古川徳太郎は冷徹に計算した。
しかし、花岡俊一郎にしてみればそこまでは読めない。強電に本源的に強い古川が、協電の強電に色気を見せるはずがないと確信している。それだからこそ、三森常務にかみつかれても平然としていられたのである。総会においても大株主である古川銀行が支持してくれるかぎり、強電がどんなにじたばたしても自分をクビにすることはできない。
古川の変らぬバックアップの確認というよりは、取締役会の情況報告のために古川銀行へやって来た花岡俊一郎は、そこで予想外に冷たい古川コンツェルンの首脳連の態度に少なからず動揺した。彼が悄然としていたのはそのためである。
しかし、その時点においては、よもや、古川が総会において敵にまわろうとは予想もしていなかった。
だが、花岡俊一郎の首の上には、資本主義社会の鋭利なギロチンが、すでにその綱を切られていたのである。
それから約二週間後の二月二十二日、協和電機株式会社の臨時株主総会が新大阪ホテルにおいて開催された。そして花岡俊一郎は商法三百四十三条による特別決議により、代表取締役及び取締役を解任された。代わって森口英彦が代表取締役社長に就任した。
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絶対的必要受け応え事項
菱産ストアの本店は新宿角筈の菱井文化会館の中にある。ここには菱産ストアの他に全菱井系社員のための厚生施設として、結婚式場、ホテル、料理、英会話、生花などの教室があり、一般にも市価より安い値段で開放されているところから、けっこう人の出入りは激しい。
岩村が転属させられたところは、電話販売課であった。
一応、主任という肩書は与えられたものの、することはヒラと全く変りない。要するに、お客からの電話注文の応接、ただそれだけを馬鹿みたいにくり返すのが彼の新しい職分であった。
彼の上には係長と課長がいた。
初出勤の日に課長デスクへ挨拶に行くと、出井というやせた中年の男は意地の悪そうな三白眼で岩村を眺めながら、
「私共は過去の履歴は参考にすることはあっても、全く問題にしておりません。評価の基準は本人の実力、ただそれだけです。
我が社は全菱井系企業を顧客として、菱井グループにおける資本循環の大ポンプとなっております。大いに誇りを持ってハッスルして下さい。特に我が課は先頃、売り上げにおいて通信販売課をぬき、店頭販売に迫りつつあります。電話一本でどんな大取引でもまとめるのが我々の勤めです。くれぐれも言葉使いには注意していただきたい。仕事の細目に関しては係長から指示を受けるように」
出井の口調は最初から高飛車であった。岩村の元の身分を知っていて、コンプレックスの反動である。もともと、この出井という男は川崎あたりのジャリ百貨店でくすぶっていた。菱産ストアの開設にあたり、ちょっとしたコネがあったところから、一躍、課長という重職? に抜擢され、もうハッスルのし放題、オール菱井の運命は我が双肩にありというような顔をして、忠勤に励んでいるという単純な男である。
「課長は特に言葉づかいにうるさいから注意して下さい」
大平《おおひら》と名乗った係長は出井よりも、もう一廻り小心そうな目を課長デスクの方にちらちらと送りながら言った。
「特に私共では電話が商売です。使う言葉一つでお客様の感情を害し、まとまるべき話もまとまらなくなります。一つ私が受け応えの見本を示しますからよく注意して聞いていて下さい」
大平は、ちょうどコールサインの入った電話を取り上げた。
「お待たせしました。お早ようございます。こちらは菱産ストア電話販売課、大平でございます。…………大平が承りました。毎度有難うございます」
ばか丁寧な言葉をごてごて重ね、最後に電話に大きく頭を下げてから、彼は送受器を置いた。それも相手方が電話を切るのを確かめてから、静々と置くのである。
彼は得意そうに岩村の方へ向き直り、
「分りましたか? 必ず言って下さい。その後に、朝ならば、お早ようございますと挨拶するのを忘れないように。そして、セクションとこちらの名前をはっきり言う。用件を承った後にもう一度、こちらの名前をお客様に告げて責任を明らかにする。そして最後に謝辞、絶対に相手より先に電話を切ってはなりません。相手が切ったのを確かめてから受話器をおくようにしてください。
以上の一つでも省いたり、ぬかしてはいけません。特に、あなたは主任という管理職だ。あなたの行動はそのまま部下が真似しますから率先して範をたれて下さい」
大平は出井の目と耳を意識しながら得々と言った。
「どんな忙しい時にもそれを全部言わなければなりませんか?」
電話の受け応えの一つ一つまで画一化する官僚的感覚に呆れながら、岩村は尋ねた。
電話というものは全体の調子《トーン》である。トーンがよければ好感を与える。第一、こんな受け応えを長々とやっていれば本題に入るまで客を待たせることになる。
「そうです、課長の決められたことです」
しかし、大平は信じて疑わぬように言った。きっとこの男は課長の命令とあらば、ためらわずに水火の中へも飛びこむだろう。この二人の虫ケラのような男が岩村の当面の直近上司であった。
電話販売課と銘打ってあるだけに、電話の量は凄じいほどであった。一本の電話に応接している間に三本位が鳴っている。職員は課長、係長、岩村以外の主任を含んで十人いたが、全員が手分けしても捌《さば》き切れなかった。電話を受けるだけではない。
注文は注文伝票に記入し、員数の確認をした上で配達課に廻さなければならない。住所が複雑であれば略図も書きこまなければならぬ。品目や員数の|間違い《ミス》は電話販売課の受付者の責任になる。
ベルがなる。「お待たせしました……毎度有難うございます」の馬鹿のようなくり返しではあったが、少しの気も許せない仕事であった。
しかも、それら殺到する電話の中の、ただの一本においても、出井の決めた�絶対的必要受け応え事項�の一つでも欠こうものなら、出井と大平が鬼の首でも取ったような顔で得々と注意する。
「岩村君、君は電話販売に向かないのではないか?」
「岩村君、よく君に菱電のテレビ課長代理が勤まったね」
「岩村君、何故、『お待たせしました』と言わないのですか? 決められたことを守れないとなるとこれは問題ですね」
彼らはことごとに岩村をいびった。
こうして、岩村元信の屈辱的な第二のサラリーマン生活は始まったのである。
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赤いピッケル
花岡俊一郎の失脚と共に、進も家電部長をおろされた。代わりに用意された新しいポストは冷蔵庫課長代理であった。
部長から課長代理という左遷もさることながら、冷蔵庫というセクションそのものが弱電部門者にとっては陽の当たらない場所であった。
というのは、モートルを生命とする冷蔵庫は、家電でありながら強電勢力の強い所だったからである。
従って弱電部門の人間はあまり冷蔵庫へ行きたがらない。�家電の離島�のような部門であったのである。
冷蔵庫そのものはテレビの頭打ちにひきかえ、まだまだ普及率に余裕がある。
当然、強電部門の鼻息は荒い。家電のなわばりでありながら、課内では弱電部門者は�居候的存在�になっている。まして、花岡俊一郎の養子である進に対する風当たりは酷烈でさえあった。
致命傷は負わせないが、小さな針でちくりちくりと刺しながら、徐々に息の音を止めて行く、サラリーマン特有の陰湿で残虐なあらゆる�私刑�が用意されていた。
進は毎日、死んだような顔をして出勤し、死んだような身体になって退社した。仕事そのものよりも陰湿な人間関係にエネルギーをすりへらしてしまうのだ。
そのような陰湿さに耐えてまで、何故、続けるか? 彼の協電における生命は、すでに終ったのである。もはや、二度と返り咲くことは、絶対に不可能であるのに。——
それは惰性であった。進は何もかも面倒くさくなってしまったのだ。
千載一遇の好運を掴み、あまりにも高所へ辿り着いた後の身には、今さら、会社を変えて課長、係長クラスの顕微鏡的な出世競争などには、馬鹿馬鹿しくて加われない。よしんば、加わったところでサラリーマンの実力が規格化している現在、自分位の男はゴマンといる。彼が軽蔑する課長、係長クラスにさえなれるかどうか分らなかった。
出世昇進のための努力は、自分がトップマネージメントに加われる可能性がある場合にのみ尽くすべきである。
資本金一億円以上の会社が約三千二百社、従業員総数四百七十二万人の中、トップマネージメントはわずかに〇・七六%である。
つまり、千人のサラリーマンの中、トップの栄光に浴せるのはたった八人弱ということになる。その他の九百九十二人の有象無象のサラリーマンは、停年までのサラリーマン的寿命の間に、できるだけ階段の上の方へ登ろうと、陰険で無益で、かつ熾烈な出世競争をくり広げ、精々、ピラミッドの底辺をゴキブリのように這いまわっただけで停年を迎える。
出世とはそのようなものではない。トップか、しからずんば無である。それ以外のあらゆる職制は全く出世しなかったのと同じである。ドングリの背比べはサラリーマンの無知と単純さを示す以外の何物でもない。要するに馬鹿な奴らだ。——
花岡進にそのようなどうにでもなれといった自棄があったからこそ、あらゆる屈辱に耐えられた。
花岡進はもう死んでいたといってもよかった。死んだ人間に生きている人間の営みや毀誉褒貶《きよほうへん》が滑稽に映るのは当然である。
会社では死んでいたサラリーマンも、家庭に帰れば息を吹き返す。しかし、彼は家庭でも生き返らなかった。
順子との仲は夫婦というようなものではなかった。
進の方からけんかを売ることはない。むしろ、順子のご機嫌を取り結ぶ場合の方が多い。できるだけ親しく順子に語りかけ、和かな雰囲気を作り出そうと努めた。
それは家庭に憩を求めたからではなく、順子との争いにより、よけいなエネルギーを費いたくなかったからである。
しかし、順子の態度は相変らずかたかった。別に進に反抗することはなかったが、彼に接する態度、表情、声までが事務的であった。
夫に接するに、電話交換手や官庁の受付のような声や態度、それはもはや妻のものではなかった。
職業的に男に接する妻は、妻として失格である。
注意してみると、順子はそれを別に意識してやっているわけではない。彼女の全体を包む一種の�硬さ�は生来のものらしいのだ。
進はこの頃になってはじめて、男が女に求めるものは、彼女らの外形的な美しさや、賢さではないことを知った。男が常に飢えているものは、女だけが持つと考えられている(或いは男が勝手に造り出した、手前勝手な錯覚かもしれない)優しさであり、柔かさであった。
彼女らにそれがあればこそ、男共が熾烈な生存競争に傷だらけになって帰って来ても、また、次の日、活力を取り戻して戦場へ向かえるのである。
そういう条件を欠落した女は、女であることは許されるとしても、妻になるべきではなかった。
そういう硬さを家庭に持ちこむ女は、男の体を粉々に砕くのみならず、彼らの精神までも破壊する。マイホーム主義のふにゃけた男共は、そういう女の化け物によって破壊された男の残骸《むくろ》ではないか。
しかし、順子は容赦しなかった。近所の公団住宅に�群生�する妻の資格を喪失した�女怪�とマイホーム主義のサラリーマンを真似て、この頃は家事の分担までも要求するようになった。
もちろん、周囲を比較すればまだましな方であったが、共稼ぎの家庭ならばいざ知らず、男の分を立派に果たしている男に対して、�女の分�を手伝わせようとするのが、どんなに女として恥ずべきことであるか、気がつかない。
男女同権とは男女が各々の分を尽くすことによって成立する。
男が仕事の成果によって、社会から評価されるように、妻の評価は家事や夫の補佐によって決まる。その評価が大抵の場合、彼女らの夫であるところから、つい女の分を忘れて甘えてしまう。
しかし、そんなことをいってみても分るはずがない。女は元来、理論的にはつくられていないのだ。
進はむしろ、積極的に順子に協力した。順子のご機嫌を損ねることにより、家庭の空気をこれ以上硬くしたくなかった。
妻の硬さは死骸のような自分の身体をむち打つことになる。今はただ、微温湯のような空気に浸って呆然としていたい。
だが、家庭は彼にとって墓所としての平安すら与えてくれなかった。花岡進は次第に自分の中に閉じこもっていった。
社にも家庭にも彼の安んじていられる場所がないとなれば、こうする以外に方法がなかった。
花岡進が失脚してから一年ほど後、彼は次のような文面の手紙を受け取った。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
拝啓
先輩におかれてはお元気に毎日をご活躍のことと存じます。
我らが帝都大学山岳部も創立四十周年を迎え、ますます充実した活動を行なっております。
この度、創立四十周年記念行事の一環として、来る二月十日より二週間にわたって、我が山岳部にはゆかりが深い白馬|不帰《かえらず》岳の冬期集中登山を計画しました。つきましては、先輩におかれては、この記念行事のO・Bオブザーバーとして是非ご参加下さるようお願い申し上げます。
甚だ勝手ながら、二月十二日急行ちくまの一等乗車券、寝台券、並びに見積り必要経費些少を同封させていただきました。|B・C《ベース・キヤンプ》は、信濃四谷郊外南股でございます。ではご参加を部員一同心よりお待ち申し上げております。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]帝都大学山岳部一同
花 岡 進 様
進は行ってみようという気になった。こんな時こそ過去をふりかえる絶好のチャンスだ。
山から遠ざかって何年になるだろう? そうだ、俺には山があったのだ。あの風雪と太陽と岩の中にもう一度、身体を置いてみたら、何か新たな力がよみがえってくるかもしれない。
旧い山仲間はいなくとも、旧い山々は昔通りにそこにあるだろう。
暗いまでに澄んだ空を背景に、絶え間なく雪煙を吹き上げる山稜が瞼に痛いばかりによみがえってきた。進は長い間、押し入れの隅に放りこんでおいた山の道具を久しぶりに取り出してみた。
ザイル、ハーケン、カラビナ、ハンマー、アブミ、セルフビレーピン、アイゼン、ワカン、吹雪用眼鏡《ゴツグル》、ラジウス、登山靴、みな青春の汗がしみついているものばかりだった。
「まあ、くさい!」
部屋いっぱいに散らした山用具に、順子は露骨に顔をしかめた。進は聞こえない振りをしてピッケルのブレードを被ったサックを除った。
「錆びてる!」
スイスの名工ハスラーの鍛えた業物は長い間の�冷遇�を嘆くようにまっ赤に錆を吹いていた。
昔、花岡を虚空の一角に立たせるために、蒼氷や堅雪を切った頃の鈍いが心に迫まる光は何処にもない。
ハスラーの錆はそのまま自分の心の錆であり、腐蝕であるかもしれない。これから出発日までの数日間、ピッケルの錆を落とすことが自分の最大の仕事になるだろうと進は思った。
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虚無への招待主
急行「ちくま」は名古屋で中央線に乗りかえる必要がない。松本まで直通で入るからである。松本で大糸線に乗りかえる。豊科—有明—細野—大町などとアルピニストには忘れられない駅名を暁暗の車窓に確かめているうちに、列車は下車駅、信濃四谷に近づきつつあった。
神城付近から全形をあらわした白馬連峰は、折りからの朝焼けの中を車窓にまさに眉を圧するばかりの量感で迫ってきた。
雪にびっしりと鎧われた頂稜が薄紅く色づき、次第に山麓に澱む暁暗を駆逐していく。
白馬、鑓、杓子いわゆる白馬三山が今日の一日のはじめのために朝陽をうけて煌《きら》めき始めようとしている姿に、花岡は思わず長い息を吐いた。
(俺は還ってきたのだ)
彼は心の底からしみじみと感じたのである。
信濃四谷、六時××分。——列車は定時に着いた。「現役時代」よく使った�四等寝台�(座席の下へもぐりこむ)と違って、山岳部が贈ってくれたのは一等寝台だけあって、よく眠れた。気分は爽快である。重装備のザックを背負いピッケルを手にしてデッキへ向かう。久しぶりに肩にずしりとかかるあの懐しい重量である。
デッキへ立つと寒気が頬を刺した。
さすがに厳冬期だけあって降りる人は少ない。それでも、やはり山に向かうらしいものものしい姿の人影が、ちらほらと改札口に向かっている。
この季節に山へ、それも三千米級の�大物�を志すだけあって、さすがに隙のない装備である。いずれも筋金入りのアルピニストにちがいない。それに皆若い。
花岡はふと不安を覚えた。卒業以来山は全然やっていない。資本主義社会の血みどろの生存競争は続けてきたが、陽に灼かれ風雪に晒される本格的登山からは全く遠ざかっていた。八年のブランクを置いたまま、いきなり現役のパリパリの中へ入って尾いていけるだろうか?
まあ、気楽にやろう。バテたら|基 地《ベースキヤンプ》で留守番《テントキーパー》でもしながらのんびり山を見ているだけでもよい。そう思うと不安は消え、久しぶりに山へ向かう悦びが胸に突き上げるように湧いてきた。
駅前からタクシーを拾ってベースキャンプがあるはずの南股へ向かう。細野部落を過ぎると間もなく左股の谷の奥に、不帰岳の鋸歯状のスカイラインが望まれた。
二股で車を帰した花岡は、朝の白々とした風景の中に自分以外の人影の見あたらないのを知って意外そうな顔をした。O・Bが合宿に参加する場合は、後輩が少なくともこのあたりまで出迎えるのが慣例となっていたからである。
急行「ちくま」の切符を贈ってくれたのは彼らである。ならば自分が大体、この時間に二股へ到着することは分っているはずだ。大先輩がわざわざ、後輩の合宿に馳けつけたのだ。本来ならば四谷まで出迎えてもふしぎはない。
(この頃の連中はたるんでるな)
花岡は自分が現役の頃の秋霜烈日たる部の規律をおもってちょっと腹立たしかった。
「ところで、奴ら何処へB・Cを張っていやがるんだろう?」
彼は一人ごちながら、ともあれどこかに仮の休み場所を見つけるために歩き始めた。
その時、また、一台のタクシーが雪にチェーンをきしませながらやって来た。降り立ったのはやはり登山者である。
(何処へ登るつもりだろう? かなりの重装備だが、ここで降りるところを見るとやはり、不帰一、二峰が本命だが、それにしても単独とはよほど、腕に自信があるんだろうな)
花岡に見られているとも知らず、その登山者は朝の光の中に面を晒した。
「岩村!」
驚愕の叫びが花岡の唇から洩れた。
相手の男も花岡を認めて雪の中に立ち竦んだ。たがいに思いがけない相手を見出した驚きである。二人は信じられないようにそのままたがいの顔を凝視していたが、やがておたがいがまぎれもない旧き山仲間であるのを認めると、
「いったいどうしてここへ?」
「お前こそどうして?」
とほとんどおうむ返しに訊きあった。
「そうか、お前ももらったのか」
花岡が言った。岩村も母校山岳部から招待されて来たのだ。それなのに後輩らしい人影は依然として見えない。そろそろ八時に近い。いくら彼らが朝寝坊だとしても、もうテントから起き出してもよい時間である。それに行動日は�早発ち早着き�が山では鉄則なのである。
「おかしいな?」
「場所をまちがえたんじゃないか?」
「いや確かに南股とあった。それが証拠に二人仲良く[#「仲良く」に傍点]ガン首を揃えているじゃあないか」
花岡が言った。確かに、彼の言う通り二人揃ってまちがえるはずがない。
「とにかく、ここで立ち話しをしていてもしかたがない。南股の発電所の少し上に取入口小屋があるはずだ。そこまで行ってみないか? 途中で出迎えに会うかもしれない」
「よかろう」
岩村の提案に二人は肩を並べて歩き始めた。少し行ったところでスキーを履く。
二人は黙々として進んだ。久しぶりに昔の仲間が再会したというのに、二人の心はその朝の風景のように白々しかった。この八年の歳月はたがいの心をどう歩み寄りようもないほどに遠く隔ててしまったことを、二人は密かに認めないわけにはいかなかった。
途中、発電所に寄って尋ねてみると、今年は帝都大は入っていないという返事であった。彼ら自身現役時代いろいろと世話になった所である。管理人こそ変っていたが、うそを言うはずがなかった。帝都大山岳部が来ていないことは事実だ。
それではあの招待状はどう解釈する? 狐につままれたような気持で、ともあれ二人は取入口小屋を使わせてくれと頼んだ。
「先客が一人あるが、よかったらお使いなせえ」
ひげ面の人の善さそうな管理人は言ってくれた。どうやら、単独行の登山者がすでに使っているらしい。二人は礼をのべて発電所を出た。
ここからはワカンを履いて夏路《なつみち》を辿る。夏路の最後の坂をあえぎ登ると、ふくよかな雪の台地にその小屋はあった。
小屋は三坪あまりの小さなものである。小さな煙突からたちのぼる薄青い煙は、先客の登山者が焚いたものであろう。
小屋の屋根の彼方に不帰の一峰から三峰までが顔をのぞかせ、抜けるような青空の中に、雪煙を飛ばしている。風は樹林に遮られてこの台地までは届かないが、あの高所ではさぞや強風が吹き荒れていることだろう。
二人は小屋の前にしばらく立ち止まって、久しぶりに接する岳の風景に見惚れた。
「大分冷えてきた。入ろう」
岩村にうながされて二人は小屋の扉を押した。
「今日は」
「お邪魔します」
先着の登山者は土間のストーブの前にうずくまっていたが、返事をしなかった。
彼らは顔を見合わせて、ちょっとうんざりしたような顔をした。登山者の中には時たま、この先着者のように人間嫌いをむき出しにする者がいる。
彼がそういうタイプだとすれば、こいつは窮屈な小屋生活《ヒユツテレーベン》になりそうだ。二人は遠慮がちにストーブの側へ寄っていった。
先着者が顔を上げた。薄暗い小屋の中で、ストーブの炎をうけた彼の片面が赫く染まった。
「渋谷!」
岩村と花岡が同時に叫んだ。
「おうおう」
渋谷は痴呆者特有の奇妙な音声を発しながら、ストーブの側を指した。ここへ坐れということらしい。
「一体、お前どうしてここへやって来たのだ?」
花岡が立ったまま問うのへ、渋谷は一通の開封された封書を差し出した。
その中には彼らが受け取ったのと同じ内容の招待状が入っていた。渋谷もどうやら彼らと同じ招待を受けたらしい。
「一体、誰がこんな悪戯をしたのだ?」
岩村が眉をひそめた。
「まあ、いい。どうせおたがいにひまな身体だ。少しのんびりと遊んでいこうじゃないか」
花岡が皮肉たっぷりに言った。
そうだ、悪戯であれ、何であれ、こんな結構な招待はない。食糧も充分用意してきた。小屋の狭ささえ苦にならなかったら、�虚《うつろ》の都会�へ帰るのよりはるかによい。それに三人の昔の仲間が顔を揃えたのではないか。彼らが今まで所属していた強大な組織のためにおたがいに激しくせり合ってきたが、組織そのものが失われたというよりは、組織からしめ出された今となってみれば以前の山仲間に戻って何ら差しつかえのないはずである。
(しかし、それにしても、いったい誰が?)
その疑問は拭い取れなかった。
「これは星川社長の字に似てるよ」
突然、渋谷が言った。MLT—3の発売会の例にも見られるように、彼は時折り、人並みの口をきくことがある。
「星川さんがまた、どうして?」
岩村が言いかけたのを、花岡が引き取って、
「そうか、星川さんなら考えられるぞ」
「説明してくれよ」
「星川さんは渋谷の義理の親父、つまり、岳父というわけだ。自分の一人娘を渋谷へやったくらいだから、よほど、奴が可愛いにちがいない。こんな渋谷の姿を見ているのはたまらなかったのだろう。そこで考えた。旧い山仲間の俺達と共に�昔の山�へ行かせてやったらあるいは快《よ》くなるかもしれないとな。しかし、気狂いのお伴では俺達が行かない。そこで考え出した一計が例の招待状だ。どうせ、お役ご免になってひまな俺達だ。母校山岳部からの誘いに一も二もなくとびつくだろうとな」
「なるほど、それなら話はわかる。とすると、俺達は気狂いのお守《も》りに、まんまとかり出されたというわけか」
「ま、そういったわけだ」
花岡はかつて自身が一度考えついたちえだけに、そう推理して疑わなかった。
「それでだ、一つ相談がある」
花岡は岩村に視線を注いだ。
「相談? 何だ?」
「せっかくここまでやって来たんだ、渋谷のお守りだけではつまらないと思わないか?」
花岡の瞳にストーブの炎が宿って燃えた。すでにそこには協和電機家電部長、花岡進という人間はなく、アルピニスト、花岡進の身と心が置かれていた。
「そうだな……で?」
「三人が揃ったのだ。どうだ一峰北壁をやってみないか?」
「えっ、北壁を!」
岩村は目を見開いた。不帰岳一峰北壁、それこそ彼らの青春の見果てぬ夢だった。惜しくも初登攀を為し遂げぬうちに卒業となり、この数年の歳月の間に後進のいくつかのパーティによって攀じられてしまったとはいうものの、依然として彼らの胸の中に、自らの足でいつの日かはという夢が根強い残り火のように燃え続けていた。
「しかし、渋谷は使えまい」
ややあって岩村が言った。
「パアでも山へは登れるさ。それにトップは俺達がやればよい」
「そうだな」
「やろう! 三人でもう一度北壁をやるんだ」
「よかろう」
岩村の瞳にも炎が宿った。二人はがしっと手を握りあった。久しぶりにビジネスを離れた打算のない握手だった。何のことかよく分らないくせに渋谷がその上に自分の掌を重ねた。
彼の瞳も炎を映しているように見えた。
翌朝午前二時、三人はほとんど同時に目覚めた。ザイル四十、三十各一本、ハーケン、カラビナ、ハンマー、アブミ等、もしかすると岩を登ることになるかもしれないと思って用意してきた岩登り用具を再点検してザックに詰める。
ラジウスで煮た肉粥を一杯ずつ啜《すす》り、便通を整えれば出発準備完了。
午前二時四十五分、三人は行動を開始した。
「すげえ星だな」
岩村が呻くように言った。久しぶりに仰ぐ山の星の明滅は凄絶なばかりに三人の目に沁みる。寒気は酷しかった。まつげがピリッと凍りつくような寒気は今日の少なくとも午前中の好天を約束するものだ。
最初の間はスキーをつける。沢の中はデブリとクラストでスキーにはかなり辛い。
五時に一峰末端。ここでスキーデポ。煙草一本廻し喫《の》みにしただけで直ちに傾斜四十度位のガレ場に取付く。トップ花岡、続いて岩村、渋谷の順にザイルパーティを組み、コンティニュアスに登る。
快適なピッチ四十分、ガレを登り切って、オーバーハングの岩の下に出る。そこで初の大休止、東の空が白んできた。
不帰一峰頂上より不帰沢に落ちこんだ高距約四百米の壮絶な垂壁が彼らの目指す北壁であり、積雪期は豪快な氷壁となってほとんど登攀不可能な垂直の空間を作り出す。
唯一のルートとして考えられるものは不帰沢をつめて、一峰尾根最後の壁下に入る浅いルンゼから取付き、氷化した壁を百五十米、それより岩層帯を経由してヒマラヤ襞へ入る。この部分は横に広いのでルートは豊富にありそうだが、雪崩の巣となっている。平均傾斜六十〜七十度、特に稜線直下は垂直に近い。問題はそこの突破だ。
テルモスの紅茶とチョコレートで一息ついた三人はふたたび立ち上がった。ここで十二爪アイゼンをつけた。
「行くぞ」
花岡が言った。オーダーは同じである。オーバーハングを避けて急峻な雪田に入る。雪田の上部で最初のハーケンを使う。二ピッチばかりのトラヴァースを終えると陽がさしてきた。
懸念されていた渋谷が案外やる。スキップカットする手つきも確かだ。頭は狂っても、アルピニストとしての手練は残っていたのか。
次がきのこ雪と氷化した壁、雪と氷の壁にステップを刻み、じりじりとピッチを上げる。
「よし、代ろう」
外傾した不安定なテラスに出たところで岩村がトップ交代。大分高度感も出て、脚下の雪渓が白くはるかだ。
この付近から乾いた完全な岩場になる。浮石が多く落石がしきり。しかし、岩村は確かな足取りで小石一つ落さずに登る。三十米いっぱいで大ハング上のテラスに出る。ここで三人が顔を揃える。
取付より六時間かかった。ここで昼食。
食後も同じオーダーで登る。ワンピッチで岩の小リッジ、第一ピッチ予想外に悪い。ハーケンを数本消費する。続いて第二ピッチ、岩は不安定である。
「ちくしょう、ハーケンが打てねえ」
小さなハングに行きづまり、岩村が呻いた。やさしそうに見える岩も、ホールドやバンド状の個所に氷がついて難しい。
「代ろう」
突然、渋谷が言った。花岡と岩村は顔を見合わせた。渋谷の腕は彼らの知るかぎり確かであったが、頭が正常ではないのだ。
「大丈夫、やらせてくれ」
渋谷は二人の逡巡を見抜いたように重ねて言った。落ち着いた声音である。どうみても異常とは思えない。
二人は顔を見合わせてうなずいた。へたに断ってつむじを曲げられたら困る。
トップの安全を期するために四十米ザイルをダブルにする。
しかし、渋谷の腕は確かだった。
アイスバイルでホールドを刻み、露出岩にハーケンを打ちこむ。そしてそこにアブミをかけて心にくいほど鮮やかに乗り越えて行った。
ザイルは順調に伸びる。時折り、渋谷がカットした氷片がはらはらと顔にかかる。
「ようし」
渋谷の合図に二人はいつの間にかザイルに全身の重量を託していた。
渋谷を疑うにはあまりにも鮮やかな身のこなしだった。花岡ミドル、岩村ラストのオーダー。
この頃からガスが出て来た。雪もちらつき始めた。ようやく天候が崩れ始めたらしい。まだ最上部のヒマラヤ襞の難所が残っている。
渋谷はハーケンをほとんど打たない。的確なバランスクライムを素手で登っている。
渋谷がトップを代ってから三ピッチで岩場を抜けて、いよいよ、ヒマラヤ襞に入った。
早速、小さなちり雪崩が顔にかかる。雪はますます激しく、風も出てきた。吹雪模様である。
腕時計は三時を示していた。行動開始後、すでに十二時間を経過している。急がなければならなかった。
それにしても渋谷の動きは的確である。ピッケルの届くかぎりステップを刻む、アイスハーケンを打って吊り上がる。また、ステップカット、次はアイスロックハーケン、四十米のザイルが伸び切って、
「よし、こい」
の合図。ちり雪崩間断ない中を着実にピッチを稼ぐ。
突然、上方に白煙が上がった。
「くるぞ!」
渋谷の怒声にはっとふり仰いだ二人の目に、表層雪崩が特有の静かな音をたてて落ちて来た。
ザイルとピッケルを頼りに虫のように岩壁にへばりついて、行き過ぎるのを待つ以外に方法がない。
「終ったぞ」
渋谷の声にやっと顔を上げた二人に、青白い氷壁を背負うようにして笑っている渋谷の顔が映った。
今のなだれで岩村と花岡は、渋谷の確保《ジツヘル》するザイルにぶら下がった形になっていた。
「渋谷!」
ふと彼の笑顔にぞっとするような冷たさを感じて、ミドルを登る花岡が叫んだ。
「お前、なおったのか!?」
ラストの岩村も言った。渋谷の笑いは白痴の笑いではなかった。
「ははは」
渋谷はなおも笑った。そしてその笑いを中途で硬直させると、
「なおっていたさ。ずうっと以前からな」
風雪が不帰沢の方から猛烈な勢いで吹き上げて来た。バリバリと音をたてて硬直するような寒気の中で渋谷の声は確実に二人の耳に届いた。
「お前達の招待主は俺さ。何のためか分るか? 言わずとも分るだろう。罪もない俺の家族を殺戮し、俺の恩人を滅した貴様達に復讐するためだ。今日を何日だと思う? 八年前二峰に立った日だ。俺はこの日を歯を喰いしばって待っていた。一度は貴様達と青春の友情を誓い合ったこの不帰で、人間の怨みの底の深さを思い知らせてやろうとな。
岩村、貴様は自分の出世のために、俺を殺そうと図り、アマメクボで俺の妻と子を焼き殺した。俺はあの猛火の中で、貴様の意図をはっきりと読んだ。自分の眼前で妻子を焼き殺されるのを見ながら、どうすることもできなかった男の怨みがどんなものか分るか!? 俺は必ず復讐してやろうと誓った。そしてわざと廃人を装い機会を待っていたのだ。それにそうしなければお前は執念深く俺の生命を狙っただろうからな。ハワイのハネムーン先へ電報を打ったのもこの俺さ。盛川の行状をあまねく調べて失脚させたのも俺のやったことだ。
花岡、貴様は俺の技術が欲しいばかりにあらゆる汚い手段を弄してMLT—3の公開実験を失敗させた。立花の子供が死んだのを知っているか? 貴様が殺したのだ。そのようにしてまで星電研を系列化しながら、俺に利用価値がなくなるとみるや、俺の大恩人である星川社長をはじめ、旧星電研幹部をボロ屑のように放り出した。
彼らや、俺達のほんの一握りのささやかな幸福を、貴様は自分の保身のためにめちゃめちゃにしてしまった。
俺は貴様への復讐の手はじめとして、MLT—3を改良したEP—3を古川電産にくれてやった。そのために、貴様のスポンサーである花岡俊一郎は、古川徳太郎のバックアップを失い、見るも無惨に失脚した。彼の失脚は貴様の失脚につながった。