和世は、そう言って笑った。
——田代は、ふと思った。
誰か、男が、和世にあの財布を贈ったのではないか。そして、その財布が——。
あの札入れを返さなきゃ良かった、と田代は思った。
愛しい友へ……
1
始業のベルが鳴ると、折原和子はハッとして顔を上げた。
授業だわ。——行かなくては。
椅子をガタつかせて、立ち上ると、折原和子は職員室の中を見回した。ベルを聞いても、一向に立ち上ろうとしない先生もいる。
あわてて行くこともないさ、と言いたげに、新聞を広げて読んでいる者も。
しかし、和子は、そんな先生たちに、苦情を言う気にはなれなかった。単に同僚だから、という立場で気をつかっているのではない。自分もまた、こうして立ち上り、教室へと足を運ぶのに、大変な努力が必要だからだ。
和子は出席簿をかかえると、職員室を出た。立てつけが悪くなっていて、戸がうまく開かない。でも、もう誰も修理しようともしないだろう。
廊下を歩いて行くと、古い床板があちこちできしんだ。——今どき、どこを捜したって見当らないような木造校舎である。
折原和子は二十八歳。大学を出て、すぐにこの学校へ、英語の教師としてやって来た。
だから、和子が来た時から、もうこの校舎は「時代もの」だったわけで、モダンな造りのキャンパスで学んでいた和子は面食らったものだが、しかし、和子はこの木造校舎が気に入っていた。コンクリートの、固い壁の中とは違ったぬくもりが、この板で包まれた空間には、あったのである。
各教室から洩れて来る、元気のいい生徒たちのおしゃべりやら追いかけっこのドタバタという足音に混って、この床板のきしむ音も、何とも調子外れな伴奏のように耳に響いたものだ。時には、生徒が飛びはねた拍子に、床板が抜けてしまうことさえあった……。
でも——今は——。
何て、静かなこと……。廊下には、和子自身の足音だけが、いやに大きく響いている。
各教室からは、かすかに話し声も聞こえては来るが、誰しもが押えた声で、重苦しいため息ばかりをついているかのようだった。
重苦しいことは、和子の足取りも同じだ。教室へ入って行くのが、怖いようだった。
でも——やめるわけにはいかないのだ。生徒が一人でもいる限り、私はここの教師なのだから。
和子は、自分が教えるクラスの扉の前に来て足を止めると、大きく一つ深呼吸をして、精一杯笑顔を作り、扉をガラッと開けた。
「——おはよう!」
と、明るい声で言って、「どう? みんな元気?」
教壇に上って、教室の中を見渡す。
「はい、ちゃんとけじめをつけましょうね」
ガタガタと椅子が鳴って、みんなが立ち上る。
「おはようございます」
みんな、精一杯、元気な声を出しているのだ。でも——たった十一人しかいないのでは、限度がある。
「はい、座って。——この前はチャプター8の真中で終ったのね」
和子は、教科書を開いてから、「そうだわ、誰か欠席はいる?」
「いません」
と、一人が答えた。
そう。——訊くまでもない。一人でも欠けていれば、すぐに分るのだから。
「じゃ……野口さん、この前の続きを読んで」
と、和子は言った……。
たった半年。——半年の間に、三十六人いたクラスの、三分の二がいなくなってしまったのだ。まるで、今でも悪い夢を見ているようだった。
しかし、夢でも何でもない。この町を襲った、突然の「災難」は。
この小さな田舎町は、三十年来、ある大企業の工場で成り立っていた。町の住人の内、半分以上が、その工場か、その下請けの企業で働き、残りの町民もまた、その労働者のためのサービス業や、商店で生活していた。
いわゆる「企業城下町」というわけである。
六年前、和子がこの高校へやって来た時には、まだ町は充分に活気があり、この高校の卒業生も、大部分がこの町の工場に就職するのが通例であった。父と息子、二代にわたって、工場で働く者も少なくなかったし、女子も、工員としてかなりの数が働いていた。
町を出る者は少なく、この高校で、仲の良かった男の子と女の子が、工場で何年か共働きした後、結婚するというケースがいくつもあって、生徒たちはそれを、「定期バス」と呼んでいた。
「あの二人、〈定期バス〉ね」
という具合に。
町の暮しは、東京から来た和子などから見れば、変化や刺激に乏しくて、退屈だったが、それも慣れれば、ある穏やかな満足感につながっている。人々は「若い先生」に親切で、一度風邪で寝込んだ時など、生徒の母親たちが交替で食事を作りに来てくれたものだ。
和子はこの町が好きだった。いつまでも、都会の毒に染らないでいてほしい、と願っていた。
それが——突然の「工場閉鎖」。
大企業にとっては、人件費を削ることが何よりの節約なのだ。東南アジアに、安い労働力による工場を作って、この町の工場を閉鎖する。
その計画は、町の誰にも知らされていなかった。——突然の通告。三段階での解雇。
そして、再就職の口は少なかった。もちろん、この町には、働き口など見付けられない。
町は揺れた。——組合の代表は東京の本社へ抗議に行ったが、部長にも会わせてもらえずに帰って来た……。
工場の完全閉鎖まで、あと二か月。二か月ほど前から、町の人々は、東京や他の都会へ仕事の口を求めて、あるいは遠い親類や知人を頼りに、町を出て行き始めた。
一人が出て行くと、後は雪崩を打つように次々と続いて行く。——当然のことながら、この学校の生徒たちも、親と共に、この町を出て行かなくてはならなかった。
毎日のように送別会が開かれ、その度に生徒たちは泣いた。そして今……もう十一人しか、この教室には残っていない。
出られる人たちはほとんど出てしまって、今は、町の人たちの「流出」も一段落していたが、それは落ちついていることを意味しはしない。むしろ、今残っているのは、どこにも行き場のない人たちであり、二か月の後には、職を失う人たちと、その家族である。
高校生ともなれば、親の置かれた立場も当然分っている。学校全体が、どこか重苦しい空気に包まれているのも、当然のことだったろう。
「——はい、そこまで」
と、折原和子は言った。「誰に訳してもらおうかな。——三屋さん。典子さん、訳せる?」
三屋典子は、教科書を開いてはいたものの、和子の声が全く耳に入らない様子だった。
「典子さん、どうしたの?」
和子が重ねて訊くと、三屋典子はハッと目が覚めたように、
「すみません」
と、頬を染めた。「どこですか、先生?」
和子は別に怒りもしなかった。三屋典子は、至って真面目な生徒である。こんな時に、あれこれ考え込んでしまっていても、むしろ当然というものだろう。
典子は、立ち上って、言われた箇所を訳し始めた。——口調もしっかりしている。
あの古くさい丸ぶちのメガネを、もっと可愛いのにかえたら、もう少し垢抜けて見えるわね、きっと、と和子は思った。
三屋典子は、丸顔で、体つきも全体にふっくらとした、いかにも丈夫そうな女の子である。内気で、クラスの男の子から、よくからかいの的にされるが、何を言われても、おっとりと笑っていて、怒らない。
母親が長く病気で寝込んでいるので、弟と妹をかかえて、家事をしなくてはならない立場だったが、少しもそんな苦労のかげを感じさせなかった。
しかし、今、三屋典子の家は、よそにも増して大変なはずだ。——典子の父親は、閉鎖される工場の組合委員長で、会社との交渉の先頭に立つ身である。
勝目のない闘いの指揮者ほど、辛いものはないだろう。しかも、自分の身のふり方は、他の全員が決ってからでなければ、考えられない。——生活そのものも楽ではあるまいが、おそらく、先行きの不安も小さくはないはずだった……。
「公園には、沢山の——大勢の人が集まって——」
と訳していた三屋典子の言葉が途切れた。
和子は、ゆっくりと机の間を歩きながら、
「——集まって……。何をしてたのかな?」
和子は、三屋典子の方を見た。「典子さん?」
突然、三屋典子がその場に崩れるように倒れた。椅子が引っくり返り、メガネが飛ぶほどの勢いだった。
「典子さん!」
教科書を投げ出して、和子は典子の方へと駆け寄った。
「神田さん、この本、捜して来てくれる?」
クラスで、一緒に図書委員をやっている子に言われて、神田あゆみは、
「はい」
と、すぐにカードを受け取っていた。
「急いでね」
「はい」
神田あゆみは、図書係の席から出て、図書館の奥の書庫へと入って行った。どことなく埃っぽい匂い。本が壁そのもののように立ちはだかっている。
あゆみにはよく分っていた。自分の方へ回されて来るのは、めったに書架から取り出されることのない本ばかりなのだ。
つまり、そういう本を捜し出して、取って来ると、「手が汚れる」ので、みんないやがるのである。だから、
「あの転校生へ回しちゃおうよ」
ということになる。
でも、あゆみは、いやがらずに引き受けていた。転校して来て早々に、図書委員という仕事をやらされて、疲れもしたけれど、それで早くクラスの中に溶け込めるかもしれない、と思ったのだ。
何といっても、あゆみはあの田舎町から、一歩も出たことがなかったのだ。それが突然東京の私立学校へやって来た。つい、過敏なほどに気をつかっても、仕方ない。
「ええと……」
古いカードは、整理法が違っているので、見付けるのに手間どった。「上の棚かしら……」
この私立の女子校は、小学校から大学まであって、図書館も立派である。——前の町で通っていた高校の、教室一つ分もないくらいの図書室しか知らなかったあゆみは、迷子になりそうなほど広いこの図書館に初めて入った時、呆然としてしまったものだ。
あゆみは、スチールの階段を上って行った。——書庫が二階建になっているのだ。
初めの内は、カードを渡されても、どの辺を捜せばいいものやら見当もつかなかった。しかし、一か月たって、週に三回、当番で本の出し入れをしている内に、およその配置や並べ方が頭に入って来ていた。
「ここだ」
あゆみは、天井近くの高い棚に、捜していた本を見付けて、棚に取り付けてあるはしごを引張って来た。
本を取り出し、カードと照し合せる。——間違いない。大丈夫だわ。
はしごを下りて……。あゆみは、棚の間の狭い通路の奥の方に、誰かが立っているのに気付いて、ドキッとした。こんな所に、人がいることなんて、めったにない。
そこは、上の電球が一つ切れてしまって、薄暗くなっていたのだが、立っているのが、やや重たそうなセーラー服の女の子だということが分った。
奇妙だった。この女子校の制服は、可愛いモスグリーンのブレザーとネクタイである。あんな野暮ったい感じのセーラー服を着てる子なんていないのに……。
しかし、もっと驚いたことがある。そのセーラー服に、あゆみは見覚えがあった。似ている。あの町で、あゆみが通っていた高校の制服と、そっくりだ……。
「誰?」
と、あゆみは声をかけていた。
すると——その女の子が静かに明るい方へ進み出て来たのだ。まだあゆみとは大分離れていたが、丸ぶちのメガネをかけた、ふっくらした丸顔、そしてあゆみを見つめている、どこか切なげな眼差し。
「——典子!」
あゆみは、目を疑った。「典子じゃないの!」
三屋典子だ。あの高校で一番あゆみと仲良くしていた子である。
「驚いた! どうしてこんな所に?」
あゆみの問いに、典子は答えず、ちょっと不思議な笑みを浮かべただけだった。
あゆみが近寄ろうとすると、下から、
「神田さん! 急いでね」
と、呼ぶ声がした。
「はい! 今、行きます」
あゆみはそう答えて、「典子、ちょっと待っててね。これ、置いて来るから。ね?」
と、急いで階段を下りる。
本をカウンターへ出し、
「手を洗って来ます」
と、言っておいて、あゆみは、書庫へと駆け戻った。
二階へ上り、
「典子。——典子。どこ?」
息を弾ませて、元の場所へやって来たが、三屋典子の姿は見えなかった。
「典子。——どこにいるの?」
あゆみは、書架の間を覗いて行った。いくら広いといっても、限度があるし、それに、書庫の出入口は一つだけだ。典子がここから出ていないことは確かだった。
しかし——結局、典子の姿はどこにも見当らなかったのである。
2
「わざわざ、ありがとうございました」
三屋典子の母親は、何度も和子に頭を下げた。和子の方が恐縮して、
「どうぞ、起きてらっしゃらないで下さい。どうってことじゃないんですから」
と、押し止めなければ、表まで送りに出て来ただろう。
和子は、典子に、
「じゃ、寝不足にならないように、気を付けてね」
と、声をかけて、典子の家を出た。
典子は、意識を失って、じきに目を覚ましたので、しばらく保健室で横にさせておいたのだが、心配で帰りには和子がついて、送って来たのである。
典子自身は、もうすっかり元気そうだったが……。ただ、いつもの典子と、どこか違っている風で、和子には何となく気にかかった。どこが、どう違うのか、和子にもはっきりは分っていなかったのだが。
——典子の住む社宅を出ると、和子は町の目抜き通りを抜けて、自分のアパートへと歩いて行った。
黄昏時の、かげの中に浸った道を歩いて行くと、町の灯が一つ一つ消えて行く侘しさが、一段と身にしみた。雨戸を閉め、住む人を失った家の何と多いことだろう。そして、人がいなくなった家の、何と荒れ果てるのが早いことか……。
つい、二週間ほど前に町を出て行った一家——和子の教え子の一人だったが——の家は、花が好きで、ベランダや軒先、窓辺に、いつも四季それぞれの鉢植えの花が、色彩豊かに咲いていたものだ。
和子はいつも、その家の前を通るのが楽しみだった。一つ一つの花の開き具合を、町の人たちはみんな毎日確かめていた。
しかし——突然の東京行きに、何十という鉢を持ってはいけない。近所の人たちに配ったりもしたが、もらう方でも、いつまで咲かせておけるか分らないのだ。
結局、半分以上の鉢はそのまま、放置されて、アッという間に枯れてしまった。
今、その軒先や窓辺には、茶色くしなびた死んだ花たちの鉢が並んで、あたかもこの町を象徴しているかのように、和子には見えたのだった。
越して行った東京から、その娘が手紙を寄こしたが、家族五人、狭いアパート住いで、植木鉢一つ、置く場所もありません、と寂しげに書いていた……。
和子は、時折すれ違う人と、無言で会釈を交わしながら、一体、企業というのは何なのだろう、と考えていた。人が企業を作り、動かし、成長させて来たはずなのに、「人」のために、企業は何をしただろう?
親友たちを引き裂き、幼ななじみを北へ南へ追いやって、何の痛みも感じないのが、企業というものなのか……。
重苦しい気分で、和子は自分一人分の夕食のおかずを買い、アパートへと帰った。
アパートへ入って、明りをつけると、電話が鳴り出した。急いで出てみると、
「あ、折原先生?」
と、女の子の声が飛び出して来た。
「ええ。——あ、ちょっと待ってよ」
と、和子は、わざと考え込むふりをして、「ええと……誰かな?」
「どうせ、忘れちゃったんでしょ」
和子は、フフ、と笑って、
「そうね。神田あゆみなんて子がいたような気もするけど」
と、言った。
「あ、憶えててくれた」
「当り前でしょ。どう? 元気でやってるの?」
「はい、やっと学校も慣れて来て」
あゆみは、もともとしっかりした娘だった。
「女子校だったわね、あなたは」
「そうです。あの——先生、ちょっとお話が……」
「なあに? こっちからかけ直そうか」
「いえ、大丈夫です」
と、あゆみは言った。「あの——典子のことなんですけど」
「三屋さん?」
「ええ。典子の家、町を出たんですか」
和子は、ちょっと戸惑った。
「いいえ。ちゃんとみんなまだいるわよ。どうして?」
「今日、典子、学校を休んでませんでしたか?」
「休んではいないわ。ただ——ちょっと授業中に、失神してね」
「え?」
「別に大したことなかったの。今、一応念のために、家まで送って来たのよ。でも、どうして?」
——あゆみはしばらく何も言わなかったが、
「先生……。これ、冗談でも何でもないんです。聞いて」
と、少し重苦しい声で言った。「今日、典子を見たんです」
和子は、座り直した。あゆみは妙な作り話をする子ではない。
しかし、あゆみの話を聞いても、和子は混乱するばかりだった。
「じゃ、確かに、三屋さんだったのね?」
「間違いありません。だって、万一、よく似た子がいたとしても、そっちの制服を着てるはずがないでしょ?」
あゆみの言うことも、もっともだった。しかし——そんなことがあり得るのだろうか。
「私が幻を見たのかもしれませんけど、でも何だか心配なんです。典子の身に何かあったら、と思って」
あゆみと典子は、たぶんあの学校の中でも、姉妹のように仲良くしていたという点で、一番だった。和子は、あゆみが転校して行ってしまうと決った日、典子の目の下に濃いくまができて、おそらく、一睡もしていなかったのだろう、と痛々しい思いで見ていたものだった。
「別にその——典子さんらしい子と、話はしなかったのね」
「ええ、そのひまがなくて」
と、あゆみは言った。「私、こっちへきてから、まだ典子に一回しか手紙も出してないんです。新しい学校で、色々忙しくて——」
「分るわ。でも、典子さん、しっかりやってるから、大丈夫よ」
「今度、手紙出します」
「そうね。そうしてあげて」
「すみません、変な話で」
「いいえ、嬉しかったわ、声が聞けて」
少し間があって、あゆみが言った。
「学校——ずいぶん減ったんですか」
「そうね。あなたのいたクラスは十一人になったわ」
「今いるのが十一人?」
「そう。——来週、島田さんが転校して行くから、十人ね」
「寂しいですね」
「でも、どうにもならないことだし。——あなたたちは、新しい場所で、精一杯やってくれればいいのよ」
「はい」
あゆみは、しっかりした声で答えると、「じゃ、先生……」
切りたくないようでもあったが、長電話をしたら、料金もかさむ。和子は、自分の方から電話を切った。
あゆみの前に現われた、典子とそっくりの女の子。——そんなことが、現実に起るだろうか?
いや、きっと——あゆみも、典子のことを気にしていて、そのせいで、少し似たところのある子を、典子と思ったのだろう。それがたぶん、一番可能性のある説明だ。
「——さて、夕ご飯にしましょ」
和子は自分へ言い聞かせるように、口に出して言うと、まずカーテンを閉め、着替えることにした。
あゆみは、電話を切って、しばらくは受話器に手をのせたままにしていた。
まるで、電話線を伝って、あの町の空気が、風景や物音が、届いて来る、とでもいうように。
先生……。折原和子の声を聞いた時、あゆみは、キュッと胸をしめつけられるような気がした。懐しい。——あの暖かさは、今の「名門校」のどこを捜しても、見当らないものだった……。
居間へ入って、あゆみは驚いた。
「お父さん! 帰ってたの?」
神田吉造は、ソファに背広姿のままで、座り込んでいた。あゆみが入って来たのにも気付かない様子で、ぼんやりと宙を眺めていたが……。
「——誰に電話してたんだ?」
と、ゆっくりあゆみの方へ顔を向けた。
「うん。——折原先生。ほら、あの高校の」
「若い女の先生か」
神田吉造は、無表情な声で、「何の用だ?」
「別に……。ちょっと声が聞きたくなったの」
あゆみは、そう言っておいた。「お母さん、手伝って来る」
台所の方へ行こうとすると、
「あゆみ」
と、神田吉造が言った。「あの町の人に、あんまり連絡するんじゃない」
あゆみは、戸惑った。前にもそう言われたことがある。
「どうして? 友だちだって、まだいるんだし、構わないじゃない」
素直に「はい」と言わないのは、いつものことだ。それに、父がなぜそんなことを言うのか、あゆみには分らなかった。
「いかんと言ってるんだ!」
突然、神田は大声を出した。あゆみは青ざめて、立ちつくしている。
「何なの、大声出して」
と、母の百合子が、台所から飛んで来た。「——あゆみ、何かしたの?」
「どうして私に訊くの?」
あゆみは言い返した。「怒鳴ったのはお父さんよ。お父さんに訊けば?」
あゆみは、居間を飛び出すと、階段を駆け上って行った。
百合子は、少し心配そうに、娘の部屋のある二階の方をうかがって、
「あなた、どうしたの?」
と、訊いた。
「何でもない」
神田は、怒鳴ったことを悔んで、自分に腹を立てているといった様子だ。
「苛々してるのね。——少しお休みでも取ったら?」
神田は黙って首を振った。その額には、かつて百合子が見たことのない、深い、暗い悩みが刻み込まれているようだった。
「あなた——」
「忙しいんだ。少し疲れてるだけさ」
神田は、とても本音とは聞こえない言い方で、「だから早く帰って来ただろう?」
「ええ。ご飯にしますから、すぐ。早くお風呂へ入って寝るといいわ」
「ああ。そうしよう」
神田はソファから立ち上ると、一瞬、ふらっとよろけた。百合子がびっくりして、
「あなた!」
「いや——何でもない」
神田は、頭を振って、「もう若くないんだ。それだけさ」
と、笑って見せ、居間を出た。
二階へ上ると、寝室の方へ行きかけて、足を止め、あゆみの部屋のドアを開けようとして、ためらった。
「あゆみ……」
と、ドア越しに、声をかける。「怒鳴って悪かったな。——疲れてたんだ。それにな、お前も、新しい学校や友だちに早く慣れた方がいいと思ったし……。そのためには、あの町のことは忘れた方がいい。そう思ったんだよ……」
返事はなかった。神田は、少しドアの前で立っていたが、
「——別にお前のすることに文句を言ってるわけじゃないんだ。分ってくれ」
と、言った。
すると、
「何しゃべってんの、一人で?」
振り向くと、あゆみがキョトンとして立っている。
「あゆみ、お前……。中にいたんじゃないのか」
「トイレに行ってたのよ」
「そうか。俺は……。いや、何でもないんだ!」
神田は真赤になった。それを見て、あゆみはふき出してしまった。
「笑うな。人が真面目に話してたのに……」
「分ってるわ。お父さん、少し髪が白くなったよ」
そう言うと、あゆみは、「お母さん、手伝って来る」
と、階段を下りて行った。
神田は少しホッとした気分で、下の方から、
「お母さん、何か手伝うよ」
と聞こえて来るあゆみの声に耳を傾け、それから寝室へと入って行った。
3
「三屋さん。——三屋さん」
和子は、少し不安な気持で、くり返して呼んだ。
典子は、この間倒れた時のように、少しぼんやりとして、校庭を眺めていたからである。
しかし、今は授業中ではなく、昼休みだった。典子は、お弁当を食べる様子もなく、黙って窓から表を見ていたのだ。外は、冷たい雨だった。
「あ、先生。すみません」
と、典子は振り向いた。「何か……」
「そうじゃないの。ただ——お昼、食べてないみたいだから」
「あ。ええ。いいんです。今朝、ちょっと忙しくて、作る暇がなくて」
「体に悪いわよ」
と、和子は言った。「おそばを取ってあるの。一緒に食べましょ」
「でも……先生のじゃないんですか」
「私、一つで充分。二つ取ったのよ。さ、来て」
典子も、それ以上は断らなかった。
和子と典子は、職員室で、隣同士、向い合って、あたたかいおそばを食べることになった。
「職員室も、寂しくなったんですね」
と、典子が言った。
「そうね、先生方も、家族があるわけだし」
と、和子は肯いた。「でも、私はしつこく居座るわ。独りだし、気楽だもん」
典子はちょっと笑った。——そして、
「また、誰かやめるんですか」
と言った。
和子は少しためらったが、
「ええ。安藤君がね。来週一杯ですって」
「じゃあ、クラス、九人になっちゃうのか」
典子は、息をついて、「この町も、なくなっちゃうのかなあ」
「そうね。——無責任なことは言えないけどそんなことにしたくない、とは思ってるわ、私」
「私もです。誰だって、自分の生れて、育った町が、消えてなくなるのなんて、いやですよね」
典子は、おそばをきれいに食べ終ると、「先生、このお代——」
「何言ってんの。先生に恥をかかせないでよ」
「すみません。じゃ……」
ペコンと、典子は頭を下げて、「——ゆうべ、父が帰らなくって」
「まあ」
「今朝になって、やっと帰って来たんです。母も、ゆうべまんじりともしなかったみたいで……。それで、お弁当どころじゃなかったんです。弟と妹、学校へ出すのがやっとで」
「あなたは? 寝たの?」
「少し。——うたた寝してました」
「体に悪いわ」
と、和子は首を振って、「きつかったら、早退してもいいわよ」
「いえ、大丈夫です」
と、典子は少しはにかむような笑みを浮かべて言った。「帰ったら、却って父が起きちゃいます。狭い家だから」
典子の、父親への気のつかい方に、和子は胸の痛むのを覚えた。
「お父さん、大変ね。まだ組合のお仕事が?」
「ええ。就職口を見付けてくれ、と毎日、会社の上の人にかけ合ってるみたいですけど。——ゆうべは、役員の話し合いが、もめたみたいで」
「そう」
「みんな、自分のことが不安でしょ。家族もいるし、当然ですよね。だから、組合のことばかりやってて、自分が働き口を見付けられなくなる、って……。でも、父は、あくまで再就職の口は、会社が捜して来るべきだ、と言って、自分じゃ捜していないんです」
確かに、委員長としては、そうせざるを得ないだろう。いや、典子の父は、そういう「筋を通す」ことにこだわるタイプなのだ。
「もっと利口な人なら、さっさと辞めて、次の仕事、見付けてるんでしょうけど」
と典子は言った。「結局、組合の他の人たちと口喧嘩になって、明け方近くまでやり合ってたらしいです」
やり合って、こうすればいい、という結論が出るのならともかく、結局は虚しい討論の空回りに終ってしまうのだ。神経のすり減る仕事である。
「お父さんをいたわってあげるのね」
と、和子は言った。
「あ、昨日、あゆみから手紙、来ました」
と、典子が思い出したように言った。「先生、私がこの間倒れたことを——」
「ああ、ちょうどあの日にね、あゆみさんから電話がかかったの。それで、つい……」
「心配させちゃったみたい。今日返事書こうと思ってます」
「そうしてあげて。——みんなばらばらになっても、せめて、連絡ぐらいは取れるようにしておきたいものね」
「そうですね……」
と、典子は、何となくもの思いに沈むように言った……。
「そうだわ。あゆみさんの手紙に、書いてあった? あなたとよく似た女の子のこと」
「え?」
「じゃ、書かなかったのね。あなたが倒れた日にね、あゆみさん、学校であなたとそっくりの女の子を見たんですって。それでびっくりして」
典子の頬がサッと紅潮した。
「それ——本当ですか?」
と、身をのり出す。
「ええ。着てる制服も、ここのとそっくりだった、って。あゆみさんも、あなたのことが忘れられないでいるのよ」
しかし、典子は、和子の言葉が耳に入らない様子で、ひどくそわそわしながら、
「あの——どうもごちそうさま」
と、立ち上ると、一礼して、職員室から出て行ってしまった。
和子は、ちょっと面食らったが、まあ大分典子も元気になったようだ、と肯いて、ホッとした。——また倒れるようなことにはなってほしくなかった。
机の電話が鳴る。和子は、お茶を一口飲んでから、受話器を取り上げた。
「——はい、折原です。——あ、どうも。——え?」
和子の表情が凍りついた。
「あゆみじゃない」
と、声がした。
文庫本から目を上げて見ると、髪を赤く染めた少女が、テーブルのわきに立っている。
「——分んないの?」
と、その少女はクックッと笑った。
「茂子?」
「そうよ。——どう、この頭?」
あゆみは、すっかり呆気にとられていた。あの町で、同窓だった子である。増田茂子。
しかし、今、目の前に立っているのは、全くの別人だった。
「一人なの?」
と、増田茂子は訊いた。
「友だちと待ち合せてるの」
と、あゆみは言った。「でも、早く着いちゃったから……。座らない?」
「じゃ、ちょっと」
ブレザーの制服らしいものは着ているが、スカートはほとんど足首まで届くほど長い。首には幾重にも安物のネックレスが下っている。
「茂子——お父さん、大阪に行くって、言ってなかった?」
「行ったわよ。でも、使いもんになんなくてさ。うちの親父、ずっと同じ仕事ばっかりだったじゃない。つぶしがきかないんだね」
茂子はタバコを出して、マッチで火をつけると、「——あんたも一本やる?」
「結構よ」
と、あゆみは首を振った。「じゃ、今は東京に?」
「うん。その日暮しよ。仕事のある日は出てって、ない日はゴロゴロしてる。私も、学校なんて馬鹿らしくってさ。新宿歩いてる時、面白い連中に誘われたんだ」
「茂子……」
「あゆみは、ずいぶんいい格好してるね。お宅、真先に次の仕事が決った口だもんな。やっぱり、インテリだからね、あんたのお父さん」
「そんなことないわ。ただ——運が良かっただけ」
と、あゆみは低い声で言った。
「そうね。運のいい奴、悪い奴、色々だよね」
と、茂子はタバコをふかして、「首を吊っちゃう奴もいるし」
あゆみは、当惑して、
「何の話?」
と、訊いた。「あの町のこと?」
「知らないの? 首を吊って死んだのよ。新聞にも出たわ」
「首を……。誰が?」
「三屋さんって、ほら、あんた仲良かったじゃない。あの子の親父さんよ」
あゆみは、言葉もなかった。
「——組合の委員長だったから、苦しい立場だったんじゃない?」
と、茂子は首を振って、「お袋さんも、具合悪かったしね。大変だろうね、さぞかし」
「そうでしょうね……」
と、あゆみは言った。
典子……。今、どんな思いでいるだろうか?
増田茂子はコーラを一杯飲むと、
「ごちそうになるわね。お金ありそうだからさ、あゆみ」
と、立ち上って、「じゃ、またね」
タバコを灰皿へ押し潰して、出て行く。
あゆみは、一人になると、体が震え出しそうになるのを、必死でこらえなくてはならなかった。——典子の家にも、年中遊びに行っていて、無愛想だが、とても器用で、何でも簡単に作ってくれた、典子の父にも、よく会っていたのだ。
あの人が首を吊って死んだ……。何てことだろう!
典子は大丈夫だろうか? おそらく、母親と、弟、妹をかかえて途方にくれているに違いない典子のことを思って、あゆみは胸が痛んだ。しかし、あゆみにはどうしてやることもできない。
いくら友だちでも、遠く離れてしまったら、手紙で慰めるぐらいしか、やれることはないのだ。しかし——増田茂子の変りようも、あゆみには大きなショックだった。といって、子供だけを責めてすむだろうか。
あゆみは、ぼんやりと表の通りをガラス越しに眺めていた。——休日の原宿。中学生と、高校生ぐらいの女の子たちが、五人、六人とグループを作って、通りすぎて行く。
屈託なく笑い、はしゃぎ、飛びはねている女の子たち。——あゆみは、あの子たちと同じ世代なのに、どうしても、あんな風にはしゃぐことのできない自分を、感じていた。