「おい、きみの刺青をみせてくれ」
「あら、気付いたの」
「気が付かなかったのだが、あるという話を聞いたものでね。それで、探していたんだ」
「足の裏まで、探していたわけね。でも、誰に聞いたの」
「誰にって、井山さんさ。ほかに、聞く相手がいるのかい」
「井山さんて、お喋《しやべ》りね」
「ひょっとした拍子に、そういう話になってしまったんだ」
「弁解してあげなくたっていいのよ。井山さんは、知らないんだから」
「知らない?」
「刺青の本当の意味を、知らないのよ」
「本当の意味?」
問い返したが、由美はもう口を噤《つぐ》んで、答えない。もっとも、秘密があって、その秘密を守ろうとする態度ではなく、気楽そうに鼻歌をうたっている。
その鼻を、彼はつまみ上げると、
「おい、ともかくその刺青をみせてくれ」
由美は口で息をしながら、
「乱暴ねえ、そんなに見たいの」
と、両膝《りようひざ》を弛めた。
左の腿《もも》の内側の奥ふかく、その刺青はあった。郵便切手ほどの小さな刺青で、藍色《あいいろ》一色で彫ってある。
「なんだ、これは。マンガか」
「マンガという言い方って、ないでしょ」
たしかに、マンガではない。しかし、戯画化され、多分に図案化された絵である。一匹の熊《くま》ん蜂《ばち》が尖《とが》った槍を構えて、飛翔《ひしよう》している絵である。
よく見ると、その蜂の頭には、冠がかぶせられてあった。
「おや、冠をかぶっているな。なるほど、この蜂は、雌だな」
「あら、よく気付いたわね」
「冠のかたちが、女王さまの頭に載っているものと同じだからね」
「井山のやつなんて、そんなこと、ぜんぜん気にしなかったわ」
「とすると、王様の冠をかぶった熊ん蜂の刺青もあることになるな」
「ますます、いい線だわね」
「ヤクザの兄貴《あにい》で、雄の蜂の刺青をしているのがいる。雌の蜂の刺青をしている女が何人もいる……」
「そのへんの考え方は、もう井山に近くなってしまったわ。そんなこと、ないのよ。だいたい、それじゃ話が合わないわ。だって、蜂では、女王蜂が一番えらいのよ。雄の蜂なんて、みそっかすよ」
「分らないな、教えてくれ」
「厭よ」
「たのむ、教えてくれ」
「駄目」
そう答えると、まるで舞台の幕をおろすように、由美は両膝を合わせ、ごろりと俯伏《うつぶ》せになってしまった。
西洋館
城田祐一は、ある日の午前十一時ごろ、寝床の中で薄目を開き、まだ覚めやらぬ頭でぼんやりとりとめのないことを考えていた。前の夜、明け方ちかくまで仕事をしたので、まだ眠り足りぬ気持もある。といって、一たん眼が覚めてしまったので、もう一度眠り直すこともできない。
いつまでも寝床の中でぐずぐずしている頭の中に、いろいろの雑念が浮かんだり消えたりしている。やがて、由美の腿の内側にあった藍色の刺青が、浮かんできた。女王の冠をかぶった熊ん蜂が槍を構えた図柄の小さい刺青……、その刺青のことが気にかかる。
由美は口を噤《つぐ》んで言わぬ。城田は、理加という娘の顔を思い浮かべる。由美と理加とは密接な関係にある。
理加の腿に、王様の冠をした蜂が彫られている、ということも考えられる。しかし……、と彼は迷いながら、理加の顔を思い出している。顎《あご》のしゃくれた小さい顔をしたその骨格と、受唇《うけくち》の口もと、素早く動く眼にうかぶ艶めいた光など、どれを取って考えても、理加は女性的である。焦茶色に皮膚を焼いた由美のほうに、まだしも男性的な要素が認められる。
由美が、女王の冠。
理加が王様の冠。
これは、やはり不自然におもえる。
しかし、由美の刺青の秘密を探るためには、これはやはり理加に接近するより、手がかりはない。
由美の刺青は、そういうことを彼に考えさせる一方、三津子のことを思い出させる。三津子が行方不明になってから、二十日近くになる。もっとも、いままででも、そのくらいの日数、彼は三津子に会わなかったことがしばしばある。したがって、三津子は行方をくらましたわけではなく、ただ酒場「紅」の勤めをやめただけで、この都会のどこかで以前と同じように暮しているのかもしれない。
しかし、一たん気にかかり出したとなると、気にかけるのをやめようとおもっても、無理である。なんとか、三津子の行方を探す方法はないものか。
こういう二つの問題を頭に浮かべて、彼が依然として寝床の中でぐずぐずしているとき、電話のベルが鳴った。
「もしもし、城田さん」
若い女の声だが、咄嗟《とつさ》に誰かは分らない。三津子か、由美か、とおもったが、その声の主はすぐに自分の名を、名告《なの》った。余志子だった。
「なんだ、きみか」
「あたしで悪かったみたいね」
「そんなわけじゃないが」
「いいお話なんだけど、教えてあげないわよ」
「意地悪を言わずに、教えてくれ」
「お願いする?」
「うん、お願いします。今度、アンミツをご馳走する」
受話器の中で、子供っぽい笑い声が聞え、やがて余志子が言った。
「きのう、用事があって」
と彼女はこの都会のはずれの地域にある池の名を言い、その池の傍へ行った、と言う。
「たしか城田さんの家は、その近所だったとおもうんだけど」
「近所というわけじゃないが、比較的近くといえるな。それでどうしたんだ」
「その池の傍で、三津子さんを見かけたのよ」
「え? 三津子を」
「間違いないとおもうわ。たしか、三津子さんよ。池のすぐ傍に立って、水の方を眺めていたわ。あたしは丁度、三津子さんの立っている反対側のところにいたのだけど、小さい池だから顔がはっきり見えたわ」
「それで」
彼は苛立《いらだ》っている自分を感じているが、余志子はのんびりした口調で、
「そうおもったとたんに、三津子さんらしい人が歩き出したの。あたし、城田さんのことを思い出して、追いかけて行こうとしたのだけど」
「したのだけど、って、なぜ追いかけないんだ」
「追いかけたのよ。だけど、池って、まるいものでしょう。三津子さんに追いつくには、池のまわりをぐるりと半分まわらなくちゃならないでしょう」
「まわればいいじゃないか」
「だから、まわったのよ。でも、ずいぶん距離が開いてしまったわ。三津子さんの姿を見失ったとおもったけど、さいわいそのうしろ姿を見付けることができたの」
城田は安堵《あんど》して、
「どうも、きみの話はひどく気をもたせるねえ、それで、三津子を掴《つか》まえたのだね」
「それが駄目なの。ようやくうしろ姿を見付けたとおもったら、すぐに一軒の家の中に入ってしまったわ」
「そこが、三津子の家なのか」
「どうなのかしら。大きな西洋館でね、表札に、横文字の名前が書いてあったわ」
「その家に入って、声をかけてみたのか」
「だって、あたし、それほどまでにする気持はないわ。三津子さんを探しているのは、あたしじゃなくて、城田さんですもの」
「そういえば、そうだな。それで表札の名前は覚えていますかね」
「ちゃんと、メモしてきたわ。R・アンダーソンと書いてあったわ」
そう言うと、余志子はその家の詳しい在り場所を教えた。
「ありがとう、それで十分だ。大手柄だよ」
「感謝する?」
「するとも、アンミツをおごる」
「アンミツなんて、ずいぶん安いご褒美《ほうび》ね」
「アンミツを五十杯おごる。アンミツの回数券を買ってやるよ」
小高い台地に囲まれて、池はスープ皿の底のようになっている。水はきたなく、池というより沼といったほうがよいかもしれない。近くに寄って眺めれば、メタンガスの泡《あわ》が、ぶくぶくと浮かび上ってきていそうにおもえるが、城田祐一はいま台地のあいだの道を歩いている。
目的の家は、間もなく見付かった。
古びた大きな西洋館で、その壁面には蔦《つた》が這《は》い上り、葉を繁らせている。石の門から入口までかなりの距離があり、その道の両側には雑草が雑然と生え茂っている。
しかし、空家のまま打ち捨てられているといった気配ではなく、そういう雑然としたかたちには、どことなく人工のにおいがする。家の主人の趣味で、わざわざそんな形につくっているような気配がある。道の両側に花壇をつくるかわりに、雑草を植えてあるという感じなのだ。
ポーチに立って、呼鈴のボタンを探した城田は、そこに異様なものを見付けた。小高い円型の中央に小さな突起、……それが普通の呼鈴のかたちだが、この家の円型は三まわりほど大きくて、中央が深く窪《くぼ》んでいる。その窪みの奥から、親指の先が突き出ているのである。
その親指の先は、肉色の腹をみせており、渦巻のかたちの指紋もみえる。
城田は薄気味わるい気持で、自分の親指を突き出し、その腹を呼鈴のボタンの役目をしている親指の腹に当てがった。やわらかい感触を我慢して、ぐっと押す。
家の奥でベルの鳴る音が、かすかに耳に届いた。奥で動いた気配が、しだいに近づいてくる……。
R・アンダーソンというこの家は、混血児の三津子の父親の家なのだろうか。あるいは、父親の親戚《しんせき》とか友人とか、いずれにせよ、三津子がここにいることは間違いないだろう、と彼はおもっている。
扉が内側から開かれた。扉を開いた人物は、そのまま家の中に立っている様子なので、彼は玄関の中を覗《のぞ》いた。
薄暗い家の中に、戸外の光が射し込んで行く。その光を避けるように、その人物はあとずさりして行く。若い女の白い顔である。三津子かとおもったが、違った日本人の女の顔である。
「おたくに、三津子さん……、花岡三津子というのですが、ご厄介になっているでしょう」
「さあ、そんなかたは、存じませんが」
ここでは、外国の名で呼ばれているのかもしれない、と彼はおもい、
「つまり……、あいのこの女の子なんですがね」
「いいえ、そんなかたは、いらっしゃいませんが」
彼はもう一度、女の顔を眺めた。その女が三津子かもしれないという疑いを捨て切れなかったためだが、どう見てもその女は三津子ではない。同じ年頃の、美しい少女ではあるが。
「あなたは、この家のお嬢さんですか」
混血でない娘が、そんな筈はないのだが、その娘にはどことなく気品があった。しかし、彼女は答えて、
「いいえ、あたしはメイドです」
相手が、三津子を知らないという以上、このまま帰るほかはない。この家を探るつもりだったら、なにかもっともらしい口実をこしらえて、訪問すればよかったのだが、すぐに三津子に会えるとおもっていたのが、失敗だった。
「嘘でしょう」
「え? いいえ、三津子さんとおっしゃるかたは……」
「いや、あなたメイドというのは」
「でも、そうなんですもの」
「そうかなあ……」
そんな会話をして、時間を稼《かせ》ぎながら、彼は家の中の気配をうかがっている。玄関の中から、廊下が一直線に長く伸びている。その廊下の奥を透かすようにして眺めた彼は、
「あっ!」
とおもった。
薄暗い廊下の奥に、天井から龕燈《がんどう》のかたちをした照明器具が鎖の先に吊《つる》されているのがみえた。その光は、強いものではなく、まわりをぼんやり照らしている程度だが、その器具の正面に貼《は》られた布の模様が、彼をおどろかしたのである。その布の模様は、内側の電球に照らされて、はっきり浮かび上っているわけだが、クリーム色の地に、赤い円形と一まわり小さい黄色い円と、藍色の大きな星型が一つ、という図柄である。
つまり、太陽と月と星を象《かたど》った模様といえる。
その模様を見て、城田祐一は、三津子の左の尻にある筈の刺青を思い出したのだ。細い鎌のような真紅の三日月にかかえこまれるように並んでいる、緑と藍色の六つの星……。その図柄と、いま廊下の奥に見えている龕燈の模様とのあいだには、甚《はなは》だしい類似点がある。
一瞬、彼はその龕燈の布は、布ではなくて人間の皮なのではあるまいか、と疑った。もしも、その模様が北斗七星と三日月のものだったら、三津子が殺され鞣《なめ》された皮がそこに貼られている、という疑いに捉《とら》えられたかもしれない。
この西洋館と、三津子とは、たしかに何かの繋《つな》がりを持っているに違いない、と彼は確信をもった。
それなのに、いま眼の前にいる少女は、その事実を隠そうとしている。深追いは禁物だ……、と彼はおもった。一たん退却して、よく作戦を練ってから、あらためて攻撃をはじめることにしよう。
「どうも失礼しました。ぼくの方のなにかの勘違いのようです」
雑草のあいだの道を抜けて、石の門をくぐり、振り返って大きな建物をもう一度眺めてみた。R・アンダーソンと彫ってある石の表札の上を、指の腹で撫《な》でてみた。不意に、えたいの知れぬ寒気を背筋に覚え、逃げるように立ち去って行く。台地の下の池の表面が、鉛色ににぶく光っているのが、彼の眼に映っている。
その夕方、レストラン「雅」へ出かけていった城田をみて、余志子がにこにこ笑いながら言った。
「城田さん、三津子さんに会えたでしょう」
「…………」
「やっぱり、外人の表札のかかっている家に住んでいることを知られるのが厭で、住所を隠していたのかしら。かえって得意におもう人もいるでしょうにね」
「いや……」
城田は曖昧に返事すると、脅かす素振りをつくって、言った。
「きみ、三津子のあとをつけて、あの家に入らなくてよかったぞ」
「いやよ、そんなコワイ顔して。お化け屋敷なの。なんだかそういえば、草ぼうぼうの家だったけど」
「お化け屋敷じゃないがね、いまごろきみは、皮を剥《は》がされて、床の下の穴に埋められている頃だ」
「え? 皮を剥がされて?」
余志子は、ひどく驚いた顔になっている。
「ねえ、どうして皮を剥がされるの?」
くわしく説明するのも億劫《おつくう》なので、
「なんだか、そんな気がしただけだよ」
「でも、ねえ、どうして」
余志子は、執拗《しつよう》に訊《たず》ねる。真剣な表情が浮かんでいる。
「いや、冗談だよ。きみは大丈夫だ、まさかきみには刺青はないだろうからね」
「え? 刺青?」
また、余志子は驚いた声を上げた。
「やたらに驚きたがる子だね。きみ、刺青でもあるのか」
「まさか……」
と、余志子はようやく笑い出し、
「なんだか、お話を聞いていたら、気味が悪くなっちゃったのよ」
「それはそうだろう、アンミツの好きな女の子むきの話じゃないからね」
そのとき、マダムの雅子が近寄ってくると、声をかけた。
「三津子さんの行方は、分りまして?」
「ええ、どうやら、居場所だけは分ったのですがね。それがどうも怪しげなところで」
「裏町の、ギャングの巣みたいなところにいたというわけ?」
「いや、堂々たる西洋館なんだが……」
そのとき、余志子が口を挿《はさ》んだ。
「城田さん、あたし、そんな家に近寄らないほうがいいとおもうわ」
「…………」
「ねえ、本当よ。もう二度と、行くのはやめて頂戴」
城田は笑いながら、雅子に言った。
「ほら、あんなに怖がっているでしょう。それはもう怪しげな館《やかた》でしてね」
「余志子には、もう話したのね。わたしにも話して聞かせてよ」
「そうだな……」
忙しくなってきたぞ、と城田祐一はおもった。R・アンダーソンという表札のかかった西洋館を探ること。由美の刺青の秘密を知るために、理加を誘惑すること。それに、この大場雅子の快楽コンサルタントの役目を果すこと……。とりあえず、雅子を「紅」に誘って、そこでR・アンダーソン邸の話をしてきかせよう。そうしながら、理加を誘ってみる、それが時間の節約というものだ。
雅子と並んで「雅」を出ようとした城田の背に、余志子がもう一度、
「ね、あのお家には、もう近寄らないで」
と、真剣な声を投げてきた。
一対二
城田祐一は大場雅子をともなって、酒場「紅」へ行った。
酒場に女性を伴って行くと、その席にはホステスはあまり集まってこない。それが、酒場側の客にたいするエチケットとみえる。ホステスが一人同席して、控え目に相槌《あいづち》を打つ、というのが最も平均的な情景である。
城田はその一人のホステスとして、理加を呼んだ。由美は何喰わぬ顔で、遠くの席からいつものような笑顔を示しただけである。
さて、R・アンダーソン邸の話を城田がすると、当然のことながら、雅子は好奇心を示した。
「それは、確かに三津子さんのお父さんの家だとおもうわ。でも、ずいぶん変った趣味の持主のようね」
と、雅子は言い、
「わたしも、一度その家を見てみたいわ」
「それはやめたほうがいい」
城田は、いそいで遮《さえぎ》った。
「あら、なぜ」
「殺されて、皮を剥き取られてしまうかもしれない」
「でも、わたし刺青なんかしていなくてよ」
そのとき、理加が口を挿んだ。
「皮を剥がれても、死ななくて済むのよ」
「おや、なぜそんなこと知っている?」
「映画で見たのよ。記録映画みたいなもので。フランスの女学生のアルバイトでね、お尻に刺青をして、その皮を薄く剥ぎ取らすところを映してあったわ」
「へえ、そんなアルバイトがあるのかねえ。豚のお尻の肉を何キログラムかえぐり取って、そのあとに泥を塗りつけておくと、そのうち新しい肉が盛り上ってくる、という話は聞いたことがあるが……。しかし、たとえばテーブル・クロスくらいの大きさに皮を剥ぎ取られちまったら、これは死ぬだろう」
「それは、そうでしょうけれど」
「郵便切手ぐらいの大きさなら、大丈夫に違いないが」
そう言いながら、彼は由美の腿にあった蜂の刺青をおもい浮かべ、おもわず視線が理加の脚の付根の部分にさまよった。理加は表情を硬《かた》くして、
「切手くらいの?」
と言い、疑わしげな眼になった。警戒されては困る、と彼は、
「そうさ、そのくらいの大きさのものなら、すこし痛いくらいで済むだろう」
そして、わざと言ってみた。
「どうしたんだ、なんだかヘンな顔をしているね」
すると理加はすぐに顔をやわらげて、
「いいえ、なんでもないわ」
彼は理加との会話は深追いせずにそこで打ち切って、雅子に向って言った。
「しかし、やっぱり危険ですよ。あなたに刺青がないとしたって、刺青されてから剥ぎ取られる、ということがあるわけだ」
「でも、城田さん」
雅子は、ふっと可笑《おか》しそうな顔になり、
「あなたの見たとおっしゃるその龕燈のことだけど、それに貼ってあったのが人間の皮かどうか、確かなわけじゃないのでしょう。たとえ皮だとしたって、ほかの動物の皮かもしれないのじゃなくって」
「そういえば、そうだが……」
それにしても……、と彼は考えている。三津子の行方を探しはじめてから、自分の日常生活に、にわかに起伏が多くなった。由美と関係ができてしまったのも、R・アンダーソンという奇怪な家に出遇《であ》ったのも、また理加を誘おうとしていることも、皆そのためといえるのである。
そして、三津子という生身《なまみ》の人間はたしかに行方不明になっているが、その気配は彼の行く先先に濃厚に漂っている。三津子が眼の前にいるとき以上に、色濃く彼につきまとってきている。
そんなことを考えていた丁度そのとき、大場雅子が言った。
「わたし、このごろすっかり変な癖が付いてしまったわ。城田さんを見ると、かならずその傍に、三津子さんがいるような気がしてくるの。もちろん、透明人間の三津子さんだから、眼には見えないけれど」
「…………」
「だから、わたしと城田さんとは……」
と、雅子は冗談の口調になって、
「一生、深い関係にはなれないわけよ」
その言葉を聞いて、彼は反射的に考える。男と女との関係は、一対一ときまっているわけではない。一対二、二対一、二対二、いろいろの形があるわけだ。由美と理加とそのボーイ・フレンドとの形づくる関係が眼に浮かんでくる。
しかし、現在のように、大場雅子を大切に取り扱っている心境のままでは、たしかに彼女の言うとおりである。彼の傍にかならず三津子が見えているのでは、一対二の形を雅子に押しつけるわけにはいかない。
城田祐一はそう考えて納得したのであるが、しかし、大場雅子の言葉は理加を刺戟《しげき》したようだった。
「あら、どうして城田さんと深い関係になれないのかしら。ねえ城田さん、深い関係って、一緒に寝ちまうことなんでしょ」
「この場合は、ま、そう考えておいていいようだね」
「それなら、何故《なぜ》かしら」
理加は、大場雅子に向き直って、質問する。雅子は戸惑い、いくぶん恥ずかしそうな表情になって、
「だって、そうでしょう。傍にいつも、もう一人の女の人がくっついていたら、そんなことにはなれるわけがないもの」
「そうかしら」
理加は眼を光らせた。嘲《あざ》けるような、挑むような眼になっている。そして、言った。
「おばさまって、案外ウブなのね」
理加は、わざと「おばさま」という言葉を使っている。
「おいおい、やたらに威勢がいいじゃないか」
苦笑しながら、城田はとりなし役をつとめる気でいる。軽い調子で、理加の口を封じようとする。
「お客さまに、たいして、失礼だぜ」
「だって、このおばさま、ヘンなこと言うんだもの」
「ヘンなこと?」
もう一度、彼は苦笑してから、気付いた。理加としては、自分たちの行為を、大場雅子に非難されているような気分になっているらしい。
一方、大場雅子はさすがに大人の女の余裕をみせて、むしろそういう理加を好奇心を示した眼で眺め、
「おもしろい人ね」
と言った。しかし、理加の方では、雅子のそういう余裕を示している言葉が、一層気に入らないようだ。
「ちっとも、面白くなんかないわよ」
と、口を尖らせる。もっとも、顎がしゃくれて受唇の小柄の理加なので、愛嬌《あいきよう》も失っていない。
「まあまあ、喧嘩《けんか》はやめて。仲直りに、あとで一緒に食事にでも行こうじゃないか」
と彼は腕時計を眺め、
「もっとも、カンバンまでには、まだかなり時間があるが……」
このとき、理加はきわめて積極的になった。
「本当ね、約束してね。時間が余ったら、よそのお店にでも行って、終りになるころ迎えにきて頂戴」
「そうするかな……、どうします、雅子さんは」
「わたし、どっちでも」
「そんなこと言わないで、あたし本当は、お姉さまのような綺麗《きれい》なひとって、大好きなの」
「おやおや、今度はお姉さまか、ずいぶんゲンキンだな。だけど、由美ちゃんも誘わなくてはいけないのじゃないか」
「由美は、今夜なにか約束があるらしいわ。いいのよ、三人だけのほうがいいわ」
時間を潰《つぶ》すことにして、戸外へ出たとき、城田が、
「いいんですか、迷惑じゃなかったのかな」
「いいのよ、若い人とつき合うのは、たのしいわ。それに、いまの若い人って、よく分らないところがあるから、すこし研究しなくちゃ」
「雅子さんだって、まだ若いじゃありませんか。あなたのおつき合いで、ぼくまで古い部類に入れられるのではたまらない」
と言いながら、彼はもう一軒の酒場の階段を、雅子を伴って登って行く。こういう時刻では、ほかに時間を潰す方法が見付からない。パチンコ屋は閉店時刻だし、映画も中途半端である。
その酒場の椅子に雅子と向い合って坐った城田は、
「ぼくの隣に、まだ三津子が見えてますか」
と、訊ねてみる。
「ええ、見えているわ」
城田の傍のホステスが、
「あら、何のお話。どなたも、ほかにはいらっしゃらないのに」
「それがいるんだから、困ってしまう」
そう言いながら、彼はそのホステスを自分の躯《からだ》の傍へ引き寄せ、
「こうやっても、まだ三津子が見えてますか」
「見えているわ。三津子さん、怒っているわよ」
「そうかな、こういうときには、三津子は怒るのかな」
そう言って、彼は自分と三津子との関係を思い浮かべてみようとするが、それは曖昧なかたちのままである。
「ま、いいや。怒っているなら、もっと怒らせれば、三津子はどこかへ行ってしまうかもしれないからな」
「苦しいわ」
一層強く引き寄せられたホステスは、いくぶん甘い声で、そう言う。その声音に気付いた彼は、「怒っているのは大場雅子なのかもしれない」と気付いて、隣の躯を締め付けていた腕を弛めた。
ようやく閉店の時刻がきて、城田と雅子は理加と落ち合った。
「さて、何を食べるとしようか」
と城田が言うと、理加は積極的に意見を出してくる。
「あたし、ゆっくり落ち着けるところへ行きたいわ」
「落ち着ける、というと……」
「畳の上に坐りたいの」
「とすると……」
と、彼はある深夜営業の料理店の名をあげた。座敷で肉のオイル焼きを食べさせるようになっている店である。
「そうねえ……」
理加は難色を示し、
「あたし、お風呂に入りたいの」
「風呂?」
「さっぱりしてから、ゆっくり食事したいのよ」
奇怪な成行きになってきたぞ、と彼はおもう。もしも、大場雅子が一緒でなかったら、「面白くなってきた」と、こだわるところなく喜んだかもしれない。もっとも……、もしも大場雅子が一緒でなかったら、理加はこういう態度を示さなかったかもしれない……。そう考えると、理加の魂胆が分るような気がしてくる。
「こいつめ……」
と腹の中でおもったが、理加に刺青が有るか無いかの調べがつくチャンスを逃すわけにはいかない。あとは成行きにまかせようと、
「畳と風呂と、料理があればいいんだな。よし、適当なところに案内しよう」
と、彼は二人の女の躯を、タクシーに押し込んだ。
タクシーが停まったところは、逢引きのための旅館の前である。もっとも、割烹《かつぽう》旅館という趣もあって、料理が自慢の家である。
「ここで、どうだ」
と彼が理加に向って言い、
「ええ、いいわね」
彼女が言うので、大場雅子としては躇《ためら》うわけにもいかない。
二間つづきの奥の部屋には、すでに夜具の用意ができている。その様子が、仕切りの壁にくり抜いてある飾りの窓を透して、チラリと見える。雅子はその窓に視線を向け、いそいで眼を逸らした。
雅子の顔がこわばって、いまここでは、大場雅子と理加との年齢が逆になってしまったようにみえる。
やがて運ばれて卓の上に並べられた料理に、理加はすこししか箸《はし》をつけず、
「ねえ……」
と含み声で、彼女は上眼使いに、城田の顔を見た。
「なんだ」
「もう、おなかが一杯だわ」
「…………」
「べつのことをして三人で遊びましょうよ」
「三人で遊ぶといって、花札か、トランプか」
「そんなんじゃないわ」
もう一度、彼女は上眼使いで、城田を見る。理加の隠されていた魂胆が、はっきりと浮かび上ってきた。
いま、自分は道具にされている、と城田はおもう。理加は、大場雅子を一対二のかたちに巻き込もうと企んだわけだ。そのかたちになるための道具として、城田は使われようとしている。
道具になることは、すこしも構わない。相手が自分を道具と看做《みな》すと同じに、自分も相手を道具として扱えばよい。人間と人間とのつながりを持つよりも、物と物として触れ合うほうが、よほど気が楽だ。理加と関係をもつ場合には、そういう形が、むしろ理想の形といえる。
しかし、大場雅子との関係となると、やはりそれでは困るのである。それでは困る、という気持が、彼の弱味になっていて、いまだに彼女とのあいだでは接吻という交渉があっただけだ。あの屋上のビヤ・ホールから降りてくる途中の閑散とした長い階段での接吻……。
ともかく、早くこの場の収拾をつけなくてはならない。
「よし、分った」
と彼は勢いよく言った。
「きみ、風呂へ入って汗を流したまえ」
「ええ、入るわ。でも、みんなで一緒に入りましょうよ」
「分った、分った。すぐにあとから行くから」
「いま、一緒に行きましょう」
理加は立ち上って、二人を促す。城田は立ち上ると、雅子の腕を引っ張って、立ち上らせた。
「さあ」
理加が促す。
城田は大場雅子の躯を引き寄せ、接吻しかける素振りを示して、
「すぐに行くから、一足先に入りたまえ」
と言い、雅子の肩越しに、理加に眼くばせした。「ヤボは言わず、一足先に行け」とか「いま、この女を覚悟させるからな」とかいう具合に取れる仲間同士のような親しげな意味ありげな眼くばせである。
二つの謎《なぞ》
城田は、大場雅子の躯を引き寄せ、接吻しかける素振りになっている。雅子は、掌をかるく城田の胸に当てている。露骨に抗《あらが》う姿勢ではないが、躯と躯とが触れ合うのを防いでいる。そして、雅子が言う。
「城田さん、あまり良い趣味ではないわね」
「まったく、このごろの若い娘の考えていることは……」
「あら、これは城田さんのたくらみじゃなかったの」
「とんでもない」
「わたしは、リカが人形で、城田さんが人形つかいかとおもっていたわ」
余裕をみせたやわらかい口調だが、咎《とが》める気配がある。城田も、真顔になって答える。
「それは、雅子さんの勘違いですよ」
「それならいいけど、いくらわたしの快楽コンサルタントだとしても、行き過ぎだとおもったのよ」
バス・ルームから、理加が湯を使う音がひびいてきた。
城田は、真顔のまま、言った。
「ひとつ、お願いがあるのですが」
「なんですか。へんにあらたまって」
「リカと一緒に風呂に入ってもらいたいのだけど」
「あら、そんなことは。すこしも企んでいない、といま言ったばかりじゃありませんか」
「企んでいるわけじゃない。リカと一緒に風呂に入って、調べてもらいたいことがあるんですよ」
「…………」
「ぼくがいまバス・ルームへ入って、自分で調べてみてもいいわけだが……。リカはみんなで一緒に入ることを望んでいるのだから。だが、ぼくがそうしたら、あなたは怒って帰ってしまうでしょう」
「そうね、帰るわね」
「だから、雅子さん、あなたに調べてもらいたいんだ」
「でも、調べるといって、なにを?」
雅子の顔に、好奇心が浮かんだのを、城田は見逃さない。そのとき、バス・ルームの戸の開く気配があって、理加の大きな声がきこえた。
「城田さん、はやく、こっちへいらっしゃいよ」
「いま、すぐ行くから……」
城田も大声で答えておいて、
「たのみます、はやくしないと、リカが風呂から出てしまう」
「でも、なにを調べるの」
「リカの腿《もも》の内側を見てほしい。刺青があるかどうか……。もしあったとしても、小さなものだから、そう、郵便切手くらいの大きさのもので……」
「あら、リカに刺青」
雅子の好奇心が強まったのが、分る。彼は雅子の肩に手をかけて、軽くバス・ルームのほうへ押しやるようにしながら、
「どういう図柄か、詳しく見て、あとで教えてください」
「刺青があるなんていって、あたしを欺《だま》してお風呂に入れようとしているわけじゃないでしょうね」
「そんなことはない。ぜったいにないから安心して……」
「そう……」
雅子は、城田の顔を見て、笑いを浮かべながら、
「ちょっとスリルがあるわね」
「そうでしょう。あなたは良いコンサルタントをお持ちですねえ」
「ほんと、それは認めるわ」
そう言いながら、雅子はバス・ルームの方へ姿を消した。
雅子がバス・ルームに入ってから、かなり長い時間が経ったようにおもえた。城田は、落ち着かぬ気持になってきた。
耳の穴が、バス・ルームへ向って開いているのに、気付く。ときどき、湯の音がかすかにひびいてくるのが、へんになまなましく聞えたりする。
話し声が聞えてくるような気もする。しかし、空耳のようでもある。しぜんに耳が鋭くなり、そうなると、その話し声は絶え間なくひびいているようにも聞え、またすべて空耳のようでもある。
立ち上って、バス・ルームに近寄り、聞き耳を立ててみようか、とおもう。腰を浮かしかけるが、すぐにやめる。やはり、そういうみっともない振舞いはできない、と自分に言ってきかせる。
彼の妄想《もうそう》の中で、ともするとバス・ルームの中の二つの裸の躯が、絡まり合いそうになる。白い湯気のなかで、理加の小麦色の裸と大場雅子の裸とが、複雑なかたちで縺《もつ》れ合う。雅子の顔の肌は、白い。全身が、上気してピンク色になっているだろうか。