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作者: 当前章节:15409 字 更新时间:2026-6-23 00:38

 同じ夜、追い討ちをかけるように大井が睡眠薬を服んだ。本人が昏睡しているためにはっきりした理由は分らなかったが、どうやら、MLT—3の管理責任を感じてのことらしい。回復までに最短三十六時間かかるという報告を受けては、渋谷はもはや何を言う気力も喪ってしまった。

 彼ら三人は終始自分を扶《たす》けてカラーテレビを開発した手足である。その手足をもがれた渋谷は、これからの気の遠くなるような再製作業を一人でやらなければならぬことを知った。

 渋谷が地団太踏んだ前の日、即ち、公開実験の二日後の午後、名古屋駅前のコーヒーショップ、カルネドールで二人の男が話し合っていた。

「これがあんたの精密健康診断書だ。どこにも悪いところはない。特に心臓はアベベなみだそうだ。肝臓や腎臓は鉄のようだとさ。ちっとやそっとの睡眠薬の服みすぎではびくともせんだろう。意を安んじてたっぷりと服んでくれ」

「本当に大丈夫でしょうな?」

 話しかけた方が氷のように冷静そのものなのに、話しかけられた方は落ち着きがなく、何かにおびえているようである。

「あんたも臆病だな。これはあんた自身が大阪のH大病院で名前を変えて診てもらった健康診断書じゃないか、そんなにびくびくしなさんな。バルビタールをちょっとよけいに服んでくれればそれでいいんだ。催眠作用が深く持続時間が長いから、ぐっすりといい気持で眠れるよ。四十時間も眠ればきれいさっぱり、小便になって出てしまう。それだけ眠ってくれればこっちの用は充分に果たせる。

 あんたはそれだけのことで五十万円のボーナスが入る。きっと、爽快な目覚めだろうぜ」

 話し手は薄く笑って、白い錠剤の入った小さな薬ビンをテーブルに置いた。

 話しかけられた男はこわごわと眺めていたが、やがて、意を決したようにそれを取り上げてポケットにしまいこんだ。

「五十万はお目覚めになってから差し上げる。自殺をする人間が大金を持っていてはちょっと具合が悪いからな。あんたは渋谷の親衛隊だ。あんたがクスリを服んだらMLT—3の失敗の責任を一身に背負って自殺を企てたと、世間はあんたの責任感の強さを賞讃するだろう。五十万のボーナスは入るし、こんなボロイ話しはないだろうが? 薬が廻った頃に偶然、発見したような顔をして病院へ運んでやるから、分量を少し位、まちがえても構わんぜ、胃洗滌とあんたの鉄の内臓があれば、死のうたって死ぬもんか。じゃあ、話はついたから私は行く。これからあと二人[#「二人」に傍点]、会わなければならん人間があるんでねえ。じゃあ、ぐっすりお寝み[#「ぐっすりお寝み」に傍点]」

 男は伝票をテーブルから取って立ち上がった。二人は花岡進と、星電研技師、大井忠であった。

 それから一時間後のこと、——

 名古屋の繁華街の一つ広小路通りの裏にそのものずばりの�ワンタッチ�という名前のおさわりバーがある。

 薄暗い照明の下で欲望をむき出しにした男達と、すけるようなネグリジェや申し訳程度のショートパンツのホステス達が、淫猥な会話と触感を楽しみながら腐乱死体に湧いた蛆《うじ》のように蠢《うごめ》いている。

 そういう蛆の群に混って、自らも虫の一匹となって楽しみながら謎めいた会話を交している二人の男があった。

「法定伝染病とはいえ、赤痢は最も軽い。ちょっと下腹が渋るだけだ。それでも神経質なドクターは隔離してくれる。ま、クレゾール臭いのをがまんすればこんないい保養はない」

「いや、そうおっしゃいますがね、私の身にもなって下さいよ。赤痢菌を故意に服んで避病院行きですわ。あまりぞっとする話じゃない」

「何もコレラやペストになるわけじゃあない。クロマイの二、三粒も服めばすぐ癒る病気だ。それだけの手間であんたは百万入る。星電研でいくら貰っているか知らないが、割の悪い話ではないはずだ。それにあんたは協電の匿名社員なのだ。一円も特別賞与《ボーナス》が出なくとも社命は遂行しなければならないはずだよ」

「分りましたよ。……しかし、赤痢とはね」

「赤痢が一番いいのだ。いかに星電研や渋谷があんたを必要としても、まさか隔離病院まで追ってはこられまい。最少限十八日間、——国家があんたを保護[#「保護」に傍点]してくれるからな」

「えっ、十八日間も!」

「すぐ経つさ。いったん陰性になっても六日経つと再陽転する危険性があるんだ。しかも三回もな。従って十八日間は何がなんでも隔離される。有難いじゃないか」

「そんなら、何故、渋谷に服ませないんですか?」

「案外、馬鹿だな、あんたは。渋谷がタイミングよく赤痢になったらいかに星電研がおっとりしていても、企業の謀略だと正面きって騒ぎ出す。

 渋谷が�生き残って�いればこそ謀略の匂いを嗅ぎ取っても、その追及は後廻しにして実験再公開に全力を挙げる。こちらは何も実験を不可能にしなくてもよいのだ、ただほんの四、五日、株価がこちらの�予算�に合うように安くなるまで、遅れるだけでよい。だから渋谷の手足たるあんたに服んでもらうわけだ」

「…………」

「この小ビンの中にはある大学病院で特別培養された赤痢菌が入っている。特製だからよく効くよ。あんたはこれから栄町の花ずしというすし屋に行く。そこですしを鱈腹喰ってから、この特効薬を服むという寸法だ。そのすし屋は明日から営業停止になるだろうが、ちゃんとそれ相応の補償はしてあるから、安心して感染源に店の名前を出してよい。

 今、七時三十分、花ずしに行くのが八時半、腹が痛くなるのは明日の朝の予定だ。あんたのアパートのすぐ傍には名古屋中央病院がある。この季節にすしを喰って腹が痛くなったと言えば、どんなヤブでもまず赤痢を疑うよ。明日の十時頃にはあんたはまちがいなく、法定伝染病患者として、国家から強制的に入院隔離されているよ」

 男は薄く笑った。故意にルックスを下げた暗い照明の下で、彼の瞳が猫の目のようにきらめいた。

 その時、ネグリジェ姿の二人のホステスが、彼らのボックスに嬌声をたてながらやって来た。

「ああら、こちらのお兄さん方、えらい難かしそうな顔しはってどないなお話してはるの?」

 男はホステスの席を作るために、身体をずらしながら、

「ビジネスの話だよ、さあ、こっちへ寄った寄った。こちらの方は明日から遠い外国へ出かける。今夜が日本の最後の夜というわけだ。一つ想い出のために大和撫子の躰をたっぷりと触らせてやってくれたまえ」

 彼はそう言いながら、素早く自分の指を脇に坐ったホステスのネグリジェの裾にさし入れた。

「いやあん」

 ホステスは大仰な悲鳴をたてながらも、男の胸にもたれかかって来た。もう一人の男はその様子を苦々しげに見やりながらグラスを呷《あお》った。二人の男は花岡進と星電研技師杉田明であった。

 杉田明と別れた花岡進はバーの前からタクシーを拾い、名古屋国際ホテルに向かった。

「小原だが、妻《ワイフ》が先に来ているはずだが」

 フロントであらかじめ女と打ち合わせておいた偽名を告げると、フロントクラークは|客 名 板《インホメーシヨンラツク》を調べて一個の室番号《ルームナンバー》を教えてくれた。

 エレベーターで八階にのぼり、海の底のように静まりかえった廊下を目指す部屋に向かう。クラークの教えてくれた部屋の前で立ち止まった花岡はコールボタンを押した。

 部屋の奥でチャイムの音が遠い音楽のように鳴り、微かに人の近づく気配が扉越しに感じられた。

 その足音の主こそ�小原の妻�として今夜の情事の相手を勤めるべく、ホテルに先着して花岡を待っている女のはずであった。いや、単なる情事の相手方としてだけではなく、重要な�商談�の相手をも兼ねている。

「どなた?」

「俺だ」

 やがてドアチェーンの外される音がして扉が開かれた。と同時に女の厚ぼったい身体が、まるで一かたまりの綿が投げ込まれたように、ドサッと花岡の胸に飛びこんで来た。

「遅かったじゃない」

 女の怨む声と共に花岡は強烈に唇を吸われた。

「おいおい、せめて中へ入れてくれよ」

 花岡は辟易しながらも、満更でもなさそうな顔つきで女の熱い躰を優しく押しやった。

「ひどい人、私がどんなに時間をやりくりして脱け出して来たかご存知のくせに」

 胸も腰も豊か過ぎるほど豊かでありながら、決して肥満を感じさせない、まことに女盛りという形容がぴったりの女だった。

 花岡はまつわりつく女をひとまず払いのけてから、

「それで坊やの容態はどうだ?」

 と訊いた。

「そんなことどうでもいいじゃないの」

「よくはないさ。坊やの容態いかんで立花の行動がきまる」

「それだったらご心配なく、いい具合に肺炎を併発したわ。立花はつきっきりよ、そのなかから脱け出して来るのがどんなにしんどかったか、解ってくれるわね」

 女はまた、身体をすり寄せようとした。

「ま、待て、まさか死にはせんだろうな?」

「そんなこと知らないわ、もし死んだら貴方が殺したも同じことよ」

「おいおい、人聞きの悪いことを言うなよ。君が立花の後妻におさまってからも、相変らず立花が、先妻の遺した一人息子に夢中なのを妬《ねた》んだのは、君じゃなかったか?

 何とかしてくれと泣きついたから、俺はちょっと、立花をいじめてやる方法を教えたまでさ。

 今、名古屋地区で流行《はや》っている流行性感冒ウイルスAを、二週間位前から子供にちょっとしこむ。小児の場合は抵抗が少ないから感染後三日—五日位で発病する。案の定、一昨日から発病したから子煩悩の立花は半狂乱だ。君がそばにいて子供の風邪がこじれるように工作したから、立花が気がついた時は気管支炎を併発していた。立花は子供のそばにつきっきりだろう。おかげで君は日頃の怨みをはらせるばかりでなく、こうやってたまの逢う瀬を楽しむ時間ができた。何しろ、人妻が夜、脱け出すとなると穏やかではないからな」

「何言ってんのよ、あなたが昼間、逢って下さったら、こんなあくどいまねをしなくもすんだのに」

「あくどい? よせよ。罪もない子供を苛めて苛めて、苛めぬいて、それでもあき足らず、病気にでもしてやりたいと言ったのはどこの誰だっけな」

「あなたには後妻の気持が分るはずないわ。常に先妻と比べてしか見られない女の憎悪がどんなものか」

「いやあ、すまんすまん。しかし、子供は大丈夫だろうな?」

「大丈夫よ、中央病院で院長先生じきじきの治療だわ。それより、ねえ、早くう、私、あまりゆっくりできないのよ。何しろ子供が病気なんですからねえ」

 女は鼻をならした。花岡はソファから立ち上がると女の躰に近づき、いきなり和服の裾に手を入れた。女は自分から下半身を開きながら、ベッドに倒れこんだ。女の躰は花岡が先刻、指の先でさんざん玩んで来たワンタッチのホステスのように、しとどに濡れていた。根性は汚なくとも、躰のでき具合は申し分ない女の典型であった。

 まず身体を重ねてから帯を解く。この性急で粗暴な交合が二人を異常に興奮させるのであった。

 重なり、律動を続けながら次第に女を剥いでいった花岡は、女が早くも快感に眉根を寄せ始めたのを眺めてちょうど、今頃、杉田が中央病院に馳けこみ、大井が眠りかけた頃だと思った。

 女は渋谷の右腕といわれる星電研技師立花の後妻、緋佐子であった。

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 鳶《とんび》と油揚げ

「部長、とうとう百円の大台を割りましたよ。この分だと今日中に安値顔合わせしますよ」

 場の気配を取っていた寺田が言った。

「よし、買え!」

 山路は長い間ためていた息を吐き出すように言った。

「えっ?」

 寺田が信じられないような顔をした。

「買え、買えと言ったんだ」

「しかし、まだまだ下りますよ」

「いや、もうこれ以上待てない、売り物は全部さらえ、いよいよ出動だ」

 星電研カイ、矢は弦を離れた。今日まで、落ち続ける星電研をじっと睨みながらこらえにこらえていた。

 インチキカラーテレビが協電側の工作であるから、実験再公開されればあっという間に反騰する。

 それだけに連日ストップ安をつける�獲物�を目の前にしてじっと手を拱ねいているのは、苦痛ですらあった。

 しかし、今こそチャンスだ。待てばもう少し下がるかもしれない。しかし、それだけ再公開の危険性も高くなる。星電研側では見通しがつき次第、再公開日を発表するにちがいないのだ。

 今日までその発表がないのは花岡進の妨害工作が効いている証拠だ。しかし、花岡俊一郎から受けた指令は五日目の朝を期して一斉にカイを入れろというものである。

 今こそそのときであり、しかも獲物は充分射程距離に入った。

「九十八円ヤリ二万八千株、九十五円ヤリ五万、九十二円ヤリが七万」

「もっと下を見ろ」

「あっ、九十円ヤリが出ました」

「よし、みんな買え!」

 井口証券株式部に悽愴な活気が漲《みなぎ》った。誰も見向きもしないボロ株に大量のカイを入れたのである。下手をすれば額面を割りかねないボロ株に。——

 事情を知らない社員は山路紫朗が狂気したのかと思った。

 その日の大引けまで八十八円まで買い漁り、何と二十二万三千株を集めてしまった。発行株数の一割弱、しかも、�予算�はまだ三十分の一も費っていない。山路は花岡俊一郎の満足そうな顔を思ってほくそ笑んだ。もちろん、このたびの取引は協電と井口証券のものではない。あくまでも花岡と山路の個人的つながりにおいて打った芝居だ。それだけに山路の懐中へ入る金も莫大な額になるはずであった。

 しかし、その金額も花岡俊一郎が掴むものに比べれば微々たるものである。

「金儲けをしたかったら上場会社の社長になることだな。自社株を自由自在に工作して売り抜けたり、買い戻したりしているうちに莫大な利ザヤを稼げる」

 株式会社という巨人の操縦者達は、資本主義社会という利潤追求の戦国時代の中にあって自らが手にした巨人を自由自在に操りながら、一時的に信託された巨大な力を利用して、天文学的な利権を玩ぶ。自分はその利権のかすりを喰って生きて行く寄生虫のようなものかもしれない。

 好調な買い占めのスタートと共に山路は自嘲めいた苦笑をもらした。

 翌々日の午後二時頃、協電社長室に一本の電話が入った。重大用件だということで秘書室から廻されたコールに、花岡は何事かと眉を顰めながら出た。

 たいていの電話は秘書室で消化《こな》して、俊一郎が直々に受け答えする電話は一日に何本もない。

「ああ君か、何だ? 急に」

 電話は山路からであった。

「社長、へんなんです」

 場電の慌しい気配をそのまま伝える受話器の彼方から、山路の声が性急に話しかけてきた。

「何がへんなんだ?」

「買う奴が現われたんです。しかも大量に」

「何!?」

 俊一郎は吠えるように言った。買うとは言うまでもなく星電株のことだ。買い占めを狙ってのカイだから多少の雷同《ちようちん》買いは覚悟していた。

 しかし、大量のカイとなると穏やかではない。しかも、まだカイ出動してから三日目である。星電側の防戦買にしては早過ぎるし、菅野と村田証券を使って買い進んでいるのであるから、こちら側の意図が第三者の機関投資家や、大手の買い占め屋に見破られたとは思えない。

 まだまだ資金に余裕はあったが、なるべくならできるだけ安く拾い集めたい。三日目にして大量カイの対抗馬が現われたとなると、せっかく、工作して崩した値が飛ぶことになる。

「それで誰が買ったんだ」

 俊一郎は努めて平静を装いながら訊いた。

「東京の宮崎証券です。九十五円まで十六万株ほどさらわれました」

「何、十六万だと!」

 俊一郎は唸った。何たること、苦心惨憺してやっと値を崩したところを、さっと横から拾われては、全く鳶に油揚げをさらわれたようなものだ。

「一体、誰が宮崎証券を動かしているのだ? まさか宮崎が独自の思わくで買っているわけではあるまい」

 彼はつき上げるような憤怒を必死に怺《こら》えて言った。

「宮崎が独自に買っているとは思えません。内幕を知らないかぎり、今の星電株は株屋の常識からは敬遠しますからね。しかし、宮崎を動かす黒幕となるとちょっとさぐるのは難しいですね」

「探せ、どんなに難しくともだ」

 おそらく、宮崎証券はある黒幕の指令を受けて買ってきたのであろう。俊一郎が井口証券の友好店である菅野、村田二証券を手先に使っているのと同じように、背景の黒幕の主をたぐり出すのは難しかった。

「申しわけありません。こんな大手のカイが出ようとは思ってもいませんでしたから。昨日九十四円まで買いまくったから、今日は少し冷やそうと様子を見ていたのがいけなかったのです」

 山路は面目なさそうに言った。昨日九十四円カイが入ったからというので九十五円以上のウリが出ても、しばらく買注文を入れなければまた下がる。市場は今のところ一方的な買手市場であるから、買い占めが進んで品薄になるまでは、買っては冷やす操作が何回か効く。その間に九十五円までの売り物を宮崎証券にさっと横からさらわれてしまったのであった。

 同じ時刻、東京千代田区竹橋の菱井電業社長室に一本の電話が入った。重大用件だということで秘書室から廻されて来たコールに、盛川達之介は待ちかねたように出た。

 盛川は朝から一本の電話を待ちうけていた。案の定そのコールは彼が待ちかねていたものだった。

「どうだ、うまいこと拾えたか?」

「はっ、九十五円まで、合計十六万株拾えました」

「よし、テキさん、今頃慌てふためいているだろう。どんどん買ってくれ」

「かしこまりました」

 電話はそれだけのやりとりで切れた。

 盛川達之介は送受器を置くとソファに深く身を沈めた。崩落した星電株を村田証券と大阪の菅野証券が買っているという情報を耳にしてから盛川は早速、幹事証券を通して星電株の買注文を出した。

 大阪の買い占めの主は定かには分らないながらも、家電市場のシェアを激しくせり合っている協電か古川か住吉のどれかであろう。

 昨日だけで二十二万株の浮動株が買われた。

 これだけの資金を動かせる相手はいずれにせよ大物である。とすれば買っておいて損はない。——と頭の中で忙しくソロバンを弾いた盛川は、翌日の午前中にはカイの指令を幹事証券を通して宮崎証券に出していたのである。

「さて、これからどう転ぶか?」

 盛川はマホガニーのデスクからハバナ葉のシガーを一本取った。

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 宿泊確認書

「社長、こういう方がお会いしたいそうですが」

 秘書の成瀬幹夫が一枚の名刺を取り継いできた。協和電機株式会社家電第一営業課長、花岡進とある。

「用件は?」

 ホテルナゴヤ社長、内野恵美子は短く訊いた。

「社長、直々でないと申上げられないとか申しておりますが」

「追い返してちょうだい、そういう人にかぎってどうせろくな用事ではないわ」

 恵美子はきっぱりと言った。名古屋駅前に二十四階建、客室総数千五百の大ホテルを女手一つで建て、日本ホテル業界の女王と呼ばれるだけあって、見識も高い。

 身許が確かで、しかも確実な推薦状を持たぬ人間には一切会わないことにしていた。

 まだ四十前の脂の乗り切った女盛りの躰は、夜毎、男なしでは眠られぬ旺盛な欲望を示したが、昼間は一切の欲望がビジネスに切り換えられ、金儲けの権化のように冷たい女になり切った。

 秘書の成瀬も昨夜の痴戯の相手である。しかし、オフィスでの彼女はよくこうも変れるものとあきれるほど見事に変身した。昨夜成瀬と躰を絡め合わせて快感にのたうち廻ったことなどおくびにも出さず、あくまでも自分の手中の一コマとして動かす冷酷な主人の面貌があるばかりであった。昼は昼、夜は夜、チャンネルの切り換えに巧みでなければ女王の座は勤まらない。少しでも、それを混同しようものなら、女王から夜の寵愛を受けたというだけでこの�男妾�共はたちまち増長する。

 成瀬は社長室から立ち去ったが、いくばくもしないうちにふたたび困惑した表情で戻って来た。件《くだん》の名刺を相変らずたずさえている。

「何か、協電の代理店招待のことで直接お会いして特にお話ししたいことがあるそうで」

 大手の会社では年二回ほど、全国の得意先や販売代理店を旅行招待してご機嫌を取り結ぶ。市場シェアの確保と拡大のために得意先招待は、各社共欠かせぬ年中行事であった。招待客数も大手になればなるほど多い。販売競争の激化と共に招待旅行は年々デラックス化する傾向にあった。宿舎も日本旅館や観光地の温泉を利用していたものから、徐々に大都市の一流ホテルを使うようになってきた。

 地方人の多い販売代理店にホテル招待は評判がよかった。その社の一年の売り上げが伸びるか、伸びないかはひとえに代理店の意志にかかっていた。一年の売り上げが招待旅行にかかっていると言っても過言ではない。

 それだけに各社共、ただ単に泊めるだけではなく、金に糸目をつけない大宴会や演芸大会を張り、代理店のご機嫌を必死に取り結ぶ。

 大手筋から招待旅行宿舎として選ばれた場合の、ホテルへ落ちる金は莫大である。

 花岡進がほのめかしたのはその招待のことらしいので、成瀬もむげに断われなかったわけである。しかし恵美子は、

「私は会わないと言ったはずよ。そういうお話は一切支配人にお任せ」

 とニベもなく言った。もはや、脈がない。みすみす協電の招待旅行が取れるかもしれないチャンスをもったいないと思いながらも、成瀬はそれ以上押すことを諦めて社長室から出た。

 日本交通公社に斡旋手数料を支払うのが惜しくて、敢然と交通公社とのホテル契約を蹴っとばしたほどの女傑である。

 天下の協電もこの女怪の前には通用しなかったわけだ。

 あれが昨夜、自分の躰の下でのたうち廻り、啜り泣いた同じ女か? 男女の交わりというものを時間の経過に従ってかくも見事に割り切れるものか? 成瀬は改めて内野恵美子の女怪ぶりを思い知った。

 ホテルナゴヤ、第四期学卒新入社員、大山晴夫は初の夜勤《ナイト》シフトについた。彼の配属はフロントデスク、日本旅館の帳場にあたる部署であり、お客の予約や希望に応じて部屋を|割り振る《アサイン》、いわばホテルのかなめの場所であった。

 といっても、最初からフロントで最も重要な部屋《ルーム》 |割 り《アサインメント》は任せられない。蜜蜂の巣のようなキイボックスの前に立っての鍵の受け渡しが、まず彼に与えられた仕事であった。

 これは簡単なようでなかなか難しい仕事だった。ホテルの客は外出する場合に、必ず自室のキイをフロントに残していく建て前になっている。キイボックスにキイがあるかないかによってフロントクラークは客が在室か外出かを知る。

 従って、客から室番号を告げられて、キイを求められた場合、確かにその客の部屋であるかを確認しなければならない。何しろ、客室総数千五百もある大ホテルである。とうてい、何号室には誰というふうに室番号と顔を結びつけて覚え切れない。泊まってもいない外来客に番号を言われてそのまま渡したり、室番号を誤って記憶した客にちがう部屋のキイを渡してしまう危険性が多分にあった。これを防ぐ意味でたいていのホテルでは客が到着《チエツクイン》して|宿帳を記入《レジスター》する際にルームナンバーと客名と部屋の値段を記入した宿泊確認書《アイデーカード》を発行している。

 外出先から帰館してフロントでキイを求める場合、クラークは必ずこの確認書のルームナンバーを確かめた上で、キイを渡すことになっている。

 大山晴夫もフロントへ配属前、研修でそのことを古参クラークからくどいほど教えこまれた。しかし、胸に見習社員のバッジをつけて現場へ立ってみるとなかなか、教えられた通りにいかないことを知った。

 何故なら、客はキイを渡しやすいように一人一人帰って来てはくれない。一度に二十人も三十人もフロントカウンターの前に群がり、同時にそれぞれのナンバーを求めるのである。

 もちろん、英語もあればフランス語もスペイン語も混じる。一々、確認書との照合などとうていできることではなかった。第一、確認書など持ってこない者が多い。大部分はそれほど重要なものとは知らず、部屋へ残して来たり、紛失してしまっていた。

 それでも、大山は最初のうちは教えられた原則を忠実に守っていた。しかし、一度確認書も部屋番号も忘れた国賓に断固としてキイ渡しを拒み、大問題になり、先輩にあれはあくまでも原則だ、臨機応変にやれと言われてから原則を崩した。

 大分慣れたところで、夜《ナイト》に廻された。その夜が初めての夜勤というわけである。シフトについてから一時間ほど後、九州方面からの団体客が、五十人ばかりいっぺんに、外出から帰って来た。

 たちまち騒然としたフロントカウンターで大山は、例の臨機応変のキイ渡しを始めた。客の告げる番号の通りにほいほいと調子よく渡す。この方がはるかに能率よく、客を待たせない。しかし、思えば乱暴な話である。

 客の言葉だけを信用して、大げさにいえば客の生命と財産を護るべきキイを渡すのである。

 客がナンバーをまちがえて告げればアウトだ。妙齢の婦人の部屋に、むくつけき山男を導くということも起こり得る。

 だが、よくしたもので大山が先輩から教わった臨機応変法を採用してからそういう|間違い《ミス》はまだ一度も出なかった。

「おい、見習の旦那、××番くれ」

「俺は××番だ」

「××番、早いとこ頼んまっせ」

 今夜の団体客は相当にがらが悪い。折悪しく二十人ほど、アメリカからの団体《ツアー》の帰館が重なった。

 大山はキイを渡すだけで精一杯だった。

 キイボックスの前で、コマ鼠のように動き廻りながら、彼は社長、内野恵美子が居室としている菊の間のルームキイをいつの間にか持ち去られていたことに気がつかなかった。

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 牝《めす》 商《しよう》

 内野恵美子が居室としている2456号室はホテル最上階にある国賓用のスイートで、二つのツインベッドルームの他に応接室、会議室、侍従室、浴室などが組みこまれてある、一泊十万円の豪華室である。

 恵美子は千種区の高級住宅地に豪奢な邸宅を持っていたが、一泊十万もするスイートに泊まる客はめったにないところから、ほとんどこの部屋に生活の本拠を置いていた。しかし、キイはフロントへ預けっぱなしで出入の都度、ボーイ長やメード頭がパスキイで恭々《うやうや》しく開《ドアオ》 扉《ープン》をした。

 見識の高い恵美子にとって、自らドアオープンするなどとんでもないことであった。

 彼女にはこんな逸話がある。

 たまたま、恵美子が自邸に帰った夜、ホテルが超満員となり、予約のある新婚客を収容できなくなった。困惑したフロントクラークは、たまたま当夜空いていた内野社長の居室をその新婚に提供してしまった。

 ところが、深夜に至り、急に用事を思い出した恵美子は、突然、ホテルに帰り、自室が他客に提供されていることを知ってカンカンに怒った。そして何がなんでもその客を追い出せと、厳命を下したのである。

 しかし、追い出せと言われても、当夜は満室、それに深夜である。その新婚客も初夜の夢の最中のはずである。いくら、社長だからといってそんな無理難題の通るはずがなかった。

 それを、恵美子はとうとう、自分の横車を押し通してしまったのだ。甘くまどやかな新褥《にいどこ》から追い出された新婚客は、初夜から温泉マークの一室(それもホテル側が必死に探した)ですごさねばならなくなった。

 当然、それは大きな苦情《コンプレインツ》になった。恵美子はホテル幹部が客にひたすら、陳謝しているのを冷然と横目に見ながら、

「このホテルでは私より偉い者はいないわ。私に無断で私の部屋に侵《はい》る者は誰であろうと許さない」

 とせせら笑ったそうである。

 それほどの女であるから二十四階のメードキャプテンは心の休まるひまがなかった。二十四階は貴賓室ばかりである。重要客《ヴイアイピー》ばかりが滞在しているところで、内野恵美子がいかなるVIPよりも優先されなければご機嫌が悪かった。

 少なくとも、ホテルナゴヤにおいては一国の元首や皇族よりも内野恵美子の方が偉大であったのだ。

 その夜、恵美子はやや早目に自室に引き取った。あるテレビ番組に見たいものがあったからである。しかし、それは彼女が期待した内容のものとはかけ離れていた。

 失望してカラーテレビのスイッチを切ると恵美子は浴室へ立った。金粉を塗《まぶ》したガラスタイルの仕切戸の奥の浴槽《バスタブ》にのびのびと身を沈めながら、彼女は自分自身の躰に見惚れるのだ。

 女盛りの躰は美食と順調な事業の発展と、そして適度な異性交渉のおかげで弾み切っている。透明な湯の中で様々な姿態をとりながら、自分の躰を観察している間に、彼女は欲情がたかぶってくるのを感じた。

 昨夜の今日なので成瀬を帰したことがくやまれてならなかった。恵美子はとりあえず、火照った身体をシャワーを浴びて鎮《しず》めようと思った。どの男を呼ぶべきかはそれから先の問題である。

 肌が痛くなるほどに強く出した冷水の中に躰を入れて恵美子は眉を顰《しか》めた。火照った躰に何と強烈な刺戟であろう。

 ——これはどうでも誰かを呼ばなければならなくなりそうだわ——

 恵美子はシャワーによって鎮められるはずの炎が躰の芯にあって、燃え盛ってくるのを感じた。

「だあれ?」

 その時、彼女は浴室の外に人の気配を感じたように思って声をかけた。

 ルームサービスを運んで来たメードであろうか、きっと、シャワーの音に消されてコールサインが聞こえなかったのであろう。彼女は気にも止めずにシャワーを浴び続けた。

 やがて、バスタオルをまとって浴室から出た恵美子は、依然として隣室の応接室に人の気配が残るのを感じて少々ぎょっとした。ルームサービスがこんなにも長くいるはずがない。

 それとも成瀬が気を利かして来たのであろうか? いや、そんなはずはない。あの�飼い犬�は呼ばなければ絶対にこない。

「誰!?」

 彼女は声にやや嶮を加えた。女王の部屋に無断で入るとは何たる不心得か! きつく糺明してやらなければならない。

 返事はなかった。

 恵美子の声にいらだちと不安が加わった。浴室の外は寝室となり、寝室から応接室へ続いている。何者とも知れぬ人の気配は、寝室と応接室の境の半開きになった扉のかげにあった。

 恵美子は非常ベルを押そうとした。その瞬間、扉が微かに軋み、応接室からの逆光の中に男のシルエットが浮かび上がった。

「非常ベルを押すのはちょっとお待ち下さい。私は怪しい者ではありません」

 恵美子にとって全く未知の声が図々しいことを言った。人の居室に無断で、しかも、女の身がバスタオル一枚まとったきりの裸身でいる時に、正体不明の男が闖入して来たのである。

 これが怪しくなくて何であろう。

 しかし、恵美子が辛うじて非常ベルにかけた指を止めたのは日頃女王として習練した度胸と、男の声の紳士的な柔らかさのおかげであった。

 それでも胸のあたりで合わせたバスタオルにかけた手の力が、無意識のうちに強くなったのはやはり、恵美子が女である証拠であった。

「あなたは?」

「初めまして、協和電機の花岡と申します。昼間社長室の方へおうかがいして門前払いを喰わされました」

「そのあなたが何故無断で!?」

「昼間のお話しが決して社長の不利益にならないと信じましたので」

「私は申し上げたはずよ、そういうお話は一切支配人が承りますと。そういうことのために私は彼を雇っているのですから」

「雇人に話せる内容ではありません。私の話は支配人如きの雇われ者にできる話ではないので」

「お引き取りいただくわ。ここは私の私室です。ビジネスのお話をする場所ではありません。さもないと家宅侵入罪で警察に引き渡すわよ」

 恵美子の声に一歩の妥協も認められなかった。彼女は本気で怒っていたのである。いまだかつて、この女王蜂の巣へこのような形で侵入した者はいなかった。それをこの野放図な男は平然と侵した。まるでロビイや公園へ入るような無頓着さで、彼女の�聖域�を侵したのである。

「家宅侵入罪とはひどいですな。たしかあの条文は、刑法百三十条、故ナク人ノ住居ニ侵入シタル者ハとある。私は堂々とフロントでこの室のキイをもらい、しかも、故なく入ったわけではない。それ相当の用件をもって入ったのです」

「屁理屈言うわね、とにかく、出て行ってちょうだい。今のうちなら許してあげるわ」

「貴女の商魂の逞しさは実業界では評判ですが、どうやら看板に偽わりらしいですな、せっかく、三千万円ほどの商談を持ちこんだというのに」

「三千万? それはどういうこと?」

 恵美子は開き直った。三千万は彼女でも聞き流せる金額ではなかった。

「いくらか興味が湧きましたか?」

 花岡は意地悪そうに笑った。

「ま、話してごらんなさい。でも、興味を失ったらすぐ出て行っていただきますからね」

 恵美子はバスタオル姿のまま、ソファに腰をおろした。進の眼前で平然と脚を組む。バスタオルの合わせ目が割れて、むっちりした内股の白さとほの暗い奥が男の目に痛いばかりに映るのを、花岡進は視線をそらさずに、まるで無機質でも見るような目で見つめていた。

 ——この男は一体まあ、何という男だろう——

 自分の躰に絶大の自信を持つ恵美子は、それだけで重大な侮辱を加えられたように感じた。

 花岡は別に進められもしないうちに、恵美子の前のソファに向かい合う形で腰をおろした。

 そうすることにより、彼女の躰の奥の眺めはますます良くなったはずであるのに、花岡は一切の感情を喪失したような|能面づら《ポーカーフエイス》で話し始めた。

「協電弱電部の販売代理店は、全国に約五千店あります。そのなかから成績の優秀なのを二千店ほどよりすぐり、約四千名、二班に分けて慰労と販売網強化のために年二回、旅行招待しております」

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