「俺は……。彼女を殺した……。俺が……。彼女を……」
口につぶやいて、決心を固めてはいる。しかし心の中に、どうせ無駄だという気持ちがある。それでも突破できることをどこかで祈り続ける。まるで神を信じるように、覚悟したまま『ZOO』の文字の前を通りすぎることができるよう祈る。
ライトの中に白線がどこまでも続いている。枯れた草が高速で道の両端を後方へと流れ、過ぎ去っていく。もうすぐだ。看板が現れる。いつもの、覚悟が挫ける場所だ。
俺は呼吸を止めた。車が、その地点を通り抜ける。まるで時間が止まったかのような瞬間が訪れる。暗闇の中、車が空中を浮かんでいるような、宇宙で停止しているような、そんな瞬間だった。
俺はしばらく惰性《だせい》で車を走らせ、道の真ん中で停止させる。鍵をつけたまま、ハンドブレーキを引くことさえ忘れて、俺は車内から出た。全身に浮かんだ汗を、冷たい風が冷やす。俺は背後の、圧倒的な暗闇を振り返る。
俺は、さきほどフロントガラス越しに見たものを思い出していた。いや、見たというのは間違いだ。俺は、それを見なかった。
噂で聞いたことあるわ。こういうところに人がこなくなって、全国的に次々と動物園や遊園地がつぶれているんですって。
彼女は確か、動物園でそう言っていた……。確かに、動物園がつぶれるという噂はあった。
昨晩まであったはずの『ZOO』の看板が、消えていた。かわりに虚空が広がっていた。俺は、何も見ることなくその地点を通りすぎていた。過去の、彼女の幻影は現れなかった。助手席に彼女が座ることなく、俺はその道を通りすぎた。思い出さなかったことについて、彼女への罪悪感がある。しかし、姿を見せないという方法で、彼女が俺を無言で告発してくれた気もする。
運転席に戻り、俺は静かに祈りを捧げた。それが、神様へ向けたものなのか、それとも俺が殺してしまった彼女へ向けたものなのか、わからない。ただ、もう演技をする必要がないことは知っていた。俺はこれから警察へ向かえるだろう。罪を告白するだろう。心の中に安らぎだけが満ちていた。
[#改丁]
SEVEN ROOMS
[#改丁]
●一日目・土曜日
その部屋で目が覚めたとき、自分がどこにいるのかわからなくて怖かった。最初に見えたのはほのかに点《とも》った電球で、黄色く、弱々しい明かりで暗闇を照らしていた。まわりはコンクリートでできた灰色の壁だった。窓もない小さな四角形の部屋に、ぼくは横たえられ、気絶していたらしい。
手で体を支えて上半身を起こすと、地面につけた手のひらにコンクリートの無慈悲な硬さを感じた。まわりを見渡していると、頭が割れるように痛む。
突然、ぼくの背後でうめき声が上がる。姉がそばに倒れており、ぼくと同じように頭を押さえている。
「姉ちゃん、大丈夫?」
体をゆすると、姉は倒れたまま目を開けてぼくを見た。起きあがり、ぼくと同じような格好でまわりを見る。
「ここはどこ?」
わからない。ぼくは首を横に振った。
裸の電球が下がっているだけで他には何もない、薄暗い部屋だった。ぼくたちは、どうやってこの部屋に入ったのか覚えていない。
覚えているのは、郊外にあるデパートの近くの並木道を、姉といっしょに歩いていたということだけだった。母の買い物がすむまで、姉がぼくの世話をすることになったのだ。それはぼくたち二人にとって不愉快なことだった。ぼくはもう十歳になるのだし、世話がなくても一人でちゃんとできる。姉も、ぼくを放っておいて遊んでいたいようだった。でも、母はぼくたちが別々に行動することをゆるさなかった。
ぼくと姉は険悪な雰囲気のまま話をせずに遊歩道を歩いていた。道には四角い煉瓦が模様を描くように敷き詰められ、両側に並んでいる木々は枝を広げて天井を作っていた。
「あんたなんか留守番していればよかったのよ」
「なんだよケチ」
ぼくと姉はときどき、相手を罵《ののし》る言葉をぶつけあった。姉はもうすぐ高校生だというのに、ぼくと同じレベルで口喧嘩をする。そもそもそこが変だ。
歩いていると、急に、後ろの茂みが音をたてた。振り返って確かめる時間もなかった。頭にひどい痛みが走り、いつのまにかぼくたちは部屋にいた。
「だれかに後ろから殴られたんだ。そして気絶している間にここへ……」
姉が立ちあがりながら腕時計を見た。
「もう土曜日になってる……。今、たぶん夜の三時だわ」
腕時計はアナログ式で、ぼくには触らせてくれないほど姉のお気に入りのものだった。銀色の文字盤に小さな窓があり、そこに今日の曜日が表示される。
部屋は縦横高さが三メートル程度あり、ちょうど立方体の形をしていた。飾りのない灰色の硬い表面が、電球の明かりでゆるやかに陰影をつけられている。
鉄製の扉がひとつだけあったが、取っ手も何もない。ただの重い鉄の板が、コンクリートの壁に埋めこまれているだけに見える。
扉の下に、五センチほどの隙間がある。そこから、扉の向こう側にあるらしい明かりが床に反射している。
床に膝をつき、隙間から何か見えないかと確かめる。
「何か見えた?」
期待するような顔でたずねる姉へ、ぼくは首を横に振る。
周囲の壁や床は、あまり汚れていない。つい最近、だれかが掃除をしたように、埃さえつもっていない。灰色の冷たい箱へ閉じ込められたように思えてくる。
ただひとつの明かりとなる電球は天井の中央に下がっているため、ぼくと姉が部屋の中を歩き回ると、二つの影が四方の壁を行ったり来たりする。電球は弱々しく、部屋の隅には暗闇が拭《ぬぐ》えずに吹きだまっていた。
ひとつだけ、この四角い部屋に特徴があった。
床に幅五十センチほどの溝がある。扉のある面を正面だとすると、ちょうど左手の壁の下から、右手の壁の下まで、床の中央部分をまっすぐ貫いて通っている。溝には白く濁った水が左から右へ流れている。異様な臭いを発し、水に触れているコンクリート部分は変色しておぞましい色になっている。
姉は扉を叩いて大声を出した。
「だれか!」
返事はない。扉は分厚くて、叩いても、びくともしない。重い鉄の塊を叩いたときに出る、人間の力では壊れないという絶対的に無情な音が、部屋の中に反響するだけだった。ぼくは悲しくなって立ちすくむ。いつになったらここから出られるのだろう。姉の持っていたバッグはなくなっていた。姉は携帯電話を持っていたが、そのバッグの中に入れていたため、母に連絡することもできない。
姉は床に頬をついて、扉の下の隙間に向かって叫んだ。全身を震わせ、汗まみれになって体の奥から助けを呼ぶ。
今度は、どこか遠くから声らしいものが聞こえた。ぼくと姉は顔を見合わせた。
自分たち以外に、近くにだれかがいる。しかし、その声は判然とせず、内容までは聞き取れなかった。それでも、ぼくはほっとした。
しばらく、扉を叩いたり、蹴ったりしていたが、無駄だった。やがてつかれて、ぼくと姉は寄り添って眠った。
朝の八時ごろ、目が覚めた。
眠っている間に、扉の下の隙間に食パンが一枚と、綺麗な水の入った皿が差し込まれていた。姉はパンを二つに裂くと、半分をぼくにくれた。
姉は、パンをさしこんでくれた人物のことを気にしていた。もちろん、その人物が、自分たちをここに閉じ込めたにちがいない。
部屋の中央を貫いている溝は、ぼくたちが眠っている間も絶え間なくゆっくりと水が流れている。常にそこからは物の腐ったような臭いが漂い、ぼくは気持ち悪くなった。虫の屍骸や残飯が浮いて、部屋を横切っていく。
ぼくはトイレに行きたくなった。そう姉に告げると、扉を一度見て、首を横に振った。
「部屋から出してもらえそうにないから、その溝にしなさい」
ぼくと姉は、部屋から出られるのを待った。しかし、いつまでたっても、扉が開くことはなかった。
「だれが、どういう目的で私たちをこの部屋に閉じ込めているのだろう」
姉は部屋の隅に座ってつぶやいた。溝を挟んで、ぼくも同じように腰を落ちつける。灰色のコンクリートの壁に、電球のつくる明かりと影。姉の疲れた顔を見て悲しくなった。早くこの部屋から出ていきたかった。
姉は扉の下の隙間に叫んだ。どこからか人の返事が聞こえる。
「やっぱり、だれかいる」
しかし、反響して何と言っているのかわからない。
食事はどうやら朝だけらしく、その日、もう運ばれてくることはなかった。空腹を姉に訴えると、それくらいがまんしなさい、と怒られた。
窓がないのでよくわからなかったが、時計を見ると夕方の六時ごろだった。扉の向こう側から、こちらに近付いてくる足音が聞こえた。
部屋の隅に座っていた姉が、ぱっと顔を上げる。ぼくは扉から距離をとった。
足音が近づいてくる。ついにぼくたちの閉じ込められているこの部屋に、だれかがやって来るのだと思った。そしてその人物は、なぜぼくたちにこんなことをするのか説明してくれるに違いない。ぼくと姉は、息を呑んで扉が開かれるのを待った。
しかし、予想に反して足音は部屋の前を通りすぎた。拍子抜けした顔で姉が扉に近づき、下の隙間に向かって声を出す。
「待って!」
足音の人物は、姉を無視して行ってしまった。
「……ぼくたちをここから出す気なんて、ないんじゃない?」
ぼくは怖くなって言った。
「そんなはずないわ……」
姉はそう言ったが、それが口だけだということは、顔でわかった。
部屋の中で目がさめて、丸一日がたった。
その間、隙間の向こうから、重い扉の開閉する音や、機械の音、人の声らしい音、靴音などが聞こえた。でも、それらはすべて壁に反響してはっきりとせず、どれも巨大な動物の唸り声のように空気を震わせているだけに聞こえた。
ぼくと姉のいる部屋は、一度も開けられることはなく、ぼくたちはまた寄り添って眠りについた。
●二日目・日曜日
目が覚めると、扉の下の隙間に食パンがあった。水の入った皿はない。昨日、差し込まれた皿は、部屋に置いたままだった。それを隙間から出しておかなかったから水がもらえなかったのではないかと姉は推測していた。
「忌々しい!」
姉は悔しそうに言うと、皿を振り上げた。床に叩きつけようとして、とどまる。壊すと、もう二度と水をくれなくなるかもしれない。そう考えたのだろう。
「なんとかしてここから出なくちゃいけない」
「でも、どうやって……?」
弱々しくたずねるぼくに、姉が視線を注ぐ。次に、部屋の床を貫いている溝を見た。
「この溝は、きっと私たちのトイレのかわりなんだ……」
溝の幅は五十センチ、深さは三十センチくらいだ。片方の壁の下から出て、もう片方の壁の下に吸いこまれている。
「私が通るには小さすぎる」
でも、ぼくなら通り抜けられるにちがいない。そう姉は言った。
姉のはめていた腕時計で、お昼ごろだというのがわかった。
ぼくは姉の言う通り、溝の中をくぐって部屋の外へ行くことになった。そうやってこの建物の外に出ることができれば、だれかに助けを求めることができるはずだ。もし外へ出ることができなくても、とにかく周囲のことをなんでもいいから知りたい。そう姉は考えていた。
でも、ぼくは乗り気じゃなかった。
溝の中に入ろうと、ぼくはパンツだけになる。そこで、やっぱりひるんだ。溝を流れている濁った水にもぐらなければいけないというのが、つらかった。姉も、ぼくの気持ちがわかったらしい。
「おねがい、がまんして!」
躊躇《ためら》いながら、溝の中に足を入れた。浅い。足の裏側は、すぐに底へついた。ぬるぬるして、すべりやすい。深さは膝の下くらいしかない。
壁の中に吸い込まれる溝の口は、横に細長い四角形で、暗い穴になっている。小さかったが、ぼくなら通れるはずだった。ぼくはクラスの中で、一番、体が小さい。
溝が壁の中で四角いトンネルのように続いている。水面に顔を近づけて、先がどうなっているのか見ようとした。そうした拍子に、ぷんと悪臭が鼻をつく。溝のトンネルがその先どうなっているのかは、よくわからなかった。実際にもぐってみるしかない。
壁の中に続くトンネルの中で体が引っかかったら、戻ることができなくて危ないかもしれない。そう考えて、姉はぼくの服の上下と二人分のベルトを繋いでロープを作っていた。それを靴紐でぼくの片足に結びつけ、危なそうだったら引っ張ってぼくを助けるという計画だった。
「どっちに行けばいいの?」
ぼくは、左右の壁を見て姉に尋ねた。溝を流れる水流の上流側と下流側、二つの穴が左右の壁の中央下部にあいている。
「好きな方を選びなさい。でも、どこまでもトンネルが続いてそうだったら、すぐに戻ってくるのよ」
ぼくはまず上流の方を選んだ。つまり、扉のある壁を正面としたとき、左手の方にある四角い穴だ。壁の近くまで行って、溝の水流に体を沈める。汚れた水が足の方から徐々に体を覆っていく。まるで細かい虫が全身を這い進み、蝕んでいくような気持ちだった。
息をとめ、しっかり目を閉じ、水の流れ出てくる壁の四角い穴に頭から飛び込んだ。狭く、天井は低い。腹ばいになったぼくの後頭部をトンネルの天井が打つ。
コンクリートの四角いトンネルを、ぼくの体がぎりぎりで通りぬける。針の穴に糸を通すようなものだった。水の流れはそれほど速くないので、逆行することはかんたんだった。
幸い、二メートルほど水の流れるトンネルを腹ばいに進んだところで、それまでぼくの頭や背中にあたっていた天井の感触が消えた。溝がどこか広い空間に出たのだと思い、ぼくは水から顔をあげて立ちあがった。
悲鳴が聞こえた。
汚れた水が目の中に入るのがいやだったけど、ぼくは目を開けた。一瞬、もといた部屋に戻ってきたのかと思った。先ほどとまったく同じ、そこは周囲を灰色のコンクリートに囲まれた小さな部屋だった。それに、溝はさらにまっすぐ床の中央を貫いて続いている。ぼくは溝の上流のトンネルに飛びこみ、下流のトンネルから出てきてしまったのだと思った。
しかし違った。姉のかわりに、別の人間がいた。姉よりも少し年上くらいに見える若い女の人で、見たことのない顔だ。
「あなたはだれ!?」
彼女はそう叫び、怖がるようにぼくから遠ざかる。
ぼくと姉のいた部屋から上流の方向へ溝の中を進むと、そこもまた同じつくりの部屋で、人が閉じ込められていた。何から何まで同じで、溝もさらに先へ続いていた。しかも、そのひと部屋だけではなかったのだ。
ぼくは、戸惑っている女の人に、清の下流側の部屋に姉と閉じ込められていることを説明した。それからさらに、足に結んでいたロープを外して上流の方へ向かうことにした。その結果、さらに二つのまったく同じコンクリート製の部屋があった。
つまり、ぼくと姉のいた部屋から溝を遡《さかのぼ》ると、三つの部屋があったわけである。
どの部屋も、一人ずつ人間が入れられていた。
最初の部屋には若い女の人。
その次の部屋には髪の長い女の人。
一番、上流にある部屋には、髪を赤く染めた女の人。
みんな、わけもわからず閉じ込められていた。大人ばかりで、子供なのはぼくと姉だけだった。姉はともかく、ぼくはまだ体も小さいので、姉弟でセットにされて部屋に入れられたのだろう。ぼくは一人分として数えられなかったのだ。
赤く髪を染めた女の人がいた部屋から先には、溝に鉄柵がしてあって進めなくなっていた。ぼくはもとの部屋に戻ると、全部、姉に説明した。
ぼくの体は、乾いても臭いがとれなかった。体を洗う水もない。そのため、部屋はより臭くなったが、姉は不満を言わなかった。
「私たちがいるのは、上流側から数えて四つ目の部屋ということね?」
つぶやきながら、何か考えていた。
部屋はたくさん連なっていたのだ。そしてそれぞれ人が閉じ込められている。それがぼくには驚きだった。心強い気もした。同じ状況の人が大勢いるというのは、慰められているようだった。
それに、みんなぼくを見て、最初は戸惑っていたが、やがて顔を輝かせた。これまで何日も閉じ込められていて、みんな、他人というのを見ていなかったらしい。扉を開けられることもなく、自分が今、どんな状況なのか、壁の向こう側がどうなっているのかも知らなかったのだ。だれも、溝をくぐれるような小さな体を持っておらず、どうすることもできなかった。
ぼくが溝にもぐって部屋を立ち去ろうとすると、またここに戻ってきて何を見たのか説明するようにとみんな懇願した。
だれが自分たちを閉じ込めているのか、みんな知らないのだ。だから、自分はどんな場所に閉じ込められているのか、自分はいつ外に出られるのかということを知りたがっていた。
姉に上流の様子を報告した後、今度は溝の中を下流の方向へ向かった。そこもまた、上流側がそうだったように、コンクリートの薄暗い部屋が連なっていた。
下流へ向かって最初の一部屋目は、他の部屋と同じ状況だった。
姉と同じくらいの年齢に見える女の人が閉じ込められていた。ぼくを見ると驚き、説明を聞くとやがて顔を輝かせた。やはり、みんなと同じように部屋へつれてこられ、わけもわからず閉じ込められているそうだった。
さらにその部屋から下流へ向かった。
また四角い部屋に出た。しかし、今度は様子が違っていた。つくりは他の部屋とまったく同じだったが、人がいなかった。空っぽの空間に、電球の明かりだけが弱々しく灰色の箱の中を照らしている。これまでに見た部屋にはかならず人がいたため、部屋にだれもいないというのが不思議な感じだった。
溝はまだ先へ続いている。
空っぽの部屋から、もうひとつ先へ進む。足のロープを持ってくれる人はいなかったけど、気にしなかった。どうせまた下流にも小部屋が並んでいるのだろうと思い、ロープは姉の部屋に置いてきていた。
ぼくと姉のいた部屋から下流へ三つ目の部屋に、母と同じくらいの年齢に見える女性がいた。
溝から立ちあがるぼくを見ても、彼女はさほど驚かなかった。彼女の様子がおかしいことはすぐにわかった。
やつれて、部屋の隅にうずくまり、震えている。母と同じくらいの年齢に見えたのは間違いで、本当はもっと若いのかもしれない。
ぼくは溝の先を見た。壁の下の四角い穴に鉄柵があり、そこから先には行けないようになっている。どうやら下流の終着点らしい。
「あの、大丈夫ですか……?」
ぼくは気になって、女の人に声をかけた。彼女は肩を震わせた。恐怖の眼差しで、水の滴っているぼくを見つめる。
「……だれ?」
魂のほとんど抜けきった力のないかすれた声だった。
他の部屋にいた人の様子と、あきらかに違う。髪はぼさぼさになり、抜け落ちた毛がコンクリートの床に散らばっていた。顔や手が汗で汚れている。目や頬が落ち窪み、骸骨のように見える。
ぼくは彼女に、自分が何者で、何をしているのかを説明した。彼女の暗かった瞳の中に、光が点ったように感じた。
「じゃあ、この溝の上流に、まだ生きた人間がいるのね!?」
生きた人間? ぼくは彼女の話がうまく理解できなかった。
「あなただって見たでしょう? 見なかったはずがないわ! 毎日、午後六時になると、この溝を死体が流れていくのを……!」
ぼくは姉のもとに戻って、まずは溝の先がどうなっていたのかを説明した。
「全部で部屋は七つ連なっていたのね……」
姉はそう言うと、ぼくがいろいろなことを説明しやすいように、それぞれの部屋に番号を割り振った。上流の方から順番に番号をつけると、ぼくと姉のいる部屋は四番目、そしてあの最後の部屋にいた女の人は七番目の部屋にいたことになる。
それからぼくは、七番目の部屋の女性が言ったことを姉に説明するべきかどうか迷った。まに受けて話をすると、ばかげていると思われるかもしれない。そうしているうちに、何かを躊躇っていることが姉に気づかれたらしい。
「まだ何かあるの?」
ぼくはおそるおそる、七番目の部屋の女性が言ったことを姉に話した。
あのやつれきった女性が言うには、毎晩、決まった時刻になると、溝を死体が流れていくそうだ。上流から下流へ、水に乗ってゆっくりと漂って部屋を通り過ぎるという。
なぜ、それらの死体が、溝の狭いトンネルをくぐれるのか、ぼくは話を聞いていて不思議に思った。そもそも七番目の部屋を通る溝の下流側には鉄柵がはまっていて、先に行けないようになっているのだ。死体が流れてくれば、引っかかるはずである。
しかし、やつれた女性は言った。
流れてくる死体はどれも、鉄柵の隙間を通り抜けられるほどに細かく切り刻まれているのだそうだ。だから、たまに柵へひっかかる程度で、ほとんどは部屋を通り過ぎて、流れ去ってしまうという。彼女は部屋に閉じ込められた日から毎晩、死体の破片が水に浮いて横切っていくのを見るのだそうだ。
姉は話を聞いている間、目を大きく広げてぼくを見ていた。
「昨夜も見たって?」
「うん……」
ぼくたちは昨日、死体が溝を流れるのに気づかなかった。いや、気づかないなんてことがあるだろうか。夕方六時には、たしかまだぼくたちは起きていた。溝は部屋のどの位置にいても目につく。何かおかしなものが浮いていれば、不思議に思わないはずがない。
「上流にいた三つの部屋の人も、そんなことを言ってた?」
ぼくは首を横に振った。死体の話なんてしたのは、七番目の部屋にいた、やつれた女性だけだ。彼女だけが、幻覚でも見ていたのだろうか。
しかしぼくには、彼女の顔が忘れられなかった。頬がこけて、目の下にくまを作り、すでに死んでしまった人のように目が暗かった。心底、何かにおびえている人の表情だったのだ。他の部屋に閉じ込められている人とあのやつれた女性とでは、どこかがあきらかに違っていた。彼女は何か特別な悪い体験をしているに違いないと思った。
「その話、本当だと思う?」
姉に尋ねると、わからない、というふうに首を振った。ぼくは不安でしかたなかった。
「……時間がくれば、きっとわかるわよ」
ぼくと姉は部屋の壁に体を預けて座りこみ、姉の腕に巻かれている時計で午後六時になるのを待った。
やがて、腕時計の長針と短針が一直線に並び、『12』と『6』を結ぶ。銀色の針は部屋の電球の光を反射して、時間がきたことを告げた。ぼくと姉は、息をつめて溝を見つめた。
扉の向こう側に、だれかの行き来する気配がある。ぼくと姉はその気配にそわそわさせられた。聞こえる足音と、この時刻であることとの間に、何か関係があるのだろうか。しかし、声をかけても無駄だと思ったのか、姉は扉の下の隙間から歩いている人物に呼びかけたりはしなかった。
どこか遠くで機械の唸る音が聞こえる。でも死体なんて流れてこなかった。ただ、濁った水に無数の死んだ羽虫が浮いているだけだった。
●三日目・月曜日
目が覚めると朝の七時だった。扉の下の隙間に、食事の食パンが差し込まれている。一日目の食事以来、部屋に置いたままになっていた水の入っていた皿は、昨日、隙間から外に出しておいた。それがよかったのか、今日は水がもらえた。おそらくぼくたちをここに閉じ込めている人物は、朝食のパンをみんなに配る際、水の入ったヤカンをいっしょに持ち歩いているのだろう。一枚ずつ食パンを隙間へ差し込むたび、扉の下から出された皿の中へ水を入れていく。顔も知らないその人物がそうして七つの扉の前を歩いている場面を、ぼくは想像した。
姉が食パンを二つに裂き、大きな方をぼくにくれた。
「お願いがあるわ」
姉は、またぼくに溝の中を移動してみんなに話を聞いてきてほしいと言った。ぼくは二度と溝にもぐるのはいやだったが、そうしないならその食パンを返せと姉が言うので、従うことにした。
「みんなに聞くことは二つあるわ。何日前に閉じ込められたのかということと、溝の中を死体が流れるのを見たかどうか。以上のことをたずねてきてちょうだい」
ぼくはそうした。
まずは上流の三つの部屋へ向かう。
ぼくの顔を見ると、みんな、ほっとした表情になった。姉に頼まれた質問をみんなにした。
窓も何もない空間なので、自分がどれくらいの間ここにいるのかを知ることは難しそうに思えた。しかし、それぞれ何日間ここに閉じ込められているのかを把握していた。時計をもっていない人もいたが、食事が一日に一回、運ばれてくるため、その回数を数えていればいいのだ。
次に下流へ向かう。そこでおかしなことになっていた。
五番目の部屋は昨日通り、若い女の人がいた。
しかし、昨日、空っぽだった六番目の部屋には、はじめて見る女の人が入っていた。彼女は、溝の中から現れたぼくを見ると悲鳴をあげ、泣き叫んだ。ぼくを怪物のように思ったらしく、説明するのに手間取った。ぼくもここに閉じ込められていて、体が小さいために溝の中を移動できるのだということを説明すると、理解してもらえた。
彼女は昨日、気づくとこの部屋の中にいたらしい。土手をジョギングしていたのだが、道に駐車している白いワゴン車の脇を通りすぎた瞬間、頭を何かで殴られて、気を失ったのだそうだ。まだ殴られたところが痛むのか、彼女は頭を押さえていた。
ぼくは七番目の部屋へ向かった。そこでもまた、考えていなかったことが起きた。
昨日はやつれた女性がその部屋にいて、溝を死体が流れていくと話していた。しかし、その女性がどこにもいない。部屋の中から消えて、ただコンクリートの無表情な冷たい空間があるだけだった。電球が空っぽを照らしていた。
不思議なことに、昨日、ここへきたときよりも部屋の中が綺麗な気がした。人間が閉じ込められていたという気配があまりない。壁や床には少しも汚れた様子がなく、平らな灰色の表面にただ電球の作る明るい部分と暗い部分があるだけだった。
昨日、ぼくがここで見た女性は錯覚だったのだろうか。それとも、部屋を間違えているのだろうか。
四番目の部屋に戻り、見聞きしたことをすべて姉に説明した。
姉がぼくの口を使って言わせた一つ目の質問には、みんなそれぞればらばらな答えが返ってきた。
一番目の部屋にいた髪を染めた女の人は、閉じ込められた状態で今日、六日目を迎えたそうだ。六回、食事を与えられたので間違いないという。
二番目の部屋にいた女の人は五日目、三番目の部屋の女性は四日目、そして四番目の部屋にいるぼくと姉は、部屋で目覚めて三日目だ。
さらに下流にある五番目の部屋の女性は二日目。そして昨夜、部屋の中で目覚めたという女の人は、今朝の食事がはじめてだったので、一日目だ。
七番目の部屋にいた人は、何日間、閉じ込められたのだろう。尋ねる前に消えてしまった。
「……外へ出られたのかな?」
姉に尋ねると、わからない、という答えが返ってきた。
二つ目の『死体が流れていくのを見たことがあるか』という質問に対しては、だれもが首を横に振った。溝を流れる死体なんて見た人間は、だれもいなかったのだ。それどころか、ぼくの質問を聞いた瞬間、不安そうな顔をした。
「なんでそんな質問をするの?」
どの部屋の女の人も、そう問い返した。ぼくが何か特別な情報を持っていてそんな質問をしているのだと思ったようだった。それは実際にその通りなのだ。みんなはぼくのように他の部屋の情報を知ることができない。だから、いろいろなことを想像するしかない。ただ閉じられた空間の中で、壁の向こう側はTV局や遊園地なのかもしれないと思い巡らして時間をつぶすしかないのだ。
「後で説明します……」
ぼくは、早くみんなに質問してまわりたくて、そう短く切り上げた。
「だめ、ここは通さないから。それともあなた、ここにわたしを閉じ込めている人の仲間なの? 他にも部屋があって人が閉じ込められているって話、嘘なのね?」
一番目の部屋から立ち去ろうとしたとき、その部屋にいた人だけはそう言って溝の中に入ると、下流側の壁を背にして直立した。ちょうど溝のトンネルを足で塞《ふさ》いだ格好になる。そうされるとぼくは帰れなかった。
しかたなく、昨日、七番目の部屋で聞いたことと、姉の命令でみんなに質問してまわっていることなどを話した。彼女は顔を蒼白にしながら、馬鹿ね、そんなはずないじゃない、と言ってぼくに道をあけてくれた。
結局、だれも死体が流れるところを見たことがないということは、やっぱり七番目の部屋にいた人は夢でも見ていたのだろうか。そうだといい。ぼくはそう思った。
そもそも、七番目の部屋にいたやつれた女性は、毎日、決まった時刻に死体が流れていったと言う。でも、これまで何日も閉じ込められていた上流にいた人たちは、死体なんて見ていないそうだ。わけがわからない。
ぼくはため息をつき、溝の中に入って汚れた体を、以前に作ったロープで拭いた。ぼくの上着やズボンはすべてロープにしてしまい、そのままだったから、これまでずっとパンツだけで過ごしていた。それでも部屋は生暖かいので、風邪をひくことはなかった。ロープはとくに使い道もないまま、部屋の片隅に放置して時々ぼくの体を拭くタオルのかわりになっていた。
膝を抱えた状態で寝転がる。剥き出しのコンクリートの床は、肋骨が硬い床の表面に当たって寝転がるには痛かった。でもしかたない。
それから、こんな不確かなわけのわからない情報も、他の部屋にいるみんなに伝えてまわるべきだと思った。みんな、自分に見える範囲のことしか知り得なくて、怖がっている。
でも、話を聞いてさらにわけがわからなくなるかもしれないと考えると、話していいのかどうか迷う。
部屋の隅に座っている姉が、壁と床の境目あたりを凝視していた。ふと、手で何かをつかむ。
「髪の毛が落ちてたわ」
姉が、長い髪の毛を指先につまんで垂らしながら意外そうに言った。なぜ、あらためてそんなことを言うのか、ぼくにはわからなかった。
「これを見て、この長さ!」
姉は立ちあがり、拾った髪の毛の長さを確かめるように、端と端をつまんで掲げた。五十センチはあった。
ようやく、ぼくは姉の言いたいことがわかった。ぼくと姉の髪の毛は、そんなに長くないのだ。ということは、床に落ちていたのは、ぼくたち以外のだれかの毛髪だということだ。
「この部屋、私たちがくる前にだれかがつかっていたんじゃないかしら?」
姉は顔を青くして、うめくように言葉を吐き出す。
「きっと……、いえ、たぶん……。馬鹿げた推測かもしれないけど……。あなたも気づいたでしょう? 上流にある部屋の人のほうが、閉じ込められている期間が長いのよ。それも、ひとつ部屋がずれると、一日、多く閉じ込められている。つまりね、端にある部屋から順番に人が入れられていったということなの」
姉はあらためて、それぞれの部屋にいる人の、閉じ込められた期間の違いに注目していた。
「それじゃあ、それ以前はどうだったのかしら?」
「人が入る前? 空っぽだったんじゃない?」
「そう。空っぽだったのよ。それじゃあ、その前は?」
「空っぽの前は、やっぱり空っぽだったんだよ」
姉は首を横に振りながら、部屋の中を歩き回った。
「昨日を思い出して。昨日の段階で、私たちはこの部屋で目覚めて二日目だった。ひとつ下流にある五番目の部屋の人は一日目だった。六番目の部屋は、ゼロ日目と考えて、空っぽだった。でも、七番目の部屋の人は? その並び順で考えれば、マイナス一日目の人が入れられているはずでしょう? あなた、マイナスって数字は小学校でならった?」
「それくらい知ってるさ」
しかし、話がややこしくてわからなかった。
「いい? 連れてこられてマイナス一日目の人なんていないのよ。その人は、わたしの勝手な推測だけど、昨日の段階で連れてこられて六日目の人だったのよ。一番目の部屋にいた人が閉じ込められる前日に、その人は連れてこられていたの」
「それで、今どこにいるの?」
姉は歩き回るのをやめて口籠《くちご》もり、ぼくを見た。一瞬、躊躇ってから、おそらくもうこの世にいないのだということをぼくに説明した。
昨日はいた人が消え、空っぽの部屋に人が入る。ぼくは、溝の中を移動して見てきた部屋ごとの違いを、姉の言ったことに照らしあわせて考えた。
「一日たつと、人のいない部屋が下流の方向へひとつずれる。それが下流まで行ってしまったら、また上流の部屋からやり直し。七つの部屋は、一週間を表しているんだわ……」
一日に一人ずつ、部屋の中で殺されて、溝に流される。その隣の空っぽだった部屋には、人が入れられる。
順番に殺されて、また人は補充される。
昨日、六番目の部屋に人はいなかった。今日はいた。人がさらわれてきて、補充された。
昨日、七番目の部屋に人はいた。今日はいなかった。消されて、溝に流された。
右手の親指の爪を噛みながら、姉は忌まわしい呪文のようにつぶやいていた。目の焦点はあっていなかった。
「だから、七番目の部屋の人は、溝に死体が流れて過ぎるのを見ることができた。だって、この順番で部屋に人が入れられるのであれば、死体が溝に流されても、その部屋より上流の方にいては見ることはできない。こう考えれば、七番目の部屋にいた女の人の話が、夢や幻覚じゃなかったと考えることができるわ。つまり彼女が見たのは、以前に他の部屋へ入れられていた人の死体だったんだと思う」
昨日の段階で、死体が流れるのを見ていたのは、七番目の部屋にいた女性だけだったのだ。そう姉は説明してくれた。ぼくはややこしくてよくわからなかったけど、姉の言っていることは正しいように思えた。
「私たちが連れてこられたのが金曜日、その日に五番目の部屋にいた人が殺されて流された。一晩あけて土曜日、六番目の部屋の人が殺されて、五番目の部屋に人が入れられた。あなたが見た空っぽの部屋は、中にいた人が殺された後だったんだ。そして日曜日、七番目の部屋の人が殺された。ここで溝を監視していても、当然、死体は見えなかったはずだわ。上流には流れてこないのだから。そして今日、月曜日……」