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作者: 当前章节:15382 字 更新时间:2026-6-23 00:38

 渋谷にはおよそ理解しがたい富者の倫理であった。

「そんなことより飲みましょうよ、ね、スコッチのブレンドはいかが? 私、バーテンダーとしても立派に食べていけるだけの腕前なのよ」

 恵美子はグラスのへりに赤いキュラソーづけのチェリーをあしらいながら言った。

 渋谷は恵美子が手際よくブレンドしてくれたスコッチのカクテルを一気にのどに流しこんだ。

 特有の薫臭と共に空き腹に熱湯を注ぎこんだような感覚が、のどから食道、胃へと流れ落ちる。

「いかが?」

「申し分ないですね」

「もう一杯いかが?」

「いただきましょう」

 渋谷は進められるままに何杯かグラスを重ねた。空き腹だけに廻りも早い。恵美子も適当に流しこんだらしく、眼瞼がほのかに紅潮してきた。

「渋谷さん」

 恵美子が呼んだ。

「は?」

 グラスから上げた渋谷の目に、恵美子の薄紅く染まった大柄な顔が大輪の花のように揺れた。

 正に爛熟した美しさである。その時、渋谷は急速に廻る酔いの中で、これは早いこと退散しないと面倒なことになるなという微かな予感を抱いた。しかし、あえて彼が腰を上げなかったのは、それだけ室内が豪華で居心地がよく、そして、単純な空腹感を覚えていたからである。

 もう今からではどんなに急いでも終電に間に合わない。どうせ遅くなりついでに、恵美子がこれからふるまってくれるというご馳走をいただいてから帰ろう。——そんな意地の汚なさからついに腰を落ちつけてしまったのである。しかし、恵美子は一向にルームサービスを呼ばない。まさかこちらから言い出すわけにもいかないので、つい手前にあるグラスを重ねてしまうことになる。

「渋谷さん」と呼びかけられた時は、相当に酔いが廻っていることが自分でも分った。

「もし、ただだったら泊まる?」

「え?」

 恵美子の言葉の意味が掴めなかった渋谷は聞き返した。

「あなたはどんなにお金があっても、眠るだけに十万円は払えないとおっしゃったわ。それなら、ただだったらどうなさる?」

「ただ?」

「そうよ、よかったらここへ泊めてあげるわよ。今夜は大分遅いし、帰ったところで別に待っている人はいないんでしょ?」

「そ、そんな」

「いいのよ、この菊の間は寝室が二つあるの、たまには貴族になったつもりでお寝みなさい。第一、ここなら出勤に二分とかからないわ。明日の朝お寝坊ができるわよ」

 寝坊ができるという恵美子の言葉が強く渋谷の心をとらえた。これから渋谷の下宿までタクシーで約千円、電車で約四十分。朝めしぬきにしても七時半には起きなければ間に合わない。

 どうせ、明日の朝、また、出て来るのだから今夜泊まってしまってもいいではないか。一晩くらい王侯の気分を味わうのも悪くないだろう。それに月給日間近い今、タクシーの千円は痛い。

 渋谷は胸算用しながらも、何よりも怒濤のように押し寄せた猛烈な眠気の前に、心の奥底で帰った方が無難だと主張し続ける声から耳をそむけてしまった。

 空腹に廻ったスコッチと連日の疲労がどっと出て、理屈ぬきで眠りたかったのである。

「まあまあげんきんな坊やだこと。ただだと聞いたらとたんに上瞼と下瞼が仲良くなったのね」

 恵美子の笑みを含んだ声も、すでに夢うつつであった。

 渋谷夏雄には恋人がいた。といっても渋谷一人が勝手に決めた全く一方的な恋人である。しかし、渋谷はその娘以外のいかなる女とも結婚する意志はなかった。あの娘と一緒になれなければ一生独身を通す。——と一途な彼は思い詰めるほどにその娘に恋していた。

 しかし、相手の娘は、渋谷がそれほどまで熱烈に自分に心を傾けていることを知らない。いや、もしかしたら、渋谷夏雄の存在自体すら、空気や水のように心得ているかもしれなかったのである。

 娘の名前は星川はるみ、細面で清楚な処女であった。星川社長が、目に入れても痛くないほどに愛している一人娘である。渋谷ははるみのことを心の中で〈アリサ〉と呼んでいた。アンドレ・ジイドの〈狭き門〉に登場する、純潔の象徴のようなヒロインの名前である。ということは、同時にはるみをアリサのように終生純潔の高嶺の花として偶像化していたのだ。

 だが、とうとう、渋谷ははるみと接触する機会をもった。久しぶりに早目に退社した渋谷は、ホテルロビイでばったりとはるみに出逢った。

 星川社長に何か用事があっての帰りらしい。はるみも父の下に働く技師の一人として渋谷の顔を覚えていてくれた。

 何となく連れ立って外へ出た形の二人の前に、心の浮き立つような小豆色の晩春の黄昏が広がっていた。

「城址公園へ行ってみませんか」

 文字通り、清水の舞台から飛び降りるような気持になって、渋谷ははるみを誘ってみた。どうせ断わられるであろう、断わられてももともとと、半ば自棄的にかけた誘いであったが、はるみは明るく受けてくれたのである。

 あまりにも簡単に自分の不作法で無器用な誘いを受け入れられて、渋谷は最初かえってとまどい、次に狂喜した。

 春の城址に新緑が燃えていた。西空の落日の余光を追うようにして彷徨《さまよ》った二人が、本丸をめぐる森のしげみに来た頃は、夕映は完全に消えていた。花の香りが微かに流れてくる木の下闇で二人はふと抱き合ってしまった。

 渋谷の烈しく傾斜した心にほだされたのか、それとも、春の甘い夜風に理性を忘れたのか、数時間前までは口もきかなかった二人の若者が激しく抱き合い、強く互いの唇を吸い合ったのである。

 渋谷の積極的なことはうなずけるが、それにしても、それを受けるはるみの何という燃え方。

 渋谷は思いもかけぬはるみの反応にさらに大胆になった。常の彼ならば考えられないような行為へ彼は移ったのである。

 自分の腕の中に完全に預けられているはるみの躰を徐々に青草の上に押し倒し、そしておずおずとスカートの裾に手を廻した。さすがにそこでいったん止まった彼の手は、女の拒絶が感じられないのをいいことに、さらにおずおずと、しかし、確実な速度で、女の躰の中心に向かって指を這い進めて行ったのだ。

 それから先がどうなったか、彼は定かに記憶していない。とにかくそれから数分後には二個の男女の躰はある部分を接点にして激しく上下に動いていた。

 女の躰とは何と熱く柔らかいのであろう。渋谷は次第に融けそうになる自分の躰を必死に抑えながら、思いがけなく手に入れた恋の果実を貪婪《どんらん》に貪るのであった。

 沸騰点は次第に近づいてきた。

「ああ」

 女が耐え切れなくなってうめいた。

 それははるみの声ではない。渋谷は愕然として目を覚ました。何とそこには全裸に近い恵美子が、自分の躰の上にひたと重なり、唇をかみしめながら必死に快美のうめきを殺しているではないか! しかも、渋谷の躰が、渋谷の意志とは別に、まるで不随意筋が動くように恵美子の躰と動きを共にしていたのである。

 このままいけば躰が溶ける。それはそのまま、はるみに対する冒涜になる。しかし、それにしても、この快美な感覚は! 躰の中心を燃え上がるような熱く柔らかい肉に包まれて、烈しい蕩揺《ゆりかえし》のうちに耐えに耐えた緊張を、すさまじいエネルギーの放出をもって解消したがっている。

 それはもはや理屈ではなかった。とにかく、行き着く所まで行かなければ若い躰が承知しなかった。

 しかし、渋谷は後一歩の所でそれを耐えた。ギリギリと歯を喰いしばりながら、脳髄の中枢に微かに目覚めていた理性を奮い起こし、本能の奔流の中に旋回する身体に急制動をかけたのである。

 絶頂の近くでの不自然な努力、渋谷の目は血走り、全身が震えた。恵美子はそれを渋谷の合図[#「合図」に傍点]だと感ちがいして動作に一層の拍車を加えた。

 どんなに耐えても、女にかくも絶妙に動かれては男は耐えきれない。

 もはや、渋谷に為せることはただ一つしかなかった。

「ううっ」

 渋谷は動物のようなうなりを発すると、渾身の力をこめて自分の上に重なった恵美子の躰を拒《は》ねのけた。密着した二つの躰が離れた瞬間、耐えに耐えてきた渋谷の躰から堰《せき》を切ったように体液がほとばしり出た。

 それはベッドカバーを越えて、カーペットの上にまで跳んだ。

 急速な弛緩状態の中で渋谷は——よかった——と思った。

 少なくともそれ[#「それ」に傍点]は恵美子の躰内に入ることはなかったのだ。ぎりぎりのところで恵美子との交わりはカットできたといえる。

 ベッドから仰向けざまに落ちた恵美子は、思うさま両脚を開いたままのあられもない姿でカーペットの上にひっくりかえった。

 頂上の近くで突き放された彼女は、それでもなお、自分の躰に加えられた渋谷のおよそ�非協力的な力�を信じられないらしく、そのままの姿でしばらく床の上に横たわっていた。

 恵美子の躰の中心を被う豊かな繁みが、ルームライトの中に黒々と濡れて光った。

 ようやく自分の状態を悟った恵美子は、次の瞬間に激怒した。今まで、女王の誇りをこのような形で無惨に蹂躙《じゆうりん》した男はいない。

 あまりにも激しい怒りで彼女はしばらくは口もきけず、ただ全身でわなわなと震えた。

 渋谷はその様子に冷たい一べつを投げると、素早く衣服をまとい、恵美子の前につかつかと進んだ。

 恵美子がようやく罵りの言葉を唇から出そうとしたとき、渋谷の右手が信じられないような早さで上がり、左右に一振りずつ、火の出るような痛打を彼女の両頬に浴びせて、そして部屋を出て行った。

 恵美子が何を言うひまもなかった。

 渋谷の気配が完全に消えた頃になって、恵美子の両眼に涙が噴き出した。くやし涙である。

「ちくしょう、畜生!」

 女王にあるまじき汚ない言葉を吐き散らしながら、恵美子は声を上げて泣いた。それは爆発寸前で吐け口を失った欲望が、ヒステリックに感情のバランスを突きくずしたのでもあった。

 思うさま泣いた後、彼女は涙に赤くはれた目をきっと上げた。

「この復讐はきっとしなければならないわ」

 星電研がホテルナゴヤから追い立てをくったのは、実にその翌日のことであった。

 星川社長は明らかにその理由を知りながら、渋谷に対して叱責めいたことは一言も言わなかった。

 とりあえず、移転した中区栄町の裏通りの仮事務所でも、渋谷を見る目は常と変らぬ穏やかな光に充ちていた。

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 大阪——二ヵ月後

「接吻はいやよ」

 新婚の褥《しとね》の中でおよそ新妻が吐くべからざる言葉を順子は平然と吐いた。南紀白浜の初夜の宿の一室は、灯を消しても海面の水光がたゆとうような、海に張り出したこの宿随一の眺望を誇る特別室である。

 新大阪ホテルで関西財界人のほとんどすべてを招いての豪奢な結婚披露宴の後、花岡進と順子は南紀一周の新婚旅行《ハネムーン》に出発して、今夜は初夜であった。

 披露宴の絢爛に比べて二泊三日の新婚旅行は、あまりにも短か過ぎるようであったが、新婦の父、花岡俊一郎がなるべく早く帰ってこいという厳命を下したので止むを得なかった。

 妻の父の命に易々として従わねばならぬのが、これからの花岡進の宿命であった。

 同じ花岡姓を名乗ってはいても、関西財界にどっしりと根を下した、花岡俊一郎=協和電機株式会社社長を当主とする花岡家は、花岡進の属する東京の花岡家の総本家にあたる家筋で、現在では、両家の間にほとんど血のつながりはないといってよかった。

 ところが、花岡俊一郎には順子という一人娘しかいない。妾腹の子もない。そこで花岡の�純なる血液�を伝えるための種馬が必要となったわけである。

 だが、種馬であるからには馬自身が純血《サラブレツド》の所有者でなければならない。八方手を尽くした婿探しの結果、花岡進に白羽の矢が立ったという次第であった。進ならば頭もいいし、第一身許がしっかりしている。それに血縁とはいえ、現在ではほとんど血のつながりは薄れ、優生学上も全く問題がない。

 進の父は総本家から持ち込まれたけっこうな話に一も二もなかった。進自身は婿養子ということに少々ひっかかるものを覚えたが、花岡家の名声と資産と、あわよくば手に入るかもしれぬ花岡俊一郎の後継者としての椅子とそして何よりも順子の冷たい美貌に、むしろ浮々として承諾した。

 美しい女と富と名声、野心のある男ならば絶対に拒ねのけることのできぬ誘惑が、三拍子揃って花岡進の前に現われたのである。婿という身分ぐらいには耐えなければならぬ。何、それも俊一郎が�隠居�するまでのわずかな時期を我慢すれば、三つ共、名実共に自分のものとなるのだ。

 花岡は心の中でソロバンを弾くと、満々たる野心を秘めて大阪へ下った。

 しかし、すべての手続きを終えて、新褥の中で新妻の躰を初めて開く時に至り、進は自分に課せられた種馬という宿命の酷しさを、改めて思い知らされたのである。

 順子は最初から進より一段上の所に構えていた。進の妻となった身分でありながら、決して不必要な身体の接触を許さなかった。

 なるほど、生殖の行為に接吻はいらない。肉体のある一部の部分的接触だけで、充分目的は達せられる。愛情も技巧もムードもいっさい不要だ。

 順子はその点でまことに稀有な女であった。女である前に、純血を伝えるただ一人の人間として徹していた。

「接吻はいやよ」

 夫として絶対に許せぬ言葉を甘受しながら、それならばそのように扱ってやろうと、進はすべての愛戯を省略して、驕慢な妻の躰の中に乱暴に分け入って行った。

 疼痛を必死に耐えているのは分ったが、進は容赦しなかった。

 向うが俺を夫として認めないのであれば、こちらもこの女を富と名を得るための媒体として扱ってやる。最初からそのように割切ってしまえば、女がどんな態度をとろうと、それはそれなりに欲望の排泄口としての効用はある。

 花岡は水の光のかがよう褥の中で、順子の躰を苛《さいな》んだ。

 二つの男女の躰はその奥深くを合わせながら、無機的な律動を伝え合っているにすぎなかった。

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 冷たい真空管

 星川電機研究所の技師、渋谷夏雄は自分の研究が行き詰まる都度、二年前の入社式の席上で、

「諸君は売れる物を創《つく》ろうとしなくともよい。星電研が諸君に要求することは、�本当によい物�を創ること、それだけだ」

 と新入技師団に語った星川社長の熱っぽい言葉を思い出すのであった。

 最初は渋谷もその社長訓示を、どこの入社式でも聞かれる美辞麗句であると思った。

 利潤の追求を絶対かつ唯一の目標とする営利会社にあって、国家社会に対する奉仕を最優先させるはずはない。

 星川社長も口ではうまいことを言っても、社会のために会社がつぶれてもいいなどとは思っていないだろうと、内心かなり反発を感じたものである。

 ところが、入社して現実に星電研の技師の一員として働くうちに、社長の言葉がうそでないことがよく分ってきた。

 一応、株式会社の看板を掲げてはいても、もともと、社長をはじめとする四、五人の星電研の首脳陣が旧日本軍の兵器技術者で、自分達の意志に反して人間殺戮の研究をさせられていたのを、敗戦を機に今度こそ自分達の技術と頭脳を人間の幸福のために役立てたいと願って設立したものが星電研であった。

 それだけに、設立の趣旨そのものが、営利の追求よりも、これら技師団が軍部によって長い間抑えられていた本当に創りたい物に対する欲求不満の解消にあった。

 であるから、星電研は営利企業体というよりは、技術者集団と呼んだ方がよかった。製品も金を儲けるために創るのではなく、創りたいから創るのである。彼らとその家族が喰えるだけの利益を得られればよいのだ。

 星電研の設立趣意書の冒頭にもこの方針ははっきりと謳《うた》われている。即ち、

「不当ナル利益ノ追求ヲ廃シ、アクマデ内容ノ充実、真ニ優秀ナル製品ノ開発生産ヲ主タル目的トシ、徒ラニ規模ノ大ヲ追ワナイ」

 技術者にとってこんないい働き場所はなかった。そして渋谷夏雄にとっても。——

 その夜、渋谷は同僚というよりは彼のよき助手、立花和彦と遅くまで研究室に居残った。�残業�は何もその夜だけではなく、ある研究に没頭していた二人は、ここのところ連日研究室に居残っていた。

 時刻はそろそろ午後八時を廻る。二人の胃袋は痛いほど空っぽになっていたが、彼らは憑かれたように研究を続けていた。

「おい、見ろ!」

 突然、渋谷の興奮した声が起きた。

「何ですか?」

「いいか、今、もう一度交流信号を入れる。よく見ていろよ」

 渋谷は複雑に入り組んだ実験装置のある一点を操作した。かたずをのんだ立花。そして、

「こ、これは!」

「な、内信号が増幅されて出てくるだろう」

「これは一体、どういうわけですか?」

 立花は驚愕のあまり、声をのどに詰まらせた。

「見るようにゲルマニウムn型の半導体結晶にタングステンの二本の針を立てた。二本の針とゲルマニウムを電極とし、針の一本を正電位《プラス》、もう一本を負電位《マイナス》になるようにしてそれぞれ、プラス一ボルト、マイナス五十ボルト位の電圧を加えたんだ。そして、プラスの針とゲルマニウムの間の電気回路に、交流信号を入れると、マイナスの針とゲルマニウムの間にその信号が増幅されて出てくる」

「増幅! 真空管も使わずに」

「そうだ、しかもより精密にな」

「渋谷さん、これはどえらいことになるぞ」

 二人の技師の熱に浮かされたような声が研究室の中で次第に高まっていった。

 渋谷と立花は従来のラジオ、通信機、レーダー装置、電子計算機などの一連の電子機器に広く用いられている電子管(真空管)が、フィラメント加熱方式で放熱装置を必要とするため、どうしても大型化、重量化する点に注目し、電子管に代るべき増幅作用や、整流作用を営むものを開発しようとしていた。

 研究の主眼目は従来の電子管より小型軽量であり、電力消費が少なく、寿命を長くすることにあった。

 たまたま渋谷が学生時代から進めていた半導体の研究により、思いついた半導体の結晶を使っても真空管と同じような純電子的増幅作用を営むことができるのではあるまいかというヒントに基づき、星電研入社後、彼の研究に興味を持った次期入社の立花と共に様々の工夫をこらしてきたのである。

 同じ頃に米国でも同様の研究が進められているらしかったが、文献や資料がほとんど入手できず、ただ一つ分ったことは、彼らがその�新電子管�をトランジスターと呼んでいるらしいことだった。

 渋谷はあとうかぎりトランジスターに関する資料を蒐《あつ》めた。そしてどうやら海外の研究がほぼ完全に自分の目指すものと一致していることを知った。それが渋谷の卒業の頃である。

 彼は星電研入社にあたって星川社長にトランジスターのことを熱心に説いた。

「そんなものが企業として成り立つかな?」

 まだトランジスターのトの字も知られていない頃のことである。重役の中には一介の青年の口から飛び出す、得体の知れない新語に明らかに疑惑の色を浮かべる者が多かった。

 渋谷を技術者にありがちな誇大妄想的な発明狂と思ったのである。

 その中で星川社長のみ終始熱心に彼の話に耳を傾けてくれた。そして、

「熱を出さない真空管——トランジスターか、……よろしい、やってみたまえ」

 と力強く言ってくれたのである。

 ここに渋谷の才能を買ってくれた人物が現われたのだ。

 渋谷は星電研に入社と同時に研究室に回虫のように棲みついた。星川社長の期待に報いるためばかりではなく、彼は急がなければならなかった。

 途中から半導体整流器を研究していた立花が彼の研究に参加してくれた。そして、今日までの二年間、血の滲むような研究が続けられてきたのである。

 そして、遂に、——

 今夜、半導体結晶表面の電気的性質を研究していた渋谷が、この現象を発見したのだ。

「渋谷さん、とうとうやりましたね」

「うん、お前のおかげだよ」

 二人は回路に増幅されて出てくる交流信号を、我が子の産ぶ声を聴き入る父親のような顔で見入りながらかたく手を握り合った。

 技術者ならではの恍惚の一瞬である。

 渋谷は立花と手を握り合いながら、遠い日に誰か他の友とどこかで同じような握手をしたことを思い出した。

 それは記憶錯誤の状態において、自己の現状はすべて過去のある時期に体験したような気がする既視感《デジヤビユー》とは異なり、確実に記憶の中に深く刻み込まれている、生々とした触覚であった。

 そうだ! あれは今は東京と大阪に離れている、かつての山仲間、岩村と花岡と交わした山頂の握手であった。

 ある時は肌の焦げるような熾烈な陽の光の下に、また、ある時は息もつけぬような風雪の中で、がしっと握り合った掌はたがいにザラザラと荒れていた。

 今、交わした立花との握手は、どちらの掌も手脂や機械油でしめっていた。しかし、いずれも共に扶《たす》け合い、大きなことを為し遂げた後の友情と相互信頼に充ちた男の握手だった。

 薬品と機械油の異臭が混然とした薄暗い実験室の中で、渋谷はかつての日の山頂をあたかも昨日のことのように鮮明に思い出したのである。

 その時、扉に忍びやかなノックの音が聞こえた。

 二人はそれに気づかなかった。ノックは静かに続けられた。

 最初にそれを聞きとがめたのは立花である。

「渋谷さん、誰か来たらしい」

「誰だ? こんな時間に」

 渋谷は腹立たしそうに言った。技術者の恍惚の瞬間を第三者のために損われたくなかったのである。

「誰ですか!?」

 気持は同じ立花が憤然として怒鳴った。

 答えはなく依然としてノックだけが静かに、しかししつように続く。

 遂に立花が根負けしたように、

「鍵はかかっていない。用があったら入って下さい」

 と怒鳴るように言った。

 油の切れた蝶《ちよう》 番《つがい》の軋りと共に、扉は静かに開けられた。二人はそこにたたずむ意外な人の姿を見出した。

「社長!」

 そこには星電研社長、星川徳蔵の鶴のような姿があった。

「一体、こんな時間にまた、どうして?」

 二人の問に星川は静かな微笑を哲人のような彫りの深い細面に浮かべながら、右手にぶら下げた小さな風呂敷包みを二人の前に掲げて、軽く左右に振ってみせた。

「何ですか? それは」

 渋谷が訊いた。

「にぎりめしだ、二人共、まだめし前だろ。そう思ったから女房と娘に握らせてきたんだ」

「社長!」

「研究熱心もいいが、身体をこわしては何にもならん。めしも喰わずにというのは感心せんよ」

 星川はそう言いながら、包みを開いた。握り立てを大急ぎで持って来たとみえて、めしからは湯気が立っている。

「熱いお茶も魔法瓶に入れてきた。さ、冷めないうちにやれ、渋谷、お前はオカカが好きだったな。立花、お前はタラコだったな。両方共たっぷりあるぞ」

 二人は顔を見合わせた。この人の善い町工場の親方的感覚! しかし、同じように気の善い二人の若い技術者は、星川社長のなにわ節に完全にまいってしまった。

「社長、す、すみません……私達は今、どえらいものを発見したんです」

 鼻をつまらせながら渋谷がたった今為しとげたばかりの実験成果を報告しようとするのを、星川は手を上げて軽くさえぎり、

「そのことは明日の朝、詳しく聞こう。今、君達が為すべきことはこの目の前にある食糧を少しも早く胃の腑に収めることだ。さ、喰え! これは社長命令だぞ」

 二人を眺める老社長の眼は慈父のような優しさにあふれていた。

 渋谷はにぎりめしをのどにひっかけた。めしのぬくもりがはるみの手のぬくもりのように感じられたからである。

 星川はるみが正式に渋谷はるみとなったのはそれから約一年後であった。

 彼らの結婚が星電研全社員の祝福をうけたことはいうまでもない。

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 破片《かけら》の人間

「あなたって、本当にいいお友達をお持ちになっていらっしゃるのね」

 はるみはまだ披露宴の興奮さめやらぬ、やや上気した顔で言った。

「そりゃあ」

 渋谷は得意そうに言いかけて黙った。

 あのアルプスでつちかわれた連帯は、とうてい、口で説明できるものではないと思ったからである。

 急行「たかやま」は暗黒の濃尾平野をたった今、誕生したばかりのカップルを乗せて、今宵の宿、高山へ向かってまっしぐらに走っていた。

 渋谷夏雄と星川はるみの二人は、星電研のほとんど全社員が出席した名古屋国際ホテルの披露宴の会場から、新婚旅行へと送り出されたばかりなのである。

 新婦の北陸路を巡りたいという希望を容れて、まず初夜の宿、高山へ向かう車中で、盛大であった披露宴、捧げられた無数の人々の祝福を思い出して感激をあらたにしていた。

 今日の披露宴のために、東京からは岩村、大阪からは花岡が、それぞれ多忙な時間を割いて駆けつけてくれた。

 岩村、花岡の音頭の下に参席者全員が合唱してくれた雪山讃歌、そして、二人が心をこめて寄せてくれた祝辞、最初は面映ゆさから心重く臨んだ披露宴であったが、友情と人々の善意を確認していくにつれて、幸福感が高まってきた。

 祝辞も結婚披露宴につきもののきまり文句の讃辞ではない。みな心のこもった、善意にあふれたものばかりであった。結ばれるべくして結ばれた二人を、皆|言祝《ことほ》いでくれたのである。快い列車の震動に身を任せて彼らはまだ夢見心地だった。

「花岡さんと岩村さんが私達のために朗読してくれた詩はすてきだったわ」

 はるみは瞳を夢見るようにうるませた。花岡と岩村が二人のためにつくり、席上で即興詩的に朗読してくれた詩のことを言っているのである。

「ここにメモがあります」

「まあ、あなたがとりましたの?」

「岩村がメモしたのをそっとくれたんですよ、何よりの贈り物です」

 二人にはまだ夫婦になったという実感がわかないために、時々他人行儀の口調が出る。

「ちょっと見せて下さらない?」

「どうぞ」

 渋谷は神宮前駅まで見送りに来てくれた岩村が、車窓からそっと手渡してくれた詩片のメモをはるみに渡した。

 鉛筆のはしり書きであったが、友の情がそこから光を放っているように一字一字が浮き立ってみえた。

 はるみは詩文を小さく口ずさんだ。

渋谷、結婚おめでとう。

白雲の一刷毛が桃色にそまる夏の夕方

君が何処へ旅発ったか

俺達は知っている。

アルプスの夕焼がどんなか

夕焼の中に神々《こうごう》しい巨神達が

どのようなサームで

自然の美と安らぎを唄ったか

俺達は知っている。

暗い谷間ばかりを

うろつき廻っていた俺達を

「なあ、岩村。なあ、花岡」

……と君はその荘厳な式次第に

「すばらしいんだぜ」

と誘ってくれた。

無二の友よ。

そのお礼に俺達はこの花を君に捧げよう。

深山《みやま》にかぐわしく

ふくよかに咲いた白い花だ。

未知の山を

食糧の重荷と

憧憬の不安におののきながら

ただ一人訪ね来る若者を待ちわびて

しじまの中に散り残った花。

この花はささやく

岩角に立ち

この花は微笑む

立ちすくんだ若者の

見開かれた瞳の中で

あのおもかげのように。

おずおずと彼は呼びかける

「永遠《とわ》のいのちよ」

その花を折ろう、その花を贈ろう。

得がたい友のために

友の新妻の

みどりの黒髪をかざるために。——

「すばらしいわあ」

 はるみは読み終ってから目を閉じた。その長いまつげ、その下に隠された黒い大きな瞳、ふくよかなおとがい、ぐみのような唇、それらすべてが今宵自分のものになろうとしている。

 友の贈ってくれた詩片は、白くすがすがしい花となって俺達の新褥を飾ってくれるだろう。

「有難う」

 遠い灯を点滅させて走り去る暗い窓外に、渋谷はそっとつぶやいた。

岩村元信の日記

 四月十×日、晴

 今日は渋谷の結婚式だ。久しぶりに竹内悦代とのデートの日の、しかも夕方に挙《あ》げなくてもよさそうなものを。花岡も出席するとなればサボるわけにはいくまい。まあ、全日空で往復すれば三時間で帰ってこられるであろう。名古屋まで行かねばならないと思うと朝から憂うつである。

 羽田まで悦代が送ってくる。社長出張旅行のお伴でしばらく逢わずにいた間に、腰や胸の肉づきがよくなったようだ。欲望でズボンの前ボタンが外れそうになって困る。

 うるんだ目で早く帰って来てと言う。可愛い奴だ。今夜たっぷり可愛がってやるからおとなしく待っていろ。名古屋まで飛行機で四十分、披露宴約一時間半とみて、十時頃までには帰ってくる。

 いつものホテルで待っていてくれ。

 退屈な披露宴なり。だが、花嫁はなかなか美しい。社長の娘とか、渋谷もなかなかすみにおけない。時間ばかりが気になる。47便を逃がすと汽車で帰らねばならなくなる。おそらく悦代は怒って先に帰ってしまうだろう。早く終れ! 早く終ってくれ!! フルコースの何と遅いこと。

 少しでもスピーチの時間を少なくするために往路の飛行機内で作った詩を、花岡と一緒に朗読してやった。新郎新婦、感激のおももち。

 我ながら、デキのいい詩である。

 ようやく披露宴終る。やれやれ。だが、まだ解放されない。皆が駅まで送るというのだ。俺だけ先に帰るわけにはいくまい。列車が出るまでの長かったこと。悦代の待つ東京へ一直線。帰心矢のごとし、花岡とはろくに口もきかなかった。

 久しぶりの逢う瀬に悦代は燃えた。アクメの時の声が凄いので室外に気を使うことおびただしい。シーツに盛大なシミをつけてしまったので|出 発《チエツクアウト》しにくい。渋谷達、今頃、どうしているか? 処女と童貞でさぞや�難航�していることだろう。披露宴の時、自分のとった冷たい態度がちょっと気になる。しかし、しかたがないさ。生きる世界がちがえば人間は変ってくるのだ。

花岡進の日記

 四月十×日、晴

 朝、出勤すると、同時に販促会議に出席。この頃家電の競争が激しいので連日のように販促会議が開かれる。そろそろ、テレビに伸びなやみが見られてきたので、何かうまみのある分野を見つけ出さなくてはならない。

 ブレスト《ブレインストーミング》の結果ストーブというのがあった。こいつはいけるような気がする。

 電気ストーブは電気代がかさむし、それにあまりあたたかくない。ガスはあたたかいが、空気はにごるし、第一、ガス代がベラボーに高くつく。しかし、石油ストーブにしたらどうだ? こいつはまだ中小メーカーの分野だが、案外、家電の盲点かもしれない。カンカンガクガクでいささか疲れる。昼は大阪グランドホテルで犢《こうし》のカツレツとトマトジュース。

 午後、宣伝課が撮ったPR用映画を鑑賞、色彩はよし、コマーシャルにもう一工夫欲しいところ。来客二組。

 三時、今日が渋谷の結婚式であったことを思い出す。披露宴は五時半からである。どうしようかと思ったが、特急を利用すれば充分間に合うことが分ったので一応出席することにする。

 岩村も東京からくるだろう。距離的にはいくらか近い大阪から行かないとまずいからな。

 それにしても、よりによってこの忙しい時期に結婚しなくともよさそうなものを。

 四時の「こだま」に乗り、会場に危うく滑りこみセーフ。ストーブのことで頭がいっぱいなので、スピーチの番が廻って来ても何をしゃべったかよく覚えていない。少し、用意をしてくればよかった。

 岩村が誘ったので一緒に詩を朗読。学校を出てから三年にもなるのに、よくもまあ、あんな甘い詩が作れたものだ。

 朗読の間、てれくさくてしかたがなし。

 新夫妻を神宮前駅まで送ってからまっすぐ帰阪。岩村とはほとんど言葉を交さず。

 三年の間にたがいの心は遠く離れてしまった。それだけ酷しい世界に生きてきたからかもしれぬ。

 軽く手を挙げて別れを告げ、それぞれが属する組織へ帰るのだ。しかし、その組織すら全身を預けているわけではない。人は様々の組織に大小の差はあれ、自分の破片《かけら》を預けているにすぎない。

 岩村も俺も、そして渋谷もみんな、人間の破片なのだ。今の世の中では人間と人間の全体のふれ合いなんて持てない。かけら同士がふとめぐり逢い、人生のたまゆらの時間を部分的に接触していく。

 気ちがいみたいに山へ登ったあの頃も、今にしておもえば、かけらだったかもしれない。ただ、そのかけらの部分が大きかったから、たまには懐しく思えるのだろう。大阪着午後十一時、タクシーで吹田の自宅に帰ったのが十一時二十分、風呂へ入ってすぐベッドへもぐりこんだ。疲れていたので夢も見ずに眠る。

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 生存条件

「秘書も遠ざけた。今、この部屋にいるのは儂とお前の二人だけだ」

 社長専用のソファにゆったりと身を任せた花岡俊一郎は、恐る恐る社長室に人って来た花岡進の方に向かうと重々しく言った。

 進は炯《けい》々たる彼の眼光に射すくめられたように頭を下げる。いつものことながら義父の前に立つと身体を圧縮されるような威圧感を覚える。——だらしない! 自分の妻の父ではないか、もっと毅然としろ! 毅然と。——我と我が心を叱りつけるのであるが、もって生まれた貫禄のちがいというのか、器の大きさのちがいというか、とにかく、彼の前に立つと自分でもどうすることもできない萎縮感に、心身がとらわれてしまう。

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