「何か言っていませんでしたか?」
「うん。私の顔を見ると、『ちょっと二人とも留《る》守《す》にしますので、よろしく』って言って行ったよ」
「二人とも、と言ったんですね?」
「そう。あんなこと言われたの初めてだから、ちょっとこっちも面食らっちゃった」
「いつもは黙《だま》って?」
「そうよ。旅行に出たって、おみやげ一つ配るでもないしね」
「今度は旅行のようでしたか?」
「さあ。少し大きめのバッグは持ってたけどね」
「そうですか。どうも……」
室田が礼を言いながら、千円札《さつ》を出して、主《しゆ》婦《ふ》の手に握《にぎ》らせた。
「あら、悪いわね。いいのに……」
と言いながら、さっさとエプロンの中へ突《つ》っ込《こ》む。
「また夜にでも来てみます。それじゃ」
と、室田と文江がアパートを出ようとすると、
「ねえ、ちょっと!」
と、その主婦が呼《よ》び止めた。
「——何か?」
「これはまあ……関係あるかどうか分んないけどさ」
と、その主婦は声を少し低くした。
「何です?」
「ゆうべ、あのご夫《ふう》婦《ふ》、えらい喧《けん》嘩《か》をしてたんだよ」
「夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》ですか。よくやるんですか?」
「全然!」
と、主《しゆ》婦《ふ》は首を振《ふ》って、「だからびっくりしたのよ。もうあの人たち、ここへ来て四年ぐらいになるけど、一度だって、喧嘩なんてしなかったわ」
それから、言い訳《わけ》するように、
「ほら、ここは壁が薄《うす》いでしょ、だから、ね——」
「分りますよ。聞く気でなくても耳に入って来る」
「そう! そうなのよ」
文江は、室田が主婦を扱《あつか》う手《て》並《なみ》の鮮《あざ》やかさに、思わず笑《え》みを洩《も》らした。さすが、と言うべきだろう。
「で、ゆうべの喧嘩、どんな具合でした?」
「そうねえ……。きれぎれにしか聞こえなかったけど、何でも子《こ》供《ども》のことだったみたい」
「子供の?」
「『だから、あの子のことを信用しろって言ったでしょう』とか、『あの子がやったとは限《かぎ》らんだろう』とか……」
「なるほど。面《おも》白《しろ》いですな。——二人から、子供の話は聞いたこともおありでしたか?」
「いいえ。大体、そういう、私《し》生《せい》活《かつ》に立ち入った話は絶《ぜつ》対《たい》にしない人たちなのよ。いつも私、主人に言ってたの。あの二人、どこか影《かげ》があるわよ、って」
「なるほど、いい目をしてますな。どうも、助かりました」
室田は、アパートを出ると、「——いや、ああいう奥《おく》さん連中は、正《まさ》に情《じよう》報《ほう》の宝《ほう》庫《こ》ですな」
と笑《わら》った。
「でも、何だか怖《こわ》いわ。ああいう人たちにいつも見られてるのかと思うと」
これはまた、田舎《いなか》とは違《ちが》った、都会でのわずらわしさだ。
ただ、都会ではみんな自分の生活で手《て》一《いつ》杯《ぱい》だから、人のことに口出しまではしない。好《こう》奇《き》心《しん》で耳を尖《とが》らせてはいるが、それはあくまで自分一人の楽しみなのである。
「これからどうします?」
と、文江は訊《き》いた。
「夜になったら、もう一度訪《たず》ねてみます。あなたは——」
「私も行きますわ。じゃ、それまで、私、ちょっと用を済《す》ませてしまいますから」
「分りました。じゃ、夜、八時にあのアパートの前に」
「結《けつ》構《こう》ですわ」
文江は、室田と別れると、草永の会社へ電話を入れた。——なぜか、急に声が聞きたくなったのである。
「何だって?」
草永がスプーンをスープの中へ落とした。「殺されかけた?」
「しっ! レストランよ! そんなにびっくりしないで」
「これでびっくりするなと言われたって……」
草永は、スープからスプーンを取ろうとして、「アチチ!」
と、飛び上った。
「落ち着いてよ。いやねえ」
と、文江は笑《わら》った。
「しかし……どうするんだ、一体?」
「どうってことないわ。一度こうと決めたら、変えないわよ、私」
「君には呆《あき》れたな」
と、草永は首を振《ふ》った。「これから、僕《ぼく》がどうするか分るか?」
「私と別れるの?」
「違《ちが》う」
「じゃ、何?」
「君を山《やま》奥《おく》へ連れて行く」
「どうして?」
「その山小屋へ閉《と》じ込《こ》もって、君と二人で過《すご》すんだ」
「それで?」
「君が妊《にん》娠《しん》して、お腹が大きくなって動けなくなるまで、外へ出さない。それで諦《あきら》めるだろう」
文江は声を上げて笑《わら》った。
「——あなたっていい人だわ。でも、私の気持を変えることはできないわよ」
「やれやれ。君はジャンヌ・ダルクの生れ変りかい?」
「それを言うなら、クレオパトラとか、トロイのヘレンとか、もうちょっと美人にしてちょうだい」
「敵《かな》わないよ、君には」
と、草永は苦《く》笑《しよう》して、「しかし、気を付けてくれよ。まだ死んでほしくない」
「分ったから、早く食べて」
と、文江は腕《うで》時《ど》計《けい》を見た。「八時までに、あのアパートへ行くんだから」
しばらく食事を続けてから、草永は言った。
「その坂東って夫《ふう》婦《ふ》さ、ちょっと妙《みよう》だね」
「そうでしょう?——あんな風に村を出て、一体誰《だれ》が生活費を送ってるのかしら」
「たまに訪ねて来るという年《とし》寄《よ》りも、気になる」
「そう。——単《たん》純《じゆん》に哀《あわ》れな老《ろう》夫《ふう》婦《ふ》とも言えないようね」
「大体、世間はそんなもんだよ」
と草永は、哲《てつ》学《がく》的な表《ひよう》情《じよう》で言った。「しかし、その隣《となり》の人が聞いたっていう夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》も面《おも》白《しろ》いじゃないか。その夫婦、君が村へ帰ったことを知ってるんだぜ。誰が知らせたんだろう?」
「そこなのよ。——ねえ、とても反《はん》応《のう》が素《す》早《ばや》いと思わない? 私が帰って、まだ二日しかたっていないのに、誰かが私を殺そうとして、あの夫婦にも連《れん》絡《らく》を取ったのよ」
「しかも、君が村にいるときならともかく、東京へ戻《もど》って来てからだ」
「謎《なぞ》ね。——村の中に、私のことが広まるのは、アッという間だったに違《ちが》いないけど、その後は……」
「その後は——誰《だれ》かが東京へ出て来てるのかもしれないな」
「誰が?」
「そりゃ分らないさ。しかし、なぜそれを室田って刑《けい》事《じ》に言わないんだ?」
「何だか、言いにくかったのよ。自分の中に、それを止めるものが何かあって……」
文江は首を振《ふ》った。「うまく説明できないけど」
「分るよ、君の気持は」
と、草永は言った。「さあ、早く食事を終えて出よう。八時に遅《おく》れるぜ」
「あなたも行くの?」
「当り前さ」
と草永は言った。「君を他の男と二人にしてたまるかい」
八時五分前に、アパートの前に着くと、ほとんどすぐに室田がやって来た。
「やあ、失礼。また迷《まよ》っちゃいましてね」
と照れくさそうに言った。「じゃ、早《さつ》速《そく》——」
「今、外から見ましたけど、部《へ》屋《や》に明りは点《つ》いてないみたいですわ」
「まだ帰っていないのか」
室田はちょっと眉《まゆ》を寄《よ》せた。
「入ってみちゃどうです?」
草永の言葉に、
「そんな無《む》茶《ちや》な——」
と、文江は言いかけたが、意外なことに、室田が、
「そうですね」
と、すぐに肯《うなず》いたのである。
「でも——」
「いや、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。責《せき》任《にん》は私が持ちます」
と、室田は言った。「坂東の妻《つま》の方だけが一人で出かけたというのが、どうも気になるんですよ」
室田は本当に不安そうな表《ひよう》情《じよう》をしていた。急に、文江も不安になって来た。
「こんなドア、すぐに開くでしょう」
と、草永が言った。「手伝いましょうか」
「いや、あなたは手を出さないで下さい。後で面《めん》倒《どう》なことになると困《こま》ります。私一人で何とか——」
と、室田はドアのノブをつかんで、ガチャガチャと揺《ゆ》さぶった。
必死でやっているのは分るのだが、いかにオンボロなドアでも、意地というものがあるらしく(?)頑《がん》として抵《てい》抗《こう》している。
「やれやれ……」
室田は顔を真赤にして息をついた。
「手伝いますよ」
「そうですなあ」
室田はちょっと考え込《こ》んでいたが、やがて手を打って、「——そうだ! それじゃ、草永さん、私の体を引っ張って下さい。それならドアに触《ふ》れないから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ」
「うるさいんですねえ」
「法というものは、そんなものですよ」
と、室田は真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で言った。
せーの、とかけ声こそ出さなかったが、ドアのノブをつかんだ室田を、後ろから抱《だ》きつくように草永が引《ひつ》張《ぱ》るという、あまりはた目には美学的といえない光景は、しかし、長く続ける必要はなかった。
さすがに草永も若《わか》いだけに力がある。バリッと音がして、ドアの鍵《かぎ》は一度で壊《こわ》れてしまった。
「——やれ、助かった。じゃ、お二人は外にいて下さい。中へ入ると、やはり家《か》宅《たく》侵《しん》入《にゆう》に——」
と室田が律《りち》儀《ぎ》に言いかけると、
「誰《だれ》か倒《たお》れてる!」
と、中を覗《のぞ》き込《こ》んだ文江が声を上げた。
「これは……」
中へ入って、室田が明りを点《つ》ける。「——草永さん、すみませんが、一一〇番に知らせてくれませんか」
「分りました。じゃ隣《となり》の家で」
草永が飛び出して行く。
文江はゴクリとツバを飲み込んだ。——殺されかけたことはあっても、殺された人間を見るのは初めてである。
「どうやら坂東らしい」
と、室田が上って言った。
「奥《おく》さんの方は——」
「いないようですね。捜《さが》してみましょう」
さすがに室田は落ち着いている(当然のことだが)。文江も恐《おそ》る恐る上り込《こ》んで、倒《たお》れている老人の方へかがみ込んだ。
確《たし》かに坂東和也の父親だ、と信じるのに多少時間がかかった。
一つには、七年前とは別人のように老《ふ》け込んでいるからであり、もう一つは、首に細い紐《ひも》が深々と食い込んでいて、カッと目を見開き、口がポッカリと、まるで大きな穴《あな》のように開いて、苦《く》悶《もん》の表《ひよう》情《じよう》で、顔を歪《ゆが》めていたからでもある。
「——奥さんの方はいませんな」
と、室田は戻《もど》って来て言った。「どうです? 顔には見《み》憶《おぼ》えは?」
「ええ……。あります。でもこんなに……」
と言ったきり、胸《むね》がむかついて来て、文江は部屋を飛び出してしまった。
8 再《ふたた》び村へ
絞《こう》殺《さつ》。
犯《はん》人《にん》はあの男だろうか?——文江としても、こんなことになっては、襲《おそ》われたことを室田に話さないわけにはいかなくなってしまった。
「——何かあったのかな、とは思っていたんですがね」
と、室田は渋《しぶ》い顔で言った。「すぐに連《れん》絡《らく》してもらえば……」
「申し訳《わけ》ありません。何だか、私《わたし》個《こ》人《じん》の戦いだ、っていう気がして」
「まあ、気持は分りますがね」
室田は文江の首の傷《きず》を見て、「こいつは、なかなかのプロですな」
と言った。
「そうですか?」
「こんな風に、強すぎず弱すぎずの力で絞《し》めるのは難《むずか》しいもんですよ。まあ、別《べつ》に感心するつもりはありませんがね」
室田がそう言ってニヤリと笑《わら》ったので、文江はホッとした。
アパートの部《へ》屋《や》は、ただでさえ狭《せま》いのに、白《しろ》手《て》袋《ぶくろ》をはめた刑《けい》事《じ》たちや、鑑《かん》識《しき》の人間たちで、ますます狭くなっていた。
検《けん》死《し》官《かん》は死体をじっと見て、
「絞《こう》殺《さつ》だね」
と、よく分っていることを言った。「死後半日はたっている。正《せい》確《かく》なところは分らないが」
「つまり、十二時間以上ということですか?」
と、室田が訊《き》いた。
「そう。それ以上は確《かく》実《じつ》にたっている」
ということは、と文江は思った。——朝の八時には、もう坂東は殺されていたことになる。
隣《となり》の主《しゆ》婦《ふ》の証《しよう》言《げん》が正しければ、坂東の妻《つま》がここを出たのが朝十時。ということは……。
「まさか、室田さん」
と文江は言った。
「どうも坂東は妻に殺されたらしいですな」
室田は難《むずか》しい顔で言った。
「でもどうして?」
「動機は窺《うかが》い知れませんが、現《げん》在《ざい》のところでは、妻の容《よう》疑《ぎ》が濃《こ》いということですよ」
「でも、奥《おく》さんに殺せるでしょうか? それも首を絞《し》めてですよ」
「それは何とも言えません」
と、室田は肩《かた》をすくめた。「可《か》能《のう》性《せい》の問題なら、たぶん可能でしょう。しかし、それが真相だったのかどうかは別問題ですからね」
「私を襲《おそ》った男が犯《はん》人《にん》じゃないでしょうか、同じように首を絞《し》めているし……」
「その可《か》能《のう》性《せい》もあります。——ともかく、ここは私の出る幕《まく》じゃないのです。何しろ警《けい》視《し》庁《ちよう》の所《しよ》属《ぞく》じゃありませんからね。あなたのマンションへ行ってもよろしいですか? 例の男が何か残していないか、調べてみたいと思うんですが」
「ええ、もちろん」
と、文江は肯《うなず》いた。「でも、あの男、手《て》袋《ぶくろ》をはめていたみたいだし、何も残っていないと思いますけど」
そこへ、警官がやって来た。
「室田さんですか」
「はあ」
「無《む》線《せん》が入ってます」
「どうも」
室田が行ってしまうと、文江も、部屋を出て、外の空気を吸《す》い込《こ》んだ。坂東の父親が殺された。そして母親が姿《すがた》を消した。——なぜだろう? 一体何が起ったのか?
文江は坂東の両親のことを思い出してみた。父親は確《たし》か坂東市《いち》之《の》介《すけ》といった。役者みたいだといつもみんなが言っていたのを、憶《おぼ》えている。
母親の方は?——至《いた》って記《き》憶《おく》が薄《うす》い。
名前は何といったろう? それさえ定かではない。
いつも「和ちゃんのお母さん」であり、「坂東のとこのかみさん」であった。大体が目立たない、寡《か》黙《もく》な人だった。
万事控《ひか》え目で、何事にも夫を第一、次に息子《むすこ》を立てた。村人たちの、噂《うわさ》話《ばなし》の環《わ》に加わらなかったというだけでも、ちょっと変ったタイプの人だったということは分る。
父親は、かなりおおらかで、気の大きな人だったが、それだけに、ああして老《ふ》け込《こ》んでしまうと、違《ちが》いが大きいのだ。
息子の和也は、どちらかというと母親似《に》だった。
少し神《しん》経《けい》質《しつ》なところがあって、一人っ子だったせいもあるのだろうが、母親っ子であった。よく父親が苦々しい顔で息子を見ていたのを、文江は憶《おぼ》えている。
しかし、何といっても坂東市之介にとって和也は自分の夢《ゆめ》をかけた一人息子だったのだ。その息子が殺人容《よう》疑《ぎ》者《しや》となり、そして自殺してしまったとなると、父親の絶《ぜつ》望《ぼう》感《かん》は想《そう》像《ぞう》がつく。
あの老けようも、納《なつ》得《とく》できるというものだ。だが、あの二人の生活を助けていたのは、誰《だれ》なのだろう? おそらく、村人の中の一人に違《ちが》いないが。
そして、ごくたまに訪《たず》ねて来たという年《とし》寄《よ》りは……。
どうやら、坂東夫婦の暮《くら》しも、単《たん》純《じゆん》に、故《こ》郷《きよう》を追われた人のそれではなかったようだ。
あの母親——静かではあるが、田舎《いなか》育ちの婦《ふ》人《じん》らしく、がっしりとした体つきだったあの婦人はどこへ行ったのだろう?
「——おい、もういなくてもいいんだろう」
と、草永がやって来た。
「室田さんを待ってるのよ」
と言ったところへ、当の室田が戻《もど》って来る。
「いや、申し訳《わけ》ないんですが、やはり急いで帰らにゃなりません。あなたの件《けん》は、明日、地《じ》元《もと》署《しよ》の刑《けい》事《じ》が伺《うかが》うそうですから」
「分りました」
「充《じゆう》分《ぶん》に用心して下さいよ」
と、室田は言った。
「僕《ぼく》がついています」
と、草永が真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で言う。
「また田《でん》村へ、戻《もど》りますか?」
「そのつもりです」
と文江は言った。
「じゃ、あちらでお目にかかれるでしょう。——何か、例の男のことで思い出したことがあれば、連《れん》絡《らく》して下さい」
室田が急ぎ足で行ってしまうと、文江と草永は、現《げん》場《ば》を離《はな》れて、夜の町を少し歩いた。
「——にぎやかね。この辺は、いつも」
「そうだな」
「人一人、死んでも、別に誰《だれ》も気にしないんだわ」
文江は、少しこわばった声で言った。
「あんまり考え込《こ》むなよ」
「無《む》理《り》言わないでよ」
と、文江は食ってかかるような言い方をした。
「分った。でも、飲んで忘《わす》れようなんてのはやめた方がいいぜ」
「飲むもんですか」
文江は言った。「こんなときに酔《よ》えやしないわ。お金のむだよ」
「そうそう。それでいいんだ」
草永が文江の肩《かた》を抱《だ》いた。
「——分る? 私《わたし》が帰《き》郷《きよう》したばっかりに、死ななくてもいい人が死んじゃったわ」
「うん……。しかし、君が殺したんじゃない。それを忘《わす》れるなよ」
「忘れちゃいないわ。だから憎《にく》らしいのよ、犯《はん》人《にん》が」
「あの男か、それとも坂東の奥《おく》さんか……」
「きっとあの男だと思うわ」
と、文江は言った。「あなたも首を絞《し》められたら、そう思うわよ」
「——どこかへ行こうか? 今夜はずっと付き合うよ」
「そうね……」
文江は、ちょっと考えて、「ホテルもバーもお金がかかるわ。ベッドならマンションにあるんだから、マンションに帰りましょう」
「女は不思議だな」
と、草永は笑《わら》って、肩《かた》を抱《だ》く腕《うで》に力を入れた。
「——帰るのか?」
と、草永が言った。
毛布の下でまどろんでいた文江は、目をトロンとさせたまま、
「ここ、私のマンションよ」
と言った。
「違《ちが》うよ。君のデンデン村のことさ」
文江は笑《わら》って、
「デンデン村か。——そうね、帰るわ。今度こそ、事《じ》件《けん》が片《かた》付《づ》くまで戻《もど》って来ない」
「心配だな」
「じゃ、ついて来てよ」
「いいとも」
文江は起き上った。
「冗《じよう》談《だん》でしょ?」
「本気さ」
「会社は?」
「休《きゆう》暇《か》を取る。——クビならクビでも、別に構《かまい》やしない。何しろ、各社引《ひつ》張《ぱ》りダコだからね」
文江は草永にキスした。
「そうなったら、養ってあげるわね」
「失業保《ほ》険《けん》があるさ」
と、草永は言った。
「いつまでもくれるわけじゃないのよ。——あら」
電話が鳴った。文江は裸《はだか》の体にバスローブをはおって、ベッドから出た。
「はい、常石です」
「文江なの? まだ起きてた?」
「あら、お母《かあ》さん。こんな夜中に——。母からよ」
と、草永の方へ言う。
「どなたかいらっしゃるの?」
と公江が訊《き》いて来る。
「ええ、恋《こい》人《びと》がいるの」
「あら、そうなの。かけ直す? 途《と》中《ちゆう》なら悪いから」
「お母さんたら——」
と、文江は笑《わら》った。
「今度紹《しよう》介《かい》しておくれ」
「連れて行くわ。泊《と》めてあげてね」
「いいよ。でも、部《へ》屋《や》は別にしないと、うめがやかましいからね」
「そうね。——お母さん、聞いた?」
「坂東さんのことね。さっき白木さんが来て話してくれたよ」
「ひどいことになっちゃったわ。——奥《おく》さんの方、何ていう名だっけ?」
「坂東雪《ゆき》乃《の》さんというのよ。行方《ゆくえ》が分らないんですって?」
「そうなの。まさかあの人が殺したとは思えないんだけど……」
「強い人だったけどね。——ああ、ところでね、こんな時間に悪いと思ったんだけど、お寺の方から、ぜひお前に顔を出してほしいって言われて」
「お寺?」
「何しろ、お前の葬《そう》式《しき》が済《す》んでるだろ。お墓《はか》もあるしね。何とかしないと」
「あ、そうか」
なるほど、もう自分の墓があるわけだ。
「ちょっと早手回しね」
「私もまだしばらく使う気はないし。帰って来たら、顔を出しとくれ。和《お》尚《しよう》さんも会いたがってたからね。——え? 何?」
「どうしたの?」
「うめが来てるの、待って」
少し、モゴモゴという声がして、もう一度母の声がした。
「お客様なの。またかけるよ」
「こんな時間に?」
「そうなんだよ」
と、公江の声は、少し低くなっていた。「坂東雪乃さんだって」
汽《き》笛《てき》が鳴った。
ホームへ降《お》りると、草永が荷物を持ち直した。
「さあ、行こう」
文江は、改《かい》札《さつ》口《ぐち》の方へ歩き出した。風の強い日だ。
「やあ、文江さん」
駅長の金子が、声をかけて来た。「この間は見《み》違《ちが》えてしまってね」
「ごぶさたしてます」
と文江は言った。
何だか妙《みよう》だが、他に言いようもない。
「すっかり、いい娘《むすめ》さんになったね」
と、金子は言った。
言い方に、どこかぎこちないところがあるのは仕方あるまい。文江の帰《き》郷《きよう》と、それが引き起こした事《じ》件《けん》のことが、この狭《せま》い村の中に、知れ渡《わた》っていないはずはないのだ。
「お母さんがお待ちだよ」
と金子が言った。
駅の前に、公江が、うめと一《いつ》緒《しよ》に立っているのが見えた。
「——お母さん! わざわざお出《で》迎《むか》え?」
文江の声は弾《はず》んでいた。
「お前はどうせ荷物を彼《かれ》氏《し》に持たせてるんだろうと思ってね。やっぱり思った通りだわ。うめ、持っておあげ」
「あ、いや、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です」
と、草永があわてて言った。
「まあ、任《まか》せなさい」
と、うめが草永の手から荷物をもぎ取る。
文江が、草永を母に紹《しよう》介《かい》した。
「まあ、いつも娘《むすめ》がお世話になって」
と公江は草永に言った。
「いえ、こちらこそ——」
「この子の相手は大変でしょう」
「何よ、お母さん、その言い方」
と、文江は苦《く》笑《しよう》した。
「さ、ともかく家へ参りましょう」
四人は村の中を歩き出した。
「——村が静かね」
と文江は言った。
奇《き》妙《みよう》に、人の姿《すがた》が見えない。ひっそりとして、もちろん店などは開いているのだが、そこにも客の姿はあまりなかった。
「この二、三日、こんな風よ」
「どうして?」
「雪乃さんが帰って来たからでしょう」
文江は母の顔を見た。——マンションに、母から電話があったのが三日前である。
「あの後、結局どうなったの?」
と文江は訊《き》いた。
「それがちょっと、妙な具合になってね」
公江は首を振《ふ》って言った……。
公江が玄《げん》関《かん》へ出て行くと、坂東雪乃が、立っていた。
いや、一人の老《ろう》婦《ふ》人《じん》が立っていた、と言うべきだろう。
人の顔を憶《おぼ》えることには自信のある公江でも、その婦人が雪乃だということを納《なつ》得《とく》するのに、しばらくかかった。
「——まあ、雪乃さん! お久しぶりね」
公江は、静かに呼《よ》びかけた。
「ごぶさたいたしまして」
と雪乃は頭を下げた。
「お上りなさいよ、そんな所じゃ、話も——」
「いえ、すぐに失礼しますから」
「そんなことを言わないで……」
「いえ、本当に」
「そうですか」
公江は、上り口に座《すわ》った。「うちの娘《むすめ》のために、とんでもないことになって、本当に申し訳《わけ》ないと思っていますわ」
「いいえ、奥《おく》様《さま》」
と、雪乃は遮《さえぎ》って、「とんでもないことでございます。うちの子は、お宅《たく》のお嬢《じよう》様《さま》とはとても仲《なか》が良かったのですから」
「そうでしたね」
「あんなことになったのも、和也自身にも責《せき》任《にん》があります」
と、雪乃は言って、ちょっと目を伏《ふ》せた。
「でも……」
「奥《おく》様《さま》」
と、雪乃は、真《まつ》直《す》ぐに公江を見つめた。
その視《し》線《せん》は、公江ですら、一《いつ》瞬《しゆん》たじろぐほど冷たく、そして異《い》様《よう》な火で輝《かがや》いていた。
「もうお聞き及《およ》びでしょう?」
公江は少し間を置いて、
「ご主人のことですね」
「そうです。主人は亡《な》くなりました」
と雪乃は言った。
「お気の毒でしたね」
「いいんです。あの人はいわば自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》ですから」
公江はいぶかしげに、
「どういう意味です?」
と訊《き》いた。
「私《わたし》は殺していません」
雪乃は言った。「それは信じて下さい。私はやっていません」
「信じていますよ、もちろん」
「ありがとうございます」
雪乃は、ホッとしたように言った。「この村で、私が信じられるのは奥《おく》様《さま》だけでございます」
「信じていてくれるなら、上って、ゆっくり話をしましょう」
「いいえ」
と、雪乃は首を振《ふ》った。「これから用がございますので」
「こんな夜中に? どこへ行こうというんです?」
「私の用は長くかかります。たぶん、何か月も」
「——その間、どこにいるつもりですか?」
「さあ……」
雪乃は、ちょっと笑《え》みを浮《う》かべた。「どこにでも。山の中、水の中、雪の中でも」
「そんな謎《なぞ》めいたことを言って——」
「決して、もったいぶっているわけではございませんの」
雪乃は一つ息をついて、「村の方々にお伝え下さいませんか」
「何と言えば?」
「村の方々から、お借《か》りしたものを、近々、お返しにあがります、と」
雪乃の言い方には、何か、ねっとりと絡《から》みつくような調子があった。
「それは、どういう意味ですか?」
と公江は膝《ひざ》を進めた。「——雪乃さん、妙《みよう》な考えは捨《す》てて下さいね」
「ご心配なく。決して、無《む》茶《ちや》はいたしませんから」
雪乃は、深々と頭を下げた。「では本日はこれで失礼いたします」
「雪乃さん——」
公江は呼《よ》びかけたが、もう雪乃は、玄《げん》関《かん》から出て行っていた。
「——じゃ、つまり」
と文江は言った。「雪乃さんは、息子《むすこ》の死の復《ふく》讐《しゆう》に来たとでもいうの?」
「彼女《かのじよ》の言葉をどう取るか、よ、それは」
と公江は言った。
「で、村の人たちが、引っ込《こ》んじゃってるんですか?」
と、草永が訊《き》いた。
「それに色々と尾《お》ひれがついてね」
「尾ひれ?」
「出て行った雪乃さんを私が追いかけて玄関から出ると、もうどこにも姿《すがた》は見えなかった、ってことになってるの。つまり、まるでこの世の者じゃないように、ね」
「でも、どうして?」
「うめがね、みんなにそう話して回ったのよ」
うめは、ヒョイと横を向いて、聞こえないふりをしている。文江は苦《く》笑《しよう》した。
「ともかく、そんなわけで、村は今、静まり返っているのよ」
「でも、まさか、そんな年《とし》寄《よ》りが村中をどうこうするわけがないと思いますがね」
と、草永は言った。
「村の人たちも、多少後ろめたさは感じているのよ」
と、文江は言った。「だから、そんな噂《うわさ》に怯《おび》えているんだわ」
「白木さんがあちこち駆《か》け回って、雪乃さんがどこにいるのか、調べているけど、まだ分らないのよ」
「でも、こんな小さな村なのに……」
「妙《みよう》な話ね、本当に」
と、公江は肯《うなず》いて、「うめがそばにいなかったら、私《わたし》もあれが夢《ゆめ》だったかと思うところよ」
村を抜《ぬ》けて、常石家へ向う。途《と》中《ちゆう》、閉《と》ざしたままの、坂東の家の前で、何となく四人は立ち止った。
「ここがそうなのよ」
と、文江が言った。
「そうだろうと思ったよ」
と、草永が肯く。「今は誰《だれ》の持物なんだい?」
「さあ。知らないわ」
そういえば、文江は、それを知らなかった。坂東夫《ふう》婦《ふ》のものだったら、売って行ったのではないか。
もちろん、今、村には雑《ざつ》貨《か》屋《や》があって、こんな村の外れで雑貨屋を開く人はないだろう。しかし、取り壊《こわ》せば、立《りつ》派《ぱ》に家の二軒《けん》は建つ広さである。
「——文江!」
と声がして、杉山百代が、赤ん坊《ぼう》を抱《だ》いて出て来た。「帰って来たの? この前は、アッという間にいなくなっちゃうんだもの」
「ごめんね。東京での用を片《かた》付《づ》けてから、ゆっくり来ようと思って。——あ、こちら、ボーイフレンドの草永さん」
百代は草永を見て、
「やっぱり、スマートねえ! うちの亭《てい》主《しゆ》なんか、もう禿《は》げて来ちゃって」
と言ったので、みんな笑《わら》い出してしまった。文江は母に言った。
「少し先に行ってて。後から追いつくから」
草永と、公江、うめの三人が先に行ってしまうと、文江は、真顔になって、