しかし、俺の怨みはそんなことくらいでははれない。
俺達は決して多くを求めていなかった。
優秀な製品を世に送り、自分や自分の家族が静かに暮らしていければよかったのだ。
貴様ら二人はそれを青春の友情の仮面をかむって、血も凍るような残酷さで、虫を踏みつぶすように踏み躙《にじ》った。貴様達は今こそその償いをしなければならない。
死んでもらうよ。俺はここでザイルを切る。おれはここから独力で頂へ出られる、しかし、貴様らは俺に確保してもらわなければ上がれない。四百米の氷壁は貴様らを殺すにはもってこいだ。途中のきばのような岩角に切り裂かれ、ひき肉のようになって、不帰沢へ墜ちろ! 真白な雪渓を貴様らの血でまっ赤に染めて、きっときれいな眺めだろうよ」
渋谷は登山ナイフをザイルにあてた。
「渋谷、待て!」
ラストの岩村が叫んだ。
「今さら、何を言う」
「そうじゃない。お前が切るのはよせ! お前がそれをすれば殺人だ。お前はお前だけの渋谷ではないぞ、日本の渋谷なんだ。俺はお前の山仲間に値しない男だった。そんな男のために殺人の罪を負うことはない、渋谷、さよなら。厚かましい言葉だが、俺を許してくれ」
岩村は、右掌に握った白く光るものをザイルにあてた。一瞬、ふり仰いだ岩村の眼がうるんだように光り、ザイルは花岡と岩村の間で切断された。岩村の身体は岩角に大きくバウンドしながら深所からの目に見えぬ力に引きずりこまれるようにガスの中に呑みこまれていった。
「岩村!」
花岡は自分の身体から下方に伸びるザイルに、もはや、人間の重量がかからないことを知った。花岡は岩村を呑みこんだ霧の海から視線を上方へ転じた。
「渋谷」
花岡は呼んだ。雪つぶてが彼の面を打った。渋谷の返事の代りに吹雪が吠えた。ちり雪崩と雪煙が数米上方の渋谷の姿すら見え隠れさせる。不帰沢から吹き上げてくる強風の力で身体が持ち上げられそうである。
「岩村と同じ理由で俺も殺す必要はない。俺は恥ずべきアルピニストだった。今さら、言ってももう遅いが、今の俺にせめてできることは、お前に俺を殺させないことだ。直接、八つ裂きにしたいだろうが、お前は殺人者になってはならん。お前にはまだやることがあるんだ。渋谷、さよならだ。せめて頂上へ行ってくれ! 俺達三人が共に登ろうと誓った不帰一峰の頂上にな」
ザイルは花岡の頭上で切断された。渋谷の掌の中で急に軽くなったザイルの下方を、花岡の身体は岩角に切り刻まれながら着実に加速度を増していった。
その姿が雪煙に呑みこまれるまでのほんの数瞬間、岩角にあたって血しぶきを上げた、落下する花岡の身体が渋谷の網膜に焼きついた。雪壁にとび散った赤いしたたりを、不帰沢の深淵から吹き上げたガスがたちまち隠してしまった。
「終った」
渋谷は言った。これで何もかも終ったのだ。もう頂上へ抜ける必要もない。かといって降りる必要もないし、第一、一人では降りられない。
このままここで夜になるのを待てばよいのだ。後は風雪と寒気が決着をつけてくれるだろう。雪崩が来たら巻きこまれたっていい。
岩村と花岡は墜ちる前に妙なことを言ったが、俺の体は俺だけのものだ。はるみも雄一も死んだ。MLT—3も、EP—3も、もはや俺のものではない。愛する星電研と愛すべき人々も、散り散りになってしまった。要するに、生きていくべきすべての理由が失われたのだ。渋谷夏雄は今日から本当に廃人になった。廃人として生きるよりは、この不帰北壁に俺の生命の決着をつけさせた方がいい。
渋谷はそのままそこへうずくまった。雪がさらさらと音を立ててヤッケに当たる。手足の感覚が急速に失われていく。あたかも彼自身が氷壁の一部のように凍りつくまでに大して時間はかからないだろう。
彼は岩の一部のようになってぶつぶつと一人言を言った。
「岩村も花岡も自分から死ぬなんて馬鹿な奴らだ。何故、俺と一緒に登らなかった。ここまで来ながら馬鹿な奴らだ」
彼はひとりつぶやきながら自分が言ってることの矛盾に気がつかなかった。もう身体は寒気を感じない。いや、感覚そのものが去りつつあるのだ。
「しかし、ここまで来ながら頂へ行かないという手はないな」
渋谷の朦朧とした意識に、花岡の言葉がよみがえった。
「せめてお前だけは頂上へ行ってくれ」
遠い青春の日の誓い、それが現実の社会では何の役にも立たなかった。しかし、ここは山だ。そしてもうみんないなくなってしまった。
雄一も、はるみも、星川社長も、星電研も、そして岩村も花岡も。今、いるのは俺だけ。
それも雪煙と強風の空間の中で虫のように死んでいこうとしている。死んでいく前ならば、遠い旧い日の夢物語りの約束を果たしてもよいのではないか。
旧キ山仲間ハ皆去ッタ
追憶ヲ追ウコトハモウ止ソウ
昔唄ッタ山ノ唄ハ
幾多ノ山仲間ニ唄イ継ガレタ。
重力ヲ拒ネノケタ磐石ノ確保《ジツヘル》ハ
旧キ山仲間ノナキ後モ
薄緑リノ模糊タル彼方ヨリ
今モ我ラヲ支エテイル。
渋谷の耳に遠い日の夢の唄が聞こえてきた。
渋谷は動き始めた。彼の肉体が動いているのではなく、彼の精神が動いているといってよかった。
風雪の声とアイゼンのきしみ。夕闇が忍び寄っていた。吹雪の煙幕の中をどこをどう登ったか記憶はない。
やがて、急に傾斜が薄れたかと思うと、渋谷はさらに大きな風圧の中へ投げ込まれた。遂に頂台地へ出たのである。しかし、渋谷には自分がどこにいるのか分らなかった。
ただ分ることは言いようのない大きな空《むな》しさであった。体中が透明になって風雪も寒気もみな体を通り抜けていく。岩村や花岡に抱いていた憎悪も、雄一やはるみへの愛惜もその空しさの中にすべて洗い流されていく。
空しさの中で渋谷はふと思った。
「もしかしたら、岩村と花岡は招待状を受けた時から俺の意図を知っていたのではないだろうか? 人生に夢を見失った彼らが、殺されるのを承知で招待を受けたのではなかったか? あいつら、あまりにも素直に死んでいった。自分達の生活を破壊した犯人は彼らではない。もっと巨大な怪物なのだ。岩村や花岡自身がその巨怪の哀れな犠牲者だった」
しかし、そんなことはもうどうでもよかった。体の中から何もかも流れ出してしまったような空しさなのである。
何でもいい。何でもいいから俺を充たしてくれるものはないか?
渋谷はその何かを手探るように数歩よろめきながら歩いた。よろめきつつハイマツに足をとられて倒れた。そしてそのまま、ハイマツの中に首をつっこんだまま動かなくなった。
強風下にもかかわらず、雪がその上に降りつもり、人の形からなだらかな円みへ、そして頂台地の一部分のように埋めこんでいった。
もう夜になっていた。吹雪は夜になっても一向に衰える気配がなかった。
それから、約三ヵ月後の五月のあるよく晴れた日、白馬岳から鹿島槍方面への一般コースの縦走を志した数人の登山者パーティは、不帰岳第一峰の頂で異様な臭気を嗅《か》いだ。
蛋白質の腐敗するような異臭にもめげず、好奇心に駆られて頂台地に臭気源を探し求めたパーティは、北壁を望むハイマツの中に渋谷の死体を発見した。
ハイマツの上だっただけに雪が早く融け、山の陽に灼かれて腐敗したらしい。頭髪はすでに脱け落ち、頭蓋骨質が露出していた。破れた衣服の下の皮膚は緑色を帯び、肋骨を露出した胸腔内にたまった黄色い水の中を無数の蛆がうごめいていた。
人の気配に蠅がわーんと飛び立つ。
「見るな、見ない方がいい」
パーティの中の女性を手で制しながら、発見した登山者自身、あやうく嘔吐しそうになっていた。
翌々日の朝、東京日本橋の菱井銀行の会長室と、大阪中の島の古川銀行の頭取室で、二人の男が秘書の運んできた新聞に目を通しながら、奇しくも同じようなことをつぶやいた。
「世の中には為すべきことが山ほどあるというのに、一円にもならない山登りで命を喪うとは何処のどいつか知らんが、馬鹿な奴がいるもんだ」
二人の男の棲《す》む巨大なビルの外では二つの大都会がすでに一日のダイナミックな活動を始めていた。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『大都会』昭和50年1月10日初版発行
昭和53年3月30日16版発行