「でも、三津子さんは、まったく行方不明のままなのでしょう」
「しかし、手がかりはないわけじゃない」
R・アンダーソン邸のことを思い浮かべてそう言ったのだが、あまり自信のある心持にはなれなかった。
「眠るのがこわいのよ」
と、雅子は訴えるように言う。
「朝になると、また模様が描かれているのじゃないか、とおもって」
「しかし、眠らないわけにはいかない」
「そのくせ、横になるとすぐ眠くなってしまうの。考えてみれば、あの睡たさも普通じゃないわ。砂男が目蓋に砂をかけにくるみたいだわ」
「夜がこわいというのは困るな。今夜は、ここに泊っていきますか」
「でも……」
と、彼女は恥じらいの色をみせる。先刻のまるで別人のようだった大場雅子には、なにかえたいの知れぬものが取憑《とりつ》いていたのかもしれない、と城田はおもう。
「余志子が待っているから、帰りますわ」
「そう、やはり帰ったほうが、いいとおもうな」
「だけど、帰るまでの間が、わたし恐《こわ》くって……」
「送って行きましょうか」
「そうしていただけると」
並んで、部屋を出た。
門から道路に出ようとしたとき、小さな黒い塊がはげしい勢いで飛んでくると彼の躯に突き当った。
「あ!」
悲鳴のような声が、雅子の口から出る。しかし、その黒い塊りは、甘えるような鳴声を出しながら、彼の脚に纏《まつ》わり付いている。
「なんでもありません。隣のダックス・フントですよ」
彼は蹲《うずくま》って、犬の頭を撫《な》でる。犬は一層甘えた声を出しつづけ、ついには仰向けになって、地面に背中をこすりつけるようにして短い脚を宙でばたばたさせた。
「犬が好きというわけでもないんだが、いつの間にか馴れてしまってね」
と言いながら、彼は仰向いた犬の腹を揉《も》むようにして撫でている。
犬の腹
城田は、大場雅子を送りとどけるために、タクシーを停めた。
やがて、彼女の家の前で、車を降りた。玄関の戸を開け、雅子が、
「余志ちゃん」
と、声をかける。
応答の声が聞え、余志子が姿を現わすより早く、黒い小さな塊りが家の奥から飛び出してきた。
「城田さん、注意して。うちの犬、知らない人にはなかなか馴れないのよ、噛《か》みつくこともあるから」
雅子はそう言って、
「クロ、クロ、こっちへいらっしゃい」
と、犬を呼んだ。牝犬《めすいぬ》である。クロ、とは牡《おす》の犬の名のようだ。と言われることがあるが、そういうときには「クロチルドのクロよ、女の名前でもおかしくないでしょう」と雅子は答える。黒い犬なのである。
犬は雅子に名を呼ばれているのだが、城田の胸に飛びかかってきた。
「駄目よ、こっちへいらっしゃい」
と、雅子が言う。
しかし、犬は飛び上って前足を城田の胸に当て、からだが床に落ちると、また飛び上って足を城田の胸にかけることを繰り返す。それは、襲いかかっているのではなく、じゃれている恰好だということが、間もなく分ってきた。
「大丈夫ですよ、喜んでいるらしい」
と、城田が言うと、雅子は首をかしげて、
「ふしぎだわ、どうしてかしら」
城田は雅子の耳もとで、ささやいた。
「あなたの匂いが、ぼくに移っているせいでしょう」
雅子は顔を赤くして、
「でも、それなら、あたしに先に飛びついてくる筈だわ」
犬の喜び方はますます烈しくなり、彼が手を伸ばして頭を撫でると、その手首にじゃれついている。
「分った」
と、彼は自分の手を犬の鼻先に擦りつけながら、
「さっき、隣の犬をこの手で撫でてやったでしょう。そのにおいが残っているんだ」
「あら、そうなのね」
雅子が言ったとき、犬はくるりとからだを裏返しにして、背中を床に擦りつけながら、短い四つの足をばたばたさせた。甘える恰好である。
「あっ!」
その声は、城田と雅子の口から、同時に出た。剥き出しになった犬の腹に、異様なものを見たのだ。
毛の生えていない、地肌が露出してすべすべしている犬の腹に、刺青の模様がくっきりと浮き上っている。
そのときには、余志子も玄関に出てきていて、三人の目が犬の腹に集まった。
緑と藍色の星が、三つずつ交互に並んでいる。その星たちをかかえるように、真紅の三日月が彫られている。
「この刺青の模様は……」
と、雅子が呟《つぶや》いた。
「三津子の模様と同じだ」
城田が言う。
「三津子さんが、犬になったのかしら」
すぐに余志子が言ったが、そういう馬鹿げた考えも、すぐには笑い捨てられない気分が、その場に漂っていた。
「あたし、厭《いや》だわ……」
雅子はそう言うと、崩れるように、玄関の式台に腰をおとした。
「雅子さん、いくらなんでも、三津子が犬になるわけはないのだから……」
城田が元気づけるように言うが、
「それは分っているわ。でも、クロがいつの間にかおなかに刺青をされているなんて、それが気味が悪いのよ」
「しかし……」
城田は、不意になにか思い当った顔になり、余志子に言いつけて、アルコールと綿を持ってこさせた。
アルコールに浸した綿で、犬の腹を拭ってみた。冷たいので跳ね起きかかる犬をおさえ付け、その腹をごしごし擦る。
すると、腹の模様が、すこしずつ消えて行くのである。
「やはり、そうだ。これは刺青ではない。描いたものですよ」
城田が言うと、雅子は、
「それじゃ、わたしのときと同じなのね。いったい、何のためにこんなことをするのでしょう。城田さんは予告だというけれど、なんの予告か分らないのですもの」
と言い、余志子のほうを向くと、
「クロは、ずっと余志ちゃんの傍にいたの?」
「いたとおもうのだけれど、でも、すこしはいない時間があったかもしれないわ」
「いったい誰の仕業なんでしょう。やっぱり、透明人間かしら」
「また、そういうことを言っている」
城田は言い、
「これはどうしても、三津子を見付け出さなくてはならないな」
と、独り言のように、言う。
自分の家に帰った城田祐一は、ベッドに寝そべって、考えに耽《ふけ》っている。
三津子の行方を探そうと決心したのは、なにも今はじめてのことではない。これまでにも、試みてきたことだ。
しかし、その度に、不吉な翳《かげ》が射すのである。いま、まだ行動を起していない彼の耳に、女の声が聞えてくる。
「ねえ、本当よ。もう二度と、行くのはやめて頂戴。……ね、あのお家には、もう近寄らないで」
それは、余志子の声である。先日、R・アンダーソン邸の玄関先まで入ったことを報告したとき、余志子の言った言葉なのである。
城田は、いま、R・アンダーソン邸を探ろうと決心したのだ。そのほかに、三津子の行方を探り当てる方法はなさそうだ。しかし、そう考えただけで、彼の頭の中には雑草の庭のむこうに黒くうずくまっている建物が、不吉な色合いで浮かび上ってくる。そして、余志子の制止する声が、聞えてくるのである。
ためらう気持が起る。だが、三津子があの屋敷にいることは、間違いない事実とおもえる。
「やってみよう」
独り言を言うと、彼は立ち上り、懐中電燈をもって、外出の支度をはじめた。
池のほとりを回って、台地の上のR・アンダーソン邸に近付いて行く。
石の門は閉ざされていたが、たやすく乗り越えることができた。その屋敷には、厳重に警戒しているという気配はない。塀《へい》は低いものだし、塀の上に忍返しが付いているわけでもない。それに、庭に生えている雑草は、身を隠すのに好都合である。
彼はレインコートを着て、そのポケットにガラス切りを忍ばせている。場合によっては、家の中に忍び込もうと考えている。窓ガラスを切り、ガラスの穴から手を差し込んで錠前をはずす。
もっとも、そういう作業をすることに、彼が熟達しているわけではない。忍び込んだとたんに見付かって騒ぎが起るかもしれない。しかし、そうなればそうなったで構わない。騒ぎが起って、家の中のものが集まってくる。そのとき、三津子の顔を見ることができるかもしれない。あるいは、パトカーが呼ばれて警官に引き渡されるとき、事情を話して、三津子に会わせてもらってもよい。
それも、一つの狙いである。玄関から訪問客として入って行こうとしても、この前のように追い帰されてしまうにちがいないのだから……。
だが、なるべくなら、見付からないうちに、三津子の姿を見付け出すに越したことはない。彼は足音を忍ばせて、家のまわりを回ってみた。
深夜である。燈のともった窓が、一つだけあった。
城田は地面を這《は》うように進んで行き、その窓の下に蹲《うずくま》った。そして、しずかに頭をもたげ、窓の中に視線をすべりこませようとする。
大きな椅子の背がみえる。その椅子の背から左右にはみ出している、頑丈な男の背中がみえた。大きな男が、椅子にもたれて、書物を読んでいる。
うしろ姿なので、顔は見えないが、ごま塩の頭髪から、かなりの年配の男とみえた。骨格の具合が、外国人のようである。
その部屋は、男の書斎らしい。壁の大きな部分が書棚になっており、ぎっしり横文字の背をみせて、書物が並んでいる。
部屋の様子と、男のうしろ姿からは、教養のある紳士のようにおもえる。先日、玄関から覗いたときのような、怪しげな気配はない……、とおもいながら城田がさらに視線を部屋の中にめぐらしたとき、
「あっ……」
あやうく、その声を口から外へ出してしまいそうだった。
壁の額に、彼の眼が釘付《くぎづ》けになっている。大きな額縁で、そのガラス板の下におさめられているものといえば……。
緑と黄色の六つの星と、真赤な三日月の模様なのである。額縁の中のそれが、カンバスや紙に描かれた模様とは、とうてい城田には考えられない。人間の皮としか、おもえない。その証拠に、その模様はクリーム色の皮のようなものの上に描かれてある。そして、ガラスの下のその皮は、全体が大きな楕円形《だえんけい》になっている。
「これは……」
と、呟きながら、彼はその額縁を凝視しつづけている。その皮の面積は、きわめて大きい。尻の皮の全部を剥がしたとしてもまだ足りないくらいの大きさで、背中や腿の裏側の皮まで、一緒に剥がされているとしかおもわれない。星と月の模様は、そのひろがりの中央に、小さく集まっているようにさえ、見えてくる。
城田は、理加の腿の傷痕《きずあと》を思い出してみる。郵便切手ほどの大きさの皮を切りとられた場合には、理加のように縫い合わせることができるが、いま眼に映っているほどの皮が剥がされたとしたら、その人間は死ぬほかあるまい。
「三津子は殺されてしまったのか」
闇の中でおもわず身震いしたとき、不意に背後から襲いかかったものがある。
彼の躯は地面の上に突き倒され、烈しい鼻息と低いうなり声が聞えてきた。のしかかってくるものを、はね返そうとするとき、獣のにおいがした。
「犬か」
大きな躯と揉み合いながら、彼は鋭い歯を避けようとして、相手の顎《あご》に手をかけようとする。しかし、なかなか顎が探り当てられない。烈しい鼻息を目当てに、相手の頭の位置を探ろうとするうちに、不意に大きく開いた鼻の穴が二つ、彼の眼の前ににゅっと突き出されてきた。ひどく大きな、平たく潰《つぶ》れた鼻である。
「犬ではないな」
彼はおもい、
「豚だ」
と、突然、理解した。豚のよだれで、自分の顔がぬるぬるしているような気がした。
そのとき、窓の開く音がして、鋭い口笛がひびいた。
「ペギイ!」
男の声である。それは豚の名なのだろう。よく馴らされた豚で、合図の口笛で、城田から離れ、ゆっくり揺れながら遠ざかって行く二つの尻が眼に映ってくる。黒いいくぶん長目の毛に覆われているところをみると、野生の豚なのだろう。牙《きば》は抜いてあるようだ。
城田は起き上って、両手でばたばたと泥を払い落した。窓の中の男と、地面に立った城田と、向い合うかたちになった。窓の中の顔は、五十年配のアメリカ人らしい外人である。
「オマエハ、ドロボーナノカ」
外人としては達者な、日本語が聞えてきた。
「違う」
城田は答え、ついでに付け加えた。
「君のほうこそ、人殺しではないか」
「ワタシガ人殺シ? ソレハナゼカ」
「そこに、その証拠がある」
城田は、窓の中に腕を差し入れるようにして、壁の額縁を指さした。男は振り向いて、額縁を眺め、もう一度、窓の外へ向き直ると、
「ナゼ、アレガ証拠ナノカ」
「あれは、女の尻の刺青ではないか」
「キミハナゼ、ソンナコトガ分ルノカ」
城田はそれには答えず、
「あれだけの皮を剥がし取れば、その人間は死んでしまうではないか」
男は、しばらく城田の顔を眺めていたが、
「モシカスルト……」
と言いかけ、
「トモカク、中ニ入ッテクダサイ」
紳士的な態度になり、城田を家の中に招じ入れた。もちろん、窓から入ったわけではない。玄関にまわり、あの太陽と月の模様の龕燈の傍を通り抜けて部屋に入った。
部屋の中で、二人は名乗り合った。男は、アンダーソン氏である。
そして二人は、あらためて会話を交わしはじめたわけだが、アンダーソンはまずこう言う。
「ワタシハ、人殺シデハナイ」
「それならば、三津子に会わせてください」
「三津子トハ、誰ノコトデスカ」
「生きていれば、この家の中にいる筈です。会わせてもらいたいのです」
そう言って、城田は壁の額縁に眼を移す。おもわず身構えて、部屋の中に眼を配る。三津子が生きている筈がないのだ。そうとすれば、自分も……。やはり、三津子の行方は探してはいけなかったのか。R・アンダーソンの紳士的な身振りが、兇行《きようこう》の前触れのようにおもえる。
「ソノ三津子トイウヒトニハ、コノ額ノナカノ刺青ト同ジ模様ノモノガアッタノデスカ」
「同じ模様?」
三津子の皮がそこにあるのに、と城田はおもう。しかし、三津子の刺青を実際に見たわけではないので、その問には答えられない。こんなことなら、三津子の刺青を見ておけばよかった、そういう関係になっておけばよかった、という考えが頭の中を掠《かす》めて行く。
「ともかく……」
と城田は語気を強めて、
「あなたが、三津子を知らない筈はない。三津子が、この家に入って行くのを見た人がいるのですからね」
そう言った城田は、ふと思い付いて、付け足してみた。三津子という名前では、分らないのかもしれない、とおもったのだ。
「三津子といっても……、つまり、混血の十九歳の娘ですよ」
「ソレデ、ソノ娘ノオシリニ刺青ガアルノデスカ」
「そのように、本人は言っていましたがね。ぼくは見たことはないが」
「オー、ソレハ、じゅでいデス」
アンダーソンは椅子から立ち上って、城田の手を掴んだ。昂奮《こうふん》の色が、あきらかに現われている。
「ジュデイと言うのですか」
「ソウデス、ワタシノ娘デス。ソノ刺青ガ証拠デス。ソノ娘ヲ、ワタシハ探シテイルノデス」
「探している、といっても、この家に入って行くのを見た人がいるのですよ」
「ソンナコトハアリマセン。ナニカノ間違イデス」
城田は、頭の中が混乱してきた。壁の額縁を指さすと、
「それでは、これは?」
「アレハ、じゅでいノ母親ノモノデス」
「殺したのですね」
「アナタハ、スグ殺シタトイイマスネ。違イマス。イロイロ厄介ナハナシガアリマスガ」
アンダーソンの説明によれば、次のようになる。
R・アンダーソンは、刺青|蒐集家《しゆうしゆうか》である。戦後すぐ、日本に来た。日本は、刺青の宝庫である、と彼はおもったわけだ。間もなく、一人の日本人の女と同棲をはじめた。
彼女の尻に刺青をさせたのは、アンダーソンである。そして、ジュデイが、二人の間に生れた。やがて、結核に罹《かか》ったジュデイの母は、二年間病床にあって、死んで行くのであるが、遺言によって自分の皮をアンダーソンの手に残した。その皮が額縁におさまっているものなのである……。
七つ目の星
アンダーソンは、皮を残して死んだ女、つまり、ジュデイの母親に当るわけだが、その女を偲《しの》んで、ジュデイの尻に同じ模様を彫った。
そのとき、ジュデイは、四歳であった。
その後間もなく、アンダーソンは帰国してしまうが、そのときジュデイは母親の縁つづきの老夫婦にあずけられ、そこで育てられることになる。かなり多額の金が、養育費として渡された、という。
彼がふたたび日本を訪れ、そこで生活をはじめたのは、それから十三年後、つまり今から二年前のことである。
以来、ジュデイの行方を探しているのだが、彼女をあずけた夫婦はしばらく前に相ついで死んでしまっており、彼女を探す手がかりを掴《つか》めないまま、日が過ぎた、という。
ジュデイと三津子とが同一人物であることは、ほぼ間違いないところだろう。
それはそれとして、アンダーソンの話を聞いている城田の頭の中には、いくつかの考えがつぎつぎに浮かんできた。
アンダーソンは、自分の女を偲ぶために、ということで、まだ学齢前の子供の尻に刺青をしている。そして、子供を残して帰国している。父親としての愛情はきわめて薄い、と感じられる。
そういう彼が、十数年後にふたたび現われて、自分の娘を探しているのである。その長い歳月のあいだに、彼の心に父性愛が目覚めた、という考え方もできないわけではないが……。「ソノ娘ヲ、ワタシハ探シテイルノデス」とアンダーソンは言ったが、父親としての愛情が彼を動かして、娘を探している、と判断してよいものかどうか。
なにか、ある目的をもって、探し出そうとしているのかもしれない。となると、その目的は……。
城田は、もう一度壁にかかっている大きな額に眼を向けた。
赤い三日月、緑の星が三つ、藍色《あいいろ》の星が三つ……。突然、城田は一つの疑問に突き当った。
背筋に寒いものが走り、その疑問の重大さを感じた城田は、身構える心持で、質問をはじめた。
「あの赤いのは、三日月ですね」
「ソウデス」
と、アンダーソンは答える。
「星は北斗七星ですか」
「ソウデス」
「しかし、星は六つしかありませんね」
「ソウデスネ、デモ、ソレデイイノデス」
「なぜ、いいのですか」
「ソレデイイノデスヨ」
理由を説明しようとせず、平然としてそう言うアンダーソンの態度が、城田を恐怖にちかい気分にさせている。しかし、思い切って、訊《たず》ねてみた。
「よく分りませんが」
と、依然として額を見詰めたまま、
「ともかく、鮮かな色ですね。死んでからでも、刺青の色は変らないものですか」
「変リマセンネ」
「まったく同じですか」
「同ジデス」
「皮を剥《は》がすのは、むずかしいのでしょうか」
「イエ簡単デス。カミソリノ刃ヲ使ッテ、カンタンニデキマス」
「剥がした皮には、なにか細工をするのでしょうね」
「イエ、ソノママデス」
「そのまま?」
それは、城田にとって意外だった。鞣《なめ》すか、なにか加工をする必要がある、と考えていたのだ。
刺青の色を鮮かに保つために生きた人間の皮を剥がす、そういう必要はないということを、アンダーソンの答えは示している。
そのことが分って、城田は安堵《あんど》したか、といえば、その逆である。彼の悪寒《おかん》に似た気持は、一層強くなってきた。
額縁の中の皮には、六つの星がみえている。
「残りの一つの星は、どこへ行ってしまったか」
と、彼は考える。
それは、三津子の母親が死んだとき、皮の上から永久に死体の中に消えてしまったのだ。額縁の中の星が六つしかないということは、七つ目のピンク色の星があった証拠ともいえるわけだ。
「ソレデイイノデス」
と、アンダーソンは言うが、刺青蒐集家である彼にとって、「それでいい」わけはあるまい。「ソレデ仕方ガナイノデス」と言うのが、正しいであろう。額縁の中の皮は、それでは仕方がないとしても、蒐集家の彼は、ピンク色の大きな星の浮かんでいる、星の七つある皮を手に入れたいという執念が無い筈はない。
四歳の三津子の皮に刺青をほどこしたときには、将来その皮を自分のものにしようという企みがあったのではなかったか。
そして、ピンク色の星の出ている皮を手に入れるためには、その刺青をしている女が生きていることが必要なのだ。死んだときには、その星は二度とふたたび浮かび上ってこなくなる。
ピンク色の星が現われているときに、その皮を剥がし取らなくてはならない。
R・アンダーソンの再来日は、父親としての愛情のためか、あるいは蒐集家としての目的のためか。余志子は、三津子がこの屋敷に入って行く姿を見たという。もしも後者であったとしたならば、すでに三津子の生命は無くなっていると考えなくてはなるまい。いま、壁の額にみられるのと同じ模様で、その上にピンクの大きな星のある刺青をおさめた額縁が、この家の中の秘密の部屋に誇らしげに掲げられているにちがいない。
そのように考えが進んで、城田ははげしい恐怖に似た気分に陥ったわけである。
「この屋敷から、生きて帰ることができるだろうか」
と城田は自分自身の生命まで心配になってきた。身構えを崩せない。相手を刺戟《しげき》しないで、隙を見て逃げ出そうと、疑いについてはそれ以上は口に出さない。
しかし、アンダーソンは、温和な態度で机の上の小箱を引き寄せ、蓋を開けた。箱の中身は巻煙草である。それを城田にすすめる。
その箱に、城田ははじめて気付いた。皮張りの小箱で、複雑な模様がほどこされている。
「これはどうも」
煙草を一本取り、ついでにその蓋を取り上げて眺めてみた。メフィストフェレスのような禍々《まがまが》しい顔を、唐草模様が取り囲んでいる。
「これも、人間の皮ですか」
と城田は、訊ねる。そういう質問は、いまは禁断のような気がするのだが、我慢ならず口から出てしまう。
「ソウデス」
「西洋風の模様ですね」
「ソウ、デモ、刺青ハ日本ノモノガ、断然スグレテイマスネ。ワタクシノ家ハ、地下室ニ日本ノモノバカリ集メテ、置イテアリマス。デモ、ソノ部屋ハ鍵《かぎ》ヲカケテ、メッタニ人ニハ見セマセン。オ客サンノ見エルトコロニハ、コノヨウニ西洋ノ刺青ノモノバカリ置イテアル」
アンダーソンは、蒐集家の表情になって、熱心に説明する。
「では、地下室には、西洋風の模様のものは一つもないのですね」
「ソウ……、アリマセンネ」
そう答えるアンダーソンの顔に、曖昧《あいまい》なものが混じった。
「おや?」
と城田がおもったとき、アンダーソンの声が聞えてきた。
「シロタサン、アナタハじゅでいト知リ合イノヨウデスネ。じゅでいヲ見付ケテクダサイ、オ礼ハタクサンシマス」
「…………」
「ワタシハ、ドウシテモ、じゅでいヲ見付ケナクテハナラナイ」
「ぼくも、見付けたいとおもっているんですよ。そのために、こんな夜中にお邪魔することになったわけです」
「ソーデシタネ」
「しかし、なかなか見付からない。見付けるためには、あなたの協力も必要だとおもうのですが」
「オー、ワタシデデキルコトナラ」
「一つだけ、教えてください。三津子がこの家に姿を見せたことは、本当にないのですか」
「ソレハアリマセン。ワタシ誓イマス」
城田は、半信半疑の気持でいる。
しかし、とにかく無事にこの屋敷を出ることができるのは、どうやら確かなようである。
自分の部屋へ戻った城田祐一は、さっそく蒲団にもぐり、混乱した頭の中を整理しようとした。
いくつかの問題点がある。
まず、R・アンダーソン邸を三津子が訪れたかどうか。
余志子はそういう三津子の姿を見た、と言い、アンダーソンはそういう事実はない、と言う。どちらかが嘘をついている、ということになるわけか。彼は、余志子の顔を思い浮かべてみる。嘘となれば、それはアンダーソンの嘘ということになりそうだ。
しかし、どちらの言葉も正しい、という第三の考え方もあるわけだ。つまり、三津子はたしかにR・アンダーソン邸の門をくぐったが、しかしその屋敷の誰とも会わなかった、ということも有り得る。
もしそうだとすると、なんのために、三津子はそういう振舞いをしたのか。
アンダーソンが自分の父親と知って、会いに行った三津子が門をくぐって玄関に立つ。指をのばして、ベルを押そうとする……。
城田の想像絵はそこで一瞬揺れ動く。あの奇怪な形をしたベルを思い出す……。小高い円型の中央が深く窪《くぼ》んでいる呼鈴。その窪みの奥から、親指の先が突き出ている。肉色の指の腹をみせており、指紋もみえている。
ベルを押そうとした三津子の指先がためらう。やがて、玄関に背を向けて彼女はいま来た道を引き返して行く。
しかし、もしそういうことがあったとしても、R・アンダーソンと三津子の関係を、彼女に告げた誰かが存在しなくてはならない。それは、誰か。
城田には、分らない。
やがて、迷ったまま眠りに落ちた彼は、夢を見た。
黒い大きなぶよぶよした塊りと、彼は格闘している。不意に、平べったい大きな鼻先が、彼の目の前ににゅっと突き出され、烈しい鼻息と一緒に大きく迫ってくる。
「豚だ」
と、彼はおもう。
格闘は依然として、続いている。
「こんな豚なんぞ、捻《ひね》り倒してやろう」
と意気込んだとき、逆に彼は豚に押し倒されてしまう。彼の上に、豚がのしかかってくる。顔の上に、豚の腹が覆いかぶさってくる。豚のヘソを舐《な》めそうになる。桃色のぶよぶよした豚が、すぐ目の前にある。
そのとき、彼は豚の腹に、奇怪なかたちの模様を見た。いや、それはすでに目慣れたものだ。赤い月と六つの星。いやいや、星は六つではない。七つ目の大きな星が、豚のピンク色の腹から滲《にじ》み出てきたように、濃い血の色でそこに浮かび上っている。
地面に仰向けに倒れたまま、彼は片手の掌でのしかかってくる豚の腹を押し上げるように、もう一方の手の指先で、その模様をこすってみる。指先に唾をつけてこする。しかし、その模様は消えない。
「これは描いたものではないな、刺青だ」
とおもったとき、目が覚めた。
なぜ、そういう夢を見たかは、はっきりしている。
R・アンダーソン邸の庭での、豚との格闘。大場雅子の家へ行ったとき見た、犬の腹の模様。そういうものが、入り混じっている。
「まったく、分らぬことだらけだ」
睡い頭を振りながら、彼は呟《つぶや》く。
R・アンダーソン邸にまつわる謎《なぞ》。
大場雅子の家で出会った謎。
犬の腹と豚。
夢の中の豚の腹。
「R・アンダーソン邸と、大場雅子の家とを繋《つな》ぐ糸のようなものがあるのだろうか」
と考えかかった彼は、苦笑して呟いた。
「まさか。夢のお告げなどというものが、あるわけではなし」
そのように、打ち消す言葉を呟くと同時に、彼の考えはそこで動かなくなってしまう。ようやく、城田は自分が行き止まりに来てしまっていることに気付いた。
自分だけの考えでは、もう動きが取れなくなっている……。他人の考えに頼ることを、このとき城田は考えたのである。
「春海《はるみ》さんのところへ行ってみよう」
躇《ためら》うことなく、その名前が城田の頭の中に出てくる。
春海俊太は、城田の学校の先輩であるばかりでなく、人生の先輩ともいえる人物である。井山卓次郎の友人だが、およそタイプが違っている。六尺にちかい長身をいつも持て余すようにしている彼は、その名前のように、ぼんやりした顔つきで、のたりのたりとしているようにみえるが、ときおり俊敏な気配をのぞかせる。
いつも俊敏なのではないところが、却《かえ》って城田に頼りがいのある気持を起させる。
春海俊太は、推理小説家である。それも、かなり流行している作家といえる。作品の中には、彼自身の風貌に似た名探偵が登場して、のたりのたりしながらも、難事件を解決して行くのである。
実験の成功
春海俊太の応接間で、春海と城田と向い合っている。
春海はソファから擦《ず》り落ちそうな恰好で坐り、長い脚を床の上に投げ出して、城田の話を聞いている。城田が、これまでの経緯を要領よく話し終ると、
「人間が一人死んでいるな」
と、春海が言った。
「えっ、由美はやっぱり他殺ですか」
「やっぱり、というが、君は疑っていたのかね」
「疑う、というほどじゃありませんが、いくぶんかは……」
「とすると、容疑者は誰なんだね」
「それは、つまり……」
「やはり、最後に、身近かにいた人物ということになるな」
「井山さんですか」
「そうだ。ところで、君は井山が人殺しができる男とおもうかね」
「できそうもありませんがねえ」
「そうだろう。人殺しができそうもない、という男が、案外犯人だったというケースはしばしばあることだが……」
「え? それじゃ井山さんが」
「慌ててはいけない。しばしばあることだが、井山にはできないね」
「では、犯人は誰なんですか」
春海はタバコの煙を天井のほうへ吹き上げると、
「城田君、いつぼくが、由美のことを他殺と言ったかね」
「だって、さっき」
「人間が一人死んでいるな、といっただけだよ。これは、やはり心臓|麻痺《まひ》のための急死としか考えられないな。しかし、これが推理小説の中の出来事とすれば、十分他殺の疑いを持つことができる」
春海の話は、その人柄と同じように、のらりくらりとしている。
「由美が、透明人間ごっこに熱心だった、ということが、これが絶好の材料になる」
城田は、曖昧な表情のまま、黙っている。
「透明人間になるためには、錠剤を嚥《の》むわけだったね」
「そうです、真赤な錠剤です」
「その錠剤の入った瓶《びん》を由美はいつも持っているわけだね」
「ハンドバッグの中に入れてあったようですよ」
「その瓶の中に外見はそっくりの真赤な毒薬をまぎれ込ましておけば、いつかは由美が自分の手でそれを嚥むことになる。心臓に強く作用するが、解剖しなければ検出されないような毒薬を使えばよい」
「…………」
「その毒薬を、由美がいつ嚥むか分らないところが面白いな。今日かもしれないし、明後日になるかもしれない、瓶の中の錠剤は、みんな無害のビタミン剤だという先入観念ができているところが、盲点になる。透明人間ごっこ、という推理小説を書いてみるかな、面白くできそうだ」
と、春海は機嫌がよい。
「春海さん、推理小説はともかくとして、現実の問題はいったいどういう具合になっているのか、教えてもらいたいわけですが」
「人間は一人死んでいるが、これは他殺ではない。とすると、推理小説家としては、考えることに身がはいらないというわけさ。……そのことを言おうとおもったのに、君が慌てて、やっぱり、などと言うものだから、話が脱線してしまった」
と春海は言い、
「しかし、これはなかなか複雑だ。面白い問題を含んでいるな」
「結論をはやくお願いします」
「ま、そう急ぐな。ともかく、ちょっと一ぱい飲みに出かけようじゃないか」
立ち上った春海は、外出の支度をはじめた。
「今夜は、あちこちまわることになりそうだから」
と春海は言い、ハイヤーを呼んだ。
「由美がいた『紅』へでも行きますか」
車の中で、城田がそう言うと、
「そうだな、その前にちょっと寄るところがある」
城田がふと気付くと、車は繁華街へ行く反対の方向へ走っている。
「おや、どこへ行くのですか」
「アンダーソン氏の家へ行ってみようとおもってね」
春海は、なに喰わぬ顔で、そう答える。
「ご存知だったのですか」
「以前に、刺青のことを調べたことがあってね、紹介されたんだ。アンダーソン氏といえば、その方面では有名な人物だからね」
R・アンダーソン邸の応接間で、春海と城田が待っていると、やがてアンダーソンが入ってきた。
春海と親しげに挨拶をかわしたアンダーソンは、城田の顔を見ると、
「オヤ、コノカタハ?」
「これは、わたしの若い友人です。この前お目にかかったそうですね。そのとき、お宅の大切な豚と、格闘を演じたそうで……」
アンダーソンは笑ってうなずいているが、城田は聞き咎《とが》めた。
「大切な豚ですって?」
「そうだよ、君よりは余程貴重な豚だ。ま、そのことは今にわかる」