「きみは、どうなんだ」
「そうねえ……」
葉子の唇のまわりに、薄い笑いが浮かぶ。
「もう、倦《あ》きたか」
と、城田は先まわりして言ってみた。
「そういうわけじゃないけど……」
葉子は、唇のまわりの笑いを濃くして、
「でも、面白かったわよ、スリルがあって」
「さてね、スリルを感じていたようでもなかったがねえ」
そう言いながら、城田は先刻中断した計画を、あらためて立て直すことを考えていた。三津子の代役のことを、考えたのだ。
理加を誘えば、すぐ話に乗ってきそうである。しかし、相手が大場雅子となると、具合が悪い。理加に刺青をし、それをまた剥がしたのは雅子なのだから……。
葉子を誘ってみよう、とおもい、葉子にこわい男が付いていることを思い出してしばしためらった。だが、いまの機会を逃すわけにはいかない。
「この前は、酔っぱらっちまって……」
と、城田は葉子に話しかける。
「だから、なんにも覚えていない、というのでしょう」
「いや、よく覚えている」
「じゃ、なぜ、謝るような言い方をするの」
「きみのアパートを使わせてもらって、申しわけなかった、とおもってね」
と、小声で言い、
「きみのアパートが、安全な日もあるわけなんだね」
「そうよ」
「今日は、どうなんだろう」
その会話を聞きつけた理加が、口を挿んだ。
「今日は大丈夫よ、ね、葉子。ねえ城田さん、また一緒に行きましょうよ」
「熱心になってくれるのは有難いけれど、今日はアパートでは具合が悪い」
「やっぱりコワイのね。それじゃ、どこでもいいわ。ホテルに部屋を取ってくれてもいいわよ」
「それは賛成だけど、二人のうちの一人が、きみじゃ具合が悪いんだ」
と城田が理加に言うと、彼女は気色ばんで、
「そんなの駄目。許さないわ」
「怒っては困るな。これには深い事情がある……」
「もっともらしいことを言って。もう一人、というのは、誰のつもりなの」
と、理加は店の中の女たちを、確かめるように見まわした。
「大場雅子なんだよ」
城田が言うと、理加は不意を打たれたように、眼を宙に浮かし、以前の情景を引き寄せている表情になった。
「大場雅子をひどい目にあわせてやりたいんだ」
「ひどい目?」
「仮面を引っぺがしてやりたいのさ」
「そのために、そうすることが必要なの」
「必要なんだね。もっと、くわしく説明しなくてはいけないかな」
理加は黙って考えていたが、不意に勢いこむと、
「いいわ、分るような気がするわ」
と言い、葉子のほうに躯を乗り出すと、
「ね、つき合ってあげてよ」
「…………」
「城田さんと一緒に、ひどい目にあわせてほしいの」
掌を葉子の膝《ひざ》に置いて、左右に揺すぶった。馴染み合っている女同士の気配が、そこから立ち昇っている。
「でも、よく分らないわ」
「説明するよ」
と、城田が素早く言う。
「亭主気取りで、理加をいじめた女なんだよ、その女は……」
「『雅』のマダムね、そんな趣味があるとは知らなかったけれど、分るような気がするわ」
「だから、理加の仇《かたき》を取ってやるんだ」
そう言えば、話の筋道がとおる。城田の本当の目的は別のところにあるのだが。
「仇を取る?……分ったわ、亭主気取りでいるその人を、女にしてしまえばいいのね」
「そうなんだ」
「でも、あたし、男役って苦手だわ」
「きみは受身でいい。あとは、ぼくが引き受けるから」
「…………」
「いいね」
話がきまった、という素振りで、彼が言うと、葉子は頷いた。好奇心をくすぐられている色が、かすかに顔に浮かんでいる。
腕時計をみると、九時すこし前。まだ、「雅」の開いている時刻だ。彼はすぐに電話機のところへ行った。
「雅子さん、きみの喜ぶ話だよ」
「三津子が、いいと言ったの」
「それは、なかなか難しい。と聞けば、きみも腹が立つだろう」
「…………」
「だから、これからホテルへ連れて行って、睡眠薬で眠らせてしまうよ。そして夜中にきみに引き渡して、ぼくは帰ってあげる。部屋の番号は、あとでホテルからきみの家へ電話をかけて知らせてあげる。ドアの鍵《かぎ》を外しておくから、そっと忍び込んできたまえ」
深夜、部屋に大場雅子が入ってきたとき、彼は葉子の裸の躯の上にすっぽり毛布をかぶせておいた。
「約束を守ったろう」
と、彼は雅子に言う。
「ほんとね」
「そこで、ぼくは帰ることになるわけか」
「そうよ」
「しかし、きみは、本当に、三津子を必要としているのかな」
一瞬たじろぐ気配があった。
「きみの必要としていたのは、三津子の刺青じゃなかったのかな。もう、その刺青も、価値がなくなったとなれば、あとは惰性だけだと、ぼくにはおもえるが」
「違うわ、必要なのよ」
「それならば……」
彼は、葉子の躯の上から、毛布を取り去った。
「あら、三津子とは違うわ」
と、雅子は叫んだ。
「葉子だよ。三津子はどうしても駄目だ、というんだ。しかし、三津子の刺青が必要でないとすれば、きみが必要なのは、こういう形なんだろう。なにも相手が三津子でなくたって、構わない……」
「誰でもいいというわけじゃないわ」
「余志子だっていいわけだろう」
「余志子は、いいのよ」
「それなら、葉子もいい筈だ。葉子のほうが、よほど可憐だよ」
その言葉が嘘に聞えない表情を、葉子はしている。そして、葉子は技巧的な声を出して、
「ママ、抱いて」
と言った。
芝居を愉しんでいる気配で、彼はまたしてもしたたかなものを感じる。
雅子は、部屋の熱っぽい気分に、巻きこまれはじめた。
「城田さん、帰ってよ」
「帰っても、いても同じことだろう」
「厭」
「それならば、隣の部屋に退散していよう」
「ママ、はやく」
ベッドの上で、葉子は身をもんでみせる。
……赤い時間が過ぎて行く。
「いまが大切なときだ」
と、城田は隣室からひそかに覗き見している。葉子の姿態には眼もくれず、もっぱら大場雅子の躯に眼を凝らす。
そのために、こういう厄介な計画を立てたのだ、……これまで見落した雅子の躯の隅々まで眼を配ろうとする。どこかに、刺青がありはしないか、と眼を凝らした。
最初に気付いたのは、雅子の躯の大きな部分を、彼はこれまで見ていなかったということである。
それは、背中である。
雅子は葉子の上にいて、雅子の背中が見えている。
その背中は、なめらかな白い拡がりである。
もっと精しく調べたい、という気持に駆られて、彼はおもわず仕切りを開け、雅子の傍に歩み寄って行った。雅子は、そういう城田に気付いたが、もう彼を追い払おうとはしない。むしろ、彼の存在が、強く刺戟《しげき》しているようである。
むしろ、城田が、二人の女たちのペースに巻きこまれた、といえる。なぜならば、城田の目的は、雅子から刺青を見付け出すことにあったのだから。
もっとも、巻き込まれる前に、彼はできるかぎり、雅子の躯のあちこちを覗き込んでみた。
しかし、ついに、一かけらの刺青の跡も、見付け出せなかった。
城田が巻き込まれたとき、葉子は身を引いて、あとは二人に委《まか》せた恰好になった。そして、この前のように、鏡台の前に坐った。
部屋には、大きな鏡台がある。しかし、三面鏡ではない。その鏡に向って坐り、葉子は髪を梳く。
冷静な手つきで、髪を梳く……。
「あらっ」
驚愕《きようがく》……、といってよい叫び声が出たのは、葉子の口からである。
葉子が驚きを示したことにも彼は驚いて、首をまわした。鏡の中に、葉子の顔が映っている。その顔は、はげしい驚きをあらわして、口が痴呆のように開かれていた。
赤い背中
大場雅子が上、城田が下になっていた。
女と女との関係において、雅子は男の役目をつとめている、と城田は聞いている。そういう雅子を、からかう気持で、城田は彼女を上にしてみたわけだ。
そのとき、葉子の叫び声がひびいた。
城田は、首をもたげて、葉子の様子をうかがった。
葉子は、鏡の中を凝視している。
鏡の中に、なにを見たというのだろう、と城田は考えた。そこには、自分たちの絡み合った姿が映っている筈だが、そんなものに驚く葉子ではない。
鏡のなかに、なにが映っているのか。城田の位置からは、鏡のなかの葉子の顔しか見ることができない。しかし、そこに映った葉子の眼は、あきらかに城田たちのほうに向けられている。
鏡のなかには、雅子の背中のひろがりが大きく映っている筈だ。しかし、その背中がどうした、というのか。わずか前の時間に、城田はその背中をくわしく調べたばかりだが、なんの異常も見られなかった。
「葉子、どうしたんだ」
彼は声をかけてみた。彼女は向き直ると、依然として驚きの表情のまま、長く伸ばした指先をまっすぐ突き出し、
「ほら、そこに」
と、言う。
その指は、雅子の背中をさしている。
彼は起き上って、雅子の背中を見た。
「あっ」
彼の口からも、叫び声が出た。
真赤な色の、大きな熊が、雅子の背中にいた。うしろ脚で立ち上った熊が、前足を大きく開いて、背後から雅子を抱きすくめているようにみえる。
ベッドの上に、雅子は起き上っている。たくさんの感情が入りまじった複雑な表情をしている。
雅子は、低い声で言った。
「見えているのね」
「分っているのか」
「だって、そんなに驚いているのだもの」
「さっき、葉子と一緒のときには、背中にはなにもなかったんだが」
「いまも、なにもないつもりだったのに……」
と、雅子が言い、言葉をつづけて、
「いままで、ずっと見えたことがなかったのに」
「ずっと見えたことがない、というけれど、それでは、見たのは彫ったときのことか」
「そうよ」
「しかし、隠し彫なのだから、長いあいだかかって彫ってゆくうちに、前の分は消えて見えなくなっていただろう」
「そうなると、つづきが彫れないでしょう。だから、二日二晩休みなく、彫られたのよ。彫り上ったときには、針のあとが赤く腫《は》れていたので、赤く模様が見えていたわ。厭《いや》な絵……、思い出しても、ぞっとするわ」
「その絵がいま見えているよ。合わせ鏡をしてあげようか」
「いらないわ」
そう言うと、雅子は毛布の下に、躯《からだ》を隠した。赤い熊も、消えた。雅子は毛布を顎《あご》のところまで引き上げ、天井を向いて、黙って考えに耽《ふけ》っている表情である。遠い眼になっているところをみると、過去におもいを向けているのだろう。
その過去を知りたい、と城田はおもった。訊《たず》ねたいことは沢山ある。しかし欲張ると混乱してしまう。落ち着いて、一つずつ……。それにしても、自分の探していた刺青は、やはり雅子の躯にあったのだ。それも、こんなに大きく、と彼は一種感慨に似た心持になっている。
「その刺青を彫らしたのは、亡くなったご主人でしょうね」
彼は、質問をはじめる。
「そうよ、でも、彫らしたわけじゃないの。自分で、彫ったのです」
大場雅子は、むしろ積極的に答えようとしている様子である。
「刺青狂といってよい男だったの。だから、長いあいだかかって、技術を身につけていたのですわ」
「でも、なぜ熊を」
「なるべく変った図柄と考えたんでしょうね。それに、一色だけで間に合う絵ということも考えたのでしょう。たとえば、羽衣をつけた天女の絵は、いろいろの色で彩色して行くわけでしょう。隠し彫は、一つの色しか出ませんでしょう。熊ならば、大きくて黒いだけですものね。それが赤い熊となればまた奇妙な味が出ますでしょ。それに……」
と、雅子はまた遠い眼になると、
「わたしの背中に、醜くて大きなものを、くっつけておきたかったのでしょ」
その言葉から、憎しみの気配が漂った。
「しかし、なんのために」
城田が訊ねる。
「そういうことをするのが、好きな人だったのでしょう。彫ること自体が、目的だったような気がする。でも、案外、わたしの皮を売ることも考えていたのかしら。アンダーソンという蒐集家《しゆうしゆうか》が隠し彫を高価に買い集めているのをわたしが知ったのは、死んだ夫の口からですものね」
「それだけの皮を剥《は》がされたら、死んでしまうな」
「先に、夫が死んでいなかったら、きっとわたしが殺されていたでしょう。虐《いじ》め殺されていた……」
「…………」
「虐めることが、愛情の表現のような人だったから。それを受け容《い》れて、よろこぶ女もいるらしいけれど、わたしはそういう性分でなかったから……。だから、わたしを憎み出していた、とおもうわ。皮を剥がして、アンダーソンに売ろう、と考えたりしていたかもしれないわ」
「しかし、その熊は彫り終ったときに赤く現われていただけで、そのあとには浮かび上ってこなかったわけだな」
「そうなのよ」
「どういうときに、浮かぶ筈だったのだろう……。もちろん、昂奮《こうふん》したときに、というわけですね」
「…………」
「お湯に入ったぐらいでは駄目なんだな」
「駄目なのよ」
「昂奮すれば、いつでもすぐに浮かんでくる、というわけではないんだな」
と、彼は葉子と絡まり合っていたときの雅子の白い背中を思い浮かべ、
「芯《しん》から、昂奮しなくては駄目なんだな」
「そうよ、長いあいだその刺青が見えなかったことが、わたしの復讐《ふくしゆう》なのよ」
「復讐? ご主人にたいしての?」
「そうよ、あの男にたいして。あの男は、自信をもっていたわ。だから、いつまでも、背中に刺青が現われてこないので、ずいぶん自信をなくしたとおもうの。そうおもうと、いい気味だわ」
「しかし、その男も、もう死んでしまっているのに……」
「それなのに、長いあいだ背中に現われてこなかった、ということでしょう。つまり、今度は、わたし自身が復讐されはじめたのね」
もう半年も前になるか。三津子を透明人間に仕立てて、城田は「雅」へ行った。そのあと、傍に誰もいなくても、彼はそこに三津子がいる素振りをつづけた。
そのときの大場雅子との会話を、城田はいま、意味深く思い出している。
城田が執拗《しつよう》にそういう芝居をするので、雅子が、
「まだ、そんな透明人間ごっこを続けているの。もういい加減にして頂戴」
と、不機嫌になった。
そして、その会話は、次のような具合に続いたのである。
城田「しかし、怒ることはないんだ。お互いさまのことだから」
雅子「お互いさま、ですって。それ、どういうことなのかしら」
「あなたの傍にも、透明人間が一人いるということです」
「…………」
「さっき……、二度目に接吻しようとしたとき、不意にあなたは二人になった。もう一人の誰かが、あなたの中に訪れてきて、ぼくとあなたのあいだに挟《はさ》まってしまった。ぼくには、それがはっきり分った。あれは、誰だったのだろう」
「…………」
「やはり、亡くなったご主人ですか」
「…………」
「それとも、ほかの誰か……。考えてみれば、ぼくはあなたのことについて、あまり知っていないなあ」
「あなたのことだって、わたし、なんにも知りはしないわ。いま、あなたの背中のところにくっついている透明人間だって、それが三津子さんかどうか、怪しいものだとおもうわ」
「そういうことが分ればいいんだ」
「…………」
「たとえ、ぼくがあなたを抱いたとして……。かりにの話ですから、まあ聞いてください。その抱いている最中にでも、透明人間がぼくたちの間にいるかもしれない。それは、あなたの言うように、三津子とは限らない。おまけに、ぼくばかりではない。あなたのほうにだって。ぼくの背中に貼《は》りついているのが一匹、あなたの背中に一匹」
そういう城田の言葉が、いまきわめて具体的な形で、眼の前に現われてきたのである。
「しかし、不感症が治っておめでとう」
と、彼は皮肉をまじえて、祝福の言葉を口に出した。
「そういうことになるかしら」
「そういうことですよ。いままで、自分が不感症だったことは、認めるでしょう」
「認めるわ。そのために、背中の絵が姿をみせなかったのだし、それがわたしの復讐だったのだもの」
「しかし、いくら復讐しようとおもっても、心ならずも、隠し彫が姿を見せてしまうことだって起らないものではない。つまり、あなたの神経が、死んだその男によって歪《ゆが》められていたんだな。それが、不感症の原因だったわけだ」
「…………」
「それが、いま治った。やはり、あなたの同性愛は、贋《にせ》ものだったんだ」
「そうかしら」
「そうにきまっている。同性愛では、十分な性感が得られなかったことが証明されているじゃありませんか。それにしても……」
と、彼はもう一つの疑問に頭を向けて、
「なぜ、蜂と熊の絵なんだろう」
と、言った。
女王の冠をかぶって槍を構えている蜂の刺青と見合うのは王冠の蜂、とおもって探していたのに。
女王の冠の蜂。
大きな熊。
この二つに、どういう因果関係があるというのだろう。
雅子は、不意に笑い出して、
「それは、わたしのイタズラよ」
「イタズラ?」
「蜂が怒って熊に向ってきている絵を彫ったわけよ」
「怒って? なぜ怒る」
「熊は、蜂の巣をこわして、蜜をみんな舐《な》めてしまう、というでしょ」
彼はその説明を聞いて、気抜けしたような笑い声をたてた。下手なマンガを見ているような気分だが、そういえば、蜂はマンガ風になっているが……。
そういうことよりも、同性愛の相手の女に、槍をもって向ってくる絵を彫った雅子の気持のほうに興味がある。
互いに寄り添って行く形ではなくて、たたかう形が、いつも大場雅子の心の奥に刻み込まれているのだろう。死んだ夫によって、歪んだ形にされた心の奥に……。復讐心が、たたかいの形を呼び寄せてくる……。
城田は、雅子を覆いかくしている毛布を剥がし、もう一度その背中をたしかめた。
しかし、もうそのときには赤い熊は姿を消し、白いひろがりがあるだけだった。
「もう、いなくなっている」
「そう」
「ともかく、これで大場雅子も一人前になったわけだ」
「でも、背中にその絵が出ているとおもうと……」
「復讐しそこなった気持になるか、その相手の男はもう死んでしまったのだから、いいじゃないか」
「それはいいのだけれど、その絵が出ているとおもうと、気味が悪いわ」
「あまり愛嬌《あいきよう》のある絵じゃないが、そのくらい我慢するんだな。しかし、きみを一人前にするには、やはり男が必要だったわけだね」
「でも、そうなのかしら」
「どうして?」
雅子は、部屋の中を見まわしながら、
「男じゃなくて、こういう形が必要だったのじゃないかしら」
彼も釣られて、部屋を見まわした。葉子は、鏡台の前にこちらを向いて坐っている。
「ママ、そうかもしれないわよ」
と、葉子が言い、
「こういう形が役に立ったのだったら、いつでもつき合ってあげるわ」
「しかし……」
と、彼が口を挿《はさ》んだ。
「せっかく、きみの歪んだ神経が治ってきたのだから、歪んだ形によって治った、とは考えたくないね」
「…………」
「いずれにしろ、きみにとって必要なのは何か、確かめることは簡単だ」
「…………」
「いますぐ、確かめてみることは、これは難しいがね」
と、城田は苦笑し、
「もう今夜は、帰ることにしよう。明日になれば、いつでも確かめる役目をつとめるよ」
「…………」
「ぼくに、もう二度と会わないと言ったあの言葉は、引っ込めてもらっていいわけだね」
と、彼が念を押すように言うと、大場雅子は黙って頷《うなず》いた。
一つの謎は、解決した。
残ったもう一つの謎……、なぜ由美と理加の刺青を、大場雅子が剥がしたという謎も、いずれ彼女の口から聞くことができるだろう、と彼はおもった。
幕が開く
数日後、城田は大場雅子と抱き合っていた。
耳もとで、ささやく。
「どうだ、背中の絵は浮かび上っているようにおもうか」
「そんなことばかり気にしていては、神経が醒《さ》めてしまうもの」
「ちょっと、見てみようか」
「駄目よ、まだ見えていないことは、自分で分るわ。この前のときの感じを覚えているもの」
「しかし、不便だな。今度は壁が鏡になっている部屋を探さなくっちゃいけないな」
「…………」
「それとも、形を変えてみるか。きみの背中のみえる形に」
「もう厭《いや》。そんなことばっかり気にしているなんて」
彼は苦笑して躯《からだ》を離し、並んで横たわると、会話をつづける。
「こうやって、男と並んで寝ていると、どんな気持がする?」
「そうねえ……」
「自然な、落ち着いた気持には、まだなれないかな」
「やはり、すこし落ち着かない気持」
「そうだろうな、長いあいだ女の子ばかり追いかけていたわけだからな」
「追いかけて、なんて……」
「死んだご主人……、ご主人と丁寧にいうことはないね。つまりその男への憎悪《ぞうお》が、男全体への抵抗感にすり替っていたわけだな。それに、自分の躯を虐待された記憶が、同性の躯に針を刺して刺青をしてやろうという気持につながったわけだね」
「…………」
「ところで……」
と、城田が言った。
「もういいだろう、教えてほしいな」
残された一つの謎《なぞ》について、以前に大場雅子と城田とのあいだに、次のような会話があった。
「由美の刺青を剥《は》がしたのは、雅子さんですね」
「そう、あれは、わたし」
「理加の刺青を剥がしたのは」
「あれも、あたし」
「なぜ、剥がしたのですか」
「それは言えません」
「刺青をしたのも、あなたでしょう」
「そうですわ」
「それなら、剥がした理由は分った。刺青をすることは、あなたのレスボスの仲間に入った証拠でしょう。それを剥がすのは、つまり、除名を意味する。なにか、裏切り行為があった……たとえば、男と寝たとか……」
「そうかしら」
「違いますか」
「違うようね。だって、死んでしまった人間を、いまさら除名することはないでしょう」
その謎について、いまもう一度、城田は訊《たず》ねている。
「もういいだろう、教えてほしいな」
雅子の顔に、薄笑いが浮かび、それがしたたかな感じを与えている。しかし、城田はいまは、その感じにおどろきはしない。
雅子が、言った。
「分らないの?」
「分らないな」
「考えたの?」
「もちろん、ずいぶん考えたさ」
「考えすぎるから、いけないのよ」
「というと……」
「はじめてのテレビのスイッチが、どこにあるのか分らないことがあるでしょう。そういう経験がなくって? そういうとき、たくさん並んでいるボタンを一つ一つまわしても、テレビがともらないとすると……」
「分った。今度は、そのボタンを押してみればいい」
「いい考えだわ。でも、それでもまだ駄目だったら?」
「…………」
「今度は、引いてみるのよ」
城田は、苦笑して、
「それはそのとおりだ。つまり、考え方の角度を変えてみろ、盲点のようなものを探せ、と言っているわけだろう。そういう具合な考え方もしてみた、いろいろ考えてみたんだ。だが、分らない」
「教えてほしいの?」
「教えていただきたい」
「ずいぶん下手《したで》に出たのね。恥ずかしくないの? ヒントをあげるから、自分で考えなさい」
「…………」
「あたし、本当は、女の子の刺青を剥がして売ろうとおもっていたのよ。そうおもったときは、まだその皮はなかなかの値打があったわけよ。売る相手は、もちろんアンダーソン。アンダーソンのことは、あたしをヒドイ目に会わせた男に」
「つまり、亡くなったきみの亭主だな」
「その男に聞いて知っていたわけよ。でも、それが実行できないうちに、肝腎《かんじん》の皮の値打がなくなってしまったわけだけれど……」
「しかし、きみが売ろうとおもっていたのは、三津子の皮だろう」
「そうよ」
「由美や理加の皮は、三文の値打もありゃしない。なぜ、そんな皮を剥がしたのか、やっぱり分らないな。あんな下手糞《へたくそ》な絵の刺青の皮なんか……」
「そうよ。いま、下手糞といったけど、その絵を彫ったのは誰だったかしら」
「それは、きみじゃないか。下手糞といって、ご機嫌がわるいようだけど、お世辞にも褒《ほ》められるものじゃない」
「そんなことじゃないのよ。だから、考えが間違った方向に行ってしまうわ。わたしは、下手糞といったのを咎《とが》めているわけじゃないのよ。わたしが彫った絵が、下手だった、というところに鍵《かぎ》があるわけよ」
「…………」
「もう、分ったでしょう」
城田は、苛立《いらだ》たしい気持になる。分りそうで、分らない。こうなったら、意地でも、自分の頭で解決させなくてはいけない。
「分らないが、しかし、いまに分ってみせる」
「そう、それじゃ、黙っていましょうね。でも、分ったら、きっと怒るわ」
「怒る?」
雅子は、相変らず、薄笑いを浮かべたまま、
「怒るわね、馬鹿にしやがって、とね」
城田は、嘲弄《ちようろう》されている気分になってきた。会話ででも、振りまわされている。そういう雅子の上手《うわて》に出るために、彼は言った。
「ところで、ぼくは『快楽コンサルタント』の役目を、十分に果したことになるわけだね」
「ずいぶん、愉しませてもらったわ」
その言い方には、雅子が彼を翻弄している愉しさも含まれているようで、気に入らない。しかし、雅子は素直に、言葉をつづけて、
「透明人間も出してもらったし、酒場にも案内してもらったし……」
「本物の快感も教えてあげたし」
「…………」
「そうでしょう」
雅子は、曖昧《あいまい》な表情になる。口を開きかけたが、言葉を見付けそこなっている。城田は自分が上手に立ったことを感じ、弱い女の躯を強い男の手で扱う気配を示しながら、乱暴に雅子の躯を裏返した。
雅子の白い背中のひろがりが、彼の目の前にある。
その背中が、揺れる。
やがて、目の前のひろがり一面に、赤い模様が浮かび上ってきた。
一匹の大きな赤い熊が、雅子と城田のあいだに立ち塞《ふさ》がり、雅子の背に覆いかぶさっている。
それが、醜くみえる。また、刺戟《しげき》的にもみえる。
大場雅子にあこがれていた時期のあったことを、彼は思い出した。典雅な、いかにも女らしい女性におもえていた。しかし、雅子はまったく違う女だった……。いや、大場雅子は、やはり女らしい女性ということができるかもしれない。粗暴な男に傷《いた》めつけられ、背中に刺青を施され、そういうことのために、彼女の中の「おんな」が開花しそこなった。
それが、すべての原因である。その「おんな」を回復しようとしたさまざまな行為であると、大場雅子の異常な振舞いを解釈することもできそうだ。
城田の目の前の赤い模様は、まだ消えない。この模様が出たことは、たしかに城田の「快楽コンサルタント」としての役目の完了を意味している。
そして、大場雅子とのつながりも、それで終ったことになるのか。
城田祐一は、一人で酒場「紅」の階段を降りて行く。
残された一つの謎を、自分一人の考えで解こうとして、長い時間考えに耽《ふけ》ったが、どうしても駄目である。気分を変えようとおもって、酒を飲みに出かけたわけだ。
席につくと、この前と同じように、理加と葉子とが近寄ってきて、彼の左右に坐った。二つの柔らかい躯に、彼は挟《はさ》まれている。
理加が肩を押しつけてきて、
「意地悪……」
と、鼻声で言う。
その意味は分る。この前、理加を置き去りにして、葉子と大場雅子と三人の形になったことについて、言っているのだ。
「癖をつけておいて」
と、理加は言い、
「肝腎なときに、除《の》けものにするなんて」
城田は、葉子の顔に眼を向けながら、
「しかし、そのほうがよかったのかもしれないんだぜ」
「どうして」
「葉子に聞いていないのか」
「なんのこと」
「いやはや、おどろいたねえ」
と、彼は葉子に向って言う。葉子は、まだ理加に大場雅子の背中について、話していないらしい。
「おどろいたわ」
葉子はようやく口を開き、
「でも、そんなこと、言っていいの」
「なんのことなの」
理加が、訊ねる。彼は大場雅子の、嘲弄するような態度をおもい浮かべ、「言ったって構わない」とおもった。
「つまり、『雅』のマダムの背中に、大きな刺青があったのさ」
「嘘」
すぐに、理加は言う。
「そんなものは、無かったわ」
「なるほど、きみがそう言うのは無理もないが、刺青があるのは、嘘じゃないよ」
「あたしとのことのあとで、彫ったのかしら」
「前から、あったんだ」
「それは嘘」
そこで、城田はその刺青の性質について、理加に説明することになる。
「へえ、おどろいたわね」
と、理加が言い、彼は葉子に、
「きみは、理加に話さなかったのか。よく黙っていたね」
「なんだか厭な気がして、話す気になれなかったのよ」
「どういう厭な気なんだ」
「どういうって……、ともかく、厭な気持」
そこで、しばらく三人とも黙ってしまい、酒のグラスを口に運ぶ。
「意地悪……」
また、理加が肩で押してきて、
「最初から、そのつもりだったのね」
その意味が分らない。
「え? なんのつもりだというのだい」
「三人の組合わせのことよ。最初は、あたしと葉子と城田さんだったでしょ。だけど、城田さんが狙っていたのは、べつの組合わせだったわけよ。『雅』のママと葉子と……、だから、あたしは……、つまりリハーサルに使われたわけね」
「リハーサル……」
その言葉を、彼は口に出して言ってみた。なにかが、頭の奥で動いたような気がした。それがなんなのか、まだ分らない。
「そのことなのよ」
不意に、葉子が口を挿む。これも、どういう意味か、彼には分らない。
「あたしが、厭な気がした、というのも、それに似たことなのよ」
「つまり、どういうことなんだ」
「前に、うちで働いていた三津子ね、あの三津子も、刺青があった、と言っていたわね」
「そうだ」
「それも、隠し彫が……」
「きみは、何を言いたいんだ」
苛立って、彼は催促した。
「あなたってね、結局、最後の目的としている形は、『雅』のママと三津子なのじゃなくって。あの刺青をみたときは、ずいぶんおどろいたけど、おどろいた気持がおさまってきたとき、不意にそうおもったわ。あたしも、理加の言うように、やっぱりリハーサルに使われたような気がするのよ」
「リハーサル」
もう一度、城田祐一は口の中で呟《つぶや》いた。
彼は、葉子の言葉について考えてはいない、まったく別の考えが、その単語から触発されかかっている……。
不意に、城田の眼が輝いた。
「リハーサルか」
今度は、大きな声で言うと、
「分ったぞ!」
と、叫んだ。
そして、あっけに取られている二人の女を残して、「紅」から急ぎ足で出てきた。大場雅子に会うつもりなのだ。
「分った」
と、城田は大場雅子に言った。
「ほんとに、分ったのかしら」
雅子はからかうように、彼の顔を眺めている。
「分った……、きみも人を喰った女だねえ……」
彼がそう言うと、雅子の顔に薄い笑いがひろがって行き、
「どうやら、分ったらしいわね」