「かしこまりました」
岩村元信は深く一礼すると、社長室を出た。盛川達之介の期待を寄せた視線を背中に感じながら、一歩、ピラミッドの頂へ向かって登りつめている興奮の中に、これから行なおうとする友の破滅工作の陰惨さを忘れてしまった。
もちろん、そんな彼は、社長室の扉を閉じると同時に、盛川達之介がこぼした冷たい笑みを、知る由もなかった。
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死魚の眼
大阪ロイヤルホテルは関西ホテル界の雄、新大阪ホテルが中の島の一角に建てた客室総数千室に近い、日本でも有数の豪華ホテルであり、大阪を代表するホテルであった。
十二月二十日はこのロイヤルホテルが協電一色で埋まった。
話題のMLT—3の発売パーティが朝から華やかにくり広げられたのである。
立食《ビユツフエ》ならば、三千五百名収用可能の大宴会場�大淀の間�を借切り、MLT—3を中心とした協電家電製品の展示即売会を行なう一方、宴会場各所に模擬店が開かれ、朝からつめかけた関係者で賑わっていた。
「滑り出しは好調だな」
花岡俊一郎は、後から後からひきもきらずつめかけてくる招待客に目を細めた。
「この分だと午前中に招待客の半分は顔を見せそうです」
つい一昨日、星電研幹部虐殺の大なたを振った進は殊勝な顔をしてうなずいた。
「問題は午後の製品説明会だ。こいつさえ乗り切れればな」
「手の廻せるかぎりの所は廻しました。出席者のほとんどは買収した新聞記者や、招待者ばかりですから大した質問は出ないと思います」
「とにかく、油断するな。どんな奴がまぎれこんでいるか分らんからな」
俊一郎は落ち着かぬ様子で胸の社長章をいじった。朝から何度も�社長�と記された胸花の位置を直している。彼ほどの人間も落ち着かぬらしい。
無理もなかった。発売パーティ行事の一つとして、昼食後宴会場の一つで製品の説明会を行なう。この席上のヒーローとなるのが発明者としての渋谷夏雄なのだ。
説明は代行ですむとしても、機械についての複雑な質問を受けた場合、どうしても渋谷から直接答えてもらわなければならない。
それがしきたりでもあり、劇場のこけら落としなどにスターが挨拶するのと似たアトラクションの一つとなっている。しかも、当日は大阪テレビが�電子工業界第三の革命者�として渋谷を全国に紹介することになっていた。
もちろん、アナウンサーとの一問一答《やりとり》は最小限に留めている。それも、大半の言葉は進が代弁し、渋谷にはごく単純なYESかNO以外は言わせないように手はずが調えられてあった。
うまくいけば、こんな素晴しい広告媒体はなかったが、一歩まちがえば恥を天下に晒し、俊一郎や進のみならず、弱電部門の命取りとなる。
本来ならばこのような危険なリスクは賭けたくなかったが、せっかくのテレビ、しかも全国ネットのものを断われば、まず、強電側が疑惑をもつ。
渋谷痴呆化の疑いはもっていても、同一社内のことだから強電側は自ら渋谷の皮を剥ぐような真似はしないだろう。恐しいのは第三者の質問である。
打てるかぎりの手は打った。ライバル社の者がまぎれこんでいないかぎり、説明会は渋谷を護衛《エスコート》する技師団とサクラのなれ合い万歳で目出度く終るはずであった。
しかし、説明会にライバル社の手の者がもぐりこんでいないという保証はない。それにそこまでは考えたくなかったが、強電側の手の者が第三者に化けて入りこむ可能性もあった。
いずれにせよ、決して楽観できないのである。
せり上げ舞台の上では、今人気を一身に集めている双生児の姉妹が華やかな歌声をあげている。招待客の出足はますます盛んになった。
即売会の売れ行きも予想外によい。一般宿泊客までが即売会に流れこんで買っていった。
活況のうちに午前は過ぎた。進はいよいよ、来たるべき時が迫ったと思った。説明会は午後一時から十階の中宴会場で開かれる。さして食欲もなかったが、�戦い�に備えるために進は主食堂《メンダイ》へ下りた。
舌平目のバター焼と栗のババロアで軽く腹を調えた後、九階にとってある客室へ上がった。
ここに渋谷を�隠して�あるのだ。
「どうだ?」
介添えというよりは、見張りにつけた部下に聞いたが、別に答えを期待していたわけではない。
「相変らずです」
「うん」
進はうなずいて、
「めしは鱈腹喰わせたろうな? いつもの調子を、説明会でやられたら目もあてられないからな」
「その点は大丈夫です。腹が張り裂けるほど与えました。もう、スープ一滴も入らないはずです」
「よし、そろそろ行くか、十分前だ」
いよいよ�出陣�である。人影もない廊下を進と三人の部下は渋谷を中央に挟んでエレベーターホールへ向かって歩いた。
十階、中宴会場�天満《てんま》の間�にはすでに百人近い関係者がつめかけていた。おおよその顔ぶれは進の馴染みのものだった。問題はその中に混じるほんの一握りの�見知らぬ顔�である。
人数そのものは少なかったが、この説明会の模様はOTVによって全国に放映される。進の体に武者震いが走った。やがて定刻となった。
「ここは大阪ロイヤルホテル十階、天満の間でございます。今日の『午後のひととき』は第三次電子工業の革命を為したといわれる、ポケットカラーテレビの発明者、日本のエジソン、渋谷夏雄氏をその発売説明会にお訪ねしました」
アナウンサーの柔かい導入の言葉と共に中継は始まった。台本通りの当たらずさわらずの会話が進められていく。
渋谷に口をきかせてはならない。しかし、放送が始まってみればそうもいっていられなかった。
できるかぎり、花岡や付添い人が何気ない様子で渋谷に代って答え、どうしても必要な最少限の言葉のみ渋谷に話させる。それすら薄氷を踏む思いであった。
俊一郎や進、それに事情を知っている弱電の幹部連は、渋谷が口を開く度に冷たい脂汗をかいた。
しかし、その日の渋谷は予想外にうまく振舞った。照明《ライト》をまともに浴びたせいもあったろうが例の痴呆的な虚な目も光を宿して輝き、第三者ならずとも、昔日の渋谷を見るおもいであった。アナウンサーに答える短い言葉も常人のものと全く変りない。
(癒ったのかな?)
思わず錯覚してしまうほど、その日の渋谷は見事な態度であった。
(この分なら、うまくいくかもしれない)
俊一郎も進も張りつめていた心が早くも楽観に向かって弛《ゆる》み始めた。
質問も買収したサクラからなれ合いのものばかりである。
何と驚いたことに、渋谷自身が進んで答えた問すらある。しかも正しい回答をである。
(これは本当に回復したのかもしれない)
進は信じ始めた。渋谷錯乱? の噂を敏感に掴み、疑惑の眼で出席していた強電側関係者も落ち着いた渋谷の態度に、大方の疑惑を捨てかけた。
潜りこんでいるにちがいないライバル社の手の者も沈黙している。テレビ放映中だけにへたな質問をして身許がバレたならば、赤恥をかくことになる。岩村が送りこんだ菱電の手の者も、切りこむ隙を見出せないでいた。
時間は容赦なく流れた。テレビ中継は間もなく終る。安易ムードになった。サクラは意を強くしてかなり高度の質問を重ねてきた。渋谷はそれらに立派に答えた。もはや、誰が見てもなれ合い万歳ではなかった。
(渋谷は回復したのだ!)
進は確信した。それにしても、実に際どい所で癒ってくれたものだ。やはり、技術者の根性というか、青春の追憶に訴えても癒らなかった彼の錯乱が、MLT—3を前にして苦もなく回復したのだ。
(俺はまちがっていた。奴を山へ伴うよりは研究室に閉じこめるべきだった)
進はこみ上げる喜悦をかみ殺しながらも、自分のうかつさに唇をかんだ。
渋谷が回復したとなれば至急にやらなければならぬ仕事があった。それは星川副社長らの解雇予告を至急取り消すことである。彼はその指令を下すために腹心の部下を目顔で呼んだ。
その時である。突然、渋谷が奇妙な動作を始めたのは。最初はその場に居合わせた者すべてが渋谷が何を為そうとしているのか分らなかった。
衆目の中で、しかも全国放映中のテレビカメラの前でおよそ考えられない動作であっただけに、人々はむしろ平然としてそれを見ていたのである。
彼らが愕然としたのは、渋谷がベルトを弛め、完全にズボンを脱ぎ捨てた時であった。
ダークトーンのフィンテックスの背広に上半身をかためた渋谷が、下半身だけ白いずぼん下をむき出しにした何とも珍妙な姿で、なおも奇妙な動作を続けている。あまりのことにアナウンサーも言葉を喪ってしまった。真空のような静寂の中でテレビカメラだけが無惨に廻っている。実況《ナマ》中継であるから、この珍事は何のごまかしもなく、全国の聴視者の眼の前に映し出された。
何と渋谷は下着すら脱ごうとしている。
ようやく驚愕から醒めた進が走り寄った。
「渋谷、何をするんだ!?」
「何って、糞《フン》が出たいんだ」
「フン?」
「クソだよ、もり[#「もり」に傍点]そうなんだ」
渋谷の瞳に先刻あったように見えた光はすでになかった。
死魚の目、今にも流れ出しそうな眼をしながら、渋谷はしきりに便意を訴えた。ようやく失笑が周囲に起きた。
「スイッチ、スイッチ!」
ディレクターがわめいた。照明が消えた。窓から自然光が急に白さを増して入ってきた。失笑は失笑を呼び、もはや、収拾のつかぬ混乱の渦の中に、
「狂ってる」
「渋谷夏雄は気ふれだ」
などと声高にわめく声が、ライバル社の手の者によるものであることはよく分ったが、どうすることもできなかった。
(やはり、渋谷は癒っていなかった)
進は唇を血の出るほどに噛みしめながら、今の混乱が一年半前、自らが作為してホテルナゴヤにおける星電研のMLT—3の公開実験を失敗に帰せしめた時の混乱と驚くほどに似通っていることを知った。
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老巨怪
菱井銀行は日本六大市中銀行の中でも預金量第二位を誇る巨大銀行である。戦後解体された旧菱井財閥の�財閥本社�の座に坐り、資本の結合を通して菱井|企業集団《コンツエルン》を不死鳥のようによみがえらせた、菱井系独占組織の頂点に位するものである。
弱肉強食の資本主義経済機構の中に逞しく生き残っていくためには、拡大再生産を通して資本の蓄積と集中を図らねばならない。
蓄積とは儲けを企業内に蓄えることであり、集中とは強い資本が弱い資本を吸収したり、あるいは合併したりして太っていくことである。
強い者が弱い者を栄養にして太っていく。喰えば喰うほど太り、強くなっていく。この弱肉強食の法則によって生き残った企業同士が、市場を独占して儲けを一人占めにするためにさらに激烈な喰い潰し競争を展開する。コストを少しでも下げてライバル打倒を図る。猫も杓子も銀行借入金を増大してコストダウンのための設備投資に注ぎこむ。絶え間ないコストダウン競争は、ますます企業の資本需要を高めていく。こうして、銀行資本の下に産業資本が結合して、資本主義の妖怪ともいうべき、資本結合的な企業系列《コンツエルン》ができ上がる。
日本の企業の他人資本への依存率はきわめて高い。自己資本比率の低い企業群を傘下におさめて系列の�首長�たる座を維持できるものは、強大な資本力を持った都市銀行だけである。
巨大都市銀行を中核にして形成されたコンツェルンは市場支配を目指して、他の巨大金融コンツェルンと猛烈にせり合う。それは巨怪と巨怪との争闘、大国同士の戦争である。
日本中の企業がその大小を問わず、金融、生産、販売の面で結合し、巨大銀行の手先となって戦わなければならない。それに抵抗する者はたちまち融資パイプを打ち切られ、容赦なく干される。これが仲間以外にはびた一文出さない独占の仕組みである。加えて、原材料の支払条件は酷しくされる。製品の支払いは遅れに遅れる。販売、技術の援助も断ち切られてしごきにしごかれる。刀折れ矢尽きたところでいとも簡単に併呑されてしまう。もはや、一匹狼の存在は許されなくなっているのである。
こうして組成された金融コンツェルンは、循環する資本をびた一文でも外部に流出させないために、その系列内にあとうかぎり多面にわたる業種の産業を抱えこもうとする。
商品を売るためには作らなければならない。作るためには原材料を購入しなければならない。
しかし、原材料のために支出する金すらでき得るならば外部に流したくない。外へ出すということはそれだけ敵に力をつけることを意味するからだ。
要するに、何から何まで�自給自足�できるような、資本の自己循環的な経済圏の確立を目指すのである。
しかし、こういう形の独占組織は単数ではない。他にも同じ過程を経て生き残り、強大化した独占組織がある。他の独占組織よりもより強大に太り、彼らを打ち負かすためには常にうま味のある産業を開発し、競争条件を優位に保っていかなければならない。
競争相手に比べて立ち遅れている部門があれば、あとうかぎり速かにこれを補完していかなければならない。立ち遅れはそのまま敗北につながる。
従来、菱井企業|群《グループ》には重電系の資本展開が遅れていた。
系列の首長たる菱井銀行としては一日も早く有力な一匹狼《アウトサイダー》を系列化して、このウイークポイントの修正をしなければならなかった。
菱銀の本社は日本橋室町一丁目の銀行街の中心にある。巨大な銀行ビルが軒を接して林立するこの地域は現代日本のビジネス中心地《センター》としての風格と、資本主義妖怪群の本拠としてふさわしい、いっさいの情緒的《エモーシヨナル》なものを排した一種の凄絶なばかりの非情性を漂わせている。
その中でも一際目立つ菱銀ビルは、無数の人間の膏血をたっぷりと吸いこんだような灰褐色の外壁にしん[#「しん」に傍点]と鎧われて、それ自身が一つの巨怪《モンスター》のように都心の空を画している。
彼らの組織の強大さを裏書きする如く、第×代日銀総裁はここから送り出されたのである。
こここそ日本の巨人として世界に名高い、菱井グループの総司令部であった。
日本の諸産業のあらゆる部門に四通八達する菱井という巨大なタコの足を一つの意志の下に統一する頭脳にあたる個所なのである。
この菱銀ビルの奥深い一室で先刻から二人の男が密談をしていた。一人は盛川達之介である。日頃、傲岸不遜な盛川がまるで奴僕のようにかしこまって恐る恐る話しかけているというよりは�奏上�している相手の男は、鶴のように痩せた高齢者で、頭髪から眉、口髭までが銀色であった。
彼は聞いているのか、いないのか分らない仏像的な無表情で盛川達之介の言葉を受けている。彼の瞳の微妙な動き、あるともなしの表情、デスクに置かれた指先の動きにすら細心の注意を払いつつ、盛川は、�奏上�を続ける。 |空 調《エアコンデイシヨン》 のおかげで室温は暑くも寒くもないはずなのに、盛川の額はびっしょりと汗をかいている。
盛川ほどの男をこれほど恐懼《きようく》させている彼こそ菱井銀行の頭取でもあり、全菱井系列の会長である菱井|鉦三郎《しようざぶろう》その人である。
盛川達之介が飼い犬のように這いつくばるのも無理はなかった。
菱井コンツェルンの中に生活のすべを求めている者がどれくらいの数にのぼるか? 直系の系列企業群から、その下請け、孫下請け、さらに販売代理店や問屋筋、社員、工員、職人、そしてその家族までも入れたら数百万人になろう。
これらの人々の生活の基盤を握る者が、彼らのはるか頭上にある巨大企業の首長達であり、さらにこれら権力の神々の生殺与奪権を一手に握った者が、この菱井鉦三郎なのであった。
いわば菱井という巨大独占組織の大神《おおみかみ》であり、それぞれが日本産業界の一方の旗頭として自他共に許される傘下企業の社長群も、彼からごく一部の権力を信託されているにすぎなかった。
一度、彼の�逆鱗�にふれんか、たちまち権力の神々の座から引きずりおろされる。それは盛川達之介といえど例外ではなかった。
「こうして、渋谷夏雄の白痴化は全国に知れ渡り、MLT—3の販売網は大打撃を受けたのです」
どうやら、盛川の奏上の内容はMLT—3の発売パーティにおける破壊工作のことらしい。
鉦三郎に一向反応が現われないので、盛川はなおも奏上を続けなければならなかった。
「狂人の開発した製品を買いたがらないのは人間当然の情です。しかし、星電研を系列化してまで開発したMLT—3が売れないとなれば、当然、社長の花岡俊一郎は責任を取らねばならなくなります。弱電出身の花岡が後退すれば、本来の強電が復活《リバイバル》することとなりましょう。そこで」
「それから先は言わずともよい」
沈黙を続けていた菱井鉦三郎が突然口を開いた。
「はっ」
と答えて、盛川がよく調教された犬のようにかしこまった。
菱井鉦三郎が口を開いた。低いが、不思議と胸にずしりとかかる声調である。彼に話しかけられて、呪縛《じゆばく》されたように面も上げられない社長もいる。
「強電部門は菱井の最も弱い所だった。
そこで儂が目をつけたのが、強電と弱電の対立意識が強い協和電機だった。同一社でありながら源平の盛衰のように主導権の奪い合いばかりしている。
ここ数年、重電のドル箱といえる電源開発の先細りや、大得意先の鉄鋼メーカーの設備抑制等にあって、弱電に天下を取られた形となっているが、強電部門としては一日も早く主導権を回復したいところだろう。
そこへもってきて、今度の花岡の擅断《せんだん》による星電研の系列化とMLT—3の失敗だ。製品そのものは素晴しくとも、売れなければ何にもならない。強電が息を吹き返すには絶好のチャンスだな。
花岡の社長就任と共に、景気悪化を理由に強電関係の設備投資は一切ストップをかけられていた。中には完成ま近い工場すらあった。この投資計画の大なたは、当時の変転めまぐるしい経済情勢に即応《マツチ》してかなりの効果をおさめたものの、強電にしてみれば怨み骨髄といったところだ。
中でも、これが完成すれば世界一の規模になるといわれる、豊中のタービン工場だ。強電にしてみれば是が非でも完成したい。
しかし、花岡が社長の座に在るかぎりはできない相談だ。まず、花岡を追い払い、タービン工場を完成させる。これが彼らの狙いだよ。だが、それには金が要る。それも百億に近い金がの。お前に花岡の破壊工作を進めさせる一方、強電の森、森口、森内のいわゆる三森常務に接近していたのはそんな下地があったからだよ、ふおっふおっ」
菱井鉦三郎は奇妙な笑い声をたてた。歯が一本残らず抜け落ちて、義歯も入れていないほこらのような口腔は、笑い声までこんなふうに変えてしまうらしい。
盛川は鉦三郎より初めて種明かしをされて目が覚めた思いであった。
所詮、自分には一社の社長としての視野しかなかった。鉦三郎より渋谷抹殺の指令を受けた時、目的は家電の市場シェア拡大とばかり思っていた。しかし、鉦三郎はやはり大神であった。渋谷を除くことにより、協電における強電勢力を強め、彼らが求めている設備投資資金を融資することにより、オール菱井の弱点である強電部門を融資系列に加えようとしている。
単に家電市場シェア拡大を目指して、渋谷抹殺を図った自分に比べて、何と天文学的ともいえるスケールをもった壮大な計画であり、視界であることか。
盛川達之介は、眼前の鉦三郎の老いさらばえた身体が、巨人のように自分の前に立ちはだかっているのを感じた。
「ともあれ、お前の役目は終った」
「は?」
盛川は目を上げかけて炯々《けいけい》たる鉦三郎の眼光がひた[#「ひた」に傍点]と自分に当てられているのを知って、慌ててまた、面を伏せた。
今の鉦三郎の言葉は自分の今度の働きを賞しているようにも受け取れるし、また、逆の意味にもとれる。それにしてもあの眼光の鋭さは!
盛川はおののきながらも、次の言葉を待つ以外になかった。
「つまりだ、お前も長いこと菱電の社長を勤めて疲れたろうから、このへんで休んでもらおうと思っとる」
「会長!」
あまりのことに盛川は後の言葉が続かなかった。寝耳に水とはこのことである。自分が一体何をしたというのか? 家電市場シェアの拡大に終始あい努め、菱電を業界でトップクラスにランクさせたのも自分が社長就任してからだ。菱井|系列《グループ》の中でも菱電を上位会社にのし上げたのもひとえに自分の働きであるといってもよい。この度のMLT—3にからむ渋谷抹殺も、指令は鉦三郎から受けたとはいえ、手を下したのは自分である。もし協電系列化が成功し、菱井コンツェルンのウイークポイントが是正されれば、自分は最大の功労者として、オール菱井から称えらるべきである。賞されればとて咎められる筋合はない。
「ふおっ、大分不満そうだの、だがの、よく胸に手を当てて考えてみい。お前は思い当たることがあるはずだ」
鉦三郎は瞳を細めた。痛いような視線が自分の伏せた面に注がれているのが盛川にはよく分った。
(もしかすると、彼はあのこと[#「あのこと」に傍点]を言っているのだろうか? いや、そんなはずはない。あのこと[#「あのこと」に傍点]によって自分は会社に一銭も損害を与えたわけではない。それどころか、かえって協電の打撃を大きくしたのだから……)
「どうだ、思い当たるところがあるだろ。それに対するお前の弁《エクス》 明《キユーズ》 も大方読めるわ。協電が星電研株を買い集めているところを対抗して買い煽り、値段を釣り上げられるだけ釣り上げたところで、そっくり肩替りさせる。
そうしておいてから、肝じんの渋谷をつぶせば協電の傷はますます大きくなるとな。
結果は確かにそうなった。しかし、あの時点ではお前は買い占め者が協電だとは知らなかったはずだ。異常な値上がりに買い手がただ者でないと悟ってちょうちんをつけたにすぎない。しかも社金を一時流用してな。お前はそれにより取得した一億二千万円の利ザヤを着服した。儂は金額の大小を言っておるのではない。菱井系列の中でも代表的な菱電の長たるお前のそんなさもしい根性が憎い。
お前の行為は立派な背任横領を構成する。
しかし、今までの働きに免じて表沙汰にすることだけは避けよう。事務引き継ぎは二月以内、三月一日をもって菱産ストアの参事を申しつける。後任は、次の社長会で発表する」
菱井鉦三郎の言葉に微塵の妥協も感じられなかった。
盛川には一瞬、周囲の空気が音をたてて凍りつき、その中に冷凍づけにされたように感じられた。
菱産ストアといえば全菱井系社員の共済会のようなもので、資本の自己循環を狙う一政策として系列内で生産された日用品や、食糧品を市価より安く社員に販売する機関であった。菱井企業群の中でも最下位にある子会社で、社員は専ら、グループの定年退職者や、公傷による身体障害者などによって占められていた。
菱電といえば系列内でも最優秀企業である。そこの長から、菱産ストアの、しかも参事とあっては実に馘首に等しい左遷であった。
幹事証券の腹心を使い、あれほど秘密裡にやったことがどうしてバレたか? おそらく、菱井鉦三郎が秘かに雇っていると伝えられる秘密商務工作員が調べ上げたものにちがいない。
徳川幕府がお庭番と称する忍者より成る秘密警察を使って、大名連の動向を探っていたように、鉦三郎も厖大なグループの首長として、各企業群の長の動きを把握するために秘密警察を養っていたのである。
盛川はその怖しさを思い知らされた。結局社長とか代表取締役などの肩書が冠せられていても、グループの帝王たる鉦三郎に体の動きの隅々まで監視されて、彼の意のままに動かされる傀儡《かいらい》にすぎないのだ。
ひとたび、帝王の逆鱗にふれて権力の座を追われるならば、もはや、ふたたび陽の当たる場所に戻ることはできない。徒らに旧きよき日の栄光と現在の屈辱を背負って、暗所にひっそりと死骸のような身を横たえていなければならない。
しかし、自分の不正は秘密警察より逐一報告されていたはずにもかかわらず、何故、もっと早く摘発しなかったのであろう?
(そうだ、自分の不正にも利用価値はあったのだ。少しでも高値で星電株を協電に肩替りさせ、しかる後、渋谷を除去すれば、それだけ花岡の代表する協電弱電部門の打撃は大きい。ひいては協電系列化を容易にする。つまり、俺の不正も協電系列化に役立っていたわけだ。不正でも効用があるかぎり利用しぬき、ことが落着した後に、それをいいがかりにつぶす。きっと菱井鉦三郎は�お庭番�の報告をふおっふおっと笑って聞きながら、俺の�不正の効用�が終るのをじっくりと待っていたのにちがいない)
盛川達之介は打ちのめされて会長室を出た。
駐車係が、
「菱井電業盛川社長の運転手さん、お車を本館正面玄関前におつけ下さい」
とパーキングロットに向かってアナウンスするのさえ、自分を愚弄しているように感じられた。
(俺はもう社長ではないのだ)
盛川は尾部をピンと張った社長専用のクライスラーニューヨーカーのリアシートに乗りこみながら、この車もこれが乗りおさめになるかもしれないと悲しくうなずいたのであった。
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虚《うつろ》な花嫁
岩村元信は盛川達之介の帰りを待ちかねていた。午前中に菱井銀行本店へ出かけたまま帰社予定時間が過ぎても一向に帰って来た気配がなかった。
彼が帰社すると同時に、秘書の竹内悦代が連絡してくれる手はずになっている。彼は自分を名指しの顧客筋の来客にも居留守を使ってデスクに居続けた。
しかし、一向に悦代からの連絡は入らない。
岩村が次第に苛立ってきた。今日は何がなんでも達之介に会わなければならない。会って例の噂の真偽のほどを確かめてやるのだ。
自分が命を賭けての�破壊工作�に首尾よく成功してから、�恩償の沙汰�を今日か明日かと首を長くして待っているにもかかわらず、何の音沙汰もないばかりか、二、三日前、盛川美奈子がグループ内の菱井自動車の重役の息子と婚約したという噂が、岩村の耳に入ったのである。
そんな馬鹿なはずはない。美奈子は自分への恩償として達之介が確約したのだ。とにかく、達之介に会って確かめるのが一番手取早いと思って、再三社長室の様子をうかがっているのだが、ここ二、三日、達之介はことのほか忙しく外出がちで、なかなか、会見のチャンスをつかめない。
遂に今日、午後三時から在室という情報を悦代から掴んで、朝からじりじりしながら待っていたのである。
悦代から連絡が入ったのはそろそろ退社時間の近い四時半頃であった。オペレーターに盗聴されるのを惧《おそ》れて、彼らは常に直通電話を使って連絡し合う。
ようやく鳴ったデスクの上の課長代理専用の黒塗りの直通を取った岩村の耳に、圧し殺した悦代の声が、
「帰って来たわよ、大分低気圧らしいから今日は見合わせた方がいいんじゃないかしら?」
と言った。
「低気圧? どうしてだ?」
周囲の耳を惧れて同じように声を殺した岩村に、
「知らないわ、そんなこと。何か菱銀であったらしいわ。とにかく、気をつけなさいね」
と電話は一方的に切られた。
どうやら、コンディションは良くなさそうである。岩村は送受器を握りしめたまま、どうしたものかしばらく迷っていたが、やがて思い切り良く席を立ち上がった。
低気圧だろうが、高気圧だろうが、こんな生殺しの状態のまま放置されるのは耐えられない。
会って達之介の口からはっきりと決着をつけられるまでは夜も眠れない。宙ぶらりんの状態より、|すべてか《オール・》、|または無《オア・ナツシング》の方がおよそ、さっぱりするというものである。
秘書室を通すと、今、会えないというニベもない返事だった。
岩村は無断で強引に入った。達之介はマホガニーデスクに頬づえを突いて放心したようにしていた。岩村が入って行っても気がつかない様子である。精力的な達之介を見慣れていた岩村はかえってとまどった。
「社長!」
三回声をかけて達之介はやっと気がついたように、岩村に視線を向けた。
「何だ、お前か」
「どうなさったのですか? ひどくお顔色がすぐれないようですが」
「いや、別に何でもない、少し疲れただけだ。それよりお前、誰の許しを受けて入って来た?」
達之介は目を光らせた。誰にも見せてはならないはずの自分の無防備の姿を、岩村に見られたのが癪に障ってきたのである。
「ちょっとおうかがいしたいことがございまして」
「後にしろ、儂は今、忙しいのだ」
「お手間は取らせませんから」
「後にしろと言っておる」
「実はお嬢さんのことですが、菱井自動車の重役の令息と婚約整ったという噂を聞いたのですが」
岩村は強引に質《たず》ねた。この機を逃してはチャンスはない。破壊工作作戦でここ数回、達之介と直接の接触を持ったが、本来ならば二人の間には幾重もの職階が横たわり、岩村如きは達之介の顔も拝めぬ存在となる。
まがりなりにも、こうして直接会えるのも渋谷抹殺という非常事態が起きたからだ。平常に戻れば、また、雲の上と下との無数の職階に隔てられた二人となる。まして、異常時は今、平常に復しつつある。
岩村は必死にならざるを得なかった。
彼にとって達之介のいう�後�はないかもしれなかったのである。
「そんなこと何処から聞いてきたのだ?」
達之介はようやく向き直った。
「もっぱらの噂なのです」
「噂か、ふうむ」
「社長、お聞かせ下さい。それは本当なんでしょうか? それとも根も葉もないことと聞き流していてよろしいのでしょうか? 社長!」
「うるさいな。儂は今、それどころではないのだ」
達之介は本当に苛立ってきた。実際、それどころではなかった。後継者が誰であるにせよ、二月末までに引き継ぎ事務を完了せねばならない。個人的にもやりかけの仕事が大分あった。後継者には知られたくない、引き継ぎ前に是が非でも片付けておかねばならない業務もある。
しかも、期限はあますところ、二十日間足らず、それは相当な重労働になるはずであった。渋谷抹殺のために投げた一つの餌ではあっても、よりによってこの最悪の時期にその履行を迫ってくる岩村に、盛川は憎悪すら覚えるのであった。
まして、今の盛川にとって岩村の働きなど何の役にもたっていない。菱電を追われた身に、MLT—3破壊工作が何になろう。
「帰ってくれ、帰れ」
盛川は遂に怒鳴りだした。
「社長、教えて下さい、事実を。私は渋谷抹殺に命を張りました。それぐらい知る権利はあります」
「そんなに知りたいか?」
盛川は面倒くさくなった。もう、どうなってもかまわんではないか、どうせ、俺は権力の座を追われた哀れな飼い犬なのだ。
「本当だよ、噂は事実だ。結納も滞りなくすみ、式の日取りまで決まっている」
惧れていたことを何のまやかしもなく、本人から聞いて、岩村はカーペットの上に坐りこんでしまった。
「社長、あ、あ」
あんまりだと言おうとしているのだが、声にならない。
岩村のようにさして取柄もなく、けなみも良くない人間が権力を得るためには、純血《サラブレツド》と結合する以外にない。盛川美奈子は岩村に権力と栄光の甘き汁をもたらすべき�銀の匙�であった。
それ故にこそ、自分は美奈子を得るために悪魔に魂を売ったのだ。
青春の友を裏切り、精神の最も貴重な部分までをも売り渡したのも、この報酬があったればこそである。それがこうもはっきりと、かくも無惨にただ一言で反古にされようとは。
それでは自分の今までの人生は一体何のためにあったのか?
岩村はピラミッドの頂を眼前にしながら、ステップを誤り、蒼い奈落へ向かって際限もなく落ちていく自分を感じた。
「岩村さん、何ということを! 社長がお怒りです。さ、早く出ていって下さい」
気がついた時、岩村はボディガード兼用秘書に社長室から小突き出されていた。
(ちくしょう!)
という心の底からの罵言も、長年のサラリーマンの哀しい習性でのどの奥に呑みこまなければならなかった。
翌日、盛川達之介は菱井自動車の重役から電話で一方的に縁談の解消を申し入れられた。達之介は一言も抗弁しなかった。
「理由は申し上げずともお分りでしょう」
と先方は言った。
もともと、政略の結婚が達之介の失脚によって、政略の意味がなくなれば破れるのがむしろ当然の成り行きであった。
電話が切られてからしばらく考えこんでいた達之介は、ブザーを押して秘書に岩村を呼べと命じた。
昨日の今日なので、何事かと表情をこわばらせてやって来た岩村は、達之介から思いもかけぬことを告げられて、しばらくは自分の耳を信じられぬ様子であった。
達之介は美奈子を岩村にくれるというのだ。
「お嬢さんを私に! また、どうして急に?」
岩村は吃り吃り言った。あまりの喜悦で言葉がうまく出てこない。
「考えが変ったのさ。愛し合っている者同士を一緒にさせるのが本人を最も幸福にする道であるし、また、それが親の義務だと気がついたのだよ」
達之介は久しぶりに好々爺の笑いを見せた。もはや自分は陽の当たる場所に返り咲くことはないだろう。ならば、これほど欲しがっている岩村に美奈子を与えるべきではあるまいか。
こうなった以上、誰にやっても同じことだ。まして岩村には美奈子も好意以上のものを示している。
「もらってくれるな」
「は、はい、喜んで」
「よし、決まった以上は早い方がよい。式は今週中だ」
「今週中!」
いくら何でも早過ぎるのではないか。岩村にしても故郷《くに》の両親や縁者を呼び寄せる都合がある。