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作者: 当前章节:15468 字 更新时间:2026-6-23 00:38

「馬鹿めが!」

 闇の中に妻のそんな姿勢を想像して、進は彼女に聞こえないようにつぶやいた。

 順子は知らぬ。進がひそかに、精管《パイプ》切断《カツト》の手術を施していることを。進の体液の中には順子の欲する、いや、花岡家の欲する精子《たね》はなかった。

 パイプカットは二年位の間ならば復元できる。そのうちに不妊の原因を医師を買収して順子のせいにすれば、純血を伝えることに熱心な、この見識の高い愚かな女は、妻としての屈辱を耐えて自ら進に妾を持てと薦《すす》めるであろう。そうすることにより生物的な純血は途絶えても、名門花岡家の人脈は続くことになる。

 そうなれば天下晴れて�公認�の好みの女に、切断した精管を復元して自分本来の精子を仕込む。やがて、天下の名門、花岡家はこの俺の血が完全に乗っ取ることになる。進はほくそ笑んだ。

 それが種馬として彼を雇った妻と花岡家に対する痛烈な復讐であった。

「馬鹿め!」

 進は闇の中で笑った。彼は妻の姿に、いくら抱いても孵化することのない、瀬戸の疑似卵を必死に暖めている哀れで滑稽なめんどりを見たのである。順子の躰を抱くことは、そのまま進の復讐であった。

 順子の躰から降りた進は、昼間の俊一郎の謎めいた言葉を思い出した。

 俊一郎は言った。渋谷と星電研の雇用関係が強ければ、それを逆用してやると。それは一体どういう意味か?

「灯、つけてもいいわよ」

 酒を暖め[#「酒を暖め」に傍点]終った順子が言った。「このままでいい」

 進は素気なく答えた。答えながらハッとなった。灯があればこそ様々の物が見える。様々の色彩も、塗料が光の一定のスペクトルを吸収することによって生じる。光がなくなればどんなに美しい、どんなに強烈な色も見えなくなる。

 渋谷夏雄は一つの色だ。それがどんなに強烈なものであろうと、星電研という光によって見えるのである。ならば、渋谷という色彩を消すためには星電研そのものを消せばよい。

 ここにおいて、彼と星電研の強い連帯がものをいう。彼にとって必要なことは星電研という組織の中で働くことであって、星電研そのものがさらに上部組織に吸収されても彼の知ったことではない、——はずであった。

 星電研の吸収。そうだ、それにちがいない。進は闇の中でひとり、相槌を打った。

 彼は昼間、社長室ですれちがった一人の男を思い出した。目の鋭い痩せた男、平凡なサラリーマンからはとうてい感じられない勝負師の気魄を放射していた。井口証券株式部長の肩書きを持つ山路紫朗が、俊一郎を訪れていた理由もはじめてうなずける。

 しかし、それには厖大な資本力がいる。

 花岡家がいかに名門であろうと、それほどの資本があろうとは思われない。また、当主の俊一郎が協電の社長の地位にあり、協電がいかに大資本であろうと、公金をたかが一社の買い占めのために動かすほどの専断ができようとは思われぬ。

 第一、渋谷個人にそれだけの価値があるか? 一人の男を得るために、その男の属する組織そのものを吸収しようとする。

 何と雄大で、かつ、無謀なる計画だ。ただ、一人の男のために、——

 進はベッドの中で転々とした。俊一郎の大体の目論見は分ったものの、まだまだ残されたいくつかの疑問点が彼の目を冴えかえらせたのである。

 かたわらから妻の健康な寝息がもれてきた。おそらく、進の躰を受け入れたままのしどけない姿勢で眠りに落ちたのであろう。彼はその時、妻に対して殺意に近い憎悪を覚えた。

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 非常空間

 翌朝、進を呼び寄せた花岡俊一郎は、秘書が退がると同時に、

「どうだ、分ったか?」

 と訊いた。

「はい、大体」

「言ってみろ」

「星電研の吸収では?」

「ほほう」

 俊一郎はのどの奥からもらすような声を出した。

「その通りだ、お前にしては上できだ」

 種馬にしては上できだ、と言ったのと同じである。進は屈辱感を、この頃は持ちまえのものになったポーカーフェイスの下に押しこめながら、

「しかし、まだ腑に落ちないことが二つあります」

「何が?」

「まず、第一に星電研は東京、大阪の第二部市場に上場されているとはいえ、資本金一億二千の過少資本で浮動株が少ない。株の過半数は星川社長をはじめとする星電研創立者の一族や安定株主によってかためられております」

「当然の疑問だな」

 俊一郎はうなずいた。

 株式会社の経営を支配する最も手取早い方法は株の買い占めである。最も多く持てる者が勝つという資本主義の非情なる原則は、株式保有率において最も端的に表現される。

 どの程度の株を集めればその会社を握れるかはその株式の分布図により一律には言えないが、経営支配権を握るためには五割以上を必要とすることは素人にも分る。

 しかし、この種の買い占めは、株式の大部分が投機的で浮動性の強い個人株主の間に分散している場合は資金さえあれば容易なのであるが、星電研のように典型的な過少資本で、個人的色彩の強い会社ではきわめてむずかしいのである。

 進はそのことを言ったのだ。

「お前の言う通り、資本金一億二千万円、総発行株式二百四十万株のうち、約六十万株は星川社長をはじめとする創立者群によって保有されている。その他、名京銀行が十五万株、ホテルナゴヤが三十万株、中京証券が十五万株で総計百二十万株、その他にも創立以来の安定株主も相当いるはずだ。とすれば、市場に出廻っている株はせいぜい三割、下手をすれば、少数株主権すら確保できなくなる」

 発行株数の二割五分、即ち四分の一を抑えると、商法による少数株主に対する保護が与えられるようになり、会社側は買い占め派を制するための勝手な真似ができなくなる。

 二割五分をおさえるのは買い占めを狙った場合、買い占め派がとにもかくにも辿り着かなければならない第一橋頭堡であった。

「ま、それに答える前にお前の第二の疑問とやらを聞こうか?」

 俊一郎は顎をしゃくった。

「発行株式の半数をおさえるとして、百二十万株、時価三百六十八円、買い占めによる高騰を含んで平均買入価五百円として計算すれば買い占めに必要な資金は六億円になります」

「分った。それだけの資金をどう捻出するかというのだろう?」

「はっ」

「いかに儂が協電の社長でも、取締役会にかけずにそれだけの資金を動かすことはできない。また、よしんば取締役会にかけても重電の強硬な反対にあうことは目に見えている。そこでだ」

 俊一郎はテーブルの上にやや身体を乗り出した。進もつられて身体を前かがみにした。

「お前、儂が協電の株をどれ位持っているか知っているか?」

「……?」

「十万株だ、その他に花岡一族の保有株が合せて十万株ほどある。それ以外にも儂の指示でどうにでも動くものが百三十万株ある。総計、百五十万株——資本金八百億円、発行株式総数十六億株の一%にも充たない微々たるものだ」

 それが星電研の買い占めにどんな関係があるのだと言いたそうな進の顔色を無視して、

「ここのところ、弱電、重電両部門の不振で、配当はどうにか一割を保っているとはいうものの、時価、百二十六円、全部、叩き売ったところで一億八千九百万円、とうてい、星電研買い占め資金には足りない。

 それに社長たるものが自社株を売り払ったとなれば穏やかではない。重電側が巻き返すための絶好の材料とされる。しかしだ、……こいつを誰にも知られないように売り、誰にも気づかれないうちに買い戻したらどうだ?」

「そんなことができますか?」

「できるさ。つまりだ、名義書換停止中にやるのだ。我が社の決算は五月。六月一日から七月二十五日の株主総会までは株主名義の書き換えが停止される。この期間を狙って、今試作中のマイクロカラーテレビが近々完成と流す。星電研より一歩先がけての好材料に株価は当然、上がる。高値になったところで売り抜け、七月二十五日までに今度は逆の悪材料を流して一気に反落させる。いいかげん底をついたところで買い戻せば、書き換え停止中に株は馬鹿な買手の間を往復しただけで本来の名義人の所にちゃんと戻っている。ちょっと外出しただけで、外出の証拠すら帳簿には残らない。残るのは厖大な利ザヤだけというわけだ。

 まず、売り高値が五百円位、買い戻し値が百円として、一株平均四百円のサヤだ。操作可能株数が百五十万株あるんだから、このちょっとした工作でいくらの金がひねり出せると思う」

 花岡俊一郎はニヤリと笑った。ふだん、めったに笑わない俊一郎の笑顔は、斃《たお》した敵の死体を貪る食屍鬼《グール》のように陰惨であった。進は権力の座を悪用したむしろ壮大ともいえる�資金繰り�に声も出なかった。

「ここでお前の第一の疑問に答えてやろう、好材料と悪材料でドデンを打てば当然、会社の信用が傷つく。だから、書き換え停止が解けたら、ふたたび、好材料を打ち出して、株主のご機嫌を取り結ばなければならん。そいつに、星電研のポケットカラーテレビをはめこむのだよ」

 進は俊一郎のあくどさに舌を巻いた。手持ち株を社長の座を悪用工作して、厖大な利ザヤを稼ぎ出し、それを資金に星電研を乗っ取る。そして乗っ取った会社の商品をもって株価工作で喪った信用を回復しようとする。

 権力と商法の盲点を縦横に駆使した正に一石三鳥の布石であった。進は俊一郎の姿に資本主義社会の妖怪を見る思いがした。

「しかし、買い占め資金ができたとしても、星電研株の買い占めには依然として難点が残りますが」

 進はようやく発言の機会をつかんだ。協電の株価工作と、星電研株主の結束とは何の関連もないのだ。いくら資金があっても、株主が株を手放さないかぎりお話しにならない。

「ふぁっふぁっ」

 俊一郎は肩をゆすって笑った。

「お前は儂を相当にあくどい人間だと思っているだろう、いや、いいのだ、隠さなくとも。儂自身、自分があくどい人間だと思っている。しかし、本当の儂はお前が考えているより遥かにあくどい人間なのだ。資本金八百億、系列会社十数社、関連会社や下請けを入れたならこの協電のおかげでめしを喰っている人間は数もはかれん。そういう厖大な組織の頂上に座し、内にあっては反主流派を抑え、外にあっては血で血を洗う資本競争に生き残っていかねばならん。冷酷と蔑まれようと、非情と罵られようと、それに徹せられない人間にはこの椅子に坐る資格はない。

 いいか、儂が今、坐っている椅子をただの椅子だと思うなよ。この椅子は何千何万の人間の生活がかかり何千人のエリートの血みどろの競争が収斂《しゆうれん》されたものであり、そして絶えず血潮を流さなければ保持していけないものなのだ。その血潮の一滴が今度の星電研なのさ。星電研株主の堅いことは百も承知、しかしだ、創立者や安定株主といったところで人間の欲に変わりはない。株価が下がれば何とか高値のうちに売り抜けようと焦るだろう」

「しかし、今の星電研は相次ぐ新製品の発表で業績は好調、一割五分の高配当を続け、株価も堅いですよ」

「だからそれが崩れるような悪材料を流せばよいではないか」

 俊一郎はこともなげに言った。

「悪材料? そんなもの何もないじゃありませんか」

「造るんだよ。なければ造るまでだ。現在星電研で開発しているポケットサイズカラーテレビはインチキである。三原色を分解する三色受像管《トライカラーチユーブ》が、ポケットサイズに縮小できるはずがない。これは星電研の業績を粉飾するための悪質な工作であるとでもな」

「しかし、そんなことをすれば業務妨害罪で訴えられます。星電研のカラーテレビが本物であることは社長もご存知のはずではありませんか」

「知っておるとも。いやしくも、渋谷が開発しているものだ。インチキのはずがない。しかしな、本物、必ずしも本物でない場合があるぞ」

「……とおっしゃいますと?」

「我々の謀略で作為した悪材料を流せば、星電研はいやでも試作品の発表を急がねばならなくなる。公開する試作品は、ただの一台、どんな工作でもできようというものじゃないか。こんな日もくるだろうと思って渋谷の助手につけた杉田技師は、儂が学生時代から面倒を見ていた男なんだ。

 儂の命令一下、杉田は積年の恩顧に報いんものと発表直前に試作品の部品《パーツ》のすげ替えをやってくれるだろう。全国のマスコミ関係者が固唾をのんで見ている前で、スイッチをひねられたテレビには白黒の映像しか映らん。こいつはマスコミを狂喜させるだろう。それまでに流した悪材料に半信半疑で横這いをしていた株価は一気に崩れる。その機を外さず買って買って買いまくる。おそらく、浮動株はこの時に全部抑えられるだろう。いいか、買い占めのチャンスは杉田がどの程度のテレビ工作ができるかにかかっている。簡単には修理不能の工作が施せればそれだけ我々の株は増える。渋谷がテレビを再生して今度こそ本物のカラーテレビを公開するまでのわずかの間が勝負だ。この間に星電研株の過半数を制さなければならない。

 お前はその間、あらゆる策略をつかって渋谷の再公開を妨げるのだ。星電研内にあってお前と呼応して妨害工作を施すべく杉田以外に数人の男を入りこませてある。皆、儂が学費を出して大学を出してやった奴らばかりだ」

「それではすでに学生時代から協電のスパイを養成しておられたのですか」

「スパイ? 人聞きの悪いことを言うな。匿名社員と言って欲しいな。一度入社させた社員は企業謀略担当スタッフにはなかなか仕立てられない。社籍にのってしまうからな。退職届を出したところでライバル会社は信用せん。しかし、どこの社でも新卒には心を許す。まさか純真な新入社員がライバル社のヒモ付きだとは思わない。それどころか、自社の将来の幹部候補生として採用するおめでたさだ。だから、儂はもの[#「もの」に傍点]になりそうな学生には、学生時代からコネをつけておいた。今でも一流名門校に三十人位は我が社の匿名社員がおるわ。彼らが将来、ライバル会社の幹部候補として潜りこみ、どんな働きをしてくれるか。それを思えば安い投資じゃないか。

 お前の役目はさし当たり彼らを使い、渋谷の再公開をできるだけ遅らせる。それから、大株主のうちの一人か二人を落とせ。実験再公開前の星電株など額面を割りかねないボロ株に堕ちる。買い占めによる品薄値上がりも大したことじゃあない。先様が買い占めと気がついた頃には、儂の手許に過半数の星電株が集められているという寸法だ。要するに、過半数さえ制すれば渋谷のみならず、彼が心血を注いで開発した新製品のパテントはそっくりそのまま、協電のもの、いや正確には儂のものになる。儂は星電研を吸収した余勢をもって一気に強電を押しまくる。それでなくとも大得意先の鉄鋼業界をゆさぶる大不況のあおりを受けて青息吐息の強電は、星電研の製品で一気に市場シェアを拡大した弱電に、完全にとどめを刺される。強電の協和を弱電の協和に体質を変える。

 そのためには手段を選ばない。死にたい奴は勝手に死ね。自分が生き残るためには感傷や情けなど一片も持てないのだ。いいか、今度こそうまくやれ。単に渋谷という人間一人が欲しいための乗っ取りではない。彼を含む星電研の吸収が我々の生き残るための唯一の手段であることを胆に銘じておけ」

 進の胸に俊一郎の執念といってもよい気魄がひしひしと沁みた。

 秘書室を前衛にした完全防音、完全空調、空気浄化装置のほどこされた社内で最も豪華な空間、緋の絨毯を敷きつめた上に九点と五点セットの二組、バストイレのほかに電気冷蔵庫まで備えつけられてある。そしてその豪華な設備と装飾の中央には、マホガニーの机を控えた総皮張りの社長の椅子。俊一郎はそれを冷酷非情なる者のみが坐る資格があると言い、無数のエリートの血みどろの競争が収斂《しゆうれん》されたものであると断じた。

 そして、その座は分秒たりともそれを保持するための努力を怠るならば、たちどころに奪取されるという酷烈の場所であるとつけ加えた。

 ソファにたゆたゆした豊かな体躯をゆったりと任せている俊一郎は、一見、我が世の春を楽しむ大社長の風情だったが、それはかつての日、進が立った目もあけられぬ風雪の吹き荒ぶ山頂以上に酷しい場所に毅然として耐えている姿であった。

 しかし、そこがどんなに酷しい場所であろうと、サラリーマンとなったからにはいつかは必らず到達しなければならぬ場所であった。

 そこだけが組織の中で去勢された男らしさを回復するべき唯一の空間であったからだ。

 進は深く一礼すると扉に向かって静かに歩み始めた。秘書室を通り廊下へ出る。社長室を挟んで副社長、専務、常務の役員室が並んでいる。広々とした廊下には同様の緋の絨毯が敷きつめられ、人影一つ見当らなかった。企業の謀略と資本戦争の総司令部とはとうてい信じられない深海の底のような静寂の中に沈んでいる。

 彼には絨毯の燃え上がるような緋の色彩が、野望にとり憑かれて這い登って来た無数の男達の滴々としてしたたらせた血の痕のように思えた。

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 水の砂城

 昭和四十×年七月十三日。——

 ホテルナゴヤ二十二階にある中宴会場、雲海の間に早朝から百人あまりの人間が詰めかけた。

 人の数は九時を廻る頃からますます、増えた。

 ホテル側では約百名という予約で雲海の間一室をおさえていたが、押しかけてくる人々をとうてい収容し切れないと判断し、急遽、隣室の日輪の間を開放した。

 定刻十時には約二百名近い報道関係者で二つの部屋はごったがえしていた。

 今日は星電研の渋谷技師による話題のマイクロカラーテレビ初の公開実験の日であった。

 詰めかけた報道陣や業界関係筋は、定刻が近づくのを固唾をのんで待ち構えていた。

「ポケットサイズのカラーテレビなんて本当にできるのかな?」

「もしこれが本物ならトランジスター、マイクロテレビにつぐ電子工業界第三の革命ということになる」

「とにかく、日本のエジソンといわれる渋谷技師のイニシャティブの下に星電研技術陣が総力をあげて開発したものだ、インチキではないだろう」

「しかし、この頃の黒い噂はどうだ、白黒テレビより遥かに複雑な構造内容を持ったカラーテレビを、現代の電子技術でポケットサイズに縮小できるはずがない、明らかなまやかし物だという」

「そうだ、一部の消息筋では子供だましだと嗤《わら》っているそうだ」

「完全自動洗濯機や永久バッテリーで鰻のぼりだった株価もここのところ横這いだ。今までの星電研の業績から悪材料に気迷っているらしい」

「本物となれば一気に値を飛ばすし、インチキとなればいっぺんに崩れる」

「このなかにも株屋さんが大勢混じってるんじゃないかな」

「いずれにせよ、あと三十分ほどで分ることだよ」

 記者連はてんでに勝手なことを言いながら定刻になるのを待ちかねていた。

 その頃、大阪の井口証券では——

「村田証券、菅野証券、すべて手配したな」

「はい、すべてご指示の通りに」

「星電研は今日から四日間ほど、連日ストップ安をつける。もう少し待てば額面を割るところまで行くかもしれないが、四日以上は待てない。実験を再公開されたら今度は逆にストップ高だからな。百円を割ったところで一気に買え。いいか、一株も逃がすな。星電研の浮動株はこの機に全部拾うんだ」

 部下に指示しているのは山路紫朗であった。

 ある株式に好悪の大きな材料が出た場合、株価は大暴騰や大暴落をして、利回り採算など全く無視した投機的な空気が濃くなり、市場は大混乱に落ち入る。

 この混乱を防ぐために一日の株価の上下に制限をつけたものを、ストップ高、安という。

 この値幅制限は二百円以下のものは五十円、二百円をこえて五百円までは八十円となっているから、時価三百四十二円の星電株は二百円台を割るまでは一日に八十円以上は下がらないことになる。

 とすれば、百円の大台を割るのは四日目ということになる。その時を待って一気に買い集めようという作戦である。

 従って、その間どんなことがあっても渋谷の再発表を妨げねばならない。株式市場と実験妨害工作との水ももらさぬ有機的連係によって、この作戦は成功するのだ。

 しかも、買い占めが協電花岡社長の手によるものということは絶対に伏せねばならない。ライバル会社の株の買い集めは、独占禁止法によっても禁止されているのだ。井口証券は協電の幹事証券である。井口が先頭に立って買い進めばたちまち協電との糸を知られてしまう。ここに大阪は菅野証券、東京は村田証券という井口の友好店を使って買う理由がある。

 この友好店は他の大手証券ともつながっており、彼らを矢面に立てれば容易に友好店——井口証券——協電というつながりはたぐられない。

 ここに戦闘準備完了、あとは公開実験の結果を待つばかりとなった。

 午前十時、定刻である。星川社長、高井副社長、長崎専務等、星電研首脳陣に護られるようにして、渋谷主任技師が雲海の間に入室した。

 続いて星電研の技師団、境のシャッターを取り払った雲海、日輪の両室に詰めかけていた関係者のざわめきが、一瞬、水を打ったように静まる。

 星川社長が中央にしつらえられた壇にのぼった。

「皆様、本日はわざわざご足労いただき有難うございました。ただ今から我が社が研究開発いたしました、我が国最初のマイクロカラーテレビ|MLT《ムルト》—3の公開実験をさせていただきます。まず、最初に渋谷主任技師より、製品についての簡単な説明をさせていただきます」

 星川社長の挨拶と共に渋谷が立ち上がった。

 室内に小波のようなざわめきが広がった。

「あれが日本のエジソンといわれている……」

「渋谷か」

「星電研のドル箱だ」

「それにしても若いな」

「そんな大それた人物にはとうてい、見えないね」

 初めて渋谷を見る関係者は彼の若さに驚いた様子である。

 ざわめきは渋谷が話し始めると同時に静まった。

「渋谷です。ちょっと機械について説明させていただきます。カラーテレビの基本原理は従来の白黒テレビと変わりませんが、構造技術的に様々の難点があります。まず、被写体を赤黄青の三原色に分解して、三本の電子銃により三つの映像信号をつくる。これを三つの伝送管を通して三色受像《トライカラー》 管《チユーブ》に送り、ここで三原色像を光学的に重ね合わせるのがカラーテレビの原理です。従って白黒テレビの約三倍のメカニズムが要求されます。ただでさえも大型化し易いカラーテレビを、ポケットサイズに縮小することはほとんど実現不可能と諦められておりました。

 我々は従来三本の電子銃をもった三色受像管を一本に集約できる可能性を考えました。

 我々技術陣がこのヒントに基づき研究開発したものが、ただ今から公開実験いたします試作品MLT—3でございます。まだ試作の段階で技術的に改良すべき点が多々ありますが、遅くとも本年中には量産体制に入れる見通しをもっております。それではただ今から実験に入ります」

 満場に盛大な拍手がまきおこった。星電研の運命が、いや、電子工業界の第三の革命が正に幕を開けようとしている。

 ホテル二十四階にある赤電話という赤電話は、マスコミ関係者と業界筋の手の者により、完全におさえられた。実験結果が判明すると同時に、彼らの本拠へ直ちに報告できるように、それぞれの手の者が送受器に意味もない無駄話をしながら�その瞬間�を待ち構えている。

 特に証券会社の場合、成否いずれにしても、連絡の遅速に莫大な金がからんでいた。成功ならば買い、失敗ならば売り、分秒の遅れで天文学的利権のからむバスに乗り遅れるのである。

 抜目ない関係者はホテルのボーイを買収して、ホテルの業務連絡用電話を抑えていた。

 渋谷技師が立花技師に合図をした。雲海の間中央にしつらえられた会議用デスクの上に小さな桐箱が置かれた。心もち震える手で内容物を取り出す。問題のMLT—3である。二百数十の欲望と好奇に充ちた視線が立花の手許の一個の物体に集中した。一見、何の変哲もない黒い鋼鉄の小箱、しかし、その前面の猫の額ほどの受像管蛍光面には、今まさに驚異の色彩が現出しようとしている。

 立花はコードを電源に接続した。そして、——スイッチをONにした。

 一座の人間すべてが呼吸を止めたかのような異常な静寂が落ちた。誰かが生唾を呑みこむ音が異様に大きく聞こえた。

 ……蛍光面に映像が上下に流れた。立花技師が慌てて垂直同期つまみを調整する。続いて輝度調整、コントラスト調整、……遂にはっきりした映像が現われた。白黒である!

 立花は慌てずにチャンネルを切り換えた。

 白黒放送であったらしい。次のチャンネルも白黒、さらに次も。立花は切り換え速度を速めた。カチッカチッという選局切り換え音が耳に痛いばかりに響く。そして、ふたたび、最初のチャンネルへ戻ってきた。

 おかしい? と言わんばかりに、立花は首をひねった。まだ当惑の表情には至っていない。この時間帯全部が白黒番組かもしれない。

 しかし、そうとすればずい分と不注意な話である。カラーテレビの公開実験をするのにカラー番組のない時間帯を選ぶとは!

 立花はもう一回り選局スイッチを回転してみた。結果は同じである。ようやく彼は当惑の表情を浮かべて、救いを求めるように渋谷の顔を見た。しかし、渋谷にも原因は分らなかった。公開実験の日時は星電研の営業企画室が決めたものである。渋谷としてはまさか、彼らがカラーテレビの公開実験を、白黒番組オンリイの時間帯に入れようとは思ってもいなかった。

 婦人向けの座談会らしく、受像管には美しく着飾った女達が楽しそうに語り合っている。

 渋谷は彼女らの屈託なさそうな笑顔に憎悪感を覚えた。関係者の間にざわめきが湧いた。しかし、まだ誰も電話に走ろうとする者はいなかった。

「テレビ番組表を、急いで!」

 高井副社長が傍の秘書に小声で命じた。彼もこの失態は営業企画にあると信じたのである。

 日本のエジソン、——渋谷夏雄が世界に誇る星電研技術陣を率いて開発したMLT—3がまやかし物であるはずがない。彼のみならず、星電研関係者が渋谷に寄せる信頼は絶対であった。それだからこそ、この失態に直面しても、割合に落ち着いていられたのである。

 しかし、秘書は立ち上がる必要がなかった。

 彼が副社長の命令を果たすために腰を浮かしかけた時、映像の下方に無惨なほど鮮明に〈カラー〉と字幕が映ったのである。営業企画の過失ではなかった。

 一瞬、星電研関係者の顔面から血の色がすっと消えた。愕然として息を呑んだ次の瞬間には、悽愴なまでの緊張が収拾のつかない混乱によって置き換えられた。

「インチキだ!」

「連絡を急げ」

「売れ! 売れ!! 売って売って売り抜けろ」

 彼らは争って出口へ殺到した。奔流が堤防の小さな決壊口に殺到するように、二百人余の人間が一分一秒も早くこの情報を外界に伝えるために、たかだか三、四人も並べば塞《ふさ》がってしまう出口に向かって犇《ひし》めいた。

 押し合い、へし合い、こづき合い、ラッシュ時の通勤電車どころではないもみ合いが、二米足らずの空間を通りぬけるためにくり広げられた。資本主義社会の戦いがこの瞬間この一点に集中されたかのような凄じさで人々は争った。

 たまたま、入口付近に居合わせた不幸なボーイは人間の奔流に弾き飛ばされ、彼が運んで来た銀盆の上のジュースやコーラは絨毯に吸われ、徒らに人々の靴の底をしめらせただけだった。

 弾き飛ばされたものはボーイだけではなかった。中央デスクの上のMLT—3は人々の渦の中に巻き込まれ、渋谷と立花がとめるひまもない間にデスクもろ共、床の上に押し倒され、無情な人間の土足にかけられてしまった。

 哀れな一個の物体[#「物体」に傍点]はサッカーボールのように人々の土足に玩ばれ、蹴り廻され、転がされた。人々の中には憎しみを叩きつけるように故意に踏みつける者もいた。足から足へパスされている間に渋谷夏雄の精魂を傾けた、星電研の期待を一身にになったMLT—3は哀れな屑鉄と化してしまった。

 アンテナはへし折られ、受像管は粉砕され、破壊された断面から複雑な内容物を、内臓を露出した動物の死体のようにはみ出していた。

「これは一体、どうしたことだ?」

 星川社長の誰にともない空ろな呟きが暴動のような混乱の中で渋谷の耳に痛いばかりに届いた。

 しかし、今の渋谷にできることは、呆然と立ちすくんで人々の奔流が退くのを待つことだけであった。

 三百四十二円の高値のまま横這いを続けていた星電研は、売りが殺到してその日のうちにストップ安をつけた。

 ここにおいて花岡俊一郎がかねて流しておいた星電研の黒い噂が素晴しい効果を現わした。今までの同社の画期的な製品群の�余光�に悪材料がすぐには信じられず気迷っていた大衆投資家は、インチキカラーテレビの報にひとたまりもなく崩れた。

 今、売らなければ高値づかみになる。市場は売り、売り、売り、売り注文ばかりが殺到した。こうなればもう燎原の火である。浮動株についた火は地元の星電研創立以来の安定株主にまで延びてきた。

 星電研が営々として築き上げてきた栄光が、水を浴びせられた砂城のように、みるみるうちに崩れ落ちていくのである。

 前場四十円安をつけた星電株は、後場にも投げ売りが続き、遂にストップ安をつけた。

 その情報をほくそ笑みながら聞いていたのは花岡俊一郎と山路紫朗であった。

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 薬と蛆《うじ》と肉と

「何! 大井が睡眠薬を服《の》んだと」

 渋谷は受話器を握ったまま愕然としてよろめいた。

「駄目だ」

 渋谷夏雄は絶望的な目を上げた。血走った目、痛々しいばかりにこけ落ちた頬、油気のないパサパサの髪、えり垢と機械油で真黒に汚れたワイシャツと、その上にじかに纏《まと》った作業衣、彼がどんな三日間を持ったかその様子だけで分った。

 公開実験が無惨な失敗に終ってから三日目の朝、星電研中央研究所では技師団の不眠不休のMLT—3再製作業が続けられていた。

 星川社長は一言も叱責がましいことは言わなかった。渋谷の腕をかたく信頼していたのである。

 再公開さえできれば喪われた信用など直ちに回復できる。今は責任の追及や、事故原因の究明よりも、再公開に向かって総力を結集しなければならなかった。

 もっとも、事故の原因はすぐに分った。群衆に蹂躙されてポンコツと化したMLT—3を渋谷が分解した結果、マイクロトライカラーチューブが、従来のポータブル白黒テレビ用の受像機とすげ替えられていたのである。これでは色が出ないのは当然であった。

 最終的点検は公開実験日の前夜半、渋谷自身が行ない、何の異常もないことを確かめていた。翌朝、研究所からホテルナゴヤの会場へ運ばれて実験が開始されるまでの時間は、大勢の人目に晒されていたから、すげ替えは渋谷らが研究室から引き取ってから朝までの精々、四、五時間の間に行なわれたものと推定できる。

 しかし、研究室には部内者以外は入れない。またよしんば入れたとしても、複雑な部分品のすげ替えは相当高度な電子工学の知識をもっている者でなければできない。否、単なる電子工学の知識に加えてMLT—3に精通している者でなければこの短時間にすげ替えはできない。

 とすれば、犯人は部内者、それも渋谷の周囲のごく少数の技師ということになる。

 しかし、今の渋谷は犯人の追及を後廻しにしなければならなかった。今はあらゆることにましてMLT—3の再製を優先させなければならない。

 しかし、それはもう簡単には再製できないのだ。

 まず、従来の白黒型の部品で代用できるかぎりのものは代用する。しかし、天然色《カラー》受像管《キネスコープ》だけは代用できない。

 従来の三色受像管《トライカラーチユーブ》は約六十万個の三原色を蛍光体に点状に配置し、三個の電子銃から原色各成分で変化する三本のビームを同時に走査するものであったが、渋谷の開発したものはこれを一本のビームで三原色を制御しようというものであった。

 それだけにメカニズムは複雑をきわめる。

 ところが、自分の手足たる技師達が実験の翌日から一人欠け、二人欠け、三日目の今朝は一人も出てこない。

 もちろん、研究室には他の技師達もいるが、MLT—3の専従技師は自分を含めて四人なのである。

「立花、杉田、大井、何故出てこない!? 俺一人ではできないのだ」

 渋谷は絶望と憤怒をこめて呟いた。彼一人でできないことはなかった。しかし、それはたっぷりと時間をかけてのことである。今は急がねばならなかった。遅れれば遅れるだけ星電研の信用はおち、せっかくこれまで、血の滲むようにしてきり拓《ひら》いてきた市場は他社に喰い荒される。

 しかし、彼はまだ連日ストップ安をつけている株価のことは知らない。底をつく日を充分に手許に引き寄せてから狙い撃ちしようと、手ぐすねひいて待ち構えている狙撃兵のような買い占めの魔手を知らない。

 従って、会社の危急存亡の秋《とき》に出社してこない技師達が、それぞれに単なる怠慢によるものではない理由があるにしても、えりにえってこのピンチにとくやしく思うのである。

 立花は実験日翌日から一人息子がインフルエンザから併発した急性肺炎で危篤ということで子供に付きっきりである。杉田は翌々日の夜、こともあろうに赤痢という病名を貼られて強制隔離入院させられ、そして今また、同日の夜、大井が睡眠薬を服みすぎて重態という報を受け取ったのである。

「帰すのではなかった」

 渋谷は痛切に悔んだ。実験が失敗に終った日から二日間徹夜したために、翌々日は家に帰りたいという彼らの希望を容れてやったのがいけなかった。

 会社が浮くか沈むかの瀬戸際に二日や三日の徹夜が何だ。再公開実験までは研究室に泊まりこんで不眠不休の努力を傾けるべきだ。二晩続いての徹夜に情けをかけたのがいけなかった。

「子供の風邪ぐらいが何だ」

 思わず怒鳴ってしまった渋谷も様子を見に行って来た社員から、立花の一人息子が四十度の高熱で血たんすら喀《は》いているという報告を受けて沈黙した。立花の子煩悩は渋谷も知っている。一人息子が死にかけているとなれば立花ならずとも。——

 翌日は杉田の赤痢である。町の鮨屋で喰ったすしがいけなかったらしく、悪寒と猛烈な赤痢症状に医師の診察をうけ、赤痢の疑いありとしてその場から有無も言わせず隔離されてしまった。渋谷がどんなに地団太踏んでも、法的な隔離にはどうすることもできない。

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