春海は城田をなだめ、アンダーソンの方に向き直ると、
「ところで、風の便りに聞くところによれば、例の研究に成功なさったそうですが」
「アア、モウオ耳ニ入ッテイマスカ、成功シマシタ、ワタシハウレシイ」
「それはお目出度う」
「ソノ成果ヲ、オ目ニカケマショウカ」
「そのことを、いまお願いしようとおもっていたのです」
「ドウゾ、コチラヘ」
アンダーソンは先に立って部屋を出た。狭い階段を、地下へ降りて行く。重たそうな木の扉を開いて、地下の一室に入った。
薄暗い中で、壁のスイッチをアンダーソンの手が探った。乾いた音がして、煌々《こうこう》と光が部屋に満ちた。
絢爛《けんらん》とした眺めである。
四方の壁いちめんに、額に入った刺青の皮が並んでいる。竜の模様、満開の桜の花を背景にした般若《はんにや》の面、鯉を両腕にかかえこんでいる金時の図などなど、それらの図柄はすべて日本のものである。
それらの中に一枚だけ、細長い矩形《くけい》の額縁がまじっていた。そして、その中に収められている皮の模様は、城田の念頭を離れない例の絵である。
赤い三日月と、三つの緑の星と三つの藍色の星。そして、それら六つの星をまるで引き従えてでもいるような形に、大きなピンク色の星が、鮮かに浮かび上っていた。
「あっ!」
おもわず、城田の口から声が洩れた。
「やっぱり、三津子は殺されてしまっていたのか」
「おいおい、城田君」
春海のたしなめる声がした。
「殺された、などと物騒なことを口走らないでもらいたいね」
「しかし……」
そのとき、アンダーソンが部屋の隅に置いてある整理戸棚のヒキダシを開き、中から一枚の皮を取り出して持ってきた。
その皮にも、まったく同じ模様が浮かび出ている。
「城田君、これを見たまえ。三津子という女の子が二人いるわけはないだろう」
「もちろん二人はいません。もう一人、新しい犠牲者が……」
春海は、城田の言葉に耳をかさず、アンダーソンと会話をはじめた。
「これは、見ごとな出来映えですね」
「ソウデショウ」
と、アンダーソンは、笑顔である。
「城田君がこんなに慌てていることでも分るように、まったく見分けが付きませんね、やはり、加工をしたわけですか」
「イクブンノ加工ハシマシタ」
「そうですか、たしかに、そっくりです。見分けが付かない」
その言葉を、春海はもう一度繰り返し、城田は聞き咎めて、訊ねた。
「見分けが付かない、とか、そっくりだとか、何に較べて見分けが付かないのですか」
「人間の皮、とだよ」
「え、すると、これは人間の皮ではないのですか」
「人間の皮ではないな」
「では何の皮ですか」
「豚の皮だ」
「…………」
「君が格闘した豚の腹にも、ここに掛けてある皮と同じ模様が彫ってあった筈だよ。君が豚の下敷になっていたとき、その豚の腹にはピンクの星が浮かび上っていたにちがいないな。なにしろ豚君は、君との格闘でかなり昂奮《こうふん》していたに違いないからね」
「豚の皮ですか……」
気抜けしたように、城田は壁の額縁に向って立っている。一方、春海とアンダーソンとは、会話をつづけていた。
「こうなればもう、人間の皮を欲しがる必要はありませんね。これで安心しましたよ」
「イヤ春海サン、イクラナンデモ、人間ノ生皮《なまかわ》ヲ剥ガスヨウナコトハシマセンヨ」
「しかし、人間の情熱というのは、おそろしいところのあるものですからね。ピンク色の星を手に入れるためには、生きているときに剥がさなくてはならない。となると、いつどんなことが起るか、分りませんものねえ」
春海の言葉は、冗談めかしていたが、半ば真剣なひびきがあった。城田が訊ねた。
「とすると、三津子くんはこの家にはいないのですね」
「じゅでいハイマセン。ワタシハ探シテイルノデス、コノ前ハナシタトオリデスヨ」
その言葉に嘘はないだろう、と城田はおもう。とすると、アンダーソン邸の前で三津子の姿を見た、という余志子の言葉は何なのだろう。それに大場雅子の犬の腹に描かれていたあの模様。アンダーソン邸の豚の腹の模様との符合は、何を意味しているのだろう、と城田の心には新しい疑惑が生れてくる。
やがて応接間に戻った春海と城田の前に、アンダーソンはグラスを置き、ブランデーを注いだ。その酒を舐めながら、しばらく雑談して、二人はアンダーソン邸を辞した。
車の中で、城田が言う。
「アンダーソンがシロだとすると、犯人はいったい誰なのでしょう」
「しかし君、犯人というが、いったいどういう犯行があったのかね」
「えーと、まず三津子の行方不明……」
「だが、これは、三津子が自分の意志で、どこかへ姿を隠したのかもしれないよ」
「それはそうですが、誰かの手が働いているかもしれない」
「つまり、三津子のことは、疑問点といえばいいわけだ」
「そうです」
「それでは、いったいどういう疑問点があるか、整理して考えてみようじゃないか」
春海と城田は、この数カ月間に起った事情についての謎を、一つ一つ数え上げる。
まず、三津子の行方について。
三津子がアンダーソン邸に入るところを見た、という余志子の言葉について。
由美の内股《うちまた》にあった小さな刺青。女王の冠をかぶった蜂《はち》の絵。
由美の急死……、これは自然死と考えてよいだろう。しかし、その死体から、刺青の部分が切り取られていたこと。
理加の内股に、由美と同じ刺青があった、ということ。それが、剥がし取られた、という事実。
大場雅子の腿に、ある朝、由美たちの刺青と同じ模様が描かれていたという謎。
雅子の家の犬の腹に描かれていた星と月の模様の謎……。
「どうも、考えているうちに、頭の中がこんがらかってきますね」
城田が言うと、
「すこし整理してみよう。まず、これらの謎の全部が、お互いに関連しているとおもうかね」
と、春海が訊ねる。
「ぼくはどうも違うような気がする。アンダーソンとか三津子の刺青は、本格的なものでしょう。理加とか大場雅子のほうは素人《しろうと》っぽいものですよ。アンダーソンと三津子の線と、理加の線は交わっていないとおもうがなあ」
「それならば、なぜ余志子はアンダーソンの家を知っていたのだろう」
「…………」
「余志子は、大場雅子の傍にいる人物だろう。大場雅子の腿には、女王の冠をかぶった蜂の絵が描かれていた、というな。どうやら、二つの線がここらで交わりそうだがね」
城田は、苛立たしそうに、
「春海さんの頭の中では、もう解決篇が出来ているのでしょう。焦《じ》らさないで、はやく教えてくださいよ」
「よし、それでは謎を解く鍵になる人物を教えよう。ヒントを与えるから、その名前は自分で考えてみたまえ。つまりだな、いま出てきた名前の中で、一番怪しそうでない人物だよ」
「えっ、それでは雅子さんが……」
城田は、反射的にそう言った。
「余志子は、怪しいわけかね」
と、春海が訊ねる。
「余志子君は、三津子を見たなどと嘘を言っていますからね。もっとも、あのアンミツが大好きな女の子が、事件の鍵を握っているともおもえませんがね」
「とすると、怪しくないのは、雅子と余志子というわけか」
「その二人のうちのどちらなのです」
せき込んだ問に、春海は曖昧な笑いを浮かべながら、
「ま、あまり種明しはしないでおこう。あとは自分で考えたまえ。しかし、余志子がなぜアンダーソンの家を知っていたか、これは確かめておいたほうがいい」
調べる
城田が春海俊太に別れたときには、もうレストラン「雅」の営業時間は過ぎていた。大場雅子の自宅へ訪ねて行こうか、ともおもった。しかし、城田は自分の気持が動揺しているのを知って、一晩待ったほうがよい、と考えた。
その夜は、寝ぐるしい夜になった。
春海と別れる直前の会話を、城田は思い浮かべた。そのとき、春海はこう言った。
「もう一つだけ、ぼくの推理を教えておこう。その人物には、やはり、刺青があるな」
「刺青というと、蜂の絵ですか」
「ま、そういったものだろう」
「女王の冠をかぶった蜂ですね」
「女王の冠ではないな。それならば、由美や理加と同じ立場になってしまう」
「とすると……、しかし、まさか王様の冠をかぶった蜂、というわけでもないでしょう」
「なぜ、まさか、なのかね」
「でも、女の躯《からだ》に王冠というのは……」
「そういうことが、考えられないか。城田君らしくもないね」
「あ、なるほど。王冠と女王の冠、とすると、同性愛ということになる……」
「ただ同性愛というだけのことか、それだけのことで刺青をしたのか、そこはまだ謎《なぞ》だが……」
「しかし、そうすると、大場雅子はシロということになる」
と、城田は口走った。
「おや、なぜ?」
春海が、城田の顔を確かめるように見ている。
「いえ……」
城田は、曖昧《あいまい》に口ごもる。失言したな、とおもっている。春海はにやりと笑って、
「つまり、大場雅子と寝たというわけだね」
「つまり、そういうわけです」
「それで、刺青が無かったのかね」
「そうですよ」
「前からの関係なのかね」
「いえ、一度だけです」
「なにも、ぼくに向って、弁解するように言わなくてもいいさ。何度寝ようと、君の勝手だ。しかし、一度だけのことにしては、最初からずいぶんハデなやり方をしたものだな。刺青が無かった、と確信をもって言うことができるとはね」
「それには、理由があるのですよ」
と、城田は説明した。雅子が自分の内腿《うちもも》を示して、そこがどうかなっているか調べてくれ、と彼に言ったことを話した。
「なるほど、それで、なにも無かったんだね」
「そうなんですが……」
と、城田は不意に、自信のない心持になってきた。「なにもない」と彼が言ったとき、いそいで裾をかき合わせた雅子の手つきを思い出したからだ。
自分の見たのは、片方の腿だけだった。もう一方の腿を、あのとき見ただろうか。その部分は、着物の裾で隠れたままになっていたような気もする。
「どうした、なにか自信なさそうだが」
「ぼくの見たところには確かに無かったが、脚は二本ありますからね」
「もう一本の脚のほうは、見なかったわけだね」
「どうもそんな気がしますよ。そのときは、調べる気持はなかったわけだから」
「それは、そのとおりだ」
「やはり、見なかったような気がする。どうも曖昧だ」
「人間の記憶というのは、そういうものさ。ともかく、もう一度、調べてみるのだね。厭《いや》な仕事ではあるまい」
と、春海はそのとき笑いながら言ったものだ。
寝床の中で、いま城田は考えている。
「たしかに、調べてみなくてはならない。それにしても……」
それにしても、このごろは、調べるためにだけ、女の躯に触れることが矢鱈《やたら》に多い、と彼はおもったのである。
理加の内腿を調べた。由美の内腿……、これは生きている人間ではなく、死体となってすでに棺の中に入っていたが……。
そして今度は、雅子である。
大場雅子と、そういう調べるための接触を持つとは考えていなかった。雅子とのつながりは、大切にして、毀《こわ》れやすいものを取り扱うようにして慎重にしていたのだが。この前、思いがけない形で雅子と肉体関係をもってしまったのも、彼にとっては不本意なことだったといえる。それが既に、わるい辻占《つじうら》だったのか。
明日になったら、さっそく雅子を訪ねよう、と彼はおもう。明日になるのを待ち兼ねる気持で、一層寝ぐるしくなる。幾度も、寝返りを打つ。
やがて、そのうち眠りに陥ちた。
朝飯を食べて身支度をすると、城田祐一はさっそく外出した。大場雅子の家へ向うのである。
「しかし……」
と、彼はふと足を止めて考える。
「こうやって、朝になるのを待ち兼ねたように出掛けているが、これでいいのか。こんなに無防備の状態のままで、いいものか」
もしも本当に、雅子が謎の鍵《かぎ》を握る人物だとしたら……。その謎の正体が、優雅なものか、兇悪《きようあく》なものかは判然としないが、場合によっては、ギャングの巣窟《そうくつ》に乗り込むくらいの身構えが必要なのではないか。
「とはいうものの……」
いまさら、大場雅子にたいして、どういう姿勢をとれというのか、今までどおりにしているしかあるまい。そんなことを考えているうちに、もう雅子の家の前に来てしまった。
「あら、めずらしいわ。こんなに太陽が高くにあるとき、城田さんの顔を見るのは、はじめてじゃなかったかしら」
と言いながら、雅子は彼を招き入れてくれる。その立居振舞いには、べつに怪しい気配はない。それは、当然のことだ。
「一番怪しくない人物が……」と、春海も言ったではなかったか。
「なにか、急用でも」
「いや、べつに……。なんだか急に、あなたの顔が見たくなって……」
こういう言い方が、雅子の内腿を調べる布石となるわけだ。それにしても、調べるためとは、なんと味気ないことだろう。調べるために理加の躯《からだ》に襲いかかったときには、それはそれなりに刺戟《しげき》的であったのだが……。やはり、自分は大場雅子に惚《ほ》れているのだろうか。
いずれにしても、訪問して、いきなり色模様を展開するわけにはいかない。彼は世間話の口調で、気にかかっていることを訊《たず》ねはじめた。
「雅子さん、アンダーソンという名前を知っていますか」
「アンダーソンて、アメリカの小説家のこと?」
「いや、日本にいるアメリカ人ですがね」
「ああ、あのアンダーソンのことかしら?」
雅子は、無造作に言う。
「あのアンダーソン?」
「わたしの知っているのは、もうかなりのご年配よ。といっても、五十いくつかしら。とても大きな人で……」
「髪はゴマ塩ですか」
「そうね、もうかなり白髪が増えていらっしゃるわ」
「そうだ、その人だ」
「アンダーソンさんが、どうかなさったの。城田さん、ご存知なの」
「それより、雅子さんはどうして知っているのですか」
「どうしてって、ときどきお店にいらっしゃるのよ。お得意さま、といってもいいくらいだわ。城田さん、お店で会ったことなかったかしら」
雅子の答えに、城田は拍子抜けした心持になった。
「とすると、余志ちゃんも、アンダーソン氏を知っていることになるね」
「それはもちろんよ。あのかた、うちのお店はツケになっているの。この前も、余志ちゃんに勘定を取りにやらしたら、アンミツをご馳走していただいた、といって喜んでいたわ」
「アンミツをねえ……。アンダーソン氏の職業を、雅子さんは知っている?」
「学者じゃなくって? なんでも、そんなように聞いているけれど」
「学者って、なにを研究しているのかな」
「さあ、それは知らないわ」
余志子がなぜアンダーソン邸を知っていたか、という疑問は、大場雅子の言葉によって、あっけなく解けてしまった。
とすると、怪しいのは、どうしても大場雅子ということになってしまう。
城田は、王様の冠をかぶった蜂の絵を思い浮かべる。それは、雅子の腿にある筈だ。そして、女王の冠の絵が、三津子の腿にあたらしく彫り込まれているにちがいない。
雅子の刺青を、はやく確かめてみよう、と城田は会話を打ち切って、雅子の躯に襲いかかった。
「いま、ここで」
と、雅子は彼の躯を押しのける素振りをした。しかし、その抵抗は形ばかりのもので、雅子は躯を倒してゆく。
城田は荒々しく彼女の衣服を剥《は》ぎ取り、裸の脚に顔を押しつけた。
「そんな……」
と、雅子の二つの掌が、その部分を覆い隠そうとするように動いた。しかし、それは刺青を隠そうとする動きとは違い、羞恥《しゆうち》に満ちている。その気配をみて、城田は、
「はてな」
とおもう。
城田のその予感のとおり、引き剥がした掌の下には、雅子のすべすべした腿のひろがりがあるだけで、刺青はなかった。
しかし、彼は疑いを捨てたわけではない。雅子の足の裏から調べはじめる。調べているという気配を消すために、唇を雅子の皮膚に当てて、前戯の形をとっている。
その唇を、雅子の足首や踝《くるぶし》からしだいに膝《ひざ》のほうへと這《は》い上らせて行く。眼は見開いたまま、油断なく雅子の肌を調べている。
背中から脇腹へと、唇は移動して行く。
「やめて」
喘《あえ》ぐように言う雅子の声には、羞恥のほかに快感と媚《こび》とが滲《にじ》んでいる。
彼の唇は雅子の背中へ戻り、腋窩《えきか》まで探ってみた。そのような動作をつづけているうちに、彼自身、調べるという気持が曖昧になってきた。前戯のための執拗《しつよう》な愛撫《あいぶ》を、雅子の全身に与えている気分が強くなってきた。
いまでは、雅子の羞恥心は躯の底に沈んでしまい、彼女は一匹の動物になりかかっている。仰向いた躯から、両腕を宙に差しのべて、しきりに彼を求めている。
求める言葉も、その口から出はじめた。
城田もまた、一匹の動物と化した。
しばらくして、汗に塗れた躯を、雅子の傍に横たえた城田は、
「これでいいんだ」
と、呟《つぶや》いた。
聞き咎《とが》めた雅子が、
「なにがいいの」
「きみとの関係を……」
と話しかけて、彼は気付いた。雅子のことを「きみ」と呼んだのは、初めてのことだ。この前、雅子とはじめて肉体関係ができたとき、あまりに突然、しかもあっけなく関係ができてしまったので、彼は気抜けした気分だった。雅子とのつながりを重いものに考えていただけに、なにか失策を犯した気分もあった。そういう気分と、あっけなさのためか、その後も彼は雅子のことを「あなた」とか「雅子さん」とかいう呼び方で呼んでいた。
それが、いまおもわず「きみ」という言葉が出た。「これでいいんだ」ともう一度おもいながら、彼は言葉をつづける。
「きみとは、エレガントな人間関係をつづけて行きたいとおもう気持と、そのエレガントさを思い切り汚れたものにしてやりたいとおもう気持と二つのものがぼくの心の中にあってね。それが、二つとも強くて、結局曖昧になってしまっていた……」
「それが、いま、思い切り汚れてしまった、というわけなの」
雅子が悲しそうな声を出す。
「いや、エレガントな、などという気持が一方にあるから、汚れた、などという言葉が出てきてしまうんだ。いま、こうなってみると、この方が余程人間らしい関係だとおもえる。だから、これでいいんだ、というわけだよ」
引き算
城田が、雅子と別れて春海《はるみ》俊太の家を訪ねたときには、もう夕方になっていた。
「雅子には、刺青はありませんでしたよ」
と、勢いこんで城田が言うと、春海は苦笑して、
「いま調べてきたところか。厭《いや》なやつだな、真昼間から……」
「そんなこと言ったって、善はいそげですからね。刺青は無かったんですよ」
彼が、もう一度、念を押すように言うと、春海はあっさり、
「そうだろう」
と言う。
「そうだろう、って、分っていたんですか」
「ま、そんなところだ」
「それじゃ、その女はいったい誰なんです。はやく教えてください」
「そうせき立てなくても……。なにも殺人事件が起るというわけのものでも……」
と言いかけた春海は、ふっと眼を宙に浮かして何ごとか考えていたが、
「いやいや、殺人など起りはしないのだから、あわてることはないさ」
「でも、教えてくださいよ」
「そのくらいは、君が考えてみるんだな。教えてしまっては、愉しみがなくなるだろう」
城田は、疑わしい気分になってきた。作品世界では、快刀乱麻の名探偵を活躍させる春海だが、現実の問題でもそのとおりとは限らないではないか。
「本当に、春海さんはその女が分っているのですか」
「これはご挨拶だね、分っているさ」
「誰なんです、その女は」
「もう簡単ではないか。引き算をして行けばいい。怪しくない女のうちの大場雅子を消せば残ったのが、その女だ」
怪しくなさそうな女といえば、二人しかいない。
大場雅子と、余志子の二人である。
その二人のうちから、大場雅子を引いた答えは、これは言うまでもない。
「まさか」
と、城田は呟いた。アンミツにばかり興味を示しているあの女が、謎の正体などということが有り得るだろうか。
「引き算をすると、余志子ということになりますが」
と城田が言うと、春海は、
「そういうことになるな」
「しかし……、先輩は、余志子という女を知っているでしょう」
「知らないね」
「知らないわけがないでしょう。『雅』のレジスターをしている娘ですよ」
「それは、もちろん知っているさ。しかし、あの女の中身については知らない」
「中身といったって、アンミツをご馳走してやれば、にこにこしている娘ですよ。あの余志子がその女だとは、とても信じられないなあ」
「まったくだね」
と、春海はけろりとして言う。
「まったくだ、なんて言って、無責任じゃありませんか」
「しかし、ぼくの推理では、余志子ということになってしまうから仕方がない。あとは、君が実地に当って、確かめてみるんだな。もしも、ぼくの推理が当っていたとしたら、見かけがああいう具合に無邪気なだけに、すこぶるしたたかな女ということになるぞ」
そう言われると、余志子の腫《は》れぼったい眼も、なにやら曰《いわ》くありげにおもえてきた。あの睡《ねむ》たそうにふくれている目蓋を持ち上げてみると、その下から悪く光る眼があらわれてきそうな気がしてくる。
「それで……」
と、城田は春海に教えを乞いはじめる。春海と一緒にいると、城田は自分の頭を働かせてみる気持がなくなって、何でも相手の意見に頼りたがってしまう。
「実地に確かめる、といっても、どうやればいいんでしょう」
「そうだなあ」
と、春海はからかう口調になり、
「裸になって、一晩中余志子の傍にころがっていてみるんだな。眼が覚めて、君の太腿に刺青が入っていたら、それが何よりの証拠というわけだ」
「まさか……」
と城田は笑い流そうとして、ふと気付いた。
「そうだ、先輩はその女には刺青がある、とおっしゃっていましたね」
「推理して行くと、そうならざるを得ない」
「それでは、余志子の刺青を確かめることができれば、それが証拠ということになりますね」
「そういうことになるな」
「その刺青の図柄は、つまり、王様の冠をかぶった蜂でしょうね」
「どうかな、しかし、それがどんな刺青でも、証拠と考えていいだろう。ああいう、およそ刺青に縁のなさそうな女に、刺青があったとすれば、これはただごとではない」
「分りました。それでは、明日から突撃開始だ」
と、城田は酔った勢いで、威勢よく言った。しかし、醒《さ》めた頭の片隅では、次のようなことを考えていた。
永遠の女性を探し求めて、つぎつぎと女と関係を結んで行く男、それがドン・ファンというものだ、という説がある。その説には、多分にドン・ファンの弁護人の弁といった趣があるが、ともかくも、「もしやこの女が自分にとっての理想の女ではあるまいか」と考えて、一人の女と寝る。失望して、次の女に移る、という形の繰り返しが起ってくる。
ところで自分は……、と城田は考えるのである。自分の探しているのは、三津子である。そして、三津子を探すために、つぎつぎと女性と関係をもつようになった。今度の余志子についても、同じことである。なにも関係を持たなくてもよさそうなものだが、腿の刺青を確かめなくてはならぬ。目的のために、手段として関係を持つことになってしまう。
レストラン「雅」の白いテーブル・クロスをかけたテーブルの前に、城田祐一は一人で坐っている。
食前酒に、辛口のシェリイを飲み、燻製《くんせい》の鮭《さけ》のピンク色の肉を食べながら、城田は視野の隅に余志子を捉えている。
もしも、春海の言うように、余志子がその女だとしたら、これまでの謎をどう解釈したらいいだろうか、と城田は皿の上に俯《うつむ》いてナイフとフォークを動かしながら考えている。
余志子の腿に、小さな刺青がある、ときめてみよう。その図柄は、王様の冠をかぶった蜂の絵だときめてみよう。
そうすると、城田の頭の中で、余志子を主人公とする空想の物語ができ上ってくる。
まず、余志子がアンダーソン邸を知っていたのは、雅子が言うように、勘定を取りに行ったためではない。あるいは、最初のキッカケはそうであったかもしれないが、余志子の頭にあるアンダーソン氏は、レストランの客ではない。
刺青|蒐集家《しゆうしゆうか》としてのアンダーソンである。
余志子は自分で刺青をしているくらいだから、その道の情報には精通していると考えてよい。アンダーソンが、莫大《ばくだい》な金額と引きかえに、ピンク色の星の出ている人間の皮を手に入れたがっている、という話も、知っていた……。
と、城田の空想は、料理の皿がすすむにつれて、進んで行く。
クリームスープが出た。
舌びらめのバタ焼きが出た。
肉の皿は、平凡にビーフシチューとなっているが、ソースが薄あじで、しかもコクがあり、上等だった。
それらの皿を空にする度に、城田の空想場面は、次に移る。余志子が、たまたま三津子の刺青のことを聞く。
余志子が、三津子を誘拐する。
三津子は子供ではないし、余志子に腕力があるとはおもえぬ。誘拐というと語弊があるとすれば、誘惑といえばよかろう。
どういう手段で、なにを武器にして、女が女を誘惑するのだろうか。もともと、誘惑という言葉が、男と女とのあいだで成り立つとすれば、女が女を誘惑する場合、片方の女がじつは男の役割を果していると考えれば、分り易くなる。
理加の腿にあった、女王の冠をかぶった蜂の刺青。死んだ由美の腿にあった、同じ模様の刺青。
そして、余志子の刺青は、王様の冠をかぶっているとすれば……。
余志子が男。
三津子が女の役割ということになる。
三津子にその素質があって、その変った関係に惑溺《わくでき》しているとすれば、彼女が姿を現わさないことも、納得できる。
とすれば、三津子の居る場所は、余志子の住居のなか、ということになる。
幸か不幸か、いやこの場合はあきらかに幸といったらよいだろう、余志子が三津子との関係に熱中した。そのために、三津子の皮が剥ぎ取られる時期が、一日のばしになって行く。
そのうち、アンダーソンが動物を使って、ピンク色の星を出す実験に成功した。その事実は、すぐに余志子の知るところとなる。
その瞬間から、三津子の皮は、莫大な金を掴《つか》むための材料ではなくなってしまった。
雅子の家の犬の腹に、刺青の模様を絵具で描いたりしたのは、余志子の口惜しまぎれのいたずらと考えれば辻褄《つじつま》が合う。
残された謎。理加や由美の刺青が剥ぎ取られたことは……、と城田が考えはじめたときには、すでに彼の前にはデザートの皿が運ばれてきていた。
そのため、彼の空想の中の話は、一時中断されることになった。
コーヒーを飲み終ると、城田はすぐに立ち上って、レジスターのところで勘定を払いはじめた。雅子が歩み寄ってくると、
「あら、もうお帰り?」
不服そうな気分がかすかに声に混じって、いくぶん他人でない感じになった。そういう雅子に背を向けたまま、彼は余志子に話しかけている。
「もう店の終る時間だね」
腕時計を見ながら、彼は言う。あらかじめ時計を見計らって、彼は「雅」にきていた。
「ええ」
彼は近くの喫茶店の名を言い、
「待っているから……」
「え?」
「そこで、待っているよ」
「でも、それで?」
「アンミツをご馳走してあげる」
余志子は笑顔になる。そういわれれば、嬉しそうな笑いをみせて無邪気な少女の役割を演じなくてはならない……、と余志子が考えているのではないか、と疑わせるところのある笑顔にみえた。
「アンミツと聞くと、すぐよろこぶ」
「だって……」
「それじゃ、待っているよ」
そういう形で、彼は余志子と会う約束をつくり上げてしまった。
ドアを押して店を出ると、すぐ左に階段がある。「雅」は二階にあるので、エレベーターを使うまでもない。階段を降りかけたとき、雅子が追ってきた。
「あなた、なにを考えているの」
あたりに人影がないので、雅子は露骨な口調になっている。
「わたしも余志子と一緒に行きますからね」
「なぜ」
「なぜって……」
「きみが余志子の保護者のつもりなら、それは余計なことかもしれないよ」
「でも、心配ですもの」
「心配しなくても、十分一人歩きできそうな女だとおもうよ」
「だから、心配だわ」
「おいおい、もうヤキモチか」
雅子は、ふっと顔を赧《あか》らめ、
「違うわ。でも、なにを考えて、余志子と会う気になったのかを知りたいの」
「つまり……三津子の行方を、余志子が知っているような気がしてきたんだ」
「まさか」
「まさか、というけれど、余志子が三津子を隠しているとさえおもえるわけなんだ」
「あの子が、そんなことをするわけがないじゃありませんか」
「しかし、きみ、余志子のことを、どの程度知っている」
「あの子の性質なら、よく知っているわ」
「きみ、余志子と一緒に風呂に入ったことがあるか」
その言葉は、雅子を不意打したようだ。
「もちろん、あるだろうね。女同士というのは、すぐに一緒に風呂に入りたがるものだからね」
「それが、無いのよ」
「無い? なぜ」
「恥ずかしがって、駄目なの」
「そういうとき、恥ずかしがるものかね」
「…………」
「なにかを隠しているのじゃないかな」
「なにかって?」
「たとえば、刺青」
「まさか、そんなこと」
待ち合わせの喫茶店に、余志子は一人できた。
向い合って坐った余志子の顔を、城田はあらためて眺める。色が白く、ぽってり肥って、目蓋の上の腫れぼったい感じの余志子は、いかにも女性的である。
「城田さん、なにを思い付いて、ご馳走してくださるの」
そういう話し方も、舌が長すぎるのか、あるいは短かすぎるのかとおもわせるような、舌をもてあましている粘るような感じで、それも女性的といえる。
「もしも、この女に刺青があるとして……」
と、彼は考える、似合っているのは、女王の冠のほうではないか。それが、王様の冠をかぶった絵があるとすると……。
そう考えて、余志子と向い合っていると、城田は一種異様な気分になってきた。
「ちょっと、聞きたいことがあってね」
「どんなことでしょう」
「いつか、きみは三津子がアンダーソンという人の家に入って行くのをみたことがある、と言ったね」
「ええ」
「あれは、本当なのか」
「本当よ、あたし、ちゃんと見たんだもの」
「しかし、三津子はあの家に来たことはないそうだよ」
「どうして、城田さん、そんなことが分るの」
「アンダーソン氏に会って、聞いたのさ。嘘とはおもえない話だったよ」
「あら、アンダーソンさんに会ったの」
「そうさ。偶然、ぼくの友人の知り合いだということが分ったものでね」
城田は、アンダーソン邸に忍び込んで、豚と格闘する羽目《はめ》になったことは隠している。
余志子は、しかし、すこしも動じる色がない。
「あのお家には近寄らないほうがいい、って言ったのに」
「そのことだ、それを聞きたい。なぜあの家に近寄ってはいけない、と言ったんだ」
「だから、城田さんがあの家に近寄ると、あたしの言ったことが嘘だと分るからよ」
「ふうん」
それで話の筋道は通るわけだ。
「それならば、なぜ嘘をついたんだ」
「だって、城田さんたら、三津子のことばかり気にしているんだもの。だから、からかってみたわけよ」
「ぼくが三津子のことを気にして、きみが不機嫌になる……、というのは、つまり、おれに惚《ほ》れているということか」
「あら、だいぶ自信があるようね」
「だって、そういうことになるじゃないか」
「同じ年頃の女の子が、一人だけちやほやされていると、ほかの子は機嫌がわるくなるでしょう。それと同じことよ」