駅への手配も、一番列車に間に合ったし、いくら何でも、田駅から乗るとは思えないので、近くの駅にも全部連《れん》絡《らく》した。
その他、バスや、駅前の交番、駐《ちゆう》在《ざい》所《しよ》へも連絡は行っている。
残るは山道だけだったが、たとえあそこを越《こ》えても、町に出て、そこからはバスか列車しかない。
そこにも連絡はつけてある。山道は一本だし、どこか他《ほか》へ出るというわけにはいかないのである。
これで見付からないはずがない。——白木は、のんびりと構《かま》えていた。
ところが、その夜までに、情《じよう》報《ほう》は二つ、三つ入ったものの、どれも人《ひと》違《ちが》いで、それ以後の手がかりは、パッタリ途《と》絶《だ》えてしまった……。
次の日、常石勇《ゆう》造《ぞう》が、急いで大阪から戻って来た。
「——お帰りなさいませ」
と、公江が迎《むか》えると、
「どうだ?」
と玄《げん》関《かん》に立ったままで訊《き》く。
「今のところ、何も……」
と公江が答えると、
「白木の奴《やつ》、何をしとる!」
と吐《は》き捨《す》てるように言って、「行って来るぞ」
そのまま村へと出て行ってしまった。
白木巡《じゆん》査《さ》は、常石の質《しつ》問《もん》に汗《あせ》をふきふき応《おう》対《たい》した。
「この通り、精《せい》一《いつ》杯《ぱい》の手は打ったんでございますが……」
「ふむ。——しかし、娘《むすめ》も馬《ば》鹿《か》ではない。その辺が手配されることは良く承《しよう》知《ち》しているはずだ」
「はあ、それはまあ……」
「村のどこかに隠《かく》れているとは考えられんか」
「村の中にですか?」
白木は目を丸《まる》くした。
「分らんぞ。みんなが諦《あきら》めるまで、待つつもりかもしれん」
「しかし——どこに」
「その気になれば、この辺りは、人のいない小屋とか、その類《たぐい》の場所はいくらでもある。そこを当ってみてはどうかな」
常石の言葉には、白木としては逆《さか》らうことなど思いもよらない。
「はあ……。しかし、それにはかなりの人手も……」
「手当は出す。村の若《わか》いのを集めて、やってみてくれ」
「は、はい!」
白木は早《さつ》速《そく》、実行に移《うつ》った。
七人の若《わか》者《もの》たちが集まって、村の中の捜《そう》索《さく》が始まった。
しかし、物置小屋や、人の隠《かく》れていられそうな所には、文江の姿《すがた》は見当らなかった。
常石は、山道を調べるようにと言い出した。山道の途《と》中《ちゆう》で、一晩《ばん》や二晩なら、寒さをしのいでいることもできる、というのだ。
しかし、昼間はともかく、夜中や明け方の寒さは並《なみ》大《たい》抵《てい》のものではない。
そんなことはあるはずがない、と白木も思ったが、ともかく、常石の気が済《す》まないというのでは仕方なかった。
その次の日、今度は大人《おとな》たちも含《ふく》めて、十五人の村人が、山道から、そのわきへ入った一帯を調べ始めた。
しかし、これは大変な仕事である。夕方近くになって、ようやく、あの橋の辺りまでやって来た。
白木は、いい加《か》減《げん》ばて気味で、馬《ば》鹿《か》らしくなり始めていた。
いくら常石の希望でも、こんなむだなことをやっても……。
それに、村人には手当が出ているが、まさか白木が警《けい》官《かん》の身で手当をもらうわけにはいかない。白木の疲《つか》れは、それが一《いち》因《いん》でもあった。
「やれやれ……」
白木が、立ち止って息を弾《はず》ませていると、
「白木さん!」
と呼《よ》ぶ声がした。
上の方である。
「何だ!」
と怒《ど》鳴《な》り返す。
「ちょっと来て下さいよ!」
上って行くのか。——白木はため息をついた。仕方ない。
息を切らしながら、やっとの思いで上ってみると、ちょっとした草地になっている所で、三、四人が集まっていた。
「何だね?」
「これを見て下さい」
「何かを燃《も》やしたらしいな」
焼けこげた灰《はい》が、草を汚《よご》している。
燃え残ったらしい白い布《ぬの》を、白木はつまみ上げた。
「服の切れ端《はし》かな」
「ワイシャツかブラウスじゃねえのか」
と一人が言った。
「どうして分る」
「生《き》地《じ》の感じがさ」
なるほど、そう言われてみると、そんな手《て》触《ざわ》りである。
「ふーん。どうしたんだろう?」
「下にも何かあるぜ」
ともう一人が言った。
灰《はい》の下を探《さぐ》ってみると、また燃えさしの、布《ぬの》が出て来た。
そこへ来て、白木の顔がこわばった。疲《つか》れも一度に吹《ふ》っ飛んだ。
今度は少し厚《あつ》手《で》の、水色の生《き》地《じ》だったが、その半分近くまで、明らかに血と思える、赤茶けたし《ヽ》み《ヽ》が広がっていたからだ。
「——こいつは大変なことになった」
白木は布を置いて、立ち上った。「おい、誰《だれ》か、村へ戻《もど》って、駐《ちゆう》在《ざい》所《しよ》から電話をかけてくれないか」
「何事だね」
「いや……まだ分らんが、こいつは、ただごとじゃないかもしれん」
白木は、額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。その汗は、ここまで上って来た、運動のせいではなかった……。
公江は、布《ぬの》の切れ端《はし》をしばらく見ていたが、ゆっくりと首を振《ふ》って、
「何ともこれだけでは……」
と言った。
「分らんのか」
常石が、腹《はら》立《だ》たしげに言った。
「申し訳《わけ》ありません。でも、最近は、あの子、自分の着る物は勝手に買って来ていましたから」
白木が言った。
「一《いち》応《おう》警《けい》察《さつ》の調《ちよう》査《さ》では、布が燃《も》やされたのは、三、四日前、血《けつ》液《えき》は人間のものに違《ちが》いなく、血液型はAということなんですが」
常石が公江の方へ、
「文江の血液型は?」
と訊《き》いた。
「A型です」
「そうか」
「ま、A型といっても、大勢いますからね」
白木が、できるだけ軽い調子で言った。
しばらく、三人とも口をきかなかった。
「——つまり」
と、常石が言った。「文江は殺されているかもしれん、と言うんだね」
「いや……それはまあ……最悪の場合の話でして」
「物事は常《つね》に最悪を覚《かく》悟《ご》しておく必要があるのだ」
と常石は言った。
「でも、あなた、文江は家出したんですよ」
「山道で誰《だれ》かに出会ったのかもしれん」
常石は、白木を見て、「——山を調べてくれるんだろうね」
と言った。
「それはもう……。県《けん》警《けい》から人を出してくれることになっておりますし。しかし、何分広いですから、多少時間はかかるかもしれません」
「村の人たちにも手伝ってもらってくれ。何十人、何百人でもかまわん。手当はこの前の倍出す」
「はあ……」
常石の顔には、一《いつ》徹《てつ》な気《き》質《しつ》を示《しめ》す、厳《きび》しさがあった。
捜《そう》査《さ》は、焼け跡《あと》の場所を中心に、始まったが、一日目は何の収《しゆう》穫《かく》もなかった。
日が落ちて、白木が駐《ちゆう》在《ざい》所《しよ》に戻《もど》ってみると、吉成百代が、何となく落ち着かない様子で座《すわ》っていた。
「やあ、百《もも》ちゃん。何だね?」
「山の方……どうだったの?」
「うん、今日は何も出なかったよ」
「そう」
百代は肯《うなず》いて、「良かった」
と言った。
「そうだなあ。百ちゃんは文江さんとは仲《なか》良《よ》しだったものな。なまじ何《ヽ》か《ヽ》見付かりゃ、悲しいわけだ」
「きっと——町へ出て、どこかへ行ってるわ、大阪とか東京とか」
「そうだといいと思っとるよ、わしも」
白木はぐったりと椅《い》子《す》にへたり込《こ》んだ。
百代は、何やら言い出そうか、どうしようかという様子で、モジモジしていた。
「——何だね? 何か話があるんなら、言ってごらん」
「ええ」
百代は、ためらいがちに、「こんなこと……言いたくないんだけど、でも、やっぱり黙《だま》っていられなくて」
「うんうん」
と、白木は肯《うなず》いた。
「あのね——別《べつ》に私《わたし》は、はっきり見たわけじゃないの。ただ遠くからだったけど——橋の上からで——」
「橋? どの橋?」
「山の上の」
「あの橋がどうしたんだね?」
白木は、真《しん》剣《けん》になって訊《き》いた。
「はっきりしないんだけど——でも、和ちゃんと、それから包丁らしいものと——」
「和ちゃん? 坂東和也のことかね?」
「ええ」
「包丁というのは?」
「洗《あら》ってるのを見たの。それから、手《て》拭《ぬぐ》いを細かく裂《さ》いて、川へ流してた」
「手拭いを?」
「赤かったわ。でも、もとは白くて、大部分が赤く染《そま》ってたみたいで——」
「待ってくれ! そりゃ——血で、ということかね?」
「分らない。遠かったもの。でも——せっせと洗おうとして、諦《あきら》めて、裂いて流したのよ」
「いつ、見たんだね?」
少しためらって、百代は言った。
「文江がいなくなった朝よ」
翌《よく》日《じつ》、流れの下流から、裂いた手拭いの切れ端《はし》が、いくつか見つかった。流れに浸《ひた》ってはいたが、まだ血は充《じゆう》分《ぶん》にしみ込《こ》んでいて、検《けん》出《しゆつ》されたのはA型の血《けつ》液《えき》だった。
坂東和也は、白木の質《しつ》問《もん》に、確《たし》かにあの朝、あの河《か》原《わら》で包丁を洗《あら》って、手《て》拭《ぬぐ》いを裂《さ》いて流したことは認《みと》めたが、文江を殺したりしない、と言い張《は》った。
「包丁は何に使ったんだ?」
と訊《き》くと、
「用心に持ってただけです」
と答えた。
両親の話によると、雑《ざつ》貨《か》屋《や》をしているので、夜、荷物を持って、町から戻《もど》ることがよくあり、あの日も、そうだったという。
町へ行った和也は、荷物をもらうのが遅《おく》れて、町を出るのがもう夜中近くになってしまった。懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》を持って、山道を歩いていたのだが、あの橋の近くまで来たとき、懐中電灯が故《こ》障《しよう》してしまった。
真っ暗で、足を踏《ふ》み外して崖《がけ》を落ちる心配もあったので、しかたなく、朝が来るのを待っていた。
あの包丁は荷物の中にあった売り物で、包みが破《やぶ》れて外へ落ちてしまったものだ、と言った。
手《て》拭《ぬぐ》いについての説明は、大分こみ入っていた。——町で、荷物が来るのを待つ間、パチンコ屋に入って時間をつぶしていると、喧《けん》嘩《か》に出くわした。
一人が殴《なぐ》られて、ひどく鼻血を出しているのに、みんな見ているだけなので、仕方なく和也が手拭いを貸《か》してやった、というのである。
そんなに血がついていると思わず、ズボンのベルトに挟《はさ》んでおいたのだが、後で気付いて、川で洗《あら》ってみたのだと言った。
「どうして、わざわざ引き裂《さ》いて川に流したんだ?」
「だって、捨《す》てる所もないし、それこそ持って帰ったら、何と思われるか分らないし」
と、和也は肩《かた》をすくめた。
この説明には、どうにも無《む》理《り》があったが、白木でなく、県《けん》警《けい》の刑《けい》事《じ》が、もっと厳《きび》しく調べても、和也は、主《しゆ》張《ちよう》を変えなかった。
——その一方で、捜《そう》索《さく》も進められていたが、何しろ山の中全部を、くまなく捜《さが》し回るというのは、無《む》理《り》な話で、ついに、一週間後、捜索は打ち切られた。
和也に自白させて、死体を隠《かく》すか、埋《う》めた場所を言わせた方が早い、ということになったのである。
しかし、刑《けい》事《じ》の、並《なみ》の大人《おとな》でも音《ね》を上げるような厳《きび》しい追《つい》及《きゆう》にも、和也は頑《がん》張《ば》り抜《ぬ》いてしまった。
結局、二週間後には、和也は一《いつ》旦《たん》釈《しやく》放《ほう》されたのである。
警《けい》察《さつ》としては、文江が殺されている可《か》能《のう》性《せい》は高いとしても、確《かく》証《しよう》はなく、死体が見つからないのでは、たとえ逮《たい》捕《ほ》しても、起《き》訴《そ》はできないだろうという考えだった。
——和也は、村に帰って来た。
しかし、この二週間に、村はすでに和也に有《ゆう》罪《ざい》の判《はん》決《けつ》を下してしまっていたのである。
「——その一か月後でした」
と白木巡《じゆん》査《さ》が言った。「朝早く、知らせを聞いて村外れの木のところへ駆《か》けつけると、和也は首を吊《つ》っていたんです」
「本当に気の毒でした」
と、公江は言った。「私《わたし》も主人も、一度だってあの子を犯《はん》人《にん》だと責《せ》めたことはありませんよ。だって、昔《むかし》からよく知っているんですからね。文江を殺す理由なんかないじゃありませんか」
「その通りです」
と、白木は肯《うなず》いた。「しかし、村の連中一人一人の口に戸は立てられませんからな」
「結局、 ご両親も、 和也さんのお葬《そう》式《しき》を済《す》ませると、 すぐに村を出て行ってしまいましたよ」
と公江は言った。
「そう……。いつの間にか、いなくなっていたんですな。あんまり長く店が閉《しま》ってるんで、不《ふ》審《しん》に思って、私が裏《うら》から入ってみると、もう誰《だれ》もいなかった……」
「たぶん、夜の内に、山を越《こ》えて行ったんでしょう。——気持は分ります。村に火でもつけたい思いだったでしょう」
——しばらく話は途《と》切《ぎ》れた。
文江は青ざめた顔で、じっと話を聞いていたが、やがて、ゆっくりと息を吐《は》き出した。
「何も知らなかったわ。——東京へ出てしばらくは無《む》我《が》夢《む》中《ちゆう》だったもの」
「お前の責《せき》任《にん》ではありませんよ」
「でも、私さえ家を出なかったら……」
「済《す》んでしまったことよ」
と公江は静かに言った。
文江は立ち上った。
「どうしたの?」
「私の部《へ》屋《や》、どうなってるの?」
「あのときのままよ。また今日から使いなさいね」
「ええ」
文江は出て行こうとして、「いいの、一人で行かせて」
と、立ち上りかけた母を止めた。
「一人になりたいの」
「——分ったわ」
公江は、文江が出て行くと、白木の方へ向いて、
「このことを、村の人たちに知らせなくてはね」
と言った。
「大《おお》騒《さわ》ぎになるでしょうな……」
白木はため息をつきながら、言った。
文江は、襖《ふすま》を閉《と》じた。
自分の部屋だ。——七年ぶりに見る部屋は、記《き》憶《おく》の中よりは狭《せま》かった。
もちろん、片《かた》付《づ》いてはいるが、机《つくえ》も、タンスも、元のままである。
扉《とびら》や引出しを開けてみると、中もそのままになっていた。——奇《き》妙《みよう》な気分だった。
まるでタイム・マシンに乗って、七年前のあの日に帰って来たようだ。
カーテンは、同じものだが、七年間、陽《ひ》を浴びて色が褪《あ》せていた。
文江は、椅《い》子《す》に座《すわ》った。少しきしんで、苦しげな音を立てた。
——何ということだろう。
自分がいなくなった後の村で、何が起っているのか、何も知らずに、自立するのだ、と、いい気になって勝手なことをやっていた。
せめて、東京からでも、母へ、元気でいると、一本の電話を入れておけばよかったのだ……。
今ごろのこのこと帰って来て、得《とく》意《い》げに、今はデザイナーとして自立し、成功していますよ、と鼻高々で語って聞かせるつもりだったのだ。
本当に——本当に、いい気なものだ。
しかし、白木と母の話でも、分らないことがあった。
それを、文江は黙《だま》っていた。自分の胸《むね》の中だけにしまって、そして自分の力で必ず真相を明らかにしてやろう、と思った。
それは、母の疑《ぎ》問《もん》、そのもの——つまり、この部《へ》屋《や》が、散らかっていたことと、書置きがなかったという、その二つである。
母が考えたように、実《じつ》際《さい》、文江は、部屋の中をきちんと片《ヽ》付《ヽ》け《ヽ》て《ヽ》おいたのだし、書置きも、書《ヽ》い《ヽ》て《ヽ》、机《つくえ》の上に置いて行ったのだ。
自分がここを出てから、うめと母が、この部屋へ来るまでの間に、何かがあったのに違《ちが》いないのだ。
それは一体何だったのか……。
ダダダッと階《かい》段《だん》を駆《か》け上って来る足音がした。
振《ふ》り向くと同時に、襖《ふすま》がガラリと開いて、百代が、息を切らしながら、現《あらわ》れた。
「——文江!」
と、百代は言ったきり、そこにただ立っていた。
4 墓《ぼ》 地《ち》
「黙《だま》って行っちゃうなんて、ひどいよ」
と、百代が言った。
「ごめん。——だって、まず母に挨《あい》拶《さつ》してから、と思ったのよ」
文江と百代は、庭に出ていた。
「それに——」
と文江は付け加えた。「母に、もうお前のいる所はない、って追い出されるんじゃないかと思ったしね」
「まさか」
「——でも、そうされても仕方のないようなことをして来たんだものね」
文江は、微《ほほ》笑《え》んで、「あなた、誰《だれ》と結《けつ》婚《こん》したの?」
「杉《すぎ》山《やま》っていうのよ、今は。——文江、知らないでしょ。学校の先生なの。二十歳《さい》のときかな、私《わたし》、小学校の事《じ》務《む》に勤《つと》めてて、そのときに……」
「そう。子《こ》供《ども》は一人?」
「二人。下はまだ赤ん坊《ぼう》よ」
「すっかりお母さんね」
「太っちゃって、いやになるわ」
と、百代はポンとお腹《なか》を叩《たた》いた。「——文江は若《わか》いわ。そのスタイル、服《ふく》装《そう》、凄《すご》いじゃない!」
「だって、デザイナーなのよ。デザイナーが変な格《かつ》好《こう》できないでしょ」
「花形ね。高級マンションに住んで、外国のスポーツカー乗り回して、男と恋《こい》を楽しんで……」
「TVドラマの見《み》過《す》ぎよ」
と、文江は笑《わら》った。「本当は忙《いそが》しくて、恋人と会う暇《ひま》もないわ」
「恋人、いるの?」
「一《いち》応《おう》ね。でも——結《けつ》婚《こん》しないと思うけど」
「やっぱりTVドラマだ!」
「私のマンションは、2DKのちっちゃなものよ。それも外国の雑《ざつ》誌《し》やら、スケッチが至《いた》るところに積んであって……」
「でも、面《おも》白《しろ》いでしょうね」
「色々と疲《つか》れることも多いわ。まあ、何とか食べてはいける程《てい》度《ど》に稼《かせ》いでるけど」
二人とも、一番肝《かん》心《じん》の話には触《ふ》れていなかった。
話さなくてはならないが、しかし、最後に回したいのだ……。
「子供さんは?」
「亭《てい》主《しゆ》がみてるからいいの。今日は早い日だったから。——文江のこと、すぐに後で分ったんだけど、子供かかえて、追いかけても行けないでしょ。だから、亭主の帰るのを待って、パッと押《お》し付けて来たの」
「とんだ災《さい》難《なん》ね」
と、文江は笑《わら》った。
何となく、二人は黙《だま》った……。
「文江」
「ん?」
「聞いた?」
「うん。——白木さんもいたから、すっかり」
「そうか……」
百代は首を振《ふ》った。「今でも毎日考えるのよ。あのとき、私《わたし》があんな話をしなかったらって……」
「あなたのせいじゃないわよ。——話したのは当り前だわ」
「そう? でも、そのせいで、和也君は死んじゃったわ」
「百代は、別に和也君が犯《はん》人《にん》だと言ったわけじゃないんだし……」
「同じことよ」
「もとはと言えば、私の責《せき》任《にん》よ。もちろん、そんなことになるなんて、思いもしなかったけど……。でも現《げん》実《じつ》にそうなってしまったんだもの」
「もう取り返しはつかないものね」
「そう……。ね、百代、和也君のご両親がどこへ行ったか、何か耳にしてない?」
なぜか、百代は一《いつ》瞬《しゆん》、ためらったようだった。
「分らないわ、全然。——誰《だれ》も知らない内にいなくなっちゃったんだもの」
「そう……」
「私、あそこの隣《となり》にいるのなんて、いやなのよ。いつも和也君のこと、思い出して。でも、今の家が安かったし、あの雑《ざつ》貨《か》屋《や》は取り壊《こわ》してくれるって話だったの。それが、いつまでたっても……。また当分、悩《なや》まされそうね」
文江はちょっと間を置いて、
「ね、和也君のお墓《はか》知ってる?」
「ええ。毎年、命日にはいくのよ」
「そう。じゃ、連れて行って」
「今?」
「そう。せめて、お詫《わ》びだけでもね」
「いいわ、行きましょう」
と、百代は肯《うなず》いた。
合《がつ》掌《しよう》していた文江は、しばらくしてから、ゆっくりと顔を上げた。
後ろに足音がして、振《ふ》り向くと母が立っていた。
「このお墓《はか》は、私《わたし》が立ててあげたのよ」
と、公江は言った。「せめて、と思ってね。——今となっては、本当に良かったと思ってるわ」
「和也君は、もう戻《もど》らないわ」
「それはそうよ。でも、お前が自分を責《せ》めることはないわ。人の力ではどうにもならないことがあるものなのよ」
「そうね……」
と、文江は肯いた。
「あの——」
と、少し退《さ》がっていた百代が、やって来て言った。「そろそろ帰らないと、子《こ》供《ども》のことが——」
「そうね。ごめんなさい。私は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。またゆっくりね」
「うん。——しばらくはいるの?」
「そのつもりよ。電話するわ」
「そうして。主人にも紹《しよう》介《かい》したいし」
百代は、急ぎ足で帰って行った。
「——ああやって、毎日の生活の中に、過《か》去《こ》の傷《きず》が埋《うも》れて行くのよ」
と、公江が言った。
「私の傷は深すぎるわ」
と、文江は言った。
「文江」
「なあに?」
「東京へお戻《もど》り」
文江は、ちょっと目を見開いて、
「どうして?」
と訊《き》いた。
「ここにいても、いいことはないよ」
「娘《むすめ》を、そうすぐに追い返さなくてもいいじゃないの」
「ごまかさないの。お前が何か思いつめてることぐらい、分りますよ」
「そう?」
「そうよ。七年前も、お前はそんな顔をしてたわ」
「それなら分ってるでしょう。私《わたし》の気持は変らないことぐらい」
文江は墓《はか》を見つめながら、言った。
「何をする気なの?」
「本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》何が起ったのか、はっきりさせたいのよ」
「七年も前のことよ。——それでどうなるっていうの?」
「お母《かあ》さん」
文江は微《ほほ》笑《え》んで言った。「——無《む》茶《ちや》はしないわ。私に任《まか》せて。もう子供じゃないのよ」
公江は、ため息をついて、言った。
「子供じゃないから心配なのよ」
「一人にして。少し考えることがあるんだから」
「分ったわ。——もうすぐ暗くなるわ。その前に帰りなさい」
「そうするわ」
公江が帰って行く。
文江は一人、残って、墓《はか》の前に立っていた。
文江の頭《ず》脳《のう》は、ここで育った頃《ころ》より、ずっとドライに、実《じつ》務《む》的になっている。——そういう点、母は理《り》解《かい》していないのだ。
東京で、女一人、競争の激《はげ》しい社会に飛び込《こ》んでやって行こうと思えば、ともかく、感《かん》傷《しよう》は二の次である。
まず計算ができ、そして行動できなくてはどうにもならない。
母が言った通り、一《いつ》旦《たん》東京へ帰る必要がある、と文江は思った。
この事《じ》件《けん》を洗《あら》い直して、真相を見つけるには、何か月かはかかるだろう。その間、東京での仕事はキャンセルしておかなくてはならない。
今度の帰《き》郷《きよう》では、一週間しか休みを取って来ていないのだ。
幸い、今、文江は仕事を多少キャンセルしても、後で仕事がなくなることはない。文江は割《わり》合《あい》に売れているデザイナーだし、それに、今までキャンセルしたことがないので、信用がある。
一度だけのキャンセルなら、向うも快《こころよ》く承《しよう》知《ち》してくれるだろう。
それに、東京へ戻《もど》らなくては、この地方の七年前の新聞など、どこへ行っても、見られまい。もちろん新聞社へ行くという手もあるが、今さら新聞種になるのも、ごめんだった。
まず、新聞で、分るだけのことを調べ、それから、県《けん》警《けい》で、和也のことを調べた記録が見られるように、何とか手を打つ。
そう。——それにもう一つ、和也の両親の行方《ゆくえ》が気になっていた。
夜中に黙《だま》って出て行ったというが、その思いを、何としても、晴らしてやりたい。
それは、警《けい》察《さつ》で調べればすぐに分るだろうが、できることなら、警察の手を借りずに自分で調べたかった。
墓《ぼ》地《ち》を出て、文江は、ゆっくりと家へ戻《もど》って行った。
畑の中の道を歩いて行くと、ブルル、という音が後ろから近付いて来た。
振《ふ》り向くと、婦《ふ》人《じん》用《よう》のミニ・バイクに、中年の男がまたがってやって来る。
「どいて!」
と男が叫《さけ》んだ。「そこを、どいて下さい!」
文江があわててわきへよけると、バイクは目の前を通り過《す》ぎ——ようとして、みごとに引っくり返った。
その格《かつ》好《こう》がおかしくて、文江は、つい笑《わら》ってしまった。
「いや——参った!」
背《せ》広《びろ》姿《すがた》の男は立ち上ると、ズボンや上《うわ》衣《ぎ》の汚《よご》れを手で払《はら》って、「急ぐからと思って乗って来たのに、これだ!」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
とまだ笑《わら》いを残して、文江は訊《き》いた。
「ええ。——しかし、乗りにくいものですな、これは」
「後ろに泥《どろ》が」
「え?——ああ、こりゃどうも」
文江は、ハンカチを出して、背広の背中についた泥を拭《ふ》いてやった。
「いや、申し訳《わけ》ありません」
と男は礼を言って、バイクを起こすと、
「では、急ぎますので」
と一礼して、またバイクを始動させ、またがって、走り出した。
「何だか頼《たよ》りないわね」
と、呟《つぶや》いて、文江は首を振《ふ》った。
誰《だれ》だろう?——見たことのない顔だった。
もちろん、七年の間には、村の顔ぶれも、多少、変っていよう。
文江は、また歩き出した。
ずっと先の方で、今の男が、またバイクごと引っくり返るのが見えた。
「——今夜、東京へ戻《もど》るわ」
と、夕食の席で、文江は言った。
「何ですって?」
と、うめが目を丸《まる》くした。「今日、おいでになったばかりですよ!」
「そう。でも、早い方がいいの」
「そんなこと——」
「うめ」
と、公江が抑《おさ》えて、「好《す》きにさせてやりなさい」
と言った。
「最後の列車が一時間後ね。それに乗るわ」
「気を付けてね」
「ええ」
文江は手早く食事を終えて、立ち上った。
「ごちそうさま。——久《ひさ》しぶりで、おいしかったわ」
「さようでございますか」
うめが、ふくれっつらで言った。
「じゃ、仕《し》度《たく》するわ」
文江は部《へ》屋《や》へと上って行った。
「——奥《おく》様《さま》」
とうめが言った。「どうしてお止めにならないんです?」
「止めて聞く子じゃないでしょ」
と、公江は言った。「それに、もう二十六なのよ」
「でも、今度こそ、お帰りにならなかったら——」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。帰って来るわよ、あの子は」
公江は、自信ありげに言った。「お茶をおくれ」
「はい」
うめは、どうにも不満顔であった。
5 疑《ぎ》 惑《わく》
「お帰り」
と、草《くさ》永《なが》達《たつ》也《や》がグラスを上げた。
「どうも」
文江は、あまり気のない返事をした。
「どうしたんだ? あんまり嬉《うれ》しそうじゃないね」
と草永は言った。
「どうして嬉しくなきゃいけないの?」
「ご挨《あい》拶《さつ》だな。恋《こい》人《びと》と別《わか》れてるのが寂《さび》しくて、たった二日で帰って来たんだろ?」
文江は、ちょっと笑《わら》った。
「相変らずね」
「変りっこないじゃないか、前に会ってから、四日しかたってない」
「ずいぶんたったような気がするわ」
と、文江は言った。
銀《ぎん》座《ざ》の地下のレストランだ。小さな店だが、草永の会社が近いので、よくここで待ち合せる。
草永達也は、広告会社に勤《つと》めている。
といって、夜も昼もなく飛び回るエリートというわけでなく、至《いた》って呑《のん》気《き》な、庶《しよ》務《む》の人間だった。
さほど二《に》枚《まい》目《め》でもないが、おっとりした人《ひと》柄《がら》の良さが、競争の社会で疲《つか》れている文江にとって、救いのように感じられる。
あまり付き合ってスリルのある相手ではないが、何でも打ちあけて話せる男だった。
「僕《ぼく》も、君がいない間は寂《さび》しかったよ」
「意味が違《ちが》うのよ」
と、文江は言った。
「まあそうがっくりするな。仕方ないじゃないか。七年間、生死不明だったんだ。その内に、お母《かあ》さんの怒《いか》りも解《と》けるよ」
「違うのよ。そんなことなら、こう深《しん》刻《こく》になりゃしないわ」
「へえ。何事だい、一体?」
「とんでもないことになったのよ」
「もう君に亭《てい》主《しゆ》がいたとか?」
「まさか」
と、文江は苦《く》笑《しよう》した。
食事をしながら、文江は一部始終を話して聞かせた。
「そいつは辛《つら》いね」
と、草永は言った。
「そう。——いやになっちゃうの、分るでしょ?」
「うん。しかし……」
「私《わたし》、必ず、真相を暴《あば》いてやるわ」
「つまり、君の部《へ》屋《や》が荒《あら》されていたことと——」