「私のせいで、あなたにも迷《めい》惑《わく》かかってんじゃない?」
と訊《き》いた。
「いいのよ、そんなこと」
「じゃ、やっぱり——?」
「いらないお節《せつ》介《かい》を焼く人がいるわ。しばらく村を出てた方が安全だ、とかね。馬《ば》鹿《か》らしいったらありゃしない!」
百代は赤ん坊《ぼう》を抱《だ》き直して、「私は亭《てい》主《しゆ》と二人の子《こ》供《ども》をかかえてるのよ。これで村を出てどこへ行けっていうのかしら?」
文江は微《ほほ》笑《え》んだ。母親になると、こうも女は強くなるものだろうか?
「聞いてるでしょ、和也君のお母さんが——」
「うん。だけど、忙《いそが》しくって怖《こわ》がってる暇《ひま》なんかないわ。それに恨《うら》まれる覚えもないしね。そりゃ私の証《しよう》言《げん》が、和也君をあそこまで追いやるきっかけになったのは事実だけども、だけど、和也君だって、怪《あや》しまれるようなこと、してたわけだし……」
言葉とは裏《うら》腹《はら》に、やはり、怯《おび》えないまでも、かなり気にしている様子はよく分った。
「和也君は、私を殺していない代りに、やっぱり何《ヽ》か《ヽ》していたのよ。それが何だったのか、調べたいの」
「でも、どうやって?」
「何とかするわ。昔《むかし》から、やると言ったことは必ずやりとげたでしょ?」
「じゃ、探《たん》偵《てい》になるの? 凄《すご》いなあ!」
と百代は愉《たの》しげに言って、「私も仲《なか》間《ま》に入りたいけど、でも、コブつきじゃね」
「あなたを危《あぶな》い目にあわせるわけにはいかないわよ」
「ねえ、さっきの彼《かれ》氏《し》とは同《どう》棲《せい》中《ちゆう》?」
「そうじゃないわ。別々よ。時々、お互《たが》いに行き来するだけ」
「でも、泊《とま》ってくんでしょ?」
「まあね」
「やるわね! 私なんか、初夜の晩《ばん》まで娘《むすめ》のままよ。つまんないこと——」
百代は笑《わら》って言った。
少しも変っていない。文江は、百代の笑《え》顔《がお》で、すっかり心が軽くなるのを感じた。
母たちの後を追って、文江は歩いて行った。——向うからバイクがやって来る。
「転ばないで下さい!」
と、文江は大声で言った。
室田刑《けい》事《じ》だったのだ。
「やあ! お帰りですか!」
と室田が片《かた》手《て》を上げた。
「危《あぶな》い!」
ドシン、とみごとにバイクはひっくり返った……。
9 沈《ちん》黙《もく》の村
「——一《いち》応《おう》、坂東雪乃は、重要参考人として手配されています」
と、室田が言った。
常石家の居《い》間《ま》である。うめがお茶を運んで来た。
「あの奥《おく》さんがご主人を殺すとは思えませんわ」
と、公江は言った。
「でも、ご主人が殺された時間には、まだ奥さんはあのアパートにいたのよ」
と文江がお茶をすすりながら言った。
「そうなんです。ただ、ああいう、年を召《め》した婦《ふ》人《じん》が、男を殺そうという場合、まず刃《は》物《もの》で刺《さ》すとか、あまり強い力を必要としない方法を取るのが普《ふ》通《つう》です。首を絞《し》めてというのは、ちょっとひっかかるところなんですよ」
「酔《よ》い潰《つぶ》れていたら、どうですか?」
と、草永が訊《き》く。
「その可《か》能《のう》性《せい》はあります。しかし、あの部屋の中には、アルコール類の容《よう》器《き》は一つもなかったです」
さすがに室田はちゃんと見ているのだ。
「坂東さんが、なぜ殺されたのか、不思議ですね」
と、公江が言った。
「そうなのです。いや、さすがにいい所に目をつけておられる」
どうやら、室田は女《じよ》性《せい》をの《ヽ》せ《ヽ》る《ヽ》ことにかけてはベテランらしい。「——坂東夫《ふう》婦《ふ》の暮《くら》しについては、色々と疑《ぎ》問《もん》が多いのです」
「まず、どこで生活費を得《え》ていたか、ですね」
と文江が言った。
「そうです。地元の警《けい》察《さつ》の調べで、毎月、坂東市之介の口《こう》座《ざ》へ、金が振《ふ》り込《こ》まれていたことが分りました。月に二十万です」
「二十万。——東京で暮《くら》すにはぎりぎりの収《しゆう》入《にゆう》ね」
「しかし、老人二人ですからね。誰《だれ》が振り込んでいたのかは分りません。同じ東京都内の支《し》店《てん》から入れられているんです」
「じゃ、東京の人が? 親類でもいたのかしら?」
「そうではないようです。少なくとも血《けつ》縁《えん》関係のある者で、東京にいる者は、一人もいません」
「じゃ、誰《だれ》が——」
「分りません。これは一つの謎《なぞ》です」
「ですが」
と、公江が言った。「毎月二十万円のお金といったら、決して少ない額ではありませんよ」
「そうなんです。ある程《てい》度《ど》、自分の生活にゆとりのある人でなくては、できないことでしょう」
草永が口を挟《はさ》んで、
「しかし、二十万という額《がく》は、たとえば、口止め料とか、そういう類《たぐい》の金としては、多いとはいえませんね」
「口止め料ってどういうこと?」
「たとえば、の話さ。和也君の死に責《せき》任《にん》がある誰かが払《はら》っていたとすれば——」
「やはり、二十万という金額は、かなりゆとりのある人が、好《こう》意《い》で送っていた、とみるべきでしょうね」
と、室田は言った。「もっとも、却《かえ》って、それが良くなかったようですが」
「というと?」
と、公江が不思議そうに訊《き》いた。
「坂東は働けば、まだ働ける体だったのに、まるで仕事を捜《さが》そうともしなかったのです。どうやら、七年の間に、すっかり人《ひと》柄《がら》は変ってしまっていたようですよ」
「難《むずか》しいものですね、人間というのは」
「全くです。——まあ、妻《つま》の雪乃の方は、もともと地味な性《せい》格《かく》の女だったようですね」
「そうです」
「ここへやって来て、なぜあんなことを言って行ったのでしょう?」
「さあ……」
「本当に、誰《だれ》かに復《ふく》讐《しゆう》するつもりなら、そんなことを匂《にお》わしたりはしないものですからね」
室田の言葉は、少し文江の気持を楽にしてくれた。
「でも、村の人たちは、びくびくしているようですわ」
と公江が言った。
「いつまでも続きはしませんよ。何日かたてば、人間の生活は元に戻《もど》ります」
室田の言葉に、公江は微《ほほ》笑《え》んで、
「あなたは私とよく似《に》た考え方をなさる人ですね」
と言った。
室田は照れて頭をかいた。
眠《ねむ》りに入りかけた文江は、ふと冷たい風に目を開いた。
障《しよう》子《じ》が開いている。——誰《だれ》だろう?
エイッとばかり、布《ふ》団《とん》に一気に起き上ると、
「ワッ!」
と、びっくりして草永がひっくり返る。
「何だ、あなただったの。声をかけりゃいいのに」
「だって……眠ってるかと思ったんだよ」
草永は、部《へ》屋《や》へと這《は》入《い》って来て、「まだ十一時だぜ」
「こういう所に来ると、早《はや》寝《ね》早起きの習《しゆう》慣《かん》がつくわね」
「あの、うめって人、何時頃《ごろ》起きるんだ?」
「五時には起きるんじゃないかしら」
「五時!——じゃ、自分の部屋で寝なきゃだめだな」
「当り前よ」
「でも——その前なら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろ?」
と、布《ふ》団《とん》へ潜《もぐ》り込《こ》んで来る。
「私《わたし》たち、新《しん》婚《こん》旅行に来てるわけじゃないのよ」
「分ってる」
「殺人事《じ》件《けん》の捜《そう》査《さ》なのよ」
「分ってる」
「それなのに——そんなことしてて——」
「分ってるってば」
草永の唇《くちびる》を、文江の唇が受け止めて、二人は抱《だ》き合った。——が、すぐに邪《じや》魔《ま》が入ることになっていた。
「——あの音は?」
と、体を起こしたのは、草永の方だった。
「え?」
「ほら——ジャンジャン鳴ってる」
「半《はん》鐘《しよう》だわ。火事だわ、きっと!」
文江は飛び起きて、窓《まど》へと駆《か》け寄《よ》った。
「見て! 村の方よ!」
都会と違《ちが》って、本当の闇《やみ》が続く夜の奥《おく》で、赤く、明るい一角があった。
「大変だわ!」
「行ってみよう」
草永は自分の部《へ》屋《や》へと駆け戻《もど》った。
二人が服を着て一階へ降《お》りて行くと、公江が出て来た。
「お母さん、火事?」
「そうらしいよ。駅の方だって。——行ってみてくれる?」
「いいわ。草永さん、行きましょう」
「よし。——燃《も》え広がると危《あぶな》い」
「ここまでは来ないわよ」
と文江は言った。「でも村は危いわね」
村まで、二人は走った。文江も、若《わか》いつもりであるが、何しろ運動不足は如何《いかん》ともしがたい。
途《と》中《ちゆう》で大分息切れがした。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい?」
「平気——平気。こんなことで——へばってたまるかって!」
「無《む》理《り》すんなよ」
村外れまで来ると、子《こ》供《ども》を抱《だ》いた百代が、道に出ていた。
「百代! どうなの?」
「あ、文江。——何だか駅の向う側らしいのよ」
「駅の向う?」
と文江は訊《き》き返した。「何もないじゃないの。倉庫ぐらいで」
「その倉庫らしいわ。今、消火しているところよ。主人も駆《か》けつけて行ったけど」
「よし。行ってみよう」
文江は、草永の後を追って駆け出した。
駅の近くでは、村の人たちが総《そう》出《で》で、火の様子を見守っていた。
「駅の向う側に、木《もく》造《ぞう》の倉庫があるの。それが燃《も》えてるらしいわ」
と、文江は言った。「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ、ほら。大分火が弱まってるわ」
「残念。僕《ぼく》の出る幕《まく》がなかったか」
「何言ってるの。——それにしても変ね。あんな所から、どうして火が出るのかしら?」
「放火かな」
「まさか」
と反《はん》射《しや》的に言って、文江は、草永の顔を見た。「あの犯《はん》人《にん》が?」
「かもしれない」
二人が、村人たちから少し離《はな》れて立っていると、
「やあ、来ていたのかね」
と、やって来たのは、駅長の金子だ。
「どうしたんですか?」
「いや、分らん。そんな危《あぶな》い物は一つも入ってなかったはずなんだよ」
「じゃ、原《げん》因《いん》は分らなくて——」
「うん。どうも付け火じゃないかな」
「でも誰《だれ》が?」
「子《こ》供《ども》が、坂東のとこの奥《おく》さんらしい女を見たとか言っとるんだが、ちょっと怪《あや》しい。しかし、村の連中は信じるかもしれないよ」
まずいな、と文江は思った。
こういう噂《うわさ》が、また一つの罪《つみ》を作り出してしまう。
「でも、あの人は七年間、ここにいなかったわけでしょう。なぜ子供が顔を知ってるんです?」
と、草永が訊《き》くと、金子は、ちょっと肩《かた》をすくめて、
「知らんね」
と言った。
金子が行ってしまうと、文江と草永は顔を見合わせた。
「——ああいういい加《か》減《げん》なところが、悪いんだな」
「仕方ないわよ」
と文江は金子を見送って、「下手《へた》すれば、自分の責《せき》任《にん》になるでしょ。だから、ともかく、犯《はん》人《にん》を見付けないとね」
「なるほど。しかし、村の住人としても、犯《はん》人《にん》を外《ヽ》に《ヽ》捜《さが》したいんだろうな。その気持、分るね」
「きっと、雪乃さんの仕《し》業《わざ》だって話が、アッという間に広がるわ」
と、文江は言った。
火は急速に衰《おとろ》えつつあって、村人も少しずつ家に戻《もど》り始めていた。
「おはよう」
食卓について、草永は言った。
「起こされた?」
「ああ、五分遅《おく》れたら、朝食がなくなる、とおどかされたよ」
文江は笑《わら》って、
「都会風の朝食にしてあげたわ。——さ、コーヒー。ゆうべは寝《ね》不《ぶ》足《そく》じゃない?」
「いや、そんなことないさ。仕事の忙《いそが》しいときは、もっと睡《すい》眠《みん》時間が短いこともあるからね」
「へえ、意外と働き者なのね」
「意外と、ってことないだろ」
草永はトーストにかみついた。
「今日は、まず、ゆうべの火事のことを調べましょう。何か関係ありそうだわ」
「偶《ぐう》然《ぜん》にしては、ちょっとおかしいね」
「やっぱり放火の線ね。でもなぜ?」
「一種の象《しよう》徴《ちよう》かもしれないぜ。村の人たちをおどかすための……」
「そうかなあ」
「そうでないとすると——」
と言いかけて、草永は、ふとコーヒーカップを持つ手を止めた。
「なあに?」
「もしかして、村の人たちが外へ出て来るように仕向けたのかもしれない。火事に気を取られている間に——」
「まさか、そんな!」
「しかし、他《ほか》に何か考えられるかい?」
「分らないけど……」
文江は思い切りコーヒーを飲み干《ほ》すと、立ち上った。「じゃ、村へ行ってみましょうよ!」
二人は、村への道を急いだ。
今日は風もない、穏《おだ》やかな日で、まだ時間が早いせいもあって、爽《さわ》やかな朝である。しかし、二人は、そんな雰《ふん》囲《い》気《き》を味わっている気分ではなかった。
「——ねえ」
と文江が言った。
「何だい?」
「本当に、坂東さんの奥《おく》さんが村の人に仕返しに来たんだと思う?」
「僕《ぼく》は村の人間じゃないから分らないな。でも、よほどのことがなければ——」
「見て! 白木さんよ」
白木巡《じゆん》査《さ》が、自転車を飛ばして来るのが見えた。
「——白木さん! どうしたの?」
と、文江が声をかける。
「や、こりゃ文江さん」
と、白木が自転車を止めて、「えらいことになって……」
「ゆうべの火事のこと?」
「火事? ああ、それもそうですがね、金子駅長が、死んだんですよ」
文江は、息を呑《の》んだ。そして、思わず、草永の手を、しっかり握《にぎ》っていた。
10 焼《やけ》跡《あと》の男たち
金子駅長が死んだ。
文江には、正《まさ》に予想もできないことであった。
「金子さんが……。でも、ゆうべ火事のときに、会ったわよ」
「ええ、私《わたし》ももちろん、あそこで会って話もしましたがね」
「でもなぜ——」
「どうやら睡《すい》眠《みん》薬《やく》の服《の》み過《す》ぎだったらしいんですわ」
と白木巡《じゆん》査《さ》は言った。
「すると自殺ですか?」
と草永が訊《き》いた。
「さあ、それは……。何しろ、ついさっき、奥《おく》さんから届《とど》け出があったばかりでして。じゃ、急ぎますので——」
白木は、自転車にまたがって、文江の家の方へ向けて急いで行った。
「君の所へ行くのかな」
「そう。母に話しに行くんでしょ。何しろ、村の主《ぬし》みたいなものですからね」
「へえ、大したもんだな。——じゃ、どうする?」
「そうねえ。せっかく出て来たんだし、ともかく、火事の現《げん》場《ば》まで行ってみない?」
「そうするか」
二人は、また歩き出した。
「ところで、君のお母さんは別に村長さんってわけじゃないんだろ?」
「もちろんよ」
と、文江は笑《わら》った。「でも、新しく村長さんが決ると、必ず母のところへ、いかがでしょうか、っておうかがいをたてに来るのよ」
「へえ! 大したもんだなあ」
と、草永は目を丸《まる》くした。「拒《きよ》否《ひ》権《けん》があるのかい?」
「そんなんじゃないのよ。ただの習《しゆう》慣《かん》ね。別に、こんな人じゃだめ、なんて言ったことないんだもの」
二人は、坂東の、閉《し》め切った家の前を通りかかった。杉山百代が、玄《げん》関《かん》の前をはいている。
「おはよう!」
と、文江が声をかけると、
「お揃《そろ》いで散歩?」
と百代が冷やかす。
「そんなところ。——働き者になったじゃない、ずいぶん」
「昔《むかし》からよ」
百代は笑《わら》って、言った。それから、少し声を低くして、
「ね、さっき白木さんが、えらい勢いで吹《ふ》っ飛んでったけど、会った?」
と訊《き》く。
「うん。——金子さんが亡《な》くなったんですって」
百代は、一《いつ》瞬《しゆん》ポカンとしていた。
「——駅長さんが?」
「そうらしいわ。私も今聞いてびっくりしたのよ」
百代は胸《むね》に手を当てて、目をつぶった。必死で息を鎮《しず》めているという格《かつ》好《こう》である。
「どうしたの?」
と、文江が訊《き》く。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。——ただ、びっくりして。文江ったら、少し予告ぐらいしてよ。『大変なことがあったのよ』とか。みんながみんな、文江ぐらい度《ど》胸《きよう》があるとは限《かぎ》らないんだから」
文江は、チラッと草永の方を見た。——私ってそうなのかしら? 少し感《かん》受《じゆ》性《せい》が鈍《にぶ》くなってるのだろうか。
もっとも、都会の中で、一人の力で生き抜《ぬ》いて来るには、このあたりで暮《くら》すより、男《おとこ》勝《まさ》りの度《ど》胸《きよう》を必要とするのは事実である。
「ごめんね、百代」
「いいの。——ただ、金子さんは、私たちの結《けつ》婚《こん》のときの媒《ばい》酌《しやく》人《にん》だったし……」
「そうだったの。知らなかったわ」
「どうして亡《な》くなったの? まさか——その——」
百代は、「殺されたの?」という問いを言外に含《ふく》ませて、文江を見つめた。
「睡《すい》眠《みん》薬《やく》の飲みすぎですって。まだ詳《くわ》しい事《じ》情《じよう》は分ってないのよ」
「そう。でもともかく——急いでお悔《くや》みを言いに行かなくちゃ」
「それは少し落ち着いてからの方がいいよ」
と、草永が言った。「何しろまだ届《とど》けがあったばかりだっていうから」
「そうね。その方がいいわ」
と文江も肯《うなず》いた。「どうせ村の人たちも、みんな行くでしょうからね」
「分ったわ。でも一《いち》応《おう》、いつでも行けるように仕《し》度《たく》しておかなきゃ。主人にも知らせて、戻《もど》って来てもらうわ。じゃ、文江、また後でね」
百代は、そそくさと家の中へ姿《すがた》を消した。
「——村の様子はどうかしら」
と、文江は言った。「きっともう知れ渡《わた》っているわよ」
「行ってみよう」
草永は、文江の肩《かた》を軽く抱《だ》いて、言った。
村は、異《い》様《よう》なほど、静かだった。
人っ子一人、道に出ていない。まるで真夜中のように、戸が閉《と》じられ、カーテンが引かれたままだった。
「——ゴーストタウンね、まるで」
と文江は歩きながら言った。
「いつもこんなに、朝は遅《おそ》いのかい?」
「いいえ。——ずいぶん早くから開くのよ、どの店も。みんな中に閉《と》じこもってるんだわ」
眠《ねむ》っているわけではないのだ。気を付けて見ていると、時々、カーテンが少し動いて、誰《だれ》かの目がチラリと覗《のぞ》いている。
「——何だかいやなムード」
「よくこういうの、西《せい》部《ぶ》劇《げき》にあるぜ。よそ者が来ると、みんながそっと窓《まど》から覗いていて、突《とつ》然《ぜん》、撃《う》ち合いが始まる——」
「冗《じよう》談《だん》じゃないわよ」
と文江はため息をついた。
幸い、鉄《てつ》砲《ぽう》の弾《たま》は飛んで来なかった。
駅の前までやって来ると、庄司鉄男が、ホームにぼんやりと立っているのが目に入った。
「鉄男君」
と、文江が呼《よ》ぶと、
「わっ!」
と、鉄男が飛び上りそうになる。「あ——何だ、お嬢《じよう》さんですか」
「何をそうびっくりしてるの?」
「いや——別に」
と、口ごもって、「一人だから、何だか……何かあったらどうしようって、わけ分んなくて……」
「あ、そうか。駅長さん、大変だったわねえ」
「ええ……」
鉄男は、何だかいやにソワソワして、落ち着きがなかった。
もちろん、駅長が急死して、見習の身で一人になってしまったのだから、心細いには違《ちが》いあるまいが、当然、よそから応《おう》援《えん》もやって来るのだろうし、そう不安がるほどのこともないはずであった。
「——火事の方はどうなった?」
と、文江はホームへ入りながら、訊《き》いた。
もちろん、入《にゆう》場《じよう》券《けん》はいらないのである。
「え?」
と鉄男はキョトンとしている。
「昨夜の火事よ」
「ええ。——消えました」
「そりゃ分ってるけど。今は誰《だれ》がいるの?」
「さあ。——さっきは県《けん》警《けい》の人が来てたみたいですよ。でももういないんじゃないかなあ……」
「ありがとう。行ってみるわ」
文江は、身軽にヒラリと線路に飛び降《お》りた。
「行きましょう」
「よし!——君もやっぱり都会っ子じゃないね。その身軽さは」
草永が、よっこらしょ、という感じで降りて来る。
「線路に降りちゃいけないんだろ」
「めったに列車、来ないもの。——あっちよ」
と、文江は歩き出した。線路わきの土手を下りると、腰《こし》ほどもある草が生《お》い茂《しげ》っていて、その向うが少し小高い丘《おか》になっている。その丘の真中辺りに、ちょっとした建《たて》売《うり》住宅くらいの大きさの、木《もく》造《ぞう》の小屋がある。
いや、あった、と言うべきか。
今は、ほぼ右半分が焼け落ちて失《な》くなっており、焼け残った部分も、真黒く焦《こ》げてしまっていた。
昨日焼けたばかりだというのに、何だか、ずっと昔《むかし》の焼け跡《あと》みたいだった。もともとが古ぼけていたからだろう。
縄《なわ》は一《いち》応《おう》張《は》りめぐらしてあるが、別に警《けい》官《かん》の姿《すがた》は見えない。
「呑《のん》気《き》なもんだな田舎《いなか》の警察は」
と草永が微《び》笑《しよう》した。
「人手がないのよ」
「あの駅員、知ってるのかい?」
「庄司鉄男っていって、まだ十八よ。だから、私がここを出たときは十一だったのね。どうも子《こ》供《ども》のイメージしかなくって」
「何か知ってるんじゃないかな」
文江は草永を見た。
「どういうこと?」
「いや、心ここにあらずって顔だったぜ。何かを知っていて、話そうか話すまいか、迷《まよ》ってるんだ、きっと」
「そうね。——実は私もそんな印《いん》象《しよう》を受けたの」
「気が合うね。さて、中へ入ってみようか」
「だめよ、ロープが張《は》ってあるじゃないの」
「そうかい?」
と、草永はヒョイとロープをまたいで、「気が付かなかったよ」
と言った。
文江も笑《わら》って、ロープをまたいだ。
「——ここは何が入ってたんだい?」
「分らないわ。確《たし》か駅の付《ふ》属《ぞく》の倉庫なのよ。だからきっと道具類とか、そういうものが……」
「中に入ったことはある?」
「そうね……。たぶん、小さい頃《ころ》にはね。でも、はっきりした記《き》憶《おく》はないわ」
「しかし……見ろよ」
と、草永は言った。「燃《も》え残ってるものはガラクタばっかりだぜ」
本当にそうだった。古いベンチ、椅《い》子《す》、机《つくえ》、スコップ、シャベルの類、それに古い布《ふ》団《とん》まである。
「あんまり中へ入らない方がいいんじゃない?」
「うん。後で調《ちよう》査《さ》があるだろうからね」
二人は、残った半分の方へと二、三歩入った所で、足を止めた。
さすがに、少し鼻をつくような匂《にお》いが立ち上って来る。
「放火かしら?」
「こんな所、火の気はなさそうだものな」
「でもなぜ……」
「さっき言ったように、ここへ村の人たちの注意をひきつけるためか、でなければ——」
と草永は中を見回して、「ここに、焼いてしまいたい何《ヽ》か《ヽ》があったのか、だな」
「何か……。でも、こんな所に何を置いておくかしら?」
「正《まさ》に、こんな所、だからさ。——誰《だれ》もこんなガラクタ置場に大切な物があるとは思わないだろうからね」
「鍵《かぎ》はかかってたはずよ」
「誰《だれ》が開けられたんだろう?」
「たぶん……駅長さんだわ」
文江と草永は顔を見合わせた。
「当然、その辺は警《けい》察《さつ》も調べるだろうけど」
と草永は言った。
メリメリ、と、どこかで音がした。
「——あれ、何の音?」
「さあ。板が折《お》れるような……」
と言いかけて、草永は、バラバラと、木《もく》片《へん》が降《ふ》って来るのに気付いた。
二人は、焼け残った屋根の端《はし》の方の真下に立っていた。ギーッという、きしむ音とともに、屋根が落ちて来た。
「危《あぶな》い!」
草永は、文江を抱《だ》きかかえるようにして、逃《のが》れた。燃《も》えて落ちた木材に足を取られて、二人は、濡《ぬ》れた灰《はい》の中へ転《てん》倒《とう》した。
しかし、崩《くず》れ落ちて来た屋根の下《した》敷《じき》にはならずに済《す》んだ。叩《たた》きつけるような音の後に、もうもうと灰《はい》が舞《ま》い上った。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》……かい?」
草永は、むせ返りながら言った。
「ええ。——ああ、びっくりした」
文江も灰を吸《す》って咳《せき》込《こ》んだ。
「けがはない?」
「何とか無《ぶ》事《じ》みたい。——ああ、ひどいわ、真っ黒」
灰やす《ヽ》す《ヽ》が水で溶《と》ければ、正《まさ》に黒いペンキみたいなものである。その中へまともに転り込《こ》んだのだから、ひどいことになる。
顔まで黒い汁《しる》が飛んで、文江は泣《な》きたくなって来た。
「しかし、あの下敷きになることを思えば、まだしもだよ。——さあ、立って」
文江は、草永の手につかまって、立ち上った。
「危《あぶな》かったわね」
「全くだ。しかし、あの音は、自然に折《お》れる音にしては、ちょっと変だったな」
「どういうこと?」
「つまりもしかしたら、誰《だれ》かが——」
と、草永が言いかけたとき、
「見て!」
と、文江は草永の腕《うで》をつかんだ。
男が三人、ロープをまたいで、入って来た。
どの男も、ジャンパーにジーパンというスタイルで、若《わか》いようだった。ようだったというのは、みんな、お面《めん》をつけていたからである。
よく縁《えん》日《にち》で売っているような、ヒョットコ、オカメの面である。それが却《かえ》って無《ぶ》気《き》味《み》に見えた。
手に手に、バットや棒《ぼう》をつかんでいる。
「何だ、君たちは」
と、草永が言った。
「村を出て行け!」
と、面の下から、くぐもった声がした。
「お前らのおかげで、人が死んだんだ!」
「そうだ! とっとと出て行かねえと、叩《たた》き出してやる!」
村の青年たちらしい、と文江は思った。
「あの屋根を落としたのも君たちだな」
「ああ」
「下手《へた》すれば、殺人未《み》遂《すい》だぞ」
「構《かま》うこっちゃねえ。村のためだ」
「そうだ!」
三人の男たちが、一歩進んで来る。文江は後ずさりしたいのを、ぐっとこらえた。
「いい加《か》減《げん》にしなさい!」
文江の声が空気をビリビリと震《ふる》わせるように響《ひび》き渡《わた》って、三人はギョッとしたように身構えた。
文江は、ゆっくりと三人を見回して、
「私は常石文江よ。常石家の娘《むすめ》に乱《らん》暴《ぼう》しようというのね?」
「関係ねえ!」
「そう。じゃ、あなた方のお父《とう》さんにでも、私《わたし》を殴《なぐ》り殺して来たと自《じ》慢《まん》してごらんなさい。あなた方が殴りつけられるでしょうよ」
文江は、きっと三人を見《み》据《す》えた。「やれるもんならやってごらん!」
三人は、明らかにひるんでいた。文江がぐいと前に出ると、あわてて後ずさりする。
「こ、怖《こわ》かねえぞ! こんな小《こ》娘《むすめ》、裸《はだか》にむいてやりゃ、泣《な》いてわめき出すに決ってらあ!」
「そう思うならやってごらんなさい」
文江は、抑《おさ》えつけるような声で言った。「あんたたちの指一本は、かみ切ってみせるからね」
文江は、常石家の娘に戻《もど》っていた。そこには、一種近《ちか》寄《よ》りがたい、威《い》厳《げん》のようなものがあって、見えない壁《かべ》を、男たちの前に立てているようだった。
「——畜《ちく》生《しよう》、今に見てやがれ!」
一人が叫《さけ》んで駆《か》け出すと、後の二人も、あわてて走り去って行った。
——文江は、体中で息を吐《は》き出した。
「驚《おどろ》いたな」
草永はホッと息をついて、「君が急に倍も大きくなったように見えたぜ」
「やめてよ」
文江はムッとしたように顔をしかめて、「もう常石家とは縁《えん》を切ったつもりでいたのに……」
と呟《つぶや》くように言った。
「母には内《ない》緒《しよ》よ。きっと見たら喜ぶでしょうからね」
バタバタと足音がした。
「お嬢《じよう》さん! どうかしたんですか?」
庄司鉄男である。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。ちょっと転んだだけよ」
「でも凄《すご》い音がして……。屋根が落ちたんですね!」
「そうなの。——駅の方はいいの?」
「ええ。今、一本行ったところです。すぐに駆《か》けつけたかったんだけど、ちょうど列車が来て、離《はな》れられなくて」
「いいのよ。心配してくれてありがとう」
「けがはありませんか? 何なら俺《おれ》んとこで顔でも洗《あら》ったら……」
「そうね。でも、駅はいいの?」
「一時間しないと次の列車、来ないですからね」
「鉄男君の家はその線路のわきだったわね」
「ええ、ボロ家ですけど、お袋《ふくろ》はまだ元気にしてますから」
「じゃ、ちょっと寄《よ》らせていただこうかしら。家まで帰るにも、この格《かつ》好《こう》じゃね」
と文江は言った。
鉄男が先に立って、線路沿《ぞ》いの道を走って行く。——少しポツンと離《はな》れて、小さな古びた家が建っていた。