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作者: 当前章节:15387 字 更新时间:2026-6-23 06:02

「ありがとう。嬉しいわ。ね、あの——」

「重くて重くて! 大変だったわ。ちょっとそこまでだからと思ったけど、結構、途中でどんどん重くなって……」

 百合江は、構わずに台所へ入りこむと、「——それ、早く冷蔵庫へしまった方がいいわよ」

「え、ええ……」

「代金はこの次でいいわ。少し高いけど、健康にはかえられないものね」

「ありがとう。後でお金、お持ちするわ」

 と、美奈子は急いで言った。

「いいのよ、いつでも! それより、ほら——冷蔵庫へしまってね。手伝いましょうか、私?」

「いえ。——いいわ、やるから」

 これを冷蔵庫へ入れない内は、引きあげそうにない。美奈子は、諦めて、欲しくもなかった野菜を、冷蔵庫の中へ急いで入れ始めた。

「——凄い人でね。アッという間に売り切れちゃったの」

 と、百合江は、それとなく冷蔵庫の中を覗き込んでいる。「でも、ぜひあなたには少し回してあげたいと思ったから、隠しちゃった。別にしといたのよ」

「ありがとう。あの——」

「紅茶いれたの? お宅は何? うちはフォーションでないと主人が気に入らないのよ」

「百合江さん——」

 美奈子は、百合江がさっさと居間へ入って行くのを見て、あわてた。

 残りの野菜を、ともかく冷蔵庫へ放り込んで、居間へ入る。

 少女は、両手をきちんと膝に置いて、座っている。

 百合江は、ソファにドサッと腰をおろして、

「お客様だったの?」

 と、ティーカップを見て言った。「あら、このカップ、初めて見たわ。いつ買ったの?」

「ええ……。大分前だけど、めったに出さないの」

 と、美奈子は、諦めて、自分も座った。

 親戚の娘さん、とか言って、ごまかすしかあるまい。少女の方が、うまく合せてくれるかどうか……。

「高そうね」

 百合江は、少女の前に置かれたカップを、受け皿ごと持ち上げて、底を覗き、「——ヘレンドね。いい色よね、やっぱり」

 美奈子は呆れてしまった。目の前に座っている人間のカップを——。

「ほとんど飲んでないじゃない」

 と、百合江は顔をしかめて、「もったいない! お宅、何なの、紅茶?」

「え?——うちはロイヤルコペンハーゲン」

「ああ、あれも渋くていいわね。こくがあるっていうか。こんなに残す人に出すことないわ。もったいない。——ね、まだ葉、出るんじゃない? 私にも一杯ちょうだいよ」

「え、ええ……」

 美奈子は、ほとんど無意識に、台所へ立って行って、二人分出した葉で、もう一杯分出した。

「ねえ、聞いた?」

 と、百合江が、居間から大きな声で話しかけて来る。「例の町会長さん。やっぱり町会のお金、使いこんでたって話よ。今、大変なんだって。——かなわないわよね。町会費だって馬鹿になんないのにさ」

「——どうぞ」

 と、美奈子は、百合江に紅茶を出し、チラッと少女の方を見た。

 少女は、じっと座って、美奈子と、百合江を交互に見ている。

「ありがと。——いい香りね!」

 と、百合江は一口すすって、「困ったもんだわ、うちの主人にも」

「え?」

「もういい、って言うのにさ。もう一人作ろうって。土曜日の夜、しつこくって、参ったわ。もういやだから寝たふりしてたのに、脱がそうとするのよ」

 百合江は、苦笑して、「結局、寝たのは三時。ヘトヘトよ、こっちも。——子供なんて一人で沢山。そう思わない?」

「そうね……」

「お宅のご主人、いいわねえ、優しいから」

「ええ」

「妻がいやがってるのに、無理に、なんてことないでしょ? 結構、スラッとして、細いけど、ああいうタイプって、あっちの方はタフなのよ。そうじゃない?」

「どうかしら」

「比べたことない?——私は、結婚前に何人もいたからね、分ってんの」

 百合江は声を上げて笑った。

 ——美奈子は、少女をじっと見ていた。

 少女の目は、少し照れたように、笑っている。

 分ったでしょ?——その目はそう言っていた。

 この人には、私のことが見えないの。

 私は幽霊なのよ……。

「おい」

 石毛が、台所へ顔を出した。

「お帰りなさい」

 美奈子は忙しく野菜を刻んでいた。——百合江の持って来たものではない。

 あれはそのまま全部捨ててしまった。

「ごめんなさい。仕度にかかるのが、遅れちゃって」

 と、美奈子は言った。「三十分ぐらいだと思うわ」

「いいよ。別に死にやしない。——腹は空いてるけどね」

 美奈子のせいばかりでもない。妻のことが気になる石毛が、早々と帰って来たからである。

 いつもなら、九時ごろで普通なのに。

「郁江は? 今夜は一緒に晩飯が食べられるな」

「そうだわ。寝てるの。昼寝が少し遅くなって。起してくれる? 起きてすぐだと食べられないから」

「分った」

「TVでも点ければ、目が覚めるわよ」

 と、美奈子は言った。

「そうだな」

 行きかけて、石毛は振り向くと、「——おい、美奈子」

「何?」

「あの——女の子から、何も言って来てないか」

「何も」

 と、美奈子は答えた。

「そうか」

「気にしないのよ。向うはもう忘れてるわ」

「そうかな」

「それとも、未練でもあるの?」

「よせよ」

 と、石毛は苦笑して、台所を出て行った……。

「誰が——」

 と、美奈子は呟いた。「誰が、あの人をあげるもんですか」

 ——契約? そんなもの、知らないと言ってしまえばそれまでだ。

 石毛は酔っていて、少女の言うことなんか、ろくに聞いてもいなかったのだ。

 でなければ、「幽霊の世界」に行く契約なんて、するわけがない。

「迎えに来ます」

 と、少女は言った。「結ばれて一週間後に。そういう契約ですから」

 迎えに来る。——それは、石毛の「死」に他ならないのだ。

 美奈子は、寺井佐知子に向って、哀願はしなかった。絶対に夫は渡さない、と挑んでしまったのだ。

「死ぬ人なんか、いくらもいるじゃないの! どうしてうちの主人を? 妻も子もいる人を、どうして?」

 と、詰め寄った。

 もちろん、多田百合江が、何も知らずに帰った後である。

 寺井佐知子は、少し寂しげな顔になった。

「私が、ご主人を選んだわけじゃありません。私が契約できる人は、私のことが見える人でなければいけないんです」

「どうして主人や私に見えて、さっきの奥さんには見えないの?」

 と、美奈子は言った。

 佐知子は、さらに悲しげに、

「本当に人を愛していて、誠実な人だからです」

 と言った。「そんな人があのスナックへ来てくれるのを、私、五年間待っていたんです……」

 ——馬鹿なこと!

 愛し合ってるから? 誠実だから、幽霊に見込まれて、一緒にあの世へ行けって?

 そんな話があるの?

 ——いくらわめいても、佐知子は動じなかった。

「一週間たったら、迎えに来ます」

 そう言って、静かに出て行ったのである。

 美奈子は、しばらく立ち上ることもできなかった。

 これが現実なのかどうかすら、定かではなかった……。

「——あなた」

 と、美奈子は、その夜、言った。

「何だ?」

 石毛も眠っていなかったらしい。

「私たちから離れないでね」

「何だよ、出しぬけに……」

「約束して。——ずっと、私たちと一緒よね」

「当り前だ」

 美奈子は、夫の胸にすがりつくように、顔を埋めて行った。

 石毛は戸惑っていた。——美奈子が、当分は怒って、相手をしてくれないだろう、と思っていたのである。

 石毛は、美奈子を下にして、体を重ねた。

 美奈子は、力の限り、まるで自分を夫の一部にしようとするかのように、強く、強く、抱きしめた……。

     5

「——ママ、これ、おサルさん」

 郁江が、砂の上に描いた、歪んだ円を指して、言った。

「そう! 上手ね」

 美奈子が大げさに言ってやると、郁江は、喜んでまた何やら描き始めた。

 ——暖かい日だった。

 平和で、静かで、何事も起りそうにない日である。

 しかし、美奈子の心は、何かに押しつぶされそうだった。

 火曜日、水曜日、と日は過ぎて行った。

 今日は木曜日である。——明日、あの少女がやって来る。

 といって、美奈子に何ができるだろうか?

 寺井佐知子のことを、何か分らないかと調べてみたが、彼女の両親も、娘の死で、失意の内に世を去ってしまっていた。

 あのスナックに、わざと夜遅く、行ってもみた。しかし、「契約」をすませた少女は、もうあの店にはいなかった。

 明日。——本当に、あの少女は来るだろうか?

 あれがただの悪夢であってくれたら、笑い話ですんでしまうのだろうが。

「ママ、これね——」

 と、郁江が、両手を砂だらけにして、立ち上ったが——。

 突然、郁江がパタッとその場に倒れた。

 声も上げず、顔をしかめもしなかったので、美奈子は、郁江がわざとやったのかと思った。

 それにしては、倒れ方が……。

「郁江。——どうしたの?」

 と、抱き起す。「郁江。——郁江」

 揺さぶっても、目を開けない。何の反応もない。

「郁江!——目を覚まして!」

 呼びかけても、全く耳に届いていない様子だ。やっと美奈子は青ざめた。

 胸に手を当ててみる。——呼吸が止っている。そして、何の鼓動も、感じられない。

 心臓が——止ってる!

「郁江……。どうしたのよ……」

 と、抱きかかえて立ち上った美奈子は、目の前に、あの寺井佐知子が立っているのを見て、目をみはった。

「あんたが、この子を——」

「ご心配いりません」

 と、佐知子は言った。「すぐ、元に戻りますから」

「何ですって?」

 急に、郁江が身動きして、目を開いた。

「ママ。——何してるの?」

「郁江……」

 下ろしてやると、郁江は、また何もなかったように、砂に絵を描き始めた。

「——ご主人が私と行くのを、止められないんだ、と知っていただきたかったんです」

 と、佐知子は言った。「びっくりさせて、申し訳ありませんでした」

 美奈子は、言葉も出なかった。佐知子は、

「では明日の晩に、うかがいます」

 と、言って頭を下げ、歩いて行った。

 ぼんやり見送っている美奈子へ、

「ママ」

 と、郁江が言った。「今のお姉さん、誰?」

 この子にも見えるのだ。子供だから?

 どうして!——こんなに、あの少女を憎んでいるのに、どうして、まだあの少女が見えるんだろう……。

 明日。——明日。

 美奈子は、頭をかかえて、うずくまってしまった……。

「——もしもし」

 と、美奈子は言った。「石毛、おりますでしょうか。家内ですが」

 少しして、夫の声が、

「やあ、何だ?」

 と、聞こえて来た。

「あなた……。今日、早く帰れる?」

 と、美奈子は訊いた。

「今日か? 金曜日だし、忙しいからな」

「そう」

「だから、もちろん、五時で帰る」

 と言って、石毛は笑った。

「分ったわ」

 美奈子も笑って、「——ね、お願いがあるんだけど」

「何だ? ダイヤの指輪でも買って行くか」

「まさか。帰りにね、寄って来てほしい所があるの」

「いいよ」

「多田さんのお宅、知ってるでしょ」

「ああ。あのにぎやかな奥さんのいる……」

「そうよ。そこへ寄って、お野菜、いただいて来て。重いから、運ぶのが大変なの」

「行けば分るんだな?」

「電話しておくから」

「じゃ——たぶん、六時半ぐらいだな、行けるのは」

「ええ。お願いね」

「任せとけ。今夜のおかずは?」

「お楽しみ」

 と言って、美奈子は電話を切った。

 手はそのまま、受話器をつかんでいる。

 どうしよう?——どうしよう?

 他に方法がないのだ。他に、何も思い付かない。

 仕方ないのだ……。

 美奈子は、大きく息をついてから、受話器を取り上げ、多田百合江の家の番号を押した……。

 しかし、美奈子の奴も、変ってるよ。

 石毛は、夜の冷たい風に肩をすぼめながら歩いていた。

 多田さんの奥さんのことを、ひどく嫌ってる。それなのに、野菜を?

 まあ、これはこれ、ということだろう。

 確かに、あの多田さんの女房は、俺も苦手なタイプだな。派手で、男心をそそる、という女ではあるが、といって……。

「ここか。——通り過ぎるところだった」

 石毛は、玄関のチャイムを鳴らした。

 しばらく返事がない。もう一度鳴らそうとすると、インタホンに、

「どなた?」

 と、女の声。

「石毛ですが」

「どうぞお入りになって」

「失礼します」

 ドアは開いた。中へ入って……。戸惑った。いやに薄暗いのだ。

「——奥さん。——奥さん」

 と、呼びかけると、

「上って下さい」

 と、奥の方から、返事があった。

「はあ……」

 仕方ない。——石毛は、靴を脱いで、上り込んだ。どこにいるんだ?

「奥さん。あの——」

「こっちへどうぞ」

 明りが見えた。——いや、一つの部屋だけが、明るく照明が点いているのである。

「奥さん……」

 と、覗き込んで、石毛は面食らった。

「いらっしゃい」

 多田百合江が、ベッドで横になっていた。

「あの……」

「ごめんなさい。ちょっとめまいがして」

「そりゃいけませんね。——大丈夫ですか」

「すみませんけど」

 と、百合江は、少し頭を上げて、「タオルを熱いおしぼりにして、持って来ていただけません?」

「いいですよ。じゃ……。ご主人は?」

「毎日遅いんです。今夜も夜中だって、電話がありましたわ」

「そうですか」

「子供は二階にいます。二階にTVがあるので、下りて来ませんわ」

「じゃあ……。タオルはどこに?」

 と、石毛は訊いた。

「その引出しです。——二番目の」

「ああ、これですね。待ってて下さい」

 石毛が、タオルを手に、台所の方へと行ってしまうと、百合江はベッドに起き上って、ちょっと笑った……。

 少女は、いつの間にか、居間に座っていた。

「——お邪魔してます」

 と、美奈子を見て、頭を下げる。

「来たのね」

「ええ。——奥様には、申し訳ないと思っています」

 美奈子は、フフ、と笑った。少女はいぶかしげに、

「何かおかしいことでも?」

「いいえ。——ただ、まるで普通の〈愛人〉みたいなことを言うから。あなた、幽霊なのにね」

 少女は、黙って目を伏せた。

「——まだ帰っていないんですね」

「もう帰ると思うわ。少し遅れてるみたいだけど」

 少女は、ちょっと微笑んで、

「郁江ちゃん、可愛い子ですね」

 と、言った。

「ありがとう。でも——あの子を取って行かないでね」

「そんなことしません。私は——」

 その時、玄関で、

「ただいま」

 と、声がした。

「帰って来たわ」

 と、美奈子は言った。

「ええ」

 佐知子が、肯く。

「——いや、遅くなって、ごめん」

 石毛が、大きな袋を手に下げて、居間へ入って来た。「会社を出ようとして、電話につかまってね」

「そう」

「これ、台所か?」

「ええ、台所に置いて」

 石毛は、佐知子の方を見ずに、台所へ行ってしまった。

「——あの奥さんは、よくしゃべるんだな」

 と、荷物を置いて、石毛は居間へ戻って来た。

「悪い人じゃないんだけどね」

「しかし、疲れるよ、ああいう人と話すってのは」

「——安夫さん」

 と、佐知子が言った。「一週間目ですよ。私と一緒に行って」

 ソファに座った石毛は、

「おい、晩飯の仕度、これからなのかい?」

 と、訊いた。

「ええ。今日はちょっと……。心配ごとがあって」

「何のことだ?」

「こっちを見て!」

 と、佐知子は叫ぶように言った。「あなたには私が見えるはずよ!」

「ううん。大したことじゃないの。——ね、郁江が退屈してるわ。相手してやって」

「うん。そうだな。おい、日曜日には、三人でどこかへ行こうか」

「どこへ?」

「どこでも、好きな所へさ」

「いいわね」

 と、美奈子は言って肯いた。

 石毛は、

「おい! 郁江! どこだ? パパだぞ!」

 と、大声で呼びながら、奥へ入って行く。

 ——佐知子は、美奈子を見た。

 美奈子は、佐知子の絶望的な眼差しを、受け止めて、はね返した。キュッと唇をかんで、ほとんど息を止めるようにして。

「何てことを!」

 と、佐知子は、崩れ去るような声で、言った。「奥さん——」

「あなたには渡さないわ」

 と、美奈子は言った。

 佐知子は、まるで臨終の一呼吸のような、深い息をつくと、ゆっくり立ち上った。

 そして何も言わずに一礼すると、静かに出て行った。

 美奈子は、ゆっくりと息を吐き出した。

「——おい、何かしゃべってたか?」

 石毛が、郁江を抱いて、入って来る。

「別に。ごめんなさい。すぐ夕ご飯の仕度するわ」

 と、美奈子は立ち上った。

「お腹空いたよなあ、郁江?」

 と、石毛が郁江を抱いて、おどけた調子で言った。

 台所へ行こうとして、美奈子は振り返ると、

「あなた」

「何だ?」

「多田さんの奥さん、何か言ってた?」

「いや。——よろしくって。それだけさ」

「そう」

「何か、用だったのか?」

「いいえ。それならいいの」

 美奈子は台所へ入ると、両手で顔を覆った。

 夫の目に、もうあの少女は見えなくなっていたのだ。

 石毛は、百合江の誘いに負けて、寝て来たはずだ。——それは美奈子自身が、企んだことだった。

 そして、夫は嘘をついた。

 もう、夫は誠実でなくなったのだ。だからあの少女が見えなかったのである。

 美奈子は、夫を失いたくなかった。何としても。——どんなことをしても。

 だが……。

 本当に、失わずにすんだのだろうか?

 あの少女に、勝ったのだろうか。

 夫が、郁江をいつになく陽気にあやしているのを聞きながら、一人、台所で、美奈子は声を殺して泣き出していた。

 灰色の少女

     1

 一瞬、めまいにも似た感覚を覚えて、ドアのわきの握り棒を、ギュッと握りしめる。

 しかし、それは一種の錯覚のようなものだった。立ちくらみ、とか、そんなものとも違う。

 実際には何でもなかったのだ。ただ、不意に、胸をつかれて、周囲が空白になっただけだったのである。

 国電は、ラッシュアワーをとっくに過ぎているといっても、座れるほどには空いていない。吉田和彦は、ドアのわき、座席の端の肘かけと、握り棒の間の小さなコーナーに、身をもたせかけて、立っていた。

 人間というのは、どうもこういう隅っこにいると落ちつくらしい、と吉田は思った。たまに、深夜に帰るとき、ガラ空きの車両でも、長い座席の、一番端に、ほとんどの客が座っている。他に一人も座っていなくても、である。

 立っていても同じだ。座れないけど、立っている客は数えるほど、というときには、真中の吊皮でなく、ドアのわきの、この角がまず埋って行く。そこが一杯になると、吊皮にぶら下がるのだ。

 よほど寒くて、ドアのわきにいると、駅に着いて寒風が吹き込んで来る、とでもいうのでない限り、まずその「法則」には変りがなかった。

 それはたぶん、「よりかかる面積」の問題なのだろう。ただ吊皮につかまっているよりも、こうして、ドアのわきに身をスッポリと納めていると、電車の車両そのものが、自分を支えてくれているような、そんな気がして、安心できるのである。もちろん、体も楽なのだが。

 しかし、吉田和彦はまだそう疲れるほどの年齢ではない。といって、三十七、というのは当節の十代の女の子たちから見れば、立派な「中年」である。いくら当人が「青年」のつもりでも……。

 三月。——やっと、暖かくなって来た。

 まだ時には雪がドカッと降って、郊外から出勤するサラリーマンたちをあわてさせたり、春の突風で目にゴミが入って往生したり、「花粉症」に悩んで、鼻をグスグスいわしたりするが、しかし、やはり晴れの日ごとに、青空はまぶしさを増し、雨は冷たく叩くというよりもぬるいシャワーのようで、どんよりと曇った空も、どこか眠たげになる。

 春になったのである。

 ——発車のベルが鳴っても、なかなかドアは閉らなかった。「時間調整」というやつで、もう三分ぐらい停っている。

 ベルを聞いて、駆け込んで来た客が、

「何だ、出ないじゃねえか」

 と、ブツブツ言っていた。

 もう一度ベルが鳴って、今度こそ、ドアが閉るのだろう、ピーッと車掌の笛が鳴った。

 そこへ、その少女が乗って来たのである。

 ふと目をひかれたのは、その少女が、少しも急ぐ様子を見せずに乗って来たせいだった。

 普通なら、ベルがホームに鳴り渡り、笛まで鳴ったら、あわてて駆けて来るか、ドアから飛び込んで来るものだ。しかし、その少女は、たまたま笛が鳴っていたときに乗ったのだ、という感じだった。

 すぐにドアが閉って、電車は動き始めた。

 そのときだった。

 吉田が、軽いめまいのようなものを覚えたのは。

「びっくりしたよ」

 風呂から上って、ゆったりと寛いだ夫が、「今日、誰に会ったと思う?」

 と言い出したのを、吉田啓子は、少々戸惑って聞いた。

 もともと、夫はそうよくしゃべる方ではない。といって、気難しいのではなく、ただ口下手なのである。

 啓子が、あれこれ話しかければ、返事もするし、聞いてもくれるのだが、自分の方から何か話題を出すことなど、ほとんどない。

「分りっこないでしょ」

 と、啓子は、夫にお茶を出しながら、「誰だったの?」

「うん。帰りの電車に——」

 と、吉田が言いかけたとき、

「おやすみ!」

 と、一人娘の佳子がパジャマ姿で顔を出した。

「はい。ちゃんと歯を磨いたの?」

 啓子は、夫の話より子供が先で、佳子を寝室の方へと連れて行く。

「うん。——パパ、おやすみ!」

「ああ、おやすみ」

 夫の声が、追いかけて来る。

 佳子をベッドに入れ、啓子は、

「早く寝るのよ」

 と、軽く頭をなでてやってから、部屋の明りを消した。

「おやすみなさい」

 佳子の声は、もう半分近く眠っている。

「はい、おやすみ」

「ドア、開けといて」

「はいはい」

 啓子は、子供部屋のドアを開けたままにして、居間へと戻って行った。

 あれで、十分としない内にぐっすり眠っているのだ。子供にだけ許された眠りである。

「風邪がはやってるのよ、学校で」

 と、啓子は、自分のお茶を持って、居間のソファに座りながら言った。「七、八人休んでるみたい、クラスで」

「あいつは大丈夫か?」

 と、吉田が訊いた。

「今のところはね。でも、あの子、たいてい一度は熱を出すから……」

 と言いながら、ふと思い出し、「ああ、どうしたの? 誰に会ったの?」

「うん。いや——女の子が乗って来たんだ。帰りの電車に。どこかで見たことのある子だな、と思って……。しばらく分らなかったんだよ」

「女の子?」

「憶えてるだろう? 中学のとき一緒だった、安西澄子」

 啓子は、危うく、茶碗を取り落すところだった。——安西澄子。その名を、また聞くことがあるとは、思ってもいなかったからだ。

 吉田は、啓子が思い出せずにいると思ったのか、

「ほら、よく委員をやってて、ちょっと大人びた顔をしてたじゃないか。君も、結構仲良くしてた——」

「ええ、憶えてるわ」

 やっと、啓子は肯いてみせた。

 仲良く、ですって? とんでもない話だわ!

「あの子とそっくりなんだ。本当にびっくりするくらい似ててね」

 吉田は、首を振って、「まあ、安西澄子の顔をはっきり憶えてたわけじゃないんだが、その子を見て、急にパッと思い出したんだよ」

「そう」

 啓子は、笑顔を作って見せた。「世の中には、似た人っているものよ」

「いや、あれは偶然じゃない。ただの他人の空似とは思えないよ。——本当にうり二つなんだ。娘じゃないかな、安西澄子の」

「まさか」

 と、啓子は、反射的に言っていた。

「どうしてだ? 不思議じゃないよ、あれぐらいの娘がいても。俺たちと同じ学年だったんだから、今、彼女も三十七か八だろ。あの女の子……十五には見えたけど、まあ、今の子は発育がいいから、十三、四かもしれない。二十二か三で生んでれば、あれぐらいだからな」

「そうね。でも……」

「いや、きっとそうだ」

 と、吉田は自分で肯いている。「何となく似てるなんてものじゃない。まるで生き写しなんだ。——あれは、安西澄子の娘だよ」

 そんなわけ、ないわ……。

 啓子は口の中で呟いた。もちろん、それは夫の耳に届かなかったが。

 その夜、吉田は啓子のベッドへ入って行った。——啓子は、いつものように、

「朝、起きられなくても知らないわよ」

 と言いながら、夫の手がネグリジェをめくり上げて行くのに、逆らいもしなかった。

 結婚して十年もたつと、こういうことも、大体手順が決って来て、それはそれで夫婦だけに通用する愉しみでもあるのだが、今夜の場合は、どこか微妙に違っていた。

 いつもぐらいの時間をかけて、いつもの通りに、二人とも満足して終りはしたのだが、やはり、どこかが違っていた。

 ただ、二人ともそのことに気付かなかったのは、二人がどちらも、あることに気を取られていたからだ。

 吉田は、自分のベッドへ戻って、目を閉じても、なかなか眠れなかった。明日もいつもの通りに起きるのだから、すぐに寝入ったとしても、五時間ほどしか眠れないことになるのが、少し気がかりだった。

 ——安西澄子か。

 そう。きれいな子だった。可愛い、というには、あまりにきりっとして、端正な顔だった。

 いかにも頭のいい子、という感じで、事実、クラスでトップを独走する優等生だった。

 どうひいき目に見ても優等生といいかねた吉田には、安西澄子はあまりにしっかりした、まぶしい存在だったものだ。

 あれほどの美人なのに、男の子は一向に声をかけようとしなかった。あまりにしっかりしていて、隙がなかったのだろう。

 といって、安西澄子は決してお高く止っていたわけではない。一度、たまたま一緒に週番をやったときには、結構おしゃべりもしたし、割合におっちょこちょいのところもあるのを発見して、何だかホッとしたものである。

 もしかして——十五のとき、吉田が父の転勤で急に札幌へ行くことにならなかったら、安西澄子と、もっと親しくなっていたかもしれない。

 中本啓子——もちろん今の妻だ——も、同窓生で、中学二年のときには三人とも同じクラスだった。啓子とは、帰る方向が同じということもあって、よくしゃべった。

 啓子は、そのころ、どちらかというと地味でおとなしく、目立たない娘だったが、勉強はよくできた。努力型だったのだ。

 吉田が転校して、もちろん中本啓子とも別れてしまったわけだが、その後、手紙が来て、何となく文通するようになり、三年して大学受験のために東京へ戻ってから、付合いが始まった。

 その三年の間に、啓子は見違えるように女っぽく、魅力的になっていた。二人が同じ大学へ進んで、ごく自然に、互いに結婚するのだと思うようになった……。

 考えてみれば、安西澄子があの後どうしたのか、どこの高校へ進んだのか、吉田は聞いたことがなかった。きっと、どこか有名な高校、大学へと進んで、教師になるか、それともどこかビジネスの場で第一線にいるか……。

 いや、あんな大きな子がいるのだから、結構平凡に、結婚して家庭に入ってしまったのかもしれない。

 吉田は、今日、駅で見かけた少女を、すっかり安西澄子の娘と決め込んでいた。

 そして、ふと考えたのだ。啓子を抱いている最中に。——もし、あのとき、父の転勤がなかったら、今、俺の下で喘いでいるのは、安西澄子だったかもしれないな、と……。

 夫は眠っただろうか。

 啓子は、暗がりの中から、遠い波の音のように聞こえて来る夫の息づかいに、じっと耳を傾けていた。

 いつもなら、こんなことはないのだ。夫に抱かれて、満ち足りた後は、ものの十分としない内に深い眠りにつくのである。

 しかし、今夜ばかりは、いつまでも眠りは訪れて来ないようだった。——あまりにも突然に、遠い過去の亡霊が、姿を現わしたからである。

 安西澄子。まさか、この名を再び耳にすることがあろうとは……。

 しかも、他ならぬ夫の口から。啓子は、まだ肌はほてっているはずなのに、どこかから、冷たい風が吹きつけて来るような気がして、毛布を顔の半ばまで引張り上げた。

 安西澄子とうり二つの少女。——そんなことが、あるだろうか?

 もちろん、夫は否定していたが、その少女が、安西澄子に似ていたとしても——それも二十年以上も昔の——それは偶然に違いない。

 夫も自分で言っていたように、安西澄子の顔をはっきり憶えていたわけではないのだ。そこへ、どことなく似た少女が現われて、記憶を呼びさました。だから、夫は「記憶の中の顔」の方を、その少女に合せてしまったのだろう。

 ありそうなことだ。そう。——何も気にする必要なんかない……。

 啓子はギュッと目をつぶった。

 すると——闇の中に、一つの顔が浮かび上って来た。バランスの取れた端正な顔立ち。利発そのものの、大きな瞳。キュッと結んだ唇。

 同じクラスの男の子たちの「マドンナ」だった顔、そして、女の子たちにとっては、嫉妬の対象になった顔である。

 安西澄子は、しかし、女の子の間でも人気があった。決して、頭の良さや美しさを鼻にかけることもなく、友だち思いでもあったのだから。

 しかし、啓子は知っていた。安西澄子と一番親しくしていた女の子が、日記には、彼女の悪口を書きつづっていたことを……。

 ただ、それは青春の一面として、ありがちなことだ。たぶん、その女の子も、今は安西澄子のことを、仲の良かった友だちとして思い出すに違いない。

 ともかく、安西澄子は、誰でも愛さないわけにはいかない少女だったからこそ、好まれ、憎まれてもいたのである。

 啓子は?

 パッと目を開くと、安西澄子の顔は、シャボン玉が割れるように消えた。暗い天井が、啓子を見下ろしている。

 啓子は、それほど安西澄子を憎んでいたわけではない。吉田和彦が、父親の転勤で、転校して行くまでは……。

 ——夫は、寝入ったようだ。

 啓子は、ベッドの中で寝返りを打った。

 もう忘れよう。夫も、二、三日すれば、こんなことは忘れ去ってしまうに違いない。

 ともかく、一つだけはっきりしていることがある。夫が今日見かけたという少女が、安西澄子の娘であるはずがない、ということだ。

 安西澄子は、十五歳のとき、吉田が転校して行って間もなく、行方不明になり、ついに見付からなかったのだ。——安西澄子はとっくに死んだものとして、処理されていた。

     2

 時間はある。

 しかし……。どうしたものだろう?

 そんな風に悩むこと自体、馬鹿げている。吉田は苦笑いしながら、地下鉄の階段を上っていた。

 何もいちいち、言い訳めいたことを考えるまでもない。——要は、安西澄子のことを誰かに訊いてみたかっただけなのだ。

 そう、もしあいつがいれば……。いなければ、それで忘れてしまおう。

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