「だって、こんな静かなところで、靴の音が一緒になってしまって……。なんだか居心地がわるくて……」
「居心地が悪い?」
それも、質問の口調ではなかった。城田祐一は、三、四段、階段を雅子のほうへ登って行き、すぐ傍に向い合った。
大場雅子の顎の先に指をかけ、その顔を上向かせると、彼はいきなり唇を合わせた。
唇が離れたとき、
「なぜ?」
と、大場雅子は言ったが、それはほとんど無意味な言葉である。
「これを忘れていた」
そう言ったのは、城田である。
「忘れていたって、それ、どういうこと?」
「いや……」
彼は、曖昧《あいまい》に口ごもる。大場雅子にたいしての自分の態度を、難しく考え過ぎていた。「大場雅子のエレガントなところを、すこし揺すぶってやりたい」とおもったり、「大場雅子にたいしては、恋人になりたいのでもなく、また結婚したいというわけでもなく、もっと複雑な関係を持つことだ」とおもったりしている。彼は「複雑な関係」についての青写真を頭の中に描いていないわけではない。しかし、大場雅子について、そのようにいろいろ思いをめぐらすということは、結局、彼女を大切に考え過ぎている、といえた。大場雅子は彼の観念の中に住む女で、彼女が生身の一人の女であることを、とかく忘れがちだった。
「忘れていた」
彼が言ったのは、そういう意味合いだったが、口に出してうまく説明もできないし、説明すべき事柄でもない。返事のかわりに、彼はもう一度、大場雅子の躯を引き寄せ、唇を合わせようとした。
そのとき、わずかだが烈しく躓《つまず》くようなためらいが、大場雅子にあらわれた。それはすぐに消え、やさしく唇を寄せて行く。
唇が合いそうになったとき、不意に彼は顔をうしろに向けて、片手を大きく振り、何ものかを振り払う仕種《しぐさ》をした。
「おい、抓《つね》るのはよせ」
もちろん、それに受け応えする声はなく、彼の声だけがつづいた。
「三津子くん、きみの怒るのは、もっともだが、ついきみのいることを忘れていた。なにしろ、きみは眼に見えないものでね」
そのとき、大場雅子は憤りを含んだ声で、言った。
「まだ、そんな透明人間ごっこを続けているの。もういい加減にして頂戴」
階段に当る大場雅子のハイヒールの踵《かかと》の音が、彼女の怒りを感じさせるように、鋭くひびきつづける。一方、城田祐一は、その怒りをさして気にもとめぬ顔で、靴の音も屈託のないようなひびきを立てているようだ。
二人とも、口をきこうとしない。八階から一階までの、長い階段を降りて行った。
戸外へ出ると、夜が拡がっていた。雑踏と光の夜である。コンクリートの細長い箱に閉じこめられたようなビルの階段の冷やかさに比べると、そこには人々の体温を感じるあたたかさがある。
「まだ怒っている?」
「ええ」
雅子の答えは、素気ない。
「しかし、怒ることはないんだ。お互いさまのことだから」
「お互いさま、ですって。それ、どういうことなのかしら」
「あなたの傍にも、透明人間が一人いるということです」
「…………」
宙を探っている眼に、雅子はなった。
「さっき……、二度目に接吻しようとしたとき、不意にあなたは二人になった。もう一人の誰かが、あなたの中に訪れてきて、ぼくとあなたのあいだに挟《はさ》まってしまった。ぼくには、それがはっきり分った。あれは、誰だったのだろう」
「…………」
「やはり、亡くなったご主人ですか」
「…………」
「それとも、ほかの誰か……。考えてみれば、ぼくはあなたのことについて、あまり知っていないなあ」
「意地悪ね……」
そう言うと、雅子は俯《うつむ》いて、考えにふける風情《ふぜい》である。街を歩いて行く足取りが、にわかに遅くなった。やがて、顔を上げると、傍のショウ・ウィンドウの前に立ち止まり、その中を覗《のぞ》きこむようにして、
「もう、今年の水着が飾ってあるのね」
その言葉が、いかにもわざとらしい。
「問題を避けてはいけませんね」
城田は、彼女と並んで、まるで黒い網のような新型水着を眺めながら、そう言う。
「あなたのことだって……」
水着から眼をはずした雅子は、城田のほうに向き直ると、戦闘的な口ぶりで、
「わたし、なんにも知りはしないわ。いま、あなたの背中のところにくっついている透明人間だって、それが三津子さんかどうか、怪しいものだとおもうわ」
「そういうことが分ればいいんだ」
「…………」
「たとえ、ぼくがあなたを抱いたとして……」
「なんですって」
「かりにの話ですから、まあ聞いてください。その抱いている最中にでも、透明人間がぼくたちの間にいるかもしれない。それは、あなたの言うように、三津子とは限らない。おまけに、ぼくばかりではない。あなたのほうにだって。ぼくの背中に貼《は》りついているのが一匹、あなたの背中に一匹」
「あたしは……」
「いない、というのですか。あなたが、以前ご主人と暮しているときにでも、べつの誰かがあなたの背中に貼りついていなかった、とはいえない」
「そんな……」
「そんな深刻なことではなくて、昼間、街で見かけたちょっと魅力的な青年だって、あるいは映画でみた外国の俳優だって、あなたの背中に貼りつかないとはかぎらない」
「そんなことって、あるかしら」
「認めたくないのですか」
「…………」
「ぼくの言いたいのは、男と女が一対一でつき合っているつもりでも、その関係はしばしば、いや、いつも、複数と複数とでつながっている、ということですよ」
二人は、飾窓の前に立ち止まったままである。雅子の顔が、窓の方に向いた。その顔に、迷いが走っている。しばらくその迷いがつづいて、やがて、彼女はその話題を打ち切るように、言った。
「城田さんは、人生を複雑にしてくださるのね。それも、きっと、わたしのコンサルタントとしての役目の一つなんでしょうね」
城田は、何か言いかけて、口を閉じ、彼もまた窓の方を向いた。
「あらあ」
華やかな声が、飾窓に向って並んでいる二人の肩のあいだでひびいた。
「お二人で、今年の水着のニュー・モードについての意見をたたかわせていらっしゃるのね」
そのような恰好にみえないものでもなかったな、と彼はおもった。そうおもったときには、すでにその声が、三津子であることは分っていた。
「ややっ、薬が切れて、透明人間が姿をあらわしたな」
彼は、道化た口調で言った。
「まだ、あたしは透明人間でなくちゃいけないの」
「そうさ。きみぐらいチャーミングな女の子だったら、あちらこちらの男の背中に姿を消して貼りついているわけだ」
その言葉の意味は、三津子には通じはしない。しかし、城田はむしろ大場雅子にたいして念を押すように、言葉をつづけた。
「きみが透明人間の役目をするのは、ぼくにたいしてだけというものじゃないのさ」
「なんだか、さっぱり分んないわ」
三津子は、こだわらずにそう言うと、すぐに注意をショウ・ウィンドウの中に移して、
「すてきな水着ね」
「しかし、きみ」
城田も、話題を水着に移した。
「あの水着を、着ることができるか。あれは、ショウ・ウィンドウに飾っておくためのものだ、とぼくはおもうがね」
「そんなことないわ、着れるわよ。買って頂戴、着てみせるから」
「しかし、網ばかりで、布のところが無いみたいじゃないか。あれでは、とても隠せるとはおもえない」
「だって、水着って、隠すものじゃないでしょう。躯を見せるためのものでしょ」
「へえ、なるほど」
城田は感心して、窓の中の水着と、三津子とを見比べた。
そして、心の中で三津子を裸にして、その黒い網の水着でその躯を覆ってみた。まるで悪事を働いているように、傍《そば》の大場雅子を窺《うかが》ったが、水着姿の三津子は彼の頭の中から消え去りはしない。
透明人間ごっこ
城田祐一は、腕時計を街の光に当てて、時刻をしらべた。夜の七時五十分である。
「きみ、『紅』に勤めているのか」
彼が、三津子に訊ねた。
「そうよ」
「今夜は、遅刻だね」
「遅刻といえば、遅刻だけど。ともかく、あれ以来ずっと勤めているのよ。城田さん、今夜はこれからどうするの」
彼は大場雅子の顔を反射的にうかがったが、
「べつに、もう用事はないが」
「それじゃ、一緒にお店へ行かない」
「なるほど、客を引張って行けば、遅刻にならないで済むわけだな」
「そんなつもりもないのよ。あたし、そんなに熱心じゃないの、いつやめてもいいの」
「そうか、きみの性格からいえば、たしかにそんなところだろうな」
と城田は言い、
「マダムも、ご一緒にいかがです」
そういう言い方で、大場雅子を誘ってみた。
「そうね、わたしは遠慮しておくわ」
ちょっと考えて、彼女はそう言う。
「それでは、また今度」
「ではね、城田さん、わたし今夜はきっとよく眠れるわ。運動が十分ですもの」
「今度は、もっと沢山運動させてあげます」
「もう堪忍《かんにん》、だわ」
ビルの階段を八階まで登り降りしたことを指しているのだが、知らぬ人が聞いたら艶めいた会話とおもうかもしれない……、と城田はおもった。大場雅子が背中をみせて去って行くと、三津子と一緒に地下室へ降りて行くことに、気持が積極的になっているのに気付く。
「では、行くか」
「行きましょう」
歩き出した三津子は、しばらくして立ち止まると、ハンドバッグの口金を開き、なかを覗き込んでいる。やがて、小さな瓶《びん》を取り出した。
レッテルの貼られていない、透明ガラスの瓶の中に、真赤な錠剤が詰まっている。その一粒を、彼女は掌の上にころがすと、城田の鼻先に差し出した。
「なんだ、それ」
疑わしそうに、彼は三津子の掌の上を見詰めた。
「ともかく、嚥《の》んで」
「ともかく、というが、そういう薬はうっかり嚥めない」
「あたしを、信用しないの」
「信用しないわけではないけど、きみについては知っているようで、案外知らないことのほうが多いからね」
「でも、人間同士って、みんなそんなものでしょう」
城田がおもわず顔を見たくらい、おとなびた言葉を吐いた三津子は、にわかに子供染みた笑顔になると、
「透明人間ごっこ、しましょうよ。だから、これ嚥んで」
「おや……」
城田は苦笑して、その薬の粒を口のなかに入れた。精神安定剤かなにかだろう、見覚えのある薬のような気がした。
「それで、城田さんは透明人間になったのよ」
無邪気な笑顔で、三津子は言う。そして、二人はふたたび歩き出した。すれ違う人々のなかで、ときどき振り返る顔もあるが、もちろんその視線は三津子に向けられる。だいたい、街ですれ違った美人を振り向いたときには、次には連れの男のほうへも確かめるような視線を送るものだ。しかし、三津子に向けられた視線はそこにとどまって、城田にまで移ってこない。
それは、混血児の三津子が、日本人かどうか判断のつきにくい顔をしているので、振り向いた視線がその顔にとどまる時間が長くなるせいだ、と城田には分っている。しかし、自分が無視されるのは、自分が透明になってしまっているせいではなかろうか、という錯覚に捉えられる瞬間がある。
やがて、「紅」の袖看板が見えてきた。
三津子は、彼の肩にすがりつく形になって、一緒に狭い階段を降りて行く。そして、そのままの姿勢で、店の中に入った。
「あら、三津ちゃん遅刻よ」
そういう女の子の声がかかったが、城田を迎える声は一つも起らない。女の子たちの視線を調べてみても、それらはみな三津子に向けられていて、自分は無視されている気がする。まるで、城田祐一の姿が見えていないような按配《あんばい》だ。
「おれは、透明になっちまったんだろうか」
もう一度、その錯覚が起りかけ、ふと気付いた。彼の胴に巻きついている三津子の片手が、赤い薬の入ったガラス瓶を掴《つか》んでいる。その瓶が、店の女たちにたいする信号のようにみえた。
「ははあ、透明人間ごっこを、三津子のやつ、だいぶ流行《はや》らせているな」
と、彼は三津子の手のガラス瓶を奪い取り、カウンターの端に席を取った。
一方、大場雅子は城田と別れて、一、二小さな買物をすると、自分の経営するレストラン「雅」に戻ってきた。
八時半近かった。「雅」は九時閉店である。店はすいていて、中年の肥った紳士が一人、ふくらんだ腹を椅子の上で突き出すようにして、デザートのコーヒーを飲んでいる。
「やあ、マダム」
声をかけたのは、男のほうが先である。感情がそのまま顔に出るタチの男とみえて、マダム目当てで通っていることが、一目瞭然である。今夜は会えないのか、と気落ちしていたところに、大場雅子が姿を現わしたので、喜色が露骨にあらわれていた。
もっとも、マダムを目あてにレストランに通うというのは珍しい例である。
「マダム、今日のタン・シチューはおいしかったですよ。しかし、今度は一度、脳味噌《のうみそ》の料理をつくってもらいたいな、あれはまったく……」
男は涎《よだれ》の垂れそうな口もとになり、脳味噌料理におもいをこめた眼つきをマダムに向けた。もちろん、マダムの顔に視線を向けたときから、その眼には野心と色気が混じりこみ、相手を窺う眼つきになっている。
大場雅子は、その露骨さに困った顔になりながら、
「ええ、前から考えてはおりますのよ。でも、よほどのかたでないと」
と、よほどの通《つう》という含みを持たせて、
「召し上るかたがないとおもいまして……」
「そう……」
男は、宙を見る目つきをした。その頭の中には脳味噌料理が浮かんでいるようだったが、それが不意に大場雅子の姿に切り替ったものとみえて、
「ところでマダム、今夜はもう終りだろう。どこか酒場でも、ご案内しようか」
「あら、井山さん、そんなことをしたら、奥さまに怒られましてよ」
男の名は、井山卓次郎という。彼の恐妻ぶりは、有名なのである。
井山が一瞬返事の言葉に詰まったので、雅子はまた困った顔になった。軽く受け流してもらえるとおもった言葉に、手応えがあってしまったので、何かいそいで言わなくてはいけない。
「でも、井山さんが、バアにいらっしゃるなんてお珍しいこと」
「わたしだって、ときには覗いてみるさ」
「バアでしたら、いま『紅』に城田さんがいらしている筈ですわ」
「なに、城田くんが……」
城田の先輩の春海《はるみ》と、この井山とが友人同士であるので、井山と城田とは以前からの知り合いである。
「しかし、どうして城田くんが『紅』にいることが分るのかね」
井山は、ふたたび窺う眼になっている。かえって具合のわるいことを言ってしまった、と雅子はおもったが、
「いえ、さっき偶然、城田さんと街ですれ違いましたの。そのときに、なにかそのようなことを言っていらしたものですから」
さりげないその言葉を、井山はすぐに信じた顔で、
「そうか、『紅』なら、春海に、二、三度連れて行かれたことがある」
「わたしは、この次のとき連れて行っていただきますわ。今夜は、ちょっと用事がございますの」
「そうですか」
井山は残念そうにそう言い、ふと思い出したように、
「城田くんで思い出したが、この前この店に透明人間があらわれたそうだね」
「あら、どなたにお聞きになりまして」
「そこの余志子くんに、たったいま。なんでも、紅茶茶碗だけ宙に浮かんでしまって、とってもこわかった、と言っていたが。どうせ、出鱈目《でたらめ》にきまっているが」
「ほんとなの、余志ちゃん」
と、おもわず咎《とが》める口調で雅子は言い、むしろ吃驚《びつくり》したように顔を眺めている余志子をみて、雅子は自分の態度が大人気なかったとおもった。マダムが不在なので不機嫌な井山に、なんとか面白い話題を提供しようとして、余志子は努力していたに違いない。だから、井山が、
「それなら、ちょっと『紅』を覗いてみるか。そうだ、余志子くんを連れて行ってみようか、どうだろう」
と言ったときには、雅子は寛大な心持になっていて、
「それもいいかもしれないわ。余志ちゃん、おともしてみたら」
むしろ、すすめる口調になっていた。
カウンターの端の席に坐った城田の傍に、ホステスが二人坐ったが、誰もまだ彼には話しかけない。更衣室から出てくる三津子を待っている構えである。
マダムの圭子が、そういうカウンターの隅に向って、声をかけてきた。
「あんたたち、そんな隅にかたまっていないで、あっちの席へ行って手伝って頂戴。今夜はお休みの子が多くて、人手不足なんですからね」
あきらかに、マダムも「透明人間ごっこ」に一役買っている。
城田のとなりにいるのは、焦茶色に肌をこがしている美少女である。胸の隆起が、洋服の上からでも目立っている。彼はゆっくり手を伸ばして、そのふくらみを強く掴んだ。
「あらっ」
胸をすぼめたその女は、下から彼の顔をうかがう眼になって、
「やめて、城田さん。痛いじゃないの」
「おや、見えるようになったのか」
「もうお芝居が終りになってしまったわね」
と、マダムは笑いながら、
「透明人間ごっこを考えたのは、城田さんなんですってね」
「ぼくは、そういうつもりで考えたわけでもないんだが」
「でも、面白いわ。うちのお店では大流行なの。この前なんか、四人連れのお客さんのうちの一人だけにお薬を飲ませたのよ。その人は、見えなくなって、そこにいないことになるでしょう。そうしておいて、残りの三人でさんざんその人の悪口を言うの。でもね、ずいぶん際どいことを言うのだけど、その人が聞いて、本当に怒るようなことは言わないのよ。そこが、芸のみせどころね。みんな悪い人たちばかりだったから、とってもシャレた面白い会話になったわ」
「なるほど、しかしそれは女同士ではできない遊びだね。男同士でなくては駄目だ」
「そうね、そういうときに、さらりと笑える上手な悪口って、女には難しいわね……。それはそうと、三津ちゃんは、お父さんの方がアメリカ人?」
マダムはちょっと声を落して訊ねる。
「たぶんそうだろう、よく知らないんだ」
そのとき、更衣室から三津子が姿を現わしてきた。マダムは、すぐに話を元に戻す。
「それにしても、万一そんな薬があったら、これはずいぶん……」
「ずいぶん、どうなのですかね」
「ベッドと洋服ダンスが売れなくなるだろう、とおもって」
「何だって、どういう関係があるんだ」
「だって、それを嚥めば姿が見えなくなる薬があれば、間男のかたたちはベッドの下や洋服ダンスの中に隠れないで済むようになるでしょう」
「きみ、ベッドとか洋服ダンスは、最初から間男を隠すつもりで買うものじゃないぜ。たまたま、そこにあるから隠れるんだ。なぜ山に登るか、そこに山があるから。なぜ間男はベッドの下に隠れるか、そこにベッドがあるから……」
三津子は城田の傍へ坐ると、
「あら、もう透明人間ごっこは、おしまいになっているの……」
「そう、演技未熟の女の子が一人いてね。それにしても……」
と、彼はさっき三津子の手から奪い取ったガラス瓶をポケットから出して眺めると、
「たしかに、この薬にはいろいろ使い道があるらしい」
「城田さんは、どんなつもりで使っていたの」
「ぼくはもうすこし……、いや、きみたちの使い方のほうが無難だな。たしかにそのとおりだ」
眼の前の閃光《せんこう》
「やあ、城田くん、相変らず元気にやっているね」
余志子を伴った井山卓次郎は、「紅」に入ってくると、女たちに囲まれた城田を見てそう言った。
「部長、おかげさまで」
城田は立ち上ると、直立不動の姿勢をつくって、答える。井山はある製薬会社の部長で、その会社がスポンサーになっている連続ドラマの脚色を、目下城田は手がけている。もっとも、城田の直立不動の姿勢はわざとらしくつくったもので、そこには剽軽《ひようきん》な感じはあっても、卑屈なものはなかった。
「それにしても、君くらいの齢で、そんなに暢気《のんき》に暮しているテレビ作家というのは、滅多に見あたらないがね。仕事がなくて困っているか、反対に、多すぎて遊ぶ暇がないか、どちらかだ」
と井山が言うが、べつにその言葉に恩着せがましいひびきはない。
「あら、城田さん、テレビのドラマも書いているの」
とぼけた顔で、そう言ったのは、余志子である。
「それじゃ、ぼくの仕事はなんだとおもっていたんだ」
「うちのマダムの快楽コンサルタントだとばっかり……」
「あれは、無報酬だからね」
「ほんとに報酬がないのかしら」
その会話を聞いた井山が、口を挿《はさ》んだ。
「どういうことだ、その快楽コンサルタントというのは」
詰問する口調になっている。感情がすぐ顔に出る性質なので、いくぶん顔色が変っている。大場雅子と城田とが、秘密の快楽をわけ合っているのではないか、と疑っているようにみえる。
「べつに、どうということはないのですよ……」
と、城田は説明しなくてはならない。
「あのマダムは、齢のわりに初心《うぶ》なところがあるでしょう」
「そうだ、雅子さんのそこがいいんだ」
「つまり、子供みたいな好奇心やおどろきが、いまでもそのまま残っているところがある。だから、マダムのそういう部分が反応を示すタネを見つけてきてあげるわけです。快楽というと話が大袈裟《おおげさ》になってしまうが……」
「そうかね」
と、井山は疑わしげに、城田を見た。
「そうですよ」
と言い、「余計なことを言う」という気分で、城田は余志子を睨《にら》んだ。それが、一層疑わしげな雰囲気《ふんいき》をかもし出してしまう。その気配を救おうとおもって、マダムの圭子が口を出した。
「城田さんは、うちのお店でも、快楽コンサルタントなのですよ」
「冗談じゃないよ。きみたちのようなベテランに教えるものは、なにも持ち合わせてはいないさ」
「でも、城田さんの発明した透明人間ごっこ。いま、うちのお店では大流行なのよ。みんな、いろいろの形で、愉しんでいますの」
と、圭子は井山に向って説明する口調である。
「その透明人間というのは、さっきも余志子くんに聞いたが、それがそもそも、わたしにはよく分らん」
と、井山は不機嫌である。
「この前、面白かったわよ」
城田のとなりに坐っている、焦茶色に肌をこがしている美少女が、不意に話し出した。
「リカのボーイ・フレンドを透明人間にしちゃったの」
理加という名の女の子は、顎《あご》のしゃくれた小さい顔をした、小柄な女である。話し手の女の名は、由美という。
「お店が終ってから、横浜のクラブへ踊りに行ったのよ。リカと、リカのボーイ・フレンドと三人で。そのクラブで、真赤な錠剤を嚥《の》ませちゃったの」
「それで」
「透明人間になっちゃったわ」
「なるわけがない」
「だって、なることになっているのだもの。あんた、透明人間になっちゃったのよ、と言ったら、その子、へえ、って吃驚《びつくり》していたっけ」
「へえ……」
「それから、旅館へ行っちゃったわ」
「誰と」
「リカと二人で」
「その男の子はどうした」
「だって、その子は透明人間になっているのだもの」
「なっている、といったって、きみ。つまり、三人で旅館へ行ったわけか」
「三人といったって、一人は見えないわけだもの」
「しかし、旅館の連中には、見えるだろう」
「もちろん見えるわよ。もし見えなかったら大変だわ。本ものの透明人間になってしまったことになるもの」
「どうも、きみと話していると、頭が混乱してくるな。それから、どうなった」
「リカと二人だけでしょう。だから、リカと寝たわ」
「寝た?」
「あら、知らなかったの。あたしとリカとは仲良しなのよ」
美少女の二つの躯《からだ》が絡み合っている図が、城田の頭の中に浮かび上ってきた。
「それで、その男の子はどうした」
「すっかり頭にきちゃっていたわ。若いから、無理はないわね」
「若くなくても、頭にくる」
そう言ったのは井山で、言葉は道化ているが、生まじめなひびきが含まれている。そして、城田の傍にいる三津子に視線を当てると、
「この子が、リカというのか」
「ちがうわよ、リカはあっちの席」
否定の言葉を聞いても、井山は三津子の顔から眼を離さないでいる。三津子の美しさに、いま気付いた恰好で、それも刺戟《しげき》的な話を聞いたため、その美しさから眼が離せないようにみえる。
「それで」
と、城田は話の先を促した。
「それで……、おしまいよ」
「その男の子は、参加できなかったのか」
「透明人間は、参加できないわ」
「そんなことはない、透明のままで、参加できるさ」
「それも、そうね」
「それで、参加したか」
「したわ」
「やっぱり、したのじゃないか」
「でも、あれでは、参加したとはいえないくらいね。だって頭にきちゃっていたんだもの」
「それじゃ、両方へは参加できなかったわけだな」
「もちろんよ」
「リカのほうへ、僅かに参加か」
すると、由美は宙をみる眼になった。その眼が、一瞬、嘲《あざ》けるように光る。
「あら、どちらだったかしら。もしかすると、あたしのほうへかもしれなくってよ」
井山が、落ち着かなくなった。椅子の上の躯が、不安定である。
「わたしは、そろそろ帰るぞ。城田くん、君はまだいるつもりか」
城田だけ残しておくのも気にかかる、という顔になっている。
「ぼくも出ましょう」
余志子と三人で戸外へ出ると、井山が言った。
「いや、まったく、ひどい話だ。口なおしに、もう一軒行くか」
余志子が、甘ったるい口調で言う。
「あたし、お酒もう飲めないわ。アンミツが食べたいの」
白くぽってり肥った余志子の顔と、睡《ねむ》たげな目蓋《まぶた》とが、アンミツによく似合う、と城田はおもった。
「アンミツというのもなんだが、コーヒーならつき合ってもいい。余志子くんは、そこでケーキでもアイスクリームでも食べればいい」
喫茶店を探して、三人は入った。席につくと、井山はもう一度言う。
「まったく、ひどい話だな。けしからん話だ」
その言葉とはうらはらに、井山の顔は昂奮《こうふん》で軽く汗ばんでいるようにみえる。
そういう井山にたいして、城田はおだやかな反駁《はんばく》をこころみはじめた。
「ひどい、といえばたしかにひどいですね。しかし、これがモラル違反か、規則違反かということになれば、ぼくは規則違反と考えます。四十キロ制限の道路を五十キロで車を走らせれば、これは規則違反ですがね。しかし道路によっては八十キロで走ってよいところもある」
「それは君、違うな。なぜ四十キロに制限されているかといえば、それ以上出すと危険な事態が起る、という判断に基いている。だから、四十キロ以上出せば、規則違反と同時にモラルに背くことにもなる」
「しかし、真夜中に、車が一台も走っていない道を、五十キロ出してもモラルに背くとはおもえませんがね……。それでは違う例をあげてみましょう。細君を三人まで持っていいという規則ができている、としましょう。現に、そういう国もあるようですが、もしぼくたちが生れたときからそういう規則ができている、とする……」
「それを、ルールとおもうか、モラルとおもうか、だが」
「ぼくは、たんにルールだとおもうわけですがね。ともかく、そういうルールができていたとする。男が年頃になる。『どうですか、もう結婚されていますか』『ええ、一人目は見付けましたが、どうも、なかなか二人目に適当なひとがいなくて。どこかに、お心当りありませんか』などという挨拶が日常茶飯のことになる……」
「どうも、君の考え方は、危険だね」
「そうですか」
「やはり、一夫一妻制が、これだけ長い間ひろく世の中におこなわれているということは、それが人間の本性にうまく合っているということだよ。それはすでに規則ではなくて、モラルの域になっているとおもうね」
井山のそういう反対意見を聞きながら、城田はとりとめのない考えごとに沈みはじめた。男と女との複数の関係について、大場雅子に説明したのは、ほんの二時間ほど前のことである。そのときは、心理の上の複数の話だった。
しかし、「紅」で由美の話した複数関係は、きわめて具体的なものである。
あるいは、そういう関係は、由美のような職業の女たちのあいだでは、すでにそれほど珍しくないものになっているのかもしれない。
結婚、というものに敵意を示す女たちが、彼女たちのあいだではかなり多いのは、城田もこれまでにしばしば見聞してきたことだ。それは、裏返せば、彼女たちが結婚という、平凡で世の中に無事に受け入れられる形式にあこがれていることかもしれない。そういう形式から、はじき出されている自分たちを感じ、そういう形式に歯を剥《む》いてみせる。
さらには、複数の関係を持つことで、そういう形式を嘲っている気持を掴もうとする。そういうことは、大いにありうることだ。
しかし、世の中に受け入れられている形の中にいる人たちの心の底にも、あるいは複数の関係へのひそかな憧《あこが》れがありはしないだろうか。けっして無いとは言えないようだ、と城田は井山の顔に、窺《うかが》うように、狙うように眼を向けた。
刺青
十日間ほど仕事が忙しくて、城田祐一は机の前にいるか、テレビ局へ出かけても真直に家へ帰ってくるかで、街へ出なかった。
ようやく一区切りついて街へ出たとき、まず耳に入った噂《うわさ》というのは、井山卓次郎が毎夜のように「紅」へ顔を出しているというものだった。その噂を聞いたのは、レストラン「雅」に行ったときで、余志子の口からである。
「井山さんは、酒場へはあまり行かない人なんだがね」
「だから、珍しいでしょう」
「そういう井山さんが通うのは、女の子に目当てがあってのことというわけになるな。それは、誰なんだ」
「それが、よく分らないのよ」
「分らないって、井山さんの席につく女の子は、誰か分っているだろう」
「それは、由美さんよ」
由美というのは、肌をチョコレート色に焦した娘である。
「それでは、その由美というのが、そうだ」
「でも、ときどき、三津子さんが傍に行くこともあるのですって」
「由美か三津子か、どちらが目当てか、井山さんの顔を見れば分る筈だよ。あんなに、気持が顔色にあらわれる人は珍しいからね」
「それが、分らないのですって。城田さんの考えているほど、単純な人じゃないとおもうわ。そんな単純な人だったら、あんな大きな会社の部長さんは勤まらないでしょ」
「もちろん、すべてにわたって単純とおもっているわけじゃないが……」
と言った城田は、ふと気付いたように、余志子の顔をみて、
「しかし、きみはどうして井山さんが『紅』にかよっていることを知っているんだ」
と訊ねた。余志子は、傍の大場雅子のほうに顔を向けながら、
「それは、城田さんがしばらく姿をあらわさなかったせいなのよ。マダムの快楽コンサルタントがいないので、あたしが『紅』へおともすることになったの」
閉店時間の過ぎた店のテーブルに、三人の男女が集まって、コーヒーを飲みながら話しているところである。
「そうなのよ」
と、雅子が受けて、
「わたし、退屈だったもので、おととい余志ちゃんに案内してもらったの」
「そのとき丁度、井山さんと入れ違いだったということで、いろいろお話が出た、というわけなのよ」
と、余志子がつづける。
「しばらく街へ出ないでいるうちに、天下の形勢がだいぶ変ってきたようだな。これは、様子を見に行かなくてはならない。マダム、今度はぼくがご案内しますよ」
城田は勢いこんで立ち上りかけた腰を、もとの椅子に戻すと、
「もっとも、男の遊び場だから、女性が行って面白いかどうか……」
「わたし、面白いの。連れて行って頂戴」
立ち上った雅子を見て、城田は余志子も誘った。余志子は首を横に振ると、
「あたしはやめておくわ。またべつのときアンミツをご馳走していただいたほうがいいわ」
地下室にある酒場「紅」への階段を降りて、店の中に入ると、そこに井山がいた。その傍には、三津子と由美が坐っている。
城田が二人の女を見比べる気持になったとき、井山のほうも城田と雅子を見比べる表情になっているのに気付いた。
「これは、まずかったかな」