TITLE : 過去から来た女
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目 次
1 帰《き》 郷《きよう》
2 埋《うも》れた時間
3 失《しつ》 踪《そう》
4 墓《ぼ》 地《ち》
5 疑《ぎ》 惑《わく》
6 死の恐《きよう》怖《ふ》
7 孤《こ》独《どく》の夫《ふう》婦《ふ》
8 再《ふたた》び村へ
9 沈《ちん》黙《もく》の村
10 焼《やけ》跡《あと》の男たち
11 深《しん》夜《や》の逢《あい》引《び》き
12 薬
13 幽《ゆう》 霊《れい》
14 廃《はい》 屋《おく》
15 闇《やみ》の襲《しゆう》撃《げき》
16 推《すい》 理《り》
17 弓《ゆみ》と銃《じゆう》声《せい》
18 夜の乗《じよう》降《こう》客《きやく》
19 田《でん》村のミス・マープル
20 秘《ひ》 密《みつ》
21 仮《か》面《めん》の下の顔
22 エピローグ
1 帰《き》 郷《きよう》
「時間だぜ」
欠伸《あくび》しながら、駅長の金《かね》子《こ》が言った。
「はい」
今《こ》年《とし》から駅員の見《みな》習《らい》をしている庄《しよう》司《じ》鉄《てつ》男《お》は、改《かい》札《さつ》口《ぐち》の方へ、ぶらぶらと歩いて行った。
どうせ、降《お》りる客なんて、いやしないのだが。
それでも一《いち》応《おう》は改札口に立たなくてはならないのが決りである。まず決りを憶《おぼ》えるのが、大人《おとな》になる第一歩なのだ。
「おい、鉄《てつ》、ちゃんと帽《ぼう》子《し》かぶれ!」
と駅長は口やかましく言って、それから、あわてて列車の来る方へと顔を向けた。
欠伸するところを見られないように、である。だが、実《じつ》際《さい》は心配することはなかったのだ。庄司鉄男の方も欠伸をしていたからである。
しかし、眠《ねむ》くなるのも当然という感じの、小《こ》春《はる》日和《びより》だった。
風もない、暖《あたた》かな日。空は、都会では見られない青さで、輝《かがや》いていた。
赤字国鉄の中で、なぜか廃《はい》線《せん》にならずに済《す》んでいるこの路線の駅は、元来なら、無《む》人《じん》駅《えき》で充《じゆう》分《ぶん》だった。ただ、あまりに小さすぎて、目につかなかったのかもしれない。
ホームは、気を付けて見なければ見落としてしまいそうな、ただの、のっぺりとした台《ヽ》に過《す》ぎない。
金子駅長は、懐《かい》中《ちゆう》時《ど》計《けい》を見て、肯《うなず》いた。——ほぼ正《せい》確《かく》にやって来る。
列車を待つ者もなければ、降《お》りる者もほとんどなかった。
駅長は、この両《りよう》隣《どなり》の駅長も兼《か》ねているが、いつもは、この真《まん》中《なか》の駅にいた。
レールを伝って、列車の震《しん》動《どう》が聞こえて来る。——この駅の手前はトンネルで、そこに列車が入る、ゴーッという音がしてから、ホームへ出て来ても、充《じゆう》分《ぶん》に間に合う。
今日《きよう》は、しかし、陽《ひ》を浴びていたいような気候なのだった。
駅長はエヘンと咳《せき》払《ばら》いした。もちろん、ここにはアナウンスの設《せつ》備《び》はない。大声を張《は》り上げなければいけないのである。
しかし、それには、この駅の名前は、不《ふ》適《てき》当《とう》であった。——この駅、名前を「でん」という。〈田〉一《ひと》文《も》字《じ》である。
どんなにいい声でも、
「でん!」
とやって、大向うを唸《うな》らすわけにはいかない。
まあ仕方ない。駅長が勝手に駅の名前を変えるわけにもいかないのである。
列車がトンネルへ入った。ゴーッという響《ひび》きがする。駅長は帽《ぼう》子《し》をかぶり直した。
列車は、スピードを落として、ホームから車体をはみ出させて停止した。
「でん!——でん!」
とやると、必ず、乗っている子《こ》供《ども》が笑《わら》うのである。
昔《むかし》は、駅長もそれが気になって仕方なかったものだが、最近は悟《さと》りの境《きよう》地《ち》にあるのだ。
さて、今日も別に降《お》りる客は……。
若《わか》い女《じよ》性《せい》が一人《ひとり》、ホームに降り立った。
ボストンバッグを手に、肩《かた》からはちょっと洒落《しやれ》たバッグを下げている。
ワインカラーのスーツのせいで少し落ち着いて見えるが、まだ若そうだった。駅長は、その女性が、改《かい》札《さつ》口《ぐち》の方へと歩いて来るので、面《めん》食《く》らった。
「今《こん》日《にち》は」
と、その女性は言った。
「どうも。——ここで降りられるんですか」
「ええ。だって、ここは『でん』でしょ」
と、彼女《かのじよ》は言った。
駅長はちょっと驚《おどろ》いた。田《でん》村の人間は、この駅の名を呼《よ》ぶのに、ちょっと独《どく》特《とく》のアクセントをつける。今、彼女がその言い方で言ったのが、それだった。
金子駅長は、その娘《むすめ》の顔を眺《なが》めた。
二十五、六というところだろうか。いかにも洗《せん》練《れん》されて、都会的な美人である。
「ここにお知り合いでも?」
と、駅長は言った。
「ええ」
娘《むすめ》は肯《うなず》いて、微《ほほ》笑《え》んだ。「大勢います」
「はあ……」
「じゃ、切《きつ》符《ぷ》を——あら」
と改《かい》札《さつ》口《ぐち》の庄司鉄男に気付いて、「あっちで渡《わた》しますわ」
と歩いて行った。
鉄男は、列車が来たときは目が覚《さ》めていたのに、この一、二分の間についウトウトしていた。
娘は、鉄男の前に切《きつ》符《ぷ》を置いて、歩いて行こうとしたが、ふと足を止めて振《ふ》り返った。
「まあ……鉄男君ね!」
鉄男は目を開いて、彼女《かのじよ》を見ると、あわてて頭を振った。
「鉄男君ね? そうでしょ!」
「ええ……庄司鉄男ですけど」
「やっぱり」
娘は息をついて、「もうこんなに……」
と呟《つぶや》いた。
「あの……」
「じゃ、またね」
娘《むすめ》は、舗《ほ》装《そう》もされていない、田舎《いなか》道《みち》をさっさと歩き出した。
「——おい、鉄男」
と、駅長は、居《い》眠《ねむ》りを叱《しか》るのも忘《わす》れて、「今の女——知ってるのか?」
「いや……分んねえな」
鉄男は首をかしげた。
「村へ行くぞ」
「何の用かな」
「俺《おれ》が知るか」
と金子駅長は言った。「あんな子、ちょっと見《み》憶《おぼ》えがないぞ」
「俺も……」
「——こら、駅長にその口のきき方があるか!」
「すんません」
鉄男は頭をかいた。
「変ってないな」
と、その娘は呟《つぶや》いた。
村の目《め》抜《ぬ》き通りは、奥《おく》さんたちの立ち話の輪や、かけ回る子《こ》供《ども》たちで、にぎやかだった。
いくらか、家が新しくなり——つまり建て直したり、手を入れた所がだが——また、古ぼけていた。
しかし、そんな変化は、東京で、真新しいビルが一年もたつと薄《うす》汚《よご》れて来るのとは、比《ひ》較《かく》にならぬ、小さなものだった。
通りを歩いて行くと、誰《だれ》もが、彼女《かのじよ》の方を見た。
世間話に夢《む》中《ちゆう》だった奥《おく》さんたちも、ピタリと話をやめて、見《み》慣《な》れぬ旅人を見送った。
「——誰だね、あれ?」
「さあ……」
「村のもんに、あんな親類がいたかね」
「さあ、法事でも見たことないけど……」
「何かの売り込《こ》みじゃないの?」
と、用心深い一人が言った。
「そうかもしれんね。用心した方がいいよ」
「でも何を売るのさ?」
「化《け》粧《しよう》品《ひん》か何か……」
「もしかすると保《ほ》険《けん》の外交員かも……」
「そうねえ」
「ああいうのは口だけ巧《うま》いんだよ。この前もうちの弟が、ほら大《おお》阪《さか》に行ってるんだけど——」
話は、あの娘《むすめ》からそれて行った。
彼女《かのじよ》は、村の外れに向って、歩き続けていた。
家は、かなり村の外へ外へと、建ち並《なら》んでいる。
その中に、戸を打ちつけて、完全に廃《はい》屋《おく》になっている家があった。その前で、彼女は、足を止めた。
意外そうな表《ひよう》情《じよう》——そして、ちょっと寂《さび》しげな顔になって、その古ぼけた家を眺《なが》める。
最近建ったらしい隣《となり》の家は、小さな、都会でよく見る建売住宅風の造《つく》りだった。
そこの主《しゆ》婦《ふ》らしい、小太りな女が出て来ると、玄《げん》関《かん》先《さき》を掃《は》き始めた。
娘は、その主婦の顔をじっと見ていた。
「——何か用ですか?」
と主婦が顔を上げる。
一方は、洒落《しやれ》たスーツ姿《すがた》、もう一方はエプロンをして、髪《かみ》もボサボサと来ては、比《ひ》較《かく》にはならないが、よく見ると、同じくらいの年《ねん》齢《れい》であることが分る。
「あの——失礼ですけど——」
「はい?」
「この家の方は……」
と、廃《はい》屋《おく》の方を指す。
「ここの人?——亡《な》くなったんですよ」
「亡くなった?」
「ええ、そう」
あまり話したくないようだった。娘《むすめ》は何か言いかけたが、また口をつぐんだ。
「どうもありがとう」
「いいえ」
と、主《しゆ》婦《ふ》の方が、また掃《そう》除《じ》を始める。
「百《もも》代《よ》さん」
と、その娘が言った。
「え?」
主婦が顔を上げる。
「またいずれ」
娘はちょっと頭を下げて、歩き出した。
百代と呼《よ》ばれた主婦の方は、キョトンとして、その後《うしろ》姿《すがた》を見送っていた。
「どこかで……」
と首をかしげていると、
「母《かあ》ちゃん! 何かおやつ!」
と、男の子が駆《か》けて来て叫《さけ》んだ。
「うるさいね! 食い意地の張《は》った子だ、全く!」
杉《すぎ》山《やま》百代は、イライラと怒《ど》鳴《な》った……。
——村を出ると、道は一本で、畑の間を、うねるように縫《ぬ》って行く。
山に囲まれた、手《て》狭《ぜま》な土地だが、ぎりぎり一《いつ》杯《ぱい》まで、畑になっていた。
古びた、立《りつ》派《ぱ》な屋《や》敷《しき》があった。白《しら》壁《かべ》の塀《へい》が、真夏のように白く光っている。
娘《むすめ》は、その開け放った門の前で、足を止め、ちょっとためらっていたが、やがて思い切ったように、中へと入って行った……。
玄《げん》関《かん》に、自転車が置いてある。
警《けい》察《さつ》用《よう》のもので、ずいぶん古い。
彼女《かのじよ》は、二階建の家の周囲を、ゆっくりと回って行った。
庭へ面した縁《えん》側《がわ》に、警官が腰《こし》をおろしてお茶をすすっている。
「まあ、若《わか》い内は、多少のことは仕方ないじゃないかと言ったんですが、親《おや》父《じ》さんはカッカ来て、聞いちゃくれんのですよ。全く困《こま》ったもんで、あの石頭にも……」
座《すわ》って話を聞いているのは、五十歳《さい》前後と見える、上品な顔だちの婦《ふ》人《じん》で着《き》物《もの》姿《すがた》で座《ざ》布《ぶ》団《とん》に端《たん》然《ぜん》と座った姿は、いかにも血《ち》筋《すじ》の良さを感じさせた。
——しばらく、木の陰《かげ》からその様子を見ていた娘は、やがて、ちょっと息をついて、歩いて行った。
「いや、この先が思いやられます。私《わたし》はもうそう長くないからいいが——」
警《けい》官《かん》が言葉を切って、その娘《むすめ》を眺《なが》めた。婦《ふ》人《じん》が、ちょっと目をしばたたいた。
娘は足を止め、真《まつ》直《す》ぐに立った。
「お母《かあ》さん」
と彼女は言った。「ただいま帰りました」
そして、頭を下げた。
2 埋《うも》れた時間
常《つね》石《いし》公《きみ》江《え》は、驚《おどろ》いた様子も見せなかった。
「お帰り」
と、ただ肯《うなず》いて、微《ほほ》笑《え》んだ。
「それじゃ……文《ふみ》江《え》さんですか!」
警官の方は、仰《ぎよう》天《てん》した様子で、茶《ちや》碗《わん》を手にしたまま、座《すわ》っている。
「文江です」
と娘は言った。「長いこと、ご心配かけてすみません」
「いや……これは……大変だ!」
「白《しら》木《き》さん」
と、常石公江が言った。「私《わたし》が申したでしょう。文江は必ず生きている、と」
「お母さん。——上ってもいい?」
「ええ、お前の家だもの」
「入れてくれないかと思ったの」
と、文江は微《ほほ》笑《え》んだ。
「そんな、TVドラマに出て来るような母親とは違《ちが》うわよ」
と公江は言った。「——お父《とう》さんは亡《な》くなりましたよ」
「知ってるわ」
と文江は肯《うなず》いた。「この地《ち》域《いき》の新聞を、よく読んでたのよ。まだ、あのときは、とても帰れる状《じよう》態《たい》じゃなくって」
「いいからお上り。——白木さん、あなたも」
「はあ……」
白木巡《じゆん》査《さ》は、まだ狐《きつね》につままれたような顔で、上り込《こ》む。
「白木さん、大分、髪《かみ》が白くなったわね」
と、文江が言った。
「もう七年ですからな。——しかし、どこにおられたんですか?」
「東京です。一生懸《けん》命《めい》、働いていました」
「なるほど……」
長年、ここで働いている、うめが奥《おく》から出て来た。
「奥様、お風《ふ》呂《ろ》場《ば》の——」
と言いかけて文江を見る。
「ただいま、うめ」
「——お嬢《じよう》様《さま》!」
「文江、あんまりうめをびっくりさせないで。最近すぐ腰《こし》を抜《ぬ》かすんだから。——ほらね」
と公江は言って、座《すわ》り込んでしまったうめに笑《わら》いかけた。
父の遺《い》影《えい》に手を合せた後、文江は、母の前に座った。
「——お前が帰って来てくれたのは嬉《うれ》しいけれど」
と、公江は言った。「お前がいなくなった後のことを、知らないんでしょう?」
「後のこと?」
「そう。——恐《おそ》ろしいことが起ったんですよ」
公江はそう言って、息をついた。
「恐ろしいことって?」
「お前は黙《だま》って出て行ってしまったろう。私《わたし》はお前の気持も分っていたし、お前が自殺なんかする娘《むすめ》ではないと知っていましたからね、生きていると信じていたけれど、村の人たちは、お前が死んだと思っているのよ」
「なぜ?」
——白木巡《じゆん》査《さ》が言った。
「しかも、あなたは殺されたもんだと思っとったんです」
「殺された?」
文江は呆《あつ》気《け》に取られていた。「私がどうして……」
「さあ——今となっては、不思議な気がしますが」
白木巡査はため息と共に言った。「なぜかあのときは、そんなことになってしまったんですわ」
「恐《おそ》ろしいこと、っておっしゃいましたね」
と、文江は言った。「それは、どういう意味ですか」
「はあ……」
白木は困《こま》ったように、かなり薄《うす》くなりかけた頭をさわって、公江の方を見た。
「お嬢《じよう》様《さま》」
やっと落ち着いた様子のうめが、お茶を運んで来た。「相変らず濃《こ》いお茶をお好《この》みなんでございますか?」
「そうでもないわ。貧《びん》乏《ぼう》暮《ぐら》しをして、お茶の葉が買えなかったこともあるから、いつも薄くして飲んでたのよ」
「まあ!」
と、うめは呆《あき》れたように、「そう言って下されば、お持ちしましたのに」
と言った。
公江が苦《く》笑《しよう》して、
「何を言ってるの。——文江、お腹《なか》は空《す》いていないの?」
「ええ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》」
「本当にねえ」
と、うめが独《ひと》り言のように言った。「お嬢《じよう》様《さま》はてっきり坂《ばん》東《どう》のところの息子《むすこ》に殺されなさったと思っていましたよ」
公江と白木が目を見《み》交《か》わした。
文江は、うめの顔を見つめた。
「坂東って……坂東和《かず》也《や》さんのこと?」
「はい。ご存《ぞん》知《じ》なかったんですか?」
「和也さんが——私《わたし》を殺したって?」
文江は、ゆっくりと言って、「どうしてそんなことを……」
「色々とあったんですよ」
と白木が言った。
「そういえば、途《と》中《ちゆう》で見たけど、坂東さんの家は閉《しま》ってしまっていたわね。どこへ行ったの?」
「分らないのよ」
と公江は言った。「ご両親は、黙《だま》って村を出て行ってしまった……」
「そりゃ無《む》理《り》ありませんよ」
と、うめが口を挟《はさ》んだ。「息子《むすこ》が人殺しと言われて、首をくくってしまったんじゃ、村にはいられませんよ」
「うめ。あなたは退《さ》がっていなさい」
「はいはい。では、今夜は久しぶりにお嬢《じよう》様《さま》の好《こう》物《ぶつ》でも作らせていただきましょうかね」
と、うめが退がって行く。
「——文江。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
「ええ……」
文江は額《ひたい》に手を当てて、目を閉《と》じていたが、やがて、大きく息を吐《は》き出した。「本当なの? 和也さんが……」
「事実です」
と白木が言った。「本当に悲《ひ》劇《げき》でしたな、あれは」
「どうしてそんなことに?」
と文江は、母と白木を交《こう》互《ご》に見ながら言った。
「待ちなさい」
と公江は抑《おさ》えて、「あの朝のことから、順を追って話さなくてはならないわね。——お前がここを出たのは、何時頃《ごろ》だったの?」
「三時だったわ。——一時過《す》ぎまでは、起きている家もあるし、四時になると起き出す人がいる。だから三時にここを出たの」
「それからどっちへ向ったの?」
「駅へ行けば、人目につくに決ってるし、列車に乗るわけにはいかない。知ってる人が大勢いるはずですものね。だから、逆《ぎやく》に、山の方へ歩いて行ったのよ」
「しかし、凄《すご》い早足でしたな」
と白木が言った。「山《やま》越《ご》えには、半日かかるでしょう。向うの町には、もう、朝の内に連《れん》絡《らく》が行っとって、山からの道を見《み》張《は》っていてくれたはずでしたが」
「運が良かったんです」
と文江は言った。「山へ上る前に、車が一台、村の方から走って来たの。東京の人で、家族で旅行していたんだけど、道に迷《まよ》ってこんな所へ入りこんでしまったのね。で、私《わたし》を見て道を訊《き》いたんです」
「で、乗せてもらったんですか」
「ええ。男一人の車なら乗りませんけど、あちらは親子連れでしたから。車はUターンして駅の方へ戻《もど》り、旧《きゆう》道《どう》と川の土手を抜《ぬ》けて、国道へ出たんです」
「それで東京まで?」
と、公江が訊《き》いた。
「そうなの。ともかく、新《しん》宿《じゆく》の駅のところで降《お》ろしてもらったわ。おかげで、列車代が助かって、二、三日は食べていられたの」
「呆《あき》れたものね。十九歳《さい》の身で、よくそんなことを……」
と公江は言ったが、怒《おこ》っている様子ではなかった。
「でも、お母さんに恥《は》ずかしいようなことは、どんなに苦しくてもやらなかったわ。額《ひたい》に汗《あせ》して働いて」
「そうね。まだ訊いてなかったけど、お前、まだ独《ひと》りなの?」
「そりゃそうよ。恋《こい》人《びと》ぐらいはいるけれど」
「子《こ》供《ども》もいないのね」
「今のところは。そんなことより——」
「お待ちなさい。どう話したらいいかと思って考えているのよ」
公江は、ちょっと視《し》線《せん》を宙《ちゆう》にさまよわせて、考えている様子だった……。
「最初にお前がいないことに気が付いたのは、うめだったわ」
3 失《しつ》 踪《そう》
何かが起った。
公江には、うめの足音で、すぐにそれが分っていた。
よほどのことでなければ、うめはあんな走り方をしない。
「奥《おく》様《さま》!」
襖《ふすま》の向うから声がかかったときには、もう公江は布《ふ》団《とん》に起き上っていた。
「どうしたの?」
襖がガラリと開く。うめが、ハアハア息を切らしている。
「お嬢《じよう》様《さま》が——いらっしゃいません」
と、切れ切れの言葉で言った。
「いないの?——じゃ、どこかへ出かけたんでしょう」
「それが——お部《へ》屋《や》の中が——ともかく、ご覧《らん》になって下さい」
文江の部屋へ行ってみて、なるほど、うめが取り乱《みだ》すのも当り前だと思った。
押《おし》入《い》れや洋服ダンスが、開け放してある。中の物が床《ゆか》に散《さん》乱《らん》していた。
「——持って行った服もあるようね」
公江は、ちゃんと何と何が失《な》くなっているか、見定めていた。「冬物ばかりだわ。うめ、そこの上の戸《と》袋《ぶくろ》を開けて」
「はい!」
「——ボストンバッグがあるでしょう」
「ございませんよ」
「そう。じゃ、やはり、出て行ったんだわ」
「ど、どうします、奥《おく》様《さま》?」
「落ち着いて。——何時頃《ごろ》出て行ったのかしら」
「私《わたし》は五時には起き出しておりました。——お嬢《じよう》様《さま》が出て行かれれば分ったと思いますけどね」
「ともかく夜の内ね。今から追いかけて間に合うかどうか……。今、何時?」
「六時半でございます」
「じゃ、白木さんへ電話をして。駅にも一《いち》応《おう》連《れん》絡《らく》してもらうように」
「はあ。でも……」
と、うめはためらっている。
「どうしたの?」
「内々に済《す》ませた方が、よくはございませんか? 私が駅まで——」
「むだよ」
と、公江は遮《さえぎ》った。「お前が走り回れば、村の人には何か起ったと、すぐに分ります。どうせ同じことよ」
「さようで」
「お前一人で、いろいろな場所を見《み》張《は》るわけにいかないんですからね」
「旦《だん》那《な》様《さま》には……」
「今日はどちらだったかしら」
夫は、商用で出かけていた。二、三日は戻《もど》らない予定である。
「今夜は大《おお》阪《さか》にお泊《とま》りの予定でございましたが」
「いつもの宿ね。分りました。私から電話しておくわ。それにしても、ただいなくなっただけでは、連《れん》絡《らく》の取りようもないから、まず白木さんへ電話しておくれ」
「かしこまりました」
うめが、今度は素《す》直《なお》に出て行った。
公江は部《へ》屋《や》の中を見回した。——どこか引っかかるものがあった。
文江が、この家を出て行きたがっていたことは事実である。公江としては、無《む》理《り》はないと思っていた。
十九歳《さい》で、こんな所の、ろくに顔も知らない男と結《けつ》婚《こん》させられるのでは、かなうまい。
しかし、文江は一人《ひとり》娘《むすめ》、一人っ子である。夫としては、婿《むこ》を取らなければ、この常石の家が絶《た》えることになってしまうから、仕方のないことであった。どっちの気持も、良く分っていた。
実のところ、文江が出て行ったと知っても、さほど驚《おどろ》かなかったのは、多少、それを予《よ》測《そく》していたせいもあっただろう。
それにしても、どうにも引っかかるのが、部屋の中の乱《らん》雑《ざつ》さだった。
文江は、若《わか》いなりに、少々面《めん》倒《どう》くさがりやではあったが、部屋を片《かた》付《づ》けておくのは、ほとんど習《しゆう》慣《かん》のようになっていた。
当人の気が済《す》まないのである。——いくら出て行くからといって、こんなに乱雑にしておくものだろうか?
ふと思い付いて、公江は、文江の机《つくえ》の上を見た。
置き手紙のようなものがないかと思ったのだ。——しかし、それらしいものは、机の上にも、引出しの中にもなかった。
どうもおかしい、と公江は思った。文江は、必ず何か残して行くはずだ。
娘《むすめ》の性《せい》格《かく》は良く飲み込《こ》んでいる。公江には、文江が出て行ったことよりも、そのことの方が、気にかかってならなかった。
その朝早く、吉《よし》成《なり》百代が、家の使いで、村を出ていた。
百代は、文江と同じ十九歳《さい》で、小太りな、人のいい娘である。文江の数少ない友だちの一人だった。
文江は何といっても、この辺では名士の一人娘であり、学校でも、何となくみんなに敬《けい》遠《えん》されることが多かった。百代は、文江と幼《おさな》い頃《ころ》からよく一《いつ》緒《しよ》に遊んでもいたので、長いつきあいが今も続いていたのである。
「おお寒い」
百代は、山の方へと向いながら、思わず呟《つぶや》いた。
よく晴れていたが、寒さは厳《きび》しい。風がないのが幸いだった。
毛糸の手《て》袋《ぶくろ》をはめていても、指先はかじかんで来た。
「この寒いのに、もう——」
と、ついグチが出る。
山を越《こ》えて、向うの町まで出なくてはならない。列車やバスを乗りついでも、行けないことはないのだが、えらく遠回りであり、お金もかかる。
時間は同じぐらいかかるが、交通費が浮《う》いた分だけは、百代がもらえるということになっていた。
だからこそ、百代も朝から張り切って、出かけて来たのである。
それにしても冷い朝だ。——町で用を済《す》ませたら、何か熱いものを食べて帰ろう。おでんがいいかな。
そんなことを考えながら、百代は山道を上り始めた。
山の中《ちゆう》腹《ふく》を、ぐるっと巻《ま》いているこの道は、少し上って行くと、後は平《へい》坦《たん》である。だからそうきついことはなく、ただ、右へ左へ曲りくねっていて、かなり距《きよ》離《り》があるのだった。
とはいえ、百代にしろ文江にしろ、子供のころから、よく通った道で、危《き》険《けん》はなかった。
上りを越すと、後は平らな道が、だらだらと続く。——つい、気がせいて、足が早まる。
フウッ、と息をついて立ち止ったのは、三分の一ほどの辺りだったろうか。
山の上から流れて来る小さな川が、ここで、ちょっとした滝《たき》を作っている。古い木の橋がかかっていた。
さて、もう一息、と歩きながら、百代は、橋から下を見下ろした。
滝の下が、ちょっとした河《か》原《わら》になっていて、夏にはよく裸《はだか》で水遊びをするのである。
そこに、誰《だれ》かがいた。流れのへりにかがみ込《こ》んで、何かやっている。
この寒いのに。——誰だろう?
百代が見ていると、その男は、立ち上って手を振《ふ》って水を切った。
「何だ、和ちゃんか」
と声に出して言ったが、滝《たき》の音で、聞こえなかったらしい。
坂東和也といって、文江や百代たちと、同級だった男の子である。
文江や百代とも、よく一《いつ》緒《しよ》に遊んだ仲《なか》で、男女の仲というより、兄妹のような感じであった。
この寒いときに、冷たい水で、何してるんだろう?
百代がいぶかしく思ったのは当然だったろう。
何か銀色に光るものが見えた。包丁か何か——ともかく刃《は》物《もの》のようだった。
和也は、それを傍《かたわら》へ置くと、今度は手《て》拭《ぬぐ》いらしいものを、川の水に浸《ひた》して、洗《あら》い始めた。
百代はいささか近《きん》眼《がん》なので、はっきりとは分らなかったが、何だか手《て》拭《ぬぐ》いが赤く——血でもついているように見えた。
けがでもしたのだろうか? しかし、それにしては元気そうで、たとえけがしているとしても、大したことはないのだろう。
えらく必死になってゴシゴシと洗っているが、一向に汚《よご》れは落ちないようで、和也も、その内に諦《あきら》めたらしい。
今度は、その手拭いを、引き裂《さ》き始めた。できるだけ細かく裂くと、川へ流してやる。
百代はポカンとそれを眺《なが》めていたが、
「あ、いけない、急がんと」
と肩をすくめて、歩き出していた。
そのとき、何か物音でも耳に入ったのか、和也が橋の方を見上げたのである。百代は手を振《ふ》ろうとしたが——やめてしまった。
キッと百代をにらんだその目つきは、見たこともない、恐《おそ》ろしいものだった。
百代はあわてて歩き出した。いや、歩いているつもりだったが、いつの間にか走り出していた……。
「——一《いち》応《おう》、手配は全部、済《す》ませました」
と、白木巡《じゆん》査《さ》が言った。
「お手数をかけて申し訳《わけ》ありません」
と、公江が言うと、白木はあわてて、
「いいや、とんでもない」
と、手を振《ふ》って、「これが本官の任《にん》務《む》ですからな」
と言った。
常石家の玄《げん》関《かん》先《さき》である。
「——しかし、お嬢《じよう》さんも、ずいぶん思い切ったことをされましたな」
と白木は言った。
「ええ……。しっかり者ですから、心配はしていませんが、でも、それだけに一人で暮《くら》そうと考えるのですから」
「良し悪《あ》しですな、何事も」
「本当に」
公江は、少しも動《どう》揺《よう》を見せていなかった。この村の名士夫人としての風《ふう》格《かく》が、その動じない表《ひよう》情《じよう》の中に現《あらわ》れていた。
「ご主人には……」
「今、出先で連《れん》絡《らく》が取れませんの、今夜にでも知らせます」
「それまでに何とかしないと、どやされそうですな、ご主人に」
と、白木は表情を緩《ゆる》めた。
「——では、何か分ったら、お電話をいただいて」
「もちろん、そうしましょう」
白木は立ち上って敬《けい》礼《れい》した。「失礼します!」
——よくもまあ、ああして落ち着いていられるもんだ、と白木巡《じゆん》査《さ》は外へ出ると、呟《つぶや》いた。
一人《ひとり》娘《むすめ》の家出である。もっとオロオロとあわてふためくのが普《ふ》通《つう》ではないか。やはり、名士ともなると、心《こころ》構《がま》えが違《ちが》うのかもしれない……。
白木は、感心しながら歩いていて、ハッとした。自転車を、置いて来てしまったのだ。白木はあわてて、常石家の門の方へと駆《か》け戻《もど》って行った。
——白木は、文江は遠からず帰って来る、と考えていた。
何といっても、良家のお嬢《じよう》さんである。家出といっても、ちょっとたてば心細くなって戻って来るだろう、と思っていたのだ。