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作者: 当前章节:15370 字 更新时间:2026-6-23 00:11

 「何か言っていませんでしたか?」

 「うん。私の顔を見ると、『ちょっと二人とも留《る》守《す》にしますので、よろしく』って言って行ったよ」

 「二人とも、と言ったんですね?」

 「そう。あんなこと言われたの初めてだから、ちょっとこっちも面食らっちゃった」

 「いつもは黙《だま》って?」

 「そうよ。旅行に出たって、おみやげ一つ配るでもないしね」

 「今度は旅行のようでしたか?」

 「さあ。少し大きめのバッグは持ってたけどね」

 「そうですか。どうも……」

 室田が礼を言いながら、千円札《さつ》を出して、主《しゆ》婦《ふ》の手に握《にぎ》らせた。

 「あら、悪いわね。いいのに……」

 と言いながら、さっさとエプロンの中へ突《つ》っ込《こ》む。

 「また夜にでも来てみます。それじゃ」

 と、室田と文江がアパートを出ようとすると、

 「ねえ、ちょっと!」

 と、その主婦が呼《よ》び止めた。

 「——何か?」

 「これはまあ……関係あるかどうか分んないけどさ」

 と、その主婦は声を少し低くした。

 「何です?」

 「ゆうべ、あのご夫《ふう》婦《ふ》、えらい喧《けん》嘩《か》をしてたんだよ」

 「夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》ですか。よくやるんですか?」

 「全然!」

 と、主《しゆ》婦《ふ》は首を振《ふ》って、「だからびっくりしたのよ。もうあの人たち、ここへ来て四年ぐらいになるけど、一度だって、喧嘩なんてしなかったわ」

 それから、言い訳《わけ》するように、

 「ほら、ここは壁が薄《うす》いでしょ、だから、ね——」

 「分りますよ。聞く気でなくても耳に入って来る」

 「そう! そうなのよ」

 文江は、室田が主婦を扱《あつか》う手《て》並《なみ》の鮮《あざ》やかさに、思わず笑《え》みを洩《も》らした。さすが、と言うべきだろう。

 「で、ゆうべの喧嘩、どんな具合でした?」

 「そうねえ……。きれぎれにしか聞こえなかったけど、何でも子《こ》供《ども》のことだったみたい」

 「子供の?」

 「『だから、あの子のことを信用しろって言ったでしょう』とか、『あの子がやったとは限《かぎ》らんだろう』とか……」

 「なるほど。面《おも》白《しろ》いですな。——二人から、子供の話は聞いたこともおありでしたか?」

 「いいえ。大体、そういう、私《し》生《せい》活《かつ》に立ち入った話は絶《ぜつ》対《たい》にしない人たちなのよ。いつも私、主人に言ってたの。あの二人、どこか影《かげ》があるわよ、って」

 「なるほど、いい目をしてますな。どうも、助かりました」

 室田は、アパートを出ると、「——いや、ああいう奥《おく》さん連中は、正《まさ》に情《じよう》報《ほう》の宝《ほう》庫《こ》ですな」

 と笑《わら》った。

 「でも、何だか怖《こわ》いわ。ああいう人たちにいつも見られてるのかと思うと」

 これはまた、田舎《いなか》とは違《ちが》った、都会でのわずらわしさだ。

 ただ、都会ではみんな自分の生活で手《て》一《いつ》杯《ぱい》だから、人のことに口出しまではしない。好《こう》奇《き》心《しん》で耳を尖《とが》らせてはいるが、それはあくまで自分一人の楽しみなのである。

 「これからどうします?」

 と、文江は訊《き》いた。

 「夜になったら、もう一度訪《たず》ねてみます。あなたは——」

 「私も行きますわ。じゃ、それまで、私、ちょっと用を済《す》ませてしまいますから」

 「分りました。じゃ、夜、八時にあのアパートの前に」

 「結《けつ》構《こう》ですわ」

 文江は、室田と別れると、草永の会社へ電話を入れた。——なぜか、急に声が聞きたくなったのである。

 「何だって?」

 草永がスプーンをスープの中へ落とした。「殺されかけた?」

 「しっ! レストランよ! そんなにびっくりしないで」

 「これでびっくりするなと言われたって……」

 草永は、スープからスプーンを取ろうとして、「アチチ!」

 と、飛び上った。

 「落ち着いてよ。いやねえ」

 と、文江は笑《わら》った。

 「しかし……どうするんだ、一体?」

 「どうってことないわ。一度こうと決めたら、変えないわよ、私」

 「君には呆《あき》れたな」

 と、草永は首を振《ふ》った。「これから、僕《ぼく》がどうするか分るか?」

 「私と別れるの?」

 「違《ちが》う」

 「じゃ、何?」

 「君を山《やま》奥《おく》へ連れて行く」

 「どうして?」

 「その山小屋へ閉《と》じ込《こ》もって、君と二人で過《すご》すんだ」

 「それで?」

 「君が妊《にん》娠《しん》して、お腹が大きくなって動けなくなるまで、外へ出さない。それで諦《あきら》めるだろう」

 文江は声を上げて笑《わら》った。

 「——あなたっていい人だわ。でも、私の気持を変えることはできないわよ」

 「やれやれ。君はジャンヌ・ダルクの生れ変りかい?」

 「それを言うなら、クレオパトラとか、トロイのヘレンとか、もうちょっと美人にしてちょうだい」

 「敵《かな》わないよ、君には」

 と、草永は苦《く》笑《しよう》して、「しかし、気を付けてくれよ。まだ死んでほしくない」

 「分ったから、早く食べて」

 と、文江は腕《うで》時《ど》計《けい》を見た。「八時までに、あのアパートへ行くんだから」

 しばらく食事を続けてから、草永は言った。

 「その坂東って夫《ふう》婦《ふ》さ、ちょっと妙《みよう》だね」

 「そうでしょう?——あんな風に村を出て、一体誰《だれ》が生活費を送ってるのかしら」

 「たまに訪ねて来るという年《とし》寄《よ》りも、気になる」

 「そう。——単《たん》純《じゆん》に哀《あわ》れな老《ろう》夫《ふう》婦《ふ》とも言えないようね」

 「大体、世間はそんなもんだよ」

 と草永は、哲《てつ》学《がく》的な表《ひよう》情《じよう》で言った。「しかし、その隣《となり》の人が聞いたっていう夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》も面《おも》白《しろ》いじゃないか。その夫婦、君が村へ帰ったことを知ってるんだぜ。誰が知らせたんだろう?」

 「そこなのよ。——ねえ、とても反《はん》応《のう》が素《す》早《ばや》いと思わない? 私が帰って、まだ二日しかたっていないのに、誰かが私を殺そうとして、あの夫婦にも連《れん》絡《らく》を取ったのよ」

 「しかも、君が村にいるときならともかく、東京へ戻《もど》って来てからだ」

 「謎《なぞ》ね。——村の中に、私のことが広まるのは、アッという間だったに違《ちが》いないけど、その後は……」

 「その後は——誰《だれ》かが東京へ出て来てるのかもしれないな」

 「誰が?」

 「そりゃ分らないさ。しかし、なぜそれを室田って刑《けい》事《じ》に言わないんだ?」

 「何だか、言いにくかったのよ。自分の中に、それを止めるものが何かあって……」

 文江は首を振《ふ》った。「うまく説明できないけど」

 「分るよ、君の気持は」

 と、草永は言った。「さあ、早く食事を終えて出よう。八時に遅《おく》れるぜ」

 「あなたも行くの?」

 「当り前さ」

 と草永は言った。「君を他の男と二人にしてたまるかい」

 八時五分前に、アパートの前に着くと、ほとんどすぐに室田がやって来た。

 「やあ、失礼。また迷《まよ》っちゃいましてね」

 と照れくさそうに言った。「じゃ、早《さつ》速《そく》——」

 「今、外から見ましたけど、部《へ》屋《や》に明りは点《つ》いてないみたいですわ」

 「まだ帰っていないのか」

 室田はちょっと眉《まゆ》を寄《よ》せた。

 「入ってみちゃどうです?」

 草永の言葉に、

 「そんな無《む》茶《ちや》な——」

 と、文江は言いかけたが、意外なことに、室田が、

 「そうですね」

 と、すぐに肯《うなず》いたのである。

 「でも——」

 「いや、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。責《せき》任《にん》は私が持ちます」

 と、室田は言った。「坂東の妻《つま》の方だけが一人で出かけたというのが、どうも気になるんですよ」

 室田は本当に不安そうな表《ひよう》情《じよう》をしていた。急に、文江も不安になって来た。

 「こんなドア、すぐに開くでしょう」

 と、草永が言った。「手伝いましょうか」

 「いや、あなたは手を出さないで下さい。後で面《めん》倒《どう》なことになると困《こま》ります。私一人で何とか——」

 と、室田はドアのノブをつかんで、ガチャガチャと揺《ゆ》さぶった。

 必死でやっているのは分るのだが、いかにオンボロなドアでも、意地というものがあるらしく(?)頑《がん》として抵《てい》抗《こう》している。

 「やれやれ……」

 室田は顔を真赤にして息をついた。

 「手伝いますよ」

 「そうですなあ」

 室田はちょっと考え込《こ》んでいたが、やがて手を打って、「——そうだ! それじゃ、草永さん、私の体を引っ張って下さい。それならドアに触《ふ》れないから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ」

 「うるさいんですねえ」

 「法というものは、そんなものですよ」

 と、室田は真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で言った。

 せーの、とかけ声こそ出さなかったが、ドアのノブをつかんだ室田を、後ろから抱《だ》きつくように草永が引《ひつ》張《ぱ》るという、あまりはた目には美学的といえない光景は、しかし、長く続ける必要はなかった。

 さすがに草永も若《わか》いだけに力がある。バリッと音がして、ドアの鍵《かぎ》は一度で壊《こわ》れてしまった。

 「——やれ、助かった。じゃ、お二人は外にいて下さい。中へ入ると、やはり家《か》宅《たく》侵《しん》入《にゆう》に——」

 と室田が律《りち》儀《ぎ》に言いかけると、

 「誰《だれ》か倒《たお》れてる!」

 と、中を覗《のぞ》き込《こ》んだ文江が声を上げた。

 「これは……」

 中へ入って、室田が明りを点《つ》ける。「——草永さん、すみませんが、一一〇番に知らせてくれませんか」

 「分りました。じゃ隣《となり》の家で」

 草永が飛び出して行く。

 文江はゴクリとツバを飲み込んだ。——殺されかけたことはあっても、殺された人間を見るのは初めてである。

 「どうやら坂東らしい」

 と、室田が上って言った。

 「奥《おく》さんの方は——」

 「いないようですね。捜《さが》してみましょう」

 さすがに室田は落ち着いている(当然のことだが)。文江も恐《おそ》る恐る上り込《こ》んで、倒《たお》れている老人の方へかがみ込んだ。

 確《たし》かに坂東和也の父親だ、と信じるのに多少時間がかかった。

 一つには、七年前とは別人のように老《ふ》け込んでいるからであり、もう一つは、首に細い紐《ひも》が深々と食い込んでいて、カッと目を見開き、口がポッカリと、まるで大きな穴《あな》のように開いて、苦《く》悶《もん》の表《ひよう》情《じよう》で、顔を歪《ゆが》めていたからでもある。

 「——奥さんの方はいませんな」

 と、室田は戻《もど》って来て言った。「どうです? 顔には見《み》憶《おぼ》えは?」

 「ええ……。あります。でもこんなに……」

 と言ったきり、胸《むね》がむかついて来て、文江は部屋を飛び出してしまった。

8 再《ふたた》び村へ

 絞《こう》殺《さつ》。

 犯《はん》人《にん》はあの男だろうか?——文江としても、こんなことになっては、襲《おそ》われたことを室田に話さないわけにはいかなくなってしまった。

 「——何かあったのかな、とは思っていたんですがね」

 と、室田は渋《しぶ》い顔で言った。「すぐに連《れん》絡《らく》してもらえば……」

 「申し訳《わけ》ありません。何だか、私《わたし》個《こ》人《じん》の戦いだ、っていう気がして」

 「まあ、気持は分りますがね」

 室田は文江の首の傷《きず》を見て、「こいつは、なかなかのプロですな」

 と言った。

 「そうですか?」

 「こんな風に、強すぎず弱すぎずの力で絞《し》めるのは難《むずか》しいもんですよ。まあ、別《べつ》に感心するつもりはありませんがね」

 室田がそう言ってニヤリと笑《わら》ったので、文江はホッとした。

 アパートの部《へ》屋《や》は、ただでさえ狭《せま》いのに、白《しろ》手《て》袋《ぶくろ》をはめた刑《けい》事《じ》たちや、鑑《かん》識《しき》の人間たちで、ますます狭くなっていた。

 検《けん》死《し》官《かん》は死体をじっと見て、

 「絞《こう》殺《さつ》だね」

 と、よく分っていることを言った。「死後半日はたっている。正《せい》確《かく》なところは分らないが」

 「つまり、十二時間以上ということですか?」

 と、室田が訊《き》いた。

 「そう。それ以上は確《かく》実《じつ》にたっている」

 ということは、と文江は思った。——朝の八時には、もう坂東は殺されていたことになる。

 隣《となり》の主《しゆ》婦《ふ》の証《しよう》言《げん》が正しければ、坂東の妻《つま》がここを出たのが朝十時。ということは……。

 「まさか、室田さん」

 と文江は言った。

 「どうも坂東は妻に殺されたらしいですな」

 室田は難《むずか》しい顔で言った。

 「でもどうして?」

 「動機は窺《うかが》い知れませんが、現《げん》在《ざい》のところでは、妻の容《よう》疑《ぎ》が濃《こ》いということですよ」

 「でも、奥《おく》さんに殺せるでしょうか? それも首を絞《し》めてですよ」

 「それは何とも言えません」

 と、室田は肩《かた》をすくめた。「可《か》能《のう》性《せい》の問題なら、たぶん可能でしょう。しかし、それが真相だったのかどうかは別問題ですからね」

 「私を襲《おそ》った男が犯《はん》人《にん》じゃないでしょうか、同じように首を絞《し》めているし……」

 「その可《か》能《のう》性《せい》もあります。——ともかく、ここは私の出る幕《まく》じゃないのです。何しろ警《けい》視《し》庁《ちよう》の所《しよ》属《ぞく》じゃありませんからね。あなたのマンションへ行ってもよろしいですか? 例の男が何か残していないか、調べてみたいと思うんですが」

 「ええ、もちろん」

 と、文江は肯《うなず》いた。「でも、あの男、手《て》袋《ぶくろ》をはめていたみたいだし、何も残っていないと思いますけど」

 そこへ、警官がやって来た。

 「室田さんですか」

 「はあ」

 「無《む》線《せん》が入ってます」

 「どうも」

 室田が行ってしまうと、文江も、部屋を出て、外の空気を吸《す》い込《こ》んだ。坂東の父親が殺された。そして母親が姿《すがた》を消した。——なぜだろう? 一体何が起ったのか?

 文江は坂東の両親のことを思い出してみた。父親は確《たし》か坂東市《いち》之《の》介《すけ》といった。役者みたいだといつもみんなが言っていたのを、憶《おぼ》えている。

 母親の方は?——至《いた》って記《き》憶《おく》が薄《うす》い。

 名前は何といったろう? それさえ定かではない。

 いつも「和ちゃんのお母さん」であり、「坂東のとこのかみさん」であった。大体が目立たない、寡《か》黙《もく》な人だった。

 万事控《ひか》え目で、何事にも夫を第一、次に息子《むすこ》を立てた。村人たちの、噂《うわさ》話《ばなし》の環《わ》に加わらなかったというだけでも、ちょっと変ったタイプの人だったということは分る。

 父親は、かなりおおらかで、気の大きな人だったが、それだけに、ああして老《ふ》け込《こ》んでしまうと、違《ちが》いが大きいのだ。

 息子の和也は、どちらかというと母親似《に》だった。

 少し神《しん》経《けい》質《しつ》なところがあって、一人っ子だったせいもあるのだろうが、母親っ子であった。よく父親が苦々しい顔で息子を見ていたのを、文江は憶《おぼ》えている。

 しかし、何といっても坂東市之介にとって和也は自分の夢《ゆめ》をかけた一人息子だったのだ。その息子が殺人容《よう》疑《ぎ》者《しや》となり、そして自殺してしまったとなると、父親の絶《ぜつ》望《ぼう》感《かん》は想《そう》像《ぞう》がつく。

 あの老けようも、納《なつ》得《とく》できるというものだ。だが、あの二人の生活を助けていたのは、誰《だれ》なのだろう? おそらく、村人の中の一人に違《ちが》いないが。

 そして、ごくたまに訪《たず》ねて来たという年《とし》寄《よ》りは……。

 どうやら、坂東夫婦の暮《くら》しも、単《たん》純《じゆん》に、故《こ》郷《きよう》を追われた人のそれではなかったようだ。

 あの母親——静かではあるが、田舎《いなか》育ちの婦《ふ》人《じん》らしく、がっしりとした体つきだったあの婦人はどこへ行ったのだろう?

 「——おい、もういなくてもいいんだろう」

 と、草永がやって来た。

 「室田さんを待ってるのよ」

 と言ったところへ、当の室田が戻《もど》って来る。

 「いや、申し訳《わけ》ないんですが、やはり急いで帰らにゃなりません。あなたの件《けん》は、明日、地《じ》元《もと》署《しよ》の刑《けい》事《じ》が伺《うかが》うそうですから」

 「分りました」

 「充《じゆう》分《ぶん》に用心して下さいよ」

 と、室田は言った。

 「僕《ぼく》がついています」

 と、草永が真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で言う。

 「また田《でん》村へ、戻《もど》りますか?」

 「そのつもりです」

 と文江は言った。

 「じゃ、あちらでお目にかかれるでしょう。——何か、例の男のことで思い出したことがあれば、連《れん》絡《らく》して下さい」

 室田が急ぎ足で行ってしまうと、文江と草永は、現《げん》場《ば》を離《はな》れて、夜の町を少し歩いた。

 「——にぎやかね。この辺は、いつも」

 「そうだな」

 「人一人、死んでも、別に誰《だれ》も気にしないんだわ」

 文江は、少しこわばった声で言った。

 「あんまり考え込《こ》むなよ」

 「無《む》理《り》言わないでよ」

 と、文江は食ってかかるような言い方をした。

 「分った。でも、飲んで忘《わす》れようなんてのはやめた方がいいぜ」

 「飲むもんですか」

 文江は言った。「こんなときに酔《よ》えやしないわ。お金のむだよ」

 「そうそう。それでいいんだ」

 草永が文江の肩《かた》を抱《だ》いた。

 「——分る? 私《わたし》が帰《き》郷《きよう》したばっかりに、死ななくてもいい人が死んじゃったわ」

 「うん……。しかし、君が殺したんじゃない。それを忘《わす》れるなよ」

 「忘れちゃいないわ。だから憎《にく》らしいのよ、犯《はん》人《にん》が」

 「あの男か、それとも坂東の奥《おく》さんか……」

 「きっとあの男だと思うわ」

 と、文江は言った。「あなたも首を絞《し》められたら、そう思うわよ」

 「——どこかへ行こうか? 今夜はずっと付き合うよ」

 「そうね……」

 文江は、ちょっと考えて、「ホテルもバーもお金がかかるわ。ベッドならマンションにあるんだから、マンションに帰りましょう」

 「女は不思議だな」

 と、草永は笑《わら》って、肩《かた》を抱《だ》く腕《うで》に力を入れた。

 「——帰るのか?」

 と、草永が言った。

 毛布の下でまどろんでいた文江は、目をトロンとさせたまま、

 「ここ、私のマンションよ」

 と言った。

 「違《ちが》うよ。君のデンデン村のことさ」

 文江は笑《わら》って、

 「デンデン村か。——そうね、帰るわ。今度こそ、事《じ》件《けん》が片《かた》付《づ》くまで戻《もど》って来ない」

 「心配だな」

 「じゃ、ついて来てよ」

 「いいとも」

 文江は起き上った。

 「冗《じよう》談《だん》でしょ?」

 「本気さ」

 「会社は?」

 「休《きゆう》暇《か》を取る。——クビならクビでも、別に構《かまい》やしない。何しろ、各社引《ひつ》張《ぱ》りダコだからね」

 文江は草永にキスした。

 「そうなったら、養ってあげるわね」

 「失業保《ほ》険《けん》があるさ」

 と、草永は言った。

 「いつまでもくれるわけじゃないのよ。——あら」

 電話が鳴った。文江は裸《はだか》の体にバスローブをはおって、ベッドから出た。

 「はい、常石です」

 「文江なの? まだ起きてた?」

 「あら、お母《かあ》さん。こんな夜中に——。母からよ」

 と、草永の方へ言う。

 「どなたかいらっしゃるの?」

 と公江が訊《き》いて来る。

 「ええ、恋《こい》人《びと》がいるの」

 「あら、そうなの。かけ直す? 途《と》中《ちゆう》なら悪いから」

 「お母さんたら——」

 と、文江は笑《わら》った。

 「今度紹《しよう》介《かい》しておくれ」

 「連れて行くわ。泊《と》めてあげてね」

 「いいよ。でも、部《へ》屋《や》は別にしないと、うめがやかましいからね」

 「そうね。——お母さん、聞いた?」

 「坂東さんのことね。さっき白木さんが来て話してくれたよ」

 「ひどいことになっちゃったわ。——奥《おく》さんの方、何ていう名だっけ?」

 「坂東雪《ゆき》乃《の》さんというのよ。行方《ゆくえ》が分らないんですって?」

 「そうなの。まさかあの人が殺したとは思えないんだけど……」

 「強い人だったけどね。——ああ、ところでね、こんな時間に悪いと思ったんだけど、お寺の方から、ぜひお前に顔を出してほしいって言われて」

 「お寺?」

 「何しろ、お前の葬《そう》式《しき》が済《す》んでるだろ。お墓《はか》もあるしね。何とかしないと」

 「あ、そうか」

 なるほど、もう自分の墓があるわけだ。

 「ちょっと早手回しね」

 「私もまだしばらく使う気はないし。帰って来たら、顔を出しとくれ。和《お》尚《しよう》さんも会いたがってたからね。——え? 何?」

 「どうしたの?」

 「うめが来てるの、待って」

 少し、モゴモゴという声がして、もう一度母の声がした。

 「お客様なの。またかけるよ」

 「こんな時間に?」

 「そうなんだよ」

 と、公江の声は、少し低くなっていた。「坂東雪乃さんだって」

 汽《き》笛《てき》が鳴った。

 ホームへ降《お》りると、草永が荷物を持ち直した。

 「さあ、行こう」

 文江は、改《かい》札《さつ》口《ぐち》の方へ歩き出した。風の強い日だ。

 「やあ、文江さん」

 駅長の金子が、声をかけて来た。「この間は見《み》違《ちが》えてしまってね」

 「ごぶさたしてます」

 と文江は言った。

 何だか妙《みよう》だが、他に言いようもない。

 「すっかり、いい娘《むすめ》さんになったね」

 と、金子は言った。

 言い方に、どこかぎこちないところがあるのは仕方あるまい。文江の帰《き》郷《きよう》と、それが引き起こした事《じ》件《けん》のことが、この狭《せま》い村の中に、知れ渡《わた》っていないはずはないのだ。

 「お母さんがお待ちだよ」

 と金子が言った。

 駅の前に、公江が、うめと一《いつ》緒《しよ》に立っているのが見えた。

 「——お母さん! わざわざお出《で》迎《むか》え?」

 文江の声は弾《はず》んでいた。

 「お前はどうせ荷物を彼《かれ》氏《し》に持たせてるんだろうと思ってね。やっぱり思った通りだわ。うめ、持っておあげ」

 「あ、いや、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です」

 と、草永があわてて言った。

 「まあ、任《まか》せなさい」

 と、うめが草永の手から荷物をもぎ取る。

 文江が、草永を母に紹《しよう》介《かい》した。

 「まあ、いつも娘《むすめ》がお世話になって」

 と公江は草永に言った。

 「いえ、こちらこそ——」

 「この子の相手は大変でしょう」

 「何よ、お母さん、その言い方」

 と、文江は苦《く》笑《しよう》した。

 「さ、ともかく家へ参りましょう」

 四人は村の中を歩き出した。

 「——村が静かね」

 と文江は言った。

 奇《き》妙《みよう》に、人の姿《すがた》が見えない。ひっそりとして、もちろん店などは開いているのだが、そこにも客の姿はあまりなかった。

 「この二、三日、こんな風よ」

 「どうして?」

 「雪乃さんが帰って来たからでしょう」

 文江は母の顔を見た。——マンションに、母から電話があったのが三日前である。

 「あの後、結局どうなったの?」

 と文江は訊《き》いた。

 「それがちょっと、妙な具合になってね」

 公江は首を振《ふ》って言った……。

 公江が玄《げん》関《かん》へ出て行くと、坂東雪乃が、立っていた。

 いや、一人の老《ろう》婦《ふ》人《じん》が立っていた、と言うべきだろう。

 人の顔を憶《おぼ》えることには自信のある公江でも、その婦人が雪乃だということを納《なつ》得《とく》するのに、しばらくかかった。

 「——まあ、雪乃さん! お久しぶりね」

 公江は、静かに呼《よ》びかけた。

 「ごぶさたいたしまして」

 と雪乃は頭を下げた。

 「お上りなさいよ、そんな所じゃ、話も——」

 「いえ、すぐに失礼しますから」

 「そんなことを言わないで……」

 「いえ、本当に」

 「そうですか」

 公江は、上り口に座《すわ》った。「うちの娘《むすめ》のために、とんでもないことになって、本当に申し訳《わけ》ないと思っていますわ」

 「いいえ、奥《おく》様《さま》」

 と、雪乃は遮《さえぎ》って、「とんでもないことでございます。うちの子は、お宅《たく》のお嬢《じよう》様《さま》とはとても仲《なか》が良かったのですから」

 「そうでしたね」

 「あんなことになったのも、和也自身にも責《せき》任《にん》があります」

 と、雪乃は言って、ちょっと目を伏《ふ》せた。

 「でも……」

 「奥《おく》様《さま》」

 と、雪乃は、真《まつ》直《す》ぐに公江を見つめた。

 その視《し》線《せん》は、公江ですら、一《いつ》瞬《しゆん》たじろぐほど冷たく、そして異《い》様《よう》な火で輝《かがや》いていた。

 「もうお聞き及《およ》びでしょう?」

 公江は少し間を置いて、

 「ご主人のことですね」

 「そうです。主人は亡《な》くなりました」

 と雪乃は言った。

 「お気の毒でしたね」

 「いいんです。あの人はいわば自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》ですから」

 公江はいぶかしげに、

 「どういう意味です?」

 と訊《き》いた。

 「私《わたし》は殺していません」

 雪乃は言った。「それは信じて下さい。私はやっていません」

 「信じていますよ、もちろん」

 「ありがとうございます」

 雪乃は、ホッとしたように言った。「この村で、私が信じられるのは奥《おく》様《さま》だけでございます」

 「信じていてくれるなら、上って、ゆっくり話をしましょう」

 「いいえ」

 と、雪乃は首を振《ふ》った。「これから用がございますので」

 「こんな夜中に? どこへ行こうというんです?」

 「私の用は長くかかります。たぶん、何か月も」

 「——その間、どこにいるつもりですか?」

 「さあ……」

 雪乃は、ちょっと笑《え》みを浮《う》かべた。「どこにでも。山の中、水の中、雪の中でも」

 「そんな謎《なぞ》めいたことを言って——」

 「決して、もったいぶっているわけではございませんの」

 雪乃は一つ息をついて、「村の方々にお伝え下さいませんか」

 「何と言えば?」

 「村の方々から、お借《か》りしたものを、近々、お返しにあがります、と」

 雪乃の言い方には、何か、ねっとりと絡《から》みつくような調子があった。

 「それは、どういう意味ですか?」

 と公江は膝《ひざ》を進めた。「——雪乃さん、妙《みよう》な考えは捨《す》てて下さいね」

 「ご心配なく。決して、無《む》茶《ちや》はいたしませんから」

 雪乃は、深々と頭を下げた。「では本日はこれで失礼いたします」

 「雪乃さん——」

 公江は呼《よ》びかけたが、もう雪乃は、玄《げん》関《かん》から出て行っていた。

 「——じゃ、つまり」

 と文江は言った。「雪乃さんは、息子《むすこ》の死の復《ふく》讐《しゆう》に来たとでもいうの?」

 「彼女《かのじよ》の言葉をどう取るか、よ、それは」

 と公江は言った。

 「で、村の人たちが、引っ込《こ》んじゃってるんですか?」

 と、草永が訊《き》いた。

 「それに色々と尾《お》ひれがついてね」

 「尾ひれ?」

 「出て行った雪乃さんを私が追いかけて玄関から出ると、もうどこにも姿《すがた》は見えなかった、ってことになってるの。つまり、まるでこの世の者じゃないように、ね」

 「でも、どうして?」

 「うめがね、みんなにそう話して回ったのよ」

 うめは、ヒョイと横を向いて、聞こえないふりをしている。文江は苦《く》笑《しよう》した。

 「ともかく、そんなわけで、村は今、静まり返っているのよ」

 「でも、まさか、そんな年《とし》寄《よ》りが村中をどうこうするわけがないと思いますがね」

 と、草永は言った。

 「村の人たちも、多少後ろめたさは感じているのよ」

 と、文江は言った。「だから、そんな噂《うわさ》に怯《おび》えているんだわ」

 「白木さんがあちこち駆《か》け回って、雪乃さんがどこにいるのか、調べているけど、まだ分らないのよ」

 「でも、こんな小さな村なのに……」

 「妙《みよう》な話ね、本当に」

 と、公江は肯《うなず》いて、「うめがそばにいなかったら、私《わたし》もあれが夢《ゆめ》だったかと思うところよ」

 村を抜《ぬ》けて、常石家へ向う。途《と》中《ちゆう》、閉《と》ざしたままの、坂東の家の前で、何となく四人は立ち止った。

 「ここがそうなのよ」

 と、文江が言った。

 「そうだろうと思ったよ」

 と、草永が肯く。「今は誰《だれ》の持物なんだい?」

 「さあ。知らないわ」

 そういえば、文江は、それを知らなかった。坂東夫《ふう》婦《ふ》のものだったら、売って行ったのではないか。

 もちろん、今、村には雑《ざつ》貨《か》屋《や》があって、こんな村の外れで雑貨屋を開く人はないだろう。しかし、取り壊《こわ》せば、立《りつ》派《ぱ》に家の二軒《けん》は建つ広さである。

 「——文江!」

 と声がして、杉山百代が、赤ん坊《ぼう》を抱《だ》いて出て来た。「帰って来たの? この前は、アッという間にいなくなっちゃうんだもの」

 「ごめんね。東京での用を片《かた》付《づ》けてから、ゆっくり来ようと思って。——あ、こちら、ボーイフレンドの草永さん」

 百代は草永を見て、

 「やっぱり、スマートねえ! うちの亭《てい》主《しゆ》なんか、もう禿《は》げて来ちゃって」

 と言ったので、みんな笑《わら》い出してしまった。文江は母に言った。

 「少し先に行ってて。後から追いつくから」

 草永と、公江、うめの三人が先に行ってしまうと、文江は、真顔になって、

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