「ありがとう。嬉しいわ。ね、あの——」
「重くて重くて! 大変だったわ。ちょっとそこまでだからと思ったけど、結構、途中でどんどん重くなって……」
百合江は、構わずに台所へ入りこむと、「——それ、早く冷蔵庫へしまった方がいいわよ」
「え、ええ……」
「代金はこの次でいいわ。少し高いけど、健康にはかえられないものね」
「ありがとう。後でお金、お持ちするわ」
と、美奈子は急いで言った。
「いいのよ、いつでも! それより、ほら——冷蔵庫へしまってね。手伝いましょうか、私?」
「いえ。——いいわ、やるから」
これを冷蔵庫へ入れない内は、引きあげそうにない。美奈子は、諦めて、欲しくもなかった野菜を、冷蔵庫の中へ急いで入れ始めた。
「——凄い人でね。アッという間に売り切れちゃったの」
と、百合江は、それとなく冷蔵庫の中を覗き込んでいる。「でも、ぜひあなたには少し回してあげたいと思ったから、隠しちゃった。別にしといたのよ」
「ありがとう。あの——」
「紅茶いれたの? お宅は何? うちはフォーションでないと主人が気に入らないのよ」
「百合江さん——」
美奈子は、百合江がさっさと居間へ入って行くのを見て、あわてた。
残りの野菜を、ともかく冷蔵庫へ放り込んで、居間へ入る。
少女は、両手をきちんと膝に置いて、座っている。
百合江は、ソファにドサッと腰をおろして、
「お客様だったの?」
と、ティーカップを見て言った。「あら、このカップ、初めて見たわ。いつ買ったの?」
「ええ……。大分前だけど、めったに出さないの」
と、美奈子は、諦めて、自分も座った。
親戚の娘さん、とか言って、ごまかすしかあるまい。少女の方が、うまく合せてくれるかどうか……。
「高そうね」
百合江は、少女の前に置かれたカップを、受け皿ごと持ち上げて、底を覗き、「——ヘレンドね。いい色よね、やっぱり」
美奈子は呆れてしまった。目の前に座っている人間のカップを——。
「ほとんど飲んでないじゃない」
と、百合江は顔をしかめて、「もったいない! お宅、何なの、紅茶?」
「え?——うちはロイヤルコペンハーゲン」
「ああ、あれも渋くていいわね。こくがあるっていうか。こんなに残す人に出すことないわ。もったいない。——ね、まだ葉、出るんじゃない? 私にも一杯ちょうだいよ」
「え、ええ……」
美奈子は、ほとんど無意識に、台所へ立って行って、二人分出した葉で、もう一杯分出した。
「ねえ、聞いた?」
と、百合江が、居間から大きな声で話しかけて来る。「例の町会長さん。やっぱり町会のお金、使いこんでたって話よ。今、大変なんだって。——かなわないわよね。町会費だって馬鹿になんないのにさ」
「——どうぞ」
と、美奈子は、百合江に紅茶を出し、チラッと少女の方を見た。
少女は、じっと座って、美奈子と、百合江を交互に見ている。
「ありがと。——いい香りね!」
と、百合江は一口すすって、「困ったもんだわ、うちの主人にも」
「え?」
「もういい、って言うのにさ。もう一人作ろうって。土曜日の夜、しつこくって、参ったわ。もういやだから寝たふりしてたのに、脱がそうとするのよ」
百合江は、苦笑して、「結局、寝たのは三時。ヘトヘトよ、こっちも。——子供なんて一人で沢山。そう思わない?」
「そうね……」
「お宅のご主人、いいわねえ、優しいから」
「ええ」
「妻がいやがってるのに、無理に、なんてことないでしょ? 結構、スラッとして、細いけど、ああいうタイプって、あっちの方はタフなのよ。そうじゃない?」
「どうかしら」
「比べたことない?——私は、結婚前に何人もいたからね、分ってんの」
百合江は声を上げて笑った。
——美奈子は、少女をじっと見ていた。
少女の目は、少し照れたように、笑っている。
分ったでしょ?——その目はそう言っていた。
この人には、私のことが見えないの。
私は幽霊なのよ……。
「おい」
石毛が、台所へ顔を出した。
「お帰りなさい」
美奈子は忙しく野菜を刻んでいた。——百合江の持って来たものではない。
あれはそのまま全部捨ててしまった。
「ごめんなさい。仕度にかかるのが、遅れちゃって」
と、美奈子は言った。「三十分ぐらいだと思うわ」
「いいよ。別に死にやしない。——腹は空いてるけどね」
美奈子のせいばかりでもない。妻のことが気になる石毛が、早々と帰って来たからである。
いつもなら、九時ごろで普通なのに。
「郁江は? 今夜は一緒に晩飯が食べられるな」
「そうだわ。寝てるの。昼寝が少し遅くなって。起してくれる? 起きてすぐだと食べられないから」
「分った」
「TVでも点ければ、目が覚めるわよ」
と、美奈子は言った。
「そうだな」
行きかけて、石毛は振り向くと、「——おい、美奈子」
「何?」
「あの——女の子から、何も言って来てないか」
「何も」
と、美奈子は答えた。
「そうか」
「気にしないのよ。向うはもう忘れてるわ」
「そうかな」
「それとも、未練でもあるの?」
「よせよ」
と、石毛は苦笑して、台所を出て行った……。
「誰が——」
と、美奈子は呟いた。「誰が、あの人をあげるもんですか」
——契約? そんなもの、知らないと言ってしまえばそれまでだ。
石毛は酔っていて、少女の言うことなんか、ろくに聞いてもいなかったのだ。
でなければ、「幽霊の世界」に行く契約なんて、するわけがない。
「迎えに来ます」
と、少女は言った。「結ばれて一週間後に。そういう契約ですから」
迎えに来る。——それは、石毛の「死」に他ならないのだ。
美奈子は、寺井佐知子に向って、哀願はしなかった。絶対に夫は渡さない、と挑んでしまったのだ。
「死ぬ人なんか、いくらもいるじゃないの! どうしてうちの主人を? 妻も子もいる人を、どうして?」
と、詰め寄った。
もちろん、多田百合江が、何も知らずに帰った後である。
寺井佐知子は、少し寂しげな顔になった。
「私が、ご主人を選んだわけじゃありません。私が契約できる人は、私のことが見える人でなければいけないんです」
「どうして主人や私に見えて、さっきの奥さんには見えないの?」
と、美奈子は言った。
佐知子は、さらに悲しげに、
「本当に人を愛していて、誠実な人だからです」
と言った。「そんな人があのスナックへ来てくれるのを、私、五年間待っていたんです……」
——馬鹿なこと!
愛し合ってるから? 誠実だから、幽霊に見込まれて、一緒にあの世へ行けって?
そんな話があるの?
——いくらわめいても、佐知子は動じなかった。
「一週間たったら、迎えに来ます」
そう言って、静かに出て行ったのである。
美奈子は、しばらく立ち上ることもできなかった。
これが現実なのかどうかすら、定かではなかった……。
「——あなた」
と、美奈子は、その夜、言った。
「何だ?」
石毛も眠っていなかったらしい。
「私たちから離れないでね」
「何だよ、出しぬけに……」
「約束して。——ずっと、私たちと一緒よね」
「当り前だ」
美奈子は、夫の胸にすがりつくように、顔を埋めて行った。
石毛は戸惑っていた。——美奈子が、当分は怒って、相手をしてくれないだろう、と思っていたのである。
石毛は、美奈子を下にして、体を重ねた。
美奈子は、力の限り、まるで自分を夫の一部にしようとするかのように、強く、強く、抱きしめた……。
5
「——ママ、これ、おサルさん」
郁江が、砂の上に描いた、歪んだ円を指して、言った。
「そう! 上手ね」
美奈子が大げさに言ってやると、郁江は、喜んでまた何やら描き始めた。
——暖かい日だった。
平和で、静かで、何事も起りそうにない日である。
しかし、美奈子の心は、何かに押しつぶされそうだった。
火曜日、水曜日、と日は過ぎて行った。
今日は木曜日である。——明日、あの少女がやって来る。
といって、美奈子に何ができるだろうか?
寺井佐知子のことを、何か分らないかと調べてみたが、彼女の両親も、娘の死で、失意の内に世を去ってしまっていた。
あのスナックに、わざと夜遅く、行ってもみた。しかし、「契約」をすませた少女は、もうあの店にはいなかった。
明日。——本当に、あの少女は来るだろうか?
あれがただの悪夢であってくれたら、笑い話ですんでしまうのだろうが。
「ママ、これね——」
と、郁江が、両手を砂だらけにして、立ち上ったが——。
突然、郁江がパタッとその場に倒れた。
声も上げず、顔をしかめもしなかったので、美奈子は、郁江がわざとやったのかと思った。
それにしては、倒れ方が……。
「郁江。——どうしたの?」
と、抱き起す。「郁江。——郁江」
揺さぶっても、目を開けない。何の反応もない。
「郁江!——目を覚まして!」
呼びかけても、全く耳に届いていない様子だ。やっと美奈子は青ざめた。
胸に手を当ててみる。——呼吸が止っている。そして、何の鼓動も、感じられない。
心臓が——止ってる!
「郁江……。どうしたのよ……」
と、抱きかかえて立ち上った美奈子は、目の前に、あの寺井佐知子が立っているのを見て、目をみはった。
「あんたが、この子を——」
「ご心配いりません」
と、佐知子は言った。「すぐ、元に戻りますから」
「何ですって?」
急に、郁江が身動きして、目を開いた。
「ママ。——何してるの?」
「郁江……」
下ろしてやると、郁江は、また何もなかったように、砂に絵を描き始めた。
「——ご主人が私と行くのを、止められないんだ、と知っていただきたかったんです」
と、佐知子は言った。「びっくりさせて、申し訳ありませんでした」
美奈子は、言葉も出なかった。佐知子は、
「では明日の晩に、うかがいます」
と、言って頭を下げ、歩いて行った。
ぼんやり見送っている美奈子へ、
「ママ」
と、郁江が言った。「今のお姉さん、誰?」
この子にも見えるのだ。子供だから?
どうして!——こんなに、あの少女を憎んでいるのに、どうして、まだあの少女が見えるんだろう……。
明日。——明日。
美奈子は、頭をかかえて、うずくまってしまった……。
「——もしもし」
と、美奈子は言った。「石毛、おりますでしょうか。家内ですが」
少しして、夫の声が、
「やあ、何だ?」
と、聞こえて来た。
「あなた……。今日、早く帰れる?」
と、美奈子は訊いた。
「今日か? 金曜日だし、忙しいからな」
「そう」
「だから、もちろん、五時で帰る」
と言って、石毛は笑った。
「分ったわ」
美奈子も笑って、「——ね、お願いがあるんだけど」
「何だ? ダイヤの指輪でも買って行くか」
「まさか。帰りにね、寄って来てほしい所があるの」
「いいよ」
「多田さんのお宅、知ってるでしょ」
「ああ。あのにぎやかな奥さんのいる……」
「そうよ。そこへ寄って、お野菜、いただいて来て。重いから、運ぶのが大変なの」
「行けば分るんだな?」
「電話しておくから」
「じゃ——たぶん、六時半ぐらいだな、行けるのは」
「ええ。お願いね」
「任せとけ。今夜のおかずは?」
「お楽しみ」
と言って、美奈子は電話を切った。
手はそのまま、受話器をつかんでいる。
どうしよう?——どうしよう?
他に方法がないのだ。他に、何も思い付かない。
仕方ないのだ……。
美奈子は、大きく息をついてから、受話器を取り上げ、多田百合江の家の番号を押した……。
しかし、美奈子の奴も、変ってるよ。
石毛は、夜の冷たい風に肩をすぼめながら歩いていた。
多田さんの奥さんのことを、ひどく嫌ってる。それなのに、野菜を?
まあ、これはこれ、ということだろう。
確かに、あの多田さんの女房は、俺も苦手なタイプだな。派手で、男心をそそる、という女ではあるが、といって……。
「ここか。——通り過ぎるところだった」
石毛は、玄関のチャイムを鳴らした。
しばらく返事がない。もう一度鳴らそうとすると、インタホンに、
「どなた?」
と、女の声。
「石毛ですが」
「どうぞお入りになって」
「失礼します」
ドアは開いた。中へ入って……。戸惑った。いやに薄暗いのだ。
「——奥さん。——奥さん」
と、呼びかけると、
「上って下さい」
と、奥の方から、返事があった。
「はあ……」
仕方ない。——石毛は、靴を脱いで、上り込んだ。どこにいるんだ?
「奥さん。あの——」
「こっちへどうぞ」
明りが見えた。——いや、一つの部屋だけが、明るく照明が点いているのである。
「奥さん……」
と、覗き込んで、石毛は面食らった。
「いらっしゃい」
多田百合江が、ベッドで横になっていた。
「あの……」
「ごめんなさい。ちょっとめまいがして」
「そりゃいけませんね。——大丈夫ですか」
「すみませんけど」
と、百合江は、少し頭を上げて、「タオルを熱いおしぼりにして、持って来ていただけません?」
「いいですよ。じゃ……。ご主人は?」
「毎日遅いんです。今夜も夜中だって、電話がありましたわ」
「そうですか」
「子供は二階にいます。二階にTVがあるので、下りて来ませんわ」
「じゃあ……。タオルはどこに?」
と、石毛は訊いた。
「その引出しです。——二番目の」
「ああ、これですね。待ってて下さい」
石毛が、タオルを手に、台所の方へと行ってしまうと、百合江はベッドに起き上って、ちょっと笑った……。
少女は、いつの間にか、居間に座っていた。
「——お邪魔してます」
と、美奈子を見て、頭を下げる。
「来たのね」
「ええ。——奥様には、申し訳ないと思っています」
美奈子は、フフ、と笑った。少女はいぶかしげに、
「何かおかしいことでも?」
「いいえ。——ただ、まるで普通の〈愛人〉みたいなことを言うから。あなた、幽霊なのにね」
少女は、黙って目を伏せた。
「——まだ帰っていないんですね」
「もう帰ると思うわ。少し遅れてるみたいだけど」
少女は、ちょっと微笑んで、
「郁江ちゃん、可愛い子ですね」
と、言った。
「ありがとう。でも——あの子を取って行かないでね」
「そんなことしません。私は——」
その時、玄関で、
「ただいま」
と、声がした。
「帰って来たわ」
と、美奈子は言った。
「ええ」
佐知子が、肯く。
「——いや、遅くなって、ごめん」
石毛が、大きな袋を手に下げて、居間へ入って来た。「会社を出ようとして、電話につかまってね」
「そう」
「これ、台所か?」
「ええ、台所に置いて」
石毛は、佐知子の方を見ずに、台所へ行ってしまった。
「——あの奥さんは、よくしゃべるんだな」
と、荷物を置いて、石毛は居間へ戻って来た。
「悪い人じゃないんだけどね」
「しかし、疲れるよ、ああいう人と話すってのは」
「——安夫さん」
と、佐知子が言った。「一週間目ですよ。私と一緒に行って」
ソファに座った石毛は、
「おい、晩飯の仕度、これからなのかい?」
と、訊いた。
「ええ。今日はちょっと……。心配ごとがあって」
「何のことだ?」
「こっちを見て!」
と、佐知子は叫ぶように言った。「あなたには私が見えるはずよ!」
「ううん。大したことじゃないの。——ね、郁江が退屈してるわ。相手してやって」
「うん。そうだな。おい、日曜日には、三人でどこかへ行こうか」
「どこへ?」
「どこでも、好きな所へさ」
「いいわね」
と、美奈子は言って肯いた。
石毛は、
「おい! 郁江! どこだ? パパだぞ!」
と、大声で呼びながら、奥へ入って行く。
——佐知子は、美奈子を見た。
美奈子は、佐知子の絶望的な眼差しを、受け止めて、はね返した。キュッと唇をかんで、ほとんど息を止めるようにして。
「何てことを!」
と、佐知子は、崩れ去るような声で、言った。「奥さん——」
「あなたには渡さないわ」
と、美奈子は言った。
佐知子は、まるで臨終の一呼吸のような、深い息をつくと、ゆっくり立ち上った。
そして何も言わずに一礼すると、静かに出て行った。
美奈子は、ゆっくりと息を吐き出した。
「——おい、何かしゃべってたか?」
石毛が、郁江を抱いて、入って来る。
「別に。ごめんなさい。すぐ夕ご飯の仕度するわ」
と、美奈子は立ち上った。
「お腹空いたよなあ、郁江?」
と、石毛が郁江を抱いて、おどけた調子で言った。
台所へ行こうとして、美奈子は振り返ると、
「あなた」
「何だ?」
「多田さんの奥さん、何か言ってた?」
「いや。——よろしくって。それだけさ」
「そう」
「何か、用だったのか?」
「いいえ。それならいいの」
美奈子は台所へ入ると、両手で顔を覆った。
夫の目に、もうあの少女は見えなくなっていたのだ。
石毛は、百合江の誘いに負けて、寝て来たはずだ。——それは美奈子自身が、企んだことだった。
そして、夫は嘘をついた。
もう、夫は誠実でなくなったのだ。だからあの少女が見えなかったのである。
美奈子は、夫を失いたくなかった。何としても。——どんなことをしても。
だが……。
本当に、失わずにすんだのだろうか?
あの少女に、勝ったのだろうか。
夫が、郁江をいつになく陽気にあやしているのを聞きながら、一人、台所で、美奈子は声を殺して泣き出していた。
灰色の少女
1
一瞬、めまいにも似た感覚を覚えて、ドアのわきの握り棒を、ギュッと握りしめる。
しかし、それは一種の錯覚のようなものだった。立ちくらみ、とか、そんなものとも違う。
実際には何でもなかったのだ。ただ、不意に、胸をつかれて、周囲が空白になっただけだったのである。
国電は、ラッシュアワーをとっくに過ぎているといっても、座れるほどには空いていない。吉田和彦は、ドアのわき、座席の端の肘かけと、握り棒の間の小さなコーナーに、身をもたせかけて、立っていた。
人間というのは、どうもこういう隅っこにいると落ちつくらしい、と吉田は思った。たまに、深夜に帰るとき、ガラ空きの車両でも、長い座席の、一番端に、ほとんどの客が座っている。他に一人も座っていなくても、である。
立っていても同じだ。座れないけど、立っている客は数えるほど、というときには、真中の吊皮でなく、ドアのわきの、この角がまず埋って行く。そこが一杯になると、吊皮にぶら下がるのだ。
よほど寒くて、ドアのわきにいると、駅に着いて寒風が吹き込んで来る、とでもいうのでない限り、まずその「法則」には変りがなかった。
それはたぶん、「よりかかる面積」の問題なのだろう。ただ吊皮につかまっているよりも、こうして、ドアのわきに身をスッポリと納めていると、電車の車両そのものが、自分を支えてくれているような、そんな気がして、安心できるのである。もちろん、体も楽なのだが。
しかし、吉田和彦はまだそう疲れるほどの年齢ではない。といって、三十七、というのは当節の十代の女の子たちから見れば、立派な「中年」である。いくら当人が「青年」のつもりでも……。
三月。——やっと、暖かくなって来た。
まだ時には雪がドカッと降って、郊外から出勤するサラリーマンたちをあわてさせたり、春の突風で目にゴミが入って往生したり、「花粉症」に悩んで、鼻をグスグスいわしたりするが、しかし、やはり晴れの日ごとに、青空はまぶしさを増し、雨は冷たく叩くというよりもぬるいシャワーのようで、どんよりと曇った空も、どこか眠たげになる。
春になったのである。
——発車のベルが鳴っても、なかなかドアは閉らなかった。「時間調整」というやつで、もう三分ぐらい停っている。
ベルを聞いて、駆け込んで来た客が、
「何だ、出ないじゃねえか」
と、ブツブツ言っていた。
もう一度ベルが鳴って、今度こそ、ドアが閉るのだろう、ピーッと車掌の笛が鳴った。
そこへ、その少女が乗って来たのである。
ふと目をひかれたのは、その少女が、少しも急ぐ様子を見せずに乗って来たせいだった。
普通なら、ベルがホームに鳴り渡り、笛まで鳴ったら、あわてて駆けて来るか、ドアから飛び込んで来るものだ。しかし、その少女は、たまたま笛が鳴っていたときに乗ったのだ、という感じだった。
すぐにドアが閉って、電車は動き始めた。
そのときだった。
吉田が、軽いめまいのようなものを覚えたのは。
「びっくりしたよ」
風呂から上って、ゆったりと寛いだ夫が、「今日、誰に会ったと思う?」
と言い出したのを、吉田啓子は、少々戸惑って聞いた。
もともと、夫はそうよくしゃべる方ではない。といって、気難しいのではなく、ただ口下手なのである。
啓子が、あれこれ話しかければ、返事もするし、聞いてもくれるのだが、自分の方から何か話題を出すことなど、ほとんどない。
「分りっこないでしょ」
と、啓子は、夫にお茶を出しながら、「誰だったの?」
「うん。帰りの電車に——」
と、吉田が言いかけたとき、
「おやすみ!」
と、一人娘の佳子がパジャマ姿で顔を出した。
「はい。ちゃんと歯を磨いたの?」
啓子は、夫の話より子供が先で、佳子を寝室の方へと連れて行く。
「うん。——パパ、おやすみ!」
「ああ、おやすみ」
夫の声が、追いかけて来る。
佳子をベッドに入れ、啓子は、
「早く寝るのよ」
と、軽く頭をなでてやってから、部屋の明りを消した。
「おやすみなさい」
佳子の声は、もう半分近く眠っている。
「はい、おやすみ」
「ドア、開けといて」
「はいはい」
啓子は、子供部屋のドアを開けたままにして、居間へと戻って行った。
あれで、十分としない内にぐっすり眠っているのだ。子供にだけ許された眠りである。
「風邪がはやってるのよ、学校で」
と、啓子は、自分のお茶を持って、居間のソファに座りながら言った。「七、八人休んでるみたい、クラスで」
「あいつは大丈夫か?」
と、吉田が訊いた。
「今のところはね。でも、あの子、たいてい一度は熱を出すから……」
と言いながら、ふと思い出し、「ああ、どうしたの? 誰に会ったの?」
「うん。いや——女の子が乗って来たんだ。帰りの電車に。どこかで見たことのある子だな、と思って……。しばらく分らなかったんだよ」
「女の子?」
「憶えてるだろう? 中学のとき一緒だった、安西澄子」
啓子は、危うく、茶碗を取り落すところだった。——安西澄子。その名を、また聞くことがあるとは、思ってもいなかったからだ。
吉田は、啓子が思い出せずにいると思ったのか、
「ほら、よく委員をやってて、ちょっと大人びた顔をしてたじゃないか。君も、結構仲良くしてた——」
「ええ、憶えてるわ」
やっと、啓子は肯いてみせた。
仲良く、ですって? とんでもない話だわ!
「あの子とそっくりなんだ。本当にびっくりするくらい似ててね」
吉田は、首を振って、「まあ、安西澄子の顔をはっきり憶えてたわけじゃないんだが、その子を見て、急にパッと思い出したんだよ」
「そう」
啓子は、笑顔を作って見せた。「世の中には、似た人っているものよ」
「いや、あれは偶然じゃない。ただの他人の空似とは思えないよ。——本当にうり二つなんだ。娘じゃないかな、安西澄子の」
「まさか」
と、啓子は、反射的に言っていた。
「どうしてだ? 不思議じゃないよ、あれぐらいの娘がいても。俺たちと同じ学年だったんだから、今、彼女も三十七か八だろ。あの女の子……十五には見えたけど、まあ、今の子は発育がいいから、十三、四かもしれない。二十二か三で生んでれば、あれぐらいだからな」
「そうね。でも……」
「いや、きっとそうだ」
と、吉田は自分で肯いている。「何となく似てるなんてものじゃない。まるで生き写しなんだ。——あれは、安西澄子の娘だよ」
そんなわけ、ないわ……。
啓子は口の中で呟いた。もちろん、それは夫の耳に届かなかったが。
その夜、吉田は啓子のベッドへ入って行った。——啓子は、いつものように、
「朝、起きられなくても知らないわよ」
と言いながら、夫の手がネグリジェをめくり上げて行くのに、逆らいもしなかった。
結婚して十年もたつと、こういうことも、大体手順が決って来て、それはそれで夫婦だけに通用する愉しみでもあるのだが、今夜の場合は、どこか微妙に違っていた。
いつもぐらいの時間をかけて、いつもの通りに、二人とも満足して終りはしたのだが、やはり、どこかが違っていた。
ただ、二人ともそのことに気付かなかったのは、二人がどちらも、あることに気を取られていたからだ。
吉田は、自分のベッドへ戻って、目を閉じても、なかなか眠れなかった。明日もいつもの通りに起きるのだから、すぐに寝入ったとしても、五時間ほどしか眠れないことになるのが、少し気がかりだった。
——安西澄子か。
そう。きれいな子だった。可愛い、というには、あまりにきりっとして、端正な顔だった。
いかにも頭のいい子、という感じで、事実、クラスでトップを独走する優等生だった。
どうひいき目に見ても優等生といいかねた吉田には、安西澄子はあまりにしっかりした、まぶしい存在だったものだ。
あれほどの美人なのに、男の子は一向に声をかけようとしなかった。あまりにしっかりしていて、隙がなかったのだろう。
といって、安西澄子は決してお高く止っていたわけではない。一度、たまたま一緒に週番をやったときには、結構おしゃべりもしたし、割合におっちょこちょいのところもあるのを発見して、何だかホッとしたものである。
もしかして——十五のとき、吉田が父の転勤で急に札幌へ行くことにならなかったら、安西澄子と、もっと親しくなっていたかもしれない。
中本啓子——もちろん今の妻だ——も、同窓生で、中学二年のときには三人とも同じクラスだった。啓子とは、帰る方向が同じということもあって、よくしゃべった。
啓子は、そのころ、どちらかというと地味でおとなしく、目立たない娘だったが、勉強はよくできた。努力型だったのだ。
吉田が転校して、もちろん中本啓子とも別れてしまったわけだが、その後、手紙が来て、何となく文通するようになり、三年して大学受験のために東京へ戻ってから、付合いが始まった。
その三年の間に、啓子は見違えるように女っぽく、魅力的になっていた。二人が同じ大学へ進んで、ごく自然に、互いに結婚するのだと思うようになった……。
考えてみれば、安西澄子があの後どうしたのか、どこの高校へ進んだのか、吉田は聞いたことがなかった。きっと、どこか有名な高校、大学へと進んで、教師になるか、それともどこかビジネスの場で第一線にいるか……。
いや、あんな大きな子がいるのだから、結構平凡に、結婚して家庭に入ってしまったのかもしれない。
吉田は、今日、駅で見かけた少女を、すっかり安西澄子の娘と決め込んでいた。
そして、ふと考えたのだ。啓子を抱いている最中に。——もし、あのとき、父の転勤がなかったら、今、俺の下で喘いでいるのは、安西澄子だったかもしれないな、と……。
夫は眠っただろうか。
啓子は、暗がりの中から、遠い波の音のように聞こえて来る夫の息づかいに、じっと耳を傾けていた。
いつもなら、こんなことはないのだ。夫に抱かれて、満ち足りた後は、ものの十分としない内に深い眠りにつくのである。
しかし、今夜ばかりは、いつまでも眠りは訪れて来ないようだった。——あまりにも突然に、遠い過去の亡霊が、姿を現わしたからである。
安西澄子。まさか、この名を再び耳にすることがあろうとは……。
しかも、他ならぬ夫の口から。啓子は、まだ肌はほてっているはずなのに、どこかから、冷たい風が吹きつけて来るような気がして、毛布を顔の半ばまで引張り上げた。
安西澄子とうり二つの少女。——そんなことが、あるだろうか?
もちろん、夫は否定していたが、その少女が、安西澄子に似ていたとしても——それも二十年以上も昔の——それは偶然に違いない。
夫も自分で言っていたように、安西澄子の顔をはっきり憶えていたわけではないのだ。そこへ、どことなく似た少女が現われて、記憶を呼びさました。だから、夫は「記憶の中の顔」の方を、その少女に合せてしまったのだろう。
ありそうなことだ。そう。——何も気にする必要なんかない……。
啓子はギュッと目をつぶった。
すると——闇の中に、一つの顔が浮かび上って来た。バランスの取れた端正な顔立ち。利発そのものの、大きな瞳。キュッと結んだ唇。
同じクラスの男の子たちの「マドンナ」だった顔、そして、女の子たちにとっては、嫉妬の対象になった顔である。
安西澄子は、しかし、女の子の間でも人気があった。決して、頭の良さや美しさを鼻にかけることもなく、友だち思いでもあったのだから。
しかし、啓子は知っていた。安西澄子と一番親しくしていた女の子が、日記には、彼女の悪口を書きつづっていたことを……。
ただ、それは青春の一面として、ありがちなことだ。たぶん、その女の子も、今は安西澄子のことを、仲の良かった友だちとして思い出すに違いない。
ともかく、安西澄子は、誰でも愛さないわけにはいかない少女だったからこそ、好まれ、憎まれてもいたのである。
啓子は?
パッと目を開くと、安西澄子の顔は、シャボン玉が割れるように消えた。暗い天井が、啓子を見下ろしている。
啓子は、それほど安西澄子を憎んでいたわけではない。吉田和彦が、父親の転勤で、転校して行くまでは……。
——夫は、寝入ったようだ。
啓子は、ベッドの中で寝返りを打った。
もう忘れよう。夫も、二、三日すれば、こんなことは忘れ去ってしまうに違いない。
ともかく、一つだけはっきりしていることがある。夫が今日見かけたという少女が、安西澄子の娘であるはずがない、ということだ。
安西澄子は、十五歳のとき、吉田が転校して行って間もなく、行方不明になり、ついに見付からなかったのだ。——安西澄子はとっくに死んだものとして、処理されていた。
2
時間はある。
しかし……。どうしたものだろう?
そんな風に悩むこと自体、馬鹿げている。吉田は苦笑いしながら、地下鉄の階段を上っていた。
何もいちいち、言い訳めいたことを考えるまでもない。——要は、安西澄子のことを誰かに訊いてみたかっただけなのだ。
そう、もしあいつがいれば……。いなければ、それで忘れてしまおう。