饭饭TXT > 海外名作 > 《大都会(日文版)》[日]森村誠一【完结】 > 《大都会(日文版)》[日]森村誠一【完结】.txt

第 7 页

作者: 当前章节:15345 字 更新时间:2026-6-23 00:38

 進はいやがる順子を無理矢理に引き立てた。これから行くべき病院で、彼によって買収された医師が彼女に永久不妊の烙印を捺すはずであった。

 順子は昨夜から別人のように変ってしまった進に、恐怖感に近いものを覚えながら、従わざるを得なかった。

 純血を伝えるべく雇われた種馬は、今、強大な権力を得て雇い主を蹴落とそうとしているのである。

 二日ほど後の夜、順子は寝室の中で表情を引き締めて言った。

「あなたにお話がありますの」

「何だ改まって?」

 進は順子がこれから語るべき話の内容をよく知っていたが、わざと空とぼけた。

「私、不妊症なんですって」

「…………」

「卵巣機能不全の上に卵管が悪いんですって」

「…………」

「手術をしても、妊娠率は一〇%くらいなんですって。それも、子宮外妊娠や、早期妊娠中絶の頻度がきわめて高いとか」

 順子は別人のように悄然としてうなだれた。

「それで、俺にどうしろと言うんだ?」

 心の中で秘かに快哉を叫んだ進は、冷たく先をうながした。

「でも、花岡の家は絶やすわけにはいかないわ」

 順子は頭を上げた。烈しい光が瞳によみがえっている。

「幸い、あなたは健康だわ」

「だから?」

 進はわざと聞いた。

「だから、あなたに生んで欲しいのよ。あなたのお気に入りの女のお腹を借りて、花岡の家の後継者を。でも、これだけはお願いしておくわ。その女を妊娠させる前に、必ず私の前に連れてきて! いやしくも、花岡家の後継者を生む女です。いくらあなたが気に入っても、血筋が正しく、頭もよくなければなりませんわ」

 順子は純血の女王の誇りを取り戻していた。さすがの進も、この尊厳に充ちた彼女の態度に反駁できなかった。

 二人はツインベッドに、離れた心を抱いて別々に入った。

 誰を選ぶべきかと、心に浮かぶ何人かの女の面影を浮き浮きと追っていた進は、闇の中で順子の頬をひそかに流れ落ちた涙の粒を知らなかった。

 翌朝、出勤した進を待ちかねたように一本の電話が入ってきた。

「花岡さんですか、利根です。今、電話よろしいか?」

 利根というのは買収した例の医師であった。進がよいと答えると、

「花岡さん、奥様のことですがね、実は心配する必要は全くなかったのですよ」

「……?」

「奥様は正真正銘の不妊症だったのです」

「え!?」

 進は思わず送受器を握る手に力をこめた。

「大体、不妊症というのは医学的には『夫婦が正常な結婚生活を送り、子供を希望しているのにもかかわらず、満二、三年たっても妊娠しない状態』を言います。女性側の不妊原因には、結核性疾患、性病、人工妊娠中絶、耳下腺炎などの既往歴によるもの、膣、頸管に欠陥のある場合、子宮、卵管、卵巣を因子とするものなどがあります」

「そんなことはどうでもいいから、早く要点だけ言って下さい」

 進はいらいらした。今さら、医学の講義を受けてもはじまらない。

「すみません、つい、患者に説明するくせが出てしまって」

 どうやら、利根は送受器に頭を下げたらしい。

「奥様の場合、卵管閉塞症の上に骨盤に結核の既往症があるのです。この閉塞症は治療困難な点で不妊因の中で重要な位置を占めております。もちろん、様々な治療法はありますが、いずれも満足するような成績を上げるに至りません。手術後の妊娠率は、せいぜい一〇〜二五%くらい、それも異常妊娠率が高いので、手術は骨盤内に結核の既往歴がなく、卵管閉塞以外に不妊原因が認められない場合にかぎられるのです」

「要するに、手術しても妊娠の可能性がほとんどないのですか」

「そうです。最初から真正の不妊症です。診断を作為する必要は全くありませんでした」

 利根の言葉を聞き終った進は、長い息を吐いた。順子の奴、みかけはいい躰をしているが、中身はポンコツだった。

 何のことはない。不妊手術などする必要は全くなかったのだ。次に大きな喜びがこみ上げてきた。

 今度こそおおっぴらに好きな女を抱ける。しかも、その女に生ませた我が子に花岡家の莫大な財産を相続させることができる。

 妻公認の妾、しかも濡れ手に粟の財産と地位、こんな男冥利に尽きることがあるか。進は喜びにともすれば震えかかる声を、圧し殺すのに苦労しながら、利根との会話を打ち切った。

 次に彼が為すべき急務は、結紮《けつさつ》した精管を復元することであった。彼は出勤したばかりで、未決の業務書類がデスクに山積しているのを無視して立ち上がった。復元手術を受けるためである。

 数時間後、花岡進は医師から彼の精管が復元不可能になっていることを告げられた。

 彼はもっと早く復元手術を受けるべきであった。パイプはすっかり錆びついてしまったのである。

[#改ページ]

 黒い陽炎《かげろう》

 その頃、岩村元信の姿が菱電社長室にあった。

「お前も知っての通り、星電研は協電に買収された。協電の資本に星電研の技術が結びついたのだ。今まではウチの方がやや優位だった市場シェアが、今度は逆に大きく水をあけられるぞ」

「申しわけありません」

 岩村は深く頭をたれるばかりであった。渋谷のスカウトに失敗したばかりか、ホテルナゴヤの内野攻略戦においても、花岡に敗れたのである。

「詫びてすむことではない。責任を取ることだな」

 盛川はあくまで冷たく言った。

「覚悟はいたしております」

 岩村は蒼ざめた顔に、太々しい笑みを浮かべて、内懐から一通の封書を取り出した。

「何だ、これは?」

 盛川が上瞼を上げた。

「はっ、辞表でございます」

「馬鹿っ」

 厚い扉を越えて秘書室にまで届く大声であった。辞めるとなれば、社長もへちまもないとふてくされ気味だった岩村も、思わず、首を竦めた。やはり、貫禄のちがいである。社長と社員という、主従に似た関係は一片の紙きれで断ち切れるものではなかった。

 雇用契約を解除して、互いに対等の人間にたち戻ったつもりでいても、長い時間に培われた、上位と下位の職位体系は、サラリーマンの骨の髄にまでしみこんでいる。上位者はあくまでも上位者らしく、下位者はどこまでも下位者の如く、持って生まれた体質のようについて廻るのである。

「お前は辞めさえすれば社に与えた損害を取り戻せるとでも思っているのか!? たかが、十万株を買うために六千万も費いおって」

 内野恵美子から株を取得するために結んだ団体契約のことを言っているのだ。

「何たる身勝手な奴だ」

 盛川は本当に怒っていた。彼は腹を切ればすむと考える武士道的感覚を嫌悪していた。

 自分さえ死ねばいいとする、最も安易にして、低能な解決方法。何かといえば広大なる世界とか、祖国とか、世の人々のためとか、要するに、自分より大きいものとの比較において自己の卑小感を作り出し、犠牲という幼稚なヒロイズムの中に自己の死を高めようとする。

 世界がどんなに広大であろうと、宇宙がどんなに高遠であろうと、人は自己を媒体としなければそれら広大なもの、高遠なものに触れることはできない。

 要するに、自分が世界の、宇宙の中心なのだ。

 そのように堅く信じている達之介にとって最も嫌悪すべきタイプは「すぐ腹を切りたがる人間」であった。

 岩村の場合は犠牲としてではなかったが、安易に腹を切ろうとしている事実に変りはなかった。それが盛川を憤怒させたのである。

 その憤怒の中に彼は、岩村が別に会社に損害を与えていないことを忘れてしまった。

 代理店招待はどうせやらなければならない年中行事であったし、岩村が内野恵美子から二百二十円で買ってきた星電株は一株あたり約四百円のプレミアムをつけて捌《さば》けたのである。

 しかし、岩村はその事実を知らない。盛川が星電を買ったのは、協電の買い占めを見破り、対抗したのだと思っている。買い占め合戦に破れれば、三千万を越える団体契約の見返りにホテルナゴヤから買った、十万株は全く無用のものとなる。

 あまつさえ、本来の目的たる渋谷スカウトにはものの見事に失敗している。

 当然の如く受理されるであろうと思って提出した辞表だっただけに、岩村はかえってとまどった。

「お前は馬鹿な奴だ」

 盛川はやや怒りを鎮《しず》めてふたたび言った。

「しかし、今の私には辞める以外に何もできません。折角、近衛寮、いや、紀尾井寮へ入れていただきながら、私はご期待を裏切ってしまったのです。私にはとうてい、資格はなかったのです」

 岩村は語りながら、ふと胸がつまった。なまじ、エリートとして選ばれたがために、大切に使えば停年まであと二十五年もあるサラリーマンの寿命を縮めなければならない羽目になった。九時から五時までの定められた勤務時間だけ、可もなく不可もなく働いていれば、平凡、単調ではあっても、ささやかな平安と幸福は確保される。

 サラリーマン人生とは正にそのようなものではないだろうか?

 エリートとして会社から選ばれた瞬間から、血と汗と涙に滲んだ苦闘の日々が始まる。それに打ちかてば栄光と権力を与えられるが、もし、敗れれば今の自分のような惨めな負け犬となる。

 何処へ行っても、もはや、今の職場と同クラスの所に、自分を迎え容れてくれるべき空間はないだろう。

 一度、職を過ったサラリーマンは常に下へ下へと流れて止まないのだ。

「もう一度、チャンスをやろう」

 盛川は言った。

「え?」

「星電研は協電に系列化された。あの買い占めのお目当ては渋谷一人にあったのだ。さすがの儂もあの莫大な資本投下をしての買い占め目的が一人の人間にあるとは気がつかなかった。うかつだったよ。確かに、渋谷にはそれだけの価値がある。しかし、それならばだ、もし、渋谷がいなくなったらどうだ?」

「……?」

「そうさ、渋谷がいなければ星電研など紙屑ほどの価値もない。彼がこれまでに開発した数々のパテント、現在開発中のポケットカラーテレビ、将来開発するであろう無数の製品、それらすべてに対して、数億の資金を注ぎこんで強引に買収したのだ。もし、ここで渋谷という人間が消えてなくなれば、買収に費った巨額の資金はドブへ捨てたことになる」

 盛川達之介の目は笑っていた。笑いながら氷のような冷気が岩村に向かって一直線に放射されてくるようであった。

 岩村にも盛川の意図するところがようやく掴めかけてきた。しかし、それを口にすることは怖しかった。

「分ったな」

 盛川はうながした。岩村は何か言わなければならなくなった。

「しかし、渋谷を星電研(協電の下の)から引き離すことは不可能です」

「そうかな?」

 盛川はニヤリとした。

「人間と人間、あるいは人間と会社の連帯を断ち切るのは何もスカウトだけとはかぎらない。交通事故に遭うこともあろうし、山や海で遭難することもあるだろう。天変地災ということだってある」

「社長!」

「はっは、冗談だよ。しかしな、お前には美奈子という娘がいることを忘れるなよ。美奈子と、そして彼女に随伴するさまざまなメリットをお前の腕に掴み取るか、否かは、ひとえにお前がこれからどういう形で責任をとるかにかかっているのだ」

 盛川達之介は大きく身体をゆすって笑った。ゆったりした社長の椅子すら狭そうに見える盛川の突き出した腹は、彼が笑う都度、波のように揺れた。

 岩村はふと達之介の下腹に、ホテルナゴヤのスイートで景品として抱いた内野恵美子の下半身をダブらせた。そして、自分が進むべき道は、たとえそれがどんなに苦しく血の滲むものであろうと、エリートとしての急峻で狭い道以外にないのだと思った。

 それに立ち塞がる者は、たとえ、肉親といえど、友といえど容赦するわけにはいかない。岩村は社長室の一枚ガラスの窓を越して、眼路のかぎりに広がる東京の街々を見た。それは初夏の眩しい陽炎の中でゆらゆらと燃えるように揺れていた。岩村にはそれが大都会に棲息する無数の人間の欲望が、燃え上がっているように映った。

[#改ページ]

 旧き山仲間の唄

 盛川達之介は岩村の前に遂に仮面を脱いだ。渋谷を協電から除け、そのためには手段を選ぶなと彼はほのめかした。

「交通事故に遭うこともあろうし、山や海で遭難することもあるだろう。天変地災ということだってある」

 と言った彼は岩村に殺人を教唆しているのだ。否、教唆というよりは、強制的な命令と呼んだ方がいいだろう。

 一個の平凡なサラリーマンとして、人生の最も脂の乗った時期を甘んじて費消できる人間はよい。

 団地や社宅のささやかな平安と幸福は、別にきわ立った働きをしなくとも、大して悪いことさえしないで人並みにやっていれば、まずは保障されるのである。

 しかし、岩村元信は選ばれたる人間であった。菱井電業の厖大な有象無象の間から、盛川達之介、即ち菱電という巨人の王から、特に選び出された人間であった。そのようなエリートはサラリーマンとは別種の人間である。

 王の命ずるところに従い、魂を売り、地獄の炎をくぐってはじめてエリートの名に値し、その座は約束される。

 殺人という、あらゆる犯罪の中で最も凶悪なものすら、盛川が命ずるかぎり拒絶できない。

 いや、拒絶できないことはなかった。ふたたび厖大な有象無象の仲間入りをして、誰にも認められない一個の卑小な歯車として寂しく一生を廻り続けることができれば。

 しかし、ここまで登りつめてきた岩村にとって引き返すことはもはや、不可能であった。一度でも陽の当たる場所に出た人間が、ふたたび、日陰の場所に戻されるのは死よりも惨めなことだった。

 非人間化された人間の典型として、何の興味もない帳簿をくり、電話をうけ、小商人と会う。どいつもこいつも同じような面つきをした�背広細民�の自らもその一人となって昨日と同じような今日を送り、今日と同じような明日を迎える。

 それはそのようにして、停年の日まで変ることもなく、猫の額のような一職場単位の中の陰湿な人間関係と不平不満の中に隠花植物のような�一生�を終える。

 よほどのバカでないかぎり、十年、二十年先の己の未来図が、高《ハイ》精度《フアイ》に読みとれる生活というよりは、単なる生存の状態から生き甲斐を見出すのはむずかしい。

 今の岩村は、平社員の分際で仕事だけが生き甲斐だなどと言う奴に出逢うと憎悪を覚えた。

 人間としてよりは単なる労働力としてとらえられる平凡なサラリーマンの仕事が、それほど面白いはずがない。

 それも最初から背広細民としての道が定まっていたのであれば、無知の功徳(知らぬが仏)でがまんもできよう。

 しかし、いったん、権力の栄光をエリートとしてちらつかされた後では、後戻りはできなかった。

 まして、後戻りは岩村が軽蔑する背広細民の地位すら危うくするかもしれないのだ。前へ進めば、たとえ殺人という大罪を犯しても、その彼方は巨人の王という権力の座が、めくるめくばかりの栄光に包まれて彼を手招いている。

 そうだ、あの栄光の座を俺は是が非でも手に入れなければならない。そのためには、——

 突然、岩村の目ぶたに、盛川が下腹を突き出して坐っていた、絹のような総皮張りの社長の椅子と、近頃とみに脂の乗ってきた盛川美奈子の姿態が重なって映った。

 その二つ共、決して可能性のないものではない。いや、盛川の命ずる通り、協電から渋谷を取り除けば確実といってよい精度で自分の手に入る。

 ——渋谷、許せ——

 この時、岩村の意志は定まったのである。

 岩村は挑戦するように眼を上げた。オフィスの窓越しに東京には珍しい夕焼け空が広がっていた。西の空に雲が乱れ、それが折りからの夕陽を乱反射して、東京の町が一斉に燃え上がったような朱と茜の炎を西の天末から天心にかけて流している。

ソレハ遠イ日

見残シタ夢ノ破片カ

落石ノ音、シキリナル岩壁ニ

辛クモカチ取ッテイッタぴっちノ数々

紺碧ヲ貫ク尖峰ニ

旧キ山仲間ハざいるヲ解イタ。

至上ノ憩、——

視野ノ限リノ夕焼ケ雲ニ包マレテ。

 夕焼け雲の彼方から、岩村の耳に遠い詩が届いてきた。それはかつての日、アルプスの峰々で渋谷、花岡と共に好んで口遊《くちずさ》んだ詩《うた》だった。

 誰がいつ作ったものか分らない詩だったが、彼らはこの�旧き山仲間の唄�と題する詩が好きだった。

 ハーケンの唄う岩壁のテラスで、目も開けられぬ風雪の山頂で、大いなる夏の縦走路で、またある時は今のような落日の華やかな山稜のお花畑で何度となく口遊んだものだった。

 その都度、彼らの連帯は深まり、青春の友情の素晴しさを確認したものである。

 ——その仲間の一人を俺は除こうとしている——

 岩村の胸を鋭く苛むものがあった。

「素晴しい夕焼けね」

 耳許で若い女の声がした。いつの間に来たのか、竹内悦代が岩村に寄り添うように立って夕焼けを眺めていた。悦代の横顔も夕焼けに赫く染まっている。きっと、自分の面も彼女のそれのように赫くなっていることだろう。

 悦代は岩村の注視を何かと誤解したらしい。彼の方に向き直り、

「今晩どう?」

 と囁いてから、彼にだけ分る笑いを送った。

「うん」

 岩村はうなずいて、

(渋谷、許せ、俺はそれでもお前を除かなければならない。俺が悪いんじゃない。あの夕焼けよりも華やかな栄光が世の中にあるからいけないのだ)

 と心の中につぶやいた。それから三ヵ月あまり、岩村の思考のすべては�渋谷排除計画�に集中したのである。

[#改ページ]

 駄獣の涙

 渋谷夏雄はどうしても�排除�しなければならない。そのことだけが自分がこれから生き残っていくための条件である。

 しかし、この法治社会では人を排除すれば自分も排除される。それが死刑とか、終身刑とかの致命的なものではないとしても、少なくとも刑法による制裁を受けなくてはならない。

 渋谷を除くために非合法な手段をとっても、あくまでも表面は�健全なる社会人�として生き残っていかねばならない。

 国家の制裁を受けては渋谷を除く意味がない。

 一人の人間を抹殺し、自分は平穏無事に生き残る。戦国時代ならばいざ知らず、この治安の確立された社会でそんなうまいことができるだろうか?

 完全犯罪は犯罪者や犯罪予備者達の見果てぬ夢である。しかし、彼らのほとんどすべては、いや全きすべては完備した警察組織と自分達の思わざるミスにより敗れ去っていった。

 岩村元信は思考のすべてを、渋谷排除計画に集中した。当然のことながら、人を抹殺するという仕事は彼にとって初めての経験である。

 まず、最初にできるだけ多くの犯罪記録を読み漁り�先人�達が遺した�貴い教訓�を学び取ろうとした。

 もちろん、公的な記録は失敗の記録である。しかし衝動的犯罪——今ははっきりと殺人と呼ぼう——殺人を除いて、最初から捕まるつもりで計画を立てた者はいない。みなそれぞれに生き残るための必死の工夫を凝らしたのであるが、彼らが見落していた微細なミス、あるいは大きな手ぬかりによって、完全犯罪が不完全犯罪へと転落していった。

 だが、失敗の記録を徹底的に分析研究することによって先人達の轍を踏むことは避けられる。

 彼らが見落していた発覚の端緒を丹念に拾い集めることにより、これから行なうべき自分の�行為�をより完璧なものに仕立て上げることができるのだ。ましてや、今日は先人達の時代よりもはるかに科学捜査が進んでいる。顕微鏡的なミスも許されない。

 一人の人間の消滅と自分の行為の間の因果関係は、いかなる科学捜査をもってしても追及《トレース》できないように切断してしまわなければならない。

 失敗の記録を手に入るかぎり漁り尽くした岩村は、今度は完全な記録を研究し始めた。といっても、完全犯罪の公的記録が手に入るはずはない。この方は人間の想像が生んだフィクションの犯罪でがまんしなければならない。

 彼は古今東西の推理小説を読み漁った。そしてそれらのいずれもが、理論的には可能であっても、現実にはなかなか適用できないことを知った。要するに、現実性に乏しいのだ。

 彼らは機械的トリックや、心理の錯覚を駆使して実に見事な完全犯罪パターンを展開してみせてくれたが、さて現実に人を殺すとなると、銃火器や、有刃器を使っての原始的方法に頼る以外なさそうであった。

 しかし、そんなことは絶対にできない。渋谷を抹殺することは白昼のように明らかに決定してはいても、友が友をその手で直接殺戮する悲惨は避けなければならない。

 殺すという事実は同じであっても、友の血で手を汚すような殺し方はできない。

 毒物や爆発物はどうだろう? 生物学的な血潮が流れないというだけのことで、友の身体に直接手をかけることに何の変りもない。

 誰かを雇うか? それは駄目だ。共犯はそれだけ危険性を高める。

 最も安全と考えられる方法は過失を装う方法だ。人を殺そうとする故意(殺意)は人間の心の中のもので外からは見えない。現実に殺意があったとしても、それを認定するに足る証拠がないかぎり、過失とされる。

 結果において、一個の死体が作り出される[#「作り出される」に傍点]という事実には何の変りもないのに、故意犯と過失犯の法定刑は天地の相異である。殺すつもりで殺すのと、不注意で死に至らしめたのとでは犯人の反社会性が天地ほどにもちがうというわけだ。

 しかし、岩村の場合、過失犯にすらなれないのである。岩村はいやしくも天下に誇るべき�菱井マン�だ。過失犯として処罰されるだけで菱井マンに値しなくなる。

 だから、彼の故意は過失の衣で蔽い隠すことすらできない。もとより、共犯は使えない。

 自分で直接手を下すこともできない。過失も装えない。

 考えに考えあぐねた岩村に盛川達之介の一言が閃めいた。

(天変地災ということもある)

「そうだ!」

 岩村は思わず声を出して叫んだ。天変地異の中に渋谷を巻き込む。暴風でもいい、地震でもいい。また、津波でもよい、そういう自然現象的な災禍の中に渋谷を放りこむのだ。誰がそのような災難の中の死を殺人と疑うだろうか?

 問題はいかにしてそのような天災を人為的に作り出すかということにかかる。しかし、これは金さえかければできないことではない。何しろ、後には菱電がいるのだ。

 ダムの決壊による人工的洪水、大火災、公害を装った有機リン酸中毒や一酸化炭素中毒、多重衝突による交通事故、航空機事故、放射能雨。

 また、天災ならずとも、不可抗力的な�人災�を利用してもよい。例えば警官隊とデモ隊の衝突を利用しての殺人、�同時犯�として警官と群衆が犯人になってくれる。これの応用形としてけんかのそばづえをくわせてもよい。

 たとえ、そのためにその他大勢の何の関わりもない人々の生命を殺傷することになっても、止むを得ない。

 何十人、何百人の人々の血潮を流しても、自分の手が渋谷の血によって染まることよりもはるかによいのだ。

 しかし、人災利用法となるとやはり共犯の手を借りねばなるまい。とするとやはり天災か。

 他に何か手はあるまいか、海はどうだ? いや、それよりも山がいい。山! そうだ、山こそ自分の舞台ではないか。それに渋谷にとっても。山好きの男が山で死ぬ。それは必ず遭難死として片づけられる。渋谷の死体が置かれて何の疑惑も持たれない場所こそ、山ではないか。そこは雪崩、落石、滑落、凍死、疲労死、墜死、餓死等あらゆる�理想的危険�に充ちた空間なのだ。第一、山ならば渋谷をきわめて自然に誘い出せる。

 岩村はようやく安全な殺人方法を見つけ出した。

 彼はほっと吐息を吐いた。これで自分の生き残る道が見つかった。長い計画思考の後に遂に導き出した結論に彼は満足した。

 岩村が愕然としたのはその直後である。

(俺は渋谷を殺すことに喜びを感じている)

 この競争社会において、人間は獣にならなければ生き残れないのであろうか? 生き残ることが生物必然の本能として止むを得ないものとしても、自分が淘汰されないために仲間を殺すことに、せめて哀しみを感じられないのか?

 獣となっても生きなければならない。それはそれでよい。しかし、少なくともそれ以前は人間であった証拠に、そのような生き残り方に哀しみを覚えてもよいのではないか。

 それを、今の自分は哀しむどころか、喜んですらいる。自分の精神は粉々に砕かれ、一匹の駄獣以下になり下がっているのだ。

(よおし、こい!)

 かつて碧瑠璃の空を仰ぐ岩壁で磐石の確保《ジツヘル》をしてくれた渋谷の声が、岩村の耳によみがえった。

 突然、慟哭が彼をおそった。それは渋谷を殺すことに対して哭《な》いたのではない。渋谷を殺すことを何とも思わない自分自身に対して涙が流れたのだ。

(俺は獣だ)

 岩村は哭けば哭くほどに自分が人間から遠ざかって行くように感じた。

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]

 前略、

 その後どうだ? 十月五日より六日間の予定で東京へ出張することになった。久しぶりに会いたいと思うが都合はどうだ? 宿はまだ決めていないが、上京後連絡する。ではまた、いずれ。

[#ここで字下げ終わり]

[#地付き]草 々  

 岩村が渋谷から以上の簡単な文面の葉書を貰ったのは九月の末のことである。

[#改ページ]

 樹冠炎

「やあ」

 岩村は軽く手を上げると、人なつっこい微笑をたたえて歩み寄って来た。

「久しぶりだな、奥さんとは、もう三年になりますかな? や、この坊やが雄一君ですか、ずい分大きくなったもんだなあ」

 岩村は渋谷一家の前に立つと家族三人の顔をこもごも見比べながら大げさに言った。

「まあ、坐れよ」

 渋谷にうながされて岩村は腰を下しながら、

「しかし、奥さんやお子さんも一緒とは知らなかったな。で、いつ出てきたんだ?」

「一昨日だよ。急な社命でな」

「一昨日? 手紙では昨日のはずだったぞ。何故もっと早く知らせないんだ?」

 岩村がやや詰《なじ》るような口調で言うのへ、

「いや、少し予定変更になってな、一昨日は大分遅く着いたし、昨日は一日中、とび廻っていたもんだから」

「まあいい、それで宿は?」

「このホテルに取ったよ」

「ますますもってけしからんな。東京には俺の家があるんだぞ、大して広くもないが、このホテルよりずっと心のこもったもてなしはできる。お前、いつからそんなに水臭くなったんだ?」

「いやあ、すまんすまん、別に水臭くしたわけじゃあない。今度はコブ付きで出てきたし、それにお前にはこの前のことで大分迷惑をかけたようだから、何となく敷居が高くなってしまったんだ」

 渋谷は岩村を通しての菱井電業からの誘いを断ったことを言ったのである。

「あんなことは忘れろ。あれは企業人としてのことだ。私人としての俺達のつきあいには何の関係もないことだ。困るなあ、そんなことをいまだに言ってるようじゃあ」

「いやあ、お前にそう言われると俺も救われるよ。しかし、花岡との板ばさみになって俺は本当に苦しかった」

「もうそれを言うな、今夜は久しぶりに旧い山仲間《ザイルパートナー》が再会したんだ。昔の山の話を思い切り語ろう。奥さんもいることだし」

「お前、本当に気にしてないのか?」

「くどいなあ、そらそら、奥さんがアクビをしておられる。すみませんねえ、こんな話題になってしまって」

 岩村はおどけた身振りでペコリと頭を下げた。

「いやですわ、アクビだなんて。私、ちっとも退屈なんかしてませんことよ」

 渋谷はるみは軽くにらんだ。ちょうどその折、ホテル専属のバンドが、演奏を始めた。曲目は山のロザンナ。——

 ここは、東京赤坂の高台にある日本最初の超高層建築を誇るホテル大東京三十六階にある回転展望台�ブルースカイサロン�である。

 渋谷一家と岩村元信はその一隅に席を占めて久しぶりの再会に話をはずませていた。

 新幹線でわずか一時間半の東京と名古屋にいながら渋谷が協和電機の第二中央研究所に閉じこもっての研究三昧、岩村の方も大阪へはよく出張するが、名古屋へ途中下車《ストツプオーバー》することはめったにないために二人はあのスカウト勧誘以来会っていない。

 今度の渋谷の出張も社用とはいうものの、慰労の性格が濃いものである。研究所浸りの渋谷の身体を星川副社長が心配して、社命でなければ研究所から容易に出ようとしない渋谷のために、ほんの口実の軽い社用に結びつけて一週間ほどゆっくり遊んでこいと送り出したものだった。

 几帳面な渋谷はそれを昨日一日がかりで片づけ、やっと今日旧友の岩村にお呼び出しがかかったという次第である。

「山へもしばらく行ってないな」

 蒼茫たる黄昏を重畳たる山脈の彼方から呼んでくるような山のロザンナの調べに、渋谷は遠い眸をした。

 折りしも、一時間に一回転する展望台は山手方面にめぐり、眼路のかぎりのビルと甍《いらか》の波の彼方に奥多摩や丹沢の山塊が、青い雲の影のように流れている。

「もう山には新雪がきているかもな」

 岩村が言った。彼が言った山とは彼らの青春の舞台であった不帰岳を指していることは言うまでもない。

「ああ行きてえな」

 この時ばかりは渋谷の技術者としての冷たい光りを湛えた眸にも、かつての日のアルピニストの熱い輝きがよみがえっていた。

「どうだ、久しぶりに一緒に行ってみないか? 二、三日の暇ぐらいどうにでもなるんだろう?」

 岩村が急に思いついたように言った。

「山へか? しかし、今度は女房子供を連れているし」

「奥さんも行けるところにすればよい」

「でもなあ」

「秩父の前衛に外秩父高原と呼ぶ五、六百米の低山帯がある。低山とはいっても人造湖だが湖もあるし、森も深い。尾根筋からは関東平野がよく見渡せる」

「外秩父か」

 渋谷は悪くないなと思った。熾烈な日の光と高燥な大気に身を晒して絶え間ない緊張を強いられる高山は、今の自分には時間的にも体力的にも文字通り高嶺の花だ。それよりも湖や森に囲まれた優しい草山、初秋の広々とした風景の中に、麦藁《むぎわら》色の穏やかな陽光を浴びて自分自身、その風景のように空しくなりたかった。

「今度、うちの社で外秩父のアマメクボ山という小さな山を一つ買ったんだ。社員厚生施設の一つとして菱井電業専用のキャンプ場にする予定だ。来春店開きなんだがもうほとんどでき上がっている。中腹まで車で上がれるから頂上へ奥さんでも行けるよ」

「山を買った!? さすがに大企業となるとやることが派手だな」

 渋谷は驚いた。社員の厚生施設として山を買うなどとは、とても彼の旧社では考えられないことだったからだ。

「アマメクボ山、行ってみたいわ」

 渋谷の妻が目を輝かした。

「車から降りて頂上までこの子でも登れるかしら?」

 それでも少し心配顔で質《たず》ねるのを、岩村は押しかぶせるように、

「大丈夫ですとも、地元の幼稚園が遠足に行く所です。何だったら、バンガローに泊まれるように手配しておきますから」

「わあ、キャンプもできるのですか? ねえあなた、行きましょうよ。あなたはいつも私に山の話を聞かせるばかりで連れて行って下さったことは一度もないじゃない。こんないい機会はないわ」

 彼女は女学生のように目を輝かせた。

「そうだな」

 渋谷はうなずきながら、ふと、遠い日、岩村と大阪にいる花岡と三人で冬山行の足馴らしに、秋草をふみ分けて歩いた奥多摩辺の茫々たるカヤト(草原)の尾根を想い出した。

「うわあ、きれいだぞう、ママア、パパア早く上がっておいでよ」

 展望台の上から雄一が大はしゃぎに叫んだ。

「雄ちゃん、あんまりはしゃぐと落っこちるわよ」

 はるみが下から心配そうに言った。しばらく後、展望台の上で顔を揃えた親子三人の幸福なさんざめきが山の静かな空気を震わせた。

 山頂はササを混えた一握りの明るいカヤトであり、その上に火の見|櫓《やぐら》のような展望台が急造されてある。

 標高六百米弱の低山でありながら、山頂近くまでびっしりと生い茂った、秩父特有の密度の濃い樹林は、展望台のおかげでさしたる展望の障害にならない。

 傾きかけた初秋の午後の光の中に外秩父の柔かな山脈が幾重にもたたなわっている。その彼方に奥秩父の濃く鮮かな稜線、さらにはるかには日光、赤城、上信越の山群が薄青い煙のように流れている。そして頭をめぐらせば青くけむった関東平野と銀蛇のようにきらめきながら流れ去る荒川の流れ。

「なるほど、これは素晴しいな」

 山馴れしているはずの渋谷も嘆声を洩らした。

「来てよかったわ、本当に」

 はるみも目を細めた。

「今夜はどうせバンガロー泊まり、ここでゆっくり遊んでいきましょうね」

 彼女はすっかり童心に帰って言った。

「しかし、炊事の支度を岩村ばかりに任せておいていいかな?」

「いいでしょ、私達、今日はお客様だもの」

「いや、そういう意味ではなくて、あいつに任せておくと何を喰わされるか分らないからさ」

「あらっ、それは大変」

「あのおじちゃん、そんなに下手なの?」

「ああ、下手だよ。パパの学生時代、仲間で一番下手だった。おかげで彼はいつも炊事当番から外されていたんだよ」

「いやだなあ、僕そんなまずいもの」

「はっは、大丈夫、大丈夫。パパもママもついている。雄坊の口に合うものをすぐ作ってやるよ」

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页