雅子のさっきの態度から考えれば、そういうことは起り得ない、とおもえる。しかし、時間があまり長すぎる。女の中には、どんな魔ものが潜んでいるか、分りはしない。大場雅子自身が、いままで自分の中にいるものに気付かなかったのかもしれないのだ。
ようやく、二人の女がバス・ルームから出た気配があった。
やがて、彼のいる部屋に、二人の女が並んで入ってきた。
二人とも、上気した顔である。
いったいどういうことになっているのか、とおもったとき、気付いたことがある。雅子も理加も、浴衣姿ではなくて、ちゃんと洋服を着ている。
「おねえさまって、やっぱりウブなのね」
理加が、城田に話しかけてきた。唇のまわりに得意な微笑が浮かび、満足している顔つきで、
「だから、今夜は堪忍してあげるわ」
「…………」
「でも、この次には、約束を守ってね」
「ええ、いいわ」
そう答える大場雅子の顔にも、満足の気配がある。城田は、二人の顔を見比べて、言ってみた。
「いったい、どういうことになっているのだろう」
「どういうことになっているか、あとでおねえさまに聞いて頂戴」
理加はそう言うと、テーブルの上のハンドバッグを取り上げ、
「どうぞごゆっくり」
と、帰る気配を示した。
「おいおい、ちょっと待ってくれ」
「待てといったって、今夜は駄目なんだもの。そのかわり、城田さん、今度のときは頑張ってね」
「よく分らないが、ともかく、ぼくたちも帰る」
理加が先に帰り、雅子と二人で残る形になれば好都合にはちがいないが、あまりに突然、そういう形を鼻先に突きつけられてしまったので、彼は戸惑い、慌てている。
結局、三人一緒に旅館を出た。そこで、理加はすぐにタクシーを拾い、取り残された雅子と城田は、ちょっと顔を見合わせ、どちらから誘うともなく、ぶらぶら歩き出した。
「いったい、どういうことなんです」
もう一度、彼が同じ質問を口にした。
「わたし、リカの気持が分ったから、自尊心が満足できるようなことを言ってあげただけなのよ」
「というと……」
「つまり、わたしはリカちゃんみたいに大胆じゃない。だから、今夜はその決心がつかないけど、でも、興味はあるわ、と言ったわけよ」
「雨天につき、次の日曜日が晴天ならば決行、ということですか」
「そういうことでしょうね」
「それで、決行する覚悟があるのですか」
「まさか」
「それだけの話にしては、ずいぶん長かったなあ」
雅子は、彼の顔を確かめるように眺め、
「城田さんて、呆《あき》れた人ね」
「いやあ……」
内心の疑いを見破られた気分で、曖昧《あいまい》に口ごもる。
「だって、そうでしょう。あたしがバスから出たら、真先に訊《たず》ねなくちゃいけないことを、すっかり忘れているのだもの」
「そうなんだ」
「そうなんだ、なんて、あんな厄介な頼みごとをしておいて、時間が長いもないものだわ。すぐに眼に触れる場所じゃありませんものね」
「まったく、その通りです。ところで、どんな具合でした」
彼は恐縮して、理加の刺青の有無について、あらためて雅子に訊ねた。
「有りましたわ」
「え? やっぱり有りましたか。それで、どんな図柄か詳しく見てくれましたか」
「ええ、それは……」
言いかける雅子を遮《さえぎ》って、
「ぼくが言ってみましょう。熊《くま》ん蜂《ばち》が槍を構えている図柄だったでしょう、まるでマンガみたいな」
「あら、どうして分るの」
「やっぱりそうか」
彼は半ば独り言でそう言い、
「王様の冠をかぶった蜂の刺青は、リカにあったのか……」
しかし、雅子はその言葉を聞き咎めた。
「ちょっと待って頂戴。あれは王様の冠かしら……、わたしは女王の冠だとおもうのだけど」
「え? それは見間違いではないかな」
「あたし、とっても詳しく見たのよ」
「どうやって」
「背中の流しっこをしたの。城田さん、また話が別のほうへ行ってしまうじゃないの。あなたが考えているようなものじゃないわ。女同士って、お風呂に入るのは、馴れっこになっているものなのよ」
たしなめながら、彼女は立ち止まって、掌の上に指先で冠の形を描いてみせた。それは、城田が由美の腿で見たものと、そっくり同じ形のものである。
「それならば、やはり女王の冠だな。とすると、まったく同じ絵になるが」
「同じ絵って、誰と同じなの」
城田は一瞬ためらったが、
「これは誰にも言わないでほしいんだが、由美なんだ」
「由美ちゃんに? どういうことなんでしょう」
「リカのが王様の冠だったら、分る気持になるんだが……。しかし、どこかに王様の冠をかぶった蜂の刺青をした人物がいるにちがいない、とおもうのだが……」
大場雅子はしばらく黙って考えていたが、やがて口を開いた。
「三津子さんにも、刺青があるとかいう話だったけど……。リカたちの刺青と、なにかつながりがあるのかしら」
「そのことは、前からぼくも考えていたのだが……」
それ以上は、彼は口に出して言わなかった。しかし、頭の中では、そのことについて一つの判断がある。
彼は、三津子の刺青を実際に見たわけではない。しかし、R・アンダーソン邸で見かけた龕燈《がんどう》の模様に似たものとすれば、由美たちの刺青とは、ずいぶんの違いがある。由美たちのものは藍色一色だけで、線だけの絵で、絵自体が稚拙とさえいえる。素人《しろうと》のいたずらのようにさえ見える。
一方、龕燈の模様は、あきらかに専門家の手によるものだ。この二つの刺青のあいだを繋《つな》ぐ糸というものは、おそらく存在しないだろう、と彼はおもっている。
十日間、城田祐一は仕事に忙殺された。徹夜で原稿を書いた夜も、何日もあった。
ようやく解放された夜、彼は酒を飲みに街に出た。足はしぜんに、酒場「紅」に向う。
その入口に立ったとき、彼は十日前のことを鮮かに思い出した。そして、今夜は自分の眼で、理加の刺青を確かめてやろう、と考えた。
その考えを実行に移すことは、きわめて簡単である。レールはすでに敷かれてあるから、その上に乗って走ればよい。しかも、そのレールを敷いたのは、理加自身なのだ。
理加が彼の傍に坐ったとき、さっそく言ってみた。
「今夜は、この前の約束を果しにきたよ」
「ずいぶんご無沙汰だったでしょう。どうしたのかとおもっていたのよ」
「仕事が忙しかったこともあるが……」
「彼女、やっぱり……」
と、大場雅子のことをそういう呼び方をして、
「決心がつかないのだとおもっていたわ」
「そういうこともあったわけだ。だが、もう大丈夫。今夜はちゃんと段取りができている」
「面白いわ。あたしよりずっと年上のくせに、恥ずかしがっているのを見ていると、お色気を感じるわね」
と、理加は、大人っぽい言い方をしている。そういう理加を見て、城田はおもう。この女を自分が口説くとなると、ずいぶん手数がかかるだろう。大場雅子が介在しているから、理加はたやすく自分と旅館の門をくぐることになるわけだが……。
閉店の時刻になったとき、彼は立ち上って理加を促した。
「さ、行こう」
「どういう段取りになっているの?」
「この前の旅館へ行けばいい。彼女は先に行って待っている筈だ」
「いいわ、行きましょう。ちょっと待っていてね、すぐ支度してくるわ」
と、理加は更衣室に姿を消した。
間もなく、彼と理加は先日の旅館へ向けて出発したのだが、もちろん、大場雅子の姿はない。
「もう来るだろう」
と言いながら待つのだが、来る道理がない。
「やっぱり、彼女、いざとなるとこわくなったのよ」
結論を下すように、理加が言う。
「それでは、どうしようか。せっかくこうやって、二人で部屋にいるんだから、浮気しちゃおうよ」
理加は、くすりと笑って、言う。
「それもいいわね」
まるで、ボーリング場へでも出かける約束をするような気軽な口調で、理加は衣服を脱ぎはじめた。
ベッドの上での理加は、きわめて大胆に振舞う。そのため、苦労せずに、彼は目的の刺青を確かめることができた、と言いたいところなのであるが……。
理加の腿の内側には、左右とも、刺青が見当らないのである。照明は枕もとのスタンドだけで、ピンク色の笠を透して出てくる薄明りのため、見落したのかとおもって眼を凝らすが、どうしても見当らないのである。
「大場雅子は、嘘を言ったのだろうか。そんな筈はない」
と、彼はおもい、もう一度理加の脚に襲いかかった。
突発事
もう一度、理加の脚に襲いかかった城田祐一の眼には、やはり刺青は映ってこなかった。しかし、由美の刺青があったと同じ場所、すなわち腿の内側深く、細い一本の傷痕《きずあと》を見付けることができた。
三センチほどの長さの小さい傷である。そこにあった刺青を剥《は》がし取って、縫合したものとすれば、まだ新しい傷痕のわけだが、もうほとんど目立たないほどになっている。もっとも、枕もとのスタンドがピンク色の笠なので、その笠を透してくるうす桃色の光のため、傷の新しさがまぎれているのかもしれない。
よく眼を凝らせば、抜糸した糸の小さな穴が、エンピツの先で突っついたようにみえているような気もする。
大場雅子が嘘を言う筈がないとすれば、理加の皮はこの十日間のうちに剥がされたことになる。
その傷を確かめるように、彼の指先がその上を撫《な》でたとき、理加の躯にぴくっと緊張が走った。
「怪我をしている」
と、彼は言ってみた。
理加は、曖昧に黙っている。
「痛いのか」
「痛くはないわ」
「ずいぶん早く治るものだね。なにか特別の薬でもあるのか」
「ずいぶん早く、というけど、いつごろの傷か分るの」
「分るさ。ただの傷じゃないことだって、分る」
「…………」
「しかし、どうしてそこの刺青を剥がしたのか、それは分らない」
理加は、あらたまった声音《こわね》になって、
「どうして刺青があったことを知っているの?」
やはり、あったのか、と彼はおもったが、口には出さない。理加は真剣になって、質問してくる。
「誰に聞いたの?」
「誰にも聞きはしないよ」
「分ったわ。『雅』のマダムにでしょう」
「きみ、雅子さんと、そこの刺青が見えるようなことをしたのか」
彼は逆襲してみる。
「そういうわけじゃないけど。だって、一緒にお風呂に入ったでしょう」
「なるほど、しかし、違うね、雅子さんじゃない」
と、彼は嘘をつき、
「だいいち、聞いたわけじゃない。きみのその傷のある部分に、刺青があるのかもしれない、という推理が成り立つことがあったわけだよ」
「推理がね……」
理加は眼を宙に据えて考えていたが、
「分ったわ、城田さん、由美と寝たのね」
と言い、
「悪い人ね」
と睨《にら》む。その表情には、むしろ機嫌のよい、いきいきしたところが覗《のぞ》いた。
「ところで、どうだろう。由美の刺青は、まだあるだろうか」
言外に、理加の問を肯定して、彼はその質問をしてみる。すると、彼女の顔に暗い翳《かげ》が射す。
「ある筈よ」
「本当か」
「嘘だとおもうなら、自分で調べてみればいいじゃないの」
「それで、どうしてきみの刺青は無くなってしまったんだ」
「そんなこと、どうでもいいじゃないの」
理加は不機嫌にそう言い、口を噤《つぐ》んでしまった。
「一つだけ教えてくれ。自分で剥がしたのか、それとも他人に剥がされたのか」
と訊ねてみたが、理加の顔の暗い翳が一層濃くなっただけで、依然として彼女は口を開かない。
理加の秘密を知るためには、由美の線をたぐるしかない、と彼はおもった。それにしても、理加の表情の暗さは異様である。彼女をそういう表情にする小さな刺青は、何を意味しているのか。
なにか、大がかりの秘密組織の一員である徽章《きしよう》のようなものと考えることもできる。そして、その徽章を剥ぎ取られるということが、理加の表情を暗くするとすれば……。
そこでまた、いろいろのことが推測できるというものだが……、そのとき、理加の声が聞えてきた。
「城田さんに教えておいてあげるわ。『雅』のマダムって、危険なひとよ」
いま、そういう言葉を聞くと、彼は動揺しないわけにはいかない。大場雅子に、自分のまったく知らぬ一面があり、その一面に危険な牙《きば》が隠されているような心持になる。
「危険なひと? 悪い女なのか」
ためらいがちに、そう訊ねてみる。
「そう……、とっても危険なひと……」
あとは、ふたたび堅く口を噤んで開かない。これでは、直接大場雅子に会って、探りを入れてみるより方法はない。いや、それよりも、まず由美に会うことだ。由美から、理加の秘密を探ることだ……。
その由美に会わぬうちに、由美が死んでしまった。
突然の死である。
理加と会ってから、二日後の朝、城田は電話のベルで起された。女の声が聞えてきて、「紅」のマダムの圭子だと告げた。
圭子が電話をかけてくるのは、初めてのことである。
「珍しいことですね。どういう風の吹きまわしかな」
軽い口調で言ったものの、厭《いや》な予感があった。その予感は当った。
「由美が死んじゃったのよ」
「えっ、死んだ」
「そうなの」
「なんで死んだんだ。殺されたのか」
「殺された? どうして殺されたとおもうの」
「いや、ただ何となく……」
「事故死というのかしら。心臓|麻痺《まひ》なの。あの子、前から心臓が弱かったらしいの」
「…………」
「くわしいことは、お会いして話すわ。今夜、あの子のアパートでお通夜《つや》をするのよ。身寄りのない子だから、あたしたちがしてやらなくちゃ。城田さんも来てくださる?」
「行くよ」
行くだけの因縁はある。そのことを、圭子はちゃんと知っているのだろう。
電話が切れてから、しばらく彼は呆然としていた。いったい、どういう死に方をしたのか。心臓麻痺というが、突然の病死なのだろうか。見えない危険な手が働いたのではないだろうか……。
由美がどういう死に方をしたか、そのことは、通夜の席で圭子から聞かされた。
死因には、怪しい点はないということだった。それが確認されたのには、偶然のキッカケが働いている。
その夜、由美は一人の男とホテルへ行った。ホテルといっても、主に情事のための男女を目的にしてつくられているホテルである。
男が先に帰り、由美だけ泊って行くことになった。このことには、べつに怪しい点はない。自宅のことが気になる男が泊らずに帰り、面倒くさくなった女だけ、そのまま泊ってしまう、というのは、ありふれたケースである。
しかし、男が先に帰り、翌朝、女の死体が発見されたとなると、話は厄介になる。当然、パトカーが到着して、死体は解剖されるという段取りになる。男も探し出されて、いろいろ取り調べを受けることになる。
ところが、その男とそのホテルにとって幸いなことに、由美の死体は次のような形で発見された。
男が帰ると、間もなく、由美の部屋から帳場に電話がかかってきた。外線の電話をかけてほしい、という申込みである。
このため、男が帰ってから、由美はまだ生きていたことが分る。その上、由美の頼んだ電話が、話中だった。
「あとで、また、かけてみて頂戴」
電話が通じたのは、十分後である。帳場から、由美の部屋の電話のベルを鳴らす。いくら鳴らしても、応答がない。
不審におもって、由美の部屋の前へ行き、ドアをノックしたが、やはり応答がない。やむなく、マスター・キイを使ってドアを開いた。
バス・ルームの中に、裸の由美が倒れていた。シャワーが出しっぱなしになっており、由美の裸の上に湯が降りそそいでいた。
苦痛のない、綺麗《きれい》な死顔である。
このとき、ホテル側は慎重であった。警察へ知らせなくてならぬ情況ではない、と判断を下した。そういう判断をしたがるのも無理はない。変死などと新聞に出れば、営業にさしさわりがある。
医師が呼ばれた。
由美の躯からは、薬物を嚥《の》んだ痕もみられず、単純な心臓麻痺が死因と分った。はげしい運動のあとのシャワーが、いけなかったようだ。要するに、医師の手で死亡診断書の書ける情況だったわけである。
「しかし、はかないものだ。あんなに元気で、殺そうたって……」
と城田は言い、その自分の言葉につまずいた。やはり、由美の死をあやしむ気持が、拭い去られていない。
「あの子、睡眠薬をいつも使っていたからね、それで心臓をいためたのかもしれないわ」
「そのときも、使っていたのかな」
「使っていたとおもうわ。お医者さまは、はっきり言わないけど。でも、死ぬほどの量でないことは、確かよ」
由美のアパートの二間つづきの部屋の奥に、棺が置かれている。その中には、暑い季節なので、ドライ・アイス詰めになった由美が横たわっている筈である。
通夜に集まった顔ぶれは、もちろん多くはない。それでも「紅」のホステスたちがつぎつぎと顔を出して、すぐに姿を消した。こういう夜でも、店を休むわけではない。
残っているのは、マダムの圭子、理加、城田、それに井山卓次郎や大場雅子の顔もみえる。
「それで……」
と、城田は話が一段落したところで、
「由美と一緒にいたという男は、いったい誰なんです」
圭子が、複雑な顔つきになって、答えた。
「それは、ここにいらっしゃる井山さんよ」
「そうですか。いや、そうだろうとおもったが。とんだ災難、というか、それにしても、警察沙汰にならなくてよかったですね」
井山は黙って苦笑している。圭子が口を挿《はさ》んだ。
「それでも危いところだったのよ。由美の身もとが分らないでしょう。ハンドバッグを調べると、うちの店の名刺が出てきた。勤め先は分ったけど、夜中では連絡の方法がない。ところが、由美の手帳の電話の欄の一番はじめに、『紅のママ』と書いてあたしの自宅の番号が記してあったのですって。そこで、夜中にわたしが起されることになったのだけど……」
「電話で救われたわけですね、井山さん。由美が電話をかけたのもよかったし、その電話が話中だったのもよかったわけだ」
井山は依然として苦笑したままだが、城田の言葉にときどき強く頷《うなず》く。まったくそのとおり、たすかった、という気分で、いかにも恐妻家の井山にふさわしい。
「もし、お家にバレたら、どうしますか」
城田が訊ねた。由美の棺の前では、不適当な話題ともおもえたが、通夜は陽気で少々|猥雑《わいざつ》でもかまわない、という気持がする。
「どうしますって、君」
と、井山は絶句して、
「そうなったら、家出しちまうしかないね」
「へえ、恐《こわ》くて、主人が家出ですか」
「そうさ、家出だ」
「でもね、そんな弱気なことを言ってるけれど」
と、圭子がとりなすように、
「井山さんて大した馬力なのね。うっかりすると、殺されちまう……」
「危険な人物だ」
と、城田は言い、ふっと記憶の中で動くものがあった。「危険なひと……」と、理加が大場雅子を指してそう言った。彼はそっと、雅子の様子をうかがってみる。
不意に、思いついて、城田は圭子に訊ねてみた。
「さっき、由美のかけた電話が話中ということを聞いたとおもったけど、その電話は、どこにかけたのだろう」
「そのことは、わたしも気になって、ホテルに訊ねてみたのよ」
と、圭子は答える。
「交換手のいるちゃんとしたホテルだったら、番号の控えがあるわけだけど……。ああいうホテルは、手の空いている人が、交換機のダイヤルをまわすことになるのよ。だから、よく覚えていないのですって」
「しかし、相手が話中で、何回もかけたのでしょう」
「でも、なかなか覚えられないものよ。城田さん、うちの店の番号、いま言うことができて?」
「……なるほど、はっきり覚えていない」
「そういうものよ。覚えようとしなければ、すぐ忘れてしまう。もっとも局番だけは、分ったのだけど」
と、圭子はその局番を言った。
「局番だけでは……」
城田はそう言いかけて、ふと気付いた。その局番は、彼自身の電話の局番に似ている数字である。同じではないが、彼の近所の地域の局番である。
そして、その局番から咄嗟《とつさ》に連想が浮かんだのは、R・アンダーソン邸であった。由美とその邸とのあいだには、ほとんど脈絡はないとおもえる。
しかし、もし三津子があの邸にいるとすれば……。そして三津子と由美とが「紅」で同僚であったことを考えれば……。意外に深いつながりが、由美と三津子とのあいだに出来上っていない、ともかぎらない。
城田の頭の中でR・アンダーソン邸と由美とが結びつくと同時に、彼は由美の刺青が気にかかって仕方がなくなってきた。
「はたして、あの刺青はまだ由美の躯にあるだろうか」
そのことを確かめることで、謎が解けるというわけではない。しかし、明日になれば由美の躯は灰になってしまう。確かめずにはいられない衝動が、突き上ってきた。
城田は立ち上って、棺に近づいて行った。
「ちょっと、死に顔をみせてもらいますよ」
蓋には、まだ釘《くぎ》は打たれていない。持ち上げて覗きこむ。
「綺麗な顔でしょう」
部屋の端から、圭子が声をかけた。
「綺麗だが……」
彼は口ごもり、
「雅子さん、ちょっとここへ来て、手を貸してください」
と、呼びかけた。
大場雅子は危険な人物、という理加の言葉が浮かんだが、「危険なことは危険なひとに手伝わさせてやる」と彼は自分に言い聞かせている。
「どうしましたの」
彼の傍に雅子が立った。彼は、棺の中で新しいネグリジェを纏《まと》われて横たわっている由美を指さし、
「裾がみだれている。ちょっと直してあげてください」
と言いながら、手を伸ばし、由美のネグリジェの裾をはだけた。もともと乱れていない裾なので、遠くからみれば、直しているようにみえる。彼は手を貸すふりをして、由美の腿の内側がみえるようにした。
彼も雅子も見た。
由美の内腿から、郵便切手くらいの大きさの皮が剥《は》ぎ取られている。縫合する暇がなかったとみえて、桃色の肉が四角く覗いていた。
藍色《あいいろ》の模様
由美の死体から刺青の部分が剥ぎ取られていた。剥がしたのは、誰か。
棺の傍から離れて、二人だけになったとき、城田は大場雅子に訊《たず》ねてみた。
「由美を棺に入れたとき、雅子さんはその場にいましたか」
「ええ、由美ちゃんのタンスの中に、まだ使っていないネグリジェがあったので、それを着せて入れたのよ」
「つまり、この部屋で、そういうことをしたわけですね」
「そうよ」
「そのとき、誰が部屋にいましたか」
「誰って……、そうねえ、いろんな人たちが沢山いたわ。『紅』の女の子たちもいたし、もちろんリカもいたし、わたしは余志子を連れて手伝いにきていたし……」
「男はいませんでしたか」
「男の人といえば、井山さんとか、『紅』のマネージャーとか、あと二人ほど知らない顔がみえていたわ」
そのとき、雅子が声をひそめて、城田に訊ねた。
「ほんとに由美ちゃんにも刺青があったのね」
「この前、教えてあげたでしょう」
「リカの刺青と同じ絵だとおっしゃったわね」
「そうですよ」
その理加の刺青が剥ぎ取られたことを、黙っていようか、ともおもったが、彼は自分が大場雅子の「快楽コンサルタント」の役割を受け持っていることを思い出した。驚くことも、愉しみの一つには違いない。
「じつは、リカの刺青も剥ぎ取られてしまったのですよ」
「まあ、誰に?」
「それが分れば、苦労はしないが……」
「でも、どうして、リカのことが分ったの」
「…………」
「城田さん、自分で見たのね、悪い人ね。でも、由美もリカも同じように刺青を剥がされるなんて、いったいどういうことなんでしょう」
大場雅子は、「同じように」というが、城田はそうはおもっていない。由美は、死体から剥がされ、一方理加は生身の躯《からだ》から、剥ぎ取られた。理加の場合は、秘密の組織からの追放を意味しているかもしれないが、その考え方を由美の場合に当て嵌《は》めることはできないだろう。しかし、その考え方を、彼は雅子には話さないで、
「だから、どういうことか分ろうとおもって、リカの刺青を剥がした人物を探しているわけですよ」
「でも、由美ちゃんは、いつ剥がされたのかしら」
「いつ、といって、死んでからにきまっている」
「そうかしら」
「生きているうちに、と言うのですか。とすると、雅子さんは、由美が殺されたとでも考えているのですか」
「殺されたとはおもわないわ。だって、お医者さまが死体を調べたのでしょう」
「そうですよ。だからもし、生きているうちに剥がされていたら、医者がそのことに気付いた筈だ」
「気が付いても、黙っているということだって、あるでしょう。命にかかわる傷でないことが、はっきりしているならば……」
「どうしても、生きているうちに剥がされたことにしたいようですね。仮にそうだとすると、その犯人は井山さんしかいないことになりますね」
「そうとは限らないわ」
「しかし、死ぬ前まで、由美は井山さんと二人だけで密室に閉じこもっていたのですからね」
「でも、もう一人いたのかもしれないわ」
「もう一人いた、なんて、そんな人物は誰もいないじゃありませんか」
「そうよ、誰も見ていないのよ。つまり見えない人物よ」
「見えない人物?」
「透明人間だわ」
冗談の口調ではない。それに、雅子は先刻からこの話題について、奇妙に執拗《しつよう》なところをみせている。
「わたしには、透明人間がいるとしかおもえないの」
念を押すように、大場雅子は言う。
「しかし、誰が透明人間に……、三津子ですか」
「そう……、たぶん三津子さんだわ」
「とすると、三津子の行方を探していて、それが少しも分らないのに、三津子は透明人間になって、いつもぼくたちのまわりにいる、ということですね」
雅子は頷《うなず》きながら、あたりの空間をそっと窺《うかが》い、近くにいる透明人間の耳をおそれてでもいるようなささやき声になって、言った。
「ちょっとお話があるのよ、あとでつき合ってくださらない」
謎をたくさん抱えたまま、彼は雅子と連れ立って、外へ出た。
「さて、どこへ行きます」
城田が訊ねると、雅子は曖昧《あいまい》な表情で、
「誰もいないところがいいのだけど、……聞かれたくないお話なのよ」
「雅子さんの部屋へ行きましょうか」
「うちは、いまは具合が悪いの。このところ、余志子に泊ってもらっているの」
「余志ちゃんなら、聞かれたって構わないでしょう」
「構わないようなものだけど、やはりちょっと具合が悪いわ」
「それでは、ぼくの部屋へ来ますか」
誘っている形になっている、と彼はおもう。そして、雅子が承諾することを、彼はすこしも疑っていない。なぜなら、三津子の行方を探しはじめてから、つぎつぎ女性関係ができはじめている。
由美もそうだったし、理加もそうである。しかし……、と彼にためらう気持が起ったとき、
「いいわ、行きますわ」
という雅子の声が聞えてきた。
「しかし……」
依然として、彼はためらっている。なぜなら、そのようにして関係のできた相手の上には、かならず異変が起きているからだ。
「行きましょうよ」
彼のためらいをみると、大場雅子は一層積極的になった。
城田の部屋へ向う途中、雅子はずっと苛立《いらだ》ちと心の昂《たか》ぶりの混じり合った態度を示していた。そこには、平素の優雅な大場雅子の面影はない。
そして、部屋に入ると、彼の予感どおりの事態が起った。雅子が、彼のほうへ躯を投げかけてきたのである。まるで、見えない糸が彼女を操って、平素と違う振舞いをさせているようにみえる。
大場雅子とは、こういう形で肉体関係ができるのは困る、と彼はおもう。もっと別の形を夢みていたのだ、とおもうのだが、彼女の積極的な振舞いに、城田は巻き込まれてしまった。
雅子は、疲れて横たわっている城田の手首を握って、彼の手を引き寄せる。そして、剥《む》き出《だ》しになっている腿《もも》の内側に、彼の掌を押し当てた。
「ね、ここを見て頂戴」
「え?」
「どうにかなっているか、見て頂戴」
彼は起き上って、視線を向ける。白い滑らかな皮膚のひろがりがあるだけだ。
「どうにもなっていないが……」
「よく見て頂戴」
「なにもない……。しかし、いったい、どうしたわけなんです」
雅子はいそいで裾をかき合わせた。恥じらいが全身から滲《にじ》み出し、ベッドの上に起き上った。やがて、部屋の隅へ行き、身支度を整えはじめる。そのうしろ姿からも、含羞《はにかみ》が匂うように立ち上っている。
いつもの大場雅子の姿が、ようやくそこに現われてきた。
「ごめんなさい、わたし、まるで……」
と言い淀《よど》み、やがて思い切ったように、
「商売女みたいだった?」
「…………」
「でも、城田さんに調べてもらいたかったのよ。調べてもらうためには、あんな風になってしまわなくちゃ、駄目だったの」
「しかし、いったい、どういうことなのです」
改まって、彼は訊ねた。
雅子の話は、次のとおりである。
ある朝、目が覚めてふと気付くと、自分の腿に異様なものを見た。
見馴れないもの、と言うと嘘になる。一度、見たことのある藍色の模様が、自分の腿に浮き上っている。
女王の冠をかぶった蜂の模様なのだ。
「知らない間に、刺青をされてしまった」
と、彼女はおもった。
そういえば、前の夜、寝床に入ってから、異常な睡気《ねむけ》に襲われたのを思い出した。前後不覚に眠りに陥《お》ちている間に、刺青をされてしまった。
雅子はしばらく呆然としていたが、やがてわれに返ると、腿に痛みが全くないことに気付いた。
指先で、そっと模様の上に触れてみる。しかし、痛みは依然として感じられない。指先で強く擦《こす》ってみる。痛みはしない。ただ、いま指の触れた模様の部分の色が、いくぶん薄くなっているような気がした。
唾を指につけて、もう一度、擦ってみると、線から色がはみ出して、指先が藍色になった。はじめて、それは刺青ではなく、模様を藍色の線で皮膚の上に描いたものだということが分った。熱いタオルで拭くと、その模様はあっけなく消え去ってしまった。
余志子にそのことを告げると、
「夢を見たのじゃないかしら」
と、言う。
「だって、眼が覚めて、それから自分の腿を見たのよ」
「眼が覚める、というのは夢なのよ。夢の中に、もう一つ夢があるわけ。だから、内側の夢から覚めても、まだ外側の夢にくるまれている……、そういうことがときどきあるわ」
と余志子が言う。そう言われると、夢だったような気もしてくる。と同時に、起きて動いているときに、ふと自分の腿にあの藍色の模様が浮かび上っているのではないか、とおもい、居ても立ってもいられなくなる瞬間もある。そして、透明人間がいるのじゃないか、とおもったりする。その透明人間がそうっと着物の中に入ってきて、腿に模様を描きはじめているのじゃないか、と心配になってくる……。
「もう一つ質問するけど」
と、城田が大場雅子の顔を見詰めながら言った。そのときには、雅子はもう平素の態度に戻っていて、彼は「さっき抱いたのは、本当にこの雅子だったのだろうか」と、ふと疑う気持になってくる。
「どんなこと?」
「その模様というのは、リカのものとそっくり同じものだった?」
「わたしが覚えているものと、瓜《うり》二つといってもいいわ」
「しかし、なぜ、そんな模様をあなたに描いたのかなあ」
「…………」
「なにかの予告、というか、警告みたいなもののようでもあるな」
「そうでしょう。わたしも、そんな気がするの。たとえそれが透明人間になった三津子さんの仕業ときめてしまっても、いったいなんの警告なのかすこしも分らないので、一層薄気味わるいのよ」
「ともかくこれは、三津子を探し出さなくてはいけないな。三津子さえ見付かれば、解決の糸口は掴《つか》めるだろう」