「書き置きが消えていたことよ」
「それに、その男——和也といったっけ? 彼《かれ》の言うこともおかしいね」
「どうして?」
「包丁の話、手《て》拭《ぬぐ》いの話、どれも本当とは思えないよ」
「そうねえ……」
「彼には彼で、何か、隠《かく》していることがあったんだ。——例の焼いた跡《あと》のことだって、彼の話じゃ解《かい》決《けつ》できないじゃないか」
「それもそうね」
「彼はやっぱり、何《ヽ》か《ヽ》やったんだと思うね、僕《ぼく》は」
「何を?」
「誰《だれ》かを殺して、埋《う》めたのさ」
「まさか!」
「他に考えられるかい? 起《き》訴《そ》するには死体が見つからないと無《む》理《り》だけど、状《じよう》況《きよう》証《しよう》拠《こ》は充《じゆう》分《ぶん》だよ」
「でも、誰を?」
「そりゃ分らないさ」
「行方《ゆくえ》不明になれば、誰かが届《とど》け出るでしょう」
「どうかな」
「だって——」
「考えてみろよ」
と、草永は言った。「君だって、通りすがりの車に乗って東京へ出て来た。どこかの女の子が、町から山道へ迷《まよ》い込《こ》んで、困《こま》っている。そこへその、和也が通りかかって、村まで案内しよう、と言い出す」
「それで?」
「途《と》中《ちゆう》、色々話をするだろう。女の子は家出して来たと分る。しかも、かなり遠くから来ている。——暗い山中で、二人きりだ。和也が、妙《みよう》な気を起こしてもおかしくない」
「やめてよ。幼《おさ》ななじみなのよ」
「だが君は女で、僕《ぼく》は男だ。男のことは、僕の方が良く分る。十九歳《さい》は、体が大人《おとな》で、まだそれを制《せい》御《ぎよ》し切れない年《ねん》齢《れい》だよ」
「でも殺すなんて……」
「殺す気だったのかどうかね。乱《らん》暴《ぼう》するだけのつもりだったかもしれない。でも女の子の方が、大人《おとな》しくしていなかった。隙《すき》を見て彼の荷の中にあった包丁をつかんで——」
「逆《ぎやく》に刺《さ》された……」
「ほんのはずみだったかもしれないよ」
文江は、じっと草永を眺《なが》めて、
「見て来たようなことを言うのね」
「可《か》能《のう》性《せい》さ。——ともかく、何かあったことは確《たし》かだと思うね」
草永はそう言って食事を続けた。
「あなたって、割《わり》合《あい》に鋭《するど》いのね」
「割合に、はないぜ」
と、草永は言った。「——本当に、やるのか?」
「事《じ》件《けん》のこと? そうよ」
「やめといた方がいいと思うけど……。まあ言ってもむだだろうね」
「むだよ」
と文江は言った。「考えてみてよ。人一人、私《わたし》のために死んでいるのよ」
「うん、分る」
と、草永は言った。「ワイン一本分には充《じゆう》分《ぶん》相当するよ」
「同感だわ」
文江はワインのグラスをぐいっとあけた……。
「——今夜は帰るの?」
と、文江はベッドの中から言った。
「いや、泊《とま》ってもいい。でも君の気持次《し》第《だい》だな」
「そう」
文江は裸《はだか》の腕《うで》をのばして、草永を抱《だ》き寄《よ》せた。「——私はあなた次第よ」
二人の唇《くちびる》が絡《から》むように触《ふ》れ合う。
そこへ、チャイムが鳴った。
「——誰《だれ》だい?」
「さあ、分らないわ。もう十一時ね。——こんな時間に……」
「出てみろよ。何か着てね」
「当り前でしょ」
と、文江は言って、ベッドから出ると、裸《ら》身《しん》にガウンをまとった。
インタホンで、
「どなた?」
と声をかける。
「警《けい》察《さつ》の者です」
と、返事があった。
文江は、草永の方へ肩《かた》をすくめて見せ、玄《げん》関《かん》へ出て行った。
チェーンをしたまま、細く開けてみる。
「ええと……常石文江さんですか」
「はあ」
「実はちょっとお話が……」
どこかで聞いた声だ、と思って、文江は首をかしげた。
ともかく中へ入れる。
「夜分、申し訳《わけ》ありません」
居《い》間《ま》へ入って、明るい光の下に立つと、やっと分った。
「ああ、あの、バイクでひっくり返ってた方ですね!」
「え?——じゃ、あなたが、あのときの……」
男は照れくさそうに頭をかいた。
「——じゃ、県《けん》警《けい》の刑《けい》事《じ》さんなんですか」
と、草永の淹《い》れてくれたコーヒーを飲みながら、文江は言った。
「はあ。室《むろ》田《た》といいます」
刑《けい》事《じ》はそう言って、「いや、てっきりお一人と思ったので……。お邪《じや》魔《ま》をして申し訳ありませんね」
「いや、いいんですよ」
と、草永が気楽に言った。「朝までは長いですからね」
「いや、お若《わか》い方々は羨《うらやま》しい」
と、室田刑事は言った。
「で、どういうご用でおいでになったんでしょう?」
「あなたが行方《ゆくえ》不明になって、坂東和也という若《わか》者《もの》が捕《つか》まった。——ご存《ぞん》知《じ》ですね?」
「はい。母から昨日、初めて聞きましたわ」
「そのとき、彼《かれ》を調べたのが、私だったのですよ」
「まあ」
「もちろん私一人ではありません」
と、室田刑事は続けた。「何人かの同《どう》僚《りよう》は、彼がクロに違《ちが》いない、と言っていました。しかし、私はシロだと思っていたのです」
「そうでしたか」
「結局、彼の自殺で、たぶんクロだったのだろう、ということになって、それきり終ってしまったのですが、ずっと気になっていたのです」
「そこへ私《わたし》が帰ったので……」
「ええ、それを聞いて、駆《か》けつけたんです。ところが、あなたはもういらっしゃらなくて」
「それはすみませんでした」
「いや、あのときに気が付いても良かったんですよ」
と室田刑《けい》事《じ》は、ちょっと照れたように笑《わら》った。
「——で、私に何のお話だったんでしょうか?」
「あなたが、どうやって村を出られたのか、うかがいたかったのです」
「それは——」
文江は、母に話した説明をくり返した。
「すると山の方へは行かなかったんですね」
「ええ。行きかけて、車が来たので、やめたんです」
「山道を行けば、途《と》中《ちゆう》で、坂東和也に会っていたでしょうね」
そう言われて、文江は、ちょっとハッとした。
「そうですね。考えてもみませんでした」
「実は、私にも、あの和也という若《わか》者《もの》の言うことは信用できないんですよ。しかし、あなたを殺してはいない。——そうなると、あの若者は、なぜ、あんなでたらめを言ったのでしょう?」
文江は、ちょっと草永の方を見た。
「——分りませんわ」
「ともかく、彼には、隠《かく》したいことがあったのです」
「それは分ります」
「しかし、そのおかげで、彼は殺人の容《よう》疑《ぎ》をかけられている。——それほどまでにして、隠していた秘《ひ》密《みつ》は何だったのでしょう?」
「別の殺人だったのじゃありませんか?」
と、草永が言った。
「鋭《するど》いですな」
と、室田刑事が肯《うなず》く。「私もそう考えました。しかし、あの夜、確《たし》かに、彼は、町から出て山道を村に回っています。途中、誰《だれ》か女と会って、殺したとして、その死体をどこかへ埋《う》める——近くではないのですよ。あの辺一帯を捜《さが》したのですからね。そして、服を焼く。それだけのことをやる時間が、あったでしょうか?」
「なるほど」
「しかも、まだ暗い中でです。そして、包丁と手《て》拭《ぬぐ》いの件《けん》……。埋《う》めるなら、なぜそれも一《いつ》緒《しよ》に埋めてしまわなかったのか?」
「分りませんわ」
と文江は首を振《ふ》った。
「つまりですね、彼は殺したかのような痕《こん》跡《せき》を、作っていたのではないか、と私は思っているのですよ」
と、室田刑《けい》事《じ》は言った。
6 死の恐《きよう》怖《ふ》
「ええ、そんなわけで……。本当に申し訳《わけ》ありません。二度とこんなことはいたしませんので。——はい、一か月で戻《もど》ります。それで大変に図《ずう》々《ずう》しいお願いなんですけど、戻りましたら……。——そうですか! 本当に助かります、そうしていただけると!——はい。すぐにご連《れん》絡《らく》を取りますので。——よろしく……」
電話を切って、常石文江は息をついた。
手帳をめくって、
「これでもう落とした所はないかしら……」
と呟《つぶや》く。「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だわ、全部連絡した!」
「あんまり張《は》り切ると、老《ふ》けるぜ」
と、草永達也が言った。
「ドキッとするようなこと言わないでよ」
「本当さ。若《わか》いからって無《む》理《り》しない方がいいよ」
文江のマンションである。
そろそろ昼、正午になろうとしていた。文江は、Tシャツにジーンズの軽《けい》装《そう》で、ソファに寝《ね》転《ころ》がって、電話をかけていたのだ。
ちょっと、ファッション・デザイナーには見えないスタイルだった。
草永は、ワイシャツにネクタイのスタイルで、そろそろ出社しようか、というところ。半日休《きゆう》暇《か》が取れるので、朝、ベッドの中で会社へ連《れん》絡《らく》し、その後、文江と少々運《ヽ》動《ヽ》をしてひと眠《ねむ》りしたのである。
「どうせ一時までに行けばいいんでしょ? 一《いつ》緒《しよ》にお昼を食べましょうよ?」
と、文江はソファからはね起きた。
「いいよ。この下で食べる?」
「この格《かつ》好《こう》で通用するのはあそこぐらいね」
マンションの一階に入っている、ちょっとしたキッチンだ。独《ひと》り暮《ぐら》しで、つい外食が多くなる文江には、ありがたい店だった。
「今日もいいお天気ね」
ベランダのカーテンを開けて、文江は伸《の》びをした。
「これからの行動予定は?」
と、草永が上《うわ》衣《ぎ》を着ながら言った。
「これから考えるのよ。一か月、時間ができたんだもの」
布《ぬの》のバッグを手にして、文江は草永と一《いつ》緒《しよ》に部《へ》屋《や》を出た。ここは五階である。
「——でも、凄《すご》いでしょ。私との契《けい》約《やく》、断《ことわ》りたいって人、いなかったわ」
「美人は得《とく》だ」
「あら、それじゃ私に才《さい》能《のう》がないみたいじゃないの」
エレベーターに乗って、文江は笑《わら》いながら言った。
一階に着いて、車《くるま》寄《よ》せの下を曲って、店のドアを押《お》す。
「やあ、おはよう」
コロコロと太って、いかにも料理人という感じのマスターが、文江に笑《わら》いかけた。
「おじさん、何か作って。任《まか》せるから」
カウンターだけの小さな店である。他《ほか》に客はなかった。十二時に十分ほどある。
「OK。昼休みになる前に、スパゲッティがゆで上るよ」
「それでいいわ。この人にもね」
「了《りよう》解《かい》。——まだ結《けつ》婚《こん》せんのかね?」
と、手早くスパゲッティにかかりながら、マスターが訊《き》く。
「彼女《かのじよ》がその気になってくれなくてね」
草永は言って、ポケットを探《さぐ》った。「おっと、いけない。禁《きん》煙《えん》中《ちゆう》なんだ、忘《わす》れてた」
「何だ、また禁煙してるのかい」
とマスターがからかった。「——文ちゃんは、田舎《いなか》へ帰ったんじゃなかったのか?」
「一《いち》応《おう》はね。ちょっと思うところあって、引き返して来たのよ」
「さては見合の相手を押《お》し付けられたな? 図星だろう」
「ご想《そう》像《ぞう》にお任《まか》せします」
と、文江は言って、水を飲んだ。「コーヒーもお願いね」
「分ってるさ。——なあ、文ちゃん、さっきあんたのことを訊《き》きに来た男がいたぜ」
「私のこと?」
「ああ。身《み》許《もと》調《ちよう》査《さ》じゃないのかい、縁《えん》談《だん》の、さ」
「そんな話、ないわ、本当よ」
「へえ。じゃ、一体何なのかな」
文江は、草永と、ちょっと顔を見合わせた。
「——で、おじさん、何て訊かれたの?」
「いや、あんたの写真見せてさ、この女《じよ》性《せい》を知ってるかって。このマンションにいるはずだけど、見たことないかって訊《き》いてたよ」
草永が、
「どんな男?」
と、口を挟《はさ》んだ。
「さて……。中《ちゆう》肉《にく》中《ちゆう》背《ぜい》ってやつかな。あんまり目立たない奴《やつ》だったよ。グレーのコートを着てね」
「で、何て返事したの?」
と文江は言った。
「開店したばっかりなんで、よく分らねえ、と言ったよ。理由はどうでも、人のことをかぎ回ったりするのは好《す》きになれないからね」
「おじさんらしいわ」
文江は笑《わら》った。
しかし、一体誰《だれ》なのだろう?——文江には心当りがまるでなかった。
スパゲッティを食べ始めると、十二時になって、昼食に出て来た近所のサラリーマンやOLたちで店はたちまち満席になる。
マスターは一人で料理から会計、注文取りまで大《おお》忙《いそが》しである。しかし、額《ひたい》に汗《あせ》を光らせて駆《か》け回っているときが、このマスター、一番楽しそうなのである。
「——誰なんだろう」
コーヒーを飲みながら、草永が少し大きな声で言った。店の中が、ぐっとやかましくなっているのである。
「分らないわ。あんまりいい気分じゃないわね」
「気を付けろよ」
と草永が言った。
「あら、何に?」
「分らないが……。ともかく色んなことに、さ」
「まず男《だん》性《せい》に注意、ね」
文江は冗《じよう》談《だん》めかして言ったが、草永は笑《わら》わなかった。
「いいか、まあその男は関係ないかもしれないが、君は七年前の出《で》来《き》事《ごと》をほじくり返そうとしてるんだ。それは必ず何か波《は》乱《らん》を起す。——充《じゆう》分《ぶん》用心した方がいい」
草永が、こんな風に、真《しん》剣《けん》にものを言うのは珍《めずら》しい。いや、いつも軽《けい》薄《はく》というわけではないのだが、人に忠《ちゆう》告《こく》したりする柄《がら》ではないのである。
「分ったわ」
文江は、真顔で肯《うなず》いた。
草永が、しつこく、やめろと言わないことが、ありがたかった。——文江は、やり抜《ぬ》くと決めたことは、途《と》中《ちゆう》で投げ出さない。
元来、そういう性《せい》格《かく》でもあったのが、七年間の生活で、一《いつ》層《そう》拍《はく》車《しや》がかかった。苦しくなることは何度もあったが、結局投げ出さないことで、それを乗り切ったのである。
今となっては、その信《しん》条《じよう》を変えろと言われても不《ふ》可《か》能《のう》だった。
マンションの玄《げん》関《かん》の所で、草永と別れた。少し歩いて、振《ふ》り返った草永に、もう一度手を振った。
ふと、まるで新《しん》婚《こん》家庭の朝みたいだわ、と思った。出《しゆつ》勤《きん》していく夫と、見送っている新《にい》妻《づま》と……。
だが、決してそんなことにはならないだろう、と文江には分っていた。
自分が選んだ生き方は、そんなものではない。——あの、百代のような、ごく当り前の妻や母の姿《すがた》に憧《あこが》れる気持は、文江の中にはなかった。
後になって、いつか何十年かたって、それを後《こう》悔《かい》することがあるかもしれないが、それでも構《かま》わない。ともかく、文江は自分をごまかして生きることのできない人間なのである……。
マンションへ入って、エレベーターの方へ歩いて行く。——草永が言ったことは、胸《むね》の中に、小さな魚の骨《ほね》のように、ひっかかっていた。
確《たし》かに、自分は無《む》用《よう》な波《は》乱《らん》を、あの静かで平和な田《でん》村に引き起こそうとしているのかもしれない。今さら、何をしたところで、坂東和也は生き返っては来ないし、七年前の事《じ》件《けん》の真《しん》相《そう》を明らかにすることは不《ふ》可《か》能《のう》かもしれない。
しかし、自分のせいで——総《すべ》てが自分の責《せき》任《にん》とは言えないにせよ——一人の人間が死んだという事実は、何十年を経《へ》ても消えるものではないのである。
エレベーターに乗って、五階のボタンを押《お》す。
「ともかく、やるしかないんだわ」
と口に出して言った。
一か月、仕事はストップした。一《いち》応《おう》、いくらかの貯《たくわ》えもある。その全部を費やしても、充《じゆう》分《ぶん》かどうか……。
しかし、もう石は坂を転り始めた。誰《だれ》もそれを止めることはできないのだ。
あの室田という刑《けい》事《じ》が和也の両親の居《い》所《どころ》を捜《さが》してくれることになっていた。事《じ》件《けん》に直《ちよく》接《せつ》関係あるかどうか分らないが、ともかく坂東夫《ふう》婦《ふ》に会うべきだ、と文江は思っていた。
五階でエレベーターを降《お》り、〈503〉のドアを開ける。ふと、風が抜《ぬ》けて通った。
おかしい、と思った。
ドアを開けても、窓《まど》が開いていなければ、風は抜《ぬ》けて行かない。窓や、ベランダに出るガラス戸は、全部、閉《しま》っているはずだ。
居《い》間《ま》へ入って、中を見回す。——別《べつ》段《だん》、変りはないように見えた。
電話が鳴り出して、ギクリとした。気のせいだろうか、さっきの風は?
電話が鳴り続ける。ともかく、出ることにした。
「常石です」
「やあ、室田ですよ」
「あ、昨《さく》晩《ばん》はどうも」
と、文江はホッとした気分で言った。
「お邪《じや》魔《ま》してすみませんでしたね」
「いいえ、構《かま》わないんです」
「実は、県《けん》警《けい》の方で急に用が出来まして、戻《もど》らねばならないんです。それで申し訳《わけ》ないのですが——」
「何か分ったことでも?」
「例の坂東和也の両親ですが、東京へ出て来ているようですよ」
「まあ、東京へ?」
「今、詳《くわ》しいことを調べてもらっています。分り次《し》第《だい》そちらへ連《れん》絡《らく》させるようにしましょう」
「お願いします。すぐに行ってみますわ」
「一、二時間の内に電話が行くと思いますが、私《わたし》が行けなくて申し訳《わけ》も——」
突《とつ》然《ぜん》、背《はい》後《ご》からのびて来た手が、電話のフックを叩《たた》きつけるように押《お》した。ハッとする間もなく、電話のコードが、鞭《むち》のように、蛇《へび》のように、文江の首に巻《ま》きついた。
「あ——」
声が短く切れた。コードが首に食い込《こ》む。
文江は、息ができなくなって、目の前が暗くなるような気がした。
「動くな」
耳もとに、男の声が囁《ささや》いた。「動くと、強く絞《し》めるぞ」
文江は、身《み》震《ぶる》いした。
「——よく聞けよ」
と声は続いた。「もうやめるんだ。余《よ》計《けい》なことに首をつっこむな。——分ったか?」
文江は、意《い》識《しき》が薄《うす》れて行くのを感じた。このまま、死ぬのか、と思った。
「昔《むかし》のことをつついて回っても、ろくなことはない。——分ったか?」
男の声が、遠くへと吸《す》い込《こ》まれて行くようだ。
「今度は命がないぞ。お前だけじゃない。誰《だれ》も彼《かれ》もが、死ぬぞ」
——不意に、コードが緩《ゆる》んで、受話器が床《ゆか》まで落ち、はね返って、宙《ちゆう》に揺《ゆ》れた。
文江は床に崩《くず》れて、うずくまった。
誰かが居《い》間《ま》を出て行き、玄《げん》関《かん》のドアが閉《し》まる音が、ずっと遠くで聞こえた。——文江は、何度も喘《あえ》いだ。
床に寝《ね》転《ころ》がって、じっと動かなかった。
息をするのも、苦しい。喉《のど》が痛んで、そっと手で触《さわ》ると、皮が破《やぶ》れて、少し血がにじんでいるらしかった。
何が起ったのか、考える余《よ》裕《ゆう》もなく、ただ横になって、時が過《す》ぎるのを待った。
どれくらい時間がたったのか、文江はゆっくりと起き上ると、ぶら下っている受話器を、フックに戻《もど》した。
殺されかけたのだ。やっと、その恐《きよう》怖《ふ》が実感された。
受話器を取って、ダイヤルを回そうとしたが、手が細かく震《ふる》えて、何度もかけそこなってしまった。
「もしもし——」
声が、びっくりするほどしゃがれていて、二、三度言い直さなくてはならなかった。
「庶《しよ》務《む》の草永さんを……」
時計の方へ目をやると、もう一時四十分である。一時間近く、動けなかったことになる。
「草永ですね? ちょっとお待ち下さい」
女《じよ》性《せい》の声がした。
文江は、自分がどうして草永に電話しているのか、分らなかった。電話して、どうするというのか?
助けて、と叫《さけ》ぶか、それとも泣《な》くか。——文江には分らなかった。
「お待たせしました」
と、草永の声がした。「もしもし、どちら様ですか?」
文江は、じっと草永の声を聞いていた。
「もしもし?——もしもし。——どなたですか?」
文江は、そっと受話器を戻《もど》した。電話が、チーンと音を立てた。
7 孤《こ》独《どく》の夫《ふう》婦《ふ》
シャワーを浴び、鏡を見ながら、首《くび》筋《すじ》の傷《きず》の手当をする。
思ったほどの傷ではなく、ほとんどそれと分らないほどで、ホッとした。
服を着て、熱いコーヒーを淹《い》れ、ソファで一《いつ》杯《ぱい》飲むと、大分気持が落ち着いて来た。——とはいえ、恐《きよう》怖《ふ》はまだ肌《はだ》にまとわりついていたが。
文江は考え込《こ》んだ。あの男が何者か、捜《さが》す手がかりは何もない。
顔は見ていないのだし、声も、耳もとで囁《ささや》かれたのでは、どんな声やら見当がつかない。
確《たし》かなことは、あの男が言った、
「余《よ》計《けい》なこと」
というのが、今度の田《でん》村での一《いつ》件《けん》であることだ。
しかし、それにしても、草永の警《けい》告《こく》が、こんなに早く事実になるとは……。
殺されかけたのだ。しかし、なぜだろう? 一体、自分が何を知っているというのか。
まだ、実《じつ》際《さい》に、何一つ捜《そう》査《さ》にも取りかかっていないのに、あんな風に向うから出向いて来るというのは、よほど彼女《かのじよ》の動きに神《しん》経《けい》を尖《とが》らせているせいだろう。
だが、文江が田《でん》村へ戻《もど》り、真相を探《さぐ》る決心をして、まだごくわずかの時間しかたっていない。その間に、一体誰《だれ》が、文江のことを知ったのか。
大体、このマンションの場所さえ、文江は母にも言って来なかったくらいだ。
それなのに、あ《ヽ》の《ヽ》男《ヽ》は、やって来て、留《る》守《す》中《ちゆう》のこの部《へ》屋《や》へ忍《しの》び込《こ》み、彼女を待ちうけていた……。
「どうなってるの?」
と、文江は口に出して呟《つぶや》いた。
何でも、つい口に出してしまうのが、長い独《ひと》り暮《ぐら》しから来る癖《くせ》であった。
電話が鳴って、文江はちょっとギクリとした。また後ろから首を絞《し》められそうな気がして、あわてて振《ふ》り向きながら、手をのばした。
「はい、常石です」
「やあ、室田です」
「あ、刑《けい》事《じ》さん」
「さっきは、電話が途《と》中《ちゆう》で——」
「ああ、すみませんでした。ちょっと、客があって」
「実は、坂東和也の両親の居《い》所《どころ》が分りましたのでね」
「まあ、どこですの?」
「渋《しぶ》谷《や》の方のアパートなんです。電話がないので、連《れん》絡《らく》がつけられません」
「行ってみますわ。場所を教えて下さいますか」
「それじゃ、私《わたし》も行きます。待ち合せましょう」
「でも、田《でん》村の方で、何かご用とか——」
「ああ、構《かま》わんのですよ」
と、室田は気楽に言った。「電話して、一日、警《けい》視《し》庁《ちよう》を見学したいと言っておきましたから」
何となくユーモアのある男だ。文江はつい笑《え》顔《がお》になった。
「じゃ、すぐに仕《し》度《たく》しますわ」
「お願いします。ではハチ公の前で。——どうもアベックばかりで、気がひけますが」
「そんなこと……。では後一時間ほどしたら参ります」
「結《けつ》構《こう》です。では」
室田は、いささか馬《ば》鹿《か》丁《てい》寧《ねい》に言った。
坂東和也の両親。——ともかく、第一歩は順調に踏《ふ》み出せそうだ。
いや、そうでもないか。文江は、そっと首に手をやって、思った。
ハチ公の像《ぞう》の周囲は、相変らず人で溢《あふ》れている。
文江が歩いて行くと、室田の方から、見つけてやって来た。
「ここから歩いて十五分ということです。行ってみましょうか」
と室田は言った。
「ええ」
文江は肯《うなず》いた。
「和也君のお父さんは何をしているんですか?」
「坂東は何か仕事をしてるんでしょう」
と、室田は言った。「しかし、夕方なら戻《もど》っていると思いますがね」
「何だか気が重いですわ」
と、文江は言った。
「あなたが責《せき》任《にん》を感じることはありませんよ。——といっても、無《む》理《り》だろうとは思いますがね」
室田の話し方は、淡《たん》々《たん》として、どこかユーモラスですらある。それが、文江には、嬉《うれ》しかった。
坂東のアパートを捜《さが》し出すのに、大分時間がかかってしまった。
「全く、東京は大変ですな、家一《いつ》軒《けん》捜《さが》すのも」
と、室田は息をついた。
「ややこしいですものね。田《でん》村なら、誰《だれ》それの家、といえばすぐ分ったのに」
「ああ、あそこですね。——しかし、そういう小さな村だからこそ、坂東和也は死んでしまったわけですからね」
室田の言う通りだ、と文江は思った。
もちろん、あの村の暖《あたたか》い人《にん》情《じよう》や、肌《はだ》のぬくもりすら感じさせるような近所付合いは、それ自体、都会に長く暮《くら》していると、烈《はげ》しいほどの郷《きよう》愁《しゆう》をかき立てることがあった。
しかし、その人情は、常《つね》に、仲《なか》間《ま》意《い》識《しき》と、その裏《うら》返《がえ》しの排《はい》他《た》的な風土とに裏打ちされている。一度その中で、仲間に背《そむ》いた者は、決して許《ゆる》されることがないのだ……。
和也は仲《なか》間《ま》を殺すという、大きな罪《つみ》を犯《おか》した。いや、実《じつ》際《さい》はどうでも、村の人々はそう思った。
それは村にとって、正《まさ》に死に値《あたい》する大《たい》罪《ざい》だったのだ。——そこでは法よりも、村人の噂《うわさ》や、視《し》線《せん》や、言葉が人を裁《さば》くのである。
今さらのように、文江は坂東和也の父に会うのが怖《こわ》くなった。
本当に、父親に詫《わ》びねばならないのは、しかし、村人たちである。
だが、村人たちの誰《だれ》一人として、和也の死が自《ヽ》分《ヽ》の《ヽ》責《せき》任《にん》だなどとは、感じていないに違《ちが》いない……。
それが本当に恐《おそ》ろしいことなのである。
「——どうしました?」
室田の言葉に、文江はハッと我《われ》に返った。引き返すわけにはいかないのだ。ここまで来た以上は……。
「行きましょう」
文江は自分から足を早めた。
〈坂東〉という表《ひよう》札《さつ》はどこにもなかった。
「確《たし》かこの部《へ》屋《や》ですがね」
と、室田が足を止めたのは、ただ白紙の表札が、ピンで止めてある部屋の前だった。
「字が消えちゃってるんだわ」
よく見ると〈坂〉の字が、かすかに読み取れた。
室田がドアを叩《たた》いた。——三度、くり返したが、返事がなかった。
「留《る》守《す》ですよ」
と、隣《となり》のドアが開いて、中年の女が顔を出した。
「失礼——。どちらへ出かけたか、ご存《ぞん》知《じ》ですか」
と室田が訊《き》く。
「知りませんね」
と、そっけない返事である。
「実は……」
室田が頭をかいて、「ちょっとこちらの坂東さんご夫《ふう》婦《ふ》のことを調べてましてね。興《こう》信《しん》所《じよ》の者なんですが」
「へえ」
と、隣《となり》の主《しゆ》婦《ふ》は、急に好《こう》奇《き》心《しん》をそそられたようだ。
なるほど、巧《うま》い、と文江は思った。これが、
「警《けい》察《さつ》です」
と名乗ったら、向うは口をつぐんでしまったろう。
厄《やつ》介《かい》事《ごと》に巻《ま》き込《こ》まれたくないからだ。しかし、興《こう》信《しん》所《じよ》となれば話は違《ちが》う。
もともと、他人の噂《うわさ》ぐらいしかすることのない主婦らしい。いくらでも話の種はあるだろう。
「そうね、二人とも何だかブラブラしてるわよ」
と、しゃべり始めた。「旦《だん》那《な》の方は、時々出かけるみたい。金を受け取りにね」
「お金を?」
「銀行に行くんじゃないの。たぶん、そうだと思うわ。その度に、あれこれ買物に出てるから」
「暮《くら》しぶりはどうです?」
「悪くないんじゃない。たまに上ることもあるけど、結《けつ》構《こう》小ぎれいにしてるよ。まあ、アパートそのものがボロだから、たかが知れてるけどさ」
「じゃ、特《とく》に働いている様子はないんですね」
「ないね。きっと子《こ》供《ども》からお金でも送って来てるんじゃない?」
「なるほど」
と、室田がもっともらしく肯《うなず》く。「客はありますか」
「めったにないね。——たまに、それでも、同じくらいの年《ねん》齢《れい》のおじさんが来てたけど、それもせいぜい二、三か月に一度じゃないかな」
「この辺の人ですか?」
「全然見たことないね。ちょっと言葉に訛《なまり》があったよ」
文江は、田《でん》村の誰《だれ》かだろうか、と思った。
「このアパートで親しい方はいますか?」
「いないね」
と、即《そく》座《ざ》に返事があった。
「すると、割《わり》に付合いの悪い——」
「割《わり》に、どころか、ひどく悪いよ。結《けつ》構《こう》金はあるとにらんでんだけどね。共同で下水の修《しゆう》理《り》するときだって、金を出さないと言ったりして」
「じゃ、ちょっと偏《へん》屈《くつ》な感じですか」
「かなり、ね」
とその主《しゆ》婦《ふ》は顔をしかめて見せた。
「今日、お出かけになったんですか」
と、室田が訊《き》く。
「でしょう。私《わたし》は奥《おく》さんの方だけしか見てないの。朝の十時頃《ごろ》かな、私が表に出ると、ちょうどドアが開いてね、奥さんが出て来たのさ」