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文章简介

作者: 当前章节:15377 字 更新时间:2026-6-23 00:38

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大都会

森村誠一

目 次

 白馬岳|不帰《かえらず》の嶮

 東京——二ヵ月後

 名古屋——二ヵ月後

 大阪——二ヵ月後

 冷たい真空管

 破片《かけら》の人間

 生存条件

 エリートの巣

 ビジネスの笑い

 種馬の復讐

 非常空間

 水の砂城

 薬と蛆《うじ》と肉と

 鳶《とんび》と油揚げ

 宿泊確認書

 牝《めす》 商《しよう》

 サヤ稼ぎ

 錆びた管

 黒い陽炎《かげろう》

 旧き山仲間の唄

 駄獣の涙

 樹冠炎

 コルサコフ症状群

 安曇野《あずみの》

 死魚の眼

 老巨怪

 虚《うつろ》な花嫁

 商法第三百四十三条

 絶対的必要受け応え事項

 赤いピッケル

 虚無への招待主

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 白馬岳|不帰《かえらず》の嶮

 昭和三十×年二月十四日、北アルプス、白馬岳、不帰《かえらず》第二峰の頂に三人の登山者の姿が立った。

 二月といえば北アルプスは厳冬期である。黒部渓谷の深淵から吹き上げる烈風は、三人の立つ雪と氷の尖峰をけずり、抜けるように研ぎすまされた空の蒼さの中に、白い炎のような雪煙を巻き上げていた。

 長い困難な径を辛抱強くピッケルを振り、ザイルという山仲間の友情の結晶に結ばれて、ようやく立った蒼空の中の小さな一点は、三人が辛うじて身を置けるだけのわずかな空間であり、息もつけぬような烈風の吹き荒ぶ舞台であったが、雪煙の合間にかいま見える氷雪に鎧われた中部山岳の連峰は、彼らの忍苦と費消された青春のエネルギーに充分、値するだけの壮麗なパノラマをくり広げてくれた。

 三人——の若者は、もはやこれ以上登るべき傾斜がないのを知ると、初めてそこが頂上であることに気がついたように、アルピニストのすべてが登頂の瞬間に示す、ややとまどったような表情で互いの顔を見合った。

 次に三人が為すべきことは、ザイルも解かず、垂直の氷壁との苦闘に息も絶え絶えになった身体を、ひとまず頂稜の岩角にもたせかけ、しばらく呼吸を調えることであった。

 悦びはその後に突き上げるようにきた。

 彼らは、仲間の一人がアノラックのポケットから取り出したくしゃくしゃのピースを廻し喫《の》みし、それからゆっくりとザイルを解いた。

 氷壁に彼らの生命のきざはしを刻んでくれた三本のピッケルは、一束にまとめられて岩角によせられた。

「とうとう来たな」

 若者の一人が呟いた。痩せているが、針金のように鋭く強じんな感じのする青年であった。

「四年越しの夢だった」

 もう一人の仲間が答えた。これはやや小柄で、丸々とした顔をしているが、眼の色がいやに熱っぽい若者である。

「しかし、一番大物がまだ残っている」

 三人目がつけ加えた。丁度、前の二人の中間をいくくらいの背格好と、肉づきであるが、瞳と唇の薄いのが特徴である。

 彼らは発言順に岩村元信、渋谷夏雄、花岡進、いずれも東京、帝都大学山岳部員であり、日本山岳界でも尖鋭をもって知られる名うての若手クライマーであった。

 彼らが今、身を寄せ合っている風雪の中の虚空の一角は、北アルプスと通称される中部山岳国立公園の山群の中でも、長野、富山北部の県境を屏風のように仕切る後立山連峰の盟主、白馬岳の一隅である。正確には白馬岳と五竜岳の中間に位する不帰の嶮と呼ばれる、黒雲母花崗岩よりなる尖峰群の一つであった。

 名前からも容易に想像されるように、その凄絶さは北アルプスでも有数のものである。逆層の脆い岩と、冬期も雪をつけないような|かぶり《オーバーハング》気味の岩壁は、精強なパーティの挑戦を幾度も斥け、現に彼らが踏破して来た第二峰東壁も、初|登攀《とうはん》であった。

 彼ら三人は中学時代より山にとり憑かれ、山に登りたいがために、伝統ある山岳部をもつ帝都大学へ入った。そして在学中の四年間、彼らの青春の舞台として、未踏の岩壁や、ルートをいくつか残す不帰の嶮の尖峰群を選んだのであった。

 初登攀はアルピニストの見果てぬ夢である。未だ人の足跡のないルートや岩壁を攀じて、蒼い虚空の一角に初めてのケルンを築く。

 高燥な大気や横なぐりの風雪、あるいは肌を灼く陽の光に身体を晒しながら、生命の危険を賭しても、未知の空間に自分の身体を運んで行く。

 血を吐くほどの苦闘と、息も絶え絶えになるほどの作業の後に辿り着くべき空間は、およそ人間の生存に適さない荒涼の世界なのだ。

 しかし、それでもその魅力に憑かれた若者達は雪渓を渡り、ハイマツを泳ぎ、霧に噎《むせ》び、風雪に晒され、氷壁を攀じてやって来る。

 不帰の嶮をめぐる尖峰群は、帝都大学山岳部の課題の山域であり、これらのバリエイションルートのほとんどすべては、彼ら山岳部の夏、冬期合宿において登られてしまったのである。

 不帰をめぐる主要な峰は一峰、二峰、三峰と名づけられ、彼ら三人が今踏みしめた山頂こそ、最大高距三百メートル、日本の岩場でも第一級にランクされる、岩壁に鎧われた第二峰である。

 正確には不帰第二峰東壁、この垂直の岩壁こそ彼らが青春の舞台として選んだルートであり、卒業を目前にして遂にその初登攀を為し遂げたのであった。

 彼らの周囲には、彼らが青春の情熱を傾けて踏破した中部山岳の山脈が広がっている。遠く槍穂高の稜線から続く、針木、鹿島槍、五竜岳の連嶺、眼前には黒部渓谷を隔てて、剣立山の鋸歯状のスカイライン、そして手の届くばかりの身の周囲には、自ら誇らかにパイオニアたることを自負しながら指呼できる、不帰尖峰群の無数の壁やルンゼ——。

 いずれも雪と氷に冷たく武装された氷塔のような山塊が、雪煙の合間に陽の光をうけてきらめくのだ。

 しかし、彼らの眼前にはあと一つ、彼らが立つ頂よりもう一歩高く嶮しい岩峰が、高距四百メートルのほとんど登攀不可能と目されるような、嶮絶極まりない垂壁に鎧われて傲然と聳え立っていた。

 豪快な雪壁は、上部においてヒマラヤひだを作り、絶え間なく雪崩《なだれ》を落としている。特に頂上直下が悪く、逆層のオーバーハングは雪もつけず、陰惨な黒い岩肌を露出した岩壁は、落石と岩なだれの巣となっている。

 それこそ、帝都大をはじめとする幾多の、優秀なパーティの挑戦を頑として拒《は》ねつけ、依然として人の踏み跡を許さない不帰第一峰、北壁である。

 もちろん、彼ら三人も、この壁の初登攀に胸を熱くした。しかし、遂に北壁は陥ちなかった。

 彼らばかりでなく、他のいかなるアルピニストに対しても、頑にその登路を閉し、稀に頂に迫まる者があれば、容赦なく雪崩と落石を浴びせて、純白の雪壁を若者の血の色で染めた。度重なる犠牲者に、地元の長野県では不帰第一峰北壁の登山禁止条例を県会に提出したほどであった。

 この条例は登山を法律で禁止するのは行き過ぎであるとする岳界の、総すかんにあって遂に通過しなかったが、不帰一峰の悪名は、そのためにかえって日本中に喧伝され、犠牲者の数は条例発議以前よりも増大するという皮肉な結果になってしまった。

 ——しかし、一番大物がまだ残っている——

 と花岡進が言ったのは正にその第一北壁のことであり、彼らの青春の情熱のすべてを傾け尽くしても尚、至ることの出来ぬ天空の一角に寄せる限りなき愛惜といつの日か必ずおのれらの力でもって登ってみせるという、若者特有の熱い執念がこめられていた。

「この山行きを最後に俺たちの学生生活は終る」

 岩村がふたたび口を開いた。

「山を下れば岩村は東京に、花岡は大阪へ、そしてこの俺は名古屋へ行く。今解いたザイルはいつの日にふたたび結ぶことができるかな?」

 渋谷がやや感傷的に言った。

「なに、その日はすぐに来るさ。申し合わせて休暇を取り、今度は一峰をやるんだ」

 花岡が力強く言った。

「四年間……」

 岩村が感慨深そうに言った。

「俺達三人は常に一緒だった。今、登った第二峰東壁も、鹿島槍北壁中央ルンゼも、穂高滝谷の各ルートもいつもザイルを結び合った。俺達の誰か一人欠けても、心細くて登れないほどに、息の合ったパーティだったな」

「そのザイルをこの頂で解いて、俺達は各々の就職先がある三つの都市に向かって三方に下る。山で出逢った山仲間が山で別れる。それが山仲間にふさわしい別れ方だと思ったからだ」

 と花岡。

「明日からは全く別の世界が俺達を待っている。身分までが変ってしまう。しかし、俺達がどんな世界に下りて行き、どんな生活を送ろうと、俺達が帝都大山岳部でつちかった友情は忘れまいな」

 渋谷が一語一語区切るように言った。

「忘れるものか」

 岩村と花岡が声を合わせて、

「実社会がどんなに酷《きび》しい所であろうと、俺達がアルプスで命を賭して分かち合った青春を蝕むことはできない。だてや酔狂でザイルを組んで氷壁を登ったわけじゃねえからな」

 三人はがしっと手を握り合った。荒れてザラザラとした男の握手だった。

 これら三人の山仲間は学生生活最後の想い出を残すために、不帰第二峰東壁の積雪期初登攀を志し、今、首尾よく宿願を達成した瞬間であった。

 山頂でザイルを解き、各々の就職先が待つ三つの大都会に向かって三方に別れ下る。

 若者にありがちな感傷とロマンティシズムをこめた別離であったが、彼らはそれをアルピニストにふさわしい別れであると信じていた。

 いったん晴れ間をみせた空がふたたびガスを巻き始めた。身を刺す寒風が足もとから小さな雪煙を吹き上げ、山肌にあたってさらに大きな雪煙を誘ってゆく。

 そろそろ下らなければならない時間である。名残りは尽きなくとも、寒気と天候は容赦なく三人を駆り立てている。

「そろそろ行くか」

「じゃあ、気をつけてな」

「おたがいにな」

 三人はもう一度手を握り合い、たがいの目をじっと覗きこんだ。いずれも男らしく窶《やつ》れたアルピニストの顔だ。

「今度ザイルを結ぶ時は第一峰だ」

「その日まで元気でな」

「じゃあ、行くぜ」

 三人は思い切りよく手を離した。三人の間にできた空間をさらに大きくするように風がうなりをたてて通り過ぎた。

 三人の山仲間は別れた。

 それは彼らがすごした豊麗な青春と清らかな友情への訣別であると同時に、これから独力で生活の資を得なければならない実社会へのスタートでもあった。

 東京、大阪、名古屋——雪煙と強風の山頂から三つの大都会へ向かって別れ下る三人のアルピニスト。雪煙の合間に遠望されるサファイア色の遠い平原の彼方に、三人の新しい生活があるはずであった。

 それがどんなものか、彼らは全く知らなかったが、過去幾多の峰に自ら求めて、悪絶なルートをきり拓《ひら》いた彼らは、青春の野放図さから、むしろ生き生きとして三つの大都会へ下り立つためのステップを切るのであった。

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 東京——二ヵ月後

「どうだ? 少しはよさそうなのが漁《と》れたか?」

 広壮な社長室のソファーにゆったりと腰を下した盛川達之介は、葉巻の灰を銀製の灰皿の中に落としながら言った。

「は、指定校から推薦された学生達だけに受験資格を与え、学力、面接試験共に、一定以上の点数を取った者ばかりを四十人ほど。例年通りでございます」

 人事部長の磯原が小腰をかがめながら答えた。

「四十人か……去年より少し多いな」

 盛川は上瞼の重そうな目を磯原に向けた。

「はい、本年は家電事業部を拡張いたしますので、その補充の意味もございます」

 磯原が揉手をした。新入社員を例年より多く採ったことを咎められたと思ったらしい。もともと、新規採用の人数は盛川が決めたことで、磯原が独断でやったのではないのだが、盛川はよく自分の出した命令を忘れるくせがあったのである。

 尊大なワンマン社長によくあるように、すべての命令を自分が発し、その結果が自分の意図したものに超近似値的[#「超近似値的」に傍点]に一致していなければ気にくわなかった。

 自分から出した命令でありながら、結果が自分の意図と異なる時は、実に都合よく自分が発令者であったことを忘れ、本気になって怒る。

 大企業の社長にあるまじき悪癖であったが、盛川の場合はそれで通った。電気産業界の雄、菱井電業の今日の大は、盛川のこのあく[#「あく」に傍点]の強さと強引な商法に負うところが大きかったからである。

 今も、——

〈誰がそんなに大勢、採れと言ったか!?〉

 と怒鳴りつけられるのではないかと磯原人事部長はヒヤリとしたものだ。

 しかし、今日の盛川は、自分の命令を忘れていなかった。

「よし、そのうちから五人、いつものように適当に[#「適当に」に傍点]選び出して、今週の日曜日、儂《わし》の邸へこさせろ」

「はっ、かしこまりました」

 磯原部長は最敬礼をした。

 千代田区竹平町のパレスサイドにある菱井電業株式会社、本社屋の社長室でのあるひと時の会話である。

 田園調布の高級住宅街の日曜の午さがりは、町全体が午睡をしているようなものうい静けさに包まれていた。

 五月晴れの眩しい空に、風も死んで、すでに夏の陽差しを思わせる強い光が溢れる空間に、鯉幟《こいのぼり》も眠ったように垂れ下がっていた。

 遠くで犬の吠えているのがよけい眠気をそそるようである。

 しかし、この静かな町に、全く別の世界のような生き生きとした一角があった。

 広壮な邸宅群の中でも、ひときわ見事な、樹木というよりは、森に囲まれたといった方が正確な大邸宅の応接室に、若い五人の青年が彼らの若さを象徴するような、生きのいい話題を弾ませていた。

 緋のペルシャ絨毯の上のマホガニーの円卓を囲んで五つの深々としたソファー、庭の緑に点々と映えるのは、紅がほのかに混じる豊麗な白牡丹の簇《むら》がりである。

 打ち水の爽かな庭石を踏んで表に廻れば、大理石の大きな表札には、盛川達之介と彫《ほ》られてあるはずであった。

 言うまでもなく五人は、盛川社長の指示により、磯原部長から選ばれた青年であった。

「四十人の学卒新入社員の中で、俺達五人だけが選ばれて、今日社長邸に招ばれた。この意味が分っているか?」

 F大出身の早川修造が興奮したおももちで言った。

「そんなこと、菱井電業の�基礎知識�じゃないか」

 努めて感情を圧し殺すような口調で答えたのは、M学院から来た佐藤文男である。だが、彼の顔も選ばれた者の喜悦を隠しきれなかった。

「俺は嬉しい」

 卒直に自分の感情を表白したのが、K大出の野沢明だ。

「俺の家は東北の水呑み百姓だ。喰うや喰わずの生活の中から、俺を大学へやってくれたのは、一日も早く一流会社に就職して出世してもらいたかったからだ。君ら都会者には分らんだろうが、俺のような田舎者には一家のいや、一村の期待と夢が賭けられている。アルバイトに明け暮れながらも必死に勉強して、優秀な学業成績を得ようとしたのも、一流会社の入社試験受験資格を得たかったからさ。おかげで俺は首尾よく、一流企業と自他共に目される菱井電業に入社できた。そして、今、また、将来の幹部候補生の条件としてすでに慣習化されている、新入社員の社長邸招待の栄誉に浴したんだ。俺は本当に嬉しい」

 いかにも、東北出身者らしい丸々とした頬に少年のような喜びの紅潮がある。

 単純で、人の善い男らしい。

「いずれにせよ、俺達五人は幹部候補として選ばれたわけだ。これからはあらゆる面で他の新入社員とは区別される。ジェラシーや反感も相当なもんだぞ。これからは五人ガッチリとスクラム組んで行こうぜ」

 分別顔で言ったのはM大から来た淡島英二である。口では協力しようと言いながらも、いかにも小廻りがきき、切れ味がよさそうな、唇のやけに薄く、赤いこの男は、心の中では四人に対して、猛烈なライバル意識を燃やしているにちがいなかった。

 早川、佐藤、野沢の三人が淡島の呼びかけに同調するようにうなずいた。

「な、そうだろう?」

 淡島は先刻から口をつぐんだままの岩村元信の顔を覗きこんだ。

「あ、うん」

 岩村は否定とも肯定ともとれる返事をした。

「俺達は選ばれた仲間なんだからな」

 淡島が曖昧な岩村の態度を、自分の都合のよいほうへ解釈した。

「さあ、どうだか?」

 淡島はじめ、他の三人は自分の耳を疑った。岩村の言葉が解《げ》せなかったからだ。

「さあ、どうだかと言ったんだ」

「それはどういう意味だ?」

 淡島が詰《なじ》るように言った。他の三人も心持ち岩村の方に詰め寄るようにした。

「俺達が選ばれた五人だということがさ」

「それじゃあ、岩村君、君は我々が選ばれた人間とはかぎらないと言うつもりなのか?」

 今度は野沢が口を開いた。彼の頬はますます紅くなっていた。

「ま、そういったわけだ」

 岩村は素気なく言った。

「しかし、新入社員の中から特に選ばれて社長邸に招待されたのは幹部候補生として認められたことなんだ。このことは菱井電業の不文律のようなもんじゃないか。現に今井家電部長にしたって、家石販売部長にしたって、皆、新入社員時代に特に選ばれて招待された方々だという」

 佐藤が唇を尖らした。もともと色の白いうらなりひょうたんのようなこの男は、口を尖らすとキツネのような顔になった。

「さ、そこのところさ」

 岩村は他の四人がいきり立つほど、口調を鎮めて、

「俺は何も幹部候補になったことまで否定しちゃいないさ。俺がな、疑問に思うのは特に選ばれて[#「特に選ばれて」に傍点]ということさ。本当に俺達、特に選ばれたのかな?」

「……?」

「おそらく学卒新入者の四十何人かは入社試験の成績順に採ったんだろう。そこまではいいさ。しかし、この五人、入社試験の成績を基準にしてトップから五番目まで、選んだとはどうしても思えない。何故なら、俺は試験でベスト5に入ったと信じるほどうぬぼれてはいないからな。みんなはどうだ? 我こそはベスト5に入ったから選ばれたんだと自信を持って言える奴はいるか?」

 四人は顔を見合わせた。

「それにだ、入社試験はとにかくとして、将来の幹部を、屁にもならない学力だけで決めるわけにはいくまい。とすれば、我々五人は何か別の基準で選び出されたことになる」

「別の基準?」

 早川が瞳をくるくるさせた。

「そうさ、別の基準さ、コネ、けなみ、健康、容姿、ファイト、経歴、その他にも人間の価値判断の基準はゴマンとある。一体、何だと思う?」

「それらすべてを選考した上でのことだろう」

 とふたたび淡島。

「それらすべて? ふん、お笑い草さ」

「それじゃあ一体、何を基準にしたというんだ?」

 淡島がいらいらした口調を隠さずに訊いた。利口ぶってはいてもこの男が一番激しやすく、冷めやすいヒステリー性格らしい。

「基準なんて別になかったのさ、誰だってよかったんだ」

「誰だってよかったって!?」

「まあ聞け」

 金切り声を上げる淡島を制して、

「企業が何で大学出を採りたがるか知っているか? それはな……学卒者の方が人材に当たる確率がいいからさ。大勢の学卒入社志望者を大ふるいにかけるために、一応入社試験をするが、会社の方だって試験の成績のいい奴が人材だとは思っていないさ。学力なんか企業の中の腕比べにおいてほとんど役に立たない。ただ、確率がいいだけさ、書類選考でざっとふるいにかけ、次に入社試験で中ぶるいにかける。最後に残った何十人かの新入社員の中から、|適 当《アツトランダム》に何人か引っこぬく。他の学卒者には気の毒だが、これが一番能率的なやり方なんだ。企業が大きくなり、人間を歯車の一コマ一コマとして使おうとすれば、人間はどいつもこいつも似たり寄ったりの規格品になる。どいつも同じような人間なら、その人間のレッテルで中身を判断しなければならなくなる。卒業証書はレッテルの一つさ。

 次にレッテルが同じだったら、その中からアットランダムに選び出して、最後に自分が真に欲しがる本当の優秀品を掘り当てる。

 人間一人一人の個性を尊重して、あらゆる面から多角的に考察して選び出す方が親切であり、外された奴も諦められるだろう。しかし、そんなことをやったら手間が大変だ。企業では人間の選択ですら能率がものをいうのさ。要するに欲しいのは人材で、結果が同じであればらくな手段を選ぶ。別に俺達は特に選ばれたわけじゃあない、他の誰だってよかったのさ。たまたま、クジに当たっただけだ。おめでたいかぎりさ」

 岩村は語尾に嘲笑を加えた。彼らの単純さがおかしくてたまらないといったふうに。——

「何! 俺達をおめでたいだと! 岩村君、もう一度言ってみろ」

 淡島と佐藤がいきり立った。

「おう、何度でも言うぞ。君らは揃いも揃っておめでたい連中だよ」

「くそ!」

 淡島と佐藤の二人が、社長邸であることも忘れて立ち上がった。

「ま、待て、待ってくれ!」

 野沢がおろおろ声を出した。早川はただ蒼い顔をして唇を噛みしめているばかりであった。険悪な空気が一座に張りつめた。

 その時、扉にノックがあり、こちらの返事も待たずに扉が開けられた。

 そこには、——庭の牡丹をそのまま移し変えたような美しくも、豊かな若い娘が、銀盆にコーヒーカップをのせて立っていた。

「まあ、恐いお顔!」

 娘はおどけたように入口に立ちすくんでみせた。

 細形で背はあまり高くないのに、何と形よく発達した肢体であろう。明るい大きな瞳は青春の喜びと若々しい知性にあふれ、唇はいちごのように赤く小さく、それでいて豊かだった。

 岩村はきっと馬鹿のように口をポカンと開けていたにちがいない。そして、他の四人も。

 岩村は後になってからその時の自分の様子を想像して(俺としたことが、たかが一人の女に)とくやしさに唇をかむのである。

 とにかく、五人は闖入《ちんにゆう》して来たその娘に完全に魅せられた。その時点における娘への心の傾斜は五人共、純粋であったといえる。

 五人は瞬時にしてその娘が何者であるか悟った。そうすることにより彼らの心はさらに強く娘に牽引されて行ったのである。

 娘の名は盛川美奈子、盛川達之介が目に入れても痛くないほどに可愛がっている末娘にちがいない。

 過去、�招待者�の中からさらに選ばれたエリートへ盛川の娘が�降嫁�した前例があるだけに、五人の若者の美奈子に傾きかけた心には、いち早く、打算が忍び入っていた。

 となれば娘一人に婿五人、いや、美奈子の対象はあながち彼らだけとはかぎらない。前期の、いや前々期の、そして来年入社して来る�招待者達�も婿の候補に入るかもしれない。

 しかし、いずれにせよ、前例に照らして可能性はあるのだ。大菱井電業の幹部としての栄光の座と共に、この美しい�女�にありつけるかもしれぬ候補者の一人として選ばれたことは事実なのだ。

 選択の基準がどうあれ、とにかく候補者となった事実に変りはない。

 四人は、いや、岩村も含めた五人はたった今の激論も忘れて、銀盆をかかえて立つ盛川美奈子の臈たけた顔を、化石したように見つめていた。

「単純な奴ばかりだな」

 盛川達之介はそう言ってから、もういいというふうに手を振った。

 はっとかしこまって、テープレコーダーのスイッチを切ったのは磯原部長である。場所は数時間前まで、五人の若者が美奈子としゃべっていた盛川邸の応接室であった。室内にはまだ五人の若者達の熱気が残っているようである。装飾用に仕切られた壁付暖炉の上の置時計そのものが精巧なテープレコーダーになっていた。

 盛川が聴き入っていたのは、それが録音した�選ばれたる者�達の会話の一部始終であった。

「だんだん、小粒になりおる」

 盛川は不満そうにつぶやいた。

「はっ、申しわけありません」

 磯原は自分の人選の不手際を指摘されたと思って恐縮した。しかし、適当に選べと言いつけたのは盛川なのである。

「お前の責任だとは言っておらん、どいつを選んでも変りはないのさ」

 盛川はつぶやいてから、同じせりふがテープの中にあったことを思い起こした。

「そうだ、岩村という男、あいつは少し面白そうだ。磯原」

「はっ」

「岩村という新入りに注目しておけ、あるいはものになるかもしれん」

 彼は磯原に言い捨てるとそのまま後も見ずに応接間から出て行った。

 同時刻、都心の高台にある一流ホテルのダブルルームのベッドでからみ合っている一組の男女があった。

「どう、私のおしえた通りになさった?」

 女は男の胸毛を玩びながら、だるそうに言った。

「うん、おかげさまでな」

 男も同様にだるそうに答えた。

「あのお爺さん、今頃、磯原部長と一緒にテープを再生している頃だわ」

「君がおしえてくれなかったら、俺も危く罠にかかるところだったな」

「お礼は高いわよ」

 女が悪女めいた笑みを浮かべた。長い髪が豊かな胸のあたりまでまつわっている。一見、痩せた肢体だったが、躰の要所要所は驚くほど肉付きがよい。

「だから、こうやってつきあってる」

「ふん、最初はそちらから接近したくせに。私の躰の中で眠っていた狼を起こしたのは誰なのよ。憎い人」

 女は男の躰の一部分を思い切りつねった。

「痛い!」

 男は大仰な悲鳴をあげた。本当に痛かったらしい。

「私を社長秘書と知って近づいて来たあなたは、最初からそんな打算があったのね」

 女は憎らしそうに言ったが、目は笑っていた。

「でも、打算でも何でもいいの。私はあなたが好き! あなたなしではいられないわ。あなたの欲しい 情《インホメ》 報《ーシヨン》 は何でも上げるから、私を捨てないでちょうだい! 結婚してなんて言わないわ。二号でも三号でもいい、いつまでも貴方のそばにおいて」

 女は狂おしく叫ぶと、ふたたび男の躰にしがみついていった。男は女の挑発を逞しく受け止めると、引き裂くような凄じさで女の躰を開いていった。

 ベッドカバーをまくり上げ、室内灯《ルームライト》を皓々とつけた中で、無惨なまでに開き切った女体に、男は盛川美奈子の躰をオーバーラップさせていた。

 男は岩村元信である。女は竹内悦代、社長秘書であった。

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 名古屋——二ヵ月後

「今日もまた、遅くなってしまった」

 渋谷夏雄は窓外に散る名古屋市街の多彩なイルミネーションを見下しながらつぶやいた。

 室内にはボール盤、ふいご、巻線機や、標準音叉発振器、容量測定器、標準信号発信器などの各種材料や、標準器、試験器が所せましと置かれている。とうてい、東洋一の豪華大ホテル、ホテルナゴヤの一室とは思えなかった。

 それもそのはず、そこは星川電機研究所の本社でもあれば研究室でもあったからだ。

 星川社長をはじめとする旧軍部の技術者が寄り集まって設立した星川電機研究所、いわゆる星電研はまだ社屋もない。星川社長の軍時代からの知己のよしみで、大口出資してくれたホテルナゴヤ社長、内野恵美子の好意で、彼女の経営するホテルの|続き《コネクテイング》 部屋《ルーム》の一つに、会社ぐるみ居候していたのである。

 会社自体がうぶ声を上げたばかりで、製品には別にこれといって見るべきものはなかった。

 しかし、それでも、現在開発中のTA—2型真空管電圧計や、TL—3型電子音響器などをみても、この会社が平凡な技術者の集団でないことが分った。

 特にTA—2は未完成だというのに、性能の優秀性を買われて早くもある官庁筋から二百台も発注されていた。

 ホテル業界の女怪といわれている内野恵美子が、この海のものとも、山のものとも分らぬ星電研に大口出資して、しかもなお、ホテル経営の常識では考えられぬ、研究室用に客室を貸し与えているのも、単なる星川社長との個人的つながりによるものばかりではなく、星電研の将来性を敏感に読み取ったからにちがいない。

 ともあれ、渋谷夏雄は、ホテルの客室からベッドやソファーを取り除き、代りに実験器具を搬入した何とも珍妙な�研究室�で大あくびをすると、遠い郊外に借りた下宿の一室に帰るために、立ち上がったのである。

 ここ連日、研究に熱が入り過ぎて身体が相当に疲れている。一人者の気安さ、カーペットだけは残した研究室の上にごろ寝をして夜を明かしたこともある。

「とにかく、今日は帰らなけりゃ」

 研究室の周囲は清潔でふかふかしたベッドを備えたホテルの客室であったが、渋谷はどうもこのベッドと言うやつが気に入らなかった。

 あまりに柔らかすぎて、身体ごとクッションの中に沈みこむようで寝返りも満足に打てない。不潔な万年床ではあっても、彼には下宿の破れ畳みの上のカビくさい寝床が性に合っていた。第一、遅くなる都度、ホテルへ泊まっていたのではたちまち破産してしまう。

「さてと」

 渋谷は宝石を砕いたような窓外の夜景に、背を向けた。その時、入口扉にコールサインが聞こえた。

「はて?」

 彼は腕時計を見た。十一時近い。訪問客の来る時間ではない。かといって、会社の人間が飲みすごして、終電車を逃がして舞い戻って来る時間には少々早すぎる。

 渋谷がとまどっている間にふたたびコールサインが鳴った。チロンホロンと優雅な韻律が深夜の客室に響いた。さすが、内野社長がノック音が無粋だからといってあらゆるホテルに先がけて全客室に装備させただけのことはある。こんな時間にがんがんノックされたらたいてい神経に障るところだが、柔らかなコールサインは、深夜の訪問客に甘いイメージさえ寄せさせる。

 渋谷は扉口に歩み寄った。ドアチェーンはかけてないからワンタッチで開けられる。

 彼はそこに思いがけない人の姿を見た。

「社長!」

「今晩は。ご迷惑かしら?」

 社長といっても星川社長ではない。ホテルナゴヤの社長であり、星電研の大株主でもある内野恵美子が、昼間の経営者としての厳しい姿とは打って変った、紬の和服姿でしとやかに笑いかけているではないか。

「こ、これはまた!?」

 渋谷は少々慌てた。時折り、一階のロビイで姿をチラホラ見かけることはあっても、とうてい、親しく口をきける人間ではなかった。

 女手一つで東洋一と称されるホテルナゴヤを建設しその他、中京地区の日本旅館、料亭、バス、レジャーセンターなど手広く経営している日本実業界の女怪であり、中京地区で毎年五指に数えられる高額所得者なのだ。

 しかも渋谷の場合は、彼の社そのものが彼女の本拠に寄生しているのである。いわば女王と陪臣のそのまた陪臣の関係といってよかった。

「あなたが渋谷さん、星川社長から噂は聞いているわ」

 恵美子は化石したように佇《たたず》む渋谷の前に悪びれずに進んだ。

「そんなにかたくならないでちょうだいよ、いつも星川社長がね、あなたの自慢ばかりしているのでどんな方か一度お目にかかりたいと思っていたのよ」

 彼女は艶然と笑った。女怪とか中性的化け物とか様々に酷評されているが、渋谷が今眼前に相対している恵美子は、色香の充分に残れるふくよかな中年の女性であった。

「まあまあ、この部屋には満足に坐れる椅子もないのね、どう、私の部屋にいらっしゃらない? 何か美味しいものをご馳走してあげるわよ。今夜は私、もう別に予定はないし、それに株主の一人として、星電研の将来を背負う若手技師ナンバーワンのあなたから、いろいろと製品のお話しをうかがいたいわ」

 恵美子はカーペットの上に散乱した機器の間を、泥濘の中を歩くように裾をつまんで歩いた。

 形のいい脛が充血した渋谷の目に痛いように白く映った。しかし、それを挑発ととるには渋谷はあまりにも純真であった。

 開発中の製品以外は頭にない技術の虫のようなこの男は、内野恵美子の誘いを単純に馳走への招待とうけとったのである。事実腹をへらしていた。

「どう? 感じのいい部屋でしょう」

 内野恵美子に誘われてのこのこと尾いて行った彼女の居室は、ホテルナゴヤ最上階にある貴賓室であった。

 室の名前は|菊 の 間《クリサンスマムルーム》、

「一泊十万円もするのよ」

 恵美子はその時女王のような笑いを見せた。十万円といえば渋谷の約二ヵ月分の給料に相当する。それをこの女はただ一晩の、それも眠るだけの費用として投じている。

 資本家であると同時に経営者としての彼女は、経理の公私を厳しく区別して、たとえ自分が出資し経営するホテルであろうと、自分が私室として使用している菊の間の料金は、きちんと支払っているのであった。

 もちろん、他の重役や幹部に対する牽制の意味もあったが、それにしても、一泊十万円とは渋谷の生活の常識からは外れていた。

「何を召しあがる。何でもおっしゃってちょうだい、ルームサービスですぐに取り寄せるから。それよりもまず一杯いかが?」

 恵美子は寝室の手前の応接室の壁にあしらったホームバーを指した。

「ホワイトホース、ジョニイウォーカー、デウォーア、何でもあるわよ」

「僕だったらどんなにお金ができても、一泊十万円もする部屋には泊まらないですね」

 渋谷は恵美子の問とは的外れのことを言った。

「十万円くらい何よ、あなただってお金ができればきっと費《つか》うわよ。お金ができるとね、ただ高いという理由だけで買うものなのよ。買って得たものは問題ではないの」

「そういうものですかねえ」

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