三面鏡
城田はますます酔いがまわってきた様子である。ウイスキーをがぶりと飲み干し、
「もうつき合ってくれないなんて、あんまりじゃないか」
と、曲げた片腕を水平に眼の高さに上げ、泣き真似をしてみせる。
悪い酔い方ではなく、愛嬌《あいきよう》があるので、女たちも笑って眺めている。からかってやろう、と待ち構えている女もいる。
「え、雅子さん、あんまりじゃないか」
まるで、大場雅子が目の前にいるかのように、城田はかきくどく。
「なんだか、『雅』のマダムがそこにいるみたいね」
「え? いるのか」
「いるのか、って……」
「どこにいるんだ」
「だから、そこにいるみたい……」
「そこに、あ、いたいた。雅子さんひどいじゃありませんか」
城田の酔いのために、会話が混乱してきた。
「いたいた、って、どこにいるの」
と、理加が口を挿《はさ》む。
「どこに、って、そこにいるじゃないか」
「え? どこに」
「ほら、そこに」
「あ、分った」
と、理加が頷《うなず》く。
「マダムは、透明人間になってしまったのね」
「なんだって?」
「だって、あたしには見えないのに」
理加もいささか酔っているようだ。真面目な顔でそう言うので、城田はたちまち彼女のペースに乗せられてしまう。
「そうか、きみは見えないのか。おれにはちゃんと見えているぞ」
「おいおい、透明人間がなぜ見えるんだ」
春海俊太が、これもいくぶん酔った声で、訊ねる。
「先輩は、あまり透明人間については精《くわ》しくないですなあ」
「君は精しいのか」
「城田さんは精しいのよ、自分で勝手に、ルールを作っているのよ」
葉子が、春海の耳もとでささやいた。
「ルール? なんのルールだ」
「透明人間ごっこのルールよ。お薬を嚥《の》むの……」
その声が耳に入って、城田は、
「そうだ、薬だ。先輩、ぼくはさっき、黄色い錠剤を嚥んだのですぞ。この薬さえ嚥んでしまえば、いかなる透明人間だって、見えちまう。赤い錠剤を嚥めば……」
と彼はポケットを探り、
「おや、無いぞ。赤い錠剤がない」
「無い筈よ。だって、さっき、それを『雅』のマダムに嚥ませたのでしょ」
と、理加が言う。
「嚥ませてしまえば、無くなってしまう。一マイナス一はゼロである。これは、真理である。赤い錠剤を嚥めば、透明人間になっちまう。ねえ、先輩、黄色い錠剤を嚥めば、そいつが見えてしまう、と、まあそういうわけです」
「それでは、いま、大場雅子はそこにいるわけだね」
「そうです、ここに、厳然として存在してます」
「それならば、ひとつ頑張ってみるんだな」
いささか城田を持てあまし気味の春海は、そういうと腰を浮かしかける。
「先輩、もう帰っちまうんですか、つれないなあ。それで、ぼくはどうしたらいいでしょう」
「女の一人や二人、自分の才覚で何とかしたまえ」
「しかし、相手はつれない女……」
「いくらつれなくても、そこは男女の仲ではないか」
「それが、相手がどうやら、男女関係の枠《わく》に入りきらない女らしいもので」
「しかし、君は以前に一度、あったのだろう」
「二度です」
「へんなところで、力まないでもらいたいね。それならなおさらだ。なんとか考えたまえ」
そう言い残すと、春海は姿を消してしまった。
「先輩もつれないし、雅子さんもつれない、ぼくはなさけない」
そう言うと、彼はまたウイスキーを一杯飲み干した。
「そんなに飲んで大丈夫」
「どうかな、そういえば理加が二人いる。これはダブって見えているのだろうな」
「とすると、『雅』のマダムも二人になって見えているわけね」
「え? あ、なるほど、そうだ。見えている、たしかに二人いる」
「ずいぶん素敵じゃないの。あたしに見えていないのに、城田さんには二人もいるなんて」
「うむ、たしかに素敵だ、畜生!」
そう言って、さらに一杯、彼はウイスキーをあおり、
「しかし、こうやって、きみと雅子さんと三人でいると、死んだ由美を思い出すなあ」
一層据った眼で、城田は言い出した。
「なによ」
突然、死んだ女のことを言い出したので、理加はいくぶん薄気味わるそうに、
「なぜ、思い出すのよ。さっぱり分らないわ」
「きみが分らないのも無理はないが……」
「厭ねえ、おもわせぶりで。はっきり言ってよ」
「由美とぼくと、それから透明人間と、三人で寝たことあるんだよ。そのときの透明人間は三津子だったけど」
「それで、どういうことになったの」
「由美がすっかり昂奮《こうふん》してね、びっくりした」
「びっくりしたの」
「そうさ、それまで見たことのないほどの昂奮の具合だったからね。由美というのは、もう一人余分にいないと、昂奮できないたちだったんだな」
と言うと、城田は、はっと気付いた顔になり、
「おい、隠していたな」
「なにを……」
「もう言ってもいいだろう。警察には内緒にしておいてやる」
「なにを考えているの? すっかり酔っぱらっちまったのね」
「いや、いまおれの頭は冴《さ》えているぞ。由美が死んだのは、これは心臓麻痺だ。そのことは、疑うわけじゃない。しかし、そのとき、きみが一緒にいただろう。井山さんと由美ときみの三人だ」
「なぜ、三人なの」
「酔っているのは、きみのほうだぞ。三人いなくて、由美があとで心臓がおかしくなるほど昂奮するわけがない」
「たしかに、理屈だわ。でも、由美が井山さんと二人だけだったことは、ホテルでもちゃんと証言しているのですからね。もし三人だったら、もっと厄介なことになっているわ」
「…………」
「でも、なぜもう一人が、あたしでなくちゃならないの」
「由美ときみとは、そういう関係だったじゃないか」
「そういえば、そうだけど……」
理加の眼も、すこし据った。なにごとか思い出している表情である。しかし、間もなく普段の表情に戻ると、からかうように言う。
「つまり、井山さんが実力者だった、というわけよ」
「そうか、そういうことか。厭なことを言うねえ」
「厭なことを言うのは、城田さんのほうじゃないの。死んだ由美の役割を、あたしに振り当てて考えているなんて。由美と城田さんと透明人間と三人で寝たことを、あたしの顔を見て思い出すなんて……」
「いいじゃないか。死んだ夢をみると、長生きするというぜ。どうだ、今夜これから、きみとぼくとここにいる雅子さんと三人で寝ようじゃないか。由美のために、いい供養になるぜ」
と言うと、彼はまたもや、ウイスキーをあおる。
そのときから、城田祐一の意識がもうろうとしはじめた。酒のためである。といって、眠りこんでしまったわけではない。さかんに喋《しやべ》り、活躍していた記憶はあるが、その内容となると不明である。
ようやく、意識が戻ってきた。
なにか、やわらかくて温かいものが、片方の肩から腕に触れている。眼をつむったまま、腕でそのやわらかいものを押してみると、弾力のあるかたまりだということが分る。いや、もうそのときには、分っていた。
それが、裸の女の躯であることは、分っていた。
「とすると、理加なのか……」
薄目をあけてみるが、目が霞《かす》んではっきり分らない。力を入れて、目蓋《まぶた》を開く。
傍に、理加がいた。
白い天井が眼に映ってくる。理加の躯のむこうに、赤いカーテンが見える。それらのものは、見馴れぬものだ。
「おや、ここはどこだ」
と、彼は理加に訊ねた。
横たわって並んでいる顔と顔とが向き合っている。理加は怪訝《けげん》な表情で、しばらく彼を眺めている。城田は、また目蓋が弛《ゆる》んで、さがってくるのを感じ、
「はやく返事してくれないと、また眠っちまうぞ」
「眠っちまう?」
一層、怪訝な顔になる。
「それじゃ、いままで、眠っていたつもりだったの。自分のしていたことを知らなかったの?」
「え? おれは眠っていたのじゃないのか」
「厭ねえ」
「…………」
「でも、かえって、そのほうがいいかもしれないけど」
城田の眼が、はっきり開いた。酔いのために、まだ頭が霞み、もうろうとしているが、開いた眼でもう一度部屋の中を見まわした。
今度は、枕の上の首を左右にまわして、調べる気持で見まわした。
「おや、雅子さん」
おもわず、口から出た。
右を見ると、窓を隠している赤いカーテンがみえる。左に頭をまわすと、部屋の隅に置いてある三面鏡がみえる。その前に、ネグリジェ姿の女が腰かけている。
「きみ、鏡の前にいる女が見えるか」
「もちろん、見えるわ」
「見えるとすると……黄色い錠剤をきみも嚥んだのか」
「つまり、透明人間が見えている、というわけなのね。でも、黄色い薬とか赤い薬とか、それは約束ごとじゃないの。本当に、透明人間になったり、それが見えたりするわけのものじゃないでしょ」
「そうだったな」
「まだ、寝ぼけているのね」
「それじゃ、どうして雅子さんがあそこにいるのだ」
彼がそう言うと、理加は鏡の前の女に呼びかけた。
「ちょっと、こっちへ向いて、この酔っぱらいに顔を見せてやってよ」
三面鏡の前の女が、ゆっくり振り向いた。理加の同僚の葉子の顔がそこにあった。
「おや、葉子じゃないか。……それにしても、ここはどこなんです」
「葉子のアパートよ」
と、理加が答えた。
「なるほど、見覚えのない筈だ。それで、どういうことになっているんだ」
理加は鏡の前の葉子と一瞬顔を見合わせると、微妙な表情になって、
「さあ、どういうことになっているんでしょうねえ」
と言う。
「教えてくれよ」
「思い出しなさい」
「教えろ」
「厭よ」
「どうしても教えないか」
城田は理加の頸《くび》を、両手の指をまわして締める。もちろん、馴れ合いのことで、じゃれ合っているわけだ。
「苦しい」
理加は大袈裟《おおげさ》に、身悶《みもだ》えしてみせる。裸の肩や胸がぶつかり合った。
「言え」
「厭よ」
「言わないか」
「苦しい……、死んじまう」
その理加の声に、媚《なま》めいたひびきが混じる。軽く咽喉《のど》を扼《やく》しているので、顔に血の色が上っているが、そればかりではない赤味がさしているようだ。昂奮の色のように、見えてくる。
彼は、由美を思い出し、一瞬、理加が由美に擦《す》り替る。
「死んじまう」
また、女が言う。
死んだ由美のことを思い出すが、それは生命が尽きると訴えている声音《こわね》ではない。もっと別の、閨房《けいぼう》の嬌声《きようせい》に似ている。
二人はじゃれ合い、絡み合いつづける。
理加は、嬌声を上げつづける。
もちろん、彼は鏡の前の女、葉子の存在を意識している。意識しているが、首をまわして、彼女を見ていたわけではない。
やがて、彼は葉子のことが気にかかりはじめた。
葉子がどういう素振りをしているか、確かめたくなった。
もしも、葉子に羞恥《しゆうち》の色があれば、それがはね返ってきて、強い刺戟《しげき》になるだろう。
首をまわして、葉子を見た。
葉子は、三面鏡の前に坐って、髪を梳《す》いている。ゆっくりと入念に、落ち着いた手つきで、髪を梳いている。
無理に落ち着いている様子ではない。冷静さを気取ろうとしているのではなく、身に付いた余裕である。
鏡には、顎のとがった細おもての、少女のような顔が映っている。花の蕾《つぼみ》がふくらみかかったような、あどけない唇が映っている。
しかし、その態度には、したたかなものが感じられる。男と女とのつくり出す修羅場を踏んでいるような凄味《すごみ》がある。
葉子は入念に、髪を梳きつづけている。
城田は、理加の躯から離れた。
ベッドから降りると、床に散らばっている下着を探す。理加は上半身を起し、やや不満気に、彼を見守っている。
「もうやめるの」
「やめた」
「そうでしょうね……」
「…………」
「無理ないわ」
「なにが」
「思い出してみることね」
「それよりも、教えてくれよ。葉子のことだ」
「葉子のなにを……」
「葉子の亭主というのは、どういう男かしら」
「さあ、どういう男かしら」
薄笑いが、理加の顔に浮かぶ。それが、気味が悪い。
「なぜ、そんなことを聞くの」
「いや、葉子はおもったより……、なんというかな、凄いところがある……、と感じたものでね」
「それはそうでしょう……」
「なぜ」
「だって、凄い人に十分教育されているから」
「おいおい」
「あら慌てなくてもいいのよ」
いそいで身支度をしはじめた城田を見て、理加が言った。
「今夜は大丈夫よ。それでなくちゃ、ここへ連れてこないわ。だいいちあんたは、脅かして、トクになる男じゃないものね」
喫茶店で
謎《なぞ》の張本人は、大場雅子であった。これは、確かなことである。そのことが分るとともに、沢山の謎の大半は解けた。
しかし、残った謎が二つある。
その一つは、雅子が由美と理加の刺青を剥《は》がした理由が分らない、ということ。
もう一つは、女王の冠をかぶった蜂の刺青と組合わさる刺青が、はたして大場雅子の躯《からだ》のどこかにあるかどうか、ということである。
いま、葉子のアパートで、城田祐一は、葉子に凄いこわい男がついていることを知らされて、逃げ腰になりながらも、
「きみの刺青を消したのは、誰なんだ」
と、問いかけてみた。
「あら、理加に刺青があったの」
葉子の眼がキラリと光り、
「それを、どうやって消したの」
「なに、ごく小さいやつでね、剥がしたわけさ」
替りに城田が答え、
「誰なんだ」
と、もう一度、訊《たず》ねる。
「さあ、誰でしょう」
「大場雅子だな」
「あら、知っていたの」
「それは分っている。しかし、なぜ剥がしたんだろう」
「『雅』のママが、怒ったわけよ。だって、あたしって、やっぱり男の人のほうが、好きなんだもの」
「大場雅子にたいして、操を守れなかった、ということだね。やっぱり、きみもそう思っているのか」
「あら、違うの」
「違うらしい」
「誰が違うというの」
「大場雅子だよ」
「それじゃ、なぜ剥がしたのかしら」
「だから、きみに訊ねてみたんだ。彼女は、そこは教えてくれない」
理加に訊ねても分らないとすれば、二つの謎を解くためには、大場雅子に直接当って探るしか方法はない。
ところが、その大場雅子は、もう二度と城田とはつき合わない、と宣言している。
なんとか大場雅子に会う方法を考えなくてはならない。
レストラン「雅」へ食事に行けば、まさか追い返されはしないだろう。しかし、雅子の顔を見るだけでは駄目だ。どうやって雅子を店の外へ誘い出すか。
誘い出すためには、囮《おとり》が必要である。
囮になるのは、やはりこれは三津子がいいだろう。先日、三津子と別れるとき、
「余志子が呼び出しても、出かけないほうがいいよ。しばらく、パパの家に引きこもっていたほうがいい」
と、言っておいた。
余志子が呼び出す、というのは、大場雅子が余志子を使って呼び出させる、と同じ意味であることが、いまは分っている。
彼の言葉を、三津子が守っていれば、やがて大場雅子は苛立《いらだ》ちはじめるだろう。そのとき、三津子を囮に使えば……、と城田は考えた。
……城田は、アンダーソン邸の玄関に立ち、呼鈴に指をのばす。例の薄気味わるい呼鈴が、目の前にある。家の奥でベルの鳴る音が、かすかに響く。
「無事に暮しているだろうか」
ふっと、三津子の身の上を案じる気持になる。しかし、ドアが内側から開かれ、三津子が元気な顔をみせた。
「あら、城田さん」
「やあ、元気そうだな。そろそろ退屈している頃だとおもって、誘いにきたんだ」
「よかったわ、城田さんが声をかけてくる以外は、家を出ないようにするって、約束したんですものね」
「約束を守って、感心だね」
「でも、わざわざ来なくても、電話でよかったのに」
「ちょっと、パパに訊ねたいこともあってね」
「そうなの、いま呼んでくるわ」
すっかり家に馴染んだ素振りで、彼女は城田を応接間に案内し、姿を消した。
間もなく、部屋着のガウンを羽織ったアンダーソンが現われた。
「コンナ恰好デ、失礼シマス。チョット調ベモノヲシテイタモノデ。シロタサンデスネ、家ノ豚ノ仲良シノカタ」
からかうように言うが、悪意は感じられない。
「それから、お宅のお嬢さんの仲良しですよ」
「オウ、ソーデシタ」
「今日は、三津子さんと街へ出てみようと、誘いにきたのですが」
「ドーゾ、連レテイッテヤッテクダサイ。イツモ家ニバカリイルノデ、気ニカカッテイタトコロデス」
愛想よく、アンダーソンは言う。警戒の気配は見えない。
「それから、一つ質問があります」
「ナンデショウカ」
「アンダーソンさんは、アマチュアの彫った刺青を蒐集《しゆうしゆう》していますか」
「アマチュア?」
「アマチュアといっても、ほとんど刺青の技術を持っていない人が彫った……」
「ナルホド、ギャングノ子分ガ腕ニ彫ッタリスル、イタズラ書キノヨウナモノデスネ」
「そんなものとか、また……たとえば、女王様の冠をかぶった蜂《はち》の刺青とか」
「蜂? 女王サマ……?」
アンダーソンは怪訝《けげん》な顔をした。その表情を見て、城田は「三津子の内腿《うちもも》の刺青は、見ていないな」とおもった。
「たとえば、そんな落書みたいな絵という意味ですよ」
「ノウ、ソウイウモノニハ、ワタシ興味アリマセン」
「そうですか」
と、城田は頷いた。もしか、アンダーソンがその種のものに興味をもっていて、大場雅子があの切手ほどの大きさの皮を高価に売りつけたのではあるまいか、と疑ってみたのだ。しかし、それは間違いだったことが、アンダーソンの答えで明らかになったわけだ。
城田と三津子は、街に出た。
並んで歩きながら、彼が言った。
「きみ、一つ力を貸してくれないか」
「どんなこと」
「大場雅子に関係のあることなんだが」
と言いながら、彼は喫茶店の前で立ち止まって、ちょっと店の中を覗《のぞ》きこみ、
「ここは駄目だ」
と、歩き出した。
「どうしたの」
「いま、説明する」
喫茶店の前にくると、立ち止まって、覗き込む。同じことを何回も繰り返して、ようやくある喫茶店の中に歩み入った。
その店は、入口のドアを入ると、すぐ左に階上に通じる階段がある。階段を上ると、中二階になっていて、その席に坐ると階下のフロアが見下ろせる。
中二階の席に向い合って坐ると、城田は何事か三津子に説明しはじめた。
三津子は頷《うなず》いたり、怪訝な顔になったりしていたが、やがて彼は立ち上ると、
「それじゃ頼むよ。一時間以内に戻ってくるから、いま言ったように……」
と言い残して、一人だけ店を出た。
レストラン「雅」は、近い距離にあった。彼は躇《ためら》うことなく、その階段を上って行った。
大場雅子は、店の中にいた。しかし、城田を無視して、素知らぬ顔をしている。
註文を聞きにきたボーイに、城田は言った。
「マダムを一人前」
「え? 何でございますか」
「マダムだよ。あそこにいる。至急取りよせてくれたまえ」
今度は、笑いながら言うと、ボーイは合点して、大場雅子のほうへ歩み寄っていった。
雅子にしても、その申し出をはねつけるほどのことはない。店の中では、客とマダムの関係である。城田の席に歩み寄って行くと、他人行儀の笑顔を浮かべて、
「いらっしゃいませ」
と、言う。
「やあ、今晩は。軽い食事をしたいのだが、なにか適当なものを教えてくれませんか」
「今日は、舌ビラメの洋酒蒸しがよろしゅうございますわ。それにコンソメくらいで、いかがでしょう」
「それを頼みます。それから、こちらはいまおなかが一杯だというので、紅茶でもあげてください」
と、彼は前の空の椅子を指し示して、そう言った。
「は?」
雅子は、怪訝な顔になる。警戒する気配が出てきた。
「あ、そうか。あなたには、見えていませんね」
「…………」
「ここにいる人の姿は、見えないのですね」
「どなたが、どこにいらっしゃるのですの」
切口上で、雅子が言う。
「この前の席に、三津子が坐っているわけだが……」
「…………」
「三津子です。ご存知でしょう」
雅子は、彼の顔を窺《うかが》うように眺め、
「はい、存じていますが」
「たしか、会いたがっていた筈だ」
彼の口調に、意地のわるい響が混じる。
「でも、見えていませんわ」
挑戦する口調になる。
「まだ、見えていないな」
「まだ?」
「いま、透明人間になっている。しかし、間もなく薬が切れる時間だ。そうすると、見えてくる」
と、彼は言い、会話をそこで打ち切る口調で、
「では、さっきの料理をたのみます。一人前でいい」
大場雅子は、一瞬顔をこわばらせたが、すぐに料理店の女主人の慇懃《いんぎん》さを取り戻し、
「かしこまりました」
と答えると、背を向けて歩み去ってゆく。
食事が終ると、城田はもう一度、ボーイに大場雅子を呼ばせた。
紅茶茶碗が城田の前に一つ、向いの席の前に一つ置いてあって、二つとも空になっている。両方とも城田が飲んだのだとおもうのだが、無人の席の前に飲み干された茶碗が置いてあるのを見ると、雅子の顔に曖昧《あいまい》な色が浮かぶ。
「結構でした」
と、彼は言い、
「それに、この紅茶がとても香りがいい。そうだろう、三津子くん」
「…………」
「三津子も同じ意見ですよ」
「同じ意見って、声が聞えませんでしたわ」
「そうでしょう、声も透明になって、あなたには聞えない」
いかにも人を喰った言い方で、雅子はいくぶん気色ばんだ。
「城田さん、どんなつもりで、そんな冗談をなさっているの」
「冗談なんかしてはいませんよ。あなたに三津子を会わせてあげたいとおもってね」
「わたしが、三津子さんに会いたい、といつ言いました?」
「直接は聞きませんがね、会いたいということだから」
「誰が、そんな」
「余志子さんが、そう言っていた」
「…………」
一瞬雅子は言葉に詰まり、
「でも、見えなくては仕方がないわ」
「それは、ぼくの失敗だった。三津子くんはこのところずっと家へ引きこもっていて、街へ出るのがこわい気持だというので、薬を嚥《の》ませて透明にしてしまったんだ。この店に着くまでには、薬が切れる筈だったんだが、すこし分量を間違えたらしい。せっかく、いまここにいるのに、見えないとは残念。雅子さん、三津子に会いたいのでしょう」
「さあ……」
「痩我慢《やせがまん》をしている。しかし、もう間もなく見えてくる筈だ。もう薬が切れてもいい時間なんだから」
「城田さんには、見えているわけね」
「そう、ぼくは見える薬を嚥んでいるから。でも、その薬もそろそろ切れてきた。なんだか、三津子の顔が薄ぼんやりしてきたな」
城田は、眼を細くして、空の椅子のあたりを見詰める素振りをした。
「ぼくの薬が切れるときが、三津子の薬も切れるときだから、もう見えてくる筈だな。ほら、だんだん霞《かす》んできた。雅子さん、まだ三津子が見えてきませんか」
「見えるわけがないでしょ」
苛立たしそうに、雅子は言う。
「しかし、見えるようになっても、三津子は以前の三津子と違っているかもしれないけれど」
「それどういうことですの」
「あなたの知っている三津子と、いまの三津子とはほとんど別人かもしれないということですよ。もちろん、外見がそんなに違うわけではないが。だいいち、以前の三津子だったら、あなたが会いたいと思えば、すぐに会うことができたじゃありませんか」
雅子を苛立たせ、怒らせるのが、彼の企みなのである。
「ほら、もう見えるでしょ」
「見えません」
一層苛立って、雅子は言う。
「もうすぐですよ。しかし、ここでじっと待っているのも、イライラするから、街を散歩しながら、待ちませんか」
「そんなことを言って、わたしを誘い出すつもりなんでしょう」
「違う違う。あなたのためをおもってのことです。三津子に会わせてあげようという親切心だ」
「嘘ばかり、三津子なんて、どこにもいやしないじゃないの」
「もうすぐですよ。もうすぐ見える。嘘じゃない」
「本当ね」
「本当だ」
「それじゃ、外へ出ましょう」
城田と大場雅子は、街へ出た。
並んで、ゆっくり歩いて行く。やがて、先刻の喫茶店の前にさしかかると、彼は立ち止まって、
「ちょっと、ここで休みましょう」
「…………」
「喫茶店なんだから、警戒することはない」
ドアを押して入る。喫茶店へ入ってくる客は、しばしばドアに入ったところで立ち止まり、店の中を見まわして席を物色する。いま、城田も同じ態度で、ドアの内側に雅子と並んで立ち止まっている。
あらかじめ打ち合わせてあったとおり、中二階の席から見下ろしていた三津子が、素早く階段を下り、そっと城田の傍に寄り添ってきた。
「ようやく、薬が切れたようですよ」
城田は、傍に立っている大場雅子の耳もとでささやいた。
「え?」
「ようやく見えてきたということです」
あたりを見まわした雅子は、
「あら、三津ちゃん、いつからそこにいたの」
「ずっと前からよ。あのレモン・ティ、おいしかったわ、とても香りがよくて」
「…………」
「あたし、ママに話しかけたくてイライラしちゃったわ。でも、声まで見えなくなってしまっていたんだもの」
三人は、隅の席を見付け、そこに腰を下ろした。
「どうです、嘘じゃなかったでしょう」
と、城田が笑いながら言う。雅子はそれには答えずに、
「三津ちゃん、今夜はつき合ってくれるのでしょう」
と、じっと三津子の顔を見詰めた。しかし、三津子の答えは、雅子を裏切った。
「今夜は城田さんに遊んでもらうの。また、今度の機会にするわ」
城田は黙って、薄笑いを浮かべている。
大場雅子の顔は、眼にみえてこわばって行った。
鏡のなか
城田が、とりなし顔で三津子に言った。
「きみ、つき合ってあげなさいよ」
「あら」
心外な、という表情で城田をみた三津子は、
「厭《いや》よ」
「それじゃ、これから三人で遊びに行こうじゃないか。それなら、いいだろう」
と、城田が提案した。
「そうね……」
三津子はちょっと考える素振りになったが、すぐに、
「やっぱり、厭だわ」
と言う。
城田の計画としては、三人で一緒に酒を飲み、酔いにまかせて三津子と大場雅子を自分のペースに引き込んでしまおう、ということだった。
自分のペース、ということについては、城田の頭の中に、葉子と理加と彼との三人がつくり出した図が浮かんでいる。
三津子が厭だというので、その計画は狂ってきた。しかし、まだ彼はあきらめたわけではない。腕時計を見て、彼は雅子に言った。
「まだ、七時だな。これから、ぼくは三津子と酒でも飲みに行くことにしよう。きみの店の終る時間までに、もしも三津子の気が変ったりすることがあれば、すぐに電話するよ」
不満気な雅子は、しぶしぶ頷くと、
「それじゃ、三津ちゃん、あとでね」
と言って、去って行った。
その大場雅子の言葉は、三津子に会えるなら、城田が一緒にいても仕方がないという気持になったことを示している。大場雅子に接触する手がかりは、これでできた、と彼はおもう。
雅子の姿が見えなくなったとき、三津子は念を押すように、
「あたし、厭よ」
と、言う。
「しかし、きみ、大場雅子がいれば、男はいらない、とおもった時期があったじゃないか」
「せっかく、それが直ったのですもの。元に戻るのは厭だわ。元に戻る気にもなれないわ」
「直ったのは、ぼくのおかげだね」
「そうよ」
「つまり、おれに惚《ほ》れたわけか」
図々しく構えて、城田が言うと、三津子は生まじめな顔で考え込みながら、
「それがよくわからないのよ」
「どうして」
「たしかに、直してくれたのは城田さんよ。でも、だから、恋しているのかどうか……」
「ぼくが、お医者さまの役目をしただけなのかどうか、考えているというわけか」
「そう、そのとおりなのよ」
「そのとおり……か」
と、彼はいささか興|醒《ざ》めた。しかし考えてみれば、彼が三津子に恋しているわけのものでもない。
強いて、誰に恋していたかといえば、その相手は大場雅子だった。三津子との人間関係においては、主役は刺青だった。刺青の謎を探し歩いているうちに、いろいろの女との関係ができ、三津子とも繋《つな》がりができてしまった。
なにも、興醒めるほどのことでもない。たしかに三津子のいうように、いまさら元へ戻らないほうがよい。
「分った」
と、彼は言った。
「はやく、パパの家へ帰りたまえ」
「あら遊んでくれないの」
「遊んでいるうちに、また、おかしなことになると困るだろう」
「…………」
「それとも、困らないか」
「そうねえ……」
「はっきり自分の気持が分らないときは、家に引籠《ひきこも》っていたほうがいいよ。ゆっくり閉じこもって考えてみるんだね」
「そうね、そうするわ」
三津子は、素直に答えた。城田はふと思い出したように、
「しかし、そうなると、きみの脚の内側にある刺青は、いかにも邪魔だね」
「そうなの、眼に入るたびに、厭な気持になるわ」
「剥がしてもらうんだな」
と彼は言う。
「誰に」
「アンダーソンさんなら、上手に剥がしてくれるだろう」
「でも、パパでは困るわ。せっかく知らないでいるのだもの」
「それならば、大場雅子がいい」
「そんな……」
「しかし、剥がすのはどちらが上手だろうな。パパと雅子と」
と言った城田は、またしても、あの謎が気に懸ってしまう。なぜ大場雅子は理加と由美の刺青を剥がしたのか、という謎が……。
城田は、一人で「紅」へ行った。
すぐに理加がきて、傍へ坐った。まもなく、葉子が近寄ってきた。短か目のスカートからのぞいている脚は、十分発育し切っていない少女のものをおもわせる。
その脚が眼に映ると、それと対照的な葉子の振舞いが城田に思い出されてしまう。ベッドの上に、彼と理加とを残して、三面鏡の前に坐り、ゆっくりと髪を梳《す》いていた葉子の態度……。そこには、男と女のつくり出す修羅場を踏んできたような凄味《すごみ》があった。
葉子も、城田の傍に坐り、彼は二人の女に挟《はさ》まれる形になった。
理加が、躯を押し付けるようにして、城田の耳にささやく。
「おかげで、へんな癖が付いちゃったわ」
秘密っぽい眼つきで、その言葉の意味はすぐ分った。彼は、死んだ由美と理加の関係を思い出しながら、
「へんな癖は、前からじゃないか」
「由美とのこと?」
「そうさ」
「だって、由美は死んじまって、それからずっと忘れていたのに……」
城田は葉子のほうに首をまわし、その可憐《かれん》ともみえる顔を眺めながら、