「薬が減《へ》っていた?」
「たぶん……。はっきりどれだけとは申し上げられないんですけど、少なくとも見た感じでは、大分減《へ》っていたようですの」
「なるほど」
と室田は肯《うなず》いた。
少し沈《ちん》黙《もく》があった。
「あの——」
金子正江は室田の顔を見ながら、「主人の遺《い》体《たい》はどうなりますでしょうか?」
と訊《き》いた。
「あ、その件《けん》ですか。いや——どうなっているか、私は報《ほう》告《こく》を受けとらんのですが。早《さつ》速《そく》調べて、お知らせします」
「どうぞよろしく」
と、正江は頭を下げた。「——お分りとは思いますけれど、こういう所では、警《けい》察《さつ》で調べがあったというだけで、色々と言われるものですから」
「ああ、そうでしょうな。よく分ります」
「今夜、通《つ》夜《や》の予定なのですが……」
「そうか。分りました。早急に連《れん》絡《らく》を取ってみましょう」
室田は、立ち上る様子を見せてから、「お子さんはいらっしゃらないんですか」
と訊《き》いた。
「はあ……。うちには一人も」
と正江は答えた。
「そうですか。どうぞお気を落とされないように」
室田は丁《てい》重《ちよう》に言って、立ち上った。
金子の家を出て、少し歩いてから、室田は文江に言った。
「どう思いました?」
「さあ……。室田さんは何か?」
「睡《すい》眠《みん》薬《やく》というのは、少々飲み過《す》ぎたって、死ぬようなもんじゃありませんよ」
「それじゃ——」
「いや、だからどうこう言ってるんじゃありませんがね」
「調べれば死《し》因《いん》は分りますわね」
「もちろんです。あの奥《おく》さんには申し訳《わけ》ありませんが、司《し》法《ほう》解《かい》剖《ぼう》ということになるでしょう」
「もし——毒《どく》殺《さつ》だとしたら——」
「ああ、もちろん、あの奥さんの犯《はん》行《こう》だとは言えませんよ。例の薬びんに近づける人間なら可《か》能《のう》だったでしょう。しかし、その場合は、睡眠薬と金子さんが思い込《こ》むほど似《に》ていなくてはならない」
「じゃ、薬以外の、水とかに入っていたとしたら?」
「そうなると、あの奥さんが疑《うたが》われても仕方ないでしょうね。他にあの家には人がいないのだから」
「でも、そんなことをするかしら? 自分が疑われるに決ってるのに」
「そうですよ。予《あらかじ》め計画した上でのことなら、そんな真《ま》似《ね》はしないでしょう。しかし、何かでカッとなると、後のことは考えませんからね」
「カッとなるって……。でも、どうせご主人は後何か月かで亡《な》くなるところだったわけでしょう?」
「そうです」
室田は肯《うなず》いた。「そこがこの一《いつ》件《けん》のポイントですな」
「——自殺、と考えるのが一番自然じゃありませんか?」
「夫人も、そう望んでいるようですな。しかし、さっきも言った通り、死ぬ気なら、少なくとも、睡《すい》眠《みん》薬《やく》を一つ残らず飲むくらいでなければ」
「そうか……。不自然ですね。いずれにしても」
「その通りです。——さて、その宮里という医者の話を聞きたい。案内してもらえますか?」
「ええ。すぐ近くですわ」
——文江は、古ぼけた、懐《なつか》しい建物の前で足を止めた。
「まだ看《かん》板《ばん》を書き直してないんだわ」
と、笑《わら》った。「これでも、〈宮里医院〉って書いてあるんですよ」
「ただの板ですな」
「七年前には、まだ〈宮〉の字は残ってたんですけど……」
文江は、相変らずきしんだ音をたてる扉《とびら》を開けて中へ入った。
「よお、これはお久《ひさ》しぶりだな」
医者というより、柔《じゆう》道《どう》か空《から》手《て》の教《きよう》師《し》みたいな、むさ苦しい様子の宮里医師が、のっそりと出て来た。
「先生、お変りないみたい」
「変りようがない。人口も増《ふ》えんから、病人も増えん。一向にもうからん」
「ちょっとお話があるんですけど」
「いいとも。間《ま》違《ちが》って子《こ》供《ども》でもできたか」
「先生ったら」
文江は吹《ふ》き出してしまった。
宮里は、室田の話に肯《うなず》いて、
「確《たし》かに、金子さんは薬物死でしたな」
と言った。
「睡《すい》眠《みん》薬《やく》は、こちらで?」
「いや、それは、隣《となり》町《まち》の総《そう》合《ごう》病《びよう》院《いん》で、もらっていたようだ」
「死《し》因《いん》に疑《ぎ》問《もん》を感じられましたか?」
宮里は両手を広げて見せ、
「こんな田舎《いなか》の医者ですぞ。変死を診《み》ることなど十年に一度だ。おかしいと思えば、後は警《けい》察《さつ》に任《まか》せる他《ほか》はない」
「ごもっともです。それが一番賢《けん》明《めい》なやり方ですな」
「しかし——」
と、宮里は言った。「寂《さび》しいものだ。あの夫《ふう》婦《ふ》とも長い付き合いだったが」
「あのご夫婦は、うまく行っていたんでしょうか?」
宮里は、ちょっと室田を見つめて、
「あんたも、見かけによらず鋭《するど》い方ですな」
と言った。
「先生と同じよ」
と文江が言うと、宮里は声を上げて笑《わら》った。
「かもしれん。——いや、このところ、あの二人、少しおかしかった。それは事実だ」
「おかしい、というと?」
「表立って喧《けん》嘩《か》するとか、そんなことはない。しかし、口のきき方や何かが、どことなく、よそよそしかった。特《とく》に女《によう》房《ぼう》の方が」
「変ですね」
と、文江は言った。「ご主人が不《ふ》治《じ》の病なんて分ったら、優《やさ》しくしてあげるのが、普《ふ》通《つう》でしょう」
「もちろん、しっかりさせようとして、却《かえ》って突《つ》き放すということもある。だが、あれはそれとも違《ちが》っていた。ただ冷たくなっていたんだ」
「——気の毒な駅長さん」
と文江は言った。
「当然、解《かい》剖《ぼう》になるでしょうな」
「そう思います」
「また、村の中は大《おお》騒《さわ》ぎになろう」
と宮里は、ふと立ち上って、埃《ほこり》で汚《よご》れ切った窓《まど》から、表を眺《なが》めた。「——なあ、文ちゃん」
「はい」
「あんたが帰って来て、この村は昼《ひる》寝《ね》から叩《たた》き起こされた羊《ひつじ》みたいに、駆《か》け回り始めたよ」
文江は、胸《むね》が痛《いた》んだ。
「——謝《あやま》りたいけど、そうはしません」
「もちろんだ! 偽《いつわ》りの上の眠《ねむ》りは、どうせいつか覚《さ》める。あんたは、いいときに戻《もど》って来たよ」
文江は微《ほほ》笑《え》んだ。——何となく、救われたような気がした。
13 幽《ゆう》 霊《れい》
「おはようございます」
うめの声で、目が覚《さ》めた。
「ああ——おはよう」
文江は目を開いて、息をついた。「——あら、どうしたの?」
うめが、障《しよう》子《じ》を開けて、向うを向いて座《すわ》っているのだ。
「お食事の用意ができております」
と、うめは言った。「お連れ様も」
文江は、やっと気が付いた。自分の布《ふ》団《とん》に、草永が一《いつ》緒《しよ》に寝《ね》ていたのだ。
ゆうべは火事騒《さわ》ぎもなくて、おかげで二人でのんびりと……楽しんだのはいいが、そのまま、疲《つか》れて眠《ねむ》り込《こ》んでしまったのである。しかも布《ふ》団《とん》はかけているにせよ、二人とも裸《はだか》のままである。
うめは、背《せ》中《なか》を向けたまま、障《しよう》子《じ》を閉《と》じて、行ってしまった。
「あーあ、まずった!」
と、文江は笑《わら》った。「——ちょっと! 起きてよ!」
と、草永を揺《ゆ》さぶる。
「ウーン」
と、唸《うな》って目を開き、「もう会社かい?」
——朝食の席は愉《ゆ》快《かい》だった。
うめが、草永には、ご飯もミソ汁《しる》も、たっぷりと出して、
「お疲《つか》れでしょうから、いくらでもお代りをどうぞ」
と、澄《す》まして言っている。
文江は笑《わら》いをかみ殺して、目をパチクリさせている草永を見た。
「まあ、朝から頑《がん》張《ば》ってたの?」
と、公江が訊《き》く。
「い、いえ、そんな——」
草永があわててミソ汁《しる》をすする。
「いいじゃない。朝一番は子《こ》供《ども》ができやすいのよ」
公江もなかなか言うのである。
草永はすっかり小さくなって食べ始めた。
玄《げん》関《かん》の方で、
「文江! 文江、いますか!」
と大声がした。
「あら、百代だわ」
文江が腰《こし》を浮《う》かす。
「何だかずいぶんあわててるようね」
と公江が言った。
文江が出て行くと、百代がハアハア息を切らして立っている。
「百代、どうしたの?」
「あ、あのね——あの——あれ——あれが——」
「ちょっと落ち着いて。入ったら?」
「うん……」
百代は上り込《こ》んで、やっと息をついた。
「ああ、怖《こわ》かった!」
「怖いって、何が?」
「幽《ゆう》霊《れい》が出たのよ」
と百代は言った。
「幽霊?」
文江は訊《き》き返した。「だって、お通《つ》夜《や》は結局延《えん》期《き》になったのよ」
「違《ちが》うわよ! 金子さんのや《ヽ》つ《ヽ》じゃないの」
「じゃ、誰《だれ》の幽霊?」
「和也君よ」
「坂東和也君の? だけど——ずいぶん昔《むかし》の幽霊じゃない」
「呑《のん》気《き》なこと言って! こっちは、ゆうべ一《ひと》晩《ばん》、生きた心《ここ》地《ち》もしなかったっていうのに!」
と、百代は、文江をにらんだ。
「ごめん。だって、あんまり突《とつ》拍《ぴよう》子《し》もないこと言うから——」
「それは面《おも》白《しろ》いね」
と、草永が入って来た。「つまり、あの、隣《となり》の家に何かがいた、ってことなんだね」
「そうなんです」
と、百代は肯《うなず》いた。「でも、ちっとも面白くありませんよ」
「いや、ごめんごめん」
と、草永は笑《わら》って、「詳《くわ》しく聞かせてくれないか」
「ゆうべ、上の子が夜中に私を起こしたんです——」
と、百代は言った。
「なあに、おしっこ?」
と、百代は目をこすりながら、起き上った。
「うん」
と、男の子が、コックリ肯《うなず》く。
「仕方ないわね。寝《ね》る前にお水なんか飲むからよ」
百代は布《ふ》団《とん》から起き出した。夫がウーンと唸《うな》って、寝《ね》返《がえ》りを打つ。
「さ、おいで」
百代は子《こ》供《ども》を廊《ろう》下《か》へ押《お》し出した。
「——一人でできるでしょ」
「ウン。開けといて」
「はいはい」
トイレのドアを開けて、百代は立って待っていた。
男の子のくせに、意《い》気《く》地《じ》がないんだから、本当に! 先が思いやられるわ。
百代は欠伸《あくび》をした。——でも、あんまり早く目を覚《さ》まされなくて良かった。
今夜は久しぶりに、夫と「語らった」からである。あの最中に、「おしっこ」などと言い出されたら、あわててしまう。
夫はそのまま、グーグー音を立てて寝《ね》てしまった。こっちは寝入りばなを起こされて迷《めい》惑《わく》な話だ……。
また欠伸《あくび》が出る。
「——もう出た? 早くしなさい」
そのとき、何やらガチャン、と壊《こわ》れる音がした。百代は、ちょっと目をパチクリさせた。
何だろう? 空《そら》耳《みみ》かしら、と思った。しかし、あんなにはっきりと……。
ガタン、ガタン、と、また物音がする。
どこから聞こえているのか。——少し遠い音だ。
「母《かあ》ちゃん、出たよ」
「はいはい」
百代は、子供のパンツを上げて、トイレから出た。寝《しん》室《しつ》へ連れて行って、布《ふ》団《とん》に子供を入れると、もう一度、一人で廊《ろう》下《か》へ出てみた。
また、何かの動くような、ガタゴトいう音。
ちょっと薄《うす》気《き》味《み》悪くなったが、元来、そう気の弱い方でもない。夫を起すまでのこともあるまい、と思った。
家の中じゃない、と思ったが、一《いち》応《おう》、茶の間や台所を見て回った。何の異《い》常《じよう》もない。
すると表だろう。しかし、この辺には、夜中にうろつくような人間はいないはずだが……。
泥《どろ》棒《ぼう》?——まさか! こんな貧《びん》乏《ぼう》な家に入る物《もの》好《ず》きな泥棒があるかしら?
百代は、庭へ出るガラス戸の方へ歩いて行くと、カーテンを少し開けて表を見た。別に誰《だれ》の姿《すがた》も見えないが。
また音がした。今度はちょっとびっくりするような、ガチャン、という派《は》手《で》な音であった。
これはやはり、放っておくわけにはいかない。——どうも、隣《となり》の廃《はい》屋《おく》から聞こえているらしいのだ。
あそこも、ずいぶん長く閉《し》め切ったままである。あちこちガタが来ているだろう。
野《の》良《ら》犬《いぬ》か野良猫《ねこ》でも入り込《こ》んだのかもしれない。この辺は都会と違《ちが》って浮《ふ》浪《ろう》者《しや》というのはいないから、その点は百代も考えなかった。
ともかく、廃屋に入る泥棒はいない。百代は、犬か猫《ねこ》なら怖《こわ》くもない。子供のバットをつかむと、玄《げん》関《かん》の方へ歩いて行った。
ドタン、ガタン、という音は、まだ続いている。——今に見てなさいよ。
百代は玄関から、サンダルをつっかけ、鍵《かぎ》を開けて外へ出た。
外は暗い。——都会なら、まるで真昼のように明るいのだが、こういう場所では、本当に夜は暗いのである。
百代は左右を見回した。——そこからでは、隣《となり》の廃屋が目に入らない。
そっと外へ出ると、通りへ出て、廃屋を眺《なが》めた。音はやんで、シン、と静まり返っている。
「——確《たし》かにこの中だわ」
と百代は呟《つぶや》いた。
廃屋のわきへ回ってみる。板を打ちつけた窓《まど》。——坂東夫《ふう》婦《ふ》が姿《すがた》を消してから、しばらくして、いつの間にか、誰《だれ》かが打ちつけたのだ。
百代は裏《うら》手《て》に回った。広い窓《まど》があって、ここはそのままになっている。
しかし、埃《ほこり》やごみで、まるですりガラスみたいになってしまっている。
ガチャン! 中で派《は》手《で》な音がして、百代は飛び上った。
一人で来たのを、少々後《こう》悔《かい》し始めていた。しかし、どうせ隣《となり》なのだ。
いざとなったら、大声出せば……。
百代はバットを握《にぎ》りしめると、窓の方へと近《ちか》寄《よ》った……。
「それで?」
と、文江が訊《き》いた。
「そしたら、急に光が——」
「光が?」
「そう! 白い光が、窓《まど》の所をスーッと音もなく通って行ったの」
「音もなく?」
「そう。——二つ、三つ、とね。スーッ、スーッて」
「それで、どうしたの?」
「もう、キャーッ、って叫《さけ》んで飛び上ったわよ。そのまま家へ吹《ふ》っ飛んで帰っちゃったわ」
「ご主人には?」
「今朝《けさ》、話したわ」
「じゃ、ゆうべは……」
「布《ふ》団《とん》かぶって、寝《ね》てたのよ」
と百代は言って、「笑《わら》わば笑え!」
「何言ってんの。でも、確《たし》かに誰《だれ》かが中にいたのね」
「そうよ、間《ま》違《ちが》いないわ」
「その光っていうのは」
と、草永が言った。「きっと懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》だろうな。窓が汚《よご》れてるから、光が通らなかったんだ」
「私も今朝《けさ》になって、そう思ったわ」
と、百代は肯《うなず》いた。「でも、ゆうべは、とっても考えつかなかったわ」
「そりゃ無《む》理《り》ないな」
と、草永は、室田みたいなことを言い出した。
「でも、一体誰かしら?」
と文江が考え込《こ》む。
「考えてたって仕方ないよ。調べてみることさ」
「そう簡《かん》単《たん》に——」
「我《われ》々《われ》だけじゃだめさ。あの家だって、持主がいるはずだろ。下手《へた》に入ると、不法侵《しん》入《にゆう》だ」
「じゃ、室田さんを呼《よ》んで一《いつ》緒《しよ》に入ればいいわけだ」
と、文江は指を鳴らした。「早《さつ》速《そく》電話してみるわ」
電話の所へと走って行き、教えられていた直通電話の番号を回す。
「——あの、室田さん、お願いしたいんですけど」
「お嬢《じよう》様《さま》」
と、うめがそばへ来て、「あの——」
「待って。——あ、お出かけですか。お帰りになるのは——」
「室田様ですが」
と、うめが言った。
「——あの空《あき》家《や》のことは、急いで持主を調べましょう」
村の方へ歩きながら、室田が言った。「その上で、合法的に入りませんとね」
「同感です」
と草永が言った。
室田、草永、文江の三人は、村への道を辿《たど》っていた。
百代は先に帰っていた。子《こ》供《ども》二人かかえている身としては忙《いそが》しいのである。
「——で、何か結《けつ》果《か》が出ましたの?」
と文江が訊《き》いた。
「金子さんですか? ええ。やはり毒物が使われていました」
「まあ、それじゃ……」
「猛《もう》毒《どく》というわけではないが、少々弱い心《しん》臓《ぞう》には致《ち》命《めい》的です」
「でも、それは専《せん》門《もん》的な知《ち》識《しき》が必要でしょうね」
「専門的というほどではないとしても、多少の知識はね」
「つまり、素人《しろうと》ではない、と?」
「いや、多少勉強すれば大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
「じゃ、犯《はん》人《にん》を特《とく》定《てい》できませんね」
「無《む》理《り》ですね。しかし、身近な人が疑《うたが》われるのは仕方ないでしょう」
文江は室田を見た。
「つまり——奥《おく》さんですか」
「普《ふ》通《つう》ならね」
と肯《うなず》く。
「というと?」
「火事があったでしょう」
「ああ。——きっと奥さんも外へ出て、火事の様子を見ていたでしょうね」
「そうです。その間に、家に入って、薬を混《ま》ぜるのは、不《ふ》可《か》能《のう》ではない」
「そうですね」
と文江は言った。「都会のマンションとは違《ちが》って、この辺の家は、庭からでも入れますものね」
「だから厄《やつ》介《かい》ですよ。——ともかく、なぜ金子さんが狙《ねら》われたのか、それをまず明らかにしなくては」
「あの人を殺そうとするなんて……」
と、文江は首を振《ふ》った。
「地味な方、でしたな」
「そうです。本当に——」
「しかし、人間、どこかに秘《ひ》密《みつ》があるものですよ」
「金子さんに、ですか?」
まさか、とは思ったが、そうでなければ、殺されるはずがないのだ、と考えると、やはり金子にも、人の知らない面があるのか、と思えて来る。
「今日は、どうするんですか?」
と草永が訊《き》く。
「まあ、視《し》察《さつ》、といいますかね」
「視察?」
「村の様子を見たいのです。——何といっても、犯《はん》人《にん》は、この村の中にいるに違《ちが》いないのですから」
——三人は、あの廃《はい》屋《おく》の前で、足を止めた。
「ねえ、見て!」
と、文江が言った。
表の戸が、ほんの一センチほどではあるが、開いているのだ。
「——文江!」
と、先に帰っていた百代が、飛び出して来る。
「百代、ここの戸——」
「そうなの! 帰って来るときに見付けてね、電話したけど、出た後だったのよ」
「ゆうべは開いてなかったの?」
「たぶんね。開いてれば気が付いたと思うわ。暗かったけど、まるきり何も見えないってわけでもなかったから」
「そう。——今朝《けさ》は?」
「あなたの所へ行くときは、ろくに見てなかったから」
室田はガラス戸に近付いた。手をかけて動かすと、ガラガラと軽やかに動く。
「こいつは妙《みよう》だ」
室田はかがみ込《こ》んだ。「——レールに油がさしてありますよ」
「じゃ、やっぱり誰《だれ》かが……」
「そうらしいです。入ってみましょう」
と室田が言った。
「ええ? でも——」
と、文江が言いかけると、
「ご心配なく」
室田は肯《うなず》いた。「空家の戸が開いているので、防犯上の見地から、入っても構《かま》いませんよ」
「難《むずか》しいもんね」
と、百代が感心したように言った。
「入ってみましょう」
百代は、
「ああ、悔《くや》しい! 子供、放っといて来ちゃったからだめだわ!」
と叫《さけ》んで、家へ駆《か》け戻《もど》った。
文江がクスッと笑《わら》った。
「気が若《わか》いんだから!」
室田が、埃《ほこり》だらけのカーテンを、ゆっくりとあけた。フワッ、と埃が宙《ちゆう》を舞《ま》った。
三人は、中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
14 廃《はい》 屋《おく》
ムッとするような、匂《にお》いがした。
「何かしら、これ?」
「埃とカビと、色々ですね」
と室田は中へ入った。
文江と草永も続いた。
目が慣《な》れると、思ったより、きれいになっているのが分った。
雑《ざつ》貨《か》屋《や》だった頃《ころ》の、ガラスケースや、棚《たな》がそのまま残っている。もちろん、埃《ほこり》だらけだし、鴨《かも》居《い》のあたりにクモの巣《す》も見えるが、お化《ばけ》屋《や》敷《しき》というわけでもない。
「店の奥《おく》が座《ざ》敷《しき》ですね」
「ええ。そこを上ると——」
室田が足下を見た。
「物音の正体は、これだな」
割《わ》れた茶《ちや》碗《わん》のかけらが散っている。
「ここにあったのかしら?」
「いや、そうではないようです」
と、室田はかがみ込《こ》んだ。「きれいなもんですよ。これは埃がつもっていない」
「つまり——」
草永が言った。「誰《だれ》かが、ここに茶碗を持って来て、わざわざ壊《こわ》したんでしょうか」
「そういうことになりますな」
「でも、どうして?」
「ここに人の注意を引きたかったのかもしれません」
「なぜでしょう?」
「分りません」
室田は、靴《くつ》を脱《ぬ》ぐと、座敷に上った。「——上ってもいいですが、靴《くつ》下《した》が汚《よご》れますよ」
「構《かまい》やしません」
と、文江は言った。「洗《あら》えばいいんですもの」
茶の間は六畳《じよう》ほどの広さである。
もっとも、ここの六畳は、都心のマンションなら、八畳ぐらいである。
「憶《おぼ》えてるわ。——よく、ここへ来たんですもの」
「他の部《へ》屋《や》も、見て回りましょうか」
室田が、ゆっくり左右上下に目を向けながら、歩いて行く。
やはり、窓《まど》の近くなどは、埃《ほこり》が入って汚れていたが、廊《ろう》下《か》などは、思ったよりきれいである。
「人のいない家は、ネズミやゴキブリも、エサがないので寄《よ》りつきませんからね。——あまり汚れないものですよ」
と室田は言った。
「埃の上に足《あし》跡《あと》でもついているかと思ったのにな」
と草永が言った。
「砂《すな》嵐《あらし》でもあれば、そうかもしれませんがね」
「ねえ、見て!」
と、台所に立っていた文江が叫《さけ》んだ。
「——どうしました?」
「あの窓《まど》……」
台所の窓は、うっすらと埃で白くなっていた。そこに、指で書いたのだろう。
〈床《ゆか》の下〉
と書かれてあった。
「床の下、か……」
「誰《だれ》が、こんなことをしたのかしら?」
「字はあまり特《とく》徴《ちよう》がありませんね。——触《さわ》らないで下さい」
「ええ。でも、床の下って——」
「この床下ということかな」
「きっとその下だわ」
と、文江は言った。「そこの床が開くんです。下が、お米とかミソの置き場になっていて」
「なるほど」
室田は、床の丸《まる》い穴《あな》に指をかけて引《ひつ》張《ぱ》ってみた。
大きな板が、持ち上って来る。
「何かあります?」
「いや……この下は、どうなってるんですか?」
「さあ、そこまでは——」
文江も覗《のぞ》き込《こ》んだ。
まだ米びつが置いたままになっている。その下は、板が何枚も敷《し》いてある。
「この下は地面ですな」
「そうでしょうね」
室田は米びつを持ち上げようとした。
「——こりゃ重いや。手伝って下さい」
草永と二人で、持ち上げ、やっと上に出す。蓋《ふた》を開けると、三分の二くらいまで、米が残っている。もちろん、変色してしまってはいるが。
「下の板が外れてますよ」
と、室田が腹《はら》這《ば》いになって、底板へ手をのばした。
釘《くぎ》で打ちつけてあるかのように見えるが、ヒョイと外れてくる。
「どうなってるのかしら?」
「この板もだ。——この隣《となり》も」
結局、ほとんどの板が外れて、すぐ下に地面がむき出しになった。
「——何かありますの?」
「いや、分りませんね」
室田は立ち上った。「しかし、下の地面が、盛《も》り上っています」
文江は、草永と顔を見合わせた。
「ということは……」
「この下に、何か埋《う》まっているんですな」
と、室田は言った。
「えらいことになったわね」
と、百代が言った。
「うん……」
文江は、百代の家に上り込《こ》んでいた。
室田が、県《けん》警《けい》から人を呼《よ》んでいる間、草永は、あの台所で見《み》張《は》っている。そして文江はここで待つことにした、というわけである。
「どうしたの、文江?」
「え?」
「何か考え込《こ》んじゃって」
「そう?——ただ、えらいことだ、と思ってるだけよ」
「仕方ないじゃない」
「うん」
文江は、百代の出してくれたお茶を飲んで、ホッと息をついた。
「仕事、忙《いそが》しいの?」
「まあね」
「羨《うらやま》しいな。自分の手に仕事持って」
「そうかなあ。こういうことって、向き不向きがあるのよ」
「私《わたし》は顔で落第って言いたいんでしょ」
文江は笑《わら》い出した。
「——百代って相変らずね」
「でもさ」
「何よ」
「本心じゃ、文江のようにならなくて良かったと思ってるわ」
「どういうこと?」
「だって——文江は昔《むかし》から辛《つら》そうだったじゃない」
「辛い、って?」
「常石の名前が、よ」
文江は目を伏《ふ》せた。
「どこへ行っても、みんな、文江のこと知っててさ」
「そうね。すぐ『お嬢《じよう》様《さま》』だったもんね」
「私、可哀《かわい》そうだなあ、って思ってたのよ、いつも」
「ありがと」
「都会へ出て、誰《だれ》も自分のことを知らない町を歩くってことに憧《あこが》れても、当り前だと思ったわ」
「そうね……」
「ただ、手紙の一本ぐらい、くれりゃ良かったじゃないの」
「ごめん。やっぱり、意地があってね。ともかく、一人前になって、帰ってやろう、って」
「それで七年?」
「アッという間よ。七年間。——がむしゃらに生きて来たわ」
「でも、あんな恋《こい》人《びと》もできてるじゃない」
「ごく最近よ」
「初めての人?」
文江は、ちょっとおどけて、
「ご想《そう》像《ぞう》にお任《まか》せします」
と逃《に》げた。
「ずるい!」
「でも、売れないときは、ずいぶん色々あったのよ」
「色々って?」
「体と引き換《か》えで、デザインを任《まか》せる、とかさ」
「へえ! ドラマみたい」
「本当にあるのよ」
「で、文江は?」
「そこまでは、ね。やっぱり気位が高いんでしょ」
「常石家の令《れい》嬢《じよう》ね」
「そんなとこかな」
文江は軽く笑《わら》った。「——最初は大学生とだったわ」
「へえ。——長く続いたの?」
「一度っきり」
「へえ、どうして?」
「一度寝《ね》たら、急に威《い》張《ば》り始めてね、がっかりして、サヨナラしちゃった」
「それ、あるわね。うちの亭《てい》主《しゆ》だって、初夜のときまでは優《やさ》しかったけど、それ過《す》ぎたら急に関《かん》白《ぱく》よ」
「でも、百代、威張ってんじゃない」
「当り前よ。権《けん》力《りよく》に屈《くつ》してたまりますかって!」
「闘《とう》争《そう》したわけね」
「断《だん》固《こ》、夜の生活を拒《きよ》否《ひ》したの。三か月よ」
「凄《すご》い」
「ついに亭主も折《お》れたわ。以来、良く言うこと聞くようになったもの」
文江は笑《わら》い出した。
なごやかな、女同士の他愛ない会話。——こういう会話は久《ひさ》しぶりだ。
文江は、一種の郷《きよう》愁《しゆう》を覚えた。
妙《みよう》な話だ。実《じつ》際《さい》に、こうして故《こ》郷《きよう》へ帰って来ているのに。
だが、文江の中の故郷は、「七年前の故郷」なのである。
自分の帰《き》還《かん》で、混《こん》乱《らん》している、今の故郷ではない……。
「——失礼」
と、草永が入って来た。
「あら、見《み》張《は》りは?」
「うん、今、室田さんが戻《もど》って来た」
「じゃ、お茶いれますね」
と百代が立ち上って出て行った。
草永と文江は、しばらく黙《だま》っていた。
「ねえ」
「うん?」
「どう思う?」
「何が?」
「あの床《ゆか》下《した》よ」
「ああ。——どうって——」
「何か埋《う》めてあるのかしら?」
草永は肩《かた》をすくめた。