石毛の家では、健康にいいというので、固い枕をわざわざ通信販売で買って、使っていた。初めに妻の美奈子が一つ買って、よく眠れるというので、追加注文で夫の分も買ったのである。
その固めの枕を、もうこの二年ほど使っていたから、石毛はその感触に慣れてしまっていた。
正直に言って、もともとは柔らかい枕に顔を埋めるようにして眠る方が、「眠った」という実感もある、と思っていたのだが、人間は慣れる動物である。このところ、旅行先で、妙に柔らかい枕に出くわすと、なかなか寝つけないこともあるくらいだった。
今、石毛がおかしいと思ったのは、いやに枕が柔らかかったからで……。ここはどこなのだろう?
家ではない。家なら、美奈子が必ず固い枕を使わせるはずだ。しかし、家でない所で目が覚めるというのは……。
旅に出ている記憶もなかった。出張も、ここしばらくはないはずだし。
それとも、これも「夢」なのだろうか。
いや——そうじゃない。
白っぽい天井が見えて来ると、石毛は、やはりここがどこかのホテルの一室だということに気付いた。それも、保養に行く温泉とか出張で泊るビジネスホテルの部屋ではないようだ。
なかなか洒落た部屋だし、広さも結構ある。一人で泊るにはもったいないくらいの、広いタイプの客室。おそらくツインルームだ。それを一人で使っているのだろう。
そんなぜいたくをしていられるのは、まず出張ではないからだ。出張の時の宿泊手当はビジネスホテルクラスの料金しか、出ないのだ。
カーテンが少し開いていて、光が射して来ている。朝の光で——冬の光は、ただでさえ弱いが——部屋は空気までまどろんでいるようだった。
少し、思い出して来た。
ゆうべはいやに酔って、気分が悪くなったのだった。——誰かの送別会で。
冬の夜風に震えながら、二次会、三次会と付合った。何といっても、石毛は係長で、次の課長ということになっている。あまり付合いでケチるわけにもいかないのだ。
付合ったあげくが、ホテル泊り?
——さぞ、美奈子が心配しているだろう。
この状態じゃ、とても家に連絡を入れる余裕があったとは思えないし……。
少し、体を起してみた。肌に直接シーツがこすれる。
裸で寝てた?——これには、石毛自身、びっくりしていた。この寒いのに!
ソファと、椅子の背に、自分の上着やズボンが、みっともなく放り出してある。早いとこ、顔を洗って、美奈子に電話を入れよう。
ベッドに起き上って、欠伸をした。その拍子に——。
鞄が、テーブルの上にのっている。紺の、学生鞄。
そして、気が付くと、石毛の服だけではない。ブレザーや、スカート、そして女性の下着が、床にまで散らばっている。
石毛は、ゆっくりと、隣のベッドに目を移した。
毛布を肩までかけて、石毛の方に顔を向けて眠っているのは、若い娘——どう見ても、十七、八の、高校生ぐらいの娘だった。
眠っている。——何をしてるんだ? こんな所で……。
いや、その娘を見たとたんに、こうなったいきさつを、石毛は思い出していた。娘がここにいることは、間違いでも何でもない。
ゆうべ、部下の若いのと別れ、疲れ切って入ったスナックで、この娘と会ったのだった。
店の奥に、ポツンと座って、何を飲んでいただろう?
何も飲んでいなかったような気がする。石毛がスナックへ入って行った時には、もう飲み終っていたのかもしれない。
そして——何の話をしただろう?
思い出せない。思い出して何になる?
このホテルへ入って、この娘を抱いてしまったのは事実ではないか。
酔った勢い? そうだとしても、したことは消えない。
ただ、こうして眠っただけではない。石毛は、この娘を抱いた時の、折れてしまいそうな、細い腰の印象、少し汗ばんで息を乱したその紅潮した頬の色も、はっきりと思い出せるのだから。
「——何てことだ」
と、石毛は、呟いた。
こんな若い娘と、俺は何ということをしてしまったんだ?
石毛は、何分間か、石像のようになって、身動きもしなかった。この現実を受けいれるのに、それだけの時間が必要だったのだ。
少女が、低い声でウーン、と言った。
石毛がギクリとして見ると、目が覚めたわけではないらしい。真直ぐ上を向いて、大きく二、三度呼吸すると、そのまま、また静かな寝息をたて始めた。
行ってしまおう。——石毛は、それだけしか考えなかった。
卑怯かもしれないが、それだからどうだというんだ? 俺には家庭がある。
妻があり、子がある。一夜、酒に酔って、我を忘れてやってしまったことで、妻や子を失うわけにはいかない。
そうだとも。——俺は、美奈子と、娘の郁江に対して、まず責任があるのだ。この見知らぬ少女に対する責任より、そっちを優先させるべきなんだ……。
いささか自分勝手な理屈と承知で、自分を納得させると、ベッドをそっと抜け出し、自分の服を拾い集める。
急いで服を身につけ、ネクタイは上着のポケットへねじ込む。早くここから出なくては。
そうか。——支払いがある。
少し迷って、石毛は札入れを出し、一万円札を三枚、テーブルの上にのせ、灰皿で押えておいた。——これでほとんど札入れは空っぽである。しかし、この少女に払わせるわけにはいかない。
これだけあれば、おつりが来るはずだ。それをこの少女がどうしようと、石毛には関係ない。
何もなかったかな、もう、忘れ物は……。
ふと髪が気になった。あんまりひどい頭で、出て行けない。
そっと鏡の前へ行って、薄明りの中で、くしを入れた。ひげは当っていないが、仕方ない。ともかく、これなら、ホテルのロビーを抜けて行っても、そうみっともないことはあるまい。
ドアの方へ行こうとして——少女が、ベッドに起き上り、毛布を裸の胸に抱きかかえるようにして、彼を見ているのに、気付いた。
「おはよう」
と、少女が言って微笑んだ。「早いのね」
「ああ……」
何を言っていいのか分らず、石毛は立ちすくんでいた。
「お風呂、入らないの? 目が覚めるのに」
少女は、こういうことに慣れているのか、あまり恥ずかしげではなかった。
「いや——会社へ行かなきゃ。仕事があるからね。もう……」
と、腕時計を見る。「八時半だ。急がないと」
少女は不思議そうに、
「今日は土曜日でお休みだって、ゆうべ言ってたじゃないの」
と、言った。
土曜?——そうだったか。
そう。だから、あんなに飲んだのだ。
「でも、私ももう眠れそうもないし」
と、少女は言って、手をのばして床に落ちていたバスタオルを拾い上げ、体に巻きつけて、ベッドを出た。
石毛は、ぼんやりそれを眺めていた。
「ちょっとシャワーを浴びて来るわ」
と、少女は言った。「待っててね」
「ああ……」
「安夫さん、って呼んでいい?」
少女はそう言うと、自分で少し照れたように笑ってバスルームへと駆け込んで行った。
石毛は、まだ自分が夢を見ているのではないかという思いを捨て切れず、そこに立ち尽くしていた……。
2
「どうするの、一体?」
と、美奈子は言った。
石毛は、目の前のお茶が、次第に冷めて行くのを、見ていた。手をのばして、茶碗を取り上げるのにも、勇気が必要だった。
「——どうって……」
「だから——」
美奈子は、少し声を高くした。「どうするのよ。私と別れて、その女の子と一緒になるの?」
「おい、よせよ」
と、石毛は、ため息をついた。「謝ってるじゃないか。——酔ってて、何も分らなかったんだ。お前と別れるなんて——」
石毛は、隣の居間でTVを見ている娘の郁江のことを気にして、声を小さくすると、
「別れるなんて、考えたこともないよ」
「そう」
美奈子は、両手をギュッと固く握り合せた。「——でも、その女の子は、あなたのことを好きなんじゃないの?」
「遊びだよ。今時の高校生だ。こんな中年男に本気で惚れやしないよ」
「でも、あなたの名前も、勤め先も、ここの住所も知ってるのね」
「ああ……。どうしてだか……」
「あなたが言ったからに決ってるじゃないの」
石毛も、否定はできない。
「——なあ、美奈子。二度とこんなこと、もう絶対に——」
「その子、名前は?」
と、美奈子は訊いた。
「うん……。確か、寺井佐知子といったな」
「寺井佐知子ね。——いくつなの?」
「十八だと言ってた」
「十八……。その子が、どんなつもりでも、あなた、その子に対して責任があるのよ」
「それは……。しかし、お前と郁江が俺には大切なんだ。当然だろう?」
お茶を、一気に飲んだ。
「——当然、ね」
美奈子は、目の下にくまができていた。ゆうべは夫の帰りを待って、このダイニングで、うたた寝しただけなのだ。
今まで、石毛は「朝帰り」というものを、やったことがなかった。どんなに遅くても、夜中、十二時か一時ごろには帰っていたのだ。
美奈子が気が気でなかったのも、当然だろう。しかも——帰って来て、こんな話を聞かされようとは……。
「あなた」
と、美奈子は言った。「郁江を連れて、どこかへ行って」
一瞬、石毛は青ざめた。
「おい、美奈子——」
「今だけよ。少し眠りたいの。郁江の相手、しててくれない?」
と、美奈子が言い直すと、石毛はホッとした様子で、
「分った。じゃ、何かお菓子でも買ってやろう。——おい、パパと買物に行こう」
石毛が、郁江の手を引いて、玄関の方へ出て行く。
美奈子は、玄関のドアが開いて、
「ほら、ちゃんとサンダルをはかなきゃだめだぞ……。寒くないのか?——よし」
と、夫の声がして、ドアが閉ると、そっと息を吐き出した。
ダイニングのテーブルに肘をついて、両手で顔を覆うと、美奈子はしゃくり上げるように泣いた。——ちょっと妙な涙で、どうしても泣かずにいられない、というほどでもないのに、まるで一つの手続きのように、泣いてしまったのだった。
もちろん——夫が他の女と、それも十八歳の女学生とホテルに泊って来た、というのはショックだった。
石毛が嘘をついているとは、美奈子も思っていない。実際に、酔った勢い、だったのだろうし、帰って来て、美奈子が問い詰めたわけでもないのに、謝って来たのは、石毛の正直さの現われでもある。
しかし、それでも夫が裏切った、という思いが美奈子の胸から消えるわけではなかった。
——美奈子は二十九歳。石毛とは七つ、年齢が違う。結婚した時、既に石毛は三十を過ぎていて、同年代の男にはない落ちつきがあった。
結婚して二年後に郁江が産れ、今、三歳である。
石毛は三十代の初めで係長になり、あと二年もすれば課長、と言われている。——別に美奈子は、夫が出世しなければ苛立つというタイプではなく、むしろ少し暇を作ってほしいと思う方だが、同僚の奥さんたちから、
「同期の人じゃ、一番の出世よ」
とか言われると、やはり誇らしい気持になった。
石毛は、人がいい。優しいし、美奈子にも気をつかってくれる。——反面、人と争うことを避けるために、言いたいことも言えない、というところがある。
しかし、美奈子は夫を愛していたし、幸せでもあった。この家庭を根っこから揺がすような問題は、起ったことがなかったのだ。——今日までは。
美奈子は、電話が鳴っているのに気付いた。
誰だろう?——立ち上って居間へ入って行き、電話へ手をのばしながら、一瞬、不安が胸をよぎった。
ゆうべ、夫が一夜を共にした女の子からではないか、と思ったのである。
この住所を知っているというのだから、電話番号を調べるのは簡単だ。
「もしもし」
と、探るような口調で言う。
もし、その少女なら、間違いです、と言って切ろうか、と思った。
「あ、美奈子さん?」
聞き憶えのある、甲高い声が飛び出して来て、美奈子は、ちょっと拍子抜けがした。
「多田さん? 何かしら」
と、美奈子は言った。
「あら、どうしたの、美奈子さん?」
「え?」
「鼻声よ。風邪?」
「え、ええ……。ちょっとね、このところ寒いし」
と、美奈子は言った。「大したことないの、鼻風邪程度で」
そう言わないと、お掃除やお料理をやってあげる、と言って、押しかけて来かねないのが、多田百合江である。
「まあ、気を付けてね。——あのね、今日、うちで健康食品の試食会があるの。来ない?」
「あら、そう。でも……」
「ご主人、関心あるんでしょ」
「うちの主人が?」
「この間、お邪魔した時に話したら、ずいぶん熱心に聞いてらしたわよ。今日、お休みなんでしょ?」
「ええ、でも——郁江と一緒に出てるの」
「あら、感心ね! でも、夕方までやってるから。そんなに遅くならないんでしょ、お帰り?」
いい加減にしてよ、と怒鳴り出したかった。——多田百合江は、昔、美奈子と同じ職場にいたのだが、たまたまこの近所に住んでいて、時折、付合っている。
もちろん百合江も夫、子供のいる身だが、派手で、およそ美奈子とは合わない。
それに百合江がやたらにこの家へ来たがるのも、美奈子には気に入らなかった。それも、石毛がいる時を狙って来る。
よりによって、こんな時に電話して来なくても、と美奈子は苛立ちながら、思った。
美奈子が泣いている、などと知ったら、きっと百合江は大喜びするだろう。ここは、ヒステリーを起してはいけない。
「でも、今日は三人で出かけるの。ごめんなさい。外で食事することになってるんで、帰り、遅いと思うわ」
スラスラと、口実が出て来る。
「あら、残念。じゃ、もし、何かで予定が変ったら、いつでも来てね」
変りゃしないわよ、と心の中で言って、
「ええ。どうもわざわざ知らせてくれてありがとう」
「ご主人によろしくね」
「ええ」
——受話器を戻す。
どうして、あんなに押しつけがましい言い方ができるのだろう? わざわざ人の家の中をかき回したい、とでもいうような……。
「とんでもないわ」
と、美奈子は口に出して言った。
自分に向って言い聞かせるように。
私は幸せなのよ。夫に満足しているんだし、夫も私に満足してる。あんな女の入りこむ余地なんて、どこにもないのだ……。
多田百合江からの電話が、却って美奈子を立ち直らせた。夫が、そんな若い娘とホテルに泊って来たというのは、ショックには違いなかったが、しかし、一度だけのことなら、いつか忘れて行くだろう。
考えようによっては、何も訊かれない内から、隠そうともせずにしゃべってしまった石毛は、それだけ後悔も本物だ、ということである。
そう。——今度のことは、なかったことにしよう。
美奈子はそう決めた。
一旦決心してしまうと、不思議なくらい、気持が軽くなり、自分があんなことで、くよくよしていたことが、不思議にさえ思えて来る。
「そうだわ」
多田百合江のことだ、本当に美奈子たちが出かけたかどうか、確かめようとして、また電話して来るかもしれない。
本当に出かけなきゃ。
美奈子は、外出の仕度を始めた。何といっても、夫や郁江より、三倍くらい時間がかかるのだから。
——鏡の前で、化粧しながら、ふと、思い当った。
寺井佐知子。その娘のことだ。
一度聞いただけの名前など、すぐに忘れてしまう美奈子だが、その名前は、まるで目の前の空中に書かれているかのように、思い出すことができた。
寺井佐知子、十八歳……。
その娘は、この住所も知っている。
訪ねて来るかもしれない。夫が言うように、一時の遊びにすぎないのだったらいいが、そうでないとすると、厄介なことになる。向うの親もいるだろうし。
何より避けなくてはならないのは、その娘がここへ押しかけて来ること、そして、石毛の会社へ行ったりすることだ。
そのためには……。
夫と、二度と会わせてはならない、と美奈子は決心した。
その娘のことは、自分で決着をつけなくては。——自分と郁江の「家」を、守らなくてはならないのだ。
何とかして、その娘のことを調べ、先手を打つ必要がある。——でも、どんな方法で?
美奈子は、鏡の中で活き活きと華やかに、若返り、輝いて来る自分を見つめながら、夫は、自分だけのものだ、とくり返し呟いていた……。
——郁江に安いオモチャを買ってやって、恐る恐る帰って来た石毛は、妻が、すっかりお洒落して外出の仕度を済ませているのを見て、青ざめた。
「おい美奈子——」
「出かけるわよ」
と、美奈子は言った。「あなたも仕度して。郁江にも、この間買ったワンピース、着せるから」
「どこ行くの?」
と、郁江は早くもはしゃいでいる。
「デパートに行って、それからお子様ランチを食べようね」
「うん!」
郁江がピョンピョンと飛びはねた。
石毛はポカンとしている。
「あなた、着替えてよ。置いてくわよ」
「ああ。——うん」
と、肯く。
「お金、持ってる?」
「金か? いや……」
「私が持ってくわ。——前から欲しかったバッグがあるの。五万円ぐらいかな。それを買わせていただくわよ」
「ああ」
「安いもんでしょ、あなたの浮気のお返しとしては」
そう言って、美奈子はニッコリ笑った。
石毛は、ホッとした。許してくれたのだ、と分ったのだ。
「そうだな。——俺も、何か買っていいか?」
「あなたはボーナスまでだめ」
美奈子はピシャリと言った。「さ、早く、仕度、仕度」
「分ったよ」
石毛は、あわてて洋服ダンスの方へ駆けて行った……。
3
美奈子は、もうずいぶん古びたスナックの扉を押して、中を覗いた。
外の明るさに慣れた目には、店の中は真暗に思えた。
「——はい」
カウンターの奥から、太った女が顔を出した。エプロンをつけて、髪を赤茶色に染めている。
化粧が濃いが、たぶんもう五十近いだろう、と美奈子は思った。
「まだ、開けてないんですよ」
と、女は、疲れたような声で言った。
「ええ、ちょっと、うかがいたいことがあって」
美奈子は店の中へ入った。「〈K〉ってお店、この辺に他にも?」
「うちだけですよ」
夫は、まだ新しい、洒落たスナックだ、と言っていたのだ。夜だから、そう見えたのだろう。
目が慣れて来ると、店の中が、ずいぶん埃っぽいのが分って来る。
「何ですか?」
と、女は言った。
そう迷惑がっている様子でもない。
「夜もずっと、ここにいらっしゃるんですか?」
と、美奈子は訊いた。
「ええ。私と亭主しかいませんからね」
「じゃ——先週の金曜日なんですけど、この店に、うちの主人が来たんです」
「忘れ物か何か?」
「いえ、そういうわけじゃないんです」
と、美奈子は言った。「主人がここで会った女の子から、物を預かって——。返したいんだけど、酔ってて、相手の住所とか忘れてしまった、と言うので」
我ながら、いい加減な理由だと思ったが、エプロンをつけた女は、別に疑いもしない風で、
「うちによく来る女の子なら、分るかもしれないけどね」
と、言った。「名前は分ります?」
「寺井佐知子という子なんですけど」
「寺井……」
女は、眉を寄せて、「寺井ねえ。——どこかで聞いたことがあるようだけど」
「まだ若い子です。十八歳とか」
「十八? どんな子?」
「学校の帰りらしくて、ブレザーの制服に学生鞄を持って——」
「ちょっと待って」
と、女は目を見開いて、「こんな店に女学生なんか来ないわよ」
「でも、主人が金曜日の夜に、確かにここで会ってるんです」
「おかしいわね」
と、女は首を振った。「そりゃ昼間は喫茶店だからね、ここは。たまに学生が来ることもあるけど……。夜なんだね?」
「かなり遅かったと思いますけど」
「じゃ、何かの間違いだね」
と、すっかり砕けた口調になって、「制服の子なんか夜は絶対に入れないよ」
絶対に、という口調なので、美奈子はそれ以上、何も訊けなくなってしまった。
「どこか、よその店の間違いじゃないのかな」
「そうですね。——すみません」
引き下がらざるを得ない。
店を出ようとすると、扉が開いて、ジャンパー姿の、大分髪が白くなった男が入って来た。
「畜生、寒いぜ、全く。——お客さん?」
「ね、あんた、この人がね……」
女の夫らしいその男は、話を聞いて、
「いや、そりゃおかしいね」
と、首を振った。「うちは制服の娘なんか入れませんよ。警察の補導員でも来たら、厄介だしね」
「そうですか。——先週の金曜日も、ここにいらしたんですか?」
「もちろん。交替する人手なんて、ありませんからね」
「分りました。——お邪魔して」
と、美奈子は頭を下げて、スナックを出た……。
確かに、外へ出ると、ついさっきまで陽が出ていたのに、ほんのわずかの間に、雲が出て、冷たい風が吹いていた。
夫は、あのスナックの名前を、すぐに思い出したのだが、あの夫婦が、嘘をついているとも思えない。
夫の記憶違いだろうか。相当に酔っていたはずだし、どこか外ででも会ったのを、勘違いしているのかもしれない。
少し行ったところで、
「奥さん」
と、呼ぶ声がして、振り向くと、あのスナックの主人が駆けて来る。
「何か?」
「いや——すみません」
と、息を少し弾ませて、「女房の奴に聞かれたくなかったんでね。——アパートに忘れ物をしたと言って出て来たんです」
「じゃ——その女の子のことで?」
「名前を、何といいました?」
「寺井佐知子とか……」
「なるほど」
と、主人は真顔で肯いた。「——まあ、たちの悪いいたずらかもしれませんがね」
「どういう意味ですの?」
わけが分らなかった。
「あの店はね」
と、主人が、美奈子を促して、アーケードの商店街の中へと入って行く。「前の持主から、かなり安く手に入れたもんなんです。もう五年前になりますがね」
「はあ……」
「女房は何も知らんので。——なぜ、そんなに安く手に入ったか、ということを、です」
「何か——特別な事情が?」
「人殺しがあったんです」
美奈子は唖然とした。
「一番奥の席で。——これは、もちろん私が直接見たわけじゃありませんよ。奥の席に、学校帰りの女学生が鞄を持って来ていたんだそうです。一緒にいたのは、確か、もう三十過ぎのサラリーマンで、妻子持ちの真面目な男だったそうですよ」
「その女の子と……」
「何のきっかけで知り合ったのかね。抜き差しならない仲になっていたらしくて。——まあ、どう見ても、世間の認める関係じゃない。追い詰められると、真面目な人間は怖いですよ。あの席で、突然刃物を出して、無理心中しようと……」
「まあ」
「他の客も逃げ惑って、大騒ぎだったようです。——その男も、結局、自分で喉を突いて死んじまったんです」
「何てこと……」
「で、当然、客も寄りつかなくなって、経営者が安く売ってくれたわけです。——私は一年ほど間を置いて、店の中を改装し、開店しました。周囲も変って、事件のことも忘れられていましたんでね。女房は未だにそのことを知りません」
「じゃ——」
と、美奈子は言った。「その時の女学生が寺井佐知子?」
「そういう名でした」
と、主人は肯いた。「親しい男にたまたま同じ寺井ってのがいましてね、憶えているんです」
しかし、妙な話だ。
「でも、五年も前のことでしょう? それに——『人殺し』があった、とおっしゃいませんでした?」
「ええ」
「その男の人は自殺したわけでしょう」
「もちろん、その前に殺したんですよ、寺井佐知子をね」
と、主人は言った。
買物の重い荷物を手にして、玄関の鍵をあけるのは、一苦労だった。
約束の時間は大分過ぎてしまった。——早く郁江を迎えに行かなくては。
近所の、親しい奥さんに郁江を頼んで出かけたのだ。——どんな重要な用件で出かけようと、帰りにせっかくだから買物を、と考えるところが、主婦の習性というものらしい。
それにしても……。
骨折り損というわけである。しかも、妙な因縁噺を聞かされて。
寺井佐知子と名乗った少女が何者なのかは分らないが、ともかく、本名を言っていないくらいだから、心配することはないのかもしれない。
今日は月曜日である。——もちろん、石毛は出勤しているし、家の中は何事もなかったように、穏やかだった……。
荷物を運び入れ、玄関の鍵、と思ったが、どうせすぐ郁江を迎えに出かけなくてはならないのだから、とそのままにしておいた。
台所へ運んで、冷蔵庫へ入れる物、冷凍庫へしまうもの、と分けてしまって行く。
「——これでいいわ」
寒いのに、少し汗ばむくらいだった。「——さ、早く行かなきゃ」
郁江はたいてい夕方のこの時間ぐらいになると、眠くなる。普段はおとなしいのだが、眠くなると、子供は誰でもそうだが、言うことを聞かなくなるものだ。
「あ、そうそう」
あの奥さんに、二百円借りてたんだわ。返しておかなきゃ、忘れちゃう……。
財布を手に、玄関へ——。
「失礼します」
と、玄関のドアが開いて、ブレザーの制服姿の少女が、学生鞄を手に、入って来た。
美奈子は、それが幻かもしれない、という思いで、しばらくぼんやりと眺めていたが——。
「突然、すみません」
少女は、丁寧な口調で言った。「石毛安夫さんのお宅ですね」
玄関に表札も出ている。違うとも言えなかった。
「ええ」
と、美奈子は言った。
「奥様ですか」
「ええ」
「あの——ご主人の知り合いの者ですけども」
なかなか、言い回しを心得てるわ、と美奈子は思った。石毛が、自分のことを妻に話しているかどうか、この少女には分らないのだから。
「主人は会社ですよ」
と、美奈子は言った。
「はい。奥様にお話があって、うかがったんですけど」
「私に?」
「はい。——よろしいでしょうか」
美奈子は迷った。
郁江を迎えに行かなくてはならない。それを理由に、帰ってくれと言うこともできたが、誰か来客中に来られたり、郁江がいる前で、少女に泣かれたりしても困る、と思い直した。
「上って」
と、美奈子は言った。
「お邪魔します」
少女は上って、靴の向きを変えて揃えた。今時の子はなかなかやらないことである。
——居間へ通すと、
「何か飲物でも? 紅茶とかコーヒーとか」
と、美奈子は言った。
「すみません。じゃ、紅茶を」
きちんと膝を真直ぐに揃えて、座っている。緊張しているというよりは、いつもこんな風なのかもしれない。
そう思わせるのは、いかにも落ちついた少女の印象のせいだろう。
可愛い、というよりも、大人びた美しさである。眉が描いたように鮮やかで、口もとにも気品があって、やや青ざめ、病的な感じはあるものの、確かに男性なら誰でも一瞬目を止めるに違いない、整った容貌である。
美奈子は、自分にも紅茶をいれて、いつもは使っていない高級なカップで出した。
「いただきます」
と、少女は言って、ゆっくりと紅茶を飲み始めた。
美奈子は、少女の美しさに、少し動揺したが、夫の気持はよく分っていたし、不安は全くなかった。
「主人から、あなたのこと、聞いたわ」
と、美奈子が言うと、
「そうですか」
少女は、ごく当り前のように肯いた。
「酔った上でのこと、といっても、やっぱり悪いのは主人の方よ。あなたにはすまないことをしたと言ってたわ」
「そんなこと……」
「あなた、十八ですって?」
「はい」
「男の人と、よくそんなことするの?」
初めて、少女はやや戸惑った表情を見せた。
「私……」
「初めてじゃなかったんでしょ?」
少女は少しためらってから、
「はい」
と、肯いた。「でも——この前は、ずっと前のことです」
「そんなに?」
「ずっと待っていました。——あのお店で。声をかけてくれる人が現われるのを。安夫さんが笑顔で話しかけて来てくれた時、本当に嬉しかったんです」
少女が安夫さん、と呼んだので、美奈子は表情をこわばらせた。
「主人のこと、安夫さん、なんて呼ぶ人、いないわ」
と、美奈子は言った。「私は、『あなた』とか、『パパ』と呼ぶから」
「そうですね。郁江ちゃんとおっしゃるんですってね。可愛いんだぞ、って自慢して——写真も見せていただきました」
あの人ったら、余計なことして!
そろそろ、はっきりさせなくてはならない。
「——あなた、名前は?」
「寺井佐知子です」
と、少女は言った。「すみません。ご主人から、お聞きかと思ってました」
「聞いてるわ」
と、美奈子は肯いた。「でも、それは嘘ね」
少女は、戸惑った様子で、
「どうして、嘘だなんて……」
「私、行ってみたのよ、あなたと主人が会ったっていうスナックまで」
美奈子は、真直ぐに少女を見据えて、「聞いたわ。五年前に、あのスナックで起きた事件を」
「じゃ——ご存知なんですね」
「寺井佐知子は、その時、殺されたのよ。あなたはその事件のことを知ってて、わざとその子の名を名乗ってるわけ?」
「いえ——」
「本当の名前も言えない、というのは、何か後ろめたいことがあるんでしょう。——主人や私にどうしろ、と? お金を出せ、というの?」
「そんなこと、考えていません」
と、少女は言った。
「じゃ、何が望みなの?」
興奮しないように、と思っても、話の勢いで、ついたたみかけるような話し方になる。
少女は、奇妙に落ちついた様子で、言った。
「私の望みは、ご主人です」
——しばらく、美奈子は口がきけなかった。
十八歳の少女が言うには、あまりに不自然な言葉ではないか。
「どういう意味で言ってるの」
と、美奈子は訊いた。
単純に訊いたのである。腹を立てるところまでもいかなかったのだ。
「私はご主人と結ばれました。——契約したんです」
と、少女は言った。
「契約?」
「そうです」
「——契約ね」
美奈子は、ちょっと笑った。「愛人として、月にいくらかこづかいをあげる、とかいうの? 契約ってものは本名でするものでしょ。死んだ人の名でするのは無効じゃないかしら。それとも、あなた、幽霊なの?」
少女は、口を開きかけた。
その時、玄関の方で、
「美奈子さん」
と、呼ぶ声がした。
4
美奈子は、ハッとした。
あの声。——考えるまでもない。多田百合江だった。
しかも、声を聞いて、美奈子は思い出していた。鍵をかけないままにしてあったので、百合江は中に入って来ている。
インタホンで、今、忙しくないか訊く、といったことは、決してしない人間なのだ。
「待ってて」
と、美奈子は少女に言って、立ち上った。
急いで玄関へ出て行く。——百合江を上げてはいけない。
あの少女を見られたら、何を言いふらされるか……。
「——あら、どうも」
もう、百合江は上り込んで来ていた。
「あの、今、ちょっと——」
「ええ、お忙しいのは分ってるわ」
と、百合江は、両手に下げたビニール袋を持ち上げて見せ、「ほら、これが無農薬の野菜。あなたに、と思ってね、取っといてあげたのよ」