——沈《ちん》黙《もく》。
「鉄男君!——鉄男君!」
カチリ、と音をたてて、電話が切れてしまっている。
あの音は? もしかすると、銃《じゆう》声《せい》だろうか?
そうなると、いても立ってもいられない。
文江はあわてて二階へと駆《か》け上った。
18 夜の乗《じよう》降《こう》客《きやく》
「銃《じゆう》声《せい》だって?」
草永は飛びはねるような勢いで、立ち上った。
「分らないの。でも、そんな風に聞こえたのよ」
「すぐ行ってみよう!」
「ええ。でも——」
「何だい?」
「鉄男君がどこからかけてきたのか、分らないわ」
「なるほど」
草永はちょっと考えて、「ともかく、自《じ》宅《たく》へ行ってみよう。どこか他の所にいるとしても、ここじゃ調べようがない」
「そうね」
と、文江は肯《うなず》いた。
——二人が駅の近くまでやった来たとき、途《と》中《ちゆう》の家から、ヒョイと出て来た人《ひと》影《かげ》と、あやうくぶつかりそうになった。
「——あら、お嬢《じよう》様《さま》」
と、言ったのは、鉄男の母だ。「こんな時間にどこかへお出かけですか?」
「鉄男君は?」
「鉄男にご用ですの? 駅で仕事だと思いますけど」
そうか、と文江は思った。そういえば、まだ最後の列車には間がある。するとあの電話は駅からだろうか?
「じゃ、ご一《いつ》緒《しよ》に駅まで参りましょうか」
と、鉄男の母が歩き出す。
文江と草永は、電話の銃《じゆう》声《せい》のことはまだ話す気になれず、その後をついて行った。
駅《えき》舎《しや》は、ポツンと明りが灯《とも》っているだけで、静かなものであった。
もちろん、最後の列車に、乗《じよう》降《こう》客《きやく》はほとんどいない。バスなら、常《つね》に「通《つう》過《か》」というところだろう。
実《じつ》際《さい》、駅が失《な》くならないのが不思議なほどである。
「どこにいるのかしら、鉄男は」
と、母親は駅舎の方を見て、「あそこにはいないようですね。——鉄男」
呼《よ》びながら、ホームの方へ入って行く。
文江と草永は、少し遅《おく》れてホームへ入ったが、別《べつ》に広いホームでもない。人っ子一人いないことは一目で分る。
「変ですね……」
文江は、誰《だれ》もいないように見える駅舎の方へと近づいて、中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。——古ぼけた机《つくえ》、椅《い》子《す》、キャビネット。
「見て!」
と、文江は言った。
机《つくえ》の下から、足が出ている。
「大変だ!」
草永は、ドアを開けて中へ飛び込《こ》んだ。文江も続く。——やはり殺されていたのか?
すると……机の下から、モゾモゾと鉄男が這《は》い出して来たのである。
そして、呆《あつ》気《け》に取られている文江と草永を見上げると、
「やあ、お嬢《じよう》さん!」
と、ヒョイと起き上って、「何かご用ですか?」
と訊《き》く。
「鉄男君……。どうしたの?」
文江はすっかり面食って訊いた。
「いえ、机の下のコンセントがいかれちゃったんで、直してたんです」
鉄男は立ち上って、ズボンの尻《しり》をはたいた。
「そうじゃなくて——さっき、どうして電話を切ったの?」
文江の問いに、鉄男はキョトンとして、
「電話って何です?」
と訊《き》き返して来た。
「さっき、かけて来たじゃないの。昼間の話のことで」
「さっきって……。かけませんよ、僕《ぼく》」
「かけないって?」
文江は耳を疑《うたが》った。「あなたから電話で……急にズドンって音がして……」
「ズドン? 何です、それ?」
文江は頭を叩《たた》いた。もちろん自分のである。
「——つまり、偽《にせ》電《でん》話《わ》だった、ってわけだな」
と草永は言った。「ともかく君が無《ぶ》事《じ》で良かったよ」
「どうも……」
鉄男の方も、文江に劣《おと》らず、わけの分らない様子で、二人の顔を見ている。
「——鉄男」
と、母親が顔を出す。
「あ、母さん。どうしたんだい?」
「出かけた帰りよ。真《ま》面《じ》目《め》にやってるのかい?」
「当り前だよ」
と、鉄男はシャンと背《せ》筋《すじ》を伸《の》ばした。「俺《おれ》一人がこの駅をしょって立ってんだぜ」
「いきがってるのはいいけどね」
と、母親が言った。「何だか列車の音がするようだよ」
「いけねえ!」
鉄男は、あわてて帽《ぼう》子《し》をかぶると、ホームへ飛び出して行く。トンネルに、ゴーッと列車の轟《ごう》音《おん》が響《ひび》き、先頭の、目玉のようなライトが、光を投げながら近づいて来た。
母親がため息をつくと、
「日本の国鉄は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なんでしょうかね、あれで」
と、社《しや》会《かい》評《ひよう》論《ろん》家《か》の如《ごと》きことを言い出した。
だが、文江の関心は、差し当り、国鉄の未来よりも、あの電話の方にあった。
「鉄男君の声のように聞こえたけど……」
「でも、撃《う》たれもしないでピンピンしてるじゃないか」
「そうなのよね……どうなっちゃっているのかしら、全く!」
と、苛《いら》々《いら》した声を出す。
草永が何か言った。しかし、ちょうどホームへ入って来た列車の音でかき消されてしまう。
「——何て言ったの?」
と、文江は訊《き》き返した。
「——そこが君とお母さんの違《ちが》う所だ、と言ったのさ」
「どういうことよ?」
「つまり、妙《みよう》なことが起ると、君は頭に来て放り出す。君のお母さんはおっとりと受け止めて考える」
「そりゃ、年齢《とし》の差よ」
と、文江は言い返した。「——あら、珍《めずら》しい」
「え?」
「ほら、降《お》りる人がいたわ」
振《ふ》り向くと、なるほど、人《ひと》影《かげ》が一つ、ホームへ降り立ったところである。
明りの届《とど》く所まで歩いて来ると、コートに身を包み、顔を伏《ふ》せがちにした婦《ふ》人《じん》だと分った。かなりの年《ねん》齢《れい》と見えた。
「——切《きつ》符《ぷ》を」
と、鉄男に言われて、その老婦人は、急いで切符を鉄男の手に押《お》しつけ、小走りに改《かい》札《さつ》口《ぐち》を抜《ぬ》けて、出て行った。
「——まあ、あの人」
と、少し間を置いて、鉄男の母が言った。
「知ってる人?」
と文江が訊《き》くと、
「ええ、ちょっと見たときは分らなかったんですけどね」
と、肯《うなず》いて、「あの人、坂東さんですよ」
「坂東?」
草永が驚《おどろ》いて、「坂東和也の母親ですか?」
「ええ、間《ま》違《ちが》いありません。ずいぶん老《ふ》けてしまったので、すぐには分りませんでしたわ」
「あれが坂東雪乃さん……」
文江は呟《つぶや》いた。もちろん、文江とて知っているはずなのだが、やはりあまりに変ってしまっていたのだ。
あまりに思いがけない出《しゆつ》現《げん》に、二人はしばし呆《ぼう》然《ぜん》としていたのだが——。
「草永さん! あの人を見失わないようにしなきゃ」
我《われ》に返って、文江は駆《か》け出した。
「そうだ!」
少なくとも、坂東雪乃は、夫が殺された事《じ》件《けん》で、警《けい》察《さつ》が捜《さが》しているのである。見付けたからには、警察へ通《つう》報《ほう》しなくてはならない。
が、今の二人は、そんなことは別に気にもしていないのはもちろんである。ともかく、事件を解《と》く鍵《かぎ》の一つが、彼女《かのじよ》なのだ。それこそ肝《かん》心《じん》なことだった。
文江は改《かい》札《さつ》口《ぐち》を出て、町への道を走った。坂東雪乃が、こっちへ来たのは見ていたのである。
年《とし》寄《よ》りの足だ。そう遠くへ行くはずはない。しかし、しばらく走っても、雪乃の姿《すがた》は見えなかった。文江は足を止めた。
「おい、どうしたんだ?」
草永が追いついて来る。「いなくなっちゃったじゃないか」
「変だわ、この道しかないはずよ」
「だって、いないよ、本当に」
「そうねえ……。どこへ行っちゃったのかしら?」
「まさかあの婆《ばあ》さんが、百メートルを一〇秒で走ってったわけないだろうし……」
「途《と》中《ちゆう》、どっちかへ隠《かく》れたのかもしれないわよ」
と、文江は言った。「ねえ、捜《さが》してみましょう。あなたは右側、私、左側を捜すから」
「OK」
文江と草永は手分けして道の両側を見て回った。——しかし、ついに、坂東雪乃の姿《すがた》は見当らなかったのである。
「ああ疲《つか》れた」
文江は、玄《げん》関《かん》にペタンと腰《こし》をおろして、息をついた。
疲れるはずだ。その怪《かい》電《でん》話《わ》でここを出たのが九時過《す》ぎ。もう十二時を回っている。
三時間も歩き回っていたことになるのだ。
「お帰りなさいませ」
と、うめが出て来る。
「まだ起きてたの」
と、文江は上りながら言った。
「はい。お客様がおいででしたので」
「まあ、お母さんに?」
「さようでございます。——お風《ふ》呂《ろ》へ入られますか?」
「ええ、そうするわ、お母さんはもう寝《ね》たの?」
「お休みになったようです」
「じゃ、こっちも休むことにするわ」
と、文江は欠伸《あくび》しながら言った。
「ご一《いつ》緒《しよ》にお入りになりますか?」
とうめが訊《き》くと、
「いや、別々ですよ」
と、草永があわてて言った。
階《かい》段《だん》を上がりながら、文江はクスクス笑《わら》って言った。
「分って言ってるのよ、うめは。本気にしないで」
「本当は一緒でもいいんだけどね」
と、草永が言うと、
「お断《ことわ》りよ」
と、文江が舌《した》を出す。
「こいつ!」
草永が笑って抱《だ》きつこうとしたので、文江は素《す》早《ばや》く逃《のが》れる。二人は笑いながら、二階の廊《ろう》下《か》で追いかけっこをしていた。
急にガラリと障《しよう》子《じ》が開いて、公江が顔を出す。
「あ——お母さん」
文江があわててピタリと立ち止ったので、草永が止り切れずに追《つい》突《とつ》した。二人は一《いつ》緒《しよ》に廊《ろう》下《か》で引っくり返った。
「若《わか》いのはいいことだけど、家を壊《こわ》さないでよ」
と公江は澄《す》ました顔で言った。
「し、失礼しました」
草永が立ち上りながら頭をかく。
「お母さん、二階で何してるの?」
「お客様とお話ししてたのよ」
と公江は言って、「そうね、お前もお話があるんじゃないの? 入りなさい」
と、障子を大きく開けた。
「まあ——」
文江は言葉を呑《の》み込《こ》んでしまった。
そこに座《すわ》っていたのは、さっき、駅で見た老《ろう》婦《ふ》人《じん》——坂東雪乃だったからである。
「坂東さんよ」
と、公江が言った。「文江、入ったら?」
「ええ……」
文江は、ポカンとして、部《へ》屋《や》へ入ると、座《すわ》り込《こ》んで、「じゃ、お母さんは——」
「姿《すがた》が消えた謎《なぞ》が分ったね」
と草永が微《ほほ》笑《え》んだ。「要するに、お母さんが迎《むか》えに行っていたんだ」
「で、車でさっと連れて来たのね。見付からなかったはずだわ」
「お久《ひさ》しぶりです」
と、坂東雪乃は、文江の方へ頭を下げた。
「こちらこそ……。あの——和也君のことは本当にお気の毒でした。私のせいでもあるんです。申し訳《わけ》ありませんでした」
とっさのことで、うまい言葉が出て来ないのだ。
「ところで——」
と、草永が助け舟を出す。「今までどこにおられたんです?」
「隣《となり》の町に」
と、雪乃は言った。
「隣の町?」
「はい」
雪乃は、笑《わら》って穏《おだ》やかに言った。
「待って下さい」
と、文江が言った。「じゃ、お母さん、それを知ってたのね?」
「私のお友達の家にいたのよ」
と、公江は平然と言った。
「——お母さんたら!」
「私はずっと坂東さんを助けて来たんだもの、今さら見《み》捨《す》てるわけにはいかないでしょ」
「じゃ、生活費を送っておられたのは——」
と草永が言いかける。
「私ですよ。ともかく、この村を追われるようにして出て行った人の面《めん》倒《どう》をみるのは常石家の者の義《ぎ》務《む》ですからね」
「お母さんらしいわ」
と、文江は肯《うなず》いた。「でも——坂東さんがあんなことになって——」
「主人を殺したのは、私じゃありません」
と雪乃は言った。
「じゃ誰《だれ》が?」
「分りません」
と、雪乃は首を振《ふ》った。
「時々お宅《たく》を訪《たず》ねていたというお年《とし》寄《よ》りはどなたなんです?」
と草永が訊《き》く。
「あれは、昔《むかし》この田《でん》村にいた人ですよ」
と、公江が答えた。「一時、この家で働いていてね。それから東京へ出て行ったの。今でも私のためにあれこれ働いてくれます」
「すると、文江さんが帰って来たとき、すぐに坂東さんへそのことを連《れん》絡《らく》なさったんですね?」
「あの晩《ばん》にね」
「でも坂東さんは殺された……」
と、文江が考え込《こ》む。「——奥《おく》さんがアパートを出られたのは十時頃《ごろ》でしたね」
「そうです」
と、雪乃が肯《うなず》く。
「ご主人はその前に殺されていたと聞いていますが」
「そうらしいですね」
と、雪乃は当《とう》惑《わく》顔《がお》で言った。「よく分りません——主人はあの朝一番の列車でこちらへ向うはずでした。私は荷物を持って追いかけて行くことになっていて……」
「じゃ、別々に出られたんですの?」
「はい。主人がアパートを出たのは七時頃でしょう」
「奥さんが十時ぐらい——ですね」
「ええ。お隣の奥さんと挨《あい》拶《さつ》をしましたわ」
「その間にご主人は殺されているんです」
「——つまり外で殺されて、アパートへ運び込《こ》まれたんだ」
と、草永は言った。「ご主人は、出かけるとき、誰《だれ》かと会うようなことをおっしゃいませんでしたか?」
「いえ、何も」
「じゃ、奥《おく》さんは事《じ》件《けん》のことを知らずに、この村へ来たんですか?」
「隣《となり》の町よ」
と、公江が言った。「その方がいいと思ったの。突《とつ》然《ぜん》帰って来たら、村の人たちも動《どう》揺《よう》するでしょう」
「で、お母さんのお友達の家に?」
「そこで初めて主人のことを知らされました」
と、雪乃はため息をついた。「——運の悪い人です。やっと、和也の罪《つみ》が晴れたというのに」
「その点は申し訳《わけ》ありません」
と、文江は言った。
「いえ、お嬢《じよう》さんのことをどうこう申しているんじゃありません」
雪乃は急いで言った。「聞けば、和也は銀行強《ごう》盗《とう》までやっていたとか。——いつかはあんなことになる運命でした」
「そこなのよ」
と公江が言った。
「え?」
文江が母の顔を見る。「そこ、ってどういうこと?」
「どうもね、考えてると簡《かん》単《たん》なことが、実《じつ》際《さい》やってみると割《わり》合《あい》に手間取ったり、こりゃ大変だなって思うことが、やってみると呆《あつ》気《け》なくできたり……。そんな憶《おぼ》えがない?」
「そりゃあるけど、この事《じ》件《けん》と何の関係があるの?」
文江は少々苛《いら》々《いら》しながら言った。
「まあ待てよ」
と、草永が抑《おさ》える。「お母さんの話、何となく分るよ」
「ねえ、そうでしょう? やっぱりあなたの方が娘《むすめ》より一《いち》枚《まい》上《うわ》手《て》ですわ」
文江は草永をにらんだ。
「何なら母と再《さい》婚《こん》したら?」
「おい、そんなに目を三角にするなよ。つまり、お母さんがおっしゃりたいのは、お金をあそこに埋《う》めるのが、いかに大変なことか、ってことでしょう。違《ちが》いますか?」
「その通りですよ」
と公江が肯《うなず》く。「大体、警《けい》察《さつ》があのお金を掘《ほ》り出すのに、どれだけ手間がかかったか、考えてごらんなさい。あんなに深く埋めるのは大仕事ですよ」
「そうか……」
と、文江が肯く。「でも和也君は、あのすぐ後に、警察へ引張って行かれた……」
「家へ帰されてからも、あんなことをやる暇《ひま》があったかしら?——ともかく、ご両親も家に引きこもっていたはずですもの」
「ええ、とてもそんなことができたはずありませんわ」
と、雪乃が言った。
「ということは、あそこが空家になってから、お金が埋《う》められた、ってわけね」
と、文江は言った。「じゃ、誰《だれ》が……?」
「あの家の持主は金子駅長だった」
と草永。
「そうです。金子さんから、主人はお金を借りていましたから」
「つまり、金子さんはあの家の鍵《かぎ》を持っているんですね?」
と文江が訊《き》いた。
「はい。お持ちのはずです」
「じゃ、金子さんがあのお金を埋めて、それきり掘《ほ》り出せなかったのね。やっぱり推《すい》理《り》は正しかったんだわ」
「まあ百パーセントとは言えないけどね」
草永が同意した。「すると、金子さんは、銀行強《ごう》盗《とう》の一味だったのかな?」
「ちょっと考えにくいけど……」
しばらく誰《だれ》も口を開かなかった。
「——どうやら、こんな狭《せま》い田《でん》村でも、隠《かく》された生活があったようね」
と公江が言った。
「金子さんみたいに実直な方にも?」
「そう。——なまじ、真《ま》面《じ》目《め》と思われている人ほど、暗い部分を表に出せなくて、苦しむものよ」
「よく分ります」
と草永が言った。「僕《ぼく》もそうですから」
ちょっと間を置いて、文江がプッと吹《ふ》き出し、笑《わら》い転げた。いささか不《ふ》謹《きん》慎《しん》な行動ではあったが……。
19 田《でん》村のミス・マープル
文江は、目を覚《さ》ますと、枕《まくら》もとの時計を手に取った。——十時だ。
「もう十時。——ね、起きようよ」
と、文江は、布《ふ》団《とん》の中の、草永を突《つ》っついた。
「え?——ああ、もう朝か」
草永は大《おお》欠伸《あくび》をしながら、起き上った。
「たっぷり眠《ねむ》ったでしょ」
「そうでもないよ。運動不足だ」
「ゆうべ、あれだけ運動しといて?」
「まだ足りない。朝のトレーニングに付き合わないか?」
草永が、文江の上に体をずらして行って、キスしながら言った。
「こういうトレーニングなら付き合ってもいいわ」
文江がいたずらっぽく笑《わら》って、草永を抱《だ》き寄《よ》せた。それから、そっと草永の耳もとへ、
「見られてるわ……」
と囁《ささや》いた。
「また、うめさんかい? 構《かまい》やしないさ」
「母よ」
草永があわてて飛び起きた。
公江がニコニコしながら障《しよう》子《じ》を開けて、
「お忙《いそが》しいところをごめんなさいね」
と言った。
「お、おはようございます」
「——お母さん、何か用なの?」
と、文江はのんびりと起き出して、「出かける仕《し》度《たく》?」
「そうよ。あなた方だけに任《まか》せておくと、いつまでたっても進《しん》展《てん》しませんからね」
「ご出《しゆつ》馬《ば》というわけですね」
草永は微《ほほ》笑《え》んで、「これは楽しみだな」
「ともかく、最初は金子さんの奥《おく》さんに会ってきましょう。お昼前に伺《うかが》うと約《やく》束《そく》してあるから、一《いつ》緒《しよ》に来るのなら、早く朝ご飯を食べてちょうだい」
公江が行ってしまうと、文江は呆《あき》れ顔で、
「母ったら……ミス・マープルにでもなったつもりなのかしら?」
「いいじゃないか。なかなか良く似《に》合《あ》うぜ、お母さん」
「私の母だものね」
と、文江は言った。
「正《まさ》に同感だな」
「何よ!」
文江は、脱《ぬ》いだパジャマを草永の頭へ投げつけた。
——手早く朝食を採《と》り——と思ったのだが、そこは、うめのプライドの問題もあって、適《てき》当《とう》に、
「さすがに旨《うま》い!」
などと言いながら食べ終える。
やっと外へ出たときは、十一時半になってしまっていた。
「私の車に乗って行きましょ」
と公江が言った。
「お母さん、いつ免《めん》許《きよ》取ったの?」
と、文江が信じられない面《おも》持《も》ち。
「三年くらい前かね。何しろヒマで、することもないじゃないの。——それに白木さんが口をきいてくれて、ろくに習わないで取っちゃったのよ」
ひどい話だ。いや、その話よりも車の方はもっとひどかった。
「お父《とう》さんが昔《むかし》使ってたのよ。こんな田舎《いなか》道《みち》、新車を乗り回しても、面《おも》白《しろ》くもなんともないからね」
もはや文江や草永の世代では型名も定かではないポンコツであった。
「——僕《ぼく》が運転しましょうか」
と、草永は恐《おそ》る恐る申し出た。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。任《まか》せて。それにこの車、ちょっとクセがあるの」
と、公江は言った。
「時々ブレーキが効《き》かなくなるんじゃないでしょうね」
「あら、良く分ったわね」
公江がニッコリと笑《わら》った。
車が、まるでゴール寸《すん》前《ぜん》のマラソンランナーの如《ごと》き喘《あえ》ぎを洩《も》らしながら走り出すと、文江は、そっと低い声で草永に言った。
「ミス・マープルは免《めん》許《きよ》持ってたっけ?」
「——まあ、常石の奥《おく》様《さま》」
金子駅長の未《み》亡《ぼう》人《じん》が、ていねいに頭を下げた。
「お邪《じや》魔《ま》しちゃってごめんなさい」
「とんでもありません」
と、金子正江は言った。「——主人が、あんなことになって、本当にどうしていいものやら、途《と》方《ほう》にくれておりますの」
「そうでしょうね」
と公江が肯《うなず》く。
「それに、警《けい》察《さつ》の方のお話では、何だか主人は殺されたのかもしれないということで……。でも、信じられませんわ。主人は人に恨《うら》まれるようなことはなかったんですのに」
「誰《だれ》が犯《はん》人《にん》か見当がつかないということなんですね」
「もうまるきり……。何だか私が疑《うたが》われてるようでもあるんですの」
「あなたは、そんなことをする人じゃないでしょ」
「みんながそう思ってくれるとありがたいんですけど」
と、正江は言った。
公江が黙《だま》って肯《うなず》く。——そして、しばらく話が途《と》切《ぎ》れた。
文江は、チラリと草永の方を見た。このまま帰るんじゃ、何の収《しゆう》穫《かく》もない。ミス・マープルまではとてもいかないじゃないの、というわけだ。
「でも、金子さん」
と、文江は言った。「ご主人が、あの坂東さんの家を持っておられたのはご存《ぞん》知《じ》なんでしょう?」
「ええ、それは——」
と、正江は少し曖《あい》昧《まい》な調子で言った。
「まあ私に任《まか》せて」
と公江は文江を抑《おさ》えて、「——ねえ、正江さん」
と、ちょっと改まった調子で言った。
「はい」
「あなたは、今、ご主人を殺そうと思う人間なんか思い当らないと言ったわね」
「ええ」
「でも、私は、あなたのご主人を殺したいくらい憎《にく》んでいた人を、少なくとも五人は知っていますよ」
——再《ふたた》び沈《ちん》黙《もく》がやって来た。
しかし、それは、さっきの空白とは違《ちが》って、重く、張《は》りつめた沈黙であった。
「奥《おく》様《さま》——」
と、言いかけたものの、金子正江は、言葉が続かない様子であった。
「金子さんは、一種の高《こう》利《り》貸《がし》をしていたのね。もちろん表向きは、温《おん》厚《こう》で実直な人だったけど……。いえ、きっと駅長さんとしては、至《いた》って真《ま》面《じ》目《め》な人だったでしょうね。でも、裏《うら》では田《でん》村や、隣《となり》の町の人にもお金を高い利子で貸《か》しつけていた。払《はら》えなければ、容《よう》赦《しや》なく家や土地を差し押《おさ》えたと聞いているわ。それで町や村を出て行かなくてはならなかった人も、一人や二人じゃないはずね」
文江は母の話に、ただ唖《あ》然《ぜん》とするばかりであった。
あの金子駅長が!——冷《れい》酷《こく》な高利貸だったなんて!
未《み》亡《ぼう》人《じん》は、頭を垂《た》れて、
「奥《おく》様《さま》は何でもご存《ぞん》知《じ》でいらっしゃいます」
と言った。
「——それでも、犯《はん》人《にん》の心当りはないの?」
「さあ……。あれは火事騒《さわ》ぎの夜でした。それに、このところは、主人も体の具合のせいもあって、金《かね》貸《か》し業は避《さ》けていたはずでございますし……」
「たとえば、まだお金の催《さい》促《そく》をされて、切《せつ》羽《ぱ》詰《つま》っていたような人はいないの?」
「それは……私はよく分りません。何もかも主人が一人でやっていたことですから」
文江は、その未《み》亡《ぼう》人《じん》の言葉に、ふと責《せき》任《にん》逃《のが》れをしようとする気配を感じた。——夫のしていたことを、この人が知らないわけはない。
「奥さん」
と文江は言った。「その貸した先や、返《へん》済《さい》の記《き》録《ろく》はないんですか? 帳《ちよう》簿《ぼ》のようなものは」
「さあ、それが……」
と、正江は困《こん》惑《わく》顔《がお》で、「主人が亡《な》くなりまして、いちど捜《さが》してみたのですけれど、見付かりませんでした」
「そう」
と、公江が肯《うなず》いた。「——どうも、いやな話でごめんなさいね」
「いいえ、とんでもない」
あくまで、未亡人は丁《てい》重《ちよう》な応《おう》対《たい》を変えなかった……。
「びっくりしたわ!」
と文江が言った。「——あの人の良さそうな駅長さんが。信じられないくらいよ」
文江と草永、それに公江の三人は、駅の方へ歩くことにした。
よく晴れて風もない、暖《あたた》かな日だった。
「人間には表と裏《うら》があるものよ」
と、公江は言った。
「そりゃ分ってるけど。——でも、金子さんの金《かね》貸《か》し業と、今度の事《じ》件《けん》とどう結びつくわけ?」
「それは考えてみれば分るじゃないか」
と草永が言った。「あの銀行強《ごう》盗《とう》さ。つまり——」
「言わないで!」
と、文江が遮《さえぎ》る。「分ったわ。つまり、金子さんから金を返せと迫《せま》られて、追いつめられた誰《だれ》かがやったのね」
「そう考えていいんじゃないかな」
「すると、ますます、金を貸《か》した先が知りたいわね。——お母さんは知ってるんでしょう?」
「ええ、何人かはね」
「誰《だれ》なの?」
公江は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだ。
「説明は最後よ」
と言った。
「お母さんったら! ずるいわよ」
「ただね、あの奥《おく》さんは、なかなかの人だってことは言っとかないとね」
「未《み》亡《ぼう》人《じん》ですか?」
「そうよ。あの人は、何も知らなかったと言ってるけど」
「それは嘘《うそ》ね。私もそう思ったわ」
「それどころか」
と公江は言った。「私の見たところでは、ご主人よりむしろ、奥《おく》さんの方が熱心だったんじゃないかしら。たぶん奥さんがご主人にやらせていた、っていうのが真相だと思うわ」
「そこまで?」
「もうご主人が亡《な》くなってる以上、真実は分らないけどね。金子さんは苦しんでいたんだと思うのよ」
文江も、何となく、〈高《こう》利《り》貸《がし》〉よりは〈悩《なや》める男〉のイメージの方が、金子にはぴったり来る、という気がした。
「——どこへ行くの?」
と、文江は訊《き》いた。「このまま行くと駅じゃないの」
「そうよ。でも、駅に行くわけじゃないの」
「それじゃ、どこへ?」
「庄司さんの家よ」
「鉄男君のところ?」
「母親の方に用があるの」
「へえ」
と文江は言った。
あまり色々と質《しつ》問《もん》するのも、しゃくなので、文江は黙《だま》って歩き続けた。
「鉄の男か」
と、草永がふっと呟《つぶや》くように言った。
「え?」
「いや、今思いついたんだ。あの駅員、鉄男君っていうんだろ?」
「ええ、そうよ。それがどうしたの?」
「いや、父親が分らないって話だったけど……」
「あ、そうか!」
文江が手を打った。「——金子さんが父親だったのね!」
「鉄道の〈鉄〉をとったんじゃないかな。それに、あの家へ年中来ていたというし。——すぐ気が付いても良かったな」
「お母さんは知ってたんでしょ」
と、文江が言った。
「もちろんよ。何十年もこの村にいるんですからね。それぐらいのこと、分らないはずがないでしょ」
もう! ずるいんだから、このミス・マープルは!
手がかりを隠《かく》しておくのはフェアじゃない、と文《もん》句《く》を言ったところで、どうにもならないのだ。
「その話をしに行くの?」
「違《ちが》うわよ。私に任《まか》せておきなさい」
と、公江は、自信たっぷりの、威《い》厳《げん》のある姿《すがた》で歩いて行く。
つまりは、いつもながらの様子ということである。
「まあ奥《おく》様《さま》……」
と、鉄男の母は、恐《きよう》縮《しゆく》の様子である。
「実は金子さんのことで、訊《き》きたいことがあるの」
「駅長さんのことですか?」
「金子さんは亡《な》くなる前に、あなたに何か預《あず》けなかった?」
「預ける……。どんな物を、ですか?」
「何でもいいの。ともかく、あなたへ渡《わた》して行った物はない?」
「さあ……」
と、首をかしげて、しばらく考え込《こ》んでいたが、
「——思い当りませんね」
「そう」
公江は、ちょっと当て外れのようだった。
「お母さん、どういうことなの?」