「厭だわ」
もう一度言い、かるく身を揉《も》む。顔にうすく血の色が浮かんでいる。
「でも、なぜわたしには、刺青でなくて絵を描いたのかしら」
「それはきっと、おそれ多かったんだろう。きみはご主人さまなんだからね」
「そんな理由ってあるかしら」
雅子はまた考える顔になり、
「それに、なぜ、理加と由美の刺青が、剥《は》ぎ取られていたのでしょう」
「そのことだ。その謎がどうしても、ぼくには分らない」
「そうすると……」
と、雅子が一層声をひそめて言う。
「余志子の腿には、刺青があるわけね。王様の冠をかぶった蜂の絵が」
「そういうことになれば、話の筋道が通るわけだ」
「あるのよ、間違いなく。だから、あたしとお風呂に入ろうとしなかったのね」
「ということになる」
「三津子を隠していたのは、余志子なのね」
「それは、間違いない」
「とすると、三津子の腿にあるのは、女王の冠の刺青ね」
その言葉を聞いて、城田は「あっ」とおもった。それを確かめるのを、忘れていたのである。月と星の刺青を確かめることにばかり気持を奪われていて、その問題が解決した瞬間に、忘れてしまった。
「そういうことになるな」
なにくわぬ顔で、彼がそう答えると、雅子は切り返すように、
「あなた、見た?」
「見ないね」
この言葉は嘘ではない、と考えながら、
「見るわけがないだろう」
と、今度は嘘をついた。
「見たい?」
「べつに……。ぼくと三津子とはそういう仲じゃないからね」
「でも、口惜しいわ」
「三津子がなにか……」
「余志子のことよ。あんなに、可愛がってやっていたのに。女の子をつかまえて刺青してまわるなんて、まるで講談に出てくる毒婦みたいじゃないの」
と、雅子は言い、あきらめ切れない口振りで、
「でも、本当かしら」
「余志子のことか」
「そうよ、信じられないみたい……」
「確かめればいい。余志子に刺青があれば、それが証拠だ」
「あなた、確かめてよ」
その雅子の言葉は、彼の耳に唐突にひびいた。
「ぼくが……」
「そうよ、調べてみてよ」
「なぜ、ぼくがそんなことができるんだ。相手は、男に興味のない女なんだよ。王様の冠の絵だよ、とても無理だね。きみのほうが、よほど見ることのできる可能性が強いさ」
「わたしは駄目。こんなに長いつき合いなのに、まだ余志子の裸を見たことがないのですもの」
「睡眠薬でぐっすり眠っているふりをするんだね、そうすれば、見ることができるかもしれない」
「厭よ、そんなの気持が悪い……、城田さんなら」
と、不意に他人行儀な呼び方をして、
「できるとおもうの。余志子は、前から城田さんに好意を持っているとおもうの」
「そんな道理がないよ。王様の冠の刺青のある女が、なんで男に好意を持つものか」
「でも、ためしてみて。ためしてみて、駄目だったら、あきらめるわ。もうお店は終ったのだし、帰りにあの子を誘ってみて頂戴」
そう言い残すと、雅子は立ち上って、余志子のほうへ歩いて行く。二人の女は、なにか二、三言葉をとりかわしたようである。
城田は、余志子と話し合うことが、ないわけではない。三津子のことで電話をかけてきたのが昨日の朝で、その問題も十分解決しているとはいえない。
そのことをキッカケに使って、誘ってみようか、と、レジスターの前に立って金を払いながら、余志子の顔を窺《うかが》ってみた。
その彼の視線を捉《とら》えて、余志子の方が先に口を開いた。
「ちょっと、お話があるの」
「へえ……」
「お忙しいの」
「いや」
「つき合ってくださらない」
先手先手と取られて、彼は余志子と並んで街へ出た。
並んで歩きながら、さっそく、余志子は言う。
「ねえ、三津子を連れ戻してきてよ」
「…………」
「連れ戻さなくてもいいから、また前のように顔をみせてほしいの」
「しかし、三津子はいったい何処《どこ》にいるのかね」
前の日の電話を思い浮かべ、彼は意地悪く訊《たず》ねる。
「アンダーソンさんの家でしょう」
「しかし、きみはそれを信じなかったじゃないか」
「いまは、信じるわ」
「だが、きのうはなぜ信じなかったのかね。アンダーソンの家になんか、まさか、いるわけがない、と言ったじゃないか」
「…………」
「教えてくれよ、そうすれば、きみの頼みの件は考えてみるさ」
「でも、三津子の秘密に関係のあることなんだもの」
「秘密? つまり三津子とアンダーソンは親子ではない。だから、アンダーソン邸にいるわけがない。とでも言うことか」
「違うわ。それは、たしかに親娘《おやこ》なのよ。もっと別の、違う秘密……」
「ますます聞きたいね」
しばらく躇《ためら》ってから、余志子は決心したように口を開きかけた。
「ちょっと待ってくれ。その話は、長くかかるか」
「そうね……」
「それなら、歩きながらでは具合が悪い。どこかへ行ってゆっくり聞かせてもらう」
城田は誘っているわけだ。その誘いが分らぬ筈がない、とおもうのに、余志子は素直に頷いた。
手近かなホテルへ足を向けた。ためらう気配がなく、余志子はついてくる。
部屋に入る。余志子も、黙ってついてくる。その素直さが、かえって不気味だ。
「あたしが、まさか、と言ったのはね」
と、余志子は話しはじめた。
「三津子は、パパに会いたいとおもう気持は、たしかにあるわけよ。でも、それ以上に、会いたくない、という気持が強いの」
実際とは、かなりズレのある話だな、とおもいながら、城田は、
「それは、なぜだ」
と、訊ねた。
「三津子は、男嫌いなのよ。パパと会うだけならともかく、同じ家に一緒に住むことができるとはおもえないの。たとえ、親子でも。だって、父親と娘って、ある意味ではとてもなまなましい関係でしょう。まして、長い間、生れてからずっと会っていない父親なんて、他人の男と同じようなものだもの」
余志子の言葉は、一理はある。たしかに、三津子には男を嫌悪《けんお》しているところがある。しかし、余志子の言うほどの強さかどうか、というと、これは納得することができない。現に……、と城田が三津子との交渉を思い浮かべかけたとき、余志子が言葉をつづけた。
「アンダーソンさんて、五十くらいかしら」
「もう少し上だとおもうな、五十代の半ばくらいか」
「そのくらいの年頃の男に、三津子はとくに烈しい嫌悪を感じるらしいの」
「なぜだ」
「聞きたい?」
「当り前さ」
「話したくないんだけど……。話していると厭な気持になってくるのよ。でも、仕方がない」
余志子の話というのは、次のようなものである。
一年前、三津子はある年上の男が好きになった。かなり年上の、つまり五十五、六歳の男である。もっと前から、三津子は自分より、二十も三十も年上の男に惹《ひ》かれる傾向があった。彼女自身気付いていたかどうか分らないが、あきらかに父親がいなくて育ったために起ってくる性向である。その頃は、彼女は男性嫌悪の気持などもたない普通の娘であった。
三津子の好意は、しだいに恋情に変化して行った。父親の代用品としてはじまった気持だとしても、父と娘とのあいだのように性のタブウは存在していない。そのため、恋情に移って行くのも、有り得ることである。
その恋心は、日に日に強くなって行った。
三津子には、それまでに深い交渉をもった男性はなかった。つまり、処女だったわけで、その純潔を相手に捧《ささ》げたいと思い詰めるほどまでになった。
「よくある話だな」
と、城田は口を挿《はさ》み、
「その男にひどい目にあわされて、それが心の傷になって、以来男嫌いになってしまった、ということだね」
「ひどい目にあわされた、というのはたしかだけれど、城田さんの考えていることとは違うようね」
「違うかなあ、要するに、そういう按配《あんばい》で男嫌いになった女の子をだね、誰かさんが女と女との関係に引っぱりこんだというわけなんだろう」
「それは、その通りなの。でも、そのとき、三津子はまだヴァージンだったのよ」
「なんだって!?」
城田の頭が、混乱した。
「それじゃ、ひどい目にあってはいないわけじゃないか」
「躯《からだ》のほうはね。でも、それ以上に、心のほうが滅茶滅茶になってしまったのよ」
「どういうことかね、説明してくれ」
その男が、変態性欲の持主だった、と余志子は言う。つまり、女にたいしては欲望の起きない男だったのだ。
同性の、男性にたいしてだけ可能な躯の持主だった。
「なるほど、ヴァージンだけに、ショックは大きかったろうな」
「そうなの。これが、ただのインポテンツだったら、まだマシだったわけだわ。三津子くらいの年頃からみれば、そのことはそれほど異常に感じられないもの」
先日の三津子との会話を、彼は思い出していた。そのときには謎だったその会話が、いまはよく分る。
「城田さんは、やっぱり男だったのね」
「なんだって?……当り前じゃないか。おれを女とでもおもっていたのか」
「ううん、そんな意味じゃないの」
「それじゃ、どんな意味なんだ」
「いいのよ」
「よくはないさ」
「でも、もう手遅れだわ」
「なにが、手遅れなんだ」
そういう先夜の会話の意味が、いまはよく分る。
それは誰
余志子の話を聞いているうちに、彼女と三津子の関係は、はっきりしてきた。それは、城田が予想したとおりのものだ。
余志子が男の役割。
三津子が女。
しかし……、いま眼の前にいる余志子の色の白い腫《は》れぼったい眼をした顔を見ていると、それはいかにも女っぽくみえてくる。それが、かえって不気味だ。
それに、余志子のような役割の女が、城田という男とやすやすとホテルの一室に入ってきている。城田は、自分で誘っておきながら、割り切れぬ気持になった。
「ということになると……」
余志子の話を聞きおわった城田は、
「三津子を女にしたのは、きみというわけなんだな」
「…………」
余志子は無言である。ただ、腫れぼったい目蓋の下で、一瞬眼が光ったようにみえた。彼は余志子の手首を掴《つか》む。やわらかい肉がしなやかに、彼の掌の中にある。それは、あくまで女の手首の感触だ。
「三津子は女だね」
「…………」
「それで、きみは男か」
それならば、なぜこの手を払いのけないのだろう、と考えながら、力を入れてその手首を引っ張った。
余志子の躯が、抵抗なく彼のほうへ崩れてくる。
彼の指が、余志子の洋服の背にあるジッパーを引き下ろす。その音が鋭くひびくが、彼女が躯を堅くする気配はない。むしろ、かえって軟らかくほぐれ、洋服の中から脱け出しやすい形になって行く。
白い肩の肉、胸の肉があらわれてきた。それは、予想したよりもはるかに豊かに成熟していた。
強く、女を感じさせる躯である。
そういう余志子を見て、城田は不意に落し穴のようなものを感じた。
それは、理由のない不安ではない。そのときの彼の気持を説明すれば、次のようになる。
レスボスの女たちで、男の役割をつとめる女には、多くの場合、男性憎悪、男性嫌悪があるとみてよい。そういう女が、なんの抵抗も示さず、むしろ積極的に男に身をまかせる素振りになることに、城田としては奇妙な気持を抱いたわけだ。
そういう有り得ないことが、いま起ろうとしている。そして、相手の女である余志子に、彼はしたたかなものを感じている。
そのために、穽《あな》を見ているような気持になってきた。
城田の手が、余志子を裸にして行く。腕や肩や横腹などの微妙な捩《よじ》り方《かた》で、余志子がそのことに協力しているようにおもわれて、彼はふと手を止めにかかることもあった。
黒い落し穴を、見てしまうのである。
「しかし、いま、ここで止めてしまっては何にもならない」
と、自分で自分を励まして、彼はその動作をつづけて行く。
裸になった余志子の躯を調べることは、難しいことではなかった。むしろ、あっけないくらい簡単だった。なぜならば、彼女は仰向きになり、両手を伸ばして、彼を求める姿勢を取っている。両足を開き加減にして、腿の内側は、明るいままの部屋の光に曝《さら》されていた。
彼は、そこに蜂の刺青を見た。
「やっぱり……」
とおもった城田は、次の瞬間、おもわず叫び声をあげかかった。
その蜂がかぶっていたのは、王様の冠ではなく、女王の冠だったのである。
彼は混乱した。
これまでの彼の推理が、根底から崩れかかっている。
女王の冠の蜂の刺青があるということは、余志子が由美や理加と同じ立場にある女だということになるだろうか。そうとしか考えられない。ただ違うところは、余志子の刺青は剥き取られておらず、彼女の腿にはっきり浮かんでいるという点だ。
これを、どう理解したらいいのだろうか。
王様の冠をした蜂の刺青は、いったい誰の躯にあるのか。
あるいは、そういう刺青は、存在していないのだろうか。
混乱しながら、彼は眼の前に横たわっている余志子の躯に寄り添っていこうとした。襲いかかるという形ではない。なぜなら、彼女の躯は、相手を受け容れる風情で、そこにあるのだから。
しかし、不意に、余志子の手足が縮まり、背が深く曲って、防禦《ぼうぎよ》の姿勢になった。一たんそうなると、頑《かたく》なに彼を拒否している線が躯全体にあらわれている。
「どうしたんだ」
「駄目なのよ」
「なぜ」
「やっぱり駄目なの」
その恰好を見て、「やはり、誰かがいる」と城田はおもった。王様の冠をかぶった蜂の絵を躯に彫っている誰かが……。
「怒られるのか」
「あら」
「そうなんだろう」
「でも、誰に」
「誰なんだ」
「…………」
「それならば、なぜ、ぼくと一緒に来たんだ。それも、まったく躇わずに」
さっき感じた落し穴は、いま、こういう形で現われてきた、と彼はおもった。
それは、誰だろう。
三津子か。
いや、三津子の秘密は、いま余志子に聞いたばかりだ。しかし、余志子の話をそのまま信じてよいかどうか。
余志子が自分自身の秘密を、三津子のこととして話したのではないか。まさかそんなことは有り得まい。余志子の話には、合点できるところがいろいろあった。
しかし、この際、疑い深くなる必要がある。三津子の躯を調べなかったのが、悔まれた。三津子の躯を確認していないからには、三津子も疑わなくてはならないことになる。しかし、誰だろう……。
いや、誰といって、疑う対象になる誰が残っているというのか。
残っているのは、女性に限っていえば、大場雅子くらいのものだ。
まさか、大場雅子が……。
とおもいかかる気持を抑えて、城田は疑い深くなり、大場雅子に疑いの眼を向けかかった。
しかし、彼の疑いは成り立たないのだ。
すでに、彼は雅子を調べている……。
最初は、雅子が彼の手を引き寄せて、剥《む》き出《だ》しになっている腿の内側に、彼の掌を押し当てたのだった。
「ね、ここを見て頂戴」
「え?」
「どうにかなっているか、見て頂戴」
「なにもない……。しかし、いったい、どうしたわけなんです」
そのような形で、大場雅子は自分からすすんで調べさせたのだった。ある朝、そこに刺青の絵が描かれていたことがあった、と言い、その絵の模様がまだそこに浮かび上っていはしないかと心配して、彼に調べてくれと言ったのだった。
……ベッドの上の余志子は、背を折り曲げた姿勢のままである。敵に襲われると、くるりと丸くなり、堅いヨロイのような肉のかたまりになってしまう南米の小動物を思い出させる。
「これはもう、手が付けられないな」
腕組みして、城田は苦笑する気分である。
余志子はそのままの姿勢で、首だけ彼のほうへまわすと、
「ねえ、三津子を連れ戻してきてよ」
「こういうときに、そんなことを言うことはないだろう」
「だって、ずっと気になっているんだもの」
「そのことを頼むために、ここにきたのか」
「違うわ」
違うにきまっている、と彼もおもった。こうして拒否していては、頼みごともうまくいかないわけだ。
それでは、何のために、ここに来ているのか。もう一度、その疑問が浮かぶ。
不意に、一つのことに思い当った。
見せるためにか? 腿の刺青の模様を城田に見せるために、ではあるまいか。
そして、それは余志子の意志ではなさそうだ。誰かの指図によるものにちがいない。
その誰かは、城田の疑いに気付いて、彼をそういう形で翻弄《ほんろう》している。そういうしたたかな誰かは、一たい誰なんだ。あるいは、すべて、城田自身の錯覚と幻想から出てきている事柄なのか。
三津子と城田との関係について、余志子はまったく安心している。二人のあいだに特別なつながりなど起るわけがない、とタカをくくっている。ということは、「誰か」もそう考えていることになるわけか。
しかし、三津子と城田は、すでに余志子が考えているより一歩すすんだ関係になっている。たしかに、長い争いの時間の後で、ようやくそうなったのだが……。
ここに、突破口があるな、と彼は感じた。謎を解く手がかりを、ここで掴めそうだ、とおもったわけである。
ともかく、早く三津子に会う必要がある。
……それから数日後、城田と三津子は、密室の中にいた。
彼は、いろいろ考えた末、手紙をアンダーソン邸気付で書き送り、待ち合わせの場所を指定したのである。
もちろん、三津子はアンダーソン邸に監禁されているわけではない。三津子にさえ、その気持があれば、会うことができる、と彼はおもった。しかし、先日の三津子との関係によって、三津子が会いにくる、と安心する気持もなかった。
五分と五分、と彼はおもい、賭《か》けるような気持もあった。
「よく出てきたね」
「迷ったのよ」
「やっぱり、迷ったか」
「それは、迷うわ。この前のこと、失敗だったような気持もあるの。あんなことにならなければよかった」
「ともかく、会いたかった」
と言い、愛の告白の言葉に似てくるのをおそれて、
「会う必要がある」
と付け加える。
「必要?」
「そうだ。会いたがっている人といえば、ぼくより、はるかに会いたがっている人がいるよ」
「それは、誰?」
「それが誰か、ということは、ぼくのほうで聞きたいね」
「…………」
「余志子が、そう言っていたよ」
「何を言っていたの」
「会いたい、とね」
三津子は黙って、考えている顔である。そういう彼女の両肩を彼は掌でおさえ、彼は唇を寄せて行く。三津子は、はげしく首を左右に振り、拒む姿勢になった。
「厭なのか」
「厭」
「なにが厭なんだ、おれが厭なのか」
「違うの、接吻されるのが厭なの」
「抱かれるのは……」
「それは、もっと厭。厭というより、こわいのよ」
「男がこわいのだな」
「あら……」
顔を上げて、問いかける眼で彼を見た。
「そうなんだろう」
「聞いたの?」
「何を? 誰に?」
「とぼけないで……、余志子に……」
「それじゃ、余志子の言ったことは、本当のことなんだな」
「余志子は、どこまで言ったのかしら」
「ずいぶん沢山、言ったよ。きみ、男はぼくがはじめてなのか」
三津子の顔が、薄赤くなった。それは、彼の知っている、これまでのボーイッシュな彼女とは別人のようだ。
「まさか、そんなことはあるまい、とおもうがね」
その問を否定せず、彼女は別のことを言った。
「だから、こわいの。自分で、自分がこわいのよ」
「よく分らないね」
「男に馴れるのが、こわいのよ」
彼はいまの会話を反芻《はんすう》しながら、狙いを定めて撃つ気持で、訊ねた。
「誰なんだ、きみのうしろにいるのは」
「…………」
「余志子じゃないな」
「…………」
「それならば、もう訊ねない」
と、彼は一呼吸つくと、
「このことは教えてくれ、もし教えてくれなかったら、腕ずくでも調べるからね」
「なんのこと」
「きみの刺青のこと」
「それは、この前、見せたじゃないの」
「もう一つの刺青だ。おそらく、腿の内側にある筈の……」
消えた絵
城田祐一は、三津子の腿の内側にも、蜂《はち》の刺青を見た。女王の冠をかぶった蜂の刺青である。
余志子のものと同じ模様である。
やはり、余志子ではなかった、と彼はおもう。磁石の極と同じで、同じ模様同士は引き合わない。
しかし、彼はその刺青に長くかかわり合っていたわけではない。素早い一瞥《いちべつ》ののち、彼は三津子の躯《からだ》を抱こうとした。
この前と同じように抵抗があった。しかし、それは烈しいものではない。結局は抱かれてしまうのだが、その前の弁解のようなものだ。
弁解……というが、自分自身にたいしての弁解か。もちろん、そういう要素もあるわけだが、それは誰に対しての弁解なのか。
彼の下で、三津子は烈しく首を左右に振っている。髪が乱れている。
「なにを、追い払おうとしているんだ」
かぶりを振りつづける三津子の耳もとで、彼はささやいた。
「男というものの感覚を、頭から追い出そうとしているのか」
「…………」
「しかし、もう手遅れだな。きみはもう、裏切ってしまっている」
「裏切るって、誰を」
「さあ、誰かな。ぼくではないさ。ぼくは、ここにこうやっているんだ。裏切られる余地がない」
と言った彼は、甘く釣り出すように、三津子の耳に声をそそぎこむ。
「きみ、もう言ってしまえよ」
「裏切っていないわ」
一層、彼女の首が烈しく揺れる。
「裏切っているよ。もう、きみはその誰かを必要としなくなってきているんだ」
三津子の首の動きが止まった。
「言うわ」
決心したように、彼女は言った。
城田祐一は、緊張して待った。ようやく、終点にたどりついたのだ。
「誰なんだ」
「『雅』のマダムよ」
「大場雅子か」
「そうなの」
意外といえば、そうもおもえる。しかし、まったく意表をつかれたわけではない。大場雅子を疑った瞬間もあったのだ。
しかし、大場雅子だとすると、割り切れない点が、いくつかある。
大場雅子の全身のどこにも、刺青の姿は見られない。これはどうしたわけか。
また、彼女はたやすく城田に抱かれている。これは、なぜか。レスボスで男の役割をつとめる人物としては、そんなことが有ってよいものか。
終点に辿《たど》りついた、とおもったが、またそこから新しい疑いが起ってくる。三津子が、嘘の名前を告げたとはおもえない。
大場雅子の名を聞いたとき、「やはりそうか」とおもう気持が、彼の心の片隅にあった。とすると、もうこれ以上、三津子を問い詰めても無駄である。
三津子と躯を離してから、彼は別の話をしはじめた。
「パパの家の居心地はどうだ」
「どう、といって……、親切にしてくれるわ」
「パパは、きみのお尻の刺青を見たがったかね」
「子供のとき彫ったものが、どんな具合に変化するものか、調べたい、と言ったわ」
「それで、見せてやったのか」
「ええ」
「よく見せたね」
「だって、父娘《おやこ》ですもの」
「それで、パパはきみのお尻の皮を剥《は》がしたいような顔をしなかったか」
「そんなことはなかったわ」
「しかし、残念なことに、アンダーソン氏はきみのピンク色の星は見られなかったわけだな」
「あら、見たわ」
「なぜ、パパの前で昂奮《こうふん》したのか。この前は、ぼくに抱かれたあとだったのに、ピンク色の星は出ていなかったよ」
「あら、知らなかったわ、出ていなかったの。あのときは、いろいろ考えることが多くて、気持が内側にまくれ込んでしまっていたから……」
「パパの前では、どうやって昂奮したんだ」
「いやあね、昂奮だなんて。掌で幾度も強く叩くのよ。そうすれば、見えるようになるの」
城田は、三津子の躯を裏返して、眺めた。その尻の星と月の模様に混じって、濃いピンクの星が大きく、肌に滲《にじ》みこむように見えている。
「きみも、いまから新しい生活がはじまるというわけだな」
と、彼は一種の感慨をもって、そう言い、
「余志子が呼び出しても、出かけないほうがいいよ。しばらく、パパの家に引きこもっていたほうがいい」
仔細《しさい》らしくそう言って、彼は苦笑した。これでは、人生相談の役目をしていることになる。いや、若い女に人生の行くべき方角を指ししめしていることになる。自分はそんな役目はまっ平の筈なんだが。自分は、美しい未亡人の「快楽コンサルタント」の筈だったのだが……。
「そうするわ」
三津子の声が戻ってきた。
「城田さんが声をかけてくる以外は、家を出ないことにするわ」
「…………」
「だって、城田さんはあたしのはじめての男なんだもの」
ホテルのロビイで、大場雅子と城田は向い合って坐っている。彼が雅子を呼び出したのである。
「そんな咎《とが》めるような眼で、わたしを見ることはないわ」
と、大場雅子が言う。
「なにも、犯罪が起ったわけでもないのだから」
「いや、あなたを咎めているのじゃない」
彼が雅子を呼ぶ言い方が、もとの「あなた」に戻っている。
「咎めているような眼をしているとすれば、自分自身が咎めているのですよ」
「なぜ」
「だって、あなたの快楽コンサルタントだなどと大きなことを言って、結局、翻弄《ほんろう》されていたのはぼくだったのですからね」
「翻弄したつもりはないわ。城田さんの一人|角力《ずもう》だったわけよ」
「なおさら、悪いや」
「でも、それで良かったのよ。城田さんから快楽を教えられては、わたしの立場がなくなるもの。ちょっと、験《ため》してみたけど……」
「あれは、験したわけなのか。昔の武芸者の武者修行みたいなものか。つまり、男などからは快楽を与えられるものか、ということの確認だったわけか」
「そういうわけね」
「しかし、勝負に勝ったほうが、あなたとしてはよかったのですか」
「それは、そうよ、そうでなかったら、男なんかに近寄らないもの」
「でも、それは本当のこと」
「本当よ」
「本当は、負けたほうが、幸福になれるのじゃないのかな」
「そんなことはないわ。だから、もう二度と城田さんには近寄らないわよ」
城田は確かめるように相手を眺めている。そして、確かめるように、口を開いた。
「それでは別の質問をしますよ。やはり、犯人はあなたなのですね」
「だから、犯罪は起らなかった、と言っているじゃありませんか、犯人だなんて……」
「どうも今度の事柄には、暗い危険な感じがあるんだ。犯人といわないと、どうも気分が出ない」
「それでは、ご自由に」
「犯罪ではないとすると、由美の死んだのは殺人ではありませんな」
「そうよ、あれは心臓|麻痺《まひ》だわ」
「しかし、その由美の刺青を剥《は》がしたのは、雅子さんですね」
「そう、あれは、わたし」
無造作に、しかしはっきりと、彼女はうなずいた。
「理加の刺青を剥がしたのは」
「あれも、あたし」
雅子の白い細い指を眺めて、彼は軽い身震いを覚える。
「なぜ、剥がしたのですか」
「それは言えません」
含み笑いしながら彼女は答え、城田は苛立《いらだ》つ。
「刺青をしたのも、あなたでしょう」
稚拙な、素人《しろうと》くさい刺青を思い出して、彼は訊《たず》ねる。
「そうですわ」
「それなら、剥がした理由は分った。刺青をすることは、あなたのレスボスの仲間に入った証拠でしょう。それを剥がすのは、つまり、除名を意味する。なにか、裏切り行為があった……たとえば、男と寝たとか……」
「そうかしら」
相変らず、含み笑いをして、雅子は言う。
「違いますか」
「違うようね。だって、死んでしまった人間を、いまさら除名することはないでしょう」
その言葉で、彼はなまなましく思い出す。由美の刺青が剥がされたのは、死体になってからのことだった。あるいは、棺に横たわってからかもしれない。
「そういえば、その通りだ。なぜか、教えてくれないか」
「いまは、教えないわ。だって、謎《なぞ》がなんにもなくなったら、人生つまらなくなってしまうでしょう。城田さんのためにその謎は残しておきましょう」
大場雅子は、城田の「快楽コンサルタント」になったような口ぶりで、そう言う。
「しかし、犯罪は起らなかったが、動機は二つとも揃《そろ》っていたな」
「二つって、なんのこと」
「色と欲さ。犯罪の動機は、その二つのどちらかだ、という説がある」
「色と欲だなんて、へんなことをおっしゃらないで……」
「だって、欲もからんでいただろう。三津子のお尻の刺青を剥がし取って、アンダーソンに売りつける計画だったろう」
「…………」
「アンダーソンが別の方法で、その種の刺青を手に入れることができるようになったもので、その計画は駄目になった。つまり、豚のおなかの刺青の成功のせいでね。おもえば、危いところだったよ、三津子の生命《いのち》は風前のトモシビだった……」
「あら、お尻の皮を剥がしたくらいで、人間は死にはしないわよ」
「もう一つ、謎が残っているな。あなたの躯には、どこにも刺青がなかった。ぼくは、犯人には、王様の冠をかぶった蜂の刺青があるに違いない、と考えていたのだが」
「その考えは、間違っているのよ。なぜ、女王の冠の相手が、王様の冠じゃなくてはいけないの」
「だって、雄と雌じゃないか」
「でも、蜂の場合は、女王蜂というのは、大へん威張った存在よ。雄の蜂なんて、あわれなものなのよ。レスボスの男役が、なぜ雄蜂の刺青をしなくちゃいけないのかしら」
「そう言われれば、その通りだ。しかし、いずれにせよ、あなたには刺青なんかありはしないのだからな」
「本当に、無いとおもっているの」
「えっ、あるのですか」
大場雅子は含み笑いをしている。
「それじゃ、あなたにもどこかに刺青があるということですか」
「そうときまったわけじゃないけど」
「…………」
「でも駄目よ、城田さんには、もうわたしの躯には触らせないもの」
城田祐一は、春海俊太と一緒に、バー「紅」で酒を飲んでいる。
その夜の酒は、荒れている。もうかなり城田の眼が据っているようだ。
「よう先輩、先輩はまさか、女じゃないでしょうな」
「だいぶ酔ったな」
「冗談を言っているのじゃありませんよ。まじめな質問です」
「おれが、男か女かを知りたければ……」
と、春海は店の中を見まわして、
「これはいかん、そのことを証明してくれる女の子は一人もいないわい。おれも、このところ身持がよすぎて、いかんなあ」
「とすると、女かもしれないわけですね」
「なにを馬鹿なことを言っているんだ。おれが女のわけがない。いったい、どういうことかね」
「犯人は大場雅子だったんです」
「まったく意外だったな」
と春海はけろりとして言い、
「それより、なぜおれが女でなくてはならないんだ」
「犯人には、証拠の刺青がある筈なんですが、雅子にはそれが無いんです。といって、ほかに心当りの女はいないわけで、ひょっとしたら男とおもっていた人物が女ではないか、疑いはじめたわけですよ」
「大分ショックが大きかったようだな。犯人は大場雅子に違いない。おれが保証する。ま、ゆっくり時間をかけて、証拠を掴《つか》むことだね」
「それが、困ったことに、もうつき合ってくれない、というのですよ」
城田は、そこでまた、グラスのウイスキーを一息に飲み干した。