進はそんな自分が情けなく、くやしかった。
今も、——花岡俊一郎の前で進は気むずかしい主人の前にひれ伏して、顔色をうかがっている飼い犬のような自分を認めないわけにはいかなかった。
場所は大阪北浜のビル街でもひときわ偉容を誇る協和電機株式会社本社屋の九階にある社長室。協電社長花岡俊一郎は何事を語るつもりか、人払いした上で一人娘の婿である進を呼んだのである。
「お前も知っての通り、我が協電は現在資本金八百億、系列会社十数社、重電では業界のトップクラスにランクする」
何を今さらこと改めて新入社員|教本《テキスト》にあるようなことをと言いたげに面を上げた進に、押しかぶせるように俊一郎は、
「その重電系の協電で軽電系のこの儂がどうして社長の椅子に坐れたか? お前は知っているか?」
「はっ」
説明調の言葉尻がいきなり疑問文に切りかえられて進はちょっと返答に窮した。しかし、俊一郎は別に進の答えを期待していたわけではなかった。
「それはな、重電部門のドル箱ともいえる電源開発が昭和三十六年をさかいに次第に先細りになってきたところへ、儂がテレビを中心とした家庭電器をもって一挙になぐりこみをかけたからだ。常顧客たる鉄鋼会社が金融引締めや不況で重電部門の不振に輪をかけたところを狙って、従来は副業的に細々と営まれていた家電部門が、世間の電化ブームに乗って花々しく台頭した。業績面も重電部門の不振を家電部門がカバーしたので大して問題にならなかった。いわば、家電はお家の大事を救った形になったわけだ」
分るか——と言うように、俊一郎は進の目をのぞきこんだ。
「ところが、家電の我が世の春も長くは続かなかった。この頃はテレビや洗濯機の普及率も高まり、伸長率も頭打ちとなった。それに各社とも製品が酷似してきて競争が一段と激しくなった。家電界は作れば売れた殿様商売から、喰い潰し合いの戦国時代に入ったのだ。しかも、東京の菱井と比べた場合、業績の低下率はお話しにならない」
確かに俊一郎の言う通り、東京の家電専門メーカーであると同時に、家電業界では協和にとって最大の強敵と自他共に目されている菱井電業と比較した場合、収益率において、大きく水を開けられてしまったのである。
もちろん、業績が上がらないのは協電ばかりではない。ライバルたる菱井電業をはじめ、軒なみ不振である。東京M電機などは数年前進出したばかりの家電部門を、さっさと店じまいしてしまったくらいである。それほどまでにはいかなくとも、家電の名門を誇るF電機やY電産なども赤字無配に転落している。
彼らに比べれば協電の不振などはまだまだ軽い方といえた。
「しかし、それでも困るのだ。M電やF電ほどのやけどを負っていないにしても、家電の不振は軽電系の儂には大いに困る。もともと重電系の協和で軽電の儂が社長の椅子に坐っていられたのも、家電の日の出の勢いがあったからだ。ところがそれに少しでも斜陽のかげがさしたとなれば、たちまち、重電系のまき返しにあう。それでなくとも重電系は結束が強い。森口、森内、森のいわゆる重電|三森《みつもり》常務は儂の失脚を虎視たんたんとして狙っているのだ」
同じ一社の中で奇妙な話ではあるが、協電には創立期より重電、軽電の両部門があり、イニシャティブは重電が握っていた。
それだけに、重電部門の優越感、軽電の劣等感が底深い対立意識となって、協電の社風の中に暗い底流を作っていたのである。
それが花岡俊一郎によって、協和創立以来の伝統ともいえる重電優先主義がはじめて破られた。
彼は軽電出身の初めての社長になったのだ。大体、協和の社員は軽電にまわされるのを嫌う。電気ガマや足温機の係になるよりも、原子力発電やプラント輸出の一翼を担った方が男らしく格好いいという理由ばかりではなく、軽電ではほとんど陽の当たる場所に出られなかったからだ。
その原則というよりも鉄則を、花岡俊一郎が重電部門の一時的不振と家電ブームに乗じたとはいえ、とにかく、初めて破った。軽電出身の初代社長、——今まで、重電に対するコンプレックスに悩まされ続けて来た軽電が奮い立ったことはいうまでもない。
それだけに重電の花岡俊一郎に対する反発は強く、重電系の頂点に立つ森口英彦常務を中心とする森内啓悦、森道行のいわゆる三森常務と呼ばれる重電三首脳の反動は脅威ですらあった。
「だがな、やっと手に入れたこの王座だ。そう易々と明け渡すわけにはいかない。しかも、儂がこの椅子に坐っていることは儂個人の利益ばかりではなく、軽電全体の幸福にもつながるのだ」
彼は目を宙に据えたまま話し続けた。進に向かって話しかけているはずなのに、進などはまるで眼中にないかのような話しぶりであった。顔が滲み出た脂でてらてらと光った。
「だから、我々は重電に対して毛ほどの弱味も見せてはならない。しかし、今年下半期の業績はどう粉飾のしようもないほどに悪い。もちろん、我が社だけじゃあない。家電は軒なみダウンだ。このまま行けば枕を並べて討死しなけりゃあならん。原因は色々ある。作れば売れた時代から、宣伝すれば売れた時代に移行し、それからさらに今の宣伝しても売れない時代に入った。この下半期は上半期より二割強も広告費を増やしながら、売り上げはかえって落ちた。これは重電にとってまき返しのための絶好の足がかりとなるだろう。原因はさらに考えられる。金融引き締め、世間全般の不況、電化製品の高普及、……しかし、それだけではない、決してそれだけではないのだ。進、お前にはそれが分るか?」
俊一郎は今まで宙に据えていた眸をひたと進のそれに重ねた。
「分るか?」俊一郎はふたたび言った。
「は」
「どんなに宣伝しても、売りあしが伸びないその理由が」
今度は先刻と異なり、俊一郎は進の答えを待っていた。何とか答えなければならない。かといって見当外れの答えをしようものなら、たちまち雷が落ちる。進は脇の下にじっとりと汗が湧き上がるのを覚えながらふと心に浮かんだ一つの思いつきを口に出した。
「名古屋の星電研……」
「そうだ、その通りだ!」
おっかなびっくりに出した答えだったが、意外にそれが�正解�であったと見えて、俊一郎は深くうなずいた。
星電研とは昭和三十×年八月名古屋のホテルナゴヤの一室に戦時中の兵器技術者の生き残りが集まり、店開きをした星電研、すなわち星川電機研究所のことである。三十×年のポケットサイズのトランジスターラジオの発明を皮切りに、完全自動式洗濯機、組立式電気冷蔵庫、ポータブルルームクーラー、などの日本で初めてどころか、世界でも初めての一連の家庭電化製品を矢継早に市場に送り出し、ここ五年ほどの間に家電業界で驚異的な躍進を遂げた新興会社である。
現在では第二部ながら東京、大阪に株も上場され、弱電関係が軒なみに相場を下げているのを、せせら笑うように堅調、一割五分の高率配当を続けている。しかも売り上げ高は伸びる一方である。理由は簡単である。製品が優秀なのだ。
それも生半可な優秀さではない。大企業の金にものをいわせた研究開発が足許にも及ばぬような、ずば抜けた優秀さなのである。
「あのように次から次に画期的な製品を作り出されたのでは競争も何もあったものではない。ウチをはじめとして、家電が軒並み業績不振の津波を浴びたのは星電研の製品に、市場をめちゃめちゃに荒されたからだ」
「…………」
「優秀な経営者の下に腕のいい技術者が集まったことは事実だ。しかし、腕のいい技術屋ならウチの中堅にもゴマンといる。儂の頭も、まだそれほどなまってはいない。星電研が短期間にあれほどに伸びたのは、一人の男のおかげなんだ、そしてお前はその男を知っているな」
進にひたと当てられた俊一郎の眼光はますます強められた。
「渋谷夏雄……ですか」
進が気おされたように言うと、
「そうだ、星電研の伸長は渋谷が入社してから始まった。渋谷夏雄……日本のエジソンともいえる男、こいつが次々に家電の化け物を作り出さなかったら、日本の家電界はこうも惨めに打ちのめされなかったろう」
「しかし」
「そうだ、決して奴一人の力ではなかった。だが、奴がいなかったら絶対に今日の星電はなかった。そして、儂の地位がこうも速やかにぐらつくようなことはなかったのだ」
俊一郎は語尾をほとんど怒鳴るように言った。こういう時は下手に言葉を差しはさまない方がいいことを長年の婿養子の経験で知っていた進は、黙然と立ちつくしていた。
「ここまで言えば儂が人払いしてまでお前を呼んだ理由は分っただろう。渋谷を抜け! 幸い、彼はお前の同窓だ。青春の友情というやつにものをいわせて彼をこの協和へ引き抜いてこい!」
俊一郎の怒号が突然、自分に対する命令、それも途方もない命令という形で結論とされたので進は愕然とした。
「そ、それは無理です。同窓とはいえ、すでに卒業してから何年もたっている。まして、彼は現在、星川社長の一人娘と結婚し、星電研の中堅主任技師です。引き抜くなんてとうてい……」
「むずかしいのはよく分っている。お前に頼む前に専門の商務工作員を使い、金、女、贈り物、利権、ありとあらゆる餌で釣ってみたが、びくともしなかった。
ごっそりと現金を詰めた菓子折りは突き返される。出入りの八百屋や魚屋を使っての女房を攻める搦手戦術も通じない。粒よりのホステスの色仕掛にも落ちない。あんなかたぶつはおらん。しかし、何としてでも渋谷を引き抜かなければならん。おそらく、奴はここ数ヵ月の間にマイクロカラーテレビを完成するだろう。そうなったらどうなるか?
厖大な研究費を投じてやっと試作に成功したばかりの我が社の6型カラーテレビなどたちまちポンコツとなってしまう。そうなったら儂ばかりではない、弱電部門は永久に沈むぞ。下手をすれば、M電のように弱電の店じまいということにもなりかねない。わしの後継者をもって自他共に目されているお前自身、渋谷なくしては生きていけないのだぞ。いいか、金に糸目はつけない、何としても渋谷を引き抜け。それも奴がマイクロカラーテレビを完成する前にだ。渋谷だけが儂達が生き残るための唯一の条件だということを忘れるな!」
俊一郎は口をへの字に結んだ。進はその精悍な脂切った顔に、かつての山仲間渋谷夏雄の面影をオーバーラップさせた。それは遠い日の山の熾烈な日の光に灼かれた、俊一郎以上に精悍で、共に攀じた氷壁よりも近寄り難い、技術者としての頑固さで鎧った表情であった。
しかし、彼を協電に引き抜いてくることが生き残るための唯一の条件と分ってみれば、それがどんな酷しさに鎧われていようと、挑まなければならなかった。頼むは遠い日の友情のみ、渋谷の場合、金がどれほどの誘因にもならないことを進はよく知っていた。
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エリートの巣
千代田区竹平町のパレスサイドにある菱井電業ビルは、五月の朝の光をうけて銀色に輝いていた。地上十二階、地下五階、全長二百米の巨体は、菱井電業の隆盛を示すように、松の緑豊かなお堀端にその偉容を誇っている。
このビルの出現により、この近辺の景色は全く変わってしまったのである。
ビルの中の最高階の最もゆったりとスペースを取った部分、——即ち、社長室に二人の男が対座していた。
二人は盛川達之介と岩村元信であった。
「お前、今、何処に住んでおる?」
最初に口を開いたのは盛川であった。出勤して間もなく、社長室から呼びつけられて、何事かととるものもとりあえず馳けつけて来た岩村は、いきなり、住所をきかれてちょっと面喰らったような顔をした。
「は?」
「住んでいる所じゃよ」
「狛江寮ですが……それが……」
「よし、お前、来月から紀尾井寮へ移れ」
盛川は一人うなずいて言った。
「えっ、紀尾井寮へ!?」
岩村の顔がみるみる紅潮した。自分でも頬が熱くなってくるのが分った。そんな自分を情けないと思いながらも、どうすることもできない。
紀尾井寮とは千代田区紀尾井町の高台にある、菱井電業の社寮で、選ばれたる者のみに入寮が許される、いわば、�エリートの巣�であった。
紀尾井寮に入れることは、そのまま、彼が菱井電業の幹部として選ばれたことを示すものである。人呼んで�近衛寮�——岩村の頬が熱くなるのも無理はなかった。
「お前のことは美奈子からもよく聞いておる。儂とて人の親だ。娘の意中の男には特別に目をかけたい。本日付をもって家電事業部テレビ課長代理を命ずる」
盛川の重々しい声を受けながら岩村は感激のあまり声も出なかった。年功序列の厳しい菱電で二十八歳をもって、テレビ課長代理、異例の抜擢である。
しかし、それ以上に彼の声を奪ったものがあった。盛川は確かに「娘の意中の男」と言った。どんなに想いつめてみても、所詮及ばぬ高嶺の花と、岩村は諦めていたのである。
女の美しさを一身に集めて生まれて来たような美奈子を、たとえ一度でも抱くことができれば、そのために自分のすべての野望を捨ててもよいとまで想いつめた女の好意を、その女に対して強大な発言力を有する盛川達之介の口から聞いたのである。
「美奈子はな、何処でお前を見染めたのか知らんが、どうやら、お前に首ったけらしい。道理でこの頃、大した用事もないのに会社へちょくちょく、現われると思ったよ。お前は仕事の方の腕もかなりいいらしいが、女の腕もなかなかたつと見えるな」
盛川はそう言って初めて笑顔を見せた。頬の肉がゆるむと、日頃見馴れた厳しい表情が消えて、意外なほどの好々爺となる。岩村もついつられて微笑んだ。達之介の人の善さそうな笑顔に、やはりこの鉄の経営者も人の親だったかという安堵感を覚えたのである。
「ただしだ」
盛川の次の声は生来の厳しいものにたちかえっていた。岩村の微笑は途中半ばにして凍りついた。経営者というものは笑いまでが短い。
「お前も知っての通り、紀尾井寮には選ばれた者しか入れん」
「よく承知しております」
「いくら儂が親馬鹿で、また、社長の座にあっても、娘のご機嫌を取るためだけにお前を紀尾井寮へ入れるわけにはいかんのだ」
岩村は唇をかんだ。最初の感激がさめてみれば、次に屈辱感とくやしさが胸をかんだ。
美奈子の好意を知ったことは確かに嬉しかった。しかし、彼女の好意だけにすがりついて紀尾井寮へ入るのは、サラリーマンにとって屈辱以外の何物でもないではないか!
自分が今まで社に尽くした貢献は、一切評価されることなく、単に社長令嬢のヒキだけで、ピックアップされる。
自分は決してそんな能無しではない。美奈子のヒキがなくとも立派に入寮資格はあるのだ。男としての評価を受けた上で、美奈子のヒキがプラスアルファされるのであれば、こんなけっこうな話はない。しかし今の盛川の口ぶりからは、美奈子のヒキだけで選ばれたというふうに感じられた。
岩村元信は社長令嬢という強大なヒキの前には、サラリーマンとしての心身を傾け尽くしての�滅私奉公�など物の数ではない卑小感に、打ちのめされたのである。
盛川達之介の冷たい声は、追い打ちをかけるようにさらに続いた。
「正直言ってお前位の力を持っている社員は社内にゴマンといる。その中から特にお前を選ぶからには、他の社員に文句を言わせないだけの働きをしてもらいたいのだ。その働きをしてはじめてお前は他よりぬきん出た社員として自他共に許され、紀尾井入寮許可も、客観公正なものであったということになる。今の紀尾井寮の住人のすべても、そういう働きをした連中だ」
「それでは具体的に何をすれば?」
岩村は立ち直っていた。それこそ、彼の望むところである。いかに美奈子が欲しくとも、彼女のヒキだけで入寮するのは彼のプライドが許さなかった。
過去数年、彼の為した貢献が全く認められなかったのであれば、これから認められるべき何かを為せばよい。しかも、今度為すべき何かは、過去彼が機械と厖大な人の群の間で、寂しく為してきた何かと異なり、盛川が注目してくれている。
大組織に働く人間にとって重要なのは、彼が何を為すかということではなく、彼が為すことを誰が見ているか[#「彼が為すことを誰が見ているか」に傍点]ということである。
男としてどんなに評価されるべきことをしても、�大物�が見ていてくれなければ何も為さなかったのと同じである。
岩村が今まで、心身を傾けて為してきたことは、機械と、精々、課長ずれの小物《ちんぴら》の目の前で寂しく為されてきたにすぎず、盛川の目にとまることはなかった。
だから、岩村自身、紀尾井寮へ入る資格は充分にあると、いくら、一人で気張っても、盛川が彼をピックアップしたのは美奈子のヒキ以外の何物でもなかったのである。
しかし、今度は違う。岩村が為せと命ぜられるべきことはトップの直命である。成否いずれにしても、大物が見ている。今度得るべき評価が岩村の本当の評価である。
彼はむしろ目を輝かして盛川の次の言葉を待った。
「星電研の渋谷、知っているか?」
「しぶや?」
「お前の山仲間、遠い青春の友じゃよ」
「あ、あの渋谷ですか、知っているどころか」
「親友だろう、君らの仲はよく調べてある」
盛川は薄く笑った。先刻の好々爺の笑いとは全く異質のぶきみな笑いであった。経営者ともなれば笑いまでを使い分ける。
「彼を我が社に引き抜いて欲しいのだ。是が非でもな」
そして、それから二人の間に三十分ばかり密談が続いた。
秘書がブザーに呼ばれて社長室の扉を開けた時、次のような会話の断片が彼の耳に入ってきた。
「この工作が成功したら代理ではなく、本物にしてやろう。それまでは肩書きがなくては何かとやりにくいだろうから代理でがまんしろ。それに美奈子とのことも考えてやる」
ここまで言った盛川は秘書の姿を認めると、岩村に向かってもう帰ってもいいと合図した。そして、岩村の姿が部屋の外へ消えるのを確認してから、秘書に、
「通信器機課の淡島を呼べ」
と低い声で命じた。
こうして、その日、岩村、淡島、早川、佐藤、野沢の順で一人ずつ、社長室へ呼ばれたことをたがいに知らぬまま、盛川から、何事か言い含められたのであった。
盛川が五人の青年の�引見�を終った頃には正午が近くなっていた。
盛川は最後の野沢の姿が社長室の外へ消えるのを待ってから、椅子の上で大きく伸びを打った。
「やれやれ、若い奴らには何かと気を労《つか》うわ」
彼は一人ごちながら、デスクから気に入りのハバナを一本つまみ、時間をかけて火をつけた。
一服深く吸いこんでから、紫の芳煙をゆっくりと吐き出して、
「あの中ではやはり、岩村が一番すじがいい。いずれにせよ、美奈子と紀尾井寮の餌であいつら死に物狂いになって働くだろう。彼らの誰かを好きになるか、嫌いになるかは全く美奈子の個人的問題で、親の儂の知ったことではないが、まあ、娘も虫がつかないうちに精々、利用せにゃあな」
と一人ごちたのを今度は秘書も聞いていなかった。
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ビジネスの笑い
「どうだ、その後、山は?」
「さっぱりご無沙汰だ。行きたくも暇がない」
「おたがい様だな、現役の頃は下界より山にいる時間の方が多かったのにな」
「それだけ実社会の風は酷しいというわけだ」
「全く」
「ところで、花岡とは会うことあるか?」
「結婚式以来一度も会っていない、その点お前と同じだったよ」
「あいつも忙しいんだろうなあ、何せ、奴は大協電社長の養子だから忙しさも俺のような一介のサラリーマンとは桁ちがいだろう」
「そう言うお前も盛川社長の娘とよろしくやっているというもっぱらの噂だぞ、けっこういいセン行ってるんじゃないのか」
「しかし、こっちはまだ何といっても満期が大分先の手形みたいなもんだ。第一、落ちるか、どうかも分らないし、不渡りになったところでどこにも文句を持って行く所もない」
「ははは、ぼやくな、二十代で菱井電業家電事業部、テレビ課長代理、いいセン行ってることに変わりはない」
「そういうお前も星電研技師長、矢継早の新発明で日本家電業界に一大旋風を巻き起こし、日本のエジソンと言われている」
「おい、よせ! 星電研なんて株も第二市場へやっと上場されたばかりの吹けば飛ぶような会社だよ、町工場にちょっと毛が生えたようなもんだ」
「いや、お前がいるかぎり、星電研は近い将来、必ず日本の家電界を支配するぞ」
「さあ、どうだか?」
「いや必ず握る」
「おい、岩村、俺達久し振りに会ったというのに仕事の話ばかりじゃないか。数年前の俺達だったら、山以外は話題にのぼらなかったはずだ。今夜は久しぶりなんだ。これからもそうしょっちゅう会えるというもんでもない。世智辛い話は止めにして、山の話でもしようじゃないか。まあ、飲め」
渋谷は岩村の半分空になったグラスにビールを注いだ。ここはホテルナゴヤの屋上バー、タヒチ。南太平洋の美しい島の名前にちなんだこのバーは、展望と雰囲気がよいので、渋谷はよく利用する。
今日は岩村が出張の途中にひょっこり訪ねて来てくれたのである。
「とにかく、よく寄ってくれた。友アリ、遠方ヨリ来ルアリ、又、楽シカラズヤだ、今夜は飲み明かそうぜ」
渋谷は心から嬉しそうに言った。たとえ、それが自分の選んだ道であっても、研究に明け研究に暮れる日々の中にふとめぐり会った遠い日の旧《ふる》い友は、やはりオアシスのようなうるおいを与えるのであろう。
しかし、そのオアシスもここ数年、大都会の酷しい生存競争に晒されている間に大分変わってしまった。大都会の風化作用といってもよい。今の会話で二人はそれを認めざるを得なかった。それだけ二人の歩んで来た道は嶮しく困難であったわけだ。それぞれに、嶮しさと困難が異質のものであったとしても、平坦な道ではなかったという点で一致していた。
しかし、今の渋谷は旧い友にその風化を認めたくなかった。彼らの結びつきは分かちあった青春の一時期の余韻である。それがどんなに懐しく、純粋な友情による連帯であろうと、要するに過去のものであり、現在を生きるために、たがいの存在は切実なものではない。
何の利害関係も持たぬ、たがいに空気のような存在なのだ。それ故にこそ、若き日の友は永続きし、実社会の生存競争の中にあっても、何の武装もせずに虚心に交わりあえるのである。
ビジネスの世界に友情は育たない、友情とはそれぞれ、異次元の世界に住む者同士の間にはじめて開く、人間のロマンティシズムの花なのだ。——それが渋谷の友情の倫理であった。
だから彼はその夜めぐり逢った旧き友の変貌を認めざるを得なかったが、強いてそれに目をつむろうとした。岩村元信は旧き山仲間である、それだけでよく、それ以外であってはならなかった。
「渋谷」
岩村が渋谷の充たしてくれたグラスを脇によけながら言った。何となく改まった口調である。窓に背を向けて坐った形の岩村は、窓外の名古屋市街のイルミネーションを背負ってシルエットになっていた。それほどに室内の照度は低い。逆光の中に岩村の目だけがキラキラと光ったように見えた。
「何だ?」
渋谷が訊いた。
「俺がお前とただ、�旧きよき山�の想い出話をするためにだけ名古屋にやって来たと思っているのか?」
「何だ、また改まって」
渋谷は目を伏せた。ひたと彼の目に重ねた岩村の視線が眩しく感じられたのである。
「想い出話だけじゃないのか?」
「はっきり言おう。実は俺は社命でお前に会いに来たのだ」
「社命で?」
「お前を星電研からスカウトしてこいという社長命令を受けてな」
「おいおい冗談言うなよ」
「冗談ではない。本気なんだ。ビジネスに冗談はない」
「おい、よせよ。せっかくの酒がまずくなるよ」
「まあ、聞いてくれ。お前の新発明のおかげでうちの家電市場はめちゃめちゃだ。花岡の協電にしたって、いや、日本中の家電業者がコテンパンにやられている。それほどに星電研の、いやお前の製品はすばらしいのだ。そこでだ」
「待て!」
渋谷は手を上げて制した。伏せた瞳を上げて、まともに岩村の顔を見た。二つの視線はがっちりとからみ合った。
「お前の意図は分った。しかし、俺もはっきりと言っておく。俺は星電研を移る意志は毛頭ないとな」
「お前はそう言うだろうと思ったよ。しかし、ここのところをよく聞いてくれ。星電研がいくら優秀な技術陣をかかえていようと、要するに弱小資本だ。さっきお前が言ったように町工場に毛が生えたようなもんだ。そんな所でどれほどの研究ができる? そこへいくと菱井は業界でトップクラスだ、設備も万全だし、研究費も惜しみなくおりる。星電研のような貧弱な設備と資本の下でもあれだけのことをやってのけたお前のことだ。大企業のバックアップの下にやったらもっとどえらいことができると思うがな。お前の才能は星電研のおかげで大分|抑圧《チエツク》されているのだ、お前がやりたいことは�創る�ということであって、お前の製品にどこの商標《ブランド》がついても、それはお前の知ったことじゃあないんだろう。どうだ、ここは一つよく考えてくれないか? お前にとっても才能をもっともっと伸ばせるチャンスなんだぜ。それにそういっちゃあなんだが、今の星電研じゃ、待遇も大したことはないだろう。菱電に移れば」
「止めろ!」
突然、渋谷はテーブルを叩いて怒鳴った。
静かなBGMの流れの中で周囲の人の視線を集めるほどに彼の怒声は響いた。
「いや、大きな声を出して悪かった。だがな、岩村、星電研はな、世間が俺にはなもひっかけなかった頃に俺の才能を買ってくれた所なんだ。確かに、お前の言う通り、最初はブランドなどどこでもよかった。俺はただ、製品を発表したかった。どんなに作りたがってもスポンサーがいなければ研究は進まない。そんな時、海のものとも山のものとも分らない俺の才能を認め、投資してくれたのが星電研だ。男が男の才能を認めて買う。お前はなにわ節だと笑うかもしれないが、俺にとっては大したことなんだ。才能なんて最初に拾ってくれる人がいなければ屑みたいなもんさ。どんな異才も最初にプロデューサーが推進力を与えてくれたからこそ無限の成長をするのだ。確かに、星電研の設備は貧弱さ。研究費も乏しい。しかし、俺の製品には星電研のブランドがつけられなければならないのだ」
「渋谷、感情に走るなよ。今のお前は星電研の渋谷ではない。日本の、いや、世界の渋谷なのだ。それだったら、それにふさわしい所で働いたらどうだ。ビジネスに感情は禁物だよ」
「お前、おかしなことを言うな。それなら何故、俺が菱井に行かなければならんのだ。大手は菱井だけじゃない。協和でも、古川でも、松下、日立、東芝、どこだっていいはずだ」
「渋谷、お前、俺達が命の危険《リスク》を分かち合ったザイルパートナーだということを忘れてはいまいな? 俺達が四年間、岩と雪と風の中で分かち合った青春は、俺達の間に全く何の意味も残さなかったと言うのか?」
「岩村、友情とビジネスを混同するなよ。今の俺達の話はビジネスなんだ。俺達が山でザイルを結び合ったことと今の話とは何の関係もない」
「しかし」
「いいか、ビジネスに感情は禁物だと言ったのはお前だぞ。そのお前が甘い青春の友情に訴えて俺を星電研から引き抜こうとしている。おかしいじゃないか」
「…………」
「もう一度言う。俺は星電研を移る意志はない。今も、そして将来もだ。そして今日のことは、俺達の友情とは全く何の関係もない。俺とお前とは依然として�旧き山仲間�なのだ。ビールの気がすっかり抜けてしまったじゃないか、河岸を変えて飲み直すか」
渋谷は努めて明るく笑った。岩村も同調した。しかし、二人の笑いからは友の間に見られる健康な屈託のなさは失なわれていた。それはすでに�ビジネスの笑い�であった。
ホテル専属の黒人女の歌手が唄い始めた。豊かな声量で胸に沁み通るような声だったが、何故か二人にはそれが偽わりの声のように虚しく聞こえた。それもビジネスの歌声であったからか、ミラーボールがめまぐるしく回転していた。
渋谷夏雄がもう一人の山仲間、花岡進の五年ぶりの訪問をうけたのはその翌日である。
旧きよき日のアルトハイデルベルク時代の想い出に花を咲かせた渋谷は、結局、花岡の目的も青春の懐古談にはなかったことを知って、今日と同様の落胆を重ねなければならなかった。
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種馬の復讐
「渋谷のスカウトは無理だな」
花岡進の面目なさそうな報告を聞いた花岡俊一郎は案外、淡々とした口調でいった。どんなに激しい罵声を浴びせられることかと、戦々兢々としていた進は、意外に穏やかな俊一郎にかえってとまどった。
「どうせお前には無理な工作だと思った」
しかし、その後に続けられた俊一郎の言葉に、進はおずおずと上げかけた視線をふたたび伏せた。この方が激しい叱責よりもよほどこたえる。
静かな口調の裏に隠された自分の無能への嘲り、進は唇をかみしめた。そんな彼の心を見すかしたように俊一郎は、
「そんなにくやしそうな顔をせんでもよい、誰がやっても無理な仕事だった」
と慰め顔につけ足した。
「それでは、最初から、結果をごぞんじだったのですか?」
それなら何故、そんな無理な命令を出したのか? やや憤然として言う進へ、
「怒るな、なるべくなら穏やかな方法でやりたかったのだ」
「穏やかな?」
とすると、次には穏やかではない工作が用意されてあるというのか?
「そうだ、自分にとって不利益なものを取り除く最も端的な方法は、それを抹殺することだ。しかし、この法治社会でそんな直線的なことができるはずがない。とすれば、次には敵を自分の味方に変えるちえとなる。ちえとしては最上だが、これは簡単なことではない。まず第一工作は失敗というわけだ。しかしよく考えてみろ。今度の失敗は渋谷だけに関することだ」
俊一郎は妙なことを言った。渋谷のスカウトに失敗すればそれは完全な失敗ではないか。
渋谷が欲しいからこそ彼を抜こうとした。それに失敗したからにはそれ以上の失敗はない。
「渋谷がどんなにえらそうなことを言っても、所詮、奴はサラリーマンだ。星電研に雇われているにすぎない。たまたま、その雇用関係がなにわ節と結婚によって一般サラリーマンのものよりも強い連帯に結ばれていたから、彼はスカウトに応じなかった。とすれば、こいつはそのまま逆用できる。どう逆用できるか、分るか?」
「……?」
「お前には分るまい。一晩、家でゆっくり考えてみろ」
俊一郎は口を結ぶとインターホーンのスイッチを押した。
「山路君を通したまえ」
秘書のかしこまった返答を待たずにスイッチを切った俊一郎は、進に目くばせした。
それはもう用はすんだから出て行けという合図である。
扉のところで秘書に案内された一人の来客とすれちがった。たった今、俊一郎がインターホーンで呼び入れた山路という男である。進はその男を知っていた。協電の幹事証券会社たる井口証券の株式部長、山路紫朗であった。
微光の一筋も射さぬ暗黒の中で進は妻の躰から降りた[#「降りた」に傍点]。いつものことながら、いったい、今自分は何を為し終ったのだろうかと思わずにはいられない索漠たる空しさが胸に湧いた。
この妻の躰は女の肉体ではない。肉づきもよく、女盛りのしっとりとぬめった彼女の肌は、唯物的には上物であった。
求めれば決して拒まぬ従順さで進の前に開く順子の躰には、確かに妻だけが持つ確実さがあった。しかしただそれだけのことである。
性を交えることは決して異質な肉の結合だけではない。たがいに或る一点に向かって同時に至るために震え、悶え、たがいの汗を吸い合い、狂おしく噛み合うことだ。肉と骨がどろどろに溶けるような感覚に溺れこんで、一人だけでも、また、第三者の前でも決してとることのない恥知らずの痴態を、たがいの目の前に晒しながら、たがいの肉を露骨に貪り合わなければならない。
この何ともなま臭く、淫靡で、原始的な二つの性の協同作業が緋のように彩られるのは、少なくともその瞬間、たがいに相手方を自分の快感の媒体として自分自身が、日頃の慎みも身分も地位も打算も、その他、人間が社会生活上身にまとうもろもろの�飾り�をかなぐり捨てて、動物そのものの姿に還って狂気するからである。
セックスが辛うじて美しいのは人間が人の目の前の一切の虚飾をかなぐり捨て、肉欲と快感のために狂うからだ。
単に躰を開き、男の体液を生殖のために体の奥へ蓄えるだけであったら、それは生殖とは呼べても、性を交えたとは言えない。
進と順子の行為がそれであった。順子は進のために躰を開いても、決して同調はしなかった。閨房の中でどんな微細な灯をつけることも許さなかった。どんなに進が性のテクニックを尽くしても、呻き声一つもらさず、肉の襞《ひだ》の一片も震わさなかった。漆のような暗黒の中で男の躰を辛うじて受け入れる程度の角度に下半身を開き、男の波が高まり、至り、そして退いて行くのを静かに待っているだけである。
暗いので分らなかったが、進は女の躰の上の単調作業を繰り返しながら、暗黒の中からひたと自分に注がれている妻の冷たい視線を痛いほどに感じるのであった。従って、彼も妻と行為する時には常に目を開いていた。
たがいに目を開いたままのセックス、——自分は順子の躰に流れる花岡家の純血を絶やさぬために雇い入れられた種馬である。
日本財界の名門、花岡家の一人娘として生まれた順子は、その名家の血液を伝える人間にふさわしく、すべての人間が狂うべき性交すら子孫に純血を伝える神聖な行事として見ている。
いや、この気位の高い女にとって性はそれ以外の何物であってもならなかった。
彼女にとって夫は種馬にすぎない。自分はその男の体液を受け止めさえすればよい。
進は行為の都度、妻の躰が水道の蛇口の前に置かれたプラスチックの容器のように思われてくるのだ。
行為が終った後も順子はその姿勢を崩さなかった。
順子にとって男の体液は貴重なものであった。一滴でも雫《こぼ》すようなことがあってはならない。しばらくの間はそのままの姿勢で受け止めたばかりの男の粘っこい体液を、芳醇な酒を醸《かも》すように体の奥深い所で暖めなければならなかった。