三人は秋の山の陽を全身で受け止めながら笑った。久しぶりの、本当に久しぶりの親子水いらずの団らんであった。
外秩父、アマメクボ山、岩村に誘われた渋谷一家は岩村の運転するセドリックで東京を朝ゆっくり発ち、暮れるに早い秋の陽がまだ大分高いうちにその山頂に立っていた。
車は中腹の扇平というススキの穂波の美しい草原まで入り、そこから小一時間ほどの樹林帯のゆるやかな登りの後、この頂きに立てるのである。
キャンプ場は扇平にある。頂上までの道は一本道で迷う心配もないところから、岩村は炊事当番ということでそこに居残った。さすが、大菱電が買い取った山だけにキャンプ場の設備も申し分ない。バンガローといっても下手な一戸建の家よりずっと立派なものだった。
「頂上でゆっくり遊んでこいよ。夕飯は俺が腕をふるってやるから」
岩村はそう言って渋谷達を送り出したのである。
「そろそろ下るか」
「そうねえ、風が少し冷たくなったようね」
陽は武甲山の肩に大分近づいたようである。
「樹林帯で日が暮れると足許が危ないからな。さあ、雄一、行こう」
渋谷はまだ去りがてにしている子供の手を握った。
「お父さん、へんな匂いがするよ」
雄一は父親に手を取られながら鼻をうごめかした。
「へんな匂い、どんな?」
「きな臭いよ、何か燃えてるみたい」
渋谷はきな臭いなどという語彙《ごい》をこの幼児が知っていたことに感心しながら、
「きな臭い? 気のせいだろう。お父さんには何も匂わない」
「ほんとだよ、くさいよ、確かに」
「そうかなあ」
渋谷がつぶやいた時、妻が、
「あらっ、あの煙は何かしら」
と下山道の方を指さした。見れば薄青い煙が樹林の間から頂上のカヤトに向かって二筋三筋、霧のように流れ出している。
「へんだな」
渋谷は初めて眉を寄せた。
「山火事かしら?」
「まさか!」
妻が心配そうに言うのを押しかぶせるように否定しながらも、彼は何となく心が忙しくなるのを感じた。
「とにかく、早く下りよう」
展望台の心細い梯子から、二人を助け下ろしながら、渋谷は煙の原因を気忙しく考えた。
——自分は煙草を吸わない。それでは、誰か他のハイカーか? しかし、今日は、誰にも出会っていない。登山道は一本道だし、不心得な猟師の焚火の不始末か?——
「パパア、この道下れないよ」
子供の声に渋谷は愕然とした。密度の濃い樹間を縫う一本の登山道は、そのまま煙道となって、何処か分らぬ火源によって作られた大量の煙を集めて煙突のように吐き出している。
「弱ったな」
下山路は一本だけ、他に道はない。自分一人ならこのくらいの低山、道がなくとも平気だが、足弱の女子供に藪こぎはさせられない。
まして、こんな事態は予想だにしていなかっただけに、鉈《なた》や鎌の用意もない。下手に道から外れれば低山特有の藪に身体を縛られて、にっちもさっちもいかなくなる。
そうしている間にも、煙の密度と量はますます大きくなった。
ぱちぱちという粗朶《そだ》の弾ぜる音、煙の奥にはすでに赤い炎舌すらちろちろとからんでいるではないか! しかも風は下から吹き上げてくる。
この時はじめて渋谷の心に慄えが起きた。
「こっちへ来て!」
渋谷は取りあえず反対側の山腹に避難することにした。扇平から岩村らが救助に駆けつけてくるまで、何とかもちこたえればよい。
それに火が山頂に達すれば、反対側の山腹から風が吹き上がってくるから、火はなかなか、風下の山腹を下れない。いざとなれば、渋谷は道のない山腹を下るつもりであった。藪の茨や刺《とげ》で身体中を引掻かれても、バーベキューになるのよりはましである。
それにしても何という火のまわりの早さだろう。ここ数日の好天と、からからに枯れ切った落葉や下草は山火事の理想的な温床となっているにちがいない。
「パパア、怖いよ」
「あなたあ、どうしましょう」
「心配するな、岩村がすぐ駆けつけてくれる。それにこれくらいの山火事はよくあることなんだ」
おろおろする二人を渋谷は、反対側の山腹に見つけた岩かげでしっかりとかかえ、元気づけるように努めて明るく言った。
遠い山麓の村で半鐘が鳴っている。渋谷にはそれが癪にさわるほど間のびして聞こえた。
子供が大きく噎《む》せた。気まぐれな風の流れに濃い煙の帯が吹きよせられたからであった。
——岩村、早く来てくれ!——
渋谷は祈った。まさか焼き殺されるとは思わなかったが、この凄じい火勢を見ては、ふと不吉な連想が心に忍び寄るのを振り切れなかった。
「あっ、パパ、展望台が」
雄一の叫び声に渋谷は目を上げた。頂上台地に吹きのぼった炎は、カヤトの枯れ草を一瞬に舐《な》め尽くして、展望台の脚から這いのぼり、仕掛け花火のように炎の輪郭を浮き立たせた。
「ここは危ない、もう少し、下へおりよう」
渋谷は藪を分けた。山頂に近いので煙や火の粉が時折りふりかかる。
「あっ、あなたあ、こちら側からも煙がくるわ」
妻が絶叫した。
「そんな馬鹿な!」
山頂を囲んで山麓にぐるりと放火でもしないかぎり反対側の山腹からも火がのぼるということは考えられない。それとも飛び火したのか?
「こ、これはどうしたことだ」
渋谷は呻いた。彼らがこれから下ろうとした藪の彼方からも、登山道側と同じくらいの密度で煙が吹きのぼり始めたではないか!
いつの間にか周囲に澱んだ夕闇の中で、下方が際立った明るさに映えているのも火勢の強さを物語っている。
風が起きた。
「あなた!」
「パパア!!」
二人が渋谷にしがみついた。
「がんばれ! 探すんだ、逃げ径は必ずある」
渋谷は必死に二人を励ましながらも、深い藪に手足を縛られて身体を自由に動かせなかった。
ごうという風音と共に黒い煙が三人にまともに吹きつけた。
「苦しいよう」
雄一が遂に泣き出した。頭上で何か崩れ落ちる音がした。炎に侵蝕され尽くした展望台の焼け落ちる音であった。
「がんばれ! 山火事は長続きしない」
と渋谷は言ったつもりだったが、のどが煙に爛《ただ》れてすでに声にならなかった。はるみと雄一が渋谷にしがみつき、酸素不足の金魚のように口をパクパクさせているのが、異様な鮮烈さで渋谷の網膜に焼きついた。
「岩村! 俺達を助けろ」
渋谷は最後の音声を振りしぼった。それが声になったか、ならなかったか、火流線に伴う燃焼音はその確認を妨げた。樹林を這いのぼる炎が梢に達し、樹冠から凄じい火の粉となって折りからの夕焼けの空の赫さをいやさらに濃く深く染め上げるのを、渋谷は何か信じられないものを見つめるような眼つきをして見ていた。
ハイキングの一家火傷死
——(秩父)十月七日午後三時頃、埼玉県秩父郡東秩父村天窪、通称アマメクボ山(東京都千代田区竹平町菱井電業KK私有地)の山林より出火、同山地約〇・五ヘクタールの山林を焼いた。
たまたま同山にハイキングに来ていた渋谷夏雄さん〈名古屋市昭和区御器所町二十三、協和電機KK技師長(二九)〉一家は山頂付近で逃げ道を失い、妻、はるみさん(二五)、長男雄一君(四)の二人は焼死体となって発見された。渋谷夏雄さんは全身火傷で秩父病院に収容されたが重態。
秩父署では出火原因について調べている。——
翌十月八日午前九時半、菱井電業の社長室で盛川達之介はソファにゆったりと腰をおろして、秘書の運んできた新聞の社会面に無感動な目を通していた。
[#改ページ]
コルサコフ症状群
「何!? 渋谷が廃人になったと」
さすがの花岡俊一郎も蒼白になった。デスクの上に置いた指の先が震えている。
「生命だけは辛うじて取りとめましたが、強度の精神錯乱をおこして全くの痴呆状態になっています」
報告する進も声が上ずり、両脚が立っていられないくらいにがくがく震えている。
「一時的なものではないのか?」
俊一郎は辛うじて声を出した。
「もう少し経過を見なければ何ともいえないそうです。家族が目の前で焼け死ぬのを見たショックからだろうと医者は言っておりますが」
「癒《なお》せ、どんなことがあっても。MLT—3はようやく大量生産方式に入ったばかりだ。是が非でも彼が要る」
「はっ、しかし……」
進はこればかりは自分の力ではどうにもならないと言おうとして、その言葉をのどの奥に呑みこんでしまった。
何も俊一郎にいわれるまでもなく、渋谷を必要とすることは分りきっている。協電のためというよりは彼ら自身の保全のために必要なのである。
渋谷がいなければ俊一郎が自社株を売ってまで星電研を傘下におさめた意味がない。強電側は俊一郎が社長の座にありながら、自社株を操作したことを察知していても、勝てば官軍の結果論で、現実に星電研を系列化して破竹の勢いで進む弱電に沈黙している。が、もし、系列化の主眼目である渋谷が、利用価値を喪えば、それを絶好の足がかりにして�大反攻�に転じてくることは火を見るよりも明らかであった。
三日前、東京の岩村から渋谷遭難の報をうけてより、進のすべての時間とエネルギーは渋谷の生命を取りとめることに費されたといってよかった。
秩父から特別にチャーターしたヘリコプターで重態の渋谷を大阪に運び、H大病院の特別個室に収容して、協電の金とH大の医術のすべてが注ぎこまれたおかげで、一時は危うかった彼の生命は取りとめられた。
しかし、協電や花岡が欲しいものは渋谷の生命ではなかった。生命の包含する彼の頭脳が欲しかったのである。
頭脳の伴わない彼の生命など、そこにもここにも転がっている安サラリーマン一人にも値しない。
どうにか危機を脱した渋谷が、生まれもつかぬ痴呆になってしまっては元も子もないのである。
まして彼の頭脳に己らの生命のかかっている俊一郎や進にしてみれば、その頭脳をよみがえらすことがそのまま、自分達の生きる道につながっているのだ。
進は協電家電事業部長という重責の職務を放擲《ほうてき》してH大病院へ通いつめた。
中の島の西はずれにある広大なH大病院の最新特別病棟、888号室、これが渋谷の収容されている病室であった。
完全冷暖房、バス・トイレ、オールカーペット、バルコニーまでが付設され、専属看護婦が常|添《てん》している。一日の入院費が七万円という、豪華ホテル顔負けのデラックス個室である。
全室個室のみによって構成され、一日の入院費が最低でも三万円というこの特別病棟の中でも最高の部類の病室であった。
「今日の具合は?」
付き添い看護婦に花岡はいつもと同じような問をかけた。
「ただ今、お目覚めになったところです。食欲だけが相変らず旺盛ですわ」
看護婦は首を振りながら苦笑した。
進はベッドのそばへ歩み寄った。
「どうだ? 渋谷」
ベッドに横たわった渋谷は進に話しかけられても全く反応を示さない。口角に涎《よだれ》を流しながら、焦点の定まらない眼を宙に投げている。
「渋谷!」
進は声に力をこめた。情けない姿だ。冷たい光沢をたたえてピンと張りつめた、日本のエジソンの目は何処へ行ってしまったのだ!
「あわわ、めしはまだか?」
「さっき、お昼を召上ったばかりじゃありませんか?」
「俺は朝から何も食べていないぞ、俺をひぼしにする気なんだろ。何かおくれよ、腹がへったよお」
渋谷は唇からだらだら涎を流しながら看護婦にせがんだ。まるで幼児が母親におやつをねだっている図である。これを強電側やライバル社に見せたら踊り上がって喜ぶだろう。
「記憶力が極端に低下しておりますわ。二時間ほど前にお昼を食べたことを、もう忘れてしまっているのです」
看護婦が進へ言った。
「今日はね、楽しかったなあ。このお姉さんと一緒に町へ行って、映画を見たり、うな丼やビフテキを鱈腹食べたんだ」
渋谷はまた、おかしなことを言い出した。
「これを作話症と言います。健忘をまぎらすために、単なる思いつきをでたらめ言ってその場をとりつくろおうとしているのですわ。間もなく院長回診がはじまりますから、先生から詳しくご説明があると思います」
看護婦は突然、渋谷のデートの相手方にされて苦笑した。
間もなく回診が始まった。特別病棟は院長の保科博士が直々に診て回る。インターンや看護婦を大名行列のように従えて保科博士は廻って来た。
「はは、また、やってますな」
保科博士は渋谷の作話を聞いて磊落《らいらく》に笑った。
「一体、これはどういうことなのですか?」
「ああ、まだ説明してなかったですかな」
保科博士は進の方へ向き直った。
「はい、若い先生から簡単な説明を聞いただけで」
「渋谷さんの場合、意識の変化はほとんどないのですが、記憶力に著しい障害があります。食事をしても忘れてしまう。年月日を教えても一分も覚えていない。中央診療室まで何度も往復したことがあるのに、その道順を覚えない。渋谷さんは全く現在という一時点において平面的生活を営んでいるだけであって、過去も未来もありません。
この作話症も記憶が悪いために、時間及び空間に対する見当識が喪われ、その空虚を補うために空想的な嘘を言っているのです。我々はこれをコルサコフ症状群と呼んでおります」
「やはり、家族を喪ったショックからでしょうか?」
「そうともかぎりません。この症状は老人性痴呆や、酒毒性精神病などからも生じますが、渋谷さんの場合は遭難の際に受けた脳外傷によるものと思われています。とすれば……」
「とすれば何ですか?」
進は思わず唾を呑みこんだ。
初めて渋谷の精神異常を告げた医師はそんなことは言わなかった。
「とすれば、この症状は一過性に現われることもあります」
「一過性に!」
みるみる、進の瞳が輝いた。
「脳血腫は開頭手術により除去してあります。専門的な説明は省きますが、遺伝などによる内因性のものがなければ、患者の症状は一過性のものと考えています」
(助かった!)
進は長い息を吐いた。安堵の吐息である。
もし、渋谷の錯乱状態が保科博士の言う如く一過性のものであれば、自分の社会的生命も安泰である。しかも、それを言う保科は世界でも有数の脳外科の権威であった。
彼はしずしずと立ち去って行く�大名行列�を土下座して伏し拝みたかった。
しかし、保科博士の言葉にもかかわらず、渋谷の症状はいっこうにはかばかしくならなかった。むしろ、ますます悪化してきたといってもよい。
最近では作話症がますますひどくなり、相手の見境いもなく卑猥な言葉を口走るようになった。ぼんやり何もせず、一日中坐っていることがあるかと思うと、人前もなく泣き出したり、わめいたりする。いわゆる感情失禁が見られるようになった。
所有欲や、独占欲が強まり、見舞い客が置いていった見舞品を後生大事にしまいこみ、食物などは腐らせてしまうことが多くなった。
一度、看護婦が強制的にロッカーを調べたところ、見舞品に混って、ボタンや糸屑、また、どこから取って来たのか、女性用下着などがしまいこまれてあった。
「これはいけない」
進は暗然として頭をかかえこんだ。事故からそろそろ二ヵ月にもなろうとしているのに、渋谷の症状はますます悪化の一途を辿っている様子である。
その間、H大が現代医学の粋を尽くして治療にあたっている。さすがの保科博士もいささか、さじを投げ気味であった。
「おい、渋谷は相変らずの調子か?」
俊一郎は進の顔を見る都度、焦燥の色を露骨にあらわして聞いた。
「渋谷の異常はそういつまでも隠しおおせないぞ。強電の中にはうすうす感づいた奴もいるらしい。近いうちに病院を変えた方がいいんじゃないのか?」
その日も俊一郎は進の顔を見るなり、責めるように言った。
「私もそれを考えております」
「MLT—3の発売日は十二月二十日に決定した。それまでに何とか回復できないか?」
「今の様子ではとうてい、無理と思われます」
「医者は何と言っておる?」
「火傷と脳外傷はもう危険期を脱していますが、遭難時のショックがよほど大きかったらしく、それがいまだに精神に影響を及ぼしているらしいとのことです」
「大阪ロイヤルホテルでのMLT—3の発売記念パーティには、是が非でも、彼に出てもらわなければならん。たとえ、頭はおかしくても、一時的に第三者にそれと分らぬように仕立て上げられないか?」
——今の状態ではとうてい無理ということは分っていたが、進は結局、そのような形をとってもその場しのぎをせざるを得ない破目になるだろうと悲しく悟った。
MLT—3の発売日には、是非とも、その生みの親、日本のエジソンの元気な姿を大衆の前に見せなければならなかった。
万、止むを得ない場合は、そうせざるを得ないだろうことは分り切っていたが、花岡進は大阪ロイヤルホテル大宴会場を埋めつくした、無数の代理店や招待客の眼前で突然、けたけたと狂気の笑いを撒き散らす渋谷夏雄の姿を彷彿させて慄然とするのであった。
しかし、そんなことをさせてはならない。
十二月二十日までには是が非でも癒さなければならない。
しかし、今の状態では? 現代医学の粋を尽くしても回復できないものを、医学のいの字の心得もない自分がどうして癒すことができよう?
結局はでく[#「でく」に傍点]のような渋谷につきっきりで記念パーティを乗り切る以外にないように思えた。だが、その後は? 渋谷の異常は水の洩れるように社の内外へ洩れるだろう。H大側には堅い箝口令《かんこうれい》をしいてあるが、そういつまでも続くものではない。
遭難以来、一度も姿を見せぬ渋谷に、強電側では不審を抱き始めた者が多いのである。
「どうですか、その後の渋谷さんの容態は?」
「いやあ、おかげで大したこともなく、発売日には元気な姿を見せるでしょう」
強電部や、社外の者のさぐりにきわめて無雑作に答えながらも、進は脂汗をじっとりとかいているのであった。
「社長」
進は思い定めたように俊一郎を呼んだ。
「何だ、改まって?」
「実は現在の状態では、発売日まで回復する可能性は全くありません」
「そんなに悪いか?」
「最悪です」
強電側の目をはばかって、俊一郎はかまえて、渋谷に近づかなかった。保科からの報告によれば彼の精神障害は一時的なもののはずであったが、どうやら、現実の容態とは大きな差がありそうである。
「発売日に一般客の目はごまかせても、強電の目は欺けません。彼らは事故の日以来、姿を見せぬ渋谷に大きな疑惑を抱いております」
「それで?」
俊一郎は大きな目をぎょろりと剥いて話の先をうながした。
「渋谷がでく[#「でく」に傍点]人形だということが分れば、強電の連中は星電研買収時の自社株売買にかみついてくるに相違ありません。その前に少しでも奴らにかみつかれる材料を少なくしておくべきではないでしょうか?」
「……?」
「つまり、星川副社長をはじめ、旧星電研の横すべり組を全部整理してしまうのです」
「そ、それは」
「まあ、お聞き下さい」
進はまるで人が変ったように話をつづけた。いつもの俊一郎と進の立場が逆になった形であった。
「発売日の前に渋谷の心証を害してはまずいとおっしゃりたいのでしょう。しかし、今の渋谷に心証なんてありません。心を喪った痴呆です。当分の間、回復の見込みもありません。いや、よしんば回復したとしても、強電にかみつかれた後では何にもならないのです。何故ならその時には我々の地位はないでしょうから。
渋谷が利用価値を喪えば、渋谷の余光で命を永らえている、しかも高禄を喰んでのうのうと生き残っている旧星電研の横すべり組などごみ[#「ごみ」に傍点]です。彼らの給与だけでも協電は毎月三百万円近い金を喪っている。これは強電側の絶好の言いがかりとなるでしょう。渋谷が半永久的痴呆化した現在、少なくとも、衆目にその姿を晒す発売日までに回復の見込みがたたないかぎりは、少しでも我々の防禦を固めておくべきではないでしょうか? ただし、渋谷そのものはどんなに痴呆化してもまだ当分の間は利用価値があります。協電に渋谷ありということはやはり大きなメリットですからね」
花岡進は品物を片付けるように無雑作に言った。確かに彼の言う通りである。俊一郎はいつの間にか自分の後継者としてのほとんどすべての条件を備えてしまった進に、逆境の中に一つの光明を見出したおもいであった。
「星川らを馘にするのはたやすいが、馘にした後、発売日の前に渋谷が回復したら困ったことになるだろうな」
さすがに俊一郎は冷静であった。星川を優遇したればこそ、渋谷は星電研と変らぬ忠勤を協電に捧げたのである。
もし、発売日前、彼が常態に復して星川社長らの追放を知ったならば、どんな態度で発売記念パーティに臨むか明らかであった。かといって、このままで行けばますます強電側に乗ずる隙を与えることになる。
いずれにせよ、星川馘首は危険な両刃の剣である。
しかし、進は俊一郎の逡巡を一言にして解決した。
「発売日の前日に切ればいいではありませんか」
「よし、決まった。お前はそれまでに渋谷回復に全力を尽くせ。金はいくらかかってもかまわん」
俊一郎はきっぱりと言った。
星川を切るまでに渋谷回復に全力を尽くす。その期間が長ければ長いほど、可能性は高くなる。しかし前日に至ってもなお回復しない場合は星川らを切る。たった一日の間に渋谷が回復する可能性はほとんどない。また、よしんば、回復したにせよ、一日くらいのことならば渋谷に知らせずにすませる。第一、その時は星川一族の馘首を取り消してもいいではないか。
渋谷の痴呆を見破った強電側は、発売パーティ後徹底的にかみついてくるであろう。
ライバル事業部とはいえ、同一社のことだ。まさか、発売パーティの席上でかみつくような真似はしないだろう。
嵐はパーティの後にくる。しかし、その時は星川らを切り捨てた後だ。たかが渋谷一人のために、無用の人間を大勢、抱えこんだとは思わせない。解雇月日はいくらでも粉飾がきく。系列化に巨額の金を注ぎこんでも社金を流用したわけではない。攻撃点は専ら自社株売買にかかる。それさえ何とか言い逃れれば、当分の地位は安泰である。
俊一郎と進は互いの腹を読みながら、以心伝心の作戦をたてたのである。
[#改ページ]
安曇野《あずみの》
列車が塩尻峠のトンネルを越えると、一気に展望が展《ひら》いた。トンネルと切り通しの単調なくりかえしの中を長い間登りつめて来た旅客は、突然、眼前に展けた錯覚のような展望に歓声をあげる者さえいた。
蒼すぎて暗い空に雪を戴いた中部山岳国立公園の連峰が銀鎖のように流れ、山麓を青霞の平原に薄みどりの夢のように溶かしている。
山にさして興味のない者もしばらくは車窓に釘付けにされる展望であった。
彼らの乗る長野行急行『第一信濃』は速力を増して、その平原—『安曇野《あずみの》』へ向かって下り始めていた。
「渋谷、わかるか? あれが穂高、あれが槍だ。ほら、常念のピラミッドも見える」
花岡は一々指呼しながら、渋谷の目をじっと見守った。
「あわわ」
渋谷はおとくいの奇妙な音声を発すると、それでも花岡の指の先に視線をやった。
(思い出してくれるか?)
彼は祈るように渋谷を見た。
発売日まであと数日、一向に回復の萌しを見せない渋谷に半ば、諦めかけた進に、ふと閃めいた考えがあった。
遠い青春の日、渋谷、岩村、花岡の三人で胸を熱くして放浪《さすら》った旧き山々を訪れてみれば、渋谷の喪われた記憶に囁きかける何物かが、よみがえるかもしれない。人間は自分にとって最も楽しい時期を忘れるものではない。一見、忘れたように見えても、心の襞の奥深く郷愁となってしまわれている。
自分にとっても、喰うか喰われるかの酷しい現在においてもあの旧き山々の日々が久遠の郷愁となって生き続けているように、渋谷の狂った脳髄のどこかにも必ず、共に分かち合った青春の断片は生き残っているにちがいない。それを引張り出すのだ。
俺達の青春の形見こそ、渋谷をよみがえらすよすがとなるかもしれない。——そんなはかない希望を抱いて、この旅に出た。
「渋谷わかるか? この道はずい分通ったものだぞ。今日はまた、よく晴れて山がよく見える。どうだ、思い出したか?」
進は幼児の記憶をゆり起こすようにゆっくりと語りかけた。
「山だね」
「そうだ、山だ」
進の目が輝いた。渋谷は�山�と言ったのだ。
「きれいだね」
「新雪が来たばかりなんだ。今年は雪が遅い」
「何か甘い菓子が欲しいな」
「え?」
「砂糖菓子が欲しいよ」
みるみる進の顔が失望に曇った。何のことはない、雪を塗《まぶ》した山体が渋谷には砂糖を塗したケーキを連想させたのである。
「菓子よりも何か他に思い出すことはないか?」
進は諦め切れなかった。
「まだ、弁当を喰っていなかった」
「渋谷!」
弁当は木曾福島で買って与えたばかりだ。渋谷はそれを驚くべき速さでしかも、二個も平げてから、まだ三十分たつか、たたないかである。
「ねえ、弁当、買ってくれよお、朝から何も食べていないんだぞ」
渋谷が痴呆化していることを知らない周囲の旅客の中でくすくす笑う者もいた。彼がつい三十分ほど前に二個の汽車弁を平げたのをおぼえていたからである。
進は腹立たしさを覚えるよりも情けなくなった。この痴呆化した男のどこに、かつて日本のエジソンといわれた天稟の才があったのか? 憧憬に胸を熱くして天に近い径を共に登りつめた、以前の山仲間の羚羊《かもしか》のような姿は何処へ行ってしまったのか?
急に周囲の旅客がざわめき始めた。第一信濃は松本に近づいたのである。
松本で大糸線に乗りかえる。重装備の連中が鋲靴の音も重々しく跨線橋を渡って行く。花岡や渋谷も何度、同じように�武装�して、胸を躍らせながらこの橋を渡ったことだろう。
今、花岡進は狂える渋谷に付き添って、スーツケース一つ持っただけの軽装でその橋を渡っている。
幾多のアルピニストの夢と想い出が沁みついているようなこの跨線橋を、よもや、このような形で渡ることがあろうとは、数年前に思ってもみなかった。
列車が信濃大町に近づくにつれて、旧い山々の展望はますます、広がってきた。安曇野の果に屏風のように立ちふさがる白馬、五竜、鹿島槍の後立山連峰は、前山の遮蔽を完全に振り切って、眉を圧するばかりに近々と車窓に迫ってきた。碧瑠璃の空を限る稜線には、新雪が巨大な銀の鞍のようにおかれ、スゲ類のくすんだ橙黄色に被われた山体に最後の微かな紅葉が花火のように映える。
「来たな」
たとえ、山登りのために訪れたのではなくとも、自分の青春の想い出がいたる所に象眼のように鏤《ちりば》められている場所に還って来て、花岡は軽い興奮を覚えないわけにはいかなかった。
大町駅前広場からは見覚えのある針ノ木が素晴しい迫力で見る者の目に迫る。猫も杓子もアルプスといわれるほどの、この十年間の登山人口の激増ぶりも、季節外れに訪れてみれば、花岡らの知る旧き良き山々と何ら変るところがなかった。
駅前から車を拾い、木崎湖の西にある丘陵地帯に向かった。ここは後立山の雄峰群を一望にする絶好の展望台である。丘陵の頂き近くまで車が入る。
丘陵に着いたときは傾くに早い初冬の陽が稜線にかかっていた。
「渋谷、着いたぞ」
花岡は渋谷の身体をゆすった。彼は何と眠っていたのである。
車が帰ると、耳を圧するような静寂が落ちた。沈み行く斜光を受けて、枯れたススキの草原が金色に光った。稜線から吹きおろす風がそれをはろばろと吹き分けていく。
「渋谷、帰って来たんだぞ」
花岡の言葉に渋谷は虚な瞳を上げた。その瞳に落日が映って、一瞬きらめいたように見えた。
「わかるか?」
渋谷の瞳に落日が燃えている。両眼に一つずつ赫《あか》い陽を宿して渋谷はうっそりと立ち続けていた。
ややあって、
「寒いな」
とただ一言つぶやいた。
周囲には二人以外に人影はなかった。この世の中から忘れ去られたような静かな一角であった。
夕陽が稜線に近づいた。逆光の巨大なシルエットとなった後立山連峰の、正に陽を呑みこもうとする稜線のあたりが血の色のように滲んだ。
雲一つない研ぎ澄まされた空は、夕映えるよりはむしろ、蒼氷のような硬い青みを帯びてきた。
ソレハハルカナ日
読ミ捨テラレタ物語リカ
密度ノ濃イ青春ヲ
忘レジノ記憶ニ刻ミツケテ
名モナキ山里ノ夕マグレ
旧キ山仲間ハ別レテ行ッタ。
蒼白キ通夜ノヨウナ
都会ノ営ミヲ生キルタメニ。——
花岡が口吟《くちずさ》んだ。かつての日、彼らが好んで口吟んだ「旧き山仲間の唄」の一節だった。別に何という意味もこめられていない、単純な青春の感傷を歌ったにすぎない詩だったが、彼らはそれが好きだった。
弱肉強食の世界を他人《ひと》を陥れることによって生きのびている今日の花岡にしても、この詩は、唇に何気なくよみがえることがあった。むしろ、そのような日々を送っているからこそ、一個の柔かい救いとして忘れられないのかもしれない。
その詩を渋谷が忘れるはずがない。今の花岡は自分の救いのためではなく、渋谷をよみがえらすために口吟んだのである。
日本のエジソンは死んでもよい。旧き山仲間よ、よみがえれ! その瞬間の花岡の心にはそんな純な願いがこめられていた。
「あは、あったかいぞ!」
突然、けたたましい笑声が周囲の静寂を破った。
「あたれ、あたれ、みんな来てあたれ、焚火だ焚火だ、あたろうよ」
後の方の言葉は節をつけて歌っている。
見れば、渋谷は草原の中央に何物かを積み重ねて燃やしている。花岡は火の周囲《まわり》を土人のように踊り廻る渋谷の異様な風体に愕然とした。
彼は自らの服を脱いでそれを燃料としていた。花岡が気づいた時はすでにズボンも�焚火に�くべられていた。
「渋谷、よせ!」
暗然として馳け寄った花岡が、制止しなかったならば、渋谷は下着や、パンツも火の中へ投げ込むところであった。
——だめだ——
花岡は全身の力が脱けていくのを感じた。渋谷夏雄は永久に死んだ。ここにいるのは彼の形骸《むくろ》にすぎない。思考も判断も知力も、そして青春の記憶すら喪った単に人間の形をしただけのでく[#「でく」に傍点]にすぎない。
自身が宝物のように慈んでいる青春の追憶に訴えれば、或いはよみがえらすことができるかもしれないと思ったのは、文字通り、青春への甘えであった。
渋谷は諦めよう。これ以上の努力はもはや時間と労力の浪費になるだけだ。
花岡は暗い眼で渋谷の衣服から周囲の枯れ草に燃え広がりつつある炎に見入っていた。折りから落日を呑んだ稜線から、茜色の余光が金線のように天心を放射していた。
星川副社長はじめ、旧星電研幹部が一斉に解雇予告をうけたのはその翌日、即ち、発売日の二日前であった。
「渋谷は大丈夫なのだろうな?」
盛川達之介は心配そうに念を押した。
「誓って」
答えたのは岩村である。例の如く菱井電業の社長室である。壁の電気時計はすでに八時を廻っている。さしも、広大な菱電ビルにもこの時間に居残っている人間は少ない。まして、昼でも静かな社長室の一角はオフィスアワーを過ぎると、廃墟のような感じさえ受ける。
「明日はいよいよ協電のMLT—3の発売日だ、気になるな」
「社長、おまかせ下さい。渋谷を廃人にしたのはこの私です。アマメクボ以来ずっと目をつけております。協電ではMLT—3の発売にどうしても渋谷が必要なので、彼の治療にベストを尽くしました。しかし、だめだったのです。私の部下が昨日、渋谷と花岡を信濃大町まで尾けて確かめて参りました」
「昨日?」
「はい、渋谷からは片時も目を離しておりません。もし、昨日以後、回復するようであればすぐ手は打てるようになっています」
「どんな手だ?」
「それはそうなってからのお楽しみにしておきましょう」
「頼むぞ、協電と渋谷が結びつけば、絶対に太刀打ちできない。何としても彼らの仲を割くのだ」
「渋谷が生き残り、痴呆化してくれたのは、むしろもっけの幸いでした。おそらく、協電側は渋谷を正常らしく糊塗《こと》して、発売パーティを何とか乗り切ろうとするにちがいありません。
しかし、そうはさせない。買収した業界新聞や、もぐりこませた私の部下が、渋谷の正体をひん剥いてやる。協電の誇る日本のエジソンがバカであるということが知れ渡ったらどんなことになるか、こいつは面白い見物《みもの》になりますよ」
「お前も行くか?」
「今夜、JAL—129便で大阪へ飛びます。顔を知られているのでパーティには出られませんが、ロイヤルホテルに泊まりこんで�破壊工作《オペレーシヨン》�の直接指揮をとります」
「よし、思う存分やってこい。ただし、警察沙汰にはならぬようにな」