ビルの地下には、少々古びた喫茶店がある。——ここへ前にやって来てから、もう何年たっただろう?
たぶん、そのときにも、この店はあったはずだ。吉田の記憶の中に、大分薄汚れた飾りつけの店内の様子が、かすかに残っていた。
「ミルクティーを」
と、吉田はオーダーした。
少し胃の具合が悪くて、このところ、コーヒーは控えている。
十円玉をいくつか手に持って、赤電話へと立って行く。汚れて、少々手に取るのもためらうような受話器を、そっとつまみ上げた。
番号は憶えていた。
「——あ、もしもし。——資材部の本間さんをお願いします」
「本間課長でしょうか」
と、訊き返されて、一瞬、戸惑った。
しかし、「本間」が同じ部に二人はいるまい。
「そうです。ああ、こちらは吉田といいますが」
「吉田様ですか。少々お待ち下さい」
あいつ、課長になったのか。大したもんだ……。
呼出し音が聞こえている間、吉田は、店から見える地下通路を行き来する男女を、ぼんやりと眺めていた。
「少しお待ち下さい」
と、女性の声がした。
いなければ、諦めるのだが……。しかし、すぐに、
「はい、お待たせいたしました、本間です」
という、几帳面な声が聞こえて来た。
「もしもし、本間か? 吉田だよ。吉田和彦」
「なんだ! どこの吉田かと思った」
と、懐しい声になって、「おい、どこからかけてる?」
「そこの地下だ。——うん、喫茶店。ちょうど通りかかって、思い出したんだよ」
「すぐ行くよ」
「いいのか? 忙しいんだろ?」
「それほどでもない。待っててくれ」
「ああ」
受話器を置いて、ホッと息をつく。——さりげなさを装っていたものの、かなり緊張していたのは事実なのだ。
「——どうも」
席へ戻ると、ちょうど紅茶が来た。
しかし……。俺も何を考えてるんだろう。
安西澄子のことなら、妻の啓子に訊けばいいのだ。それなのに、わざわざこうして、中学校で一緒だった友人を、勤め先まで訪ねて来るなんて……。
ただ、やはり啓子には訊きにくいことも事実である。特に、あの話をしたときに訊けばよかったのに、もう一週間もたってしまってから、改めて訊くというのは妙なものだった。
たぶん、啓子はもう、あんな話を忘れてしまっているだろう。吉田の見かけた少女が、本当に安西澄子の娘だと信じてもいないようだし。
それも無理はないかもしれない。吉田だって、もしあの少女を、直接この目で見ていなかったら、啓子のように、「他人の空似」と思っただろう。いや、もし本当に安西澄子の娘だったとしても、大して気にも止めなかったに違いない。
やはり、吉田がこうしてわざわざ当時の同級生の一人にまで会いに来たのは、あの少女を、自分の目で見ていたから——そして、あまりにその少女が安西澄子に生き写しだったからだ。
——吉田は、まるで、安西澄子自身に、めぐり会ったような気がしていたのである。
「やあ」
と、声がして、記憶の中から、また一回り太った本間が、向いの席に座った。「懐しいな! おい、俺にも紅茶。うん、ミルクティー」
「課長か。大したもんじゃないか」
と、吉田が言うと、本間は顔をしかめた。
「やめてくれ。不景気なんだ。人減らしでね、停年前の退職が何人も出た。——やめたくてやめたんじゃないのがほとんどだけどな。おかげで俺が課長さ。喜んじゃいられないよ」
「そうか。——しかし、課長は課長だ」
「まあな」
本間はニヤリと笑った。中学のころと変らない、いたずら小僧の笑いだ。
「吉田、お前、太らないな」
「うん、あまりね。却って、少しやせたくらいだ」
「羨ましいよ! 俺は毎年、ズボンを直してるんだぜ。女房には文句を言われるし」
「年齢だ。仕方ないよ」
「女房の方は、もっと太ってるのにな。不公平だよ、実際。——元気でやってるのか。ああ、そうだ! 今、そこで誰を見たと思う?」
「え?」
「いや、今、エレベーターでここまで下りて来てさ。そこの通路を歩いて来たら——安西澄子とそっくりの女の子がすれ違って行ったんだ」
本間は、ゆっくりと夢見るように、「いやびっくりしたぜ!——十五くらいかな。あのころの安西澄子とそっくりだ」
吉田は、店の表、通路の方を振り返った。——あの少女が? ここにいたのか?
「安西澄子って、憶えてないのか?」
と、本間が言った。
「え?——ああ、いや、憶えてる」
と、吉田は言った。「中学のとき、同じクラスだった……」
「ああ。美人だったよな。頭も良くて、きれいで……。でき過ぎた子だったんだよな。本当に」
本間は、しみじみとした口調で言った。「しかし——似た子がいるもんだな。びっくりしたよ」
「安西澄子の娘かもしれないぞ」
と、吉田は言った。「そうでもおかしくないじゃないか」
本間が、目をみはって、
「吉田、お前……」
と、言いかけ、「——そうか。お前が転校した後だったな、あれは。お前は知らなかったんだ」
「何が?」
「安西澄子のことを。——聞いてないのか? 確か、奥さんも同級生だったろ?」
「うん。安西澄子が、どうかしたのか?」
「彼女、死んだんだよ」
と、本間は言った。
吉田は、一瞬、周囲の物音が、何一つ耳に入らなくなった。「死んだ」——誰が死んだって?
「いや、正確に言うと、行方不明かな。ともかく、いなくなっちまったんだ」
と、本間は続けた。「大騒ぎだったよ。——ずいぶん長いこと、捜索してたんじゃないかな」
「行方不明……」
吉田は、やっと我に返った。「どういうことなんだ?」
「分らないよ、俺だって。お前がいなくなったのは、中三の秋だっけな」
「ああ。——二学期の途中だった」
「たぶん、その少し後だ。大分寒くなったころじゃなかったかな。学校の帰り道で、安西澄子に、ともかく何かあったんだ。家に帰らず、捜索願いが出た。俺たちも捜したさ。クラス中で、手分けして、あの子の写真を貼って歩いたりした。でも、見付からなかったんだ」
「——知らなかった」
と、吉田は呟くように言った。
「俺も忘れてたよ。今、あの女の子を見てハッと思い出したんだ。——誘拐とか家出とか、色々噂も流れたけど、結局、何も手がかり一つ見付けられなかった」
「じゃ——どうなったか、分らず終いに?」
「そうだろう。もう二十年以上だ。とっくに法律上は死んだことになってるさ。両親も、確か亡くなったはずだ」
「彼女——一人っ子だったな」
「だから、がっくり来たんだろう。たぶん……通り魔にでもやられて、どこかへ捨てられたんじゃないかな」
吉田は、ゆっくりと紅茶を飲んだ。
「だけど……。もし、行方不明のままなら、生きてるって可能性もあるじゃないか」
と、吉田は言った。「そんなに似た女の子がいるのなら、彼女、生きてて、結婚したのかもしれないぜ」
「うん……。でも、それなら、どうして姿を消したんだ?」
「そんなことは分らないさ」
と、吉田は微笑んだ。「だけど、よく本にも出てるじゃないか。突然記憶を失って、別の人間として、遠くで生活していた奴のこととか……」
「じゃ、安西澄子も?」
「いや——もしかしたら、ってことだ」
「そうかな。いや、そうかもしれないな」
本間は、真剣に考え込んでいた。「本当にそっくりだったんだ!——そう。ただの親戚ぐらいじゃ、ああは似ない。双子の姉妹ってぐらい良く似てたんだ。うん、そうだな、どこかで生きてたのかもしれないな」
しかし、吉田は別のことを考えていた。
啓子は、この間、安西澄子が行方不明になったことを、なぜ、彼に話さなかったのだろう? 忘れていたのか?——いや、本間の言った通りなら、安西澄子の失踪は、かなりの大事件だったのだ。
それを啓子が忘れてしまうなどということが、あるだろうか?
「——そうだ、吉田、お前、何か用事だったのか?」
本間の言葉に、吉田は我に返った。
「ママ……」
佳子が、退屈そうに欠伸をして「ねえママ」
「なあに? お買物してるんだから」
スーパーの棚の間を歩きながら、啓子は、左の腕に下げたカゴの中へ、品物を入れていた。大分重くはなったが、まだまだ買い足りないものがある。
「ママ、表で遊んでていい?」
と、佳子が、つまらなそうな顔で言った。
「表で?」
啓子は、ちょっとためらった。——普通なら、一人で遊ばせることはない。何といっても、物騒な世の中である。
しかし、このスーパーは、佳子もいつも来て慣れている。それに、スーパーの表は、ちゃんと、子供が遊べるようなスペースになっていて、よその子も沢山遊び回っていた。車も入って来ないから、危険はほとんどない。
「ねえ、ママ」
「分ったわ」
と、啓子は言った。
まあ、九つの子に、買物におとなしく付合えと言う方が無理だろう。それに、スーパーは混み合っていて、レジも長い行列ができている。
あそこに並ぶだけで、十五分はかかるだろう。
「じゃ、行ってなさい。道へ出ちゃだめよ。いいわね?」
「うん!」
佳子は、もう人の間をかき分けて、出口の方へ、駆け出していた。
少々活発すぎるくらいの元気さだが、元気がないよりはいいだろう。
啓子は、一人になったので、手早く、棚から棚へと歩き回り始めた。
比較的早そうなレジ——と、思っても、誰しも考えることは同じで、結局どこに並んでも、大して変りはないのである。
啓子は適当に、近くの列の最後についた。近所の顔見知りの主婦が、啓子の方へ会釈して行く。
列の進み方は割合に早かった。この分なら十分ぐらいで済むかしら、と啓子は思った。
誰かが、値札のはがれた品物をカゴへ入れていたらしい。レジがストップして、みんなの顔にうんざりした表情が浮かんだ。
仕方ない。気を付けてはいても、つい、値札がはがれているのを気付かずにカゴへ入れてしまうことがある。
ただ、本来ならそれはスーパー側の責任なのに、並んでいる主婦たちの、苛立った無言の責めを受けるのが、それを手に取ってしまった主婦の方なのは、奇妙なことだった。
やっと、値段が分って、カシャカシャとレジの音がし始めると、啓子もホッとした。
キーッ。
鋭い音が、スーパーの中へ飛び込んで来た。一瞬、スーパーの中がシン、とした。
何の音かしら、と啓子は思った。
「——車のブレーキだわ」
と、誰かが言った。
「いやねえ、事故?」
「子供でも飛び出したんと違う?」
啓子は、またレジを打ち始めたので、そっちの方へ注意を戻した。——子供が飛び出したのかもしれない。
危いわ、本当に。子供を一人で遊ばせておくなんて、どういう親なのかしら……。
佳子。——佳子、どこに行ったの?
今日は連れて来なかったっけ? 啓子は、ちょっと迷ってしまった。いえ、確か、連れて来ていたのに……。
ママ、遊んでていい?——そう言って、あの子は……。
佳子。——佳子。
「あの——ちょっとすみません」
啓子は、列を抜けると、品物を入れたカゴを下へ置いて、駆け出していた。
店に入って来る客とぶつかりそうになる。
外へ出ると、遊び場を見回した。——佳子! 佳子、どこ?
子供たちも、遊んでいない。みんな、表の道路を眺めているのだ。人だかりがしていた。車が停っている。
何かあったのだ。でも、もちろん、佳子とは限らない。きっと他の子なのだ。
佳子は、車の前へ飛び出すような、そんなことはしないわ。そう、あの子は、ちゃんと言いつけは守る子だから……。
だが、啓子は、その人だかりの方へと駆け寄っていた。
ワーッ。子供の泣き声が耳に飛び込んで来た。佳子? 佳子だろうか?
女の子の甲高い泣き声なんて、似たようなものだ。でも、佳子の泣き声にも似ている。
人をかき分けると、車道の端の方に、ペタッと座り込んで、佳子が顔を真赤にして泣いているのが目に入った。膝が震えた。
「佳子!」
啓子は、娘へと駆け寄って、抱き上げた。重さなど、全く感じなかった。
佳子が泣きながら抱きついて来る。
「佳子……。大丈夫? 痛いところは?」
啓子は、娘を固く抱きしめて、揺さぶっていた。赤ん坊をあやしているようだ。
「お母さんですか」
と、背広姿の若い男が、おずおずと声をかけて来た。
「はい……」
「この子が、急に飛び出して来て……。いや、危いところでしたが……。どうも、申し訳ありません」
普通なら、「俺のせいじゃない!」と力説するだろう。啓子は、好感を持った。
「いえ——こちらこそ。一人で遊ばせていたものですから」
「女の子がね、助けてくれたんですよ」
と、若い男は言った。
「女の子が?」
「ええ。——どこに行ったのかな」
と、周囲を見回して、「ともかく、パッと走って来て、お子さんをかかえて転がったんですよ。中学生ぐらいの女の子で……。いや、あの子がいなかったら、はねていました」
「まあ……。そうですか。——じゃ、お礼を申し上げなきゃ」
啓子に抱かれて、佳子もやっと泣きやんでいた。膝や肘を少しすりむいて血が出ていたが、他にはどこも痛いところはないようだった。
「あ、あそこに歩いていく子じゃないかな」
と、若い男が指さして、「あのグレーのセーターの。向うへ歩いてく子がいるでしょう。そう、あの子ですよ」
「まあ、そうですか。——じゃ、お礼を」
まだ人が集まっているのを、かき分けるようにして、啓子は佳子を抱いたまま、小走りにそのグレーのセーターの少女を追いかけて行くと、
「あの——すみません」
と、声をかけた。
少女が足を止める。
「この子を助けて下さったのは、あなた?」
と、啓子が言うと、少女は、ゆっくりと振り向いた。
「ええ」
「ありがとう。本当に——ほら、佳子、ちゃんとお礼を言うのよ」
と、佳子をおろして頭を下げさせ、啓子は、その少女の顔を正面から見た。
少女は、微笑んでいた。——二十数年前の記憶の中の笑顔が、そこにあった。
安西澄子だ。——安西澄子! そんなことが——こんなことが!
啓子は、フラッとよろけて、膝をついていた。
「大丈夫ですか!」
と、支えてくれたのは、車を運転していた若い男だった。
「ええ……。すみません、ちょっとめまいがして——」
目の前に、もう安西澄子はいなかった。啓子は、呆然とその空間を見つめていたが……。
「あの——ここに女の子、立っていました?」
と、男の方へ訊いた。
幻かと思ったのだ。
「ええ。でも——いなくなっちゃったな。きっと、わざわざ礼を言われるのがいやだったんでしょう」
「じゃ……本当にいたんですね」
と、啓子は独り言のように呟いた。
「ママ……」
と、佳子に手を引張られて、啓子はハッと我に返った。
「どうしたの? どこか痛い?」
「お膝をけがしてる」
「そうね。でも、ほんの少しでしょ。我慢しなさい。お家へ帰って、すぐに薬をつけてあげるから」
「私じゃなくて、ママが」
そう言われて、啓子は初めて気が付いた。膝をついたとき、何かで切ったのか、膝頭から、一筋、血が流れ落ちていたのだ。
この辺だったはずだ。
——啓子は、少し歩いて、途方にくれたまま、立ち尽くしてしまった。
春が近いとは思えない、肌寒い曇り空である。
様子はすっかり変っていた。木造の家が、取りとめもなく並んでいただけの、曲りくねった通りは、広く、舗装された商店街になって、地下鉄が通り、マンションやビルが立ち並んでいる。
あのころは、学校の帰りにどこかへ寄りたくても、寄る店がなかったものだ。
あのころからこんなににぎやかな町だったら、啓子の人生も少しは変っていたかもしれない。
学校の位置が変っているわけはない。——そうなると、たぶん、この少し先辺りになるはずだが……。
それとも、もう二十年以上もたっているから、何もなくなっているかもしれない。
ともかく見当をつけて、啓子は歩いて行った。——少しゆるい上り坂になっている。
そう、あのころも、ここは坂道だった。
思い出した。この坂を、安西澄子と一緒によく上ったものだ。一緒に?——いや、安西澄子の後について、上ったのだった……。
いつも、啓子は、安西澄子について行った。
安西澄子は、啓子を「従えて」歩いていたのだ。
「ほら、これ持って!」
安西澄子が、よくこの坂道で、いきなり振り向くなり、自分の学生鞄を放り投げる。啓子は、あわててそれを落さないように受け取るのだ。
取りそこなって、地面に落したりすると、
「何してんのよ! しょうがない、無器用ね、あんたは!」
と、澄子の罵声が飛んで来る。
啓子は、自分の鞄を投げ出しても、澄子の鞄を受け止めなくてはならなかった……。
それがたぶん——坂のこの辺だったろう。
ガタゴト、と機械の動く音がした。
そこに——そのビルはあった。
記憶の中では、真新しい、輝くようなビルだったのだが、今目の前にあるのは、灰色の、薄汚れた、あちこちひび割れ、はげ落ちた老残のビルだった。
しかも、それでいて、一目であのビルに違いないと分ったのは、啓子の方の見る目も、年を取ったからだろう……。
ドーン、と足下を揺るがすような音がして、ビルの壁が、バラバラと崩れた。——啓子は、唖然として、立ちすくんでいた。
ビルが元の通りにあると思ったのは、実はただ、手前の側の壁だけだったのだ。それが破壊されると、そこには、ただ空間だけが、口を開いていた……。
3
無口な休日だった。
晴れ上って、穏やかで、普通なら、ちょっと散歩でもしようか、と言い出すような気候である。
しかし、吉田も啓子も、どちらからも言い出さないままだった。佳子は一人で、朝からTVのアニメを見ている。
いつもの吉田なら、こんな天気のいい日に、TVばっかり見ないで、外へ出て遊べ、と言っただろう。
しかし、そう言えば、当然自分が佳子を連れて出なくてはならない。だから、つい口をつぐんでしまう。
啓子の方は、大して急ぎでもない縫い物をしたり、タンスの引出しを整理したりしていた。——まるで夫や娘と顔を合せるのが辛いかのように。
さすがに、佳子がTVにも飽きたらしい。
「パパ。——公園に行こうよ」
と、吉田の膝に甘えて来る。
「うん……。一人で遊んでおいで」
と、吉田が言うと、
「だめよ!」
と、啓子の声が飛んで来た。「車にはねられかけたのよ! 一人でなんて行かせないで!」
「分ったよ」
吉田は、少しムッとして言い返した。「僕が連れて行く。それならいいんだろう」
「いいんだろう、って、何よ。私、何も文句なんか言ってないわ。いやなら、家の中で遊ばせればいいじゃないの」
「連れて行くよ」
吉田は、怒鳴りつけたい気持を抑えて、立ち上った。「おいで。ボールを持って行こうか」
「うん!」
ともかく、佳子は遊べればいいのだ。自分の部屋へ走って行って、ボールを取って来た。
「パパ! 行こう」
と、手をつかんで引張る。
「ああ、行こう」
吉田は、チラッと妻の方へ目をやってから、玄関の方へ歩いて行った。
——啓子は、夫と佳子が出て行く音を聞くと、体中で息をついた。
どうして、こんなにとげとげしい空気になってしまったのだろう?
夫も私も、どうしてしまったというんだろう……。
啓子は、縫い物を途中で放り出して、居間へ来ると、ソファに座り込んだ。どうせ、縫い物など、したくもなかったのだ。
ただ、何かに忙しくしていないと、夫に話しかけられそうで、怖かったのである。
啓子は、深々とため息をついた。
啓子は怖かったのだ。——それは、子供が抱くような恐怖心、得体の知れないものへの怖れだった。
啓子も三十七歳だ。少々のことなら大して怖いとも思わないし、少なくとも、対処することもできる。しかし、今度ばかりは、どうしていいか分らないのだ。
安西澄子……。
あれは本当に澄子の娘だろうか?
あれが、夫の見た少女だったというのは、間違いない。そして、夫があの少女を一目見て、安西澄子の娘だと考えたのも、当り前だった。
それほど、啓子の目から見ても、少女は安西澄子にうり二つだった。
しかし……夫にとっては、安西澄子が結婚して、あの少女を生んだと考えれば、それなりに筋は通るし、納得もいくのだろうが、啓子は、そういうわけにはいかなかった。
啓子は、安西澄子が結婚したり、子供を生んだりしているはずがないと、分っていたからである。
そうなると、あの少女は一体誰だったのか?——振り向いて、啓子に見せた笑顔は、ただ、助けた子供の母親を見る少女のものではなかった。
その笑顔は、安西澄子そのものだった。
二十年以上昔、中学生だった啓子が見ていた、澄子の笑顔だった……。
あの笑い方は、向うもこっちを知っている、という笑い方だった。
もし、あれが万一、安西澄子の娘だったとして、なぜその娘が、啓子のことを知っているだろうか。しかも、三十七にもなった啓子のことを……。
しかも、それでいて、少女が佳子の命を危いところで助けてくれたのは確かなのだ。
これだけでは済まない。——啓子は直感的に、そう信じて、恐れていたのだ。
何かが起ろうとしている。しかし、それを食い止めることも、それと闘うことも、啓子にはできないのである……。
電話が鳴って、啓子は、ギクリとした。
——まさか、あの少女から……。
そんな! 電話をかけて来る人なんて、いくらでもいるのに。
啓子は、受話器を取った。
「はい、吉田でございます」
「あの——吉田和彦さんのお宅でしょうか」
と、何だか力のない女性の声だ。
「はい、さようでございますが」
「あの——私、本間と申します」
「本間さん……」
「本間征夫の家内です。ご主人と、昔学校でご一緒していたと思いますが」
「ああ。——本間さん! いえ、失礼しました」
と、啓子はあわてて言った。「あの、私も中学でご主人と一緒だったんです」
「奥様も?——そうですか」
「ええ、よく存じ上げていましたわ。主人はちょっと外に出ていて……。ご用でしたら、お電話させますが。——え? 何とおっしゃいました?」
「実は——主人が亡くなったんです」
と、その女性の声は、震えた。
「亡くなった……。本間さんが、ですか」
「はい。一昨日、車にはねられまして」
「まあ」
啓子は、しばらく言葉もなかった。「——それは——何と申し上げていいか……。お気の毒です」
「はい……。実は、ご主人に、ちょっとお話ししておきたいことがございまして……」
「分りました。すぐに呼んで参りますわ」
「できましたら、おいでいただけますでしょうか。今夜がお通夜ですので」
「はい。伺います」
と、啓子は言った。
——公園に行ってみると、佳子が砂場で一人で遊んでいる。
「佳子、パパは?」
と、啓子は声をかけた。
「くたびれたって。——あっちにいる」
啓子は、夫が、ぼんやりとベンチに座って、タバコをふかしているのを見た。
「——あなた」
呼ばれて、少ししてから、吉田は顔を上げた。
「君か。——さっきは悪かった」
「いいえ……。ごめんなさい。つい苛々していて……」
啓子は、ベンチに並んで腰をおろした。
「啓子。——どうしてこの間、黙っていたんだ?」
「何のこと?」
「安西澄子さ。——行方不明になったんだってな」
「誰に聞いたの?」
「本間だ」
「そう……。私も、後で思い出したのよ。あの人のことは、思い出したくもなかった」
と、啓子は首を振った。
「なぜ?」
と、吉田が啓子を見る。
「分ってないのよ、あなたには。いいえ、あのときのクラスの男の子たちは、みんな、今でも彼女のことを憶えてるでしょうね。——優等生、美人、そして友情にあつい、正に理想の人……」
啓子は、苦々しく笑った。「とんでもない話だわ。女の子たちの間で、彼女のことを好いていた人は一人もいなかったでしょう」
吉田は、意外そうに目を見開いた。
「しかし君は——」
「私はあの人の召使みたいなものだった。いつも私をおともに連れて、鞄は持たせるし、物は買わせるし、掃除も、日直も、先生の目の届かないところでは、いつも彼女は私にやらせてたのよ」
吉田は、半信半疑の面持ちだった。啓子は、肩をすくめて、
「私が、ただ彼女に嫉妬してるだけだと思う? それなら、他の同級生にも訊いてごらんなさい。みんな、彼女がいなくなればいいと思っていたはずだわ」
と言った。
「——いや、信じるよ」
と、吉田は言った。「僕はもう昔の少年じゃない。人間、表も裏もあって当り前だ」
「あなた」
と、啓子は言った。「今、本間さんの奥さんから、電話があったのよ」
「本間の奥さん?」
吉田は、当惑した様子で、「何だって、一体……」
と、呟くように、言った。
「——全く、信じられません」
黒いスーツ、黒ネクタイの吉田は、本間の未亡人の前に座って、息をついた。「ついこの前、会ったばかりだったのに……」
「とても呑気な、いい人でした」
と、未亡人は充血した目で、寂しげに、黒いリボンをかけた写真の方を見やった。
啓子は、夫の少し後ろに座っていた。未亡人は、啓子に気付いて、
「——お電話では失礼いたしました」
と、頭を下げた。
「いいえ……」
「実は、吉田さんにおいで願いましたのは、主人の頼みなんです」
と、未亡人が言った。
「本間君の?」
吉田は、意外そうに、「何か、僕のことで——」
「あの人は、赤信号だったのに、車道へ飛び出してしまったんです。酔っていたから、と警察の方では見ているようですが、その少し前に別れた会社の方のお話では、酔うというほどは飲んでいなかった、と……」
「本間君は、かなり強かったでしょう」
「ええ。でも——それはともかく、主人は車にはねられ……。病院でも、しばらくは意識がありました」
と、未亡人は続けた。「私に、こう言ったんです。『吉田に伝えてくれ。あの女の子を見たんだ、って』——そう、主人はくり返しました」
「女の子を……」
吉田は、呟くように言った。
「ええ。そう言ったんです。——主人は、誰だか、その『女の子』を見かけて、追いかけようとして車道へ飛び出したようなんです。——お心当りはありませんか」
未亡人の気持は、啓子にも分った。啓子は、夫の腕に触れ、
「あなた」
と言った。「その女の子って、もしかして……」
「うん。——あの前にも、本間は彼女を見ているんだ」
と、吉田は言った。「奥さん。ご主人が言われたのは、決して好きな女性とか、そんな意味じゃないのです。ついこの前会ったとき、中学校で同じクラスにいた女の子のことが話に出て——その子とそっくりの、十五、六の女の子を見かけた、と言っていたんです。その女の子のことだと思いますよ」
「十五、六の?」
「ええ」
と、啓子が言った。「私も同じクラスでしたので、憶えています。クラスの男の子の憧れの的だった女の子ですわ。たぶん、その人の娘さんだろうって、主人とも話をしていたんです。——きっと、ご主人は、懐しくて、声をかけてみたかったんじゃないでしょうか」
啓子の話で、未亡人は少し気が楽になったようだった。
「そうですか……。主人の最後の言葉だったので、つい気になりまして……。お手間を取らせて、申し訳ありませんでした」
と、未亡人は頭を下げた。
帰りの車の中で、啓子は言った。
「本間さんも、見たの?」
「うん」
吉田はハンドルを握っていた。——いつも運転しているわけではない。
「どういうことなのかしら」
「分らないね」
「でも——あなたの目の前に現われて、本間さんの前にも……。それも二回。偶然かしら?」
それだけではない。啓子自身、彼女を見ているのだ。
しかし、そのことは、夫に打ち明けていなかった。
「偶然じゃないとしたら……。どういうことになるんだ?」
「分らないわ。でも——もし、何か目的があって、姿を現わしているんだとしたら、一体目的って何なのかしら?」
「さあね……」
吉田は肩をすくめた。
車は、夜ふけの道を駆け抜けて行く。
佳子を、啓子の実家へ預けているので、寄って行かねばならない。
二人は、しばらく黙っていた。車のライトには、ただ平坦な道が現われては消えて行くばかりだ。
「——なあ」
と、吉田が言った。「笑わないで聞いてくれ」
「何を?」
「君は——考えたことないか。あの女の子が、安西澄子本人だったかもしれない、と……」
啓子はしばらく黙って、前方の闇を見つめていた。
そして、言った。
「まさか」
「——そうだな」
吉田は言った。「この世の中に、幽霊話なんて……。僕はどうかしてる」
啓子は、夫の腕をつかんで、
「あなた! しっかりしてよ」
と叫ぶように言った。「そんな——十五や十六の女の子が何なの? 安西澄子の本人だろうが、娘だろうが、別人だろうがそんなことがどうだっていうの? 今の私たちの生活と何の関係があるのよ!」
「分ってる」
「分ってないわ! あなたはまだこだわってるのね。私が、あの人のことを黙っていたからって……。私にはね、昔の幻に悩まされるような、そんな暇はないのよ。生活があるわ、毎日毎日、ご飯を作って、洗濯をして、掃除をする生活が。——二十年も前のことでいちいち思い悩む余裕なんてないのよ」
一気に言って、啓子は大きく息をついた。
「——悪かった」
と、吉田は言った。「君の言う通りだ。本間のように、あの少女を追いかけようとして死んじまったら、全く馬鹿みたいだものな」
「そうよ」
「分った。——もう二度と、あの子のことは言わないよ」
「あなた……」
啓子は、夫の方へ、身をもたせかけた。
——前方の闇から、不意に白い人影が浮かび上った。
「危い!」
と、啓子は叫んだ。
いや、叫んだ——つもりだったが、果して声になっていたかどうか。
はっきり憶えているのは、急ブレーキの音、そして体がまるでジェットコースターのように振り回されて、次の瞬間には、激しくどこかへ叩きつけられたことだった。
あなた……。しっかりして!
あなた——。
意識を失う寸前に、啓子は考えていた。
道に現われた白い人影は、安西澄子だったのかもしれない、と……。
4
少し、片足を引きずりながら、啓子は、病室を出た。
ちょうど、担当の医師が廊下をやって来るところだった。
「先生——」
と、啓子は頭を下げて、「吉田の家内ですが」
「やあ、奥さん。どうです、足の方は?」
と、太った医師は愛想良く笑顔で言った。
「ええ、おかげさまで。もう大して痛みません」
啓子は、ちょっと病室のドアへ目をやって、「主人は、どうでしょうか」
と、少し声を低くした。
「うむ……。何とも、難しいですね」
と、医師は首を振った。「頭を強く打っているが、一応、脳にはっきりとした傷はありません。しかし、レントゲンや脳波ではつかめない、小さな傷があることもある」
「意識はあるのに——私のことも分らないようです」
啓子は、沈んだ声で言った。