いや、おそらく、あの町から、否応なく出て来ざるを得なかった子たち、みんな、同じ思いに違いない……。
ふと、あゆみは目を止めた。——黒っぽい服の女の子が、歩いて来る。顔はよく見えないけれど、その服装は、まるでお葬式にでも出るかのようで、明るい通りには、似つかわしくなかった。
その歩き方に、あゆみは何となく見覚えがあるような気がしたのである。でも……。
うつむき加減に歩いて来たその女の子が、あゆみのすぐ目の前を通ろうとして——顔を上げ、あゆみを見た。
——水のコップが落ちて、床で砕けた。
「あゆみ! 大丈夫?」
ハッと振り向くと、待ち合せていた友だちが立っていた。
「あ……」
「ごめんね、遅くなって。——危いよ、コップが割れてるから」
「あ——うん」
あゆみは、立ち上って、表へ目をやった。
もう、黒い服の姿は、見えなくなっていた。——典子の姿は。
おかしい。——あゆみは、新聞を閉じて、考え込んだ。
あゆみは、捜してみたのだ。典子の父が自殺したという記事を。しかし、一週間前まで、全部のページに目を通しても、その記事は見当らなかった。
「何してるの?」
と、母の百合子が居間を覗く。
「お母さん、他に新聞は?」
「それだけよ。——何を捜してるの?」
「こっちの用事」
と、あゆみは言った。「お父さん、まだ帰らないの?」
「今夜は遅くなるって。お風呂、入ったら?」
「後でいい」
「そう? じゃ、お母さん、先に入るわよ」
「どうぞ」
あゆみは、見終った新聞を、また最近の分から逆に見て行った。
そして——ふと、思い付いた。ページのナンバーだけを手早くチェックして行く。
「これかな」
二日前の分で、一枚抜けているのがある。もちろん、何でもないことかもしれないが、もしかして……。
あゆみは、台所の大きなくずかごを捜してみた。新聞らしいものはない。
二階へ上ったあゆみは、父と母の寝室へ入って行った。隅のくず入れ。——ティッシュペーパーが丸めて捨ててある。その下を引っくり返すと——固くねじった新聞が出て来た。
「——ただいま」
階下で、父の声がした。「いないのか」
あゆみは、その新聞を広げると、手につかんだまま、下へおりて行った。
「——何だ、母さんは?」
居間のソファにぐったりと体を沈めている父が、あゆみの顔を見て、言った。
「お父さん。——これをどうして隠したの?」
あゆみが、新聞をテーブルの上に投げ出す。「三屋さんが自殺したって出てるわ。どうして、捨てたの?」
父の顔が青ざめるのを、あゆみは見逃さなかった。
「どうして、って……。お前が見たら、気にすると思ったんだ」
「お父さんが気にしたんでしょ」
「——どういう意味だ」
父が、じっとこっちを見つめる。——怖がっている。怯えている。
「お父さん……」
あゆみは、ゆっくりとソファに座った。「私、ずっと気にしてた。でも、何でもないことなんだ、と自分へ言い聞かせて……。でも、もうごまかしておけないわ」
「あゆみ——」
「どうして、お父さんだけが、こんなにいい思いをしてるの? みんな失業同然で、あちこちに散らばって行ったわ。それなのに、うちは東京へ出て来たとたん、こんな新築の家、私は私立の名門女子校。車まで買って……」
「それは——ちゃんとお父さんの能力を、今の会社が評価してくれたんだ」
「でも、できすぎてるわ。工場の閉鎖が決って、真先に次の勤め先が見付かったのは、うちじゃないの」
「それが不満なのか!」
と、神田は怒鳴った。「お前は、俺たちが路頭に迷って、その日暮しをしてもいい、っていうのか!」
「そうしてる人が——いえ、せざるを得ない人が、いくらもいるわ」
と、あゆみは言い返した。「何があったの? お父さん、話して! 典子は私の一番仲のいい友だちだったわ。その子のお父さんが首を吊ったのよ」
「俺のせいじゃない!」
いきなり神田はパッと立ち上った。「俺が悪いんじゃない!」
「お父さん」
と、言ったのは、あゆみではなかった。
「百合子……」
「お母さん。——お風呂かと思ったわ」
「そう簡単にお湯は入らないわ」
と、百合子は言った。「あゆみ。お父さんを問い詰めないで」
「でも、本当のことを知りたい」
「知ってどうするの?——見当はついてるんでしょう」
「お父さんは……会社のために、協力したのね」
「ああ」
神田は肯いた。「——組合の反対で、もめないように、本社に頼まれて、こっそり組合を分断した。いいポストを約束して、工場閉鎖がすんなり行くよう、説得したんだ」
「そのおかげで、この家が——?」
「確かにそうだ。本社から準備金ももらったし、この家も安く買えるように、はからってくれた」
「そう……」
あゆみは、何も感じなかった。今は、感じる勇気がないのかもしれない。
「あゆみ」
と、百合子が言った。「お父さんを責めないで。私たちのために、と思って、そうしたのよ。それに——お父さんが一番辛い思いをしてるわ」
「お母さん」
あゆみは立ち上り、居間を出ようとして、言った。「典子に、そう言える?」
そして、二階へと駆け上って行った。
4
折原和子は、三屋典子の家の前まで来て、足を止めた。
誰かが、玄関の戸に何か貼っている。
「何してるんですか?」
と、和子が声をかけると、振り向いたのは、工場の課長の一人だった。
「や、こりゃ先生」
と、会釈して、「いつも子供がお世話に」
和子は、貼ってある紙を見て、
「これ……。二週間以内に立ち退けって、どういうことなんですか」
「会社の決りでしてね。もう、うちの社員はいなくなったわけですから。社宅には置いとけないわけです」
「それにしても……。ここには、病気の奥さんと三人の子供しかいないんですよ。二週間で出て行けなんて……」
「規定ですからね、これが」
「だって、どうせ工場がなくなれば、新しい人がここに入るわけないんですから、閉鎖までいたって、構わないじゃありませんか」
「いや……しかし、本社の方では、一応、電気、ガス代とか、補助もしていますから、経費のむだづかいは——」
「分りました」
和子は、大声を出したいのを、何とかこらえていた。「もう行って下さい」
「失礼します……。ま、これが規定ですんでね」
と、言いわけがましく、呟きながら、帰って行く。
和子は、その課長がいなくなると、貼紙をつかんではぎ取り、引き裂いた。——そんなことをしても、この家の人々は救われない。しかし、せめて、そうでもせずにはいられなかったのだ……。
「——ごめん下さい」
と、中へ入って、「奥さん。——典子さん」
と呼んでみる。
誰も返事をしない。夜だし、いないわけがないのに。
昼間の、お葬式の時にはゆっくり話ができなかったので、これからのことなど、典子と話そうと思って、やって来たのである。
「誰かいませんか」
上るのもはばかられて、迷っていると、戸が外からガラッと開いた。
「あら、先生」
近所の奥さんが、典子の弟と妹の手をひいて、立っていた。
「どうも。——その子たちは?」
「悪いけど、夕飯食べさせてやってくれ、って、典子ちゃんが頼みに来て。お葬式の後始末で忙しいっていうんでね」
「そうですか。じゃ、典子さんは……」
「家にはいるはずですけど」
和子は、不安になって、上ってみることにした。
「典子さん。——典子さん」
襖を開け、和子は息をのんだ。典子が倒れている。
「典子さん!」
駆け寄って、和子は典子の胸に耳を押し当てた。——鼓動は確かだった。
「大丈夫だわ。でも……気を失ってる」
和子は、ふと思い当った。この状態は、この前、典子が授業中に突然倒れた時と、よく似ている。
いくら起しても、起きようとしないのだ。
「自然に目を覚ますでしょう」
と、和子は言った。「たぶん——疲れが出て」
「お母ちゃんは?」
と、妹の方が言った。
「そうね。捜してみましょ」
和子は、立ち上って言った。
あゆみは、ベッドに突っ伏して、しばらく泣いた。
しかし、人間、どんなに悲しいことがあっても、永久に泣いているわけにはいかないのだ。
あゆみは、ゆっくりと体を起して、手の甲で目を拭った。
「ハンカチ、いる?」
と、誰かが言った。
いや、あゆみには分っていた。振り向くと、典子が、勉強机の前の椅子に座っていた。
「典子……」
「会いたかった」
と、典子は言った。「凄いね、人間の愛情って」
「典子、あなた……」
あゆみは、もちろん、典子が当り前のやり方でここに来たのでないことは、分っていた。
こんなことがあるものなのか、信じられなかったが、今、目の前にいるのは、確かに典子だった。
「本とか、一杯読んだの」
と、典子は言った。「超能力とか、空間移動とか。でも、結局は、本当にその人のそばにいたいって思いが、どれくらい強いかで決るんですって」
「そう……」
「言ったもんね。二人はいつまでも友だちだって」
「うん、言ったね」
しかし——友だちでいられるのか? 何もかも知ってしまった今となっては。
「お父さんのこと、気の毒だったね」
と、あゆみは言った。
「うん……。でも、もう戻って来ないし」
と、典子は自分へ言い聞かせるように言って、「——あゆみ、凄くきれいになったね。お嬢様って感じ」
「よして」
あゆみは、思わず目をそらした。
「あゆみ……。私のこと、怖いの?」
「いいえ」
「私、幽霊じゃないのよ。いうなれば——魂だわ。自分の一番願ってることを、形にするのよ」
「典子……。でも、もうあのころのことは、終ったんだわ」
「でも、それは大人の都合でしょ。私たちは友だち。ね、そうでしょ」
あゆみは、やっと笑みを浮かべて、
「そうね……。友だちだわ」
と、言った。
その時、ドアの外で、
「あゆみ」
と、父の声がした。
あゆみはハッとした。
「ね、まずいわ、ここにいちゃ」
と、立ち上る。「お父さん、待って!」
ドアを開けて、父が入って来た。
典子は目を開き、そっと頭をもたげた。
暗く、静かな家の中に、すすり泣きの声がしている。もう、父の葬式は終ったのに、誰が泣いてるんだろう?
典子は、ゆっくりと立ち上った。
襖を開けると、
「——先生」
「典子さん! 目が覚めたのね」
和子は、涙を拭って、「やっぱり、前と同じように?」
「びっくりしました? ごめんなさい。私、あゆみの所へ行ってたんです」
「典子さん……」
「本当なんです。ちゃんと今、あゆみと話もしました」
「典子さん、聞いて」
和子が、典子の肩に手をかけた。「お母さんが……」
「え?」
「弱ってらしたせいもあるんでしょうけど。ご主人が亡くなって、寂しかったのよ」
「母が——お母さん!」
「台所で——待って!」
和子は、必死で、典子を押し止めた。「待って、典子さん!」
「お母さん!」
「包丁で喉を突いて——」
典子は、和子の手を振り切って、台所へと駆け込んで行った。
「誰と話してたって?」
と、神田は言った。
「典子よ。三屋さん」
と、あゆみは言った。「信じないでしょうけど」
「あの三屋の娘が——どうしてこんな所に来るんだ」
神田は、首を振って、「なあ、あゆみ。お前の気持は分る。——しかし、世の中、きれいごとだけじゃ生きて行けないんだ。分るか?」
あゆみは、ベッドに腰をかけて、父の、古くさい話を聞いていた。
「お前には、貧乏させたくない。そう思ったから、お父さんはああして、組合を裏切ったんだ。しかしな、悔んじゃいないぞ。そうだとも。母さんやお前を、暮しのために働かせたりしたら、そっちの方がよほど悔んでいただろうな」
あゆみは、黙っていた。
「——何か言ったらどうだ」
と、父が不安げに言う。
「言ってどうなるの?」
と、あゆみは肩をすくめた。「お父さんは正しいと思ってやったんでしょ。だったら、私がどう思おうと関係ないでしょう。私だって、そのおかげで、こんなきれいな家に住んで、名門校へ通ってるんだから」
「あゆみ。お前は——」
神田は、言いかけて、ギョッと目を見開いた。「——何だ、あれは!」
あゆみは振り向いた。父が見ているものを、あゆみも見た。
「典子!」
典子が、部屋の隅に立っていた。あの黒い服は同じだ。しかし、両手は血で真赤になり、服の上にも、血はこびりついていた。
「どうしたの、典子!」
と、あゆみは叫ぶように言った。
「消えろ! こんな——こんなことがあるか!」
神田は、真青になって、怒鳴った。「畜生! こんなのは幻だ! 幻覚だ!」
「お父さん——」
「どけ!」
神田は、手をのばして、椅子をつかんだ。
「何するの!」
あゆみが父の手にしがみつく。
すると、典子が、燃えるような目を神田へ向けて、
「聞いたわよ!」
と、絞り出すような声で言った。「ひどい人! お父さんを——お母さんも、後を追って死んだのよ!」
「化けもの! 出てけ!」
神田が、椅子を振り上げると、典子の上に振り下ろした。典子が叫び声を上げて、倒れる。
「——典子!」
あゆみは、駆け寄った。
神田は呆然と突っ立っている。——まさか、本当に、そこに人がいるとは思わなかったようだ。
典子は額から血を流し、ぐったりと倒れていたが、あゆみが抱き起すと、目を開いた。
「あゆみ……」
「典子。——しっかりして! 今、救急車を——」
「やめて……。このままじっとしていて」
と、典子は、かすれる声で言った。
「でも——」
「あゆみの腕の中で……死ねるなんて」
「馬鹿言わないで! そんなに簡単に死にゃしないわ!」
「私、あゆみみたいになりたかった……」
と、典子は言った。「あゆみは……私の理想だったもん……」
「典子——」
「いつも——そばに」
典子の体が、フッと、かき消すようになくなった。そして——カーペットに、赤く血のしみが広がって、その中に、割れたメガネだけが、落ちていたのだ……。
和子は、打ちひしがれて、座っていた。
典子の写真が、じっと自分を見下ろしている。——笑っているのが、却って辛かった。
むしろ、にらみつけるか、責め立てるような目で見ていてくれたら、と思った。
町の公民館は、ガランとして、人の姿はなかった。——夜になっていて、もう、典子の弟と妹も、近所の奥さんの家へ戻っていたのである。
ただ一人、和子が、典子の棺の前に、座っていた。
一体何があったのか。母の死のショックで、何かに頭を打ちつけたのか……。誰にも分らなかった。
確かなのは、典子が死んだということだけである。——母親の方が一足早く、遺骨になった。
典子の死体は、一応警察で調べなくてはならなかったのだ。
自分は何をしていたのか。生徒が死ぬとき、そばについていながら、何をしていたのか……。
和子は、涙がこみ上げて来るのを、じっとこらえた。泣いたら卑怯だ。泣いて、逃げてはいけない。
自分がやったこと、やらなかったことを、しっかり見据えるのだ。
誰かが入って来た。——振り向いて、和子はびっくりした。
「神田さん!」
あゆみが、立っていたのだ。
「——典子に、返すものがあって」
と、あゆみは言った。「私は、典子みたいに純粋じゃありませんでした。電車で来たんです」
「そう……」
あゆみは、焼香すると、
「——先生、これを典子に」
と、割れたメガネを、取り出す。
「これ……。どこで?」
「私の家です。典子、本当に、うちへ来たんです」
「じゃあ……」
「父が——父がやったんです」
あゆみは一部始終を、和子に話して聞かせた。
「そんなことが……」
「父がやったといっても、誰も信じてくれないでしょう」
あゆみは、赤い目で、写真を見て、「父は、償いをする、と言ってます。何とかして、工場に残った人たちの働き口を捜す、と。頭を下げて頼んで回る、と言ってます」
和子はゆっくりと肯いた。
「——それですむことかどうか、分りませんけど」
「どうしようもないことだったのよ」
と、和子は首を振って言った。「ね、これを、かけてあげましょう」
「ええ」
二人は立ち上って、棺の中に眠る、典子の顔に、そっとメガネをかけてやった。
翌日、典子の葬儀がすむと、あゆみは東京へと戻って行った。
和子は、あゆみを見送って、町へと戻った。
町は相変らず、寂しく、灰色に見えたが、それでも和子は、どこかこれまでと自分の心が違っているのを感じていた。
それは何だったのだろう?
町は、日を追って、さびれ、やがて消えて行くかもしれない。しかし、人はたとえ方々へ散っても、決して変らず、揺るがないものがある。
典子が、自ら身をもって証明したように、人と人との絆は、時に、空間や時間さえ超えてしまうのだ。
和子は、そこまで突きつめ、思いつめた、典子の心を思いやると、いじらしく、また嬉しかった。——誰にでも可能ではないとしても、この世に奇跡が存在すると知ることは、すばらしかった。
それも人の愛の力が、それをなしとげたのだから。
「先生、こんちは」
と、生徒が、声をかけて行く。
「こんにちは」
和子は、笑顔で答えながら、あの子たちの明るさの中に、この町が生き続けるのだ、と思った。
「先生、頑張って」
——どこかから、典子の声が聞こえたような気がして、和子は思わず周囲を見回したのだった。
雨 雲
1
「いやだなあ……」
と、隣で雄二が呟くのが聞こえて来る。
「何がだよ」
分っているくせに、紳一は訊いてやった。退屈してもいたのだ。
どうしてみんな、運動会なんてものに熱中できるんだろう? ただ、走ったり、よじ上ったり、けとばしたり……。
そんなことして、何が面白いんだ?
本当に、紳一はそう思っていた。——小学校六年生としては、いささかひねくれていると思われそうだが、なに、内心同じように思っている子は決して少なくない。ただ、何となく面白いふりをして見せてるだけさ……。
「お前、平気なのかよ」
と、雄二が言った。「もうこれが終ったら徒競走だぜ」
「知ってるよ」
「俺、遅いからさ。いやなんだ」
と、雄二は、仏頂面をして、「いくら一生懸命走っても、親父は決って怒るんだ。『あんな風に初めっから気を抜く奴があるか!』って。かなわねえよ」
雄二は確かに、太っていて、見るからに走るのは苦手そうだった。しかし、それを言えば、紳一だって同じことだ。
運動全般、ともかく得意でもないし、好きでもない。小柄で、ヒョロッとやせていて、全力で走ったりすると、たちまち貧血を起す。
ただ、紳一は、たとえ「かけっこ」でびりになったって、雄二みたいに、怒られたりはしない。
紳一は一人っ子で、しかも父を早くに亡くしているせいもあって、母は、紳一が少々煩しく感じるくらいに、可愛がってくれている。
無理に頑張って走って、貧血でも起そうものなら、
「あんなものいい加減に走っときゃいいのよ!」
と、意見してくれるくらいである。
でも、今日も走らなくてすむだろう。——きっと。
青空はまぶしかった。生徒は全員地べたに座っているので、お尻が痛い。
ピッと笛が鳴って、前のゲームが終った。
紳一は、空を見上げた。——開会式の校長先生の挨拶の通り、「絶好の運動会日和」である。
ところどころ、雲は浮かんでいるが、この分なら、今日一日の快晴は間違いなし、というところだった。
「やれやれだ」
と、雄二が渋々立ち上る。
徒競走は全員が走るので、時間がかかる。——まだいいや、と紳一は思った。
赤、白、緑に色分けされたチームごとに、走る。六年生は最後なので、ずいぶん待っていなくてはならなかった。
「——もうすぐだぜ」
と、雄二が情ない声を出した。「畜生、急に雨でも降らねえかな」
紳一は、空を見上げた。——もちろん、雨など降りそうにない青空。バン、バン、とスタートのピストルの音が空を駆け巡っている。
すると——青空の一点に、ポツン、と小さな黒い影が浮かんだ。誰も気付いた人間はいないだろう。紳一以外には。
「おい、みんな少し手足をほぐしとけよ!」
と、担任の先生が声をかける。
紳一は、何もしなかった。そんな必要はないのだ。——そうだとも。
ふっと日がかげって、みんなびっくりしたように空を見上げた。
いつの間に。——誰もが目を丸くしている。
黒い雨雲が、太陽を遮って、ちょうどこのグラウンドの真上辺りに広がりつつあった。
「何だ、あんなに晴れてたのに……」
と、先生が渋い顔で、「早くやろう。——おい! 急げ!」
雄二が、胸をドキドキさせている様子で、
「おい、降るかな、雨?」
と、紳一に訊く。
「たぶんね」
と、紳一は答えた。
「——よし、次!」
と、先生が怒鳴った。
ポツン、と頭に軽く当る感触。ポツン、ポツン、と落ちていた雨滴は、パタパタと音をたててグラウンドの土を叩き始めた。
「雨だ!——おい、校舎へ入れ!」
先生が、大声で生徒たちに言った。
紳一は、みんなが駆け出して行くのを眺めながら、のんびり歩いて行った。——大丈夫。まだひどくは降らないよ。
父母席にいた親たちも、突然の雨で、もちろん傘もなく、先生たちがあわてて体育館へと誘導している。
紳一は、校舎に入ると、少し濡れた髪の毛を、タオルで拭いた。
OK。——さあ降れ。思いっ切り。
雨は、グラウンドの風景をかき消すばかりの勢いで降り始めた。
先生たちが、頭からずぶ濡れになって、右往左往している。
「やった、やった!」
と、雄二が飛び上って喜んでいる。「これで走らなくてすむぜ、なあ!」
「そうだね」
紳一は、窓から激しく降りしきる雨を眺めながら、ポツリと呟くように答えた……。
2
「天気はどうだ?」
起きて来て、まずそう訊くのが、坂本の日課のようになってしまっていた。
といっても、坂本は気象庁に勤めているわけではない。
「大丈夫。いいお天気よ」
と、洋子が答える。「天気予報でも、今日は一日、大体晴れですって」
「そうか……」
それから、坂本は、おもむろに欠伸をするのだった。
「今朝はオムレツを作ったから、食べて行ってね」
と、洋子が台所から声をかける。
「分った」
坂本は返事をしながら、パジャマを脱いで、ベッドの上に放り投げた。
顔を洗って、ひげを剃り、鏡の中の自分の顔に見入る。——三十四歳としては、若々しく見える。ゆうべは少し早めに眠ったし、この数日はアルコールも控えて体調を整えていた。
よし。——大丈夫だ。
鏡の中の自分へ、坂本は肯いて見せた。
もちろん、まだ目が覚めて五分ほどしかたっていないから、多少は眠そうだし、頭も少しぼんやりしているが、朝食をとる間に、ちゃんとエンジンが回り出すに違いない。
ダイニングへ行くと、洋子がコーヒーをいれて待っている。
「今朝は豪勢だな」
と、坂本は椅子を引いて座りながら、「食べ過ぎて、お腹を痛くしないようにしなきゃ」
「小さめのオムレツよ。ちゃんと栄養つけてくれなきゃ」
「君の方こそ、だろ」
坂本は、大きくせり出した妻のお腹へ目をやりながら言った。
洋子は二十七歳。少しきゃしゃに見える体つきだが、病気はあまりしない。しかし、もう予定日は二週間ほど先に迫っている。
「調子、どうだい?」
と、朝食をとりながら、坂本は言った。
「順調よ。時々けとばすから、びっくりして目を覚ましちゃう」
と、洋子は笑った。
——七つ違いの坂本と洋子は、三年前に結婚していた。洋子は妊娠するまで共働きをしていたが、今はずっとこの家にいる。
「明日の仕度をしとけよ」
と、坂本は言った。「今日はできるだけ早く帰るけど」
「無理しないで。明日休めるのなら、それでいいのよ」
「休むさ。今日さえすめば——」
電話が鳴り出した。こんな朝から、誰だろう?
洋子が出て、
「——あ、おはようございます」
言い方で分る。坂本はコーヒーで、口に入れていたパンを流し込んだ。
「はい、紳一さんに代ります。——あなた、お義母さん」
「分った。——もしもし」
「紳一? どうなの、今日は」
と、母のしっかりした声が聞こえて来る。
「どう、って?」
「大切な日なんでしょ? ちゃんと憶えてるんだからね、母さんは」
「心配することないよ」
と、坂本は苦笑した。
「いい? 落ちついてね。あんたは昔から人前に出るとあがる子だったから」
「もう子供じゃないぜ」
と、坂本は言ってやった。「じゃあ、もう出かけないといけないから」
「はいはい。頑張って。こっちでお祈りしてるからね」
と、母は言った。
きっと、冗談でなく、本気でお祈りしているに違いない。
「いつまでも子供扱いだ」
と、席に戻ると、坂本はアッという間にオムレツを平らげた。「——もう出るかな」
今日は、坂本の「課長昇進試験」の日である。その資料や、準備したスライドを持って行かなくてはならない。
いつもより少し早目に出る必要があった。
「ご心配なのよ、お義母さんは」
と、洋子は言った。「ネクタイ、どれにする?」
「どれがいいかな。君、決めてくれ」
「ええ、いいわ」
洋子は嬉しそうに言った。
——坂本の勤める会社は、何万人という社員を抱える大企業である。TVコマーシャルでもよく名が売れており、他人に説明するには苦労しないが、同じ世代での出世競争には激しいものがあった。
つまり、ポストの数に対して、同世代の社員が多すぎるのである。しかも、大企業なので幹部が一人一人の業績に目を届かせるのは難しい。
その結果生れたのが、「課長昇進試験」である。——三か月前に、幹部会から出されたテーマについて、自分で調査し、資料を揃えて、発表しなければならない。それも、社長、常務以下、十数人の幹部がズラリと並んでいる前で、である。
今日、その試験を受けるのは七人。その内の二人だけが、「課長」のポストを次の人事で約束される。多くて二人だ。一人も合格しないことも珍しくない。
この三か月、坂本は家に帰らないこともしばしばだった。——洋子の体のことを考えると心配だったが、仕方ない。
何しろ、何もなくても夜中に帰ることが年中だ。それに加えて試験の準備である。時には会社に泊り込むこともあった。
坂本だけではない。一緒に試験を受ける者、誰もがそうだったのである。
「あなた。もう行った方が」
と、洋子が言った。
「うん。じゃ、今日は早く帰るからな」
「ええ。——気を付けて」
洋子は家の外へ出た。
郊外の一戸建。ここを買って二年になる。空気もいいし、緑も多いが、その代り、駅までは車で出るしかない。電車で一時間十分——。
ぜいたくは言えないが、疲れ切って帰る身には長い距離だった……。
洋子は青空を見上げた。
「いいお天気ね」
「良かったよ。雨だとズボンの裾に泥がはねるからな」
坂本は両手一杯にかかえた資料を、車の後ろの席へ放り込むと、「じゃ、行ってくる」
と、洋子に微笑んで見せた。
「行ってらっしゃい」
と答えて、洋子はちょっと笑ってお腹に手を当てた。
「どうした?」
「この子も『行ってらっしゃい』って。お腹をけとばしてるわ」
「そうか」
坂本は笑った……。
洋子は、夫の車が見えなくなるまで、家の前に立って見送っていた。
何しろ見通しはいいので、車がずいぶん小さくなるまで、視野に入っている。
——新たに造成された住宅地だが、まだ実際に家が建っているのは三分の一ほど。夜になるといささか心細い。
特にこのところ、夫が帰らないこともあるので、戸締りは厳重にしていた。
家の中に入って、鍵をかけ、チェーンをかける。ちょっと顔をしかめた。
お腹の具合が——いや、もちろん、赤ちゃんのことだが——いつもと微妙に違うような気がする。気のせいかもしれないが。
夫には言えなかった、今日は夫にとって大切な日なのだ。——大丈夫。何てことはないんだわ、きっと……。
本当ならもっと早く——一か月前には実家へ戻っていたかった。しかし、洋子の実家は九州で、夫について行ってもらわなくては、不安だった。
この三か月、夫がそれどころでないことを、洋子はよく知っていた。社内でも優秀な若手の一人として、夫は張り切っていたし、プライドもあった。
今日がすむまでは……。洋子も、無理は言えなかった。
玄関を上ろうとして、郵便が一通、落ちているのに気付いた。——かがみ込んで拾うのもひと苦労である。
〈××クリニック〉? 何だろう?
ダイニングに入って、椅子に腰をおろすと、洋子は封を切った。
薄っぺらな紙が一枚出て来る。——〈請求書〉。
あの人、クリニックにかかったなんて、何も言ってなかったのに……。どこか悪いんだろうか? 〈カウンセリング料〉として、大した金額でもない請求が記してある。
カウンセリング? 洋子は首をかしげた。
まあいい。——請求があったからには、振り込んでおかなくちゃ。
忘れないように、洋子はその封筒を自分の大きな財布の中へ、たたんでしまっておいた。
さあ、片付けなきゃ。——皿やコーヒーカップを流しへ運んで、テーブルの上を拭こうとしていると、不意に下腹に痛みがやって来た。
じっと息を殺して、動かずにいると、やがてその痛みは遠ざかった。——何だろう?
まさか——もちろん、そんなことはない!
まだ早すぎる。まだ……。
慎重に、そろそろと動きかけて、洋子は急に部屋の中が薄暗くなったので、ドキッとした。自分の目がどうかしたのかと思ったのである。
そうじゃないんだわ。日がかげったのだ。——あんなにいいお天気で、雲なんかどこにも見えなかったのに。
何だか空気まで冷たくなって来たような気がして、洋子は軽く身震いした。
車は快調に飛ばしていた。
エンジンの音にも不安はない。——よし、今日はいいスタートだ。
坂本紳一は、自分の内に漲って来るエネルギーを感じていた。母や洋子は心配してくれるが、坂本はいささかもあがってなんかいなかった。
もちろん、実際に社長や常務の前に出れば、緊張するだろうが、それは却ってプラスにもなる。そういう場に強いのだ!
一緒に今日試験を受ける六人の中で、二人はこの三か月の間に胃を悪くして、何日か休んでいた。ストレスがたまったのだろう。
一人はノイローゼ寸前で、昨日も休んでしまっていた。たぶん今日も出て来ないだろう、と坂本は思った。
そういう連中に同情しないほど、坂本は冷たいエリートではない。坂本自身も、学生のころは目立たず、パッとしない、「普通の生徒」にすぎなかったのだ。