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ZOO
乙一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)それがママのいつもの台詞《せりふ》だった。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)古い写真らしく色|褪《あ》せていた。
本文中の《》は〈〉で代用した。
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カザリとヨーコ
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ママがわたしを殺すとしたらどのような方法で殺すだろうか。たとえばいつものようにかたいもので頭を殴るかもしれない。時々そうするように首をしめるかもしれない。それとも自殺にみせかけてマンションのベランダから落とすだろうか。
きっとそうだ。自殺にみせかけるのが一番うまいやりかたのように思う。クラスメイトや先生はわたしのことを聞かれた時こう答えるにちがいない。
「エンドウヨーコさんはいつもなにか思い悩んでいました。きっと悩みを苦に自殺したのでしょう」そしてわたしの自殺をだれも疑わないのだ。
最近のママのわたしに対する仕打ちは直接的で、肉体的な苦痛を伴うものが多くなってきた。子供のころはもっと間接的で遠回りな嫌がらせだったはずだ。妹のぶんのケーキはあるのにわたしのぶんはわざと買ってこなかったり、妹には服を買ってあげるのにわたしにはなにも買ってくれなかったり、精神面に響くことばかりママはやっていた。
「ヨーコ、あんたはお姉ちゃんでしょう、がまんしなさい」
それがママのいつもの台詞《せりふ》だった。
わたしとカザリは一卵性の双子だ。カザリは美しくて活発で笑う時にはぱっと花がさくように笑った。学校で彼女はクラスメイトや先生からとても愛されていた。時々わたしに食べ残したごはんをくれるのでわたしも彼女が好きだった。
ママは故意にわたしのぶんの食事を作らなかったのでわたしはたいていいつもおなかをすかせていた。かといって勝手に冷蔵庫を開けるとママが灰皿で殴りかかってくるので怖くてつまみ食いすることもできなかった。腹がへって死にそうだあとあえいでいるわたしに向かってカザリが食べ残しの載ったお皿を差し出すとき、正直、わたしの目には妹が天使に見える。食べかけのグラタンやらよりわけられたにんじんやらを皿に載せた白い羽根を持つ天使である。
わたしに食べ物を与えるカザリを見てもママは怒らなかった。そもそもママがカザリをしかりつけるといったことはなかった。ママはカザリをとても大事にしていたからだ。
礼を言いながら食べ残しを食べつつ、わたしは本当にこの大切な妹をまもるためなら人殺しだってするかもしれないわと思った。
我が家には父親というものがいなかった。気づいた時にはママとカザリとわたしの三人暮らしでわたしが中学二年生になった今でもそんな生活を続けている。
父親のいないことがわたしの人生にいったいどんな影響を与えたのかわからない。もし父親がいたらママはわたしの歯を折ったりタバコの火を押しつけたりしなかったかもしれないしそうでないかもしれない。わたしの性格はカザリのように明るくなっていた可能性もある。朝、ママが笑顔でトーストや目玉焼きの皿を運んでくるのを見る時そんなことを思う。それらの皿はカザリの前に置かれるわけでわたしの食べるぶんはいつもない。だからそんな光景は見ない方がいいと思うのだけれどわたしは台所で寝起きしているので見ないわけにはいかないのだ。
ママとカザリは自分の部屋を持っている。わたしにはないので自分の持ち物は掃除機なんかといっしょに物置へ押し込めている。幸いにもわたしには所有物がほとんどなかったので生きるのに大きなスペースはいらなかった。学校の教科書や制服の他にわたしはほとんどなにも持っていない。服はカザリのおさがりをほんの数着だけだ。たまに本や雑誌を読んでいるとママに取り上げられることがあった。わたしにあるのはひしゃげたぺちゃんこの座布団だけである。それを台所にあるゴミ箱の横に置きその上でわたしは勉強をしたり空想をしたり鼻歌を歌ったりする。注意しなければいけないのは、ママやカザリの方をじろじろ見てはいけないということだ。もしも目が合ったりしたらママが包丁を投げつけてくる。座布団はまたわたしの大事な布団でもあった。この上で体を猫のように丸めて眠ると、なんと体が痛くないのである。
毎日、朝食を食べずに家を出る。家にいると『なんでこんな子がうちにいるの?』という嫌そうな目でママがにらむので早く家を出るにかぎる。家を出るのが数秒でも遅れると痣《あざ》をつくる可能性がある。わたしがなにもしなくてもママはなにかとなんくせをつけてわたしを折檻《せっかん》したがるのだ。
登校中、歩いているわたしの横をカザリが通り過ぎるとき、わたしは彼女に見とれる。カザリはいつも髪をふわふわさせながら楽しそうに歩く。カザリとわたしはママのいる前ではほとんど会話をしない。だからといってママのいないところではなかの良い姉妹らしくしゃべるのかといったらそうでもない。学校でカザリは人気者でいつもたくさんの友達と楽しそうに話をしていた。わたしはそんなカザリがとてもうらやましかったのだけれどその輪の中に入れてもらう勇気はなかった。
わたしといったらテレビの連続ドラマや歌手のことなんてまったく知らないのだ。テレビを見ていたらママに怒られるので、テレビのある生活というのはわたしにとって未知のものだった。
だからみんなの話題についていける自信はなかった。結局わたしには友達なんてまったくいなかったし休み時間になると机につっぷして寝たふりをした。
カザリの存在はわたしにとって心の支えだった。カザリはみんなから愛されていてわたしはそんなカザリと血を分けた家族なんだという誇らしい気持ちがあった。
わたしの顔はカザリに似ていた。一卵性双生児でまったく同じ顔なのだから当然といえば当然なのだが、けれどわたしとカザリを見まちがう人間はいなかった。カザリははつらつとして明るかったけれどわたしは暗くじめじめしていた。制服にしてもわたしのは汚れてしみがついていたしなによりもまず臭うのだ。
ある日、学校へ行く途中、電信柱に迷い犬のチラシがはってあるのを見た。メスのテリアで名前はアソというらしい。かんたんなイラストの下に達筆な文字で『見掛けた方は次の連絡先までお願いします・スズキ』と書いてあった。
わたしはそれをちらりと眺めただけでその時は特に気にかけなかった。実際それどころではなく前日に青痣を作った腕が痛くてたまらなかった。学校でも授業を受けているあいだ中、痛くて集中できなかった。だから保健室へ行くことにした。保健室の女の先生はひどい痣のできたわたしの腕を見ておどろいた。
「まあ、いったいどうしたの?」
「階段でころびました」
しかしそれは嘘で本当は夜中おそく帰ってきたママがお風呂に入った時、浴槽の中で長い髪の毛を見つけて怒ってわたしをぶったというのが怪我の原因だった。わたしはぶたれた拍子に転んでテーブルの角で腕を打ちまったく自分はドジだなと自分を心の中で罵《ののし》った。
「ママはあんたの抜け落ちた髪の毛がお風呂で体にはりついて気持ち悪い思いをしたわ。あんたはママが嫌いなの? ママがこんなにつかれて帰ってきたというのにあんたはなぜこんな仕打ちをするの?」
以前にもこういうことがあったのでわたしは絶対ママより先にお風呂へ入らないよう気をつけていた。だからママの言った長い髪の毛というのはわたしのではなくカザリのものだった。しかしわたしの髪の毛はカザリと同じ長さだったしいらついて家へ戻ってきたママにはなにを言っても通じなかったのでだまっていた。
「骨は折れてないようだけど痛みがひかなかったら病院へ行った方がいいわね。でもエンドウさん、本当にあなた階段でころんだの? 以前にも同じように階段でころんでここへ来たことがあったでしょう?」
保健室の先生が包帯をまきながら質問した。わたしはなにも言わずに頭を下げると保健室を出た。そろそろ階段でころんだという理由で通すのは難しそうだと思った。
ママの折檻のことをわたしはひたすら隠しつづけてきた。秘密にするよう言われていたし、だれかに言った場合、まちがいなくわたしはママに殺されてしまうからだ。
「いいかい、ママがあんたをぶつのは、あんたがどうしようもなく悪い子だからよ。でも、このことはだれにもないしょだからね。わかった? わかったのなら、このミキサーのスイッチは押さないであげるわ」
当時、小学生だったわたしは涙をながしながらうなずいた。ママはスイッチから指を遠ざけて押さえつけていたわたしの腕をはなした。わたしはいそいでミキサーから手を引き抜いた。
「もうちょっとであんたの手がジュースになるところだったわね」
ママは口のはしに食べ掛けのチョコレートアイスをつけて吐き気のするくらい甘い息をわたしに吹きかけながら笑った。
ママは人づき合いの苦手な人だ。わたしには鬼のように振る舞うけど家の外では口数がずっと減った。二人の子供を養うために仕事をしているのだけれど自分の主張をなかなか他人に言えない。だからわたしとママは根本的には似ているのかもしれない。そして同じように二人とも活発で明るいカザリに強いあこがれを抱くのだと思う。ママは仕事場で人間関係がうまくいかない時いらいらしながら家へ帰ってくる。そしてわたしを見つけるとけったりぶったりする。
「あんたはわたしが産んだんだ、生かすも殺すもわたしの自由なんだ!」
わたしの子じゃない、と言われるよりきっとましだ。髪の毛をママにつかまれながらいつもそう思った。
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2
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掃除の時間、クラスメイトに話しかけられた。クラスメイトと会話をするのは実に三日と六時間ぶりだった。ちなみに三日前にかわした会話は、「エンドウさん、消しゴムかして」「……あ、ごめん、持ってないの」「ちっ」というたったそれだけだった。しかし今日の会話はもっと長かった。
「エンドウヨーコさん、あなたって一組のエンドウカザリさんの偽者の方よね? どうしても姉妹には見えないわよ」
ほうきを持ったそのクラスメイトの女子はそう話しかけてきた。まわりにいた他の女の子が一斉に笑った。彼女の言ったことには自覚があったので不思議と怒りを感じなかったがまわりの子が笑ったことについては嫌な感じがした。
「だめよ、エンドウさんが傷つくじゃない」
「ごめんなさい悪気はないのよ」
「うん、わかってる……」
わたしはそう言ったがひさびさに声を出したため声が裏返ってしまった。ほうきで床を掃きながらはやくみんなどこかへ行ってくれないかなあと思っていた。みんな教室の掃除当番だったが掃除するのはいつもわたしだけだった。
「ねえエンドウさん、あなた今日、保健室へ行ったでしょう。またあざを作ったの? あなた体中あざだらけなんでしょう? 私、知っているのよ。体育の水泳で水着に着替える時に見たもの。でもみんな信じてくれないの。だからここで服ぬいで見せて」
わたしがだまって困っていると教室の扉が開いて担任の先生が入ってきた。わたしに話しかけていたクラスメイトはさっと散らばって掃除するふりをはじめた。助かったと思いわたしは安堵した。
学校の帰り道、公園のベンチに座ってクラスメイトたちの笑い声を思い出していた。人のことを勝手に傷つくだとか言うなっ、と後から考えるとなんとはなしにむかついた。わたしはみんなに馬鹿にされているんだとあらためて感じた。どうしたらカザリのようにみんなと話ができるのだろう。わたしもみんなと同じように掃除をさぼって丸めたプリントとほうきでアイスホッケーの真似事をしたかった。
気付くとそばに犬がいた。首輪がしてあったので、公園のどこかに飼い主がいてしっかり犬のことを見ているのだろうと最初のうちは思っていた。
さてはそうでないなと感じたのは五分ほどたってからだった。その犬がわたしのクツのにおいをくんくんかぎはじめたのでためしに一回背中をなでてみた。犬は怖がらず人になれているようだった。メスのテリアであることに気づき、ひょっとするとこの犬の名前はアソかもしれないと今朝のチラシを思い出した。
犬を抱いてチラシにあったスズキさんの住所へ行ってみるとそこは小さな一戸建てだった。七時をまわっていて外は夕焼けで赤かった。チャイムをならすと背の低い白髪のおばあちゃんが出てきた。
「まあ、アソちゃん! アソちゃんにまちがいないわ!」
おばあちゃんは目を開いて驚くとうれしそうに犬をだきしめた。このおばあちゃんがチラシを書いたスズキさんにまちがいないと思った。
「ありがとう、あなた。この子のこと心配していたの。ちょっとまあ、うちにあがってちょうだい」
はあ、とうなずいて家へ上がらせてもらった。実を言うと汚いことにわたしは見返りを期待していた。お金でもお菓子でもなんでもいい。いつもおなかをすかせていたのでくれるものならなんでも欲しかった。
居間に通されて座布団に座った。
「そう、あなたヨーコさんというのね。わたしはスズキよ。チラシをはってからたった一日でこの子に会えるなんて嘘みたいだわ」
スズキのおばあちゃんはアソにほおずりをしながら居間から出て行った。彼女は一人でこの家に暮らしているらしかった。
スズキさんはコーヒーとお茶菓子ののった盆をもって現れた。アソがその後ろからついてきた。盆をちゃぶ台においておばあちゃんは向かい合うように座った。彼女はわたしがどこでアソに出会ったかをくわしく知りたがった。とくにおもしろいドラマがあったわけでもないのにわたしが話している間中にこにこして彼女は聞いていた。
わたしはコーヒーにスティックの砂糖とカップのミルクをどばどば入れて一瞬で飲み干した。お茶菓子も二口で消滅した。どちらもうまかった。わたしの生活には甘い食べ物というのがほとんどなく時々中学校の給食で出るデザートくらいしかなかった。家ではカザリの食べ残し以外ほとんどなにも口に入らないので当然だった。はたして給食のない高校へ行くようになった時わたしは生きていけるのだろうかというせこい問題はつねにわたしの頭を支配していた。
スズキさんはやさしそうな顔でコーヒーのおかわりをついでくれた。今度はそれを味わってのんでいるとスズキさんが言った。
「本当は夕食も食べていってほしいのだけれど……」
それはなんとしてでも食べたいですなっ、と一瞬思った。しかし初対面の人にいくらなんでもあつかましいと理性が小さくつぶやいた。
「実をいうと今日はぜんぜん夕食の用意していなかったの。この子が心配で手につかなくて」
スズキさんがアソをだきしめた。アソは幸せものだなあと抱きしめられた小さなテリアをうらやましく思った。
「そうだわ、あなたになにかお礼を差し上げなくちゃいけないわね。なにがいいかしら、差し上げられるものをさがしてくるから、ちょっと待っててね」
スズキさんが立ち上がりアソを残して居間を出た。なにをくれるんだろうとわたしはめずらしくわくわくした。わたしがびくびくすることは数あれど、わくわくすることなんてめったにないことなのである。お菓子かなにかだったら食べながら帰ろう。持って帰ったらきっと取り上げられる。
アソがわたしのにおいをかいでいた。昨夜は結局お風呂に入っていないので臭かろう。わたしは部屋の中を見回した。テレビがあった。ビデオはない。おばあちゃんだからきっと使えないのだろう。ビデオは操作が難しいらしいと、風の噂に聞いていた。ちなみにわたしはテレビもビデオもあつかったことがない。
居間には大きな本棚があり壁のひとつの面はそれでふさがれていた。中にびっしりと並んでいる本の背表紙を眺めていると、困った顔をしたスズキさんが戻ってきた。
「ごめんなさい、わたしの一番大切な宝物をあげようと思ったのだけど、どこに置いたか忘れてしまったの。さがしておくから、またあした来ていただけないかしら。今度は食事を用意しておくわ」
また来ることを強く確信を持って約束してからその日は帰ることにした。外は真っ暗だった。スズキさんは玄関まで出てきてくれて、人に見送られるというのはこういうことかと新鮮だった。わたしは今まで一度として人に見送ってもらったことがなかったからだ。
次の日、学校の帰りにスズキさんの家へよってみた。チャイムをならす前からなにやらいいにおいがした。スズキさんはわたしが来たことを喜んでくれてわたしは来てよかったと思った。昨日のように居間に通されて同じ座布団に座った。アソもわたしを覚えていた。まるで昨日の続きのようだった。
「ヨーコさんごめんなさい。実はあげるつもりだったわたしの宝物がまだみつからないの。探したんだけどねえ、本当にどこへしまったのかしら。でも、よかったら食事だけでもいっしょにどう? あなたハンバーグ好き?」
いやもう半端じゃなく好きです。ハンバーグのためなら腎臓を一個売ってもいいくらいです。そう返事をすると彼女は優しげなしわを顔一面に作って笑った。
わたしは食事をしながらなぜハンバーグなのかを検証した。スズキさんはハンバーグが好きなのでしょうか、いや、きっとわたしを喜ばそうとハンバーグを作ったのでしょう。子供を喜ばせるためにハンバーグを作るという心理は理解できた。
「ヨーコさん、あなたのことを聞きたいわ」
食べながらスズキさんが言った。困った、わたしはいったいなにを言えばいいのだろう。
「たとえば、ヨーコさんの家族はどうなの?」
「母と双子の妹がいます」
「まあ、双子の?」
スズキさんは双子の妹について聞きたそうな顔をしたが真実はあまりに暗く陰惨で目も当てられないので嘘をついた。
父親はいないけど三人で楽しく暮らしているということ。母はとてもやさしくてわたしと妹の誕生日には同じ色の素敵な服を一着ずつ買ってくれて、その服は派手すぎないわりと地味めな大人っぽいものであるということ。休みの日に三人で動物園へ行き、ペンギンを間近で見たこと。わたしと妹はずっと相部屋だったからそろそろ一人部屋が欲しくてたまらないこと。子供の頃わたしと妹が怖いテレビを見て眠れなくなると母が手を握ってくれたこと。わたしはおよそありえないことばかり喋った。
「素敵なお母様ね……」
スズキさんは感動したようにつぶやいた。その言葉を聞きながら嘘が本当だったらいいのにと思った。
学校であった出来事をたずねられたので友達と海へ行ったと嘘をついた。にこにこ話を聞いてくれるスズキさんを見ていると、こりゃ絶対に本当のことを覚《さと》られたらいけないなと思った。しかし脳味噌の嘘を考える部分がつかれて悲鳴をあげはじめたのでわたしはなんとかして話題を変えなくてはいけなかった。
「ああー、そういえば本がたくさんありますねー」
わたしは咀嚼《そしゃく》したハンバーグを飲み込みながら壁の本棚を見た。スズキさんはうれしそうな顔をした。
「本が好きなの。ここに置いてあるのはほんの一部、まだ他の部屋に積んであるの。マンガも読むのよ、ヨーコさんはどんなマンガが好き?」
「実は、その……、よくわからないです……」
「あらそう」
スズキさんが残念そうな表情をしたのでなんとかしなければと思った。なぜだかこのおばあちゃんに嫌われたくなかった。
「その……、おもしろい本があったら教えてくださいますか」
「ええ、なんなら借りていってちょうだい。そうだわ、そうしましょう。また今度、返しにきていただければいいわ」
スズキさんはおもしろいと思われるたくさんの小説やマンガをわたしの前に積み上げた。わたしはその中からたった一冊だけマンガを選んでスズキ家を後にした。一冊だけしか選ばなかったのはすぐに読み終えたかったからだ。そうすればまた明日にでもスズキさんの家へ返却しにこられるだろう。そうすることで再び何かこうおいしいものとか食べられるかもしれないという意地汚い乙女の思惑もあったし、それにスズキさんとアソに会える。このおばあちゃんともっと話をしていたかった。スズキ家の座布団に座ってスズキさんやアソといっしょにいるとおしりに根が生えたように立ち上がるのが億劫《おっくう》になるのだ。
その後もいろいろなつらいことがあったけれどわたしはスズキ家にかよった。たいてい帰る時に本を借りたのでまたそれを戻しにこないといけなかった。それにいつまでたってもスズキさんはわたしにくれるという宝物をみつけることができなかった。
本を返しに行くというのはスズキ家にかよう口実だったけれどそういうものを作っておかないとわたしは赤の他人のスズキさんに会ってはいけないような気がした。スズキさんはわたしにとって生まれてはじめてのほっとできる人だった。なにも用がないのにそばへ行って嫌われたくなかった。
わたしが行くとスズキさんはいつも夕食を作って待っていた。わたしは毎日マンガや小説を読んで感想をスズキさんに話した。わたしとスズキさんとアソはどんどん仲良くなった。学校が早く終わった時アソの散歩をした。切れた電球を付け替えたりじゃがいもの皮むきをてつだったりもした。
「今度の休みの日いっしょに映画を見に行きましょうか」
スズキさんが提案した時わたしは飛び上がって喜んだ。
「でも、ヨーコさんのお母さんに悪いかしら。こんなにあなたをひとりじめしちゃって。そうそう、今度カザリちゃんもいっしょにつれておいで」
うん……。うなずいたけれどどうすればいいかわからなかった。スズキさんはわたしの嘘をまるっきり信じていた。
映画を見終わった後わたしとスズキさんは回転寿司に入った。わたしは遠慮したのだけれどスズキさんがどうしても行こうと言った。わたしはほとんど寿司なんて食べたことがなかったので魚の名前をまったく知らなかった。回転寿司のルールは一応知っていたし安いものを選ぼうと思っているのだけど、どの寿司が安いのかわからなかった。どんどん寿司が流れていく中でスズキさんが家族の話をした。
「わたしにはね、ちょうどヨーコさんくらいの孫がいるの」
スズキさんはさびしそうな顔をしていた。
「ヨーコさんの一つ下かしら。娘の子なの。わりと近くに住んでいるのにもう三年も会ってないわ」
「家族といっしょに住めないの?」
スズキさんは答えなかった。きっとなにか事情があるのだろうと思った。
「手紙を出したらどうかしら。『会ってごちそうしたい、何でも好きなものを食べていいわよ』って書けばきっと会いにきてくれるわよ」
それからわたしは真剣に、自分が『好きなものを食べていいわよ』などと言われたら何と答えるべきか考え込んだ。一生に一度あるかないかという質問なので今のうちから検討しておくべき問題だなと思った。わたしが考えている間も目の前を寿司が流れていった。
「あなたはやさしい子ね」呟《つぶや》くようにスズキさんが言った。「……実は言わなくちゃいけないことがあるの。アソを連れてきてくれたお礼としてあなたに差し上げることになっていた宝物のこと。本当はそんな宝物なんて最初からなかったの。嘘だったのよ。あなたにまた会いたくて口実を作っただけ。ごめんなさい。そのかわりこれを受け取って」
スズキさんはわたしにカギを握らせた。
「わたしの家のカギよ。もう口実なんていらないから、いつでもうちにおいで。わたしはあなたが大好きなんだから」
わたしは何回もうなずいた。とても素敵なアイデアに思えた。これまで生まれたことを後悔して何度か高いビルの屋上に上がって金網をよじ登り、吹きすさぶ風で鼻水を垂らしながら飛び降りるかどうか迷ったけれどこんな日がわたしにおとずれるなんてと思った。
以来つらいことがあったときスズキさんにもらったカギをにぎりしめてふんばった。まるでカギはアルカリの単三電池のようにわたしへエネルギーを供給し、わたしは「よしきたー!」という気持ちになった。カギはいつもしおりのかわりに本の間にはさんで隠していた。
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3
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スズキさんからカギをもらって二週間後の金曜日、学校でのことだった。休み時間になるとカザリがわたしの教室にやってきた。数学の教科書を忘れてしまったので貸してほしいとカザリはたのんだ。
「おねがい、このお礼はきっとするから」
カザリと会話をするのはたいへんひさしぶりだったのでわたしはうれしかった。わたしのクラスでも午後から数学の授業があったのだがそれまでに返してくれるという約束で教科書を貸した。
しかし昼休みになってカザリのクラスへ行ってもカザリはいなくて、わたしは教科書のないまま数学の授業を受けることになった。
数学の先生はやさしそうな男の人だった。わたしはその先生とほとんど話をしたことがなかったけれど、時々廊下でカザリと親しそうに笑いながら会話しているところを見かけた。だから教科書がなくても理由を話せばきっとゆるしてくれると思った。
「どうして教科書を持ってこなかったんだね」
授業がはじまると先生はそう言ってわたしをその場に立たせた。
「その……、妹に貸しました……」
「まったく! そうやって人のせいにする。本当に信じられないな。きみは一組のカザリさんとは本当に双子なんだろうか。きみはね、もうちょっと身だしなみに気をつけたらどうなんだい?」
先生がそう言うと教室のあちこちからくすくすと笑い声があがった。顔が熱を持ちわたしは逃げ出したくなった。自分の髪がぼさぼさで服が汚れていることは知っていた。だけど台所で寝起きするわたしに改善する余裕はなかった。
放課後に教室を出たわたしをカザリが呼び止めた。
「教科書を返すのが遅れてごめんなさい、お姉ちゃん。わたし、おわびをしたいの。これから友達とマクドナルドへ行くんだけど、お姉ちゃんもいっしょに行こうよ。ハンバーガー、食べさせてあげる」
カザリは魅力的に笑った。そうやって誘われたのははじめてだったのでわたしはうれしくなってすぐにOKした。仲間に入れてもらえるなんてこれは夢じゃないかと思い右足で左足を踏むとしっかり痛みを感じた。
カザリと二人の友達そしてわたしの合計四人でマクドナルドへ行った。みんなのぶんをカザリがまとめて注文した。カザリの友達とは初対面でわたしとはほとんどしゃべらなかったけどカザリとはよく話をして笑っていた。
「ねえ本当にあなたはお金をもっていないのね。信じられないわ、どうしてカザリさんはおこづかいをもらっているのに、あなたはもらえないの?」
レジの前でカザリの友達のうち片方がわたしに質問した。わたしのかわりにカザリが答えた。
「ママがそういうしつけかたをしてきたの。お姉ちゃんにお金を持たせるとすぐにつかっちゃうんだって」
できあがったハンバーガーを受け取ると二階に移動してテーブルについた。ジュースもポテトもハンバーガーも三人分しかなかった。カザリたち三人は食事をはじめわたしはその様子をじっと見ていた。「わたしの分は?」と聞くことはためらわれた。自分からママやカザリに話しかけることはめっそうもないことだったのだ。
「はい、これもういらない」
カザリの友達の片方が食べかけのハンバーガーをわたしの前に差し出した。
「ねえヨーコさん、本当にあなた、人の食べ残しを食べるの?」
友達の疑問にカザリが楽しそうに答えた。
「本当よ。お姉ちゃん、いつもわたしの食べ残しをがつがつ食べるもの」そう言うとカザリはわたしに向き直った。「ね、いつも食べてるよね。この子たちわたしの言うことを信じないのよ。だから目の前で食べて見せた方が早いと思うの。お姉ちゃん、これも食べていいよ」
カザリが食べかけのハンバーガーをわたしの前に差し出した。カザリの友達が好奇心の入り交じった目でわたしを見つめた。わたしは豚のようにがつがつと差し出されたものを食べた。するとみんな一斉にわっと手を叩いた。
店を出てカザリたち三人はわたしに手を振ってバイバイと言いながら駅ビルの方へ消えていった。一人で残されてから猛烈にわたしは息苦しくなり「神様!」と心の中で呟いた。
スズキさんの家へたどり着いたときわたしの頭はパニックだった。どうしてカザリは友達をあつめてあんなことをしたのだろうと考えた。しかしカザリはいつもどおりのことをしただけなのだ。いつも家でやっていることをただ外で繰り返しただけなのだ。そう考えて納得しようとしたが呼吸困難は衰えをみせず、ちとがつがつ食べ過ぎたかなと思った。
スズキさんは咳《せき》をしながらコーヒーを入れてくれた。
「今日、風邪ぎみなの」彼女はそう言って咳を繰り返した。「あら、ヨーコさん、どうしたの? あなたもひどい顔色してるわね。何か嫌なことでもあったの?」
「いえ、ちょっと食べすぎで……」
「食べすぎ? 本当に?」
彼女はそう言うとわたしの目を覗き込んだ。老人の瞳はなぜこんなに澄んでいるのだろう、とわたしは不思議に思いながら心臓のあたりを手で押さえた。
「この辺りが、息苦しいんです……」
わたしはそう言ったきり言葉が継げなくなった。カザリやその友達のことが頭の中で蘇《よみがえ》っていた。スズキさんはだまってわたしの頭を撫でた。
「きっと何か嫌なことがあったのね」
彼女はそう言うとわたしを寝室に連れて行き、化粧台の前に座らせた。
「さあ、笑ってみせて。あなた本当はとっても美人なんだから」
彼女がわたしの頬《ほお》をつまみ左右に引っ張った。無理やり笑顔をつくろうとする手つきだった。
「ああ、やめてください。やめてください。鏡の中にピエロみたいなのが見えます。でも、少し息苦しいのは治りました。だから頬を引っ張るのはやめてください」
「治った? それなら良かったわ」
彼女はそう言うと咳をした。ごほんという咳ではなく、もっといやな感じのかすれる咳だったので、わたしは心配になった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。そうだ、今度いっしょに旅行にでも行こうね。ヨーコさん、あなたは今やわたしの一番たいせつな家族なんだから」
「旅行に出たままもう戻ってこなくてもいい?」
「ええ、そのまま世界を旅しましょう。あなたをわたしの孫ということにして」
あなたはもしかしてわたしの都合のいい妄想かなにかですか、と思った。なぜならそれは素敵なアイデアだったからだ。スズキさんが本当にわたしのおばあちゃんだったらいいのになあとずっと思っていた。
スズキさんが人差し指をたてて鏡を指した。鏡を覗き込むと笑顔になったわたしの顔があった。わたしはカザリに似ていた。
スズキ家からの帰り道でわたしはカザリのように歩いてみた。顔をあげ幸福そうな顔をしてずんずん進んだ。するといつもわたしは背中を丸めて歩いていたのだと気づいた。
スズキさんの家であったことを思い出しながらわたしは台所のゴミ箱の横で勉強をしていた。ママがノートパソコンを持って帰ってきた。
ノートパソコンはママの仕事道具でいつも大切にしていた。以前、台所のテーブルに置かれていたそれをわたしが何かの拍子に触《さわ》ってしまったときがあった。
「汚い手で触るんじゃない」
ママはそう言ってわたしの頭をグラタン皿で殴った。ノートパソコンはわたしよりも地位が高いのだと学んだ。
帰ってきたママはつかれた顔をしていたがわたしを見て一瞬『いやなものを見た』という表情をした。しかしカザリが居間の方からママを呼ぶとママの顔はなごんだ。カザリはわたしよりも先に家へ帰っており居間でテレビを見ていたのだが、わたしは居間に入ることを禁じられていたので会話はしなかった。もしもママの許可なく居間でテレビを見たりしていたら裸で町を歩かされるはずだった。
ママが居間に入るとわたしは胸を撫で下ろして今日は痣をつくることなく一日を終えることができるのかなもしかして、と嬉しくなった。カザリとママの話し声が居間の方から聞こえてきたので、わたしは数学の問題を解きながらなんとなくそれに耳を傾けた。
「ねえママ、最近のお姉ちゃん、家へ帰ってくるのが遅いと思わない?」カザリの言葉が聞こえ、わたしは鉛筆を置いた。「友達ができたみたいね。お姉ちゃん物置の中にマンガや小説をたくさんかくしてるの。そういうものを買うお金、いったいどこにあるのかしら」
体温が冷えていくのを感じた。ママが居間から出てきてわたしの前を通り過ぎ台所の物置を荒々しくあけた。わたしなど存在しないというように振り返りもしなかった。物置に入っていたわたしの教科書なんかを取り出してぶちまけると母は奥の方からスズキさんに借りたままの三冊の小説を発見した。
「あんたこの本どうしたの?」
低い声でママが聞いた。わたしは怯《おび》えながらなんとか声を出した。質問に答えなければ無条件でぶたれる決まりだった。
「借りたの……」
ママは本を床にたたきつけた。
「あんたにそんな友達はいないでしょう? まったく呆れた子! 店から盗んできたのね! ママは毎日あんたのために働いているというのにいったいどうしてこんなに困らせるの!」
ママはわたしをいすに座らせ静かに言った。
「あんたは昔からそうだったわね。ママやカザリを困らせてばかりいて本当にろくでなしだったわ」
居間の入り口にカザリが立ってわたしを見ていた。彼女は憐憫《れんびん》の混じった顔でママに言った。
「ママ、お姉ちゃんを許してあげて。たぶん出来心だったのよ」
「カザリはやさしい子ね」ママはカザリを見て笑みを浮かべた後、わたしに向き直った。「それに比べてこの子といったら、本当に体の中は腐っているとしか思えないわね。カザリ、あっちへ行ってなさい」
カザリは口だけを動かしてわたしに「がんばってね」と言って親指をたてると部屋の奥へ引っ込み戸をしめた。居間の方からテレビの音が漏れてきた。
ママはわたしの後ろに立ち、椅子に腰掛けているわたしの肩に両手を置いた。動くとぶたれるからじっとしていた。