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吉行淳之介
美少女
薬
繁華街の一角にあるビルの一室が、レストラン「雅《が》」になっている。マダムの大場雅子の名前をとって、その店名ができた。テーブルが四つだけの狭い店だが、壁には六十号ほどのシャガールが掛けられてある。無造作に掛けられてあるので、模写の品物かと疑われるが、これが本物である。
本物と分ると、この店はマダムの道楽商売のような気がしてくる。
五月の日暮れどき、窓ぎわの席に坐って、食後の紅茶を飲んでいる男がいた。その男と向い合わせの椅子に腰をおろした大場雅子は、
「シロタさん、お料理いかがでした」
相手の顔をのぞき込む仕種《しぐさ》をした。常連の客に愛想をいうのとは、もうすこし親密な素振りである。それに身のこなし自体が職業的でなく、しろうと風のぎこちなさがあって、それが含羞《はにかみ》のようにみえることがある。三十二、三歳というところか。彼女と同じ年頃の城田祐一は、
「結構でした。オックス・テールが、上出来だった」
「それは、よろしかったですわ。わたし、ここで、紅茶のおつき合いをさせていただくわ」
そういう言葉づかいが、不意に崩れて、
「なんだか朝から頭が重くて……」
片方のこめかみを指先でおさえ、憂い顔になった。技巧的な感じではなく、顔に靄《もや》がかかったような、齢に似合わぬういういしさがあった。
「どこか、躯《からだ》の加減でも……」
「べつに、どこといって」
「退屈しはじめたかな」
城田は窺《うかが》うように、相手を眺め、ポケットを探ると小さなガラス瓶《びん》を取り出した。蓋を開き、黄色い錠剤を二粒、掌の上に載せた。その掌を大場雅子の前に差し出し、斜めに傾ける。掌からすべり落ちる二粒の薬を、彼女の掌が受けた。
「ともかく、これを嚥《の》んだらいい」
そう言いながら、彼は自分の前の水のコップを差し出し、
「この水、まだ口をつけていないから」
雅子は薬を口に入れ、コップの水を含む。咽喉《のど》の筋肉がわずかに上下に動き、二粒の錠剤は胃の腑《ふ》に落ちて行く。ほとんど無意識の動作のように、彼女は薬を嚥んだ。
城田は正面から彼女の顔を眺め、真面目な声で言った。
「その薬、嚥んでしまいましたね」
「あら」
「どういう薬か、たしかめないで、嚥んでしまった」
「どんな薬だったの」
「たいへんな薬だ」
大場雅子は、片手をあげて揃《そろ》えた四本の指を咽喉に当て、眼を大きく見開いてみせた。いくぶんの不安はあるが、芯《しん》から驚いているわけではない。
「もし毒だったら、どうする」
「城田さんに毒を嚥まされるなんて、そんな仲じゃないもの」
「他人の心は分りませんよ。自分勝手にきめていると、とんだことになる」
「信用しているもの。だから、そのまま嚥んだのだわ」
「薬を渡した相手が誰でも、素直に、疑わないでそのまま嚥んでしまうようなところがあるな。そこが、あなたの魅力でもあるが」
「それで、どんな薬だったの」
「死にはしません」
「大袈裟《おおげさ》ね」
「しかし、たいへんな薬だということには、間違いない」
そう言いながら、彼も掌の上に二粒の薬をころがして、それを口に入れた。
「城田さんも嚥んだのね、安心したわ」
雅子は燻《くす》ぶっているような笑いを、眼と唇に浮かべ、
「悪趣味な薬かとおもったわ」
「悪趣味な薬?」
「あるじゃないの、いたずら玩具《おもちや》に似たもので」
「そうか、ひどい下痢をするとか」
「いやあね、下痢なんて」
「それじゃ、おならが出て、とまらなくなるとか」
「そんな……」
「しかし、分りませんよ。そういう薬をあなたに嚥ませ、ぼくも嚥んだのかもしれない。一緒におならが出はじめる。とまらなくなる。おならの合唱だ。そうしているうちに、気持が通じはじめる。愛し合うようになる……」
大場雅子は、俯《うつむ》いて笑いをこらえている恰好だったが、やがて顔を上げると、
「ずいぶん、面白がらせてくれるのね」
と言った。
城田祐一は、むしろ真面目に、
「ぼくの役目は、あなたの快楽コンサルタントですからね」
「ありがとう」
「お礼を言われるのは、まだ早い。快楽というのは、これはこれで、奥が深いものですからね。あなたには、初心《うぶ》なところがあるのでね、まだ入口のあたりをご案内しているわけだ。だから、先のたのしみが長いというものです」
「わたしのような女は、便利でしょうね。面白がらせるのに、ほんのちょっとした材料があればいいもの。なんでもない栄養剤でも、十分な種になりますものね」
そう言う雅子にたいして、城田祐一は唇のまわりにだけ笑いを浮かべて、
「あれは栄養剤ではない、もっと、べつの、大変な薬ですよ」
「どんな具合に、たいへんなの」
「いまに分る」
それだけ言うと、彼は窓の外に眼を向けた。この二階のレストランの窓からは、両側に並木の植わっている道を歩く人々の姿が、はっきり眼に映ってくる。女たちは初夏の軽装で、舗道をハイヒールの細い踵《かかと》の打つ音が聞えてくる気がする。
「こうやってちょっと眺めている間でも、きれいな若い女の子が何人も歩いているわね」
城田にならって、窓の外を眺めていた雅子が言う。
「たしかに、いまの若い女は、自分の特徴を上手に飾ることを知っているな。だから、おやとおもう女はいくらでも見付けることができる」
「だけど、素晴しい美人というのには、滅多に出会わないわね」
「素晴しい美人か」
気乗りのしない語調で城田が言い、雅子は、
「あら、気のない声ね」
「うん」
「最初から縁がないとあきらめているの?」
「それもありますがね。物凄《ものすご》い不美人というのが出来そこないの感じを与えるのと同じように、素晴しい美人というものは、これもどうも出来そこないのような気がするんだ」
なにか言いかけた雅子は、不意に眼を光らせて、
「あら、向うの歩道に……」
城田の注意を促した。
丁度、一人の少女が向う側の歩道から車道に一歩踏み込み、普通の足取りで斜めに横断しはじめたところだった。眼の大きい、鼻の先が軽くつまんだように上を向いている派手な顔だちである。
「きれいな娘《こ》ね」
と、大場雅子は、その少女の動きを眼で追いながら言った。
「でも、日本人にしてはすこし……」
「日本人にしては、いささか外国人みたいだ。つまり、混血児《あいのこ》というわけですね」
「きれいな娘ね」
もう一度、雅子がそう言ったとき、
「そうでしょう」
と、城田祐一が言った。
「そうでしょう、って、まるで自分の持ちものを自慢しているみたいじゃなくって」
「持ちもの、というわけじゃないが」
「あら、それじゃ、知っている娘なの」
「いま、ここに来る筈です」
たしかに、その少女の脚は、レストラン「雅」の入口へ向って動いているようだ。雅子は半信半疑の眼を城田に向け、
「ほんとかしら。それにしても、あんな綺麗《きれい》な娘なのに、誰も振り向かないわ」
「素晴しい美人、というわけじゃないから」
「そうね。チャーミングといったほうが、当っているわ」
「それに、人が振り向かないのには、理由がある」
「どんな理由」
「振り向かないように、ぼくがおまじないをしておいた」
「また、そんな出鱈目《でたらめ》……」
雅子が軽く睨《にら》んだとき、その少女の姿が「雅」の入口をくぐった。
その少女が城田たちのテーブルに近づいたとき、彼は身振りだけで、自分の隣の椅子を示した。細い躯だが、胸と腰が大きく張っているのが分る。
少女が、その椅子に坐る。
「ほんとだったのね」
そういう雅子の眼を見ながら、
「三津子、というんです」
と城田は紹介し、相変らず雅子だけを見ながら、
「付《つ》け睫毛《まつげ》みたいだが、自分の睫毛なんだ」
三津子という少女は、黙って雅子に会釈すると、
「あたし、遅れたかしら」
「きっかり、約束の時刻どおりだったよ」
「お食事まだなんでしょう」
雅子が口を挿《はさ》むと、
「いいんですよ。デザートだけの約束なんだから」
替りに、城田が答え、
「なににする、プディングと紅茶といったところか」
と、雅子の顔を見ながら言う。
「わたしの方を見てそんなことを言わないで、三津子さんに訊《たず》ねてごらんなさいよ」
「ぼくが、隣の方を見ないのには、理由がある」
「なんでも理由があるのね、どんな理由なの」
「気違いだとおもわれたくない」
「気違い? それ、どういうわけ」
雅子はいささか呆《あき》れたように、城田の顔を見た。そして、ふと気付いたように、
「うちのボーイさん、どうしたのかしら。新しいお客さんがみえているのに、註文《ちゆうもん》を取りにこないわ」
大場雅子はかるく手を上げ、指を動かしてボーイの注意を促した。そういう仕種が優雅にみえる女である。
白服のウェイターが、大場雅子の椅子の傍《そば》に立った。
「こちらのご註文をうかがって頂戴。紅茶とそれから……」
「は?」
ウェイターは、怪訝《けげん》な顔を城田に向け、
「紅茶のおかわりでございますか」
大場雅子はたまりかねたように、平素に似合わない強い口調で、
「ぼんやりしちゃ駄目よ。城田さんのおとなりのかたの註文をうかがうのよ」
「は?」
ウェイターは、怪しむ表情を濃くして、
「おとなりのかた、とおっしゃっても、どなたもいらっしゃいませんが」
「なんですって?」
雅子は、三津子を確かめるように眺め、そしてウェイターの顔を見た。そのとき、城田が口を挿《はさ》んだ。
「このボーイさんが悪いわけじゃない。見えないのは無理もない。君、ぼくのこのとなりには、椅子が一つあるだけだろう」
「はい、そうです」
ウェイターは、真顔でうなずく。
「いったい、どういうわけ」
大場雅子は、曖昧《あいまい》な顔になっている。
「いま、三津子は透明人間になっているのですよ。だから見えないのは、無理もない」
「でも、わたくしたちには、見えているじゃありませんか」
「それは、さっき嚥んだ薬のせいですよ。だから、たいへんな薬だ、と言ったではありませんか」
「ほんとに、たいへんな薬ね」
雅子は城田をかるく睨み、ウェイターに向って言った。
「ここに、きれいなお嬢さんが坐っているのよ。ほんとうに、見えないの」
「はい、見えません」
「そう、見えなくても、紅茶とプディングを召し上るそうだから、持ってきて頂戴」
「かしこまりました」
ウェイターは一礼して、去って行く。その背中をしばらく見送っていた大場雅子は、城田のほうに向き直ると、
「城田さん、あなたの今度のテレビのお仕事には、透明人間が出てくるのね」
「そういうわけでも……」
彼は曖昧な返事をする。城田祐一は、テレビ・ドラマの作家であるが、コマーシャル・ソングを書いたりディスク・ジョッキーのつなぎの文章を書いたりもしている。
「なかなか凝ったお芝居だったわね。うちのボーイさんを買収したりして」
「買収だなんて、信じないのかなあ」
丁度、ウェイターが、紅茶と菓子を運んできた。三津子が坐っている前の空間を、探るような覚束《おぼつか》ない手つきで、茶碗と皿を並べている。
「まだ、何も見えないの」
雅子が念を押すように言うが、ウェイターは、
「見えません」
と、生真面目な声で返事をするだけである。雅子は、ウェイターに言い付けた。
「ちょっと、余志子を呼んできて頂戴」
余志子というのは、レジスターに坐っている少女である。色が白く、ぽってりと肥って、いつもねむそうな腫《は》れぼったい眼をしている少女で、大場雅子のお気に入りである。腹心の部下、といってもよい。ウェイターが去ったとき、城田が、
「そろそろ薬が切れてきたな」
「ええ、切れてきたわ」
鸚鵡《おうむ》がえしに、三津子が言う。
「なんの薬、わたしたちの? そうしたら、わたしたちにも見えなくなるわね」
雅子が言う。
「いや、三津子に嚥ませた薬ですよ。だから、そろそろ姿が見えはじめることになる」
三津子は、黙って、紅茶茶碗を持ち上げて、口に運んでいる。
余志子が近寄ってきた。
「余志ちゃん、いま、城田さんのとなりで、紅茶のお茶碗だけ宙に浮いているかしら」
「え? 宙に浮くって……、女のかたがお茶を飲んでいらっしゃいますわ。だから、お茶碗は、テーブルから離れていますけど」
そのとき、城田と雅子が、同時に言った。
「それじゃ、薬が切れたんだ」
「嘘つきね」
城田は、雅子の眼を見ながら、
「最初から、嘘だとおもっていたんでしょう。しかし、このことだけはよく覚えていてくださいよ。つまり、ぼくたちが薬を飲んだ。そうしたら、三津子さんの姿が見えた。しかし、薬を嚥まない人間には彼女の姿が見えなかった時間があった、ということ。それは、たぶん嘘だろう、しかし、もしかすると本当かもしれない……。この、もしかすると、という気持を捨てないでほしいな」
地下室
レストラン「雅」を出た三津子は、城田祐一と並んで歩きながら、
「あれで、あたしの役目は済んだの?」
「そうだ」
「あのマダム、あたしのことを透明人間だとおもったかしら」
「まさか。そんなものが世の中にいるわけがないもの」
「それなら、なぜあんなに手数をかけて、あたしのことを透明人間に仕立てたの?」
「ぼくの頭の中にある筋書きの最初の部分に、そのことが必要だったんだ。まだ幕は上ったばかりだよ、いまに分ってくるさ」
そのとき、向うから歩いてきた若い男の肩が、三津子の体に突き当った。よろめく三津子をちらりと振り返っただけで、その男は急ぎ足で行ってしまった。
三津子は立ち止まると、曖昧な顔で城田を見上げ、
「こうやって、あたしがここに立っているのが、見えている?」
「もちろん見えているが、どうして……」
「だって、いま、あんな具合にぶつかられたでしょう。あたし本物の透明人間になってしまったのじゃないかって、心配になったのよ」
「そういえば……」
城田は眼を細く開いて、三津子の姿を眺め、
「きみの躯の輪郭がおぼろげになってきたぞ」
そう言いながら、両手を前へ突き出し、空間を探る手つきで、三津子の胴を両側から挟《はさ》みこむように掴《つか》んだ。
「なにも見えなくなったぞ。ここはウェストかな」
細くくびれた胴を挟みこんだ二つの掌を動かして、乳房の輪郭をさかさに撫《な》で上げる。
「厭《いや》ねえ」
三津子は笑いながら、ぴしりと城田の手の甲を打ち、さっさと歩き出した。城田はいそいで彼女に追いつき、並んで歩く。
三津子は、屈託のない足取りで歩いて行く。道の傍に軒をつらねている商店の飾窓には、いろいろの品物が並んでいるが、彼女はまったく関心を示さない。
「どこへ行くつもり?」
と、三津子が訊ねた。
「きみは?」
「あたし、べつにアテがないの」
「へえ?」
「どうしたの」
「きみは忙しい女の子だから、すぐどこかへ行ってしまうだろうとおもっていたんだ。でも、予定がないのだとしたら、話が違ってくる」
「あたしが、どこかへ行ってしまっていたら、城田さん、どこへ行くつもりだったの」
そして、城田の返事は待たず、すぐ付け加えた。
「今日の城田さんには、さっきのレストランでの時間が一番大切だったのね。それ以外の時間の使い方なんか、考えてはいなかったのでしょう」
「なかなか鋭いね」
城田祐一は苦笑しながら、それでも年上の男の余裕をみせている。
「好きなの? あのマダムのこと」
「気にかかる女というわけだ」
「つまり、好きなのよ」
「エレガントという言葉があのマダムに似合うところが気にくわない。すこし、揺すぶってやりたいんだ」
「そういう気持をもつというのは、好きなのよ」
「そういうことになるか」
そう返事した城田は、ふと立ち止まって、まじまじと三津子の顔を見た。
「どうしたの」
「ずいぶん一人前の口をきくとおもってね。話をしているのがきみだということを、忘れるところだった」
「あたし、一人前じゃないというの」
「いや、十分に一人前だが」
城田は、わざと視線を露骨にして、三津子の躯の輪郭を撫でた。
「厭な眼。あたしがここでいなくなったら、どこへ行くつもり」
もう一度、三津子が訊ねた。
「そうだな、酒場でも覗《のぞ》いてみることになるか」
「あたしも連れて行って」
「きみが一緒ということになると、話は別になる」
「どうして」
「女の子を連れて、女の子がいっぱいいるところへ行くのも、気のきかない話だ」
「いいじゃないの、連れて行ってよ」
「仕方がない」
地下室につづく狭い階段を、城田と三津子は前後して降りて行く。その地下室が、酒場「紅《べに》」になっている。
カウンターの隅の椅子に、城田と三津子は坐った。椅子をまわすと、その位置から店の中が見渡せる。
「きれいなひとが沢山いるのね」
と、三津子が言う。
たしかに、この店には美女が揃っている。それに、若い女が多い。丁度レストラン「雅」ほどのスペースの店で、そういう狭い店の割に、ホステスの数が多い。こぼれるほど花を盛った小さな花籠のような印象を、店全体が与えている。
その美女たちは、一向に城田の席に近寄ってこない。
「城田さんも透明人間になってしまったのかしら」
と、三津子が言う。
「なぜ」
「だって、女のひとが誰も傍に来ないじゃないの。見えているなら、サービスに来るわけでしょう」
「女づれだから、遠慮しているんだよ」
と、彼はバーテンに飲物を註文した。
運ばれてきたジン・フィーズのグラスの縁を噛《か》むように唇を当てたまま、三津子はあらためて店の中を見まわしている。その視線をなぞるように、城田も店の女の一人一人に眼を向けて行く。
杏《あんず》の種のような形の大きな眼をつけた、大柄な女がいる。眼尻を釣り上げた濃い化粧をしているので、まるで眼が縦についているようだ。凄味のある美人だが、気性はさっぱりしていて陽気である。いつか店が終ったあとで鮨屋《すしや》へ誘ったら、ヒヤ酒をコップで幾杯も飲んで、げらげら笑って止まらなくなった。
「しかし、あの女とはまだ寝たことがない」
と城田は考えて、次の女に眼を移す。
ふくらみかかった花の蕾《つぼみ》のような唇をした女がいる。透きとおるほど青白い肌で、眼は黒目ばかりのようにみえる。顎《あご》のとがった細おもてなのだが、日によって、その顔の輪郭がいくぶん締まりのないようにみえることがある。デリケートな顔なので、僅かなことで美にもなり醜にもなる。今日は、細いきれいな顔をしている。それに、引き締まった胴から形よくふくらんだ腰の線。おいしそうな小柄な女……。
「あたしのは、針の孔《あな》よ」
と、あるときその女が言った。
「糸を通すのは、むつかしいか」
「そう、むつかしいわ」
「しかし、針の孔に糸を通したのでは、不満足なのだろう」
「ふふふ」
「針の孔に棒を通すのだから、これはますますむつかしい」
その葉子という女とは、危険な会話は何度となく取りかわしているが、しかしまだ寝たことはない。
焦茶色の顔をした女がいる。由美という女である。ドーラン化粧かとおもうが、よく見ると素肌である。化粧はアイシャドウと口紅だけだ。オリーブを塗りこんで、太陽で焦した肌らしい。五月の日光はまだそんなに強くない筈なのだが……。現代風の美人というテーマで写実の絵をかけば、こういう具合になる、といった顔立ちをしている。表情の移りかわりも素早くて、きびきびしているが、時折、唇も顔の筋肉も弛《ゆる》んだだらしない表情をしていることがある。
「おい、一度やろうか」
「うん、やろう」
時折、そんな会話を取りかわすことがあるが、まだ寝たことはない。
大きな眼を見開いているが、その眼の焦点を捉《とら》えにくい女がいる。斜視と分らぬ程度のかるい斜視である。白眼の部分が、薄い水色にみえ、それが綺麗だ。顔全体に、薄く汚れたような翳《かげ》があって、それがひどく官能的である。一度寝てみたい、とおもっているが、まだ寝たことはない。
顎のしゃくれた小さい顔をした、小柄な女がいる。眼が素早く動き、ときどき狡《ずる》そうな光を放つ。受唇《うけくち》で、笑ったあと、しばらく口にだけ笑いが残る。閉じ忘れた口に、赤い舌の先がしばらく見えているような錯覚を起させる。
その理加という女が、いま城田の近くのテーブルについている。短く切りそろえた髪の毛を揺すりながら、活溌《かつぱつ》に傍の客と話をしている。そういう会話の合間に、ふと空白な時間がきたようだ。唇をかるく開き、眼は放心したように宙に浮かんでいる。冴《さ》えない褐色の皮膚が目立った。
不意に、城田祐一は、そういう女の顔をひどく身近かに感じた。他人ではない女の顔、以前長い間一緒に暮したことのある女の顔、そのような顔としていま彼の眼に映っている。……しかし、彼はまだその女と寝たことはない。
そして、傍の三津子とも、もちろん躯の関係はない。
「これは、どういうことか」
新しい発見でもしたように、彼は自分に問いかけた。長い間、大場雅子のことでいっぱいだった、とでも言うのか。その答えに、彼は半ば頷《うなず》く。
それでは、大場雅子にたいして、如何《いか》にありたいのか。大場雅子の恋人になりたいのか、あるいは……、彼女が未亡人であり、城田祐一が独身者であるからには、結婚も成り立つ。
いやいや、彼は首を横に振る。そんなことではない、もっと別の、もっと複雑な関係を持つことを、自分は大場雅子に望んでいるのだ、と城田は自問自答している。
「あら城田さん、いらっしゃい」
マダムの圭子が、挨拶しながら傍の椅子に坐り、
「きれいなお嬢さんね、どこのかた?」
視線を三津子に当てる。品定めするような、職業的な眼つきになっている。
「どこのかた、って、日本のかただよ」
城田は、わざとマダムの質問を斜めに受け止めた。
「それは分ってますわ」
「しかし、アメリカのかたかもしれないよ」
「だって、お顔を見れば分りますわ。それは、いくぶん外国風のところがあるけど、そこがとっても魅力的だわ」
「しかし、まるっきり日本人の顔していたって、国籍はアメリカという人だっているよ」
「ずいぶん、さからうのね、城田さん」
「そうさ、マダム。どこのかた、という質問が気にくわない。このひとが、水商売の女の子じゃないことくらい、分るだろう」
たしかに、水商売の女性には、どこか共通した雰囲気《ふんいき》がある。同じ美少女でも、三津子の美しさと、この店の女たちの美しさとは、異質なものである。
「そうね、あたしが悪かったわ、どういうかた、とお訊ねしなくちゃね」
「それでいいんだ。ところが、さて、そう訊ねられると、今度は返事がむつかしいね。以前に、ぼくの書いたテレビ・ドラマに顔を出したので知り合ったわけだが。といって、テレビ・タレントというのでもないな。なにしろ、せりふも動きもない役でね、文字どおり顔を出したわけだ。ま、しいていえば、不良少女といったところか」
「あなた、そういう説明でいいの」
マダムが三津子の顔を見て言うと、
「そんなところね」
と、彼女はけろりとして答えた。
「ところで城田さん、さっき乗ってきたタクシーの運転手さんから、面白い話を聞いたわ。なにかの役に立つかもしれないから、教えてあげるわね」
平素は、挨拶して二、三言葉をかわすと、すぐ他の席に移ることを繰り返して、同じ席に長くとどまらないのがマダムの流儀なのだが、珍しく腰を落ち着けて話しはじめた。
「その運転手さんが、女のひとを二人乗せたのよ。そして、間もなく、そのひとたちが女ではないことに気付いたんですって」
「つまり、女装の男を二人乗せた、というわけだね」
「そうなの、それで、客席でその二人が話をしているのを聞いていたら、一人がモチ米を貰った、といっているんですって」
「…………」
「モチ米を貰ったから、お赤飯を炊こうとおもう……」
「所帯染みたところがいいな。それはきっと、着物をきているな。洋服を着た、ブルー・ボーイなんていうのではないね」
「そうなのよ、そのとおりなの。それからがオカしいの。その一人が、もう一人に言っているの。お赤飯炊くんだから、あんたおかま貸してよ。おかまっていったって、本当のおかまよ、と言うんですって」
「なるほど、それはいいな。笑いながら、そう言っているのだろうか」
「それが、まじめな声でね、ぜんぜん笑わない、という話よ」
「ますます、よろしい」
城田は笑いながら、あらためて店の中を見まわすと、
「この店には、いろんなタイプの美女がいるが、女装の美人というのは、いないのだろうね」
「それは、いませんわよ」
「しかし、分らないぜ」
「…………」
「いるかもしれない」
「そんな……」
「店に入るとき、身体検査をしていますかね」
「そこまではしないけど、だって、見れば分るわ」
「それが、分らないことがある。この三津子くんだって、ぼくは女とおもってつき合っているが、確かめたわけじゃないからね。ひょっとすると男かもしれない。男でないという確証は、いまのところ無いわけだ」
マダムの圭子は、城田の言葉を一向に信じていない顔つきで笑っている。一方、城田は、
「案外、この店の中に、一人くらい中身は男という女性がいるかもしれないぜ」
と言いながら、ゆっくり店の中を見まわしているうちに、その自分の言葉を信じかかる気持になった。
「まさか」
圭子は相手にせず、
「たしかに、このお店には、ブルー・ボーイという種類は不足していますわ。それから、もう一つ、足りないタイプがあるの。それがあたし、残念だわ」
そう言って、凝《じ》っと三津子を見る。城田には、答えは分っていたが、わざと訊ねてみた。
「どういうタイプかな」
「混血の女の子……、つまり、この三津子さんのような……」
スカウトするつもりだったのか。どうりで腰を落ち着けていた筈だ、と城田が苦笑しかかったとき、
「あら、傭《やと》ってくださるの。あたし、勤めてみようかな」
あっさり、三津子がそう言った。
複数について
ビルの階段を、大場雅子と城田祐一は登っている。八階建のそのビルの屋上が、ビヤ・ホールになっていて、そこを目指して二人は、階段を歩いて登っている。
階段には、ほかに人影はない。エレベーターがあるのに、わざわざ階段を使う人は、滅多にいないからだ。いま、二人は、六階から七階へ通じる階段を登っている。
「わたし、息が苦しくなってきたわ」
「もうすこしの辛抱ですよ。運動したあとのビールというのは、旨《うま》いものですからね。楽あれば苦あり、苦あれば楽ありです」
雅子は階段の途中で立ち止まると、城田の顔をしばらく見ていたが、不意に笑い出して、
「城田さんて、わたしの快楽コンサルタントだといっていらっしゃるけど、ずいぶん原始的ねえ」
「すべて原始に帰れ、ですよ。いや、いつも言っているように、あなたが快楽に関して初心《うぶ》だから、なるべく単純な形からはじめているのです」
「城田さん、あたし、それほど初心ではなくってよ」
大場雅子は眼の端で城田を眺め、その眼には思いがけず艶《なま》めいた光があった。城田は、その眼を見返した眼を、一瞬宙に浮かせ、不意に勢いよく階段を登りはじめた。
ビヤ・ホールのテーブルに向い合って坐った二人は、顔を見合わせると、やはり、笑いが出た。
「呆《あき》れたわ」
「…………」
「すっかり、汗をかいてしまったわ」
城田は、もう一度、眼を宙に浮かせ、
「汗? 雅子さんの汗は、どこに出るのですか、背中? 腕?」
「さあ、どこでしょう」
大場雅子は、そういう答え方をする。城田はすぐに平素の顔つきに戻り、
「汗をかくことで、ビールが旨くなるのです。それも最初の一杯がとくにいい。いいですか、途中で息をついてはいけませんよ。息を継ぎ足すと、その瞬間から味が落ちる」
「そんなことを言ったって、顎《あご》を上へ向けて、咽喉《のど》がみんな見えてしまうような飲み方はレディにはできないわ」
大場雅子は、中身を一口ふくんだジョッキを、すぐにテーブルの上に戻した。城田は自分の説明どおりの飲み方をすると、唇に残った泡《あわ》を、手の甲で拭った。
「いやあねえ」
「山男みたいでしょう」
「ほんとうに。ずいぶん高い山を登ってきましたものね」
しばらく雑談がつづいて、ふと思い出したような訊《たず》ね方《かた》で、雅子が言った。
「この前のきれいな女の子、三津子さんといったかしら、あのかたはどうしていらっしゃるの」
「そうだ、うっかりしていた」
そう言って、城田は手をあげてボーイを呼び、
「ジョッキを二つ」
「あら、わたしはもう沢山よ」
ビヤ・ホールのジョッキは、註文《ちゆうもん》を受けると、間髪をいれず運ばれてくる。その二つのジョッキを、城田は一つは自分の前、残りの一つを隣の空の椅子の前に置いた。
「三津子なら、ここにいますよ」
空の椅子を指して、彼はそう言う。
「また、そんなことをいって。誰も、透明人間なんて、信じてはいませんわよ」
「しかし……」
と、城田は真面目な顔になって、
「この前のときのことを、落ち着いて思い出してください。ぼくが、あなたに薬を嚥《の》ませた。そうしたら、三津子の姿が見えた。薬を嚥んでいない人たちには、三津子は見えなかった……。ところで、いまあなたは薬を嚥んでいない。とすると、もしここに三津子がいたとしても、あなたには見えないことになるわけだ」
「もしそのジョッキが」
と、雅子は空の椅子の前に置かれたジョッキを眼で示して、
「宙に浮かんで、斜めに傾いて、その中身がすうっと減っていったなら、わたしも信じるでしょうけど」
「そういうことが起れば、これはまったく面白い。しかし残念ながら、三津子はいまおなかの具合が悪いんだそうです」
彼は、空の椅子のほうに顔を向け、
「ぼくが替りに飲んでしまうよ」
と言うと、そのジョッキを取り上げ、一息に飲み干した。
「どうしても、そこに三津子さんがいることにしておきたいのね」
「そうなんですよ」
「でも、なぜ」
「…………」
「わたしに、やきもちを嫉《や》かせたいの」
「あなたは、ぼくにやきもちを嫉くとでもいうのですか。もし、そうだとすると、耳寄りの話だが」
「そんな……」
大場雅子は、一瞬妙な表情をみせて、
「でも、なぜ」
もう一度、詰問するように、言った。
「いま、説明しますよ」
そう言いながら、城田は立ち上って、レジスターに向って歩いて行く。
ビヤ・ホールを出ると、彼の足は階段のほうへ向った。
「あら、また階段を使うの」
「腹がだぶだぶになったから、揺すぶって、ビールを躯《からだ》じゅうに浸みこませなくちゃいけません」
「わたし、辛いわ。これでは、苦痛コンサルタントじゃなくって」
「快楽と苦痛は、紙一重ですよ。若いくせに弱音を吐いてはいけない」
「もう若くはありませんわ」
二人の靴の音がひびいた。あたりが静かなので、ひどく大きく、反響する。不意に、二人の靴の音が合わさって、一人の靴音のようになり、それがしばらくつづいた。
大場雅子が立ち止まった。二つ三つ、城田の靴の底が階段を打つ音が聞え、すぐにその音も消えた。すこし下から、彼は雅子を見上げている。
「困るわ」
大場雅子が、呟《つぶや》くように言う。
「どうして」
質問している口調でもなかった。しかし、彼女は答える。