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作者: 当前章节:15412 字 更新时间:2026-6-23 00:11

 文江が訊《き》いたが、公江の方は答えず、

 「——金子さんが殺されたのかもしれないって話は聞いてるわね」

 と言った。

 「はい。恐《おそ》ろしいことです」

 「金子さんは、そんな話をしたことはなかった?」

 「殺される、ということをですか?」

 「そう、誰《だれ》かに狙《ねら》われている、とか」

 「特《とく》別《べつ》何も……。ただ、金《かね》貸《か》しのせいで、みんなに口をきいてもらえないと嘆《なげ》いておいででした」

 「やっていたのは奥《おく》さんなんでしょ?」

 「もちろんです!」

 鉄男の母の口《く》調《ちよう》に、初めて強い感《かん》情《じよう》がこもった。

 「金子さんがそう言ったの?」

 「はい。いつもぼやいておいででした。——俺《おれ》は別《べつ》に大金も名《めい》誉《よ》も欲《ほ》しくないのに、女《によう》房《ぼう》が欲しがってたまらないんだ、って……」

 「最近、その件《けん》で、何かこじれていたようなことはなかった?」

 「最近ですか?——気付きませんでしたけど」

 「そう。——残《ざん》念《ねん》だわ。金子さんが心の中を打ちあける所があるとすれば、ここだと思って来たのよ」

 「それは間《ま》違《ちが》いありません」

 と、鉄男の母は肯《うなず》いて、「もう、最近の話といえば——鉄男のことばかりでした」

 と、チラリと文江たちの方を見る。

 「いいのよ。娘《むすめ》も知ってるわ」

 「そうでしたか……」

 文江は少し前へ出て、

 「鉄男君自身はどうなのかしら」

 と言った。

 「父親のことですか? 特《とく》に何とも言っていませんけど、やっぱり、薄《うす》々《うす》は分っているらしくて」

 「そうでしょうね」

 「でも実《じつ》際《さい》に、父《ヽ》親《ヽ》同《ヽ》然《ヽ》に、仕事を仕《し》込《こ》まれましたでしょう。やっぱり慕《した》っているんですよね」

 「立《りつ》派《ぱ》な将《しよう》来《らい》の駅長さんね」

 「ありがとうございます」

 と、鉄男の母は頭を下げた。「駅長さんは、あの子が鉄道の仕事を継《つ》いでくれるのを、願っていたんですね」

 ——噂《うわさ》をすれば何とか、で、ちょうど、鉄男が帰って来た。

 「母さん、昼飯!」

 と怒《ど》鳴《な》って上って来る。

 そして中を覗《のぞ》き込《こ》むと、びっくりして、

 「あ——すみません」

 あわてて頭を下げた。

 「いいのよ。仕事を続けて」

 「昼休みです。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」

 鉄男は帽《ぼう》子《し》をとって、傍《かたわら》へ置いた。

 「立《りつ》派《ぱ》な帽子ね」

 と、公江が言った。

 「ええ! これ、駅長さんにもらったんですよ」

 「まあ。金子さんに?」

 「そうなんだ、母さん」

 「そんなこと言わなかったじゃないの」

 「だって、亡《な》くなる前の日だよ。亡くなってからじゃ、みんな忙《いそが》しいんだ」

 「ねえ」

 と公江が言った。「その帽《ぼう》子《し》を見せて」

 「これですか?」

 と、鉄男が不思議そうに言った。

 公江は鉄男から帽《ぼう》子《し》を受け取ると、手に取って眺《なが》めていた。

 「お母さん、何をしてるの?」

 と、文江が不思議そうに言った。

 「これだけが、金子さんの形《かた》見《み》ならね、もしかしたら、この中に……」

 公江は、帽子のヘリに沿《そ》って、指を這《は》わせた。「——何か詰《つ》めてあるようね」

 「ええ」

 と鉄男が肯《うなず》いた。「ちょっと大き目だから紙を詰めておいた、って——」

 「駅長さんが?」

 「そうです」

 公江は、帽子の内側を、バリバリとはがして行った。

 「お母さん——」

 「いいから」

 公江は、中から、細長く折《お》りたたまれた紙を、抜《ぬ》き出した。帽子の形に沿《そ》って、丸く環《わ》になっている。

 「何か書いてあるよ」

 と草永が覗《のぞ》き込《こ》む。

 公江が紙を押《お》し広げた。文江は、信じられないような思いで、それを覗き込んだ。

 「やっぱりね」

 と公江が言った。

 そこには、名前と、数字が細かく書き記してあった。——数字が金《きん》額《がく》であることは、すぐに分る。

 「お金を貸《か》した記《き》録《ろく》?」

 「そうよ。金子さんは、これをどこかへ隠《かく》しておきたかったのね」

 「——名前があるわ。村の人たちね。——見て!」

 文江が唖《あ》然《ぜん》とした。

 そこには宮里医《い》師《し》の名前もあった。そして……。

 「白木って……あのお巡《まわ》りさんじゃないのか?」

 と草永が訊《き》いた。「呆《あき》れたな!」

 「ともかく——」

 公江は、その紙を折《お》りたたんだ。「これは私が預《あずか》りますよ。いいわね?」

 「はい、もちろん」

 と、鉄男の母が言った。「お前も黙《だま》ってるんだよ」

 「うん」

 鉄男は、わけが分らないといった顔をしていた。

20 秘《ひ》 密《みつ》

 「驚《おどろ》いたわ」

 と、文江は表に出ると、言った。

 「村の生活だって、平《へい》穏《おん》じゃなかった、ってことよ」

 と公江は言った。

 「でも、宮里先生がどうして?」

 「たぶん、法事があったときの借金じゃないのかしら。それに、町へ出ると、あの人は結《けつ》構《こう》、遊んでいたようだしね」

 「何だか幻《げん》滅《めつ》したわ」

 「大人《おとな》の世界だもの。きれい事では済《す》みませんよ」

 それはそうだ、と文江は思った。期待する方が間《ま》違《ちが》っているのかもしれない。

 都会で、散々、醜《みにく》い人間模《も》様《よう》を見て来てつい、無《む》意《い》識《しき》の内に、故《こ》郷《きよう》の素《そ》朴《ぼく》な人々、というイメージを作り上げていたのだろう。

 どこであろうと、そこが人間の社会である限《かぎ》り、きれいごとでは済《す》むはずがないのだ……。

 「すると、どうなるんでしょうね」

 と草永が言った。「金に困《こま》っていたのは、一人や二人じゃなかったわけですか」

 「そういうことになるわね」

 と公江が肯《うなず》く。「——暖《あたたか》くなったわね。そこへ座《すわ》りましょう」

 「どこへ?」

 「駅のベンチよ」

 「だって——」

 「当分、列車は来ないわよ。平気よ」

 人のいないホームへ入ると、三人は、古ぼけたベンチに腰《こし》をおろした。

 「このベンチ、昔《むかし》からあったやつかしら?」

 と、文江は言った。

 「そうよ。憶《おぼ》えてる?」

 「うん。——でも、こんなにガタついてなかったと思うけど」

 「年月がたてば、くたびれて来るわよ」

 と、公江は言った。

 「見たところは変らないように見えても、変っているのね」

 「そう」

 ——平和な静けさだった。

 ホームには人もなく、レールは眠《ねむ》りこけている。その眠りを覚《さ》ます列車の響《ひび》きは、まだしばらくやって来ない。

 「——どういうことなんでしょうね、今度の事《じ》件《けん》は」

 と草永が言った。「お母さんには何か考えがおありのようですけど」

 「お金が総《すべ》ての中心だった、と言っていいのかしら」

 と文江が言った。「つまり、金子さんが——というより、金子さんの奥《おく》さんが、みんなにお金を貸《か》しては、取り立てていた。そして誰《だれ》かが、銀行からお金を奪《うば》って来ようと思いついた……」

 「それは逆《ぎやく》じゃないかな」

 と草永が言った。

 「え?」

 「いくら借金してて、困《こま》ってるからって、銀行強《ごう》盗《とう》までやるかね」

 「そこが問題ね。だけど、実《じつ》際《さい》にお金は盗《ぬす》まれているわ」

 「こう考えたら?」

 と、公江が言った。「強盗が他にいたとしたら?」

 「まだ他に?」

 「銀行を襲《おそ》った人は、どこに逃《に》げると思う?」

 「あの町からなら……山の方ね」

 と文江は言って、肯《うなず》いた。「そうか。強盗が山に隠《かく》れていて、和也君が、それに出くわしたんだわ!」

 「そう考えた方が自然でしょうね」

 「すると、どうなったのかな」

 と草永が考え込《こ》む。「強《ごう》盗《とう》と、和也との間で、格《かく》闘《とう》になる。——和也が強盗を殺したんだ!きっとそうだ。それであの血《ち》染《ぞ》めの手《て》拭《ぬぐ》いのことも、説明がつく」

 「ところが、和也君は、お金を見て、欲《よく》を出したのね」

 「無《む》理《り》もありませんよ」

 と公江は言った。「この村じゃ、まずお目にかかれない大金だしね。ついフラフラッとしたんでしょ」

 「で、強盗の死体をどこか山の奥《おく》へ埋《う》めたんだ。そして金を持って帰った。——まさか、君が行方《ゆくえ》不明になってて、その殺人容《よう》疑《ぎ》をかけられるとは思わなかったんだろう」

 「それじゃ、しゃべれなかったわけね」

 と、文江は肯《うなず》いた。「ごまかし通せば、お金は自分のものになるわけだし」

 「すると、どこにお金を隠《かく》してたんだろうな?」

 「自《じ》宅《たく》の床《ゆか》下《した》へ埋《う》めるのは、危《き》険《けん》だったでしょうね」

 「するとどこか山の中? でも、掘《ほ》り出しに行くのは目につくね」

 「もっといい隠し場所があったんでしょう」

 と公江が言った。「若《わか》い人たちの『秘《ひ》密《みつ》の場所』になっているところが」

 文江は、線路越《ご》しに、半分焼け落ちたあの倉庫を見やった。

 「——あの中ね!」

 「あそこなら、大して苦労せずにお金を隠しておけるでしょうね」

 「なるほど……」

 草永は立ち上った。「行ってみよう。もちろん、痕《こん》跡《せき》なんて残ってないだろうけど」

 「行きましょう!」

 と文江も立ち上る。

 「二人で行っといで」

 と、公江は言った。「私はくたびれるから、いやよ」

 ——文江と草永は、土手を上って、焼け落ちた倉庫の前に立った。

 村の若《わか》者《もの》に襲《おそ》われかけた所である。

 「——お母さんの言う通りだろう。ここがまず隠《かく》し場所として思いつくよ」

 「いつもガラクタで一《いつ》杯《ぱい》だものね」

 「問題はその後だ」

 と、草永が考え込《こ》む。「なぜ和也は死んだのか?」

 「自殺のはずはないとすると……」

 「殺されたんだ。——犯《はん》人《にん》は、和也が金を隠していたことを知っていた」

 「殺したということは、金の隠し場所を訊《き》き出したってことなのね」

 「おそらくね。だが、和也が誰《だれ》にしゃべったんだろう?」

 「分らないわ……。よほど心を許《ゆる》せる相手だったのか……」

 「その相手が金に困《こま》っていたとしたら? あのリストの中の誰《だれ》かで」

 「ありうるわね。話を聞いて、お金を自分のものにしようとした……」

 文江は、手でそっと首をこすっていた。

 「——どうしたんだい?」

 「え? ああ、別に……。ほら、例の、首を絞《し》められたところだわ、ちょっとかゆくて気になるの」

 「そういえばそんなこともあったっけ」

 「何よ、冷たいのね」

 と、文江は笑《わら》った。

 「ともかくここまで入りこんだんだから、もう後《あと》戻《もど》りはできないね」

 と、草永は言って、焼け落ちた倉庫を眺《なが》めた。「——一体誰がやったのかなあ。金は、人を狂《くる》わせるからね。僕《ぼく》なんか、却《かえ》って金があると落ち着かないよ。結《けつ》婚《こん》しても小《こ》遣《づか》いは少しでいいからね。——ねえ。——おい、どうしたんだ?」

 「ねえ、来て」

 と、文江は、草永の手を引《ひつ》張《ぱ》った。

 「どこへ行くんだよ?」

 「いいから」

 文江は、青ざめた顔をしていた。

 ホームへ戻《もど》ると、公江がベンチに座《すわ》って居《い》眠《ねむ》りをしている。ちょうど鉄男がやって来た。

 「やあ、お嬢《じよう》さん」

 「母がいるの。お願いね」

 「ええ、構《かま》いませんよ。どうせヒマですからね」

 と快《こころよ》く肯《うなず》く。

 文江は、草永の先に立って、ずんずん歩いて行く。

 「おい、どこへ行くんだよ?」

 と草永が声をかけても、振《ふ》り向きもしないのだ。

 すると、突《とつ》然《ぜん》クルリと振り向いて、

 「ねえ、私と結《けつ》婚《こん》したい?」

 と言った。

 草永は面《めん》食《くら》って、

 「当り前だよ」

 「じゃ、私の頼《たの》みを何でも聞いてくれる?」

 「いいよ」

 「本当に何でも?」

 「君のためなら、掃《そう》除《じ》でも育《いく》児《じ》でも」

 「そんなんじゃないの」

 「じゃ、何だい?」

 「人を殴《なぐ》ってほしいの」

 草永が目をむいた。

 「——またおいで」

 宮里医《い》師《し》が、子《こ》供《ども》を送り出していた。

 「先生、こんにちは」

 「やあ文ちゃんか」

 「ちょっとお話があるんですけど」

 「いいとも」

 宮里は診《しん》察《さつ》室《しつ》へ入ると、「——何だね、二人揃《そろ》って。避《ひ》妊《にん》の相談かな?」

 と、笑《わら》いながら言った。

 文江が草永へ肯《うなず》いて見せた。草永は進み出ると、軽く一礼して、

 「失礼します」

 と言うなり、拳《こぶし》を固めて、宮里医師を殴《なぐ》った。

 宮里は部《へ》屋《や》の隅《すみ》まで吹《ふ》っ飛んで、棚《たな》にぶつかり、床《ゆか》にずり落ちた。——やっとの思いで起き上ると、

 「おい——何をするんだ?」

 と、目をパチクリさせている。

 「お返しです」

 と文江は言った。「こ《ヽ》れ《ヽ》のね」

 指で、首《くび》筋《すじ》を指す。

 宮里は、じっと文江を見上げていたが、やがて、ホッと息をつくと、床の上にあぐらをかいた。

 「——どうして分った?」

 「あの声。——ずっとお会いしてなかったから分らなかったけど、こうして会ってお話すると思い出して来ますよ。それに、殺さないように、微《び》妙《みよう》なところで止めるなんて、多少でも専《せん》門《もん》知《ち》識《しき》のある人でなきゃ、できないでしょ」

 「すまん」

 宮里は頭を下げた。

 「でも、坂東さんを殺したのは、まさか——」

 「違《ちが》う! 私じゃない!」

 と宮里はあわてて言った。「そんなことまでするか。——いくら何でも、私は医者だぞ!」

 「威《い》張《ば》れませんよ、あんなことしといて」

 と、文江はにらんだ。

 「うむ……。まあそう言われればその通りだが」

 宮里は頭をかいた。

 「——私、別に先生を訴《うつた》えるつもりはありません。でも、その気になれば、殺人未《み》遂《すい》で逮《たい》捕《ほ》ですよ」

 「分っとる」

 「理由を話して下さい。——なぜあんなことまでして、私を田《でん》村に来させまいとしたんですか?」

 宮里は、起き上ると、古ぼけた椅《い》子《す》に腰《こし》をかけた。椅子がキュッと鳴った。

 宮里は、急に老《ふ》け込《こ》んだように見えた。

 「——少しだけ待ってくれんか」

 と宮里が言った。

 「だめです」

 と文江がはねつける。

 「なあ、頼《たの》む。——これは私一人の問題じゃないんだ。私だって、自分の身だけが可愛《かわい》くて、お前さんをおどかしたわけじゃないんだよ」

 「それは分ります」

 「だから一日だけ待ってくれ。必ず、事《じ》情《じよう》を説明する」

 宮里は身を乗り出すようにして言った。

 「約《やく》束《そく》してくれますか」

 「約束する。——信じてくれよ」

 文江はしばらく考えてから、

 「分りました」

 と言った。

 「ありがとう」

 「明日、また来ます」

 「分った。待っているよ」

 ——文江は、草永を促《うなが》して、外へ出た。

 「いいのかい?」

 と草永が訊《き》いた。

 「だって、仕方ないじゃないの」

 「僕《ぼく》はあのまま、押《お》すべきだったと思うけどね」

 「そうね」

 文江にも、それは分っていた。——しかし、やはり自分も田村の人間なのだ。つい、相手を信じてしまう。

 「もう返事をしてしまったんだもの、いいじゃない」

 と、自分に言い聞かせるように、文江は言った。

 「——どこへ行く?」

 と、草永が足を止める。

 「あ、母を迎《むか》えに行かなきゃね。じゃ、駅へ行きましょうか」

 二人が駅へと歩いて行くと、向うから、鉄男が走って来るのが見えた。

 「どうしたのかしら?」

 「何だかあわててるね」

 鉄男は、帽《ぼう》子《し》が落ちるのも構《かま》わずに走って来た。

 「お嬢《じよう》さん!」

 「どうしたの、鉄男君?」

 「お母さんが大変です!」

 文江の顔色が変った。

 「母がどうしたの?」

 「ずっと眠《ねむ》っておられて——何だかおかしいんで、声をかけたら——意《い》識《しき》がないみたいなんです」

 文江は愕《がく》然《ぜん》とした。

 「——お母さん」

 文江が駆《か》け出す。草永も、あわてて、その後を追った。

 「——心《しん》臓《ぞう》が、かなり弱っていますね」

 と、医《い》師《し》が言った。

 「そうですか」

 「当分は安静にしておかないと」

 「どんな具合なんでしょうか」

 「まあ、すぐに危《き》険《けん》ということはないと思いますが、大事にしなくてはいけません」

 「分りました」

 文江は礼を言って、頭を下げた。

 ——ここは、田《でん》村の隣《とな》りの町の病院である。

 白木巡《じゆん》査《さ》が、すぐ救急車を手配してくれて、ここに運び込《こ》んだ。

 この辺では唯《ゆい》一《いつ》の、総《そう》合《ごう》病院なのである。

 時計を見て、文江は驚《おどろ》いた。もう夜の八時になっている。

 「——どうだい?」

 草永がやって来た。

 「あ、草永さん」

 「具合は?」

 「今、眠《ねむ》ってるわ。当分安静ですって」

 「そうか」

 二人は、廊《ろう》下《か》をゆっくりと歩いた。

 「——私がずいぶん苦労をかけたのが、悪かったのかもしれないわ」

 と文江が言った。

 「それは仕方ないよ。子《こ》供《ども》は親に苦労をかけるものさ」

 「ええ。——でも、私の場合は特《とく》別《べつ》よ」

 「自分を責《せ》めない方がいい」

 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。こんなことで落ち込《こ》む私じゃないわ」

 と、文江は微《ほほ》笑《え》んだ。

 「それでこそ君だ」

 草永は文江の肩《かた》に手を回して、力を込めて抱《だ》いた。

 「——あなた、どうするの?」

 「うん、この町のホテルを取って来た。ここから歩いて五分、走っても十分って所だ」

 「なあに、それ」

 と、文江は笑《わら》い出した。

 自分を元気づけようとしてくれる草永の心づかいが、ありがたかった。

 「その部《へ》屋《や》からここへ交《こう》替《たい》で通おうよ。君もつきっきりじゃ疲《つか》れるだろう」

 「そうね。ありがとう」

 「ともかく今夜は——」

 「私、ついてるからいいわ」

 「そうかい?」

 「一《いち》応《おう》娘《むすめ》ですからね、これでも」

 と文江は言った。

 「ちょっと見《み》舞《ま》っていいかい?」

 「もちろんよ」

 草永が病室へ入っている間に、文江は、湯を沸《わ》かして、お茶を淹《い》れた。

 病室へそっと入って行くと、母が目を開いた。

 「あら、お母さん、起きたの?」

 「僕《ぼく》が起こしちゃったようだな」

 と、草永が頭をかいた。

 「いいんですよ」

 公江の声は、いつもと変りなかった。「文江も、かまわないのよ、ここにいなくたって」

 「まさかあ」

 と、顔をしかめて、「いくら何でも、私にも子《こ》供《ども》としてのプライドがありますからね」

 「ま、いいわ。じゃ、ここにいてちょうだい。——草永さん、すみませんね」

 「いいえ、とんでもない」

 草永は快《こころよ》く言った。「じゃ、交《こう》替《たい》に来るからね」

 「ええ、ありがとう」

 文江は、草永を、病院の出口まで送って行った。

 「——明日はどうするんだい?」

 と、草永は言った。

 「明日?——ああ、宮里先生の話ね」

 文江は考え込《こ》んだ。「母の具合次《し》第《だい》ね。落ち着いていれば……」

 「そうだな、ともかく、明日来るよ」

 「うん。——それじゃ」

 ホテルの部屋を教えて、草永は病院を出て行った。

 文江は、やっと自分に帰ったような、そんな気がして、ゆっくりと病室の方へ戻《もど》って行った。

 病院の夜は早い。——もう大部分の病室は眠《ねむ》りについているようだった。

 母の病室まできて、ドアを開けようとした文江は、足音に振《ふ》り返った。

 「まあ」

 と文江は言った。「どうしたの?」

 立っていたのは、杉山百代だった。

 「——お母さん、どう?」

 「ありがとう。心《しん》臓《ぞう》らしいの。今は落ち着いてるわ」

 と、文江は言った。

 「良かったわね。鉄男君から聞いて、びっくりして……」

 「わざわざありがとう。——何しろ娘《むすめ》の出来が悪いと、母親の心臓も、苦労が多いわけよ」

 と、文江は言って笑《わら》った。

 百代は、何だか目を伏《ふ》せがちにして、妙《みよう》な様子だった。

 「どうしたの?」

 と文江は訊《き》いた。

 「ちょっと……話があって……」

 「私に?」

 「こんなときにごめんなさい」

 「いいわよ、——じゃ、ともかく……どこかに座《すわ》ろう」

 文江は百代を促《うなが》して、明りの消えた待合室へ行った。——廊《ろう》下《か》の明りが入って来るので、そう暗くはない。

 「何なの、話って」

 百代はしばらくためらっていたが、やがて思い切ったように顔を上げて、

 「あのメモをちょうだい!」

 と言った。

21 仮《か》面《めん》の下の顔

 しばらく、文江はポカンとしていた。

 「メモって——」

 「あなたが手に入れたって聞いたわ。金子さんからお金を借りていた人のメモよ」

 「どうしてあなたが——」

 「主人の名前も入ってるの」

 「ご主人の?」

 文江は目を丸《まる》くした。そういえば、あの紙を、細かくは見ていないのだ。

 「じゃ、ご主人もお金を借りていたの?」

 「ええ。でも、変なお金じゃないわ。——仕方なかったのよ。学校の経《けい》理《り》で、ちょっと穴《あな》をあけてしまって」

 「それを埋《う》めるために?」

 「そうなの」

 百代は、思い詰《つ》めた目で、文江を見つめていた。「——お願い! あの紙をちょうだい!」

 「そう言われても……」

 「あれが公表されたら、主人はクビになっちゃうわ!」

 それはそうかもしれない。——文江としても、辛《つら》いところだった。

 「でもね、百代、あれが事《じ》件《けん》を解《と》くための、鍵《かぎ》になるかもしれないのよ。それに、警《けい》察《さつ》だってやたらにそんなものを公表したりしないわ」

 「分るもんですか!——そんな話は——いつの間にか、どこからか広まって行くわ。あんな小さな村ですもの。文江、友達でしょ? お願い。——この通りよ」

 「やめて。手を上げて。ねえ……。私だって、この事《じ》件《けん》を解《かい》決《けつ》しなきゃならないのよ、分って」

 「何が事件よ!」

 と、百代は立ち上ると、叫《さけ》ぶように言った。「何年も昔《むかし》のことをほじくり返して、せっかくみんなが平和に暮《くら》してたのを引っかき回して、何を気取っているの!」

 「百代……」

 「あなたはもう、田《でん》村の人間じゃないのよ! 分る? よそ者なのよ!」

 百代は文江の方へかがみ込《こ》んで、低い声で言った。「どうして帰って来たの? どうして東京で好《す》きな男と暮してなかったの? 自分で捨《す》てた村へ、好きなときにノコノコ帰って来るなんて、あんまり勝手じゃないの」

 「百代、やめて」

 文江は顔をそむけた。「私だって——好きでこんな騒《さわ》ぎを起こしたわけじゃないわ」

 「あなたが帰って来なければ、坂東さんだって、金子さんだって、死なずに済《す》んだのよ」

 「やめて!」

 文江も立ち上って、真《まつ》直《す》ぐに百代の目を見返した。「——ここまで来たのよ。今さら、元には戻《もど》せないわ。今、私が手をひいても、元には戻らないのよ」

 「それはあんたの勝手だわ」

 百代は言った。「あのメモを渡《わた》して」

 「だめよ」

 百代が、手にしていた紙《かみ》袋《ぶくろ》から、肉切り包丁を出して、握《にぎ》りしめた。——刃《やいば》が白く光った。

 「よこしなさい!」

 文江は信じられなかった。——これは夢《ゆめ》だ。悪い夢なんだ、と思った。

 「さあ、早く!」

 百代の声が震《ふる》えている。

 「百代……。あなたに私が刺《さ》せる?」

 「昔《むかし》の友《ゆう》情《じよう》なんてあ《ヽ》て《ヽ》にしないで。今は主人と子《こ》供《ども》たちの生活を守らなきゃならないのよ!」

 百代は真《しん》剣《けん》だ。文江にも、それは分った。

 「刺《さ》すわよ、本当に!」

 文江は、恐《おそ》ろしくなかった。ただ、無《む》性《しよう》に哀《かな》しかった。

 七年の歳《さい》月《げつ》とは、こんなにも、長いものだったのか。

 「——百代さん」

 思いがけない声がした。——公江が、入口に立っていたのだ。

 「百代さん。おやめなさい」

 常石公江の言葉は、重かった。百代は、包丁を取り落とすと、逃げるようにして、走り去った。

 文江はペタン、とベンチに腰《こし》を落とした。

 「お母さん、私……」

 「何も言わなくていいよ」

 と、公江は、娘《むすめ》の肩《かた》に手をかけた。「分ってるよ」

 文江は、涙《なみだ》が出て来るのを、拭《ぬぐ》いもせずに放っておいた……。

 「——帰るって?」

 草永が、びっくりしたように言った。

 「ええ」

 文江は肯《うなず》いた。

 病院の近くの喫《きつ》茶《さ》店《てん》だ。——文江は、一《いつ》睡《すい》もしていなかった。

 「何があったんだ?」

 と草永は訊《き》いた。

 文江は、昨《さく》晩《ばん》の出《で》来《き》事《ごと》を話して聞かせた。

 「そうか」

 草永は肯いた。「なるほどね」

 「もともと私が口を出す問題じゃなかったのよ。警《けい》察《さつ》へ任《まか》せておけば良かったんだわ。——もう東京へ帰って、おとなしくしてるわ、私」

 草永がじっと文江を見つめて、

 「本当にそう思ってるのかい?」

 と訊《き》いた。

 「ええ、もちろんよ」

 と言ってから、文江は、深々と息をつき、うつむいた。「——いいえ。帰りたくないわ」

 「そうだろう。ここまで来たんだ。やめちゃいけない」

 文江は草永の手を握《にぎ》った。

 「でも、あなた、最初は、やめろと言ってたじゃないの」

 「あのときはまだやめられた。でも、今はだめだよ」

 「みんなが私のことを、憎《にく》むかしら?」

 「世の中の人、全部を敵《てき》に回すわけじゃないんだ。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。村の人たちだって、ずっと後になれば、分ってくれるさ」

 草永の励《はげ》ましは単《たん》純《じゆん》で、それだけに力強かった。

 「分ったわ。——ともかく、やってみましょうか」

 「そうだとも!」

 草永は肯《うなず》いた。「今日は、宮里先生に会うんだろう?」

 「そうだったわね。——でも母にもついてなきゃ」

 「じゃ、僕《ぼく》が宮里先生に会って来てもいいよ」

 「いえ、私が行くわ! あなた、母をみててくれる?」

 「そりゃいいけど……」

 草永はためらった。「でも、一人じゃ危《あぶな》くないかい?」

 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ! 相手は宮里先生ですもの」

 「忘《わす》れるなよ。君はあの人に首を絞《し》められたんだぜ」

 「でも殺さなかったわ。そんな度《ど》胸《きよう》ないのよ、あの人」

 「そうかな」

 「ともかく、危いことはしないから、心配しないで」

 「気を付けろよ」

 草永は不安そうに言った。

 「分ってるって。これで、宮里先生の話を聞けば、事《じ》件《けん》の真相も、大分はっきりして来ると思うな」

 「そうだね。——あんまり調子に乗っちゃ、危《あぶな》いぜ」

 「心《しん》配《ぱい》性《しよう》ね」

 と、文江は笑《え》顔《がお》を見せた。

 ——田《でん》村へ足を踏《ふ》み入れると、文江は何となく奇《き》妙《みよう》な静けさに囲まれて、当《とう》惑《わく》した。

 人の姿《すがた》が、あまり見えない。

 息をひそめて、静まり返っている、という感じである。——どこか、おかしい。

 宮里医院の前へ来て、またまた文江は当惑した。

 〈本日休《きゆう》診《しん》〉

 の札《ふだ》が、下がっている。

 玄《げん》関《かん》の戸を叩《たた》いてみたが、一向に返事もない。隣《となり》の主《しゆ》婦《ふ》が顔を出して、

 「常石さんのお嬢《じよう》さんですね」

 と言った。

 「はい」

 「先生が、神社へ来てくれるように、って——」

 「神社へ?」

 「ええ。そう伝えてくれ、と」

 「——分りました。どうも」

 神社か。——あの、アーチェリーの矢《や》を見付けた所である。

 何となく、気に入らなかった。きっと、草永はやめろと言うだろう。

 文江は神社へ向って歩き始めた。——ともかく、自分で始めたことなのだ。自分で、けりをつける。

 道でも、人に会わなかった。——百代の家の前で、足を止め、ためらった。

 よほど声をかけようかと思ったが、やめておいた。今は、まだ早すぎる。

 神社への道が、長く感じられた。疲《つか》れているのか。それとも都会暮《ぐら》しで、足が弱っているのだろうか。

 確《たし》かに、百代の言葉通り、自分は、「よそ者」なのかもしれない……。

 境内《けいだい》は、静かだった。

 晴れ上って、暖《あたたか》いのに、子《こ》供《ども》たちの遊ぶ姿《すがた》もない。気味が悪かった。

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