「父親はいないのかい?」
と、歩きながら、草永は訊《き》いた。
「しっ。鉄男君のお母さんはね、いわば未《み》婚《こん》の母なのよ」
「へえ」
「かなり村の人からは冷たく見られていたけど、ついに父親が誰《だれ》なのか、言わなかったの。今じゃ、ごく普《ふ》通《つう》に村の人とも付き合っているけど、やっぱり家は外れにあるでしょ」
「うん。——厳《きび》しいもんだね」
「でも、鉄男君はいい子でね、ひねくれてもいないし。さ、あなたも顔を洗《あら》ったら?」
「そうするか」
二人は、小さな家の玄《げん》関《かん》を、くぐるようにして入った。実《じつ》際《さい》は四十代なのだろうが、もう五十過《す》ぎに見える母親が出て来て、
「まあ、常石様のお嬢《じよう》様《さま》!」
と、頭を下げる。「お帰りと聞いて、喜んでおりました」
「お久しぶりね、おばさん。鉄男君も、すっかり大人《おとな》になって」
「いいえ、まだヒヨッ子で。——そちらの方は?」
「私の婚《こん》約《やく》者《しや》なの。草永さん。——悪いけど火事場を見物していて、転んじゃったの。ちょっと手と顔を洗《あら》わせてくれる?」
「どうぞどうぞ。——お風《ふ》呂《ろ》へ入られては? すぐに沸《わ》きますので。何しろ小さい湯《ゆ》舟《ぶね》ですから」
「あら、でもそんなことまで——」
「構《かま》いませんですよ。さあ、早くお上りになって。汚《よご》れたっていいです、どうせ古い畳《たたみ》ですから。——ともかく、そのコートを——。今、お湯をくんできますから——」
あわただしく動き回る、鉄男の母を見ていた草永は、そっと文江に言った。
「やっぱり君は、常石家のお嬢《じよう》さんなんだよ」
11 深《しん》夜《や》の逢《あい》引《び》き
文江と草永は、言われるままに、風《ふ》呂《ろ》をつかって、さっぱりして上った。
もちろん別々に入ったのである。一《いつ》緒《しよ》に入ろうにも、風呂場が狭《せま》くてとても無《む》理《り》であったが。
「——さあ、熱いお茶でも、どうぞ」
「ありがとう。助かったわ」
文江はお茶をすすって、「鉄男君は?」
「今、列車が来るからと言って出て行きました。また戻《もど》って来るでしょ」
「いいわねえ、のんびりしていて」
と、文江は言った。「それはそうと、金子さんはお気の毒だったわね」
「ええ。——色々と私にも親切にしていただいてましたけど。今夜、お通《つ》夜《や》とか、さっき知らせがありました」
「そう。——話は聞いた?」
「薬ののみ過《す》ぎとか」
「そうらしいわね。でも、金子さん、どうして睡《すい》眠《みん》薬《やく》なんか……」
「それは——」
と、鉄男の母は少し声を低くして、「まだみんな知らないことなんですけど」
と言い出した。
「なあに?」
「金子さんは、体を悪くしておられたんですよ」
「体を?」
「ええ。もう一年ももたないかもしれないって……」
「まあ」
文江は目を見《み》張《は》った。「それじゃ、そのせいで薬を?」
「痛《いた》み止めだったんじゃないでしょうか。眠《ねむ》れないくらい痛むことがあったらしいですわ」
文江の、想《そう》像《ぞう》もしていない話だった。
「その話を、どこから聞いて来たんですか?」
と、草永が訊《き》いた。
「金子さん、ご本人からです」
「本人が言ったんですか」
「——駅長さんは、よくここへ息《いき》抜《ぬ》きにみえてましたね。村の方へ行って休《きゆう》憩《けい》するわけにもいきませんでしょう。ここなら、村の人の目にもつかないし」
「そうね。で、そのときに話を?」
「はい。ほんの……一か月くらい前でしたかね」
文江は肯《うなず》いた。
鉄男の母に金子がそんなことまで打ちあけたというのは、ちょっと奇《き》妙《みよう》な感じがするかもしれないが、文江にはよく分る。
鉄男の母は、他の村人たちと違って、噂《うわさ》話《ばなし》の輪に加わって、ペチャクチャとおしゃべりをするようなことがないのである。
自分自身が、そういう中《ちゆう》傷《しよう》の的になっていた経《けい》験《けん》があるからだろうが、実《じつ》際《さい》、公江も、いつか、
「村で一番秘《ひ》密《みつ》の守れる人といったら、庄司さんだよ」
と言っていたことがある。
だから、村の奥《おく》さんたちも、人に知られて都合の悪いような相談を、ときどき、こっそりとここへ持ち込《こ》んでいるらしかった。
たとえば、夫が留《る》守《す》の間に、子《こ》供《ども》ができてしまった奥《おく》さんが、医者へ行く間、ここにいたことにしてくれ、とアリバイ作りを頼《たの》みに来る、ということもあったらしい。
鉄男の母から見れば、ずいぶん勝手な話だと腹《はら》が立ちそうなものだが、そこは快《こころよ》く引き受けて、その積み重ねで、自然、村の人たちも、彼女《かのじよ》を受け容《い》れざるを得《え》ないようになって行ったのだった。
だから、駅に近いこの家に、金子が来ていたとしても、不思議はない。
「じゃあ、自殺したという可《か》能《のう》性《せい》もあるわけね」
と、文江は言った。
「さて……それはどうでしょうか。責《せき》任《にん》感《かん》はとても強い方でしたけど」
すると事《じ》故《こ》か。——それとも殺《ヽ》人《ヽ》か、だが……。
「——やあ、さっぱりしましたか」
と、鉄男が入って来る。
「お前、さぼってばかりいちゃ、すぐにクビになるよ」
「平気さ。手伝いの人は明日来るって、今電話があったんだ」
鉄男は帽《ぼう》子《し》を取って、座《すわ》り込《こ》んだ。「何か甘《あま》いもんないか?」
「お前はもう……。いいとしして、大《だい》福《ふく》とかマンジュウばかり食っとるんですよ」
「いいじゃないか。そう太っとらんし」
「当り前だよ。そのとしで太ったらどうするんだね。——さ、おせんべいでもかじってなさい」
鉄男は渋《しぶ》々《しぶ》と、アラレをつまんだ。
「——お嬢《じよう》さん、七年前のことを調べに帰って来たって、本当ですか?」
「そんなこと、誰《だれ》が?」
「村の若《わか》いのが、みんなそう言ってましたけど——」
「お面《めん》をかぶって?」
「え? 何です?」
「ううん、こっちの話。——私《わたし》もね、多少責《せき》任《にん》を感じてるのよ。坂東和也君があんなことになって……」
「お嬢《じよう》様《さま》のせいではございませんよ」
と、鉄男の母は言った。「人間の力ではどうにもならないことというのがございますからね」
「そう言われると余《よ》計《けい》に辛《つら》いわ」
と、文江は言った。「それに、私が戻《もど》って来たせいで、こんな騒《さわ》ぎをひき起こしてしまって」
「この世で起きたことは、この世で清算しなくてはならないんでございますから、仕方ありませんですよ」
「母さんのお得《とく》意《い》が始まった」
と、鉄男が笑《わら》った。
「こら! 人をからかってるヒマがあったら、仕事をしておいで!」
「へーい。おおこわ」
と首をすぼめる。
「ここは線路に近いし、駅の方も見通せますね」
と、草永は言った。「ゆうべの火事騒《さわ》ぎのとき、何か気が付いたことはありませんか?」
「私はぐっすり眠《ねむ》っちまうものですからね。——鉄男、お前は、何か聞いたかい?」
「いやぁ……別に……」
と、鉄男が、曖《あい》昧《まい》な返事をすると、
「隠《かく》してることがあるね。言ってごらん」
と母親が、逆《さか》らい難《がた》い威《い》厳《げん》を持って、言った。
「そうだな……。でも、俺《おれ》もはっきり分らねえんだよ」
「ともかく聞かせてくれないか」
「はあ。——ゆうべ、母さんが寝《ね》ちまってから、俺、ちょっと出かけたんだ。その——散歩したくなって」
「バーに行ったんだろ」
と母親がにらんで、「隣《となり》の町のバーに年中行ってるんですよ、十八のくせに」
鉄男は咳《せき》払《ばら》いして、
「で、まあ……十時頃《ごろ》だったかな、家を出て、でも向うの店が一《いつ》杯《ぱい》でさ。何だか、どこかの宴《えん》会《かい》の流れたのが、ドッと来てたもんで、ちっとも面《おも》白《しろ》くないんだ」
「そりゃそうね」
「で、面白くねえから、帰って来たんですよ。こっちへ着いたのは——十時四十分か、そんなもんだと思うけど」
「ずいぶん細かく憶《おぼ》えてるんだね」
と、草永が言った。
「ええ。うちのお袋《ふくろ》、十一時半には必ず手《て》洗《あら》いに起きて来るんで、その前に着いてないとまずいでしょ。だから、時計をちゃんと見てるんです」
「そんなこと、どうだっていいよ」
と、母親が苦《にが》笑《わら》いする。
「で、隣《となり》の町からの道は、ずっと線路沿《ぞ》いなんです。明りも何もないけど、慣《な》れてるから平気なもんで……。それで、駅が見える辺りまで歩いて来ると、誰《だれ》かが、ホームを歩いてるのが見えたんです」
「誰《だれ》だったの?」
「それは遠くて。——それにぼんやり、影《かげ》になって見えただけなんですよ」
「それから、どうした?」
「ちょっと気になりましてね。誰かな、と思って……」
その人《ひと》影《かげ》は、ホームを、行きつ戻《もど》りつしているようだった。
鉄男は、足を止めて、線路ぎわの茂《しげ》みに、腰《こし》をかがめて、様子をうかがっていた。
田舎《いなか》の夜は、暗く、そして静かである。虫の声が、どこからともなく、聞こえていた。
あまり近付くと、身を隠《かく》すところがない。鉄男は、じっと暗がりの中へ、目をこらしたが、その人影が誰《だれ》なのか、分らなかった。
ただ、体つきや、足が二本、ちゃんと分れて見えたので、男らしいということぐらいは分った。
大女がズボンをはいてりゃ、同じようなものかもしれなかったが、彼《かれ》としては、そこまで考えてはみなかった。
その男は——一《いち》応《おう》、男として——かなり苛《いら》立《だ》っているように見えた。
何度も腕《うで》時《ど》計《けい》を見ていたし、足で、何度もホームをけとばしたりしている。
そうして、十分近くも見ていただろうか? 村の方から、一つの灯《ひ》が近づいて来たのである。——小さなライト。音がしない。
自転車である。
その小さな光は、駅前で停《とま》ると、消えた。白っぽい影《かげ》が、駅の中へ入って行った。
女だった。白っぽいスカートが、急いでいたせいか、フワリと広がったので、よく分った。
二人が、ホームの上で何か低い声で話をしていた。もちろん、鉄男には聞き取れない。誰の声かも分らなかった。
二人は、ホームから線路に降《お》りた。
まず男の方が降りて、女を抱《だ》きかかえるようにして降ろした。
二つの影は、線路の反対側へと渡《わた》って、土手から降りて見えなくなった。
鉄男は、どうしようかと迷《まよ》っていた。
さっさと帰って寝《ね》ちまえ、というのが、正《せい》論《ろん》だったが、しかし、駅員として、怪《あや》しげな人物が勝手にホームへ入りこんだりするのを、放っておいていいのか、とも思った。
正直に言うと、あの二人が逢《あい》引《び》きに来たのは間《ま》違《ちが》いないと思ったので、ちょっと覗《のぞ》いてやろうか、と思ったのである。
——迷《まよ》ったのは、実《じつ》際《さい》にはほんの十秒ほどで、鉄男は茂《しげ》みから出ると、土手を上って、線路を横切り、あの二人の後を追った。
どこへ行ったのか、大体の見当はついている。——あの古びた倉庫である。
お年《とし》寄《より》たちは知らなかったが、あの倉庫は、今や恋《こい》人《びと》たちの秘《ひ》密《みつ》の場所の一つになっていたのである。
もちろん、高級ホテル並《なみ》とはいかなかったが、中へ入ると、古い布《ふ》団《とん》もあり、それに人家が近くにないから、見付かる心配はまずない。
それに、何といってもタダであった。
鉄男は、線路を渡《わた》って、反対側の土手を降《お》りた。そのときに、倉庫の方へ向って丘《おか》を上って行く白っぽい姿《すがた》を、チラリと目にした。
だが、鉄男の方も、足下に気を付けて歩かなくてはならないので、ずっとその方を見ているわけにはいかない。
ともあれ、行先は分っているのである。あわてることはない。
却《かえ》って、急いで覗《のぞ》くと、向うがまだ仕《ヽ》度《ヽ》中《ヽ》で、気付かれることもある。
一《いつ》旦《たん》夢《む》中《ちゆう》になってしまえば、まずそんなことはないのだ。ゆっくり行った方がいい……。
鉄男はのんびりと茂《しげ》みをかき分けて行くと、足音が聞こえないように、丘《おか》の、少し離《はな》れたところを、辿《たど》って行った。
倉庫は、何の変りもないように立っている。
扉《とびら》には、鍵《かぎ》がかかっているのだが、これが古くなっていて、強く叩《たた》くと簡《かん》単《たん》に外れるのである。
だが、そばへ来て、鉄男は戸《と》惑《まど》った。——鍵が、かかったままなのである。
どうなってるんだ?
鉄男は倉庫の裏《うら》側《がわ》へと回った。ここに、ちょうど覗《のぞ》くのに格《かつ》好《こう》の割《わ》れ目がある。
鉄男は、そこへ目を当ててみた。——中はもちろん暗いが、古くなって、方々の板が少しずつ裂《さ》けているので、光が洩《も》れ入ると、中がぼんやり見えて来るのである。
しばらく目をこらしていると、中の様子が目に入って来た。——何だかおかしかった。
あの二人の姿《すがた》はない。それだけでなく、色々積み上げてあったガラクタが、見えないのだ。
もちろん、そこから見えるのは、倉庫の中のごく一部だが、それにしても、前に見たときは、床《ゆか》一《いつ》杯《ぱい》に、ほとんどガラクタが転がっていたものである。
それが今は、きれいに片《かた》付《づ》けられている。——一体誰《だれ》がそんなことをしたのか?
二人で寝《ね》るために布《ふ》団《とん》を敷《し》くにしても、これはちょっとおかしい。あんなに広く開けなくたって充《じゆう》分《ぶん》場所はある。
それに、あの二人はどこへ行ったのだろう?
ちょっと薄《うす》気《き》味《み》が悪くなって、鉄男は、覗《のぞ》いていた割《わ》れ目から目を離《はな》した。
周囲を見回す。——どこかから、見られているような、そんな気がしたのである。
鉄男は、あわてて、倉庫のわきを回って、丘《おか》を駆《か》け降《お》りた。
茂《しげ》みを抜《ぬ》け、土手を上って、線路を越《こ》える。ホーム、改《かい》札《さつ》口《ぐち》を抜《ぬ》け、やっと足を止めた。息を弾《はず》ませて、家へと向う。
玄《げん》関《かん》の戸を開けようとしたとき、何となく、振《ふ》り向いてみた。
目を見《み》張《は》った。——あの倉庫が、赤く炎《ほのお》を上げて燃《も》え始めていたのだ。
「じゃ、半《はん》鐘《しよう》を鳴らしたのは、あなた?」
「ええ、俺《おれ》です」
と、鉄男は言った。
「全く、お前はそんな恥《は》ずかしい真《ま》似《ね》をしてたのかい!」
母親ににらまれて、鉄男は小さくなっている。
「まあ、お母さん、若《わか》い人なら当然のことですよ」
と、草永が取りなすように言った。
「鉄男君の話で、あの扉《とびら》の鍵《かぎ》が簡《かん》単《たん》に開けられるものだってことが分ったわね。それはみんな知ってるの?」
「若《わか》い者なら、たいていは」
と肯《うなず》いて、「隣《となり》の町からも来るぐらいですから」
「出《しゆつ》張《ちよう》か。ご苦《く》労《ろう》だな」
と、草永は笑《わら》った。
「そして、中がき《ヽ》れ《ヽ》い《ヽ》に《ヽ》なってたのね。それはどういう意味なのかしら?」
「分らないな。そのときは誰《だれ》も中に入っていなかったんだとすると……」
「ねえ、鉄男君」
と、文江が言った。「今の話、警《けい》察《さつ》の人には?」
「まだ何も訊《き》かれてないんで」
「でも、話した方がいいわ」
「ええ……」
と鉄男は頭をかいている。
いざ、相手が警察となると、やはり気が重いのだろう。
そのとき、
「失礼——」
と玄《げん》関《かん》の戸がガラガラと開いた。「県警の者ですが」
「あら、室田さん」
文江を見て、室田は目を見《み》張《は》った。
「いや、これは先を越《こ》されましたな」
「全く、呑《のん》気《き》なもんだ」
焼《やけ》跡《あと》の前に立って、室田は首を振《ふ》った。
「これで雨でも降《ふ》ったら、証《しよう》拠《こ》はオジャンなのに……。早《さつ》速《そく》、県《けん》警《けい》から人をよこしましょう」
「何かここにあったんでしょうか?」
と、文江は言った。
「何とも言えませんね。——灰《はい》を調べれば、何かつかめるかもしれないが」
「その灰をめちゃくちゃにしてしまって、すみません」
と、文江は照れたように言った。
「いや、ともかく無《ぶ》事《じ》で良かった。——その連中のこと、調べさせますか?」
「いいえ」
と文江は首を振った。「そんなことをすれば、ますます村の人たちの反感を買うでしょう」
「かもしれませんな」
と、室田は肯《うなず》いて、「それにしても、あまり勝手に動き回ると、危《あぶな》いですよ。といったって、気が変るような方ではありませんね」
「そりゃそうです」
と、草永が言った。「何しろ、常石家の誇《ほこ》り高き令《れい》嬢《じよう》ですから」
「何よ!」
と、文江がにらみつける。
「お手やわらかに」
と、草永がおどけた。「——どうでしょうね、刑《けい》事《じ》さん。ここへ度々、恋《こい》人《びと》たちが来ていることは、大人《おとな》の人たちは知らなかった。つまり、ここに何《ヽ》か《ヽ》を隠《かく》している人間がいるとしたら、その人間は、まさか見付けられるはずはないと安心し切っていたでしょう」
「その点は同感です」
と、室田が肯《うなず》く。
「ところが若《わか》いカップルが、しばしばここへ来ていたわけね。そして——そ《ヽ》れ《ヽ》を見付けた……のかしら?」
「見付けたとしても、不思議はないね。しかし、もしそれが七年前の事《じ》件《けん》のことに関する何かだったとしたら、そんな若い人たちには、それが何を意味していたか、分るまい」
「そうね。でも、私が帰って来たことで、あの事《じ》件《けん》のことが、また口に上るようになり——」
「それを聞いて、誰《だれ》かが、それに気付いたのかもしれない」
「というより、隠《かく》した誰かが、発見される危《き》険《けん》を感じたというべきですかな」
と室田が言った。
「だから火を点《つ》けた……」
「考えられます」
と肯《うなず》く。
そのとき、誰かが走って来る足音を、文江は耳にして振《ふ》り向いた。
12 薬
走って来たのは、白木巡《じゆん》査《さ》だった。
「こちらでしたか!」
とハアハア喘《あえ》いで、「いや、息が切れて——もうトシですな」
「何かあったのか?」
と、室田が訊《き》くと、
「あ、そうでした。本部から電話が入っておりまして」
「ありがとう。すぐ行く」
「では——」
と、白木巡査は、また走って行ってしまった。
室田は、文江、草永と一《いつ》緒《しよ》に、戻《もど》りながら、言った。
「あの庄司鉄男の話は面《おも》白《しろ》いですな」
「その男女って、誰《だれ》だったんでしょう?」
「しかも、あの倉庫へ入《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》というのが愉《ゆ》快《かい》です。一体何の目的で、あの倉庫の方へ行ったのか」
「つけられているのに気付いたのかな」
と草永は言って、「しかし、どうでしょうね、僕《ぼく》がちょっと気になったのは、火が出るまでの時間なんです」
「時間って?」
と文江が訊《き》く。
「鉄男君の話だと、あの倉庫から、家へ戻《もど》るまでの間に、犯《はん》人《にん》は、倉庫へ入り、火を点《つ》けた。そして、火が、遠くからも見えるくらいに燃《も》え上ったってわけだろう」
「そうか。そんな短時間にね」
「どうでしょうね、刑《けい》事《じ》さん?」
「さあ、ああいう木《もく》造《ぞう》の倉庫ですからね、至《いた》って簡《かん》単《たん》に火は回ったでしょうが……」
室田は言った。「私が気になっているのは、むしろ逆《ぎやく》なんです」
「というと?」
文江が室田を見た。
「つまり、なぜ、あの倉庫は燃《ヽ》え《ヽ》尽《ヽ》き《ヽ》な《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》のか、ということです」
室田の言葉に、文江と草永は顔を見合わせた……。
「ああ、お帰り」
公江が、縁《えん》側《がわ》で縫《ぬ》い物をしていた。
「ただいま。——遅《おそ》くなっちゃった」
「うめが、またいなくなったって騒《さわ》いでたわよ」
「行方《ゆくえ》不明にされそうね」
と文江は笑《わら》った。
「——金子さんが亡《な》くなったのは、聞いたろう?」
「うん。それで、駅まで行ってたの。庄司さんに久しぶりに会って話して来たわ」
「ああ、それは良かったね。変らないだろう、あの人は」
「本当ね」
「この村で、変らないのは、あの人ぐらいだろうからね」
「それとお母さん、でしょ」
「私《わたし》も老《ふ》けたよ。めっきり疲《つか》れやすくなったしね」
と、公江は言った。「——孫《まご》の面《めん》倒《どう》をみさせるつもりなら、私が元気のある間にしておくれ」
「当分、お母さんは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」
「七年前とは違《ちが》うよ」
と公江は微《ほほ》笑《え》んだ。「それはそうと、お寺の方に顔を出しておくれ。色々、手続きがあるらしいよ」
「うん。でも大変じゃないの。金子さん亡くなって」
「ああ、そうだねえ。じゃ、お通《つ》夜《や》のときにでも、きっと何かおっしゃるよ」
文江は畳《たたみ》に寝《ね》転《ころ》がった。
「お腹《なか》空《す》いたな。——ね、こうしていると、パッと食べるものが出て来る光景ってこたえられないね。一人でいると、つくづく思うわ」
「お前らしくもないよ、弱《よわ》音《ね》を吐《は》いて」
「弱音じゃないわ。素《す》直《なお》な感想よ。それでも、一人でいることには、換《か》えがたい良さがあるのよ」
「——奥《おく》様《さま》、お食事の——あら、お嬢《じよう》様《さま》、お帰りでしたか」
「私の分も何か作ってよ。何でもいいから」
「用意してございます」
と、うめは、得《え》たりとばかり、にっこり笑《わら》った。
昼食の後、文江は二階に上って、窓《まど》から、ぼんやりと外を眺《なが》めていた。
「——何してるんだ?」
と、草永がやって来る。
「考えてるの」
「何を?」
「帰っては来たものの、私に何ができるのかって」
「君らしくもないね」
「違《ちが》うの。弱気になってるんじゃないのよ。ただ——却《かえ》って、悪いことばかり巻《ま》き起こしてるような気がするの」
「さっきの連中のことが気になるの?」
「まさか。——いえ、多少はそうかもしれない」
と、文江は肯《うなず》いた。「でも、金子さんの死は必ずしも、私のこととは関係ないかもしれないでしょ」
「それはそうだよ」
「でも村の人はどう思うか。私のことをどう思われたって、それは平気よ。でも、連《れん》鎖《さ》反《はん》応《のう》のように、またそこから何かが起こるとしたら……」
「ねえ、忘《わす》れるなよ」
と、草永は言った。「七年前、村の人たちは、一人の若《わか》者《もの》を死に追いやった。そして、その責《せき》任《にん》は、今まで追《つい》及《きゆう》されずに来たんだ」
「でも——」
「まあ待てよ。それに、坂東が殺されている。これは君が動き出したことと関係があるだろう。でも君《ヽ》が《ヽ》殺したんじゃない。いいかい。あの老人の首に紐《ひも》を巻《ま》きつけて、絞《し》めた犯《はん》人《にん》がいるんだ」
「ええ」
「そんな残《ざん》忍《にん》な人間のやったことに、君が責《せき》任《にん》を感じる必要はない。そうだろう?」
「そうね……」
文江は肯《うなず》いた。
「治《ち》療《りよう》には薬がいる。そして、それには、どうしても多少の副《ふく》作《さ》用《よう》がつきものだよ」
文江は、草永の目を見て、軽く息をついた。
「ありがとう。気が軽くなったわ」
「僕《ぼく》は気を軽くする名人だからね」
文江はかがみ込《こ》んで、草永にキスした。
エヘン、と咳《せき》払《ばら》いが聞こえて、二人はあわてて離《はな》れた。うめが、澄《す》ました顔で座《すわ》っていた。
「室田様がおみえです」
——降《お》りて行くと、室田が、玄《げん》関《かん》先《さき》でぶらついている。
「室田さん。——上りません?」
「いや、お誘《さそ》いに来たんですよ」
と室田は言った。
「え?」
「これから、金子駅長の家へ行きますので、いかがですか?」
「でも——いいんですか?」
「もちろん。そのために来たんです。いや、実のところ、私はこの村ではよそ者ですからね。ぜひ一《いつ》緒《しよ》に行っていただきたい、というわけで」
文江は、室田の心づかいが嬉《うれ》しかった。
本来なら、公の捜《そう》査《さ》に、自分のような部外者を連れて行ってくれるはずがない。それを文江に負《ふ》担《たん》にならないような言い方さえしてくれる。
文江は、その親切に甘《あま》えることにした。
「すぐ仕《し》度《たく》して来ます」
ここは、草永が遠《えん》慮《りよ》して、文江と室田、二人で行くことになった。
文江は、グレーのスーツにした。通《つ》夜《や》の席というわけではないから、黒では却《かえ》っておかしいだろう。
金子の家では、あわただしい様子で、近所の人たちが動き回っている。
室田が来意を告げると、すぐに、金子の未《み》亡《ぼう》人《じん》が出て来た。
文江は、もちろん久《ひさ》しぶりに見るのだったが、印《いん》象《しよう》が変ったのに、ちょっとびっくりした。
前は、少し太り気味の、おっとりしたおばさんタイプだったのだが、ずいぶんやせて、少しきつい感じになった。
ただ年《ねん》齢《れい》のせい、というわけでもなさそうである。
「まあ、常石さんの——」
「お久しぶりです。この度は、本当に——」
と、言いかけるのを、
「まあ、どうぞお上り下さい」
と、夫人は遮《さえぎ》った。
室田と文江は、奥《おく》の座《ざ》敷《しき》に通されて、五、六分待たされた。
「——突《とつ》然《ぜん》だったもので、もう、どうしていいのか分りません」
と、夫人は入って来て言った。
室田は自《じ》己《こ》紹《しよう》介《かい》した後、すぐに質《しつ》問《もん》に入った。
「はい。主人はガンで、もう半年ぐらいだろうと聞かされておりました」
夫人——金子正《まさ》江《え》は、肯《うなず》いて、言った。「主人も知っておりました」
「それは、何となく察しておられたという意味ですか?」
「いいえ、お医者様から、直《ちよく》接《せつ》うかがっていたのです」
「それは珍《めずら》しいですね」
と室田は言った。「普《ふ》通《つう》、患《かん》者《じや》には告げないものでしょう」
「実は、たまたま、聞いてしまったんですの。お医者様が私《わたし》に話すのを。——で、お医者様も仕方なく……」
「なるほど。睡《すい》眠《みん》薬《やく》をお使いになり始めたのは、その頃《ころ》ですか?」
「もう少し前でした。多少、痛《いた》みがあって、眠《ねむ》れないことがあったようです」
「そして、診《しん》断《だん》を聞いてからは毎日?」
「はい」
「いつも何《なん》錠《じよう》飲んでおられました?」
「二錠です。それ以上は禁《きん》じられていましたので」
「すると、昨夜は……」
「あの火事騒《さわ》ぎがあったときには、まだ起きておりまして、すぐ飛んで行きました。——外の寒さも応《こた》えたようですわ」
「お戻《もど》りになって、どんな様子でした?」
「そうですね。——疲《つか》れていた、といいますか……」
「何か、おっしゃっていましたか?」
「はあ」
少し間を置いて、金子正江は言った。「俺《おれ》も充《じゆう》分《ぶん》働いたな、と申しまして……」
充分に、働いた。——いかにも、自殺しようという人間の言葉にふさわしい、と文江は思った。
しかし、少しふさわし過《す》ぎるような気もする……。
「その後は何を?」
「はい。薬を飲んで寝《ね》るから、と申して……」
「薬のことを、わざわざ言われたんですか」
「たぶん、いつもは私が用意していたから、今日は自分でやる、という意味だったんだと思います」
「それで、おやすみになったのは、何時頃《ごろ》でした?」
「火事騒《さわ》ぎが、あれこれ長引きまして……。もう一時近かったと思いますが」
「失礼ですが、おやすみになる部《へ》屋《や》は別々でいらっしゃる?」
「はい。何しろ主人は仕《し》事《ごと》柄《がら》、朝が早いものですから。主人の方から別にしてくれと言われたのです」
「なるほど。分りました。そしてそのままおやすみになった……」
「はい。で、今朝《けさ》、私がいつも通り、七時過《す》ぎに目を覚《さ》ましてみますと、いつもなら、もう出かけている主人が寝《ね》ているのです。昨夜の疲《つか》れのせいかしらと思って、少しそのままにしておきました。一《いち》応《おう》、庄司さんの所の息子《むすこ》さんもいることですし……」
「当然でしょうね、それは」
「でも、七時半になっても起きて来ないので、ちょっと気になりまして。後で、起こさなかったと叱《しか》られそうですから、行ってみたのです」
「で、様子がおかしいというので、連《れん》絡《らく》なさったわけですね」
「お医者様にすぐ来ていただいて……。でも、もう大分前にこと切れている、と言われたんです」
「その医者というのは?」
「宮《みや》里《さと》先生でしょう?」
と、文江が訊《き》いた。
「そうですわ」
「ここでは一番古くて、親しまれている先生です」
と、文江が、室田に説明した。「私も、ずっとお世話になっていました」
「なるほど。——で、奥《おく》さん、そのときに、薬のことに、気付かれましたか?」
「はあ……」
金子正江は、ちょっとためらって、「実は良く分りませんの。もう——何といいましょうか、頭に血が上がって、ポーッとなってしまって」
「それは無《む》理《り》ありませんよ」
と、室田が例によって同《どう》情《じよう》心《しん》溢《あふ》れた声で言った。
「それで、その後、宮里先生が、『これは一《いち》応《おう》警《けい》察《さつ》へ届《とど》けなくてはならん』とおっしゃったんです。変死ということで。——それで、初めて薬のことに気が付きました」