文江が訊《き》いたが、公江の方は答えず、
「——金子さんが殺されたのかもしれないって話は聞いてるわね」
と言った。
「はい。恐《おそ》ろしいことです」
「金子さんは、そんな話をしたことはなかった?」
「殺される、ということをですか?」
「そう、誰《だれ》かに狙《ねら》われている、とか」
「特《とく》別《べつ》何も……。ただ、金《かね》貸《か》しのせいで、みんなに口をきいてもらえないと嘆《なげ》いておいででした」
「やっていたのは奥《おく》さんなんでしょ?」
「もちろんです!」
鉄男の母の口《く》調《ちよう》に、初めて強い感《かん》情《じよう》がこもった。
「金子さんがそう言ったの?」
「はい。いつもぼやいておいででした。——俺《おれ》は別《べつ》に大金も名《めい》誉《よ》も欲《ほ》しくないのに、女《によう》房《ぼう》が欲しがってたまらないんだ、って……」
「最近、その件《けん》で、何かこじれていたようなことはなかった?」
「最近ですか?——気付きませんでしたけど」
「そう。——残《ざん》念《ねん》だわ。金子さんが心の中を打ちあける所があるとすれば、ここだと思って来たのよ」
「それは間《ま》違《ちが》いありません」
と、鉄男の母は肯《うなず》いて、「もう、最近の話といえば——鉄男のことばかりでした」
と、チラリと文江たちの方を見る。
「いいのよ。娘《むすめ》も知ってるわ」
「そうでしたか……」
文江は少し前へ出て、
「鉄男君自身はどうなのかしら」
と言った。
「父親のことですか? 特《とく》に何とも言っていませんけど、やっぱり、薄《うす》々《うす》は分っているらしくて」
「そうでしょうね」
「でも実《じつ》際《さい》に、父《ヽ》親《ヽ》同《ヽ》然《ヽ》に、仕事を仕《し》込《こ》まれましたでしょう。やっぱり慕《した》っているんですよね」
「立《りつ》派《ぱ》な将《しよう》来《らい》の駅長さんね」
「ありがとうございます」
と、鉄男の母は頭を下げた。「駅長さんは、あの子が鉄道の仕事を継《つ》いでくれるのを、願っていたんですね」
——噂《うわさ》をすれば何とか、で、ちょうど、鉄男が帰って来た。
「母さん、昼飯!」
と怒《ど》鳴《な》って上って来る。
そして中を覗《のぞ》き込《こ》むと、びっくりして、
「あ——すみません」
あわてて頭を下げた。
「いいのよ。仕事を続けて」
「昼休みです。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
鉄男は帽《ぼう》子《し》をとって、傍《かたわら》へ置いた。
「立《りつ》派《ぱ》な帽子ね」
と、公江が言った。
「ええ! これ、駅長さんにもらったんですよ」
「まあ。金子さんに?」
「そうなんだ、母さん」
「そんなこと言わなかったじゃないの」
「だって、亡《な》くなる前の日だよ。亡くなってからじゃ、みんな忙《いそが》しいんだ」
「ねえ」
と公江が言った。「その帽《ぼう》子《し》を見せて」
「これですか?」
と、鉄男が不思議そうに言った。
公江は鉄男から帽《ぼう》子《し》を受け取ると、手に取って眺《なが》めていた。
「お母さん、何をしてるの?」
と、文江が不思議そうに言った。
「これだけが、金子さんの形《かた》見《み》ならね、もしかしたら、この中に……」
公江は、帽子のヘリに沿《そ》って、指を這《は》わせた。「——何か詰《つ》めてあるようね」
「ええ」
と鉄男が肯《うなず》いた。「ちょっと大き目だから紙を詰めておいた、って——」
「駅長さんが?」
「そうです」
公江は、帽子の内側を、バリバリとはがして行った。
「お母さん——」
「いいから」
公江は、中から、細長く折《お》りたたまれた紙を、抜《ぬ》き出した。帽子の形に沿《そ》って、丸く環《わ》になっている。
「何か書いてあるよ」
と草永が覗《のぞ》き込《こ》む。
公江が紙を押《お》し広げた。文江は、信じられないような思いで、それを覗き込んだ。
「やっぱりね」
と公江が言った。
そこには、名前と、数字が細かく書き記してあった。——数字が金《きん》額《がく》であることは、すぐに分る。
「お金を貸《か》した記《き》録《ろく》?」
「そうよ。金子さんは、これをどこかへ隠《かく》しておきたかったのね」
「——名前があるわ。村の人たちね。——見て!」
文江が唖《あ》然《ぜん》とした。
そこには宮里医《い》師《し》の名前もあった。そして……。
「白木って……あのお巡《まわ》りさんじゃないのか?」
と草永が訊《き》いた。「呆《あき》れたな!」
「ともかく——」
公江は、その紙を折《お》りたたんだ。「これは私が預《あずか》りますよ。いいわね?」
「はい、もちろん」
と、鉄男の母が言った。「お前も黙《だま》ってるんだよ」
「うん」
鉄男は、わけが分らないといった顔をしていた。
20 秘《ひ》 密《みつ》
「驚《おどろ》いたわ」
と、文江は表に出ると、言った。
「村の生活だって、平《へい》穏《おん》じゃなかった、ってことよ」
と公江は言った。
「でも、宮里先生がどうして?」
「たぶん、法事があったときの借金じゃないのかしら。それに、町へ出ると、あの人は結《けつ》構《こう》、遊んでいたようだしね」
「何だか幻《げん》滅《めつ》したわ」
「大人《おとな》の世界だもの。きれい事では済《す》みませんよ」
それはそうだ、と文江は思った。期待する方が間《ま》違《ちが》っているのかもしれない。
都会で、散々、醜《みにく》い人間模《も》様《よう》を見て来てつい、無《む》意《い》識《しき》の内に、故《こ》郷《きよう》の素《そ》朴《ぼく》な人々、というイメージを作り上げていたのだろう。
どこであろうと、そこが人間の社会である限《かぎ》り、きれいごとでは済《す》むはずがないのだ……。
「すると、どうなるんでしょうね」
と草永が言った。「金に困《こま》っていたのは、一人や二人じゃなかったわけですか」
「そういうことになるわね」
と公江が肯《うなず》く。「——暖《あたたか》くなったわね。そこへ座《すわ》りましょう」
「どこへ?」
「駅のベンチよ」
「だって——」
「当分、列車は来ないわよ。平気よ」
人のいないホームへ入ると、三人は、古ぼけたベンチに腰《こし》をおろした。
「このベンチ、昔《むかし》からあったやつかしら?」
と、文江は言った。
「そうよ。憶《おぼ》えてる?」
「うん。——でも、こんなにガタついてなかったと思うけど」
「年月がたてば、くたびれて来るわよ」
と、公江は言った。
「見たところは変らないように見えても、変っているのね」
「そう」
——平和な静けさだった。
ホームには人もなく、レールは眠《ねむ》りこけている。その眠りを覚《さ》ます列車の響《ひび》きは、まだしばらくやって来ない。
「——どういうことなんでしょうね、今度の事《じ》件《けん》は」
と草永が言った。「お母さんには何か考えがおありのようですけど」
「お金が総《すべ》ての中心だった、と言っていいのかしら」
と文江が言った。「つまり、金子さんが——というより、金子さんの奥《おく》さんが、みんなにお金を貸《か》しては、取り立てていた。そして誰《だれ》かが、銀行からお金を奪《うば》って来ようと思いついた……」
「それは逆《ぎやく》じゃないかな」
と草永が言った。
「え?」
「いくら借金してて、困《こま》ってるからって、銀行強《ごう》盗《とう》までやるかね」
「そこが問題ね。だけど、実《じつ》際《さい》にお金は盗《ぬす》まれているわ」
「こう考えたら?」
と、公江が言った。「強盗が他にいたとしたら?」
「まだ他に?」
「銀行を襲《おそ》った人は、どこに逃《に》げると思う?」
「あの町からなら……山の方ね」
と文江は言って、肯《うなず》いた。「そうか。強盗が山に隠《かく》れていて、和也君が、それに出くわしたんだわ!」
「そう考えた方が自然でしょうね」
「すると、どうなったのかな」
と草永が考え込《こ》む。「強《ごう》盗《とう》と、和也との間で、格《かく》闘《とう》になる。——和也が強盗を殺したんだ!きっとそうだ。それであの血《ち》染《ぞ》めの手《て》拭《ぬぐ》いのことも、説明がつく」
「ところが、和也君は、お金を見て、欲《よく》を出したのね」
「無《む》理《り》もありませんよ」
と公江は言った。「この村じゃ、まずお目にかかれない大金だしね。ついフラフラッとしたんでしょ」
「で、強盗の死体をどこか山の奥《おく》へ埋《う》めたんだ。そして金を持って帰った。——まさか、君が行方《ゆくえ》不明になってて、その殺人容《よう》疑《ぎ》をかけられるとは思わなかったんだろう」
「それじゃ、しゃべれなかったわけね」
と、文江は肯《うなず》いた。「ごまかし通せば、お金は自分のものになるわけだし」
「すると、どこにお金を隠《かく》してたんだろうな?」
「自《じ》宅《たく》の床《ゆか》下《した》へ埋《う》めるのは、危《き》険《けん》だったでしょうね」
「するとどこか山の中? でも、掘《ほ》り出しに行くのは目につくね」
「もっといい隠し場所があったんでしょう」
と公江が言った。「若《わか》い人たちの『秘《ひ》密《みつ》の場所』になっているところが」
文江は、線路越《ご》しに、半分焼け落ちたあの倉庫を見やった。
「——あの中ね!」
「あそこなら、大して苦労せずにお金を隠しておけるでしょうね」
「なるほど……」
草永は立ち上った。「行ってみよう。もちろん、痕《こん》跡《せき》なんて残ってないだろうけど」
「行きましょう!」
と文江も立ち上る。
「二人で行っといで」
と、公江は言った。「私はくたびれるから、いやよ」
——文江と草永は、土手を上って、焼け落ちた倉庫の前に立った。
村の若《わか》者《もの》に襲《おそ》われかけた所である。
「——お母さんの言う通りだろう。ここがまず隠《かく》し場所として思いつくよ」
「いつもガラクタで一《いつ》杯《ぱい》だものね」
「問題はその後だ」
と、草永が考え込《こ》む。「なぜ和也は死んだのか?」
「自殺のはずはないとすると……」
「殺されたんだ。——犯《はん》人《にん》は、和也が金を隠していたことを知っていた」
「殺したということは、金の隠し場所を訊《き》き出したってことなのね」
「おそらくね。だが、和也が誰《だれ》にしゃべったんだろう?」
「分らないわ……。よほど心を許《ゆる》せる相手だったのか……」
「その相手が金に困《こま》っていたとしたら? あのリストの中の誰《だれ》かで」
「ありうるわね。話を聞いて、お金を自分のものにしようとした……」
文江は、手でそっと首をこすっていた。
「——どうしたんだい?」
「え? ああ、別に……。ほら、例の、首を絞《し》められたところだわ、ちょっとかゆくて気になるの」
「そういえばそんなこともあったっけ」
「何よ、冷たいのね」
と、文江は笑《わら》った。
「ともかくここまで入りこんだんだから、もう後《あと》戻《もど》りはできないね」
と、草永は言って、焼け落ちた倉庫を眺《なが》めた。「——一体誰がやったのかなあ。金は、人を狂《くる》わせるからね。僕《ぼく》なんか、却《かえ》って金があると落ち着かないよ。結《けつ》婚《こん》しても小《こ》遣《づか》いは少しでいいからね。——ねえ。——おい、どうしたんだ?」
「ねえ、来て」
と、文江は、草永の手を引《ひつ》張《ぱ》った。
「どこへ行くんだよ?」
「いいから」
文江は、青ざめた顔をしていた。
ホームへ戻《もど》ると、公江がベンチに座《すわ》って居《い》眠《ねむ》りをしている。ちょうど鉄男がやって来た。
「やあ、お嬢《じよう》さん」
「母がいるの。お願いね」
「ええ、構《かま》いませんよ。どうせヒマですからね」
と快《こころよ》く肯《うなず》く。
文江は、草永の先に立って、ずんずん歩いて行く。
「おい、どこへ行くんだよ?」
と草永が声をかけても、振《ふ》り向きもしないのだ。
すると、突《とつ》然《ぜん》クルリと振り向いて、
「ねえ、私と結《けつ》婚《こん》したい?」
と言った。
草永は面《めん》食《くら》って、
「当り前だよ」
「じゃ、私の頼《たの》みを何でも聞いてくれる?」
「いいよ」
「本当に何でも?」
「君のためなら、掃《そう》除《じ》でも育《いく》児《じ》でも」
「そんなんじゃないの」
「じゃ、何だい?」
「人を殴《なぐ》ってほしいの」
草永が目をむいた。
「——またおいで」
宮里医《い》師《し》が、子《こ》供《ども》を送り出していた。
「先生、こんにちは」
「やあ文ちゃんか」
「ちょっとお話があるんですけど」
「いいとも」
宮里は診《しん》察《さつ》室《しつ》へ入ると、「——何だね、二人揃《そろ》って。避《ひ》妊《にん》の相談かな?」
と、笑《わら》いながら言った。
文江が草永へ肯《うなず》いて見せた。草永は進み出ると、軽く一礼して、
「失礼します」
と言うなり、拳《こぶし》を固めて、宮里医師を殴《なぐ》った。
宮里は部《へ》屋《や》の隅《すみ》まで吹《ふ》っ飛んで、棚《たな》にぶつかり、床《ゆか》にずり落ちた。——やっとの思いで起き上ると、
「おい——何をするんだ?」
と、目をパチクリさせている。
「お返しです」
と文江は言った。「こ《ヽ》れ《ヽ》のね」
指で、首《くび》筋《すじ》を指す。
宮里は、じっと文江を見上げていたが、やがて、ホッと息をつくと、床の上にあぐらをかいた。
「——どうして分った?」
「あの声。——ずっとお会いしてなかったから分らなかったけど、こうして会ってお話すると思い出して来ますよ。それに、殺さないように、微《び》妙《みよう》なところで止めるなんて、多少でも専《せん》門《もん》知《ち》識《しき》のある人でなきゃ、できないでしょ」
「すまん」
宮里は頭を下げた。
「でも、坂東さんを殺したのは、まさか——」
「違《ちが》う! 私じゃない!」
と宮里はあわてて言った。「そんなことまでするか。——いくら何でも、私は医者だぞ!」
「威《い》張《ば》れませんよ、あんなことしといて」
と、文江はにらんだ。
「うむ……。まあそう言われればその通りだが」
宮里は頭をかいた。
「——私、別に先生を訴《うつた》えるつもりはありません。でも、その気になれば、殺人未《み》遂《すい》で逮《たい》捕《ほ》ですよ」
「分っとる」
「理由を話して下さい。——なぜあんなことまでして、私を田《でん》村に来させまいとしたんですか?」
宮里は、起き上ると、古ぼけた椅《い》子《す》に腰《こし》をかけた。椅子がキュッと鳴った。
宮里は、急に老《ふ》け込《こ》んだように見えた。
「——少しだけ待ってくれんか」
と宮里が言った。
「だめです」
と文江がはねつける。
「なあ、頼《たの》む。——これは私一人の問題じゃないんだ。私だって、自分の身だけが可愛《かわい》くて、お前さんをおどかしたわけじゃないんだよ」
「それは分ります」
「だから一日だけ待ってくれ。必ず、事《じ》情《じよう》を説明する」
宮里は身を乗り出すようにして言った。
「約《やく》束《そく》してくれますか」
「約束する。——信じてくれよ」
文江はしばらく考えてから、
「分りました」
と言った。
「ありがとう」
「明日、また来ます」
「分った。待っているよ」
——文江は、草永を促《うなが》して、外へ出た。
「いいのかい?」
と草永が訊《き》いた。
「だって、仕方ないじゃないの」
「僕《ぼく》はあのまま、押《お》すべきだったと思うけどね」
「そうね」
文江にも、それは分っていた。——しかし、やはり自分も田村の人間なのだ。つい、相手を信じてしまう。
「もう返事をしてしまったんだもの、いいじゃない」
と、自分に言い聞かせるように、文江は言った。
「——どこへ行く?」
と、草永が足を止める。
「あ、母を迎《むか》えに行かなきゃね。じゃ、駅へ行きましょうか」
二人が駅へと歩いて行くと、向うから、鉄男が走って来るのが見えた。
「どうしたのかしら?」
「何だかあわててるね」
鉄男は、帽《ぼう》子《し》が落ちるのも構《かま》わずに走って来た。
「お嬢《じよう》さん!」
「どうしたの、鉄男君?」
「お母さんが大変です!」
文江の顔色が変った。
「母がどうしたの?」
「ずっと眠《ねむ》っておられて——何だかおかしいんで、声をかけたら——意《い》識《しき》がないみたいなんです」
文江は愕《がく》然《ぜん》とした。
「——お母さん」
文江が駆《か》け出す。草永も、あわてて、その後を追った。
「——心《しん》臓《ぞう》が、かなり弱っていますね」
と、医《い》師《し》が言った。
「そうですか」
「当分は安静にしておかないと」
「どんな具合なんでしょうか」
「まあ、すぐに危《き》険《けん》ということはないと思いますが、大事にしなくてはいけません」
「分りました」
文江は礼を言って、頭を下げた。
——ここは、田《でん》村の隣《とな》りの町の病院である。
白木巡《じゆん》査《さ》が、すぐ救急車を手配してくれて、ここに運び込《こ》んだ。
この辺では唯《ゆい》一《いつ》の、総《そう》合《ごう》病院なのである。
時計を見て、文江は驚《おどろ》いた。もう夜の八時になっている。
「——どうだい?」
草永がやって来た。
「あ、草永さん」
「具合は?」
「今、眠《ねむ》ってるわ。当分安静ですって」
「そうか」
二人は、廊《ろう》下《か》をゆっくりと歩いた。
「——私がずいぶん苦労をかけたのが、悪かったのかもしれないわ」
と文江が言った。
「それは仕方ないよ。子《こ》供《ども》は親に苦労をかけるものさ」
「ええ。——でも、私の場合は特《とく》別《べつ》よ」
「自分を責《せ》めない方がいい」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。こんなことで落ち込《こ》む私じゃないわ」
と、文江は微《ほほ》笑《え》んだ。
「それでこそ君だ」
草永は文江の肩《かた》に手を回して、力を込めて抱《だ》いた。
「——あなた、どうするの?」
「うん、この町のホテルを取って来た。ここから歩いて五分、走っても十分って所だ」
「なあに、それ」
と、文江は笑《わら》い出した。
自分を元気づけようとしてくれる草永の心づかいが、ありがたかった。
「その部《へ》屋《や》からここへ交《こう》替《たい》で通おうよ。君もつきっきりじゃ疲《つか》れるだろう」
「そうね。ありがとう」
「ともかく今夜は——」
「私、ついてるからいいわ」
「そうかい?」
「一《いち》応《おう》娘《むすめ》ですからね、これでも」
と文江は言った。
「ちょっと見《み》舞《ま》っていいかい?」
「もちろんよ」
草永が病室へ入っている間に、文江は、湯を沸《わ》かして、お茶を淹《い》れた。
病室へそっと入って行くと、母が目を開いた。
「あら、お母さん、起きたの?」
「僕《ぼく》が起こしちゃったようだな」
と、草永が頭をかいた。
「いいんですよ」
公江の声は、いつもと変りなかった。「文江も、かまわないのよ、ここにいなくたって」
「まさかあ」
と、顔をしかめて、「いくら何でも、私にも子《こ》供《ども》としてのプライドがありますからね」
「ま、いいわ。じゃ、ここにいてちょうだい。——草永さん、すみませんね」
「いいえ、とんでもない」
草永は快《こころよ》く言った。「じゃ、交《こう》替《たい》に来るからね」
「ええ、ありがとう」
文江は、草永を、病院の出口まで送って行った。
「——明日はどうするんだい?」
と、草永は言った。
「明日?——ああ、宮里先生の話ね」
文江は考え込《こ》んだ。「母の具合次《し》第《だい》ね。落ち着いていれば……」
「そうだな、ともかく、明日来るよ」
「うん。——それじゃ」
ホテルの部屋を教えて、草永は病院を出て行った。
文江は、やっと自分に帰ったような、そんな気がして、ゆっくりと病室の方へ戻《もど》って行った。
病院の夜は早い。——もう大部分の病室は眠《ねむ》りについているようだった。
母の病室まできて、ドアを開けようとした文江は、足音に振《ふ》り返った。
「まあ」
と文江は言った。「どうしたの?」
立っていたのは、杉山百代だった。
「——お母さん、どう?」
「ありがとう。心《しん》臓《ぞう》らしいの。今は落ち着いてるわ」
と、文江は言った。
「良かったわね。鉄男君から聞いて、びっくりして……」
「わざわざありがとう。——何しろ娘《むすめ》の出来が悪いと、母親の心臓も、苦労が多いわけよ」
と、文江は言って笑《わら》った。
百代は、何だか目を伏《ふ》せがちにして、妙《みよう》な様子だった。
「どうしたの?」
と文江は訊《き》いた。
「ちょっと……話があって……」
「私に?」
「こんなときにごめんなさい」
「いいわよ、——じゃ、ともかく……どこかに座《すわ》ろう」
文江は百代を促《うなが》して、明りの消えた待合室へ行った。——廊《ろう》下《か》の明りが入って来るので、そう暗くはない。
「何なの、話って」
百代はしばらくためらっていたが、やがて思い切ったように顔を上げて、
「あのメモをちょうだい!」
と言った。
21 仮《か》面《めん》の下の顔
しばらく、文江はポカンとしていた。
「メモって——」
「あなたが手に入れたって聞いたわ。金子さんからお金を借りていた人のメモよ」
「どうしてあなたが——」
「主人の名前も入ってるの」
「ご主人の?」
文江は目を丸《まる》くした。そういえば、あの紙を、細かくは見ていないのだ。
「じゃ、ご主人もお金を借りていたの?」
「ええ。でも、変なお金じゃないわ。——仕方なかったのよ。学校の経《けい》理《り》で、ちょっと穴《あな》をあけてしまって」
「それを埋《う》めるために?」
「そうなの」
百代は、思い詰《つ》めた目で、文江を見つめていた。「——お願い! あの紙をちょうだい!」
「そう言われても……」
「あれが公表されたら、主人はクビになっちゃうわ!」
それはそうかもしれない。——文江としても、辛《つら》いところだった。
「でもね、百代、あれが事《じ》件《けん》を解《と》くための、鍵《かぎ》になるかもしれないのよ。それに、警《けい》察《さつ》だってやたらにそんなものを公表したりしないわ」
「分るもんですか!——そんな話は——いつの間にか、どこからか広まって行くわ。あんな小さな村ですもの。文江、友達でしょ? お願い。——この通りよ」
「やめて。手を上げて。ねえ……。私だって、この事《じ》件《けん》を解《かい》決《けつ》しなきゃならないのよ、分って」
「何が事件よ!」
と、百代は立ち上ると、叫《さけ》ぶように言った。「何年も昔《むかし》のことをほじくり返して、せっかくみんなが平和に暮《くら》してたのを引っかき回して、何を気取っているの!」
「百代……」
「あなたはもう、田《でん》村の人間じゃないのよ! 分る? よそ者なのよ!」
百代は文江の方へかがみ込《こ》んで、低い声で言った。「どうして帰って来たの? どうして東京で好《す》きな男と暮してなかったの? 自分で捨《す》てた村へ、好きなときにノコノコ帰って来るなんて、あんまり勝手じゃないの」
「百代、やめて」
文江は顔をそむけた。「私だって——好きでこんな騒《さわ》ぎを起こしたわけじゃないわ」
「あなたが帰って来なければ、坂東さんだって、金子さんだって、死なずに済《す》んだのよ」
「やめて!」
文江も立ち上って、真《まつ》直《す》ぐに百代の目を見返した。「——ここまで来たのよ。今さら、元には戻《もど》せないわ。今、私が手をひいても、元には戻らないのよ」
「それはあんたの勝手だわ」
百代は言った。「あのメモを渡《わた》して」
「だめよ」
百代が、手にしていた紙《かみ》袋《ぶくろ》から、肉切り包丁を出して、握《にぎ》りしめた。——刃《やいば》が白く光った。
「よこしなさい!」
文江は信じられなかった。——これは夢《ゆめ》だ。悪い夢なんだ、と思った。
「さあ、早く!」
百代の声が震《ふる》えている。
「百代……。あなたに私が刺《さ》せる?」
「昔《むかし》の友《ゆう》情《じよう》なんてあ《ヽ》て《ヽ》にしないで。今は主人と子《こ》供《ども》たちの生活を守らなきゃならないのよ!」
百代は真《しん》剣《けん》だ。文江にも、それは分った。
「刺《さ》すわよ、本当に!」
文江は、恐《おそ》ろしくなかった。ただ、無《む》性《しよう》に哀《かな》しかった。
七年の歳《さい》月《げつ》とは、こんなにも、長いものだったのか。
「——百代さん」
思いがけない声がした。——公江が、入口に立っていたのだ。
「百代さん。おやめなさい」
常石公江の言葉は、重かった。百代は、包丁を取り落とすと、逃げるようにして、走り去った。
文江はペタン、とベンチに腰《こし》を落とした。
「お母さん、私……」
「何も言わなくていいよ」
と、公江は、娘《むすめ》の肩《かた》に手をかけた。「分ってるよ」
文江は、涙《なみだ》が出て来るのを、拭《ぬぐ》いもせずに放っておいた……。
「——帰るって?」
草永が、びっくりしたように言った。
「ええ」
文江は肯《うなず》いた。
病院の近くの喫《きつ》茶《さ》店《てん》だ。——文江は、一《いつ》睡《すい》もしていなかった。
「何があったんだ?」
と草永は訊《き》いた。
文江は、昨《さく》晩《ばん》の出《で》来《き》事《ごと》を話して聞かせた。
「そうか」
草永は肯いた。「なるほどね」
「もともと私が口を出す問題じゃなかったのよ。警《けい》察《さつ》へ任《まか》せておけば良かったんだわ。——もう東京へ帰って、おとなしくしてるわ、私」
草永がじっと文江を見つめて、
「本当にそう思ってるのかい?」
と訊《き》いた。
「ええ、もちろんよ」
と言ってから、文江は、深々と息をつき、うつむいた。「——いいえ。帰りたくないわ」
「そうだろう。ここまで来たんだ。やめちゃいけない」
文江は草永の手を握《にぎ》った。
「でも、あなた、最初は、やめろと言ってたじゃないの」
「あのときはまだやめられた。でも、今はだめだよ」
「みんなが私のことを、憎《にく》むかしら?」
「世の中の人、全部を敵《てき》に回すわけじゃないんだ。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。村の人たちだって、ずっと後になれば、分ってくれるさ」
草永の励《はげ》ましは単《たん》純《じゆん》で、それだけに力強かった。
「分ったわ。——ともかく、やってみましょうか」
「そうだとも!」
草永は肯《うなず》いた。「今日は、宮里先生に会うんだろう?」
「そうだったわね。——でも母にもついてなきゃ」
「じゃ、僕《ぼく》が宮里先生に会って来てもいいよ」
「いえ、私が行くわ! あなた、母をみててくれる?」
「そりゃいいけど……」
草永はためらった。「でも、一人じゃ危《あぶな》くないかい?」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ! 相手は宮里先生ですもの」
「忘《わす》れるなよ。君はあの人に首を絞《し》められたんだぜ」
「でも殺さなかったわ。そんな度《ど》胸《きよう》ないのよ、あの人」
「そうかな」
「ともかく、危いことはしないから、心配しないで」
「気を付けろよ」
草永は不安そうに言った。
「分ってるって。これで、宮里先生の話を聞けば、事《じ》件《けん》の真相も、大分はっきりして来ると思うな」
「そうだね。——あんまり調子に乗っちゃ、危《あぶな》いぜ」
「心《しん》配《ぱい》性《しよう》ね」
と、文江は笑《え》顔《がお》を見せた。
——田《でん》村へ足を踏《ふ》み入れると、文江は何となく奇《き》妙《みよう》な静けさに囲まれて、当《とう》惑《わく》した。
人の姿《すがた》が、あまり見えない。
息をひそめて、静まり返っている、という感じである。——どこか、おかしい。
宮里医院の前へ来て、またまた文江は当惑した。
〈本日休《きゆう》診《しん》〉
の札《ふだ》が、下がっている。
玄《げん》関《かん》の戸を叩《たた》いてみたが、一向に返事もない。隣《となり》の主《しゆ》婦《ふ》が顔を出して、
「常石さんのお嬢《じよう》さんですね」
と言った。
「はい」
「先生が、神社へ来てくれるように、って——」
「神社へ?」
「ええ。そう伝えてくれ、と」
「——分りました。どうも」
神社か。——あの、アーチェリーの矢《や》を見付けた所である。
何となく、気に入らなかった。きっと、草永はやめろと言うだろう。
文江は神社へ向って歩き始めた。——ともかく、自分で始めたことなのだ。自分で、けりをつける。
道でも、人に会わなかった。——百代の家の前で、足を止め、ためらった。
よほど声をかけようかと思ったが、やめておいた。今は、まだ早すぎる。
神社への道が、長く感じられた。疲《つか》れているのか。それとも都会暮《ぐら》しで、足が弱っているのだろうか。
確《たし》かに、百代の言葉通り、自分は、「よそ者」なのかもしれない……。
境内《けいだい》は、静かだった。
晴れ上って、暖《あたたか》いのに、子《こ》供《ども》たちの遊ぶ姿《すがた》もない。気味が悪かった。