饭饭TXT > 海外名作 > 《告別(日文版)》[日]赤川次郎【完结】 > 《告別(日文版)》[日]赤川次郎【完结】.txt

第 5 页

作者: 当前章节:15411 字 更新时间:2026-6-23 06:02

 いや、おそらく、あの町から、否応なく出て来ざるを得なかった子たち、みんな、同じ思いに違いない……。

 ふと、あゆみは目を止めた。——黒っぽい服の女の子が、歩いて来る。顔はよく見えないけれど、その服装は、まるでお葬式にでも出るかのようで、明るい通りには、似つかわしくなかった。

 その歩き方に、あゆみは何となく見覚えがあるような気がしたのである。でも……。

 うつむき加減に歩いて来たその女の子が、あゆみのすぐ目の前を通ろうとして——顔を上げ、あゆみを見た。

 ——水のコップが落ちて、床で砕けた。

「あゆみ! 大丈夫?」

 ハッと振り向くと、待ち合せていた友だちが立っていた。

「あ……」

「ごめんね、遅くなって。——危いよ、コップが割れてるから」

「あ——うん」

 あゆみは、立ち上って、表へ目をやった。

 もう、黒い服の姿は、見えなくなっていた。——典子の姿は。

 おかしい。——あゆみは、新聞を閉じて、考え込んだ。

 あゆみは、捜してみたのだ。典子の父が自殺したという記事を。しかし、一週間前まで、全部のページに目を通しても、その記事は見当らなかった。

「何してるの?」

 と、母の百合子が居間を覗く。

「お母さん、他に新聞は?」

「それだけよ。——何を捜してるの?」

「こっちの用事」

 と、あゆみは言った。「お父さん、まだ帰らないの?」

「今夜は遅くなるって。お風呂、入ったら?」

「後でいい」

「そう? じゃ、お母さん、先に入るわよ」

「どうぞ」

 あゆみは、見終った新聞を、また最近の分から逆に見て行った。

 そして——ふと、思い付いた。ページのナンバーだけを手早くチェックして行く。

「これかな」

 二日前の分で、一枚抜けているのがある。もちろん、何でもないことかもしれないが、もしかして……。

 あゆみは、台所の大きなくずかごを捜してみた。新聞らしいものはない。

 二階へ上ったあゆみは、父と母の寝室へ入って行った。隅のくず入れ。——ティッシュペーパーが丸めて捨ててある。その下を引っくり返すと——固くねじった新聞が出て来た。

「——ただいま」

 階下で、父の声がした。「いないのか」

 あゆみは、その新聞を広げると、手につかんだまま、下へおりて行った。

「——何だ、母さんは?」

 居間のソファにぐったりと体を沈めている父が、あゆみの顔を見て、言った。

「お父さん。——これをどうして隠したの?」

 あゆみが、新聞をテーブルの上に投げ出す。「三屋さんが自殺したって出てるわ。どうして、捨てたの?」

 父の顔が青ざめるのを、あゆみは見逃さなかった。

「どうして、って……。お前が見たら、気にすると思ったんだ」

「お父さんが気にしたんでしょ」

「——どういう意味だ」

 父が、じっとこっちを見つめる。——怖がっている。怯えている。

「お父さん……」

 あゆみは、ゆっくりとソファに座った。「私、ずっと気にしてた。でも、何でもないことなんだ、と自分へ言い聞かせて……。でも、もうごまかしておけないわ」

「あゆみ——」

「どうして、お父さんだけが、こんなにいい思いをしてるの? みんな失業同然で、あちこちに散らばって行ったわ。それなのに、うちは東京へ出て来たとたん、こんな新築の家、私は私立の名門女子校。車まで買って……」

「それは——ちゃんとお父さんの能力を、今の会社が評価してくれたんだ」

「でも、できすぎてるわ。工場の閉鎖が決って、真先に次の勤め先が見付かったのは、うちじゃないの」

「それが不満なのか!」

 と、神田は怒鳴った。「お前は、俺たちが路頭に迷って、その日暮しをしてもいい、っていうのか!」

「そうしてる人が——いえ、せざるを得ない人が、いくらもいるわ」

 と、あゆみは言い返した。「何があったの? お父さん、話して! 典子は私の一番仲のいい友だちだったわ。その子のお父さんが首を吊ったのよ」

「俺のせいじゃない!」

 いきなり神田はパッと立ち上った。「俺が悪いんじゃない!」

「お父さん」

 と、言ったのは、あゆみではなかった。

「百合子……」

「お母さん。——お風呂かと思ったわ」

「そう簡単にお湯は入らないわ」

 と、百合子は言った。「あゆみ。お父さんを問い詰めないで」

「でも、本当のことを知りたい」

「知ってどうするの?——見当はついてるんでしょう」

「お父さんは……会社のために、協力したのね」

「ああ」

 神田は肯いた。「——組合の反対で、もめないように、本社に頼まれて、こっそり組合を分断した。いいポストを約束して、工場閉鎖がすんなり行くよう、説得したんだ」

「そのおかげで、この家が——?」

「確かにそうだ。本社から準備金ももらったし、この家も安く買えるように、はからってくれた」

「そう……」

 あゆみは、何も感じなかった。今は、感じる勇気がないのかもしれない。

「あゆみ」

 と、百合子が言った。「お父さんを責めないで。私たちのために、と思って、そうしたのよ。それに——お父さんが一番辛い思いをしてるわ」

「お母さん」

 あゆみは立ち上り、居間を出ようとして、言った。「典子に、そう言える?」

 そして、二階へと駆け上って行った。

     4

 折原和子は、三屋典子の家の前まで来て、足を止めた。

 誰かが、玄関の戸に何か貼っている。

「何してるんですか?」

 と、和子が声をかけると、振り向いたのは、工場の課長の一人だった。

「や、こりゃ先生」

 と、会釈して、「いつも子供がお世話に」

 和子は、貼ってある紙を見て、

「これ……。二週間以内に立ち退けって、どういうことなんですか」

「会社の決りでしてね。もう、うちの社員はいなくなったわけですから。社宅には置いとけないわけです」

「それにしても……。ここには、病気の奥さんと三人の子供しかいないんですよ。二週間で出て行けなんて……」

「規定ですからね、これが」

「だって、どうせ工場がなくなれば、新しい人がここに入るわけないんですから、閉鎖までいたって、構わないじゃありませんか」

「いや……しかし、本社の方では、一応、電気、ガス代とか、補助もしていますから、経費のむだづかいは——」

「分りました」

 和子は、大声を出したいのを、何とかこらえていた。「もう行って下さい」

「失礼します……。ま、これが規定ですんでね」

 と、言いわけがましく、呟きながら、帰って行く。

 和子は、その課長がいなくなると、貼紙をつかんではぎ取り、引き裂いた。——そんなことをしても、この家の人々は救われない。しかし、せめて、そうでもせずにはいられなかったのだ……。

「——ごめん下さい」

 と、中へ入って、「奥さん。——典子さん」

 と呼んでみる。

 誰も返事をしない。夜だし、いないわけがないのに。

 昼間の、お葬式の時にはゆっくり話ができなかったので、これからのことなど、典子と話そうと思って、やって来たのである。

「誰かいませんか」

 上るのもはばかられて、迷っていると、戸が外からガラッと開いた。

「あら、先生」

 近所の奥さんが、典子の弟と妹の手をひいて、立っていた。

「どうも。——その子たちは?」

「悪いけど、夕飯食べさせてやってくれ、って、典子ちゃんが頼みに来て。お葬式の後始末で忙しいっていうんでね」

「そうですか。じゃ、典子さんは……」

「家にはいるはずですけど」

 和子は、不安になって、上ってみることにした。

「典子さん。——典子さん」

 襖を開け、和子は息をのんだ。典子が倒れている。

「典子さん!」

 駆け寄って、和子は典子の胸に耳を押し当てた。——鼓動は確かだった。

「大丈夫だわ。でも……気を失ってる」

 和子は、ふと思い当った。この状態は、この前、典子が授業中に突然倒れた時と、よく似ている。

 いくら起しても、起きようとしないのだ。

「自然に目を覚ますでしょう」

 と、和子は言った。「たぶん——疲れが出て」

「お母ちゃんは?」

 と、妹の方が言った。

「そうね。捜してみましょ」

 和子は、立ち上って言った。

 あゆみは、ベッドに突っ伏して、しばらく泣いた。

 しかし、人間、どんなに悲しいことがあっても、永久に泣いているわけにはいかないのだ。

 あゆみは、ゆっくりと体を起して、手の甲で目を拭った。

「ハンカチ、いる?」

 と、誰かが言った。

 いや、あゆみには分っていた。振り向くと、典子が、勉強机の前の椅子に座っていた。

「典子……」

「会いたかった」

 と、典子は言った。「凄いね、人間の愛情って」

「典子、あなた……」

 あゆみは、もちろん、典子が当り前のやり方でここに来たのでないことは、分っていた。

 こんなことがあるものなのか、信じられなかったが、今、目の前にいるのは、確かに典子だった。

「本とか、一杯読んだの」

 と、典子は言った。「超能力とか、空間移動とか。でも、結局は、本当にその人のそばにいたいって思いが、どれくらい強いかで決るんですって」

「そう……」

「言ったもんね。二人はいつまでも友だちだって」

「うん、言ったね」

 しかし——友だちでいられるのか? 何もかも知ってしまった今となっては。

「お父さんのこと、気の毒だったね」

 と、あゆみは言った。

「うん……。でも、もう戻って来ないし」

 と、典子は自分へ言い聞かせるように言って、「——あゆみ、凄くきれいになったね。お嬢様って感じ」

「よして」

 あゆみは、思わず目をそらした。

「あゆみ……。私のこと、怖いの?」

「いいえ」

「私、幽霊じゃないのよ。いうなれば——魂だわ。自分の一番願ってることを、形にするのよ」

「典子……。でも、もうあのころのことは、終ったんだわ」

「でも、それは大人の都合でしょ。私たちは友だち。ね、そうでしょ」

 あゆみは、やっと笑みを浮かべて、

「そうね……。友だちだわ」

 と、言った。

 その時、ドアの外で、

「あゆみ」

 と、父の声がした。

 あゆみはハッとした。

「ね、まずいわ、ここにいちゃ」

 と、立ち上る。「お父さん、待って!」

 ドアを開けて、父が入って来た。

 典子は目を開き、そっと頭をもたげた。

 暗く、静かな家の中に、すすり泣きの声がしている。もう、父の葬式は終ったのに、誰が泣いてるんだろう?

 典子は、ゆっくりと立ち上った。

 襖を開けると、

「——先生」

「典子さん! 目が覚めたのね」

 和子は、涙を拭って、「やっぱり、前と同じように?」

「びっくりしました? ごめんなさい。私、あゆみの所へ行ってたんです」

「典子さん……」

「本当なんです。ちゃんと今、あゆみと話もしました」

「典子さん、聞いて」

 和子が、典子の肩に手をかけた。「お母さんが……」

「え?」

「弱ってらしたせいもあるんでしょうけど。ご主人が亡くなって、寂しかったのよ」

「母が——お母さん!」

「台所で——待って!」

 和子は、必死で、典子を押し止めた。「待って、典子さん!」

「お母さん!」

「包丁で喉を突いて——」

 典子は、和子の手を振り切って、台所へと駆け込んで行った。

「誰と話してたって?」

 と、神田は言った。

「典子よ。三屋さん」

 と、あゆみは言った。「信じないでしょうけど」

「あの三屋の娘が——どうしてこんな所に来るんだ」

 神田は、首を振って、「なあ、あゆみ。お前の気持は分る。——しかし、世の中、きれいごとだけじゃ生きて行けないんだ。分るか?」

 あゆみは、ベッドに腰をかけて、父の、古くさい話を聞いていた。

「お前には、貧乏させたくない。そう思ったから、お父さんはああして、組合を裏切ったんだ。しかしな、悔んじゃいないぞ。そうだとも。母さんやお前を、暮しのために働かせたりしたら、そっちの方がよほど悔んでいただろうな」

 あゆみは、黙っていた。

「——何か言ったらどうだ」

 と、父が不安げに言う。

「言ってどうなるの?」

 と、あゆみは肩をすくめた。「お父さんは正しいと思ってやったんでしょ。だったら、私がどう思おうと関係ないでしょう。私だって、そのおかげで、こんなきれいな家に住んで、名門校へ通ってるんだから」

「あゆみ。お前は——」

 神田は、言いかけて、ギョッと目を見開いた。「——何だ、あれは!」

 あゆみは振り向いた。父が見ているものを、あゆみも見た。

「典子!」

 典子が、部屋の隅に立っていた。あの黒い服は同じだ。しかし、両手は血で真赤になり、服の上にも、血はこびりついていた。

「どうしたの、典子!」

 と、あゆみは叫ぶように言った。

「消えろ! こんな——こんなことがあるか!」

 神田は、真青になって、怒鳴った。「畜生! こんなのは幻だ! 幻覚だ!」

「お父さん——」

「どけ!」

 神田は、手をのばして、椅子をつかんだ。

「何するの!」

 あゆみが父の手にしがみつく。

 すると、典子が、燃えるような目を神田へ向けて、

「聞いたわよ!」

 と、絞り出すような声で言った。「ひどい人! お父さんを——お母さんも、後を追って死んだのよ!」

「化けもの! 出てけ!」

 神田が、椅子を振り上げると、典子の上に振り下ろした。典子が叫び声を上げて、倒れる。

「——典子!」

 あゆみは、駆け寄った。

 神田は呆然と突っ立っている。——まさか、本当に、そこに人がいるとは思わなかったようだ。

 典子は額から血を流し、ぐったりと倒れていたが、あゆみが抱き起すと、目を開いた。

「あゆみ……」

「典子。——しっかりして! 今、救急車を——」

「やめて……。このままじっとしていて」

 と、典子は、かすれる声で言った。

「でも——」

「あゆみの腕の中で……死ねるなんて」

「馬鹿言わないで! そんなに簡単に死にゃしないわ!」

「私、あゆみみたいになりたかった……」

 と、典子は言った。「あゆみは……私の理想だったもん……」

「典子——」

「いつも——そばに」

 典子の体が、フッと、かき消すようになくなった。そして——カーペットに、赤く血のしみが広がって、その中に、割れたメガネだけが、落ちていたのだ……。

 和子は、打ちひしがれて、座っていた。

 典子の写真が、じっと自分を見下ろしている。——笑っているのが、却って辛かった。

 むしろ、にらみつけるか、責め立てるような目で見ていてくれたら、と思った。

 町の公民館は、ガランとして、人の姿はなかった。——夜になっていて、もう、典子の弟と妹も、近所の奥さんの家へ戻っていたのである。

 ただ一人、和子が、典子の棺の前に、座っていた。

 一体何があったのか。母の死のショックで、何かに頭を打ちつけたのか……。誰にも分らなかった。

 確かなのは、典子が死んだということだけである。——母親の方が一足早く、遺骨になった。

 典子の死体は、一応警察で調べなくてはならなかったのだ。

 自分は何をしていたのか。生徒が死ぬとき、そばについていながら、何をしていたのか……。

 和子は、涙がこみ上げて来るのを、じっとこらえた。泣いたら卑怯だ。泣いて、逃げてはいけない。

 自分がやったこと、やらなかったことを、しっかり見据えるのだ。

 誰かが入って来た。——振り向いて、和子はびっくりした。

「神田さん!」

 あゆみが、立っていたのだ。

「——典子に、返すものがあって」

 と、あゆみは言った。「私は、典子みたいに純粋じゃありませんでした。電車で来たんです」

「そう……」

 あゆみは、焼香すると、

「——先生、これを典子に」

 と、割れたメガネを、取り出す。

「これ……。どこで?」

「私の家です。典子、本当に、うちへ来たんです」

「じゃあ……」

「父が——父がやったんです」

 あゆみは一部始終を、和子に話して聞かせた。

「そんなことが……」

「父がやったといっても、誰も信じてくれないでしょう」

 あゆみは、赤い目で、写真を見て、「父は、償いをする、と言ってます。何とかして、工場に残った人たちの働き口を捜す、と。頭を下げて頼んで回る、と言ってます」

 和子はゆっくりと肯いた。

「——それですむことかどうか、分りませんけど」

「どうしようもないことだったのよ」

 と、和子は首を振って言った。「ね、これを、かけてあげましょう」

「ええ」

 二人は立ち上って、棺の中に眠る、典子の顔に、そっとメガネをかけてやった。

 翌日、典子の葬儀がすむと、あゆみは東京へと戻って行った。

 和子は、あゆみを見送って、町へと戻った。

 町は相変らず、寂しく、灰色に見えたが、それでも和子は、どこかこれまでと自分の心が違っているのを感じていた。

 それは何だったのだろう?

 町は、日を追って、さびれ、やがて消えて行くかもしれない。しかし、人はたとえ方々へ散っても、決して変らず、揺るがないものがある。

 典子が、自ら身をもって証明したように、人と人との絆は、時に、空間や時間さえ超えてしまうのだ。

 和子は、そこまで突きつめ、思いつめた、典子の心を思いやると、いじらしく、また嬉しかった。——誰にでも可能ではないとしても、この世に奇跡が存在すると知ることは、すばらしかった。

 それも人の愛の力が、それをなしとげたのだから。

「先生、こんちは」

 と、生徒が、声をかけて行く。

「こんにちは」

 和子は、笑顔で答えながら、あの子たちの明るさの中に、この町が生き続けるのだ、と思った。

「先生、頑張って」

 ——どこかから、典子の声が聞こえたような気がして、和子は思わず周囲を見回したのだった。

 雨 雲

     1

「いやだなあ……」

 と、隣で雄二が呟くのが聞こえて来る。

「何がだよ」

 分っているくせに、紳一は訊いてやった。退屈してもいたのだ。

 どうしてみんな、運動会なんてものに熱中できるんだろう? ただ、走ったり、よじ上ったり、けとばしたり……。

 そんなことして、何が面白いんだ?

 本当に、紳一はそう思っていた。——小学校六年生としては、いささかひねくれていると思われそうだが、なに、内心同じように思っている子は決して少なくない。ただ、何となく面白いふりをして見せてるだけさ……。

「お前、平気なのかよ」

 と、雄二が言った。「もうこれが終ったら徒競走だぜ」

「知ってるよ」

「俺、遅いからさ。いやなんだ」

 と、雄二は、仏頂面をして、「いくら一生懸命走っても、親父は決って怒るんだ。『あんな風に初めっから気を抜く奴があるか!』って。かなわねえよ」

 雄二は確かに、太っていて、見るからに走るのは苦手そうだった。しかし、それを言えば、紳一だって同じことだ。

 運動全般、ともかく得意でもないし、好きでもない。小柄で、ヒョロッとやせていて、全力で走ったりすると、たちまち貧血を起す。

 ただ、紳一は、たとえ「かけっこ」でびりになったって、雄二みたいに、怒られたりはしない。

 紳一は一人っ子で、しかも父を早くに亡くしているせいもあって、母は、紳一が少々煩しく感じるくらいに、可愛がってくれている。

 無理に頑張って走って、貧血でも起そうものなら、

「あんなものいい加減に走っときゃいいのよ!」

 と、意見してくれるくらいである。

 でも、今日も走らなくてすむだろう。——きっと。

 青空はまぶしかった。生徒は全員地べたに座っているので、お尻が痛い。

 ピッと笛が鳴って、前のゲームが終った。

 紳一は、空を見上げた。——開会式の校長先生の挨拶の通り、「絶好の運動会日和」である。

 ところどころ、雲は浮かんでいるが、この分なら、今日一日の快晴は間違いなし、というところだった。

「やれやれだ」

 と、雄二が渋々立ち上る。

 徒競走は全員が走るので、時間がかかる。——まだいいや、と紳一は思った。

 赤、白、緑に色分けされたチームごとに、走る。六年生は最後なので、ずいぶん待っていなくてはならなかった。

「——もうすぐだぜ」

 と、雄二が情ない声を出した。「畜生、急に雨でも降らねえかな」

 紳一は、空を見上げた。——もちろん、雨など降りそうにない青空。バン、バン、とスタートのピストルの音が空を駆け巡っている。

 すると——青空の一点に、ポツン、と小さな黒い影が浮かんだ。誰も気付いた人間はいないだろう。紳一以外には。

「おい、みんな少し手足をほぐしとけよ!」

 と、担任の先生が声をかける。

 紳一は、何もしなかった。そんな必要はないのだ。——そうだとも。

 ふっと日がかげって、みんなびっくりしたように空を見上げた。

 いつの間に。——誰もが目を丸くしている。

 黒い雨雲が、太陽を遮って、ちょうどこのグラウンドの真上辺りに広がりつつあった。

「何だ、あんなに晴れてたのに……」

 と、先生が渋い顔で、「早くやろう。——おい! 急げ!」

 雄二が、胸をドキドキさせている様子で、

「おい、降るかな、雨?」

 と、紳一に訊く。

「たぶんね」

 と、紳一は答えた。

「——よし、次!」

 と、先生が怒鳴った。

 ポツン、と頭に軽く当る感触。ポツン、ポツン、と落ちていた雨滴は、パタパタと音をたててグラウンドの土を叩き始めた。

「雨だ!——おい、校舎へ入れ!」

 先生が、大声で生徒たちに言った。

 紳一は、みんなが駆け出して行くのを眺めながら、のんびり歩いて行った。——大丈夫。まだひどくは降らないよ。

 父母席にいた親たちも、突然の雨で、もちろん傘もなく、先生たちがあわてて体育館へと誘導している。

 紳一は、校舎に入ると、少し濡れた髪の毛を、タオルで拭いた。

 OK。——さあ降れ。思いっ切り。

 雨は、グラウンドの風景をかき消すばかりの勢いで降り始めた。

 先生たちが、頭からずぶ濡れになって、右往左往している。

「やった、やった!」

 と、雄二が飛び上って喜んでいる。「これで走らなくてすむぜ、なあ!」

「そうだね」

 紳一は、窓から激しく降りしきる雨を眺めながら、ポツリと呟くように答えた……。

     2

「天気はどうだ?」

 起きて来て、まずそう訊くのが、坂本の日課のようになってしまっていた。

 といっても、坂本は気象庁に勤めているわけではない。

「大丈夫。いいお天気よ」

 と、洋子が答える。「天気予報でも、今日は一日、大体晴れですって」

「そうか……」

 それから、坂本は、おもむろに欠伸をするのだった。

「今朝はオムレツを作ったから、食べて行ってね」

 と、洋子が台所から声をかける。

「分った」

 坂本は返事をしながら、パジャマを脱いで、ベッドの上に放り投げた。

 顔を洗って、ひげを剃り、鏡の中の自分の顔に見入る。——三十四歳としては、若々しく見える。ゆうべは少し早めに眠ったし、この数日はアルコールも控えて体調を整えていた。

 よし。——大丈夫だ。

 鏡の中の自分へ、坂本は肯いて見せた。

 もちろん、まだ目が覚めて五分ほどしかたっていないから、多少は眠そうだし、頭も少しぼんやりしているが、朝食をとる間に、ちゃんとエンジンが回り出すに違いない。

 ダイニングへ行くと、洋子がコーヒーをいれて待っている。

「今朝は豪勢だな」

 と、坂本は椅子を引いて座りながら、「食べ過ぎて、お腹を痛くしないようにしなきゃ」

「小さめのオムレツよ。ちゃんと栄養つけてくれなきゃ」

「君の方こそ、だろ」

 坂本は、大きくせり出した妻のお腹へ目をやりながら言った。

 洋子は二十七歳。少しきゃしゃに見える体つきだが、病気はあまりしない。しかし、もう予定日は二週間ほど先に迫っている。

「調子、どうだい?」

 と、朝食をとりながら、坂本は言った。

「順調よ。時々けとばすから、びっくりして目を覚ましちゃう」

 と、洋子は笑った。

 ——七つ違いの坂本と洋子は、三年前に結婚していた。洋子は妊娠するまで共働きをしていたが、今はずっとこの家にいる。

「明日の仕度をしとけよ」

 と、坂本は言った。「今日はできるだけ早く帰るけど」

「無理しないで。明日休めるのなら、それでいいのよ」

「休むさ。今日さえすめば——」

 電話が鳴り出した。こんな朝から、誰だろう?

 洋子が出て、

「——あ、おはようございます」

 言い方で分る。坂本はコーヒーで、口に入れていたパンを流し込んだ。

「はい、紳一さんに代ります。——あなた、お義母さん」

「分った。——もしもし」

「紳一? どうなの、今日は」

 と、母のしっかりした声が聞こえて来る。

「どう、って?」

「大切な日なんでしょ? ちゃんと憶えてるんだからね、母さんは」

「心配することないよ」

 と、坂本は苦笑した。

「いい? 落ちついてね。あんたは昔から人前に出るとあがる子だったから」

「もう子供じゃないぜ」

 と、坂本は言ってやった。「じゃあ、もう出かけないといけないから」

「はいはい。頑張って。こっちでお祈りしてるからね」

 と、母は言った。

 きっと、冗談でなく、本気でお祈りしているに違いない。

「いつまでも子供扱いだ」

 と、席に戻ると、坂本はアッという間にオムレツを平らげた。「——もう出るかな」

 今日は、坂本の「課長昇進試験」の日である。その資料や、準備したスライドを持って行かなくてはならない。

 いつもより少し早目に出る必要があった。

「ご心配なのよ、お義母さんは」

 と、洋子は言った。「ネクタイ、どれにする?」

「どれがいいかな。君、決めてくれ」

「ええ、いいわ」

 洋子は嬉しそうに言った。

 ——坂本の勤める会社は、何万人という社員を抱える大企業である。TVコマーシャルでもよく名が売れており、他人に説明するには苦労しないが、同じ世代での出世競争には激しいものがあった。

 つまり、ポストの数に対して、同世代の社員が多すぎるのである。しかも、大企業なので幹部が一人一人の業績に目を届かせるのは難しい。

 その結果生れたのが、「課長昇進試験」である。——三か月前に、幹部会から出されたテーマについて、自分で調査し、資料を揃えて、発表しなければならない。それも、社長、常務以下、十数人の幹部がズラリと並んでいる前で、である。

 今日、その試験を受けるのは七人。その内の二人だけが、「課長」のポストを次の人事で約束される。多くて二人だ。一人も合格しないことも珍しくない。

 この三か月、坂本は家に帰らないこともしばしばだった。——洋子の体のことを考えると心配だったが、仕方ない。

 何しろ、何もなくても夜中に帰ることが年中だ。それに加えて試験の準備である。時には会社に泊り込むこともあった。

 坂本だけではない。一緒に試験を受ける者、誰もがそうだったのである。

「あなた。もう行った方が」

 と、洋子が言った。

「うん。じゃ、今日は早く帰るからな」

「ええ。——気を付けて」

 洋子は家の外へ出た。

 郊外の一戸建。ここを買って二年になる。空気もいいし、緑も多いが、その代り、駅までは車で出るしかない。電車で一時間十分——。

 ぜいたくは言えないが、疲れ切って帰る身には長い距離だった……。

 洋子は青空を見上げた。

「いいお天気ね」

「良かったよ。雨だとズボンの裾に泥がはねるからな」

 坂本は両手一杯にかかえた資料を、車の後ろの席へ放り込むと、「じゃ、行ってくる」

 と、洋子に微笑んで見せた。

「行ってらっしゃい」

 と答えて、洋子はちょっと笑ってお腹に手を当てた。

「どうした?」

「この子も『行ってらっしゃい』って。お腹をけとばしてるわ」

「そうか」

 坂本は笑った……。

 洋子は、夫の車が見えなくなるまで、家の前に立って見送っていた。

 何しろ見通しはいいので、車がずいぶん小さくなるまで、視野に入っている。

 ——新たに造成された住宅地だが、まだ実際に家が建っているのは三分の一ほど。夜になるといささか心細い。

 特にこのところ、夫が帰らないこともあるので、戸締りは厳重にしていた。

 家の中に入って、鍵をかけ、チェーンをかける。ちょっと顔をしかめた。

 お腹の具合が——いや、もちろん、赤ちゃんのことだが——いつもと微妙に違うような気がする。気のせいかもしれないが。

 夫には言えなかった、今日は夫にとって大切な日なのだ。——大丈夫。何てことはないんだわ、きっと……。

 本当ならもっと早く——一か月前には実家へ戻っていたかった。しかし、洋子の実家は九州で、夫について行ってもらわなくては、不安だった。

 この三か月、夫がそれどころでないことを、洋子はよく知っていた。社内でも優秀な若手の一人として、夫は張り切っていたし、プライドもあった。

 今日がすむまでは……。洋子も、無理は言えなかった。

 玄関を上ろうとして、郵便が一通、落ちているのに気付いた。——かがみ込んで拾うのもひと苦労である。

〈××クリニック〉? 何だろう?

 ダイニングに入って、椅子に腰をおろすと、洋子は封を切った。

 薄っぺらな紙が一枚出て来る。——〈請求書〉。

 あの人、クリニックにかかったなんて、何も言ってなかったのに……。どこか悪いんだろうか? 〈カウンセリング料〉として、大した金額でもない請求が記してある。

 カウンセリング? 洋子は首をかしげた。

 まあいい。——請求があったからには、振り込んでおかなくちゃ。

 忘れないように、洋子はその封筒を自分の大きな財布の中へ、たたんでしまっておいた。

 さあ、片付けなきゃ。——皿やコーヒーカップを流しへ運んで、テーブルの上を拭こうとしていると、不意に下腹に痛みがやって来た。

 じっと息を殺して、動かずにいると、やがてその痛みは遠ざかった。——何だろう?

 まさか——もちろん、そんなことはない!

 まだ早すぎる。まだ……。

 慎重に、そろそろと動きかけて、洋子は急に部屋の中が薄暗くなったので、ドキッとした。自分の目がどうかしたのかと思ったのである。

 そうじゃないんだわ。日がかげったのだ。——あんなにいいお天気で、雲なんかどこにも見えなかったのに。

 何だか空気まで冷たくなって来たような気がして、洋子は軽く身震いした。

 車は快調に飛ばしていた。

 エンジンの音にも不安はない。——よし、今日はいいスタートだ。

 坂本紳一は、自分の内に漲って来るエネルギーを感じていた。母や洋子は心配してくれるが、坂本はいささかもあがってなんかいなかった。

 もちろん、実際に社長や常務の前に出れば、緊張するだろうが、それは却ってプラスにもなる。そういう場に強いのだ!

 一緒に今日試験を受ける六人の中で、二人はこの三か月の間に胃を悪くして、何日か休んでいた。ストレスがたまったのだろう。

 一人はノイローゼ寸前で、昨日も休んでしまっていた。たぶん今日も出て来ないだろう、と坂本は思った。

 そういう連中に同情しないほど、坂本は冷たいエリートではない。坂本自身も、学生のころは目立たず、パッとしない、「普通の生徒」にすぎなかったのだ。

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页