それが、社会へ出て、運良く今の会社に採用されると、たちまち頭角を現わして、同期の中でもトップを争うようになってしまったのである。我ながら不思議だった。
ともかく、会社が「合っていた」と言うしかない。——夫婦に「相性」というものがあるように、人間と企業にも、それはあるものなのだろう。
カーラジオのニュースでも、別に鉄道の事故とか遅れはないようだ。
駅に着いて、駐車場にこの車を入れて、それからゆっくりといつもの電車に間に合う。
そうだ。——すべてうまく行ってるぞ。
洋子の体のことは、ちょっと気になっていた。しかし、明日になれば、この三か月の、信じられないくらいの忙しさから、解放されるのだ。たった一日のことだ。
——あのヤブ医者め!
車は、まだ未開発の林の間を抜けていた。駅までは、ちょっとした「山越え」をしなくてはならないのだ。
買物は、反対の方角へ出て、スーパーに行く。そっちへはバスが通っているのだが、この道はまだ車でしか行けないのである。
しかし——ちょっとめまいや頭痛がしただけで、医者なんかへ行ったのが間違いだった。精神科の医者を紹介されて——それがとんでもない奴だったのだ!
何といったっけ?——そうそう。「過剰適応」とか。
つまり、世の中にうまく合せすぎてる、ってわけだ。会社では、無理をしている。本当は会社を嫌っていて、仕事がいやなのに、それを自分で押し隠してしまっている……。
全く、ああいう連中の言うことは!
俺は仕事を楽しんでいるのだ。張り切って、喜んでやりとげるのだ。
それが……「過剰適応」? 笑わせるなよ!
あんな医者のたわ言は、要するに、怠け者や負け犬に理屈をつけてやっているだけだ。もちろん人生、成功する人間ばかりじゃない。運の悪い奴もいるだろう。
だからって、成功することが悪いことなのか? 自分の力で、何かをなしとげるのが。
「今度の試験は受けない方がいいと思いますね」
と、あのヤブ医者は言った。
ふざけるな!——今、思い出しても、腹が立って仕方ない。
あんな奴の言うことを真に受けてたら——。
フロントガラスに、パタパタと何かが当った。——雨か?
坂本は、ちょっと舌打ちした。
あんなに晴れてたのに。——何てことだ。
天気予報も晴れだったんだ。通り雨だろう。
坂本は、少し意地になってワイパーを動かさずにいたが、やがて雨は本降りになって来た。
仕方なくワイパーのスイッチを入れる。
「——おい、どうしたんだ?」
ワイパーが動かない! 坂本はスピードを落した。
曲りくねった道で、前方が見えないと危険なのだ。
「このポンコツ!」
何度も叩いたり、切りかえたり、やってみたが、ワイパーは動かなかった。雨がフロントガラスを叩いて、前方はまるで幾重にもビニールで覆ったように、歪み、ぼやけて見えた。
落ちつけ。——大丈夫。時間は充分にあるんだ。
スピードを三十キロぐらいまで落して、じっと前方に注意を集中する。雨とはいっても、夜中ではない。全く見通しがきかないわけではないので、運転は可能だった。
よし……。この調子だ。
この道はずっと続くわけではない。あとほんの数キロで、下の平らで広い真直ぐな道に出る。
そこまでの辛抱さ。——そう、目が覚めていいじゃないか。
雨だって、その内にはパッと上るだろう。
しっかりとハンドルを握りしめて、曲りくねった道を辿って行く。
雨が、まるで激流のような勢いで、車を叩き始めた。
3
胃に痛みを感じて、部長の大井は、引出しを開けた。
そこには胃薬から、頭痛、風邪、乗りもの酔いの薬まで、およそ三十もの種類の薬が入っている。大井は、いつもそれを見るとホッとするのだった。
ええと……。胃の薬は——これか。
錠剤を二つ、手の上に出して、
「おい、水を持って来てくれ」
と、秘書の女の子に声をかける。
「はい」
慣れたもので、女の子の方も、もう水を入れたコップを、こっちへ持って来るところだった。
錠剤を二つ、口に含んで、水と一緒にのみ下す。——もちろん、こんなものがすぐに効くわけはないが、それでも何となく胃の辺りが軽くなったような気がするから、妙なものだ。
「おい」
と、大井は声をかけた。「坂本から連絡はないか」
訊いてから、さっきも同じことを訊いたな、と思い出したが、何くわぬ顔をしていた。
「ありません」
と、女の子が首を振って時計を見る。「珍しいですね。いつも、八時半までにはみえるのに」
「うん……。そうだな」
大井は、苛立っている時のくせで、五十という年齢の割には、すっかり白くなった頭へと手をやった。まるで髪の乱れが、すべての悪いことの原因だ、とでもいうように。
いつもなら八時半までに来ている。しかし今日は特別の日なのだ。いつもとは違うのである。
今朝は、八時半から坂本と二人で、今日の「課長昇進試験」のリハーサルをすることにしていた。これは他の部長たちも同様で、今、たぶんあちこちの会議室で、質疑応答の練習が行われているだろう。
大井の下から、今日試験を受けるのは、二人だった。いや、そのはずだった。
ところがその内の一人は、昨夜、胃から出血して、入院してしまったのだ。——全く、情ない奴だ!
大井は坂本に期待をかけていた。頭も切れるし、人当りも良く、見た目もスマートである。
馬鹿げているようだが、めったに課長以下の社員を目にすることのない社長などにとっては、見た目がいかにも優秀だというのは、大いにプラスの得点になるのだ。
坂本はその点でも合格だった。——加えて、この三か月の頑張りは、大井ですら体のことを心配してやりたくなるくらいだった。
そう。——あいつはきっとやってくれるだろう。
いつもより遅れているのは心配だが、まあ電車でも遅れているのかもしれないし、試験は午前十時からである。
あいつなら、大丈夫だ。
——大井を始め、部長たちが、これほどまでに部下の試験に入れこむのは、自分の部下から何人合格者を出すかが、部長の成績になって来るからなのである。
大井の所からはこの三年、一人も合格者が出ていない。受けた者は五人もいたのだが、みんなしくじっている。
それだけに、大井は坂本に期待をかけていたのである……。
「坂本さん、今日はテストなんですね」
と、秘書の女の子が言った。
「うん?——ああ、テストか。そうだよ。だから早く来ると思ったんだが」
「でも、奥さんがもう臨月なんですよ。いつ生れてもおかしくないくらいだって」
「そうか。——もう、そんなだったかな」
「明日はお休みとって、ご実家へ送ってくっておっしゃってました」
と、女の子が言った。「でも、大変ですねえ。学校出ても、またテストだなんて。私なら絶対いやだ」
大井はちょっと笑って、
「女の子は可愛きゃいいのさ。それで合格だよ」
と、言った。
「あ、部長さん、それ、セクシャルハラスメントです」
と、女の子が笑う。
「部長、おはようございます」
と、田口がやって来る。「昼から大阪へ行って来ます」
「うん、ご苦労」
大井は、出張届に印を押した。
そういえば、田口も坂本と同期の入社である。もっとも、田口は営業マン的な性格ではあるが、それに頼りすぎて、独自の企画を立てる能力が欠けている。
たぶん、田口が「課長昇進試験」を受けることはないだろう、と大井は思った。
「今日は坂本の晴れの日ですね」
と、田口が言った。「あいつならやりますよ」
「そう期待してる」
と、大井は肯いた。
「まだ来てないんですか? じゃ、きっと——」
と、田口は言いかけて、言葉を切った。
「何だ。何か用があると言ってたのか?」
「いえ、そうじゃないんです。もしかしたら、クリニックに寄って来るのかな、と思って——」
「クリニック?」
大井は眉を寄せた。「どこか具合が悪いのか」
「どうなんでしょう」
と、田口は肩をすくめて、「ただ、前に精神科の医者にかかってる、と聞いたんで」
「精神科だと?」
大井は、訊き返した。「確かなのか」
「本人が、そう言ってました。まあ、あいつみたいにエリートだと、それこそ色々ストレスもたまるでしょうし……」
「そうか。——それで何か言ってたか?」
「いえ、何も。大したことないようでしたよ」
「そうか……」
「では、行って参ります」
田口が一礼して席へ戻って行く。
大井は、お茶を飲んだ。——坂本が精神科医に?
なぜ黙っていたんだ?
もちろん大したことはないんだろう。しかし、もし……。
大井の目は、まだ主の来ていない、坂本の席の椅子へと向けられていた。
——田口は、自分の席に戻って、忍び笑いしていた。
坂本の奴! ちょっとは失敗する惨めさを経験するんだな。
大井部長が、ノイローゼになったりする部下を見ると、「精神がたるんどるからだ」と、いつも怒っているのを、田口はよく知っている。
坂本があのクリニックから出て来るのを見かけたのは、もちろん偶然だった。田口は、いつかこれを使ってやろうと思っていたのだ。
今日は正に、最適の日だった。
人の足を引張るぐらい、面白いことはない。——特に同期の出世頭の、頭に来る奴なら、なおさらだ。
しかし……どうしてあいつ、まだ来てないんだ?
田口も、坂本の席へと目をやって、思った……。
何てことだ!
こんな馬鹿な話があるか!——畜生!
坂本は、叫び出したかった。
雨は一向に弱まる気配もなく、もう三十分近くも降りつづけていた。ワイパーが動かない状態で、この豪雨の中、車を運転するのは不可能だった。
それに、歩いて行くにも、資料をかかえて、傘をさし、この雨の中を歩けば、資料は台なしだろう。
早く止め、止んでくれ!
固く握りしめたこぶしは、じっとりと汗がにじんでいる。——発表は十時からだ。
間に合う。まだ充分に間に合う。
坂本は、自分へそう言い聞かせていた……。
それにしても、どうしてこんな雨が——。
これは普通じゃない。
あんなに晴れていて、予報でも、雨が降るなどとは一言も言っていなかったのに。
こんなことがあるだろうか?
「——まさか」
と、坂本は呟いた。「そんなことがあるもんか!」
血の気が引いた。まさか!
この雨を、俺が降らせてるなんてことが……。
確かに、子供のころ、坂本は自分に不思議な能力があることを知っていた。雨を降らせたい、と願うと、本当に自分のいる辺りに雨雲を呼び寄せて、降らせることができるのである。
あまり運動の得意でなかった坂本は、よく、いやな体力テストや体育の時間、雨を降らせて逃げたものだ。
しかし——成長するにつれ、そんなことも忘れて行った。実際、自分の中にひそんでいた能力も、いつか消えて行ったようだったし、そんな必要を感じることも、なくなっていたのである。
自分の力で、苦手なことは克服できる。——それが坂本の今の信念だった。
会社へ入ってからは特に、すべてがうまく行った。仕事は充実し、面白かった。同期の社員の中でも、飛び切りの早い出世だったし、社内でも評判だった美人の洋子も射止めた。
そう。——すべて、順調だったのだ。
この雨が、今、それを邪魔しようとしている……。
しかし、そんなのは理屈に合わないじゃないか! 俺はちっとも雨を降らせたいなんて思っていないのだ。
それなのに、どうして降るんだ? こんなことが……。
不意に、静かになった。——車体を叩いていた雨が、ピタリとやんだ。
たちまち辺りが明るくなる。日が射して、まぶしく濡れた緑に反射した。
やれやれ、やっとか!
坂本は笑い出した。——ただの雨だったんだ。そうだとも!
さあ、行くぞ。急がなくちゃ。
エンジンをかけ、車をスタートさせる。ほんの十分もあれば駅だ。
大井部長が、さぞ心配しているだろう。電話を入れておこう。
車が走り出すと——何とワイパーが動き始めた。——坂本は呆気にとられて、
「この野郎!」
と、呟いた。「どうなってるんだ?」
ともかく——早く下りるのだ。下の道へ出ること。一刻も早く。
つい、アクセルを踏む足に、力が入った。
いつもなら、もっと慎重に運転しているのだが。
トラックが、道を上って来た。近道をするつもりなのだろう。ごくまれに、だが、こんなことがある。
坂本はハンドルを切った。トラックが坂本の車のボディをこする金属音がした。
坂本はブレーキを踏んだ。
車が大きく揺れて、茂みの中へ突っ込んで行く。
4
電話が鳴った時、洋子は居間のソファに横になっていた。
具合が特に悪いというわけではなかったのだが、何となく不安だった。どこか、いつもと違うという予感があったのだ。
早く、一日が過ぎてくれないかしら、と思った。早く過ぎて、あの人が帰って来てくれたら……。
ずっと、外は曇っていた。あんなに朝は晴れていたのに。——いや、まだ朝の内だ。
曇っていて、薄暗いので、まるで夕方のような気がするのである。
電話が鳴って、ゆっくりと洋子は起き上った。急ぐと、めまいがしそうだ。
「——はい、坂本でございます」
と、やっと電話に出て、洋子は言った。
「坂本君の奥さんですか」
「はい、さようでございますが」
「部長の大井です」
「あ、どうも。いつも主人が——」
洋子の言葉を遮って、
「坂本君はどうしたんです?」
と、大井は訊いて来た。
「は?」
「もう九時です。まだ会社へ来ていない。連絡もない。どうしたんです?」
大井の声はかなり苛立っていた。
しかし、びっくりしたのは洋子の方である。
「あの——まだそちらへ着いておりませんか」
「だから、電話してるんです」
と、大井は不機嫌そのものの声を出した。
「あ、どうも……。申し訳ありません。でも、いつもの通りに家を出ました。それきり別に電話も——」
「困ったもんだ! 今日は大切な日なのに」
「ええ、それは主人もよく分っておりますから……。何かあったんでしょうか」
「知りませんよ。奥さん、いいですか、ご主人の試験は十時から。まあ、彼は四番目に受けますから、十一時を過ぎるでしょう。しかし、今日、もしその時刻に現われなかったら、二度とチャンスは回って来ませんぞ」
そう言われても……。洋子は、夫の身が心配だった。
途中で何かあったのだ。それしか考えられない。
「——奥さん」
と、大井は言った。「このところ、坂本君の様子に、どこかおかしいところはありませんでしたか?」
洋子は戸惑った。
「おっしゃる意味が……」
「精神科の医者にかかっていることを、私には隠していた。何を診てもらっていたんです?」
「あの——私も存じません。請求書が——」
「何です?」
「請求書です。——今日、うちへ届いて、それで私も初めて……でも、ただのカウンセリングだと思います。おかしいところなんか少しも——」
「なるほど、どこかへ姿をくらましたのでないといいんですがね」
「まさか、そんな——」
「ともかく、もし電話でもあったら、十一時までに這ってでも来い、と言って下さい。いいですな!」
返事も待たずに、大井は電話を切ってしまった。
洋子は、しばし呆然としていた。
あの人はどうしたんだろう? 何か悪いことでも……。
まさか、とは思ったが、洋子は坂本の実家へ電話してみることにした。
「——あ、お義母さんですか、洋子です」
「あら、どうかしたの?」
坂本の母、かね子は、早く夫を亡くして、女手一つで紳一を育て上げた人だ。気丈で、近寄りがたい印象はあったが、洋子にやさしくしてはくれていた。
「実は」
と、洋子が事情を説明して、「そちらへも何も連絡していませんか?」
少し間があった。
「洋子さん。その精神科のお医者っていうのは何のことなの?」
「いえ、私も聞いていないんです。紳一さんは何も——」
「あなたは妻でしょう! どうして紳一のことが分らないの?」
洋子は、言葉を失った。義母から、そんなきつい言葉が出るとは、思ってもいなかったのである。
「ともかく、今日は紳一の大切な日なんですよ」
「それはもう——」
「紳一が、何かの理由で遅れるというのなら、上司の方にお願いしなさい。待って下さるように。それぐらいのこと、自分で考えたらどうなの」
「はあ……」
「後で電話しますから」
かね子は電話を切ってしまった。
——洋子は、どこか人里離れた場所へ、急に一人で投げ出されたような気持になった。
かね子の言葉の中に、洋子は今まで気付かなかったもの——「息子の妻への敵意」を、初めて聞きとった。
確かに、いつ電話して来ても、かね子は、洋子の体のことを訊いたりしない。
そのことに洋子は気付いていたが、大したことではないのだ、と思っていた。それが——。
ソファに戻って、洋子は、ため息をついた。——あの人はどうしたんだろう?
その時、激しい痛みが下腹を襲って来た。
坂本は、やっと駅前までやって来た。
疲れ切っていた。——しかし、車が少し傷ついただけで、何とか道へ戻すことができたのは幸いだった。
九時半になっている。——急がなくては。たぶん、自分の発表が十一時ごろになることは、分っていた。まだ何とか間に合うだろう。
車をいつもの場所へ停め、資料を手にして、改札口へと急ぐ。——次の電車まで十五分ある。
電話だ。——大井部長が心配しているだろう。
駅の中へ入って、ホームの下の公衆電話から、会社へかけた。
「——もしもし、部長ですか。坂本です。遅くなって——」
「どこにいるんだ!」
と、大井の上ずった声が飛び出して来た。
「駅です。あの——まだこれから電車に——」
「何をしてたんだ! いいか、今日になって休む奴がまた一人出たんだ。お前は三番目なんだぞ」
「すみません。途中でひどい雨にあって」
「雨だと?」
少し間があって、それから大井は笑った。
それは、坂本の聞いたことのない笑いだった。
「この上天気に雨か!——何かないのか、うまい言いわけが」
「いえ、本当です。局地的に——」
「どうでもいい。ともかく、前のがのびて、十一時にはなるだろう。今までの例ではな。その時に来ていなけりゃ、おしまいだぞ」
「必ず間に合せます」
と、坂本は言った。「必ず行きます」
「よし」
と、大井は言った。「雨がどうした、なんて言いわけはするなよ。社長の前でな。精神科の医者へ行ってるなんてことも言うな」
坂本は唖然とした。
「部長、それは——」
「ともかく、早く来い!」
大井は叩きつけるように電話を切った。
坂本は、受話器を戻すと、足下に置いた資料を抱え上げた。
冷たい水を浴びたような気分だった。——大井は、この三か月、親身になって、坂本の試験の準備を手伝ってくれた。
心から、坂本は大井を慕っていたと言ってもいい。しかし……。
今の、あの「笑い」の冷ややかさが、坂本の目を開かせた。
大井は結局、自分のために、坂本に受かってほしいのだ。それだけなのだ。それだけ……。
まだ十分あった。ホームに上ろうとして、ふと洋子のことを思い出す。
もしかして——大井は自宅へ連絡しているかもしれない。そうだとしたら、洋子も心配しているだろう。
どうせ、十分間は電車が来ないのだ。坂本はもう一度、公衆電話に向った。
——呼出し音が、五回、六回と聞こえたが、一向に出る気配はない。
どこかへ出かけたのだろうか? あの体で?
それとも——。
三度かけた。そろそろ電車が来る。乗り遅れたら、それこそ間に合わない。
諦めて切ろうとした時、向うが出た。
「もしもし。——洋子。——もしもし?」
「あなた!——あなたなの?」
苦しげな声がした。
「洋子か。どうしたんだ?」
「苦しいの……。陣痛らしい……」
「何だと?」
坂本は愕然とした。「大丈夫か! 救急車を——」
「やっと今……ここまで這って来たの……。あなた、事故にあったのかと思って……」
「俺は大丈夫だ。しかし——おい、しっかりしろ!」
「一一九番で……救急車を呼ぶわ。あなた、会社へ行って……」
「しかし——」
「お義母さんに叱られるわ、私が。ね、会社へ行って……」
「——分った。すぐ救急車を呼ぶんだぞ」
「ええ……」
電車の入って来る音がした。
「じゃ、もう行く。——また連絡するからな!」
坂本は、電話を切ると、資料を抱えて、ホームへと駆け上って行った。
洋子は、電話を切って、息を吐いた。
夫が無事だと分って、やや不安は薄らいだが、痛みは一向に軽くならない。とても自力では病院へ行けないだろうと思った。
救急車を呼ぼう。——そう思った時、何か耳を襲う、凄い音がした。
これは?——雨?
豪雨だ。ただの雨ではなかった。
家の中にいても、うるさいほどの音で、雨が叩きつけている。洋子はゾッとした。
何か、その雨の激しさには、「悪意」があるように感じられたのだ。
馬鹿なこと考えないで!——ともかく一一九番へ。
受話器をとってボタンを押そうとして……。洋子は、青ざめた。
発信音が聞こえない! 何度やり直しても、だめなのだ。
どこかで電話線が切れたのだ。
どうしよう?——雨に包まれた家の中で、洋子は、下腹を襲う苦痛に身悶えした……。
5
「もしもし」
と、坂本は言った。「部長ですか」
「どこにいるんだ? もう始まってるぞ」
と、大井が低い声で言った。
たぶん試験の会場の近くにいるのだろう。
「途中の駅です。——すみません、今日は行けそうにありません」
「何だと?」
「家内が陣痛を起して。病院へ無事に着いたか心配なんです」
「おい、何を言ってるか分ってるのか?」
「もちろんです。家内に万一のことが——」
「そんなもの、放っといたって生れるんだ! 今来なかったら、終りだぞ!」
大井の言葉には、坂本の妻への思いやりの、かけらも感じられなかった。
「——結構です」
と、坂本は言った。「ともかく、今日は家へ帰ります」
「おい、坂本!」
構わず、電話を切る。
坂本は、どうにも不安で、途中の駅で降り、もう一度家へかけてみたのだ。全くつながらないのを知って、戻るしかない、と決めたのだった。
——駅前の車に飛び乗ったのは、三十分後のことだった。
あの山道を、今度は慎重に、しかしできる限りのスピードで辿って行く。雨は降って来なかった。
洋子……。頑張れよ!
林の間を抜けて、家が見えて来る辺りまで来て、坂本は目を疑った。
青空が広がっている、その一画、そこだけに黒い雨雲が低くたれ込めて、激しい雨が降っているのだ。
何だ、あれは?
車は、家の少し手前から、激しい雨の幕へと突っ込んで行った。玄関の前に車を停めドアを開けて走る。
アッという間に、ずぶ濡れになった。
玄関を開けようとして、愕然とした。チェーンがかかっている!
洋子は中にいるのだ。
「洋子!——洋子!」
細い隙間から叫んだが、雨の音にかき消されそうだった。
ぐずぐずしてはいられなかった。——坂本は大きな石を拾うと、家の裏手へ回った。
窓を叩き割るのに、思ったより手間どったが、それでも、何とか、鍵をあけ、中へ入ることができた。
洋子が、居間の床で、体を折って、呻いている。
「洋子!」
駆け寄って抱き起すと、洋子は目を開けた。
「あなた……。会社は?」
「馬鹿! そんなこと、どうだっていい。一一九番は?」
「電話が——切れて——」
「そうか。よし、車で病院へ行こう。ひどい雨だが、車までの辛抱だ」
「ええ!」
「つかまれ!」
坂本は、唇をかみしめて苦痛に堪える洋子を支えて、何とか玄関までやって来た。
これは……。坂本は愕然とした。
玄関に水が流れ込んで来ていた。坂本の靴が浮かんでいる。
「あなた……」
「こんなひどい雨が……。畜生! なぜなんだ!」
俺は、たとえ会社が嫌いでも、洋子のことは愛しているのだ。それなのになぜ——。どうして降り続けているんだ?
「待ってろ。——おぶっていってやる。いいか」
「あなた……」
「俺は裸足でもいい。さあ、俺の背中に」
足を下ろすと、ふくらはぎの辺りまで水に浸った。
「無理だわ……。この雨じゃ……」
「馬鹿! しっかりするんだ!」
坂本はドアを開けた。正面から、雨が激しい風と共に叩きつけて来て、坂本は思わずよろけた。
これではとても——あの車までも進めない。
「あなた……。そばにいて」
横になった洋子が手を伸す。坂本はドアを閉めると、息をついて、妻の手を握った。
「——俺のせいだ。すまない」
「雨が?」
「ああ……」
坂本は、自分の、雨を降らせる能力のこと、そして、医者に、「本当は会社を嫌っている」と言われたことを、洋子に話した。
「しかし……もう止んでもいいはずだ。そうだろう? 俺は君を選んだんだ。会社なんかどうだっていい! 部長なんかぶっとばしてやる!——畜生! それなのに、どうしてこんなに降り続けてるんだ!」
「あなた……」
洋子は、深く何度か息をついた。「私の手をしっかり握っていてね……」
洋子の顔に、玉のような汗が浮かんでいた。
苦痛に、顔が歪む。
頼む……。止んでくれ。頼む。
坂本は祈った。——誰にでもいい。ともかく祈ったのである。
雨の音が……遠くなった。
気のせいか? いや——確かに——。
静けさがやって来た。雨が止んだ!
「やったぞ!」
坂本は、玄関へ下りて、ドアを開けた。
黒い雲は、信じられないほどの速さで散って行く。太陽が、まぶしい光を溢れさせた。
水がどんどんひいて行く。
「洋子! もう大丈夫だぞ」
と、駆け戻る。「おい、しっかりしろよ」
洋子が目を開け、夫の方を見て、肯いて見せた。
「さあ、おぶってやる!——起きられるか?」
「何とか……」
弱々しい声で、洋子は言った。
車まで洋子をおぶって行く間に、水はすっかりひいてしまった。
洋子を助手席に、車を運転していると、サイレンが聞こえた。
白バイが車のわきへついて、合図をする。スピードオーバーなのだ。
しかし、これが幸いだった。事情を話すと、白バイが先導して、一番近い総合病院へと連れて行ってくれることになったのだ。
赤信号もそのまま通過して、車は突っ走った。
「——どうだ? 大丈夫か?」
と、ハンドルを握りしめながら、坂本は訊いた。
「ええ……。今は少し」
「少しはツイて来たぞ。なあ。——恨まないでくれよ」
「あなた……」
「うん?」
「もし……私の身に何かあったら……」
「何を言い出すんだ!」
「聞いて」
と、洋子は言った。「あなたも、きっと気付くから。——あなたのその力は——きっとお義母さんから受け継いだのよ」
坂本は、愕然とした。そして——分った。
そうだったのか!
「洋子——」
「お義母さんは、あなたを奪った私のことを……恨んでいたのよ。それがきっと、あの雨になって……」
そうなのだ。それに違いない。坂本の力は、自分の周囲に雨を呼ぶだけだが、母の力は、遠くのどこかにも、雨を降らせることができるほど、強いのだ。
「ね、あなた」
と、洋子は、苦しげに喘ぎながら、言った。「お義母さんを恨んだりしないでね。何があっても。——当然のことなのよ、お義母さんが、私さえいなかったら、と思うのは……。無意識に、そう思っておられるだけなのよ」
「しかし——」
「ね、約束して。何があっても、お義母さんを恨まない、と……」
坂本は、震える声で、
「分ったよ……」
と、言った。
車は白バイについて、病院の救急入口へと滑り込んで行った。
「まあまあ」
と、かね子が赤ん坊を抱き上げて、笑った。「紳一とそっくり。まるで紳一が赤ん坊に戻ったみたいだわ。大して変らないけど」
「母さん、やめてくれよ」
と、坂本は苦笑した。「三十四の息子をつかまえてさ」
「あんたはまだ子供よ。この子をちゃんと育てられるのかね」
「もちろんさ」
「洋子さん、何でもやらせるのよ、この子に。これからの夫は、赤ん坊の世話ぐらいできなきゃね」
ベッドで、洋子は微笑んだ。
「そうしますわ」
「それじゃ……。私、ちょっと婦長さんにお菓子を買って来たから、渡して来るわ」
かね子が、赤ん坊をベビーベッドへ戻すと、紙袋を手に、行ってしまう。
「——忙しい人だな、相変らず」
と、坂本は苦笑した。
明るい日射しが、病室の中へ射し込んでいる。
「今日は雨が降りそうもないな」
と、坂本が言った。「お袋ぐらいの力があったら、大井部長の行ってるゴルフ場を大雨にしてやるのに」
「よしなさいよ」
と、洋子が笑った。「——部長さん、ご機嫌斜め?」
「いや、そうでもない。上の方がね、僕にもう一度やらせろと言ってくれたらしくて」
「まあ」
「しかし、どうでもいいよ」
と、坂本は、洋子の方へ少しかがみ込んで、「またそのために何日も家へ帰れない、なんてのはごめんだ。——なあ、課長にならなきゃ、愛想をつかすかい?」
「馬鹿ね」
と、洋子は笑った。
「少しカウンセリングを受けようと思ってるんだ。確かに、自分の生活ってものが、今まではなかったからな」
「人生、長いのよ」
「そうだ。仕事だけするにゃ、もったいないな」
「この子の名前、考えた?」
「うん」
「何か決めたの」
「晴男。どうだい? 晴れる男、で」
「本気?」
と、洋子は目を丸くした。
「候補の一つさ。相談して決めよう」
坂本は、外の光をまぶしげに見て、「しかし、あの時、突然晴れ上ったのは、不思議だったな」
「そうね」
「僕の祈りが通じたんだ。愛情がね。そう思うだろ?」
洋子は、夫の手を握りしめた。
夫には黙っていよう。——自分が、小さいころから、遠足や、運動会の日、たとえ雨になりかけても、雨雲を追い払い、きれいに晴れ上らせる力を持っていたことは。
あの時、洋子は、それを思い出したのである。
「そう思わないのか?」
と、坂本が重ねて訊くと、
「思うわ」
と、洋子は肯いた。
赤ん坊が、甲高い声を上げて泣き出していた。
敗北者
1
重く、からみつくような眠りだった。
必死で這い上り、抜け出そうとしなければ、永遠にでも眠ってしまいそうな……。
しかし——ともかく、目覚めたのである。目覚めていながら眠っている、とでもいうような、奇妙な気分だったが、それでも目覚めたことは間違いない。
頭をゆっくりとめぐらして、石毛安夫は息をついた。——その時から、何となくおかしいとは思っていたのだ。