていないが、これは二年前に胃をやられてやせたのが、それきり戻らなくなったのだった。
まあ、見た目じゃ「二枚目」とは言えまい。
しかし、毎日の仕事ぶりを見ている、会社の女の子の中には、田代のように真面目で、そうパッとは目立たないが、着実な業績を上げるタイプの男に目をひかれる者だってあるのだ。
ただ——田代の方が、若い女の子を誘ったりしない、というだけのことだった……。
もし、俺にだって、その気があったら。——そうだとも。
「あら、どうしたの、これ?」
妻の和世が、田代の上衣のポケットから、真新しい札入れを取り出して、言った。
田代は、何となくムッとした。
「おい、勝手にポケットの中をかき回すなよ」
「かき回してなんかいないわ。仁子のピアノの月謝に、五千円札ないかと思って、見たかっただけよ。この札入れ、どうしたの?」
「もらったんだ」
「そうでしょうね。買うわけないし。——これ、結構高いわよ」
畜生! おい、頼むから、そういじくり回さないでくれよ!
「誰にもらったの?」
和世の質問は、もちろん、純然たる好奇心から来たもので、少しも「怪しむ」様子はなかった。
「会社でさ。——昼休みに、送別会を兼ねて、ちょっとパーティがあったんだ。その景品だよ」
「へえ。得したわね。あなたの、ずいぶん古くなってたじゃない」
ずいぶんどころか! もう崩壊寸前という状態だったのだ。
「——おい、飯にしてくれよ」
「あ、はいはい」
和世は、札入れから五千円札を抜いた。
「おい——」
「明日、返すわよ」
和世は、子供部屋の方へさっさと行ってしまった。「仁子。これ、明日のピアノの月謝ね」
「はあい」
田代は、肩をすくめた。——ああやって持って行くと、返って来たためしがない。
いや、和世だって、悪気があるわけじゃないのだ。
ただ、一晩寝ると、前日のことはケロッと忘れているという、誠に得な性格をしているのである。
そののんびり屋のところは、すっかり肉のついた体形にもよく出ている。——結婚したころは、もう少し細かった腰の辺りも、今は……。
まあ、グチを言っても始まるまい。和世は和世で、その呑気さは、時には苛立ちの原因にもなるが、安月給の貧乏暮しでも、文句一つ言わずにやりくりしているのは、ありがたいと思うべきだろうから。
「はい、お待ち遠さま」
と、和世がご飯をよそってくれる。
料理の腕も、和世はなかなかのものだ。
彼女——そうだ、彼女の手料理も、おいしかった。食べたのは、たった一度だったけれど……。
「また赤字だわ。いやねえ」
と、和世がテーブルについて、ため息をつく。「ボーナスもらって、一か月しかたたないのに。もう全然残ってないのよ。本当にどこへ消えちゃうんだろ」
それはこっちのセリフだぞ、と田代は内心、呟いた。
俺の場合は、財布の中の小づかいが、ちょくちょくお前の財布へ移動してるんだけどな……。
和世が新聞を広げて読み始めたので、田代はホッとした。
和世の日課ともいうべき、近所の「今日の出来事」に、耳を傾ける必要がないからである。
実際、和世は当然のことながら、ご近所の一人一人までよく知っているが、田代の方は両隣の顔さえさだかでない。
知りもしない人間の噂話を面白がって聞くというのは、容易なことではないのだ。
しかし……。
もう、今日限りで彼女に会うこともない。
そう思うと、田代はホッとしたような、がっかりしたような、いとも複雑な気持になる。
もちろん、彼女だって、田代が妻子持ちで、別れるつもりのないことも、初めから承知していた。
田代も、だから決して無責任に彼女に甘えて、傷つけないように、気をつかったつもりだった。
浮気、とも呼べないような、それは可愛いプラトニックな付合いのままだったのだ……。
あの札入れ。——田代は、あれを差し出した時、永田牧子の目に、光るものがあるのに気付いていた。
「——色々、ありがとうございました」
永田牧子は、昼休み、ビルの屋上に出た時、そう言って、頭を下げた。
「おい、やめてくれよ。僕の方こそ、君とおしゃべりしてると、若返るような気がして、本当に楽しかったよ」
と、田代は、心から言った。「——結婚するんだって?」
「ええ……」
永田牧子は、少しうつむき加減に、「田代さんの奥さんになれるわけじゃなし、と諦めたんです」
口調はふざけ半分だが、声音は少し震えていた。
「君はきっといい奥さんになるよ」
「ありがとう」
牧子は、小柄で、色白だった。東北から一人で上京して来てアパート暮し。二年前から、やいのやいのと親からは縁談のつるべうちだったらしい。
いくら田代のことが好きでも、どうせ結ばれることはないのだ。親に逆らうのにも疲れて、故郷へ帰って嫁ぐというのも、やむを得ない成り行きではあったろう。
「あの——これを」
と、牧子はただの白い紙に包んだものを差し出した。「もしよろしかったら、使って下さい」
「何だい?」
「札入れです」
「そんなことしてもらっちゃ……」
と、言いかけたが、これを断るのは、却って彼女には可哀そうだ、と思い直した。「ありがとう。じゃ、使わせてもらうよ」
「ええ、ぜひ」
牧子はホッとしたように言った。「私が作ったんです」
「君が?」
取り出して、田代はびっくりした。
「少し革細工なんかやっていたものですから……」
「立派なもんだね! いや、ありがとう」
レストランや喫茶店での支払いの時に、あのボロボロの札入れを、牧子が目に止めていたのだと思うと、田代は、ちょっと赤面した。
「中身の方が問題だけどね」
田代は、冗談めかして笑った。——同僚の目につかないように、あえてリボンをかけなかった牧子の気持が、胸にしみた。
「私——」
と、牧子が何か言いかけた時、誰かが屋上に上って来る気配がした。「じゃ、お先に」
牧子は、急いで戻って行ってしまった。
あの時、牧子は何を言いかけたのだろう?
結局、田代は牧子と二人きりで話す機会を、もう持てなかったのだった……。
「——そうだわ」
と、突然和世が大きな声で言い出したので、田代は現実に引き戻された。「ねえ、あなた。今日、お向いの菅原さんのおばあちゃん、いるでしょ、あの人がね——」
「うん。どうしたんだ?」
田代は、まるで思い出すこともできない「菅原さんちのおばあちゃん」の話に、耳を傾けた。
2
こんなこともあるんだ。
田代は、憂鬱な思いで、名前を呼ばれるのを待っていた。
薬局では痛み止めの薬ももらっている。いくら取られるか、見当がつかなかった。
うんざりするような、蒸し暑い日だった。外の得意先回りを半分ほど済ませたところで、突然歯が痛み出したのである。
ちょうどお昼だったので、手近な薬局で痛み止めの売薬を買って服んだが、一向に痛みはおさまらない。
あまり効くようでは、車に乗っているから、危険でもあったのだが、ともかく、差し当りは何とか痛みを鎮めないと、とても回ってはいられない。
何とか辛抱して一軒だけ出向いたものの、何しろ痛さで冷汗をかくほどなので、仕事の話どころではない。——結局、諦めてその先のお得意には電話を入れておき、目についた歯医者へ飛び込んだ。
炎症を起していた歯の神経を殺してもらい、やっと痛みはおさまったが、待合室へ戻ってホッと一息ついている間に、ふと不安になったのが財布の中身だ。
悪いことに、明日が月給日と来ている。あの、永田牧子にもらった札入れを取り出して中を覗いたが、四千円しか入っていない。——これで足りるだろうか?
畜生、本当ならあと五千円入っているはずなのに……。やっぱり、和世は、仁子のピアノの月謝に、と抜いた五千円を返さなかったのである。
しょうがない。事情を説明して、明日にでも払いに来よう。
「田代さん」
と、呼ばれて、急いで窓口へ行く。
「——保険証は?」
「仕事の途中で、突然痛み出したものですから」
と、田代は、まだ麻酔が効いて、少しもつれる舌で、苦労しながらしゃべった。
「そうですか。——七千六百円になりますが」
「はあ。実は——」
手にした札入れを、田代は無意識に探っていた。「ちょうど持ち合せが——」
手が、ふと真新しい感じの札に触れた。
目をやると、何と一万円札である。
「どうかなさいまして?」
「あ、いえ——七千六百円ですね」
田代はあわてて一万円札を取り出した。
しかし——おかしいな。ついさっき覗いた時も気が付かなかったが……。だが、それは間違いなく本物の一万円札で、ちゃんとおつりももらった。
たまにはこんなこともあっていいか。
文句をつける筋合のものでは、全くなかった。
「あなた、ごめんなさいね」
和世の言葉は、TVのプロ野球中継を見ていた田代の耳に、辛うじて引っかかった。
「何のことだ?」
田代はTVから目を離さずに言った。
「お財布よ」
「——財布がどうしたって?」
ピッチャー交代だった。田代は和世の方を見た。
「忘れてたの、すっかり。今日、あなた、夏の社員旅行の費用を払うんだって言ってたでしょ」
「ああ」
「じゃ、困ったでしょう。ゆうべ私、ついうっかりしてあなたの札入れから、一万円、抜いちゃったのよ」
「何だって?」
思わず田代は訊き返していた。
「あれ、今日払う分だったんでしょ?」
田代は、ちょっとポカンとしていたが、
「あ、ああ。——あれか。支払いはまだ、後でも良くなったんだ」
「え? そうなの。じゃ、良かった! あなた、恥かいたんじゃないかと思って、心配だったのよ」
和世は自分の財布を持って来ると、
「じゃ、忘れない内に、渡しておくわね」
「うん……」
田代は、その一万円札を受け取ると、席を立って、寝室へ行った。
洋服ダンスの中の上衣のポケットから、あの札入れを取り出す。中身は——六千円。
しかし、今日、確かに田代は、旅行の費用として一万円を払ったのだ。
どういうことだろう? 和世が何か勘違いしているのか?
その一万円札を札入れに入れようとして、田代は少しためらった。きっと和世は一万円を抜いたと「思い込んで」いるのだ。
もちろん、そうなるとこれは儲けものということになる。しかし……。
結局、和世がやりくりで苦労することになるのだと思うと、うまくやった、と自分のものにしてしまうのもためらわれた。——田代は、実際、真面目な男なのである。
ただ、素直に返すのも何となく面白くなくて……。ま、これまでに和世が抜いたきりで返し忘れた分を合せたら、一万円どころじゃなくなるのだし。
あれこれ迷った挙句、その一万円札を札入れに入れることにしたのは、野球中継が早く見たかったからだった。
なに、むだにつかわないようにして、何かの時に和世へ渡してやりゃ同じことなんだから。——再びTVに見入りながら、田代は自分へそう言い聞かせた。
どうして俺がこんな目に遭うんだ?
田代は、下腹を殴られて、目の前が真暗になり、冷たい歩道に倒れながら、思った。どうして俺が——。
「おい、目はさめたのかよ」
と、レスラーのような体格の男が、田代の脇腹を、靴の先でけった。
とても、喧嘩して勝てる相手ではなかった。
もともと、田代は、喧嘩などできる男ではなかったのである。
「勘弁……してくれ」
そう言うのが、やっとだった。
「おい、謝って勘定をまけてた日にゃ、こっちは商売にならねえんだよ。分らねえのか」
田代は震え上った。
また殴られたら、死んでしまうかもしれない、と思った。
——暴力バー。
そんな店があるということは知っていた。しかし、まさか……。
よそで軽く飲んで通りかかった店だった。
ちょうど客を送り出したホステスが、感じよく誘ったので、じゃ、軽く一杯、と入ったのだ(後でその客も仲間だと分ったが)。
水割りを二杯、ホステスもビールを取った。それで十五万!
とんでもない話だった。ボーナスが出て、多少は札入れもふくらんでいたが、それでも五万円もない。
そう言うと、相手の態度がガラッと変った。
店の裏へ引きずり出され、二、三発殴られた。——もとより逆らう気力など、まるでない。
「札入れを出しな」
と、男が指を鳴らす。
田代は、痛む右手で、札入れを抜き出した。
ひったくるように取り上げて、男は中から札を抜き出した。
「何だ。——ずいぶん持ってるじゃねえか」
男は数えると、「こりゃ偶然だ。十五万、ぴったり入ってるぜ」
田代は、わけが分らず、男を見上げた。
「——持ってるなら、初めっから払やいいんだ。こんな痛い目を見て、馬鹿な奴だぜ」
男はフンと笑って、「帰してやるぜ。——いいな、警察なんかへ駆け込んだってむだだぜ」
ポン、と札入れを田代へ投げて、男は店の中へ入って行く。
まさか……。そんな馬鹿な!
田代は、その札入れを手に取った。十五万も? そんなわけがない!
「いてて……」
まだ下腹が鈍く痛んだ。——田代は、よろけながら、歩き出した。
——帰宅した田代を見て、和世が仰天したのは当り前のことだ。
「もうやめてよ、知らないお店に入ったりするのは」
和世に言われるまでもなく、田代だってこりごりだ。
しかし、風呂へ入り、打ち傷やすり傷の手当をして、少し落ちついて来ると、田代はあの札入れのことを考えていた。
これは偶然ではない。歯医者の時の一万円、社員旅行の旅費を払った時の一万円、そして今日の十五万円……。
入っているはずのない金だ。それがあの札入れの中にある。
しかも、とっさに必要になって、困ると、その金額が入っているというのは……。あの札入れが足しておいてくれるのだ。
もちろん、そんなことがあるわけはないと否定するのも簡単だ。しかし、一万円ぐらいなら、勘違いということもあるだろうが、五万円が実は十五万だったなんて。——そんなことがあるわけはない。
永田牧子が作ってくれたあの札入れ。
あれに、何か秘密があるのだ。
「あなた」
和世が、いやに真面目な顔をして座った。
「——うん?」
「今の話、嘘なのね」
「どうして?」
田代は面食らった。「こんなひどい目にあったのが、嘘だっていうのか?」
「何か、他にわけがあったんでしょう」
「どうしてそんなことを——」
和世がポンと田代の前に、あの札入れを投げ出した。田代は、和世を見て、
「これが何だっていうんだ?」
「ずいぶん親切なヤクザだったのね」
「親切?」
「ちゃんと中に五万円も残しといてくれるなんて!」
和世は、そう言い捨てると、プイと立って行ってしまった。
田代は、札入れを手に取って、中をあらためてみた。——五万円、入っている。
あの子が、永田牧子が、足しておいてくれたのだ……。
3
やっと捜し当てた。
田代は、〈佐々木〉という表札の出た、ごくありふれた木造の家の前に立って、ホッと息をついた。
そう。——ここでいいはずだ。
小さな町だから、というので、人に訊かずに捜そうと思ったのが間違いだった。
捜し歩いてもう二時間。そろそろ陽が傾きかけている。
田代は、ちょっとためらってから、その家の玄関のチャイムを鳴らした。待つほどもなく、
「はい。——どちら様ですか」
と、格子戸の奥から、聞き憶えのある声がした。
田代が名乗ったものの、向うは分っていなかったらしい。戸が開いて、牧子の目が大きく見開かれた。
「まあ、田代さん!」
「やあ……」
「こんな所まで……。どうしてまた……。いえ、それより、どうぞ。お上り下さい」
「じゃ、ちょっと失礼」
田代は、奥へ通された。——土地も安いのだろう。広さは、東京なら「屋敷」と呼べるくらい、ある。
「——驚きましたわ。田代さんが、こんな田舎町に。お仕事ですの?」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
田代は、言い淀んだ。「実は——君に話があってね」
「私に? 何でしょうか」
畳の上に、牧子は正座した。
「ご主人は?」
「まだ戻りません。いつもたいてい、夜十時ごろ、帰ります」
「そう……。忙しいんだね」
「いいえ。お酒ですわ。大好きなものですから」
と、牧子は微笑んだ。「で、田代さんのご用って……」
「これだ」
田代は、牧子の前に、あの札入れを置いた。
「私がさし上げた……」
「うん。——とてもありがたいんだがね。返しに来た」
「田代さん……」
「僕にも分っている。これは特別な——いや、そんな言葉じゃ不充分だが、ともかく普通の札入れじゃない」
田代は、牧子の目を見ないようにして、言った。「だから、君に返そうと思った。捨てるだけじゃ、君に申し訳ないと思ったんだよ」
「そうですか」
牧子は、あまり表情のない声で言った。「私、ただ少しでも田代さんのお役に立てればと思って——」
「うん。確かにね、役には立ってくれたんだよ。何度も助かった。しかし……。家内が、疑い始めたんだ。僕が嘘をついてる、と。——僕とほとんど口もきかなくなって、このままじゃ、家庭はめちゃくちゃになってしまう」
牧子は、うなだれた。
「そんなこと……考えもしませんでした」
「いや——本当に不思議な話だからね。家内に言っても、信じちゃくれないだろうし」
田代は、札入れを牧子の方へ少し押しやった。「申し訳ないが、これは返すよ。受け取ってくれないか」
牧子は、体中で、切ないため息をついた。聞いている田代の方が、たまらなくなるようなため息だった。
「すまないね。君のせっかくの気持を」
と、田代は言った。
「いいえ。——私の方こそ、ご迷惑をかけてしまって、すみません」
と、牧子は頭を下げた。「でも信じて下さい。決して、田代さんのご家庭を壊すつもりなどなかったんですから」
「うん、もちろん分ってる。君のことは、よく知ってるからね」
田代は、腰を浮かした。
「もうお帰りですか」
「うん。急いで東京へ戻らないと、家内がまた心配するからね」
「じゃ、お引き止めいたしません」
——玄関まで送って来て、牧子は、もう一度、深々と頭を下げ、
「どうぞ、奥様を大事になさって下さい」
と、言った。
牧子の家を出て、少し歩いたところだった。
「ちょっと」
と、田代は、六十ぐらいと思える老女に声をかけられた。
「はあ?」
「今、あんた、あの〈佐々木〉って家から出て来たのかね」
「そうですが。——どうかしましたか、それが?」
「あんた、何の用であの家に?」
「個人的な用です。先を急ぐので」
と、歩きかけると、
「個人的な用事で空家に入ったのかね」
「空家?——とんでもない、ちゃんと人が住んでますよ」
「誰に会ったんだね」
「奥さんですよ。もう本当に急がないと——」
「あそこの奥さん?」
「ええ、そうですよ」
「牧子さん、とかいう人だろう?」
「ええ」
「その人なら、つい先だって、死んだんだよ」
田代は、つい笑ってしまった。
「今、会って来たんですよ。死んでるわけがない。——失礼しますよ。ともかく」
「振り返って見てごらん。あの家を」
「あの家がどうしたっていうんです?」
田代は言われるままに振り返って——目を疑った。
上り込んで、牧子と話したあの家は、明りも消え、窓ガラスがあちこち割れたままになっていたのだ。
こんなことってあるのか? たった今、牧子と別れて来たばかりなのに!
「——噂はあったんだよ」
と、その老女が言った。
「噂?」
「幽霊が出るってね。自殺した奥さんの」
田代は、青ざめた。
「自殺したって?」
「そう。旦那さんとうまく行かなくてね」
「自殺……。しかし、どうしてそんなことになっちまったんです?」
「何でも、奥さんがちょくちょく使いみちの分らん金を使ったせいらしいよ。旦那が細かい人でね。——男でもいるんじゃないかと疑って、このご近所も、そんな目で奥さんを見たんだよ。誰も奥さんと口をきかなくなり……。その内、奥さんはノイローゼになってね」
「それで……」
「そう。それで自殺。——もう一か月くらいたつかね」
使いみちの分らない金……。
では——では、俺のあの札入れに突然現われていた札は、牧子の財布から消えていたのだろう……。
それが原因で、牧子は死んだのだ。
田代は、半ば呆然として、あの家へ戻ってみた。もちろん、もう中には誰の姿もなく、あの札入れも消えていた。
しばし、田代はその家をながめ、動かなかった……。
「それ、新品か」
と、田代は訊いた。
台所で、買って来たものをしまっている和世を田代は眺めていて、テーブルにあった真新しい財布を手に取ったのだ。
「そうよ」
と、和世は言った。「もらい物なの。でもついてる財布なのよ」
「何が?」
「今日スーパーで買物して、いざ支払いとなったら、予算オーバーしちゃってね。でも念のために財布の中を見たら、一万円札が一枚、入ってたの! 思ってたより余分にね」
「そうか」
「この財布持ってると、きっといいこと、あるんだわ」