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作者:日-乙一 当前章节:15362 字 更新时间:2026-6-23 07:47

 一番目の部屋の人が殺される。

 ぼくは急いで一番目の部屋へ行った。

 髪を染めた女の人に、姉の考えたことを説明した。しかし、彼女は信じなかった。顔を引きつらせながら、そんなことあるはずないでしょう、と言った。

「でも、一応ってこともあるから、なんとかして逃げださないと……」

 しかしどうやって逃げればいいのか、だれにもわかっていなかった。

「私は信じないわ!」彼女は怒ったようにぼくへ叫んだ。「一体なんなのよこの部屋は!」

 ぼくは溝の中を、姉のもとまで戻った。途中、ふたつの部屋を通り抜けないといけない。そのとき、それぞれの部屋にいた人に声をかけられ、何があったのかとたずねられた。しかし、話をしていいのかどうかわからなかった。結局、何も伝えないまま、すぐにまた戻るからと言って姉のもとへ向かった。

 姉は部屋の隅で膝を抱えていた。ぼくが溝からあがると、手招きした。溝の水で体中が汚れているのにも構わず、姉はぼくを抱きすくめた。

 姉の腕時計で午後六時。

 溝を流れる水に、赤みが差した。ぼくと姉が話もせず見つめていると、溝の上流側の四角い口から、白いつるりとした小さなものが漂ってきた。最初は何かわからなかったが、それが水面で半回転したとき、並んでいる歯が見えて、下顎の一部だとわかった。それが浮いたり沈んだりしながら部屋の中を通りすぎ、下流側の穴へ吸いこまれていく。やがて耳や指、小さくなった筋肉や骨が次々と流れてきた。切断された指に、金色の輪がはまっている。

 染めた髪の毛の塊が流れていく。よく見るとそれらは、ただ髪の毛がからまっているわけではなく、髪の生えた頭皮ごと流れているのだと気づく。

 一番目の部屋の人だ、とぼくは思った。濁った水に乗って流れていく無数の体の切れ端は、とても人間だったものとは思えず、ぼくはただ不思議な気持ちにさせられた。

 姉は口元を押さえてうめいた。部屋の隅に吐いたが、ほとんど胃液だけだった。話しかけたけど答えてくれず、姉は放心したように黙りこんでいた。

 薄暗くて陰鬱《いんうつ》なこの四角い部屋は、ぼくたちをそれぞれ一人ずつにわけ隔てる。充分に孤独を味わわせた後に、命を摘み取っていく。

「一体なんなのよこの部屋は!」

 そう一番目の部屋の人は叫んでいた。震えるようなその叫び声が頭にこびりついて離れない。そしてこの固く閉ざされた部屋は、ただぼくたちを閉じ込めているという以上の意味を持っているように感じられてくる。もっと重大な、人生とか魂といったものさえ閉じ込め、孤立させて、光を剥ぎ取っていくように思えた。まるで魂の牢獄だ。これまで見たことも体験したこともない本当の寂しさや、もう自分たちには未来などないのだという生きることの無意味さをこの部屋は教えてくれる。

 姉が膝を抱えて体を丸め、むせび泣いていた。ぼくたちの生まれるずっと昔、歴史のはじまる以前から、人間の本当の姿はこうだったのかもしれないと思った。暗く湿った箱の中で泣いているような、今の姉のようだったのかもしれない。

 ぼくは指を折って数えた。ぼくと姉が殺されるのは、閉じ込められて六日目の、木曜の午後六時のはずだった。

●四日目・火曜日

 何時間もかけて、溝の水から赤い色が消えた。その直前、石鹸でたてられたような泡が水面に浮かんで流れていったので、もしかするとだれかが上流の部屋を掃除しているのかもしれないと思った。人を殺せばきっと血が出る。それを洗い流しているのだ。

 姉の腕時計の針が深夜十二時を過ぎ、ぼくたちがここへ連れてこられて四日目、火曜日が訪れる。

 ぼくは溝に潜り、上流にある一番目の部屋に向かった。

 途中の部屋にいる二人は、溝を流れすぎたものの説明をするようぼくに迫った。ぼくは、後で、と言ってまずは一番目の部屋に急ぐ。

 やはり、昨日までいたはずの女の人が消えていた。部屋の中は洗い流されたように綺麗だったため、予想した通りだれかが掃除したのだろうと思った。それがだれなのかはわからない。でも、きっとぼくたちをここに閉じ込めている人なのだろうと思う。

 姉が部屋の中で見つけた長い髪の毛は、やはりぼくたちが連れてこられる前に、あの部屋にいて殺された女性のものだったのだ。そして掃除が行なわれた際、偶然、部屋の隅に落ちていた一本だけが石鹸水に流されず残っていた。

 ぼくたちを連れてきて殺しているのは、どんな人なのだろう。だれも顔を見たことはなかった。時折、扉の向こう側を歩く靴音は、きっとその人のものにちがいない。

 その人は、一日に一人ずつ、部屋の中で人を殺す。六日間だけ閉じこめた後、ばらばらにするのがお気に入りなのだ。

 まだ、姿を見たこともない。声さえ聞いたことがない。しかし、確実にその人物はいて、扉の向こう側を歩いている。毎日、パンと水と死を運んでくる。その人が七つの部屋を設計して、順番に殺していくという法則を考え出したのだろうか。

 実際にその人物の姿を見たことがないせいか、とらえどころのない気持ち悪さを感じる。やがてぼくと姉もその人に殺されるのだろう。その直前にしか、はっきりと姿を見る方法はないように思う。

 それではまるで、死神そのものだ。ぼくや姉、他の人たちは、その人物のつくった絶対的なルールの中に閉じ込められていて、死刑が確定してしまっている。

 ぼくは二番目の部屋に移動し、その部屋で六日目を過ごしている髪の長い女の人に、昨日、姉が考えたことを伝えた。彼女は、それが馬鹿げた推測だとは言わなかった。溝の上流から流れてきた一番目の部屋にいた女性の死体を見てしまっていたからだ。そして、薄々、自分が閉じ込められたままもう外に出ることはできないのだということを感じ取っていたらしい。彼女は、話を聞いた後、姉と同じように黙りこんだ。

「……後で、またきます」

 そう言ってぼくは三番目の部屋に向かい、そこでも同じ説明をした。

 三番目の部屋にいた女性は、明日のうちに殺される予定である。これまではいつまで部屋に閉じ込められていなければならないのか、いったい自分はどうなってしまうのか、まったく判然としなかった。それが今では、明確な予定としてつきつけられる。

 三番目の部屋にいた女の人は、口元を押さえ、ぽろぽろと涙をこぼした。

 自分の殺される時間を知る方がいいのか、知らない方がいいのか、ぼくにはよくわからない。もしかしたら、何も知らされないまま、目の前を通り過ぎる死体を見つめて不安に日々を過ごし、ある日突然に扉が開いてまだ見たこともない人間に殺されるほうがいいのかもしれない。

 目の前で泣いている女の人を見ながら、七番目の部屋にいたやつれた女性のことを思い出した。みんな、彼女と同じ表情になる。

 絶望。もう、何日も四角いコンクリートの部屋に閉じ込められていて、これがただのだれかの遊びだったとは考えられない。自分には本当に死が訪れるのだということを、嫌でも気づかされる。

 七番目の部屋にいた女性は、毎日、溝を流れる見知らぬ人間の体の破片を見つめながら、今度は自分かもしれないと考えていたのだろう。彼女には、自分がいつ殺されるのかすら知る方法はなかった。ぼくは彼女の怯えた表情を思い出し、胸が苦しくなった。

 二番目の部屋、三番目の部屋、それぞれの場所で同じ説明を繰り返し、さらに五番目の部屋と六番目の部屋でも同じことをした。

 そして七番目の部屋には、新しい住人が入れられており、溝から上がったぼくをみると悲鳴を上げた。

 四番目の部屋にいる姉のもとへ帰る。

 姉の様子が心配だった。部屋の隅に座ったまま動かない。近づいて腕時計を見る。

 朝の六時だ。

 そのとき、扉の向こう側で靴音が響いた。扉の下の隙間に食パンが一枚差し込まれ、出していた皿に水の注がれる音がする。

 扉の下の隙間からはつねに向こう側の明かりが漏れていて、その周辺だけは灰色のコンクリートの床がぼんやりと白い。そこに今、影ができて、動いている。だれかが扉の前に立っているのだ。

 扉を隔てた向こう側に、これまで多くの人間を殺して、今もぼくたちを閉じ込めている人物がいる。そう考えると、その人物が纏《まと》っている黒く禍々しい圧力が扉をつき抜けてほとんど息苦しいくらいぼくの胸を押さえつける。

 姉が弾かれたように立ちあがった。

「待って!」

 扉の下の隙間に体ごと飛びかかるようにして、唇をつけて叫んだ。必死で隙間に手をねじこむ。しかし入るのは手首までで、腕の途中でつかえてしまう。

「お願い、話を聞いて! あなたはだれなの!?」

 懸命に姉は叫ぶが、扉の向こう側にいた人は、まるで姉などいないように無視して行ってしまった。靴音が遠ざかっていく。

「ちくしょう……、ちくしょう……」

 姉はつぶやきながら、扉の横の壁に背中をあずけた。

 鉄の扉には取っ手がなく、蝶番《ちょうつがい》の場所から考えると、部屋の内側に開くようできている。それが次に開くのは、部屋の中にいるぼくたちが殺されるときなのだろう。

 自分は死ぬのだ、ということを考えた。ここに閉じ込められて、家に戻れないのが怖くて泣いたことは何度もあったけど、殺されるということで涙を流したことはまだなかった。

 殺されるってなんだろう。実感があまりない。

 ぼくはだれに殺されるのだろう。

 きっと、痛いにちがいない。そして死んだら、どうなってしまうんだろう。怖かった。でも、今一番、恐ろしかったのは、姉がぼくよりも取り乱していることだった。不安そうに四角い部屋の四隅に視線を投げかけて体を縮めている姉を見ると、どうしていいのかわからなくなり、ぼくは動揺する。

「姉ちゃん……」

 ぼくは心細くなり、立ったまま声をかけた。姉は膝を抱えた状態で、虚ろな目をぼくに向けた。

「みんなに七つの部屋の法則について話したの?」

 ぼくは戸惑いながらうなずく。

「あなた、残酷なことをしたわね……」

 いけないことだなんて知らなかったから……、そう説明したけど、姉は聞いていないようだった。

 ぼくは二番目の部屋へ向かった。

 二番目の部屋にいる女の人は、ぼくを見ると、安堵するように顔をほころばせた。

「もう、戻ってこなかったらどうしようかと思っていたのよ……」

 弱々しい笑みだったが、ぼくは心の中が温かくなるのを感じた。コンクリートの何もない空間でだれかが笑っている顔なんてしばらく見ていなかったから、彼女のやさしい表情が光とぬくもりをともなって見えた。

 でも、自分が今日中に死ぬことを知っていて、なぜそんな顔ができるのだろうかと不思議に思った。

「さっき、なにかを叫んでたのはあなたのお姉さん?」

「うん、そう。聞こえたの?」

「なんて言ったかまではわからなかったけど、たぶんそうじゃないかと思った」

 それから彼女は、ぼくに故郷の話をした。ぼくの顔が、甥《おい》に似ていると言った。ここへ閉じ込められる前、事務の仕事をしていたことや、休日によく映画を見に行ったことなどを話した。

「あなたが外に出たとき、これを私の家族に渡してほしいの」

 彼女は自分の首にかけていたネックレスをはずすと、ぼくの首にかけた。銀色の鎖で、小さな十字架がついていた。それは彼女にとってのお守りで、ここに閉じ込められてからは毎日、十字架を握り締めて祈っていたそうだ。

 その日、一日かけて、ぼくとその女の人は仲良くなった。ぼくと彼女は部屋の隅に並んで腰掛け、壁に背中をあずけて足をだらしなく伸ばしていた。ときどき立ちあがって身振りをしながら話をすると、天井から下がっている電球が壁に巨大な影を映した。

 音は部屋の中を流れる水の音だけだった。溝を見ながらふと、自分は汚れた水の中をいつも移動しているから、顔をしかめるほど臭いに違いないと思った。それで、少し彼女から体を離して座りなおした。

「なんで遠ざかるの。私だってもう何日もお風呂に入ってないのよ。鼻なんて麻痺《まひ》してるわ。……もしも外に出ることができていたら、真っ先にお風呂へ入って身を清めたかった」

 口元に笑みを浮かべて彼女は言った。

 話をしていても、時々、微笑むことがあった。それがぼくには不思議に思えた。

「……なんで、殺されることがわかっているのに、泣き喚《わめ》いたりしないの?」

 ぼくは困惑した顔をしていたにちがいない。彼女は少し考えて、受け入れたからよ、と答えた。まるで教会にある彫刻の女神みたいに、彼女の顔は寂しげでやさしかった。

 別れ際、彼女はぼくの手をしばらく握り締めていた。

「あったかいのね」

 そう言った。

 六時になる前、ぼくは四番目の部屋に戻った。

 自分の首に下がっているネックレスのことを説明すると、姉はぼくを強く抱きしめた。

 やがて溝が赤くなって、先ほどまでぼくの目の前にあった目や髪の毛が溝を流れて部屋を横切っていった。

 ぼくは溝に近寄り、汚れた水に浮いて流されていく彼女の指を、そっと両手ですくいあげた。最後にぼくの手を握り締めていた指だった。ぬくもりをなくして、小さな破片になっていた。

 胸の中に痛みが走った。頭の中が、溝の水と同様に赤く染まっていく。世界のすべてが真っ赤になり、熱くなり、ほとんど何も考えていられなくなる。

 ふと気づくとぼくは姉の腕の中で泣いていた。姉はぼくの額にはりついて乾いている髪の毛を触っていた。汚い水で濡れた髪の毛は、乾燥するとぱりぱりになった。

「うちに帰りたいね」

 とてもやさしく、灰色のコンクリートに囲まれた部屋には不釣り合いな声で、姉がつぶやいた。

 ぼくはうなずきを返した。

●五日目・水曜日

 殺す人がいて、殺される人がいる。この七つの部屋のルールは絶対だった。本来なら、そのルールは、殺す側の人だけが知っていることで、殺される側のぼくたちは知り得ないことだった。

 でも、例外が起きた。

 ここへみんなを連れてきて閉じ込めている人物は、まだ体の小さなぼくを姉と同じ部屋に入れたのだ。子供だから、一人として数えなかったのだろう。あるいは、姉もまた成人していないので、姉弟でひとつのセットとして考えたのかもしれない。

 ぼくは体が小さかったため、溝の中を移動し、自分たちのいる部屋以外にも他の部屋があることを把握した。そして殺す側の人が定めたルールを推測したのだ。ぼくたちが殺す側のスケジュールを知っていることを、殺す側の人は知らない。

 殺す人と、殺される人、その逆転は絶対に起こったりしない。それはこの七つの部屋では神が定めた法則のように絶対的だった。

 しかし、ぼくと姉は生き残る方法について考え始めた。

 四日目が終わり、五日目の水曜日がやってくる。二番目の部屋から人が消え、一番目の部屋に新しい人が連れてこられる。

 この七つの部屋の法則はその繰り返しだった。もうどれくらい前からそれがおこなわれているのかわからない。溝の中を何人もの死体が通りすぎていったのだろう。

 ぼくは溝のトンネルを行き来して、みんなと話をしてまわる。当然、みんなは元気のない表情をしていた。それでもぼくが部屋を立ち去ろうとすると、また部屋を訪問してほしい素振りを見せた。だれもが部屋にひとりで取り残され、強引に孤独をつきつけられる。それがきっと耐えられないのだ。

「あなただけなら、そうやって部屋を移動し続けていれば、犯人に殺されずにすむわ……」

 ぼくが溝のトンネルに飛びこもうとしているとき、姉が言った。

「私たちを閉じ込めたやつは、あなたがそうやって部屋を移動できるなんて知らないはずだからね。明日、この部屋にいる私が殺されても、あなたは別の部屋に逃げることができる。そうやっていつも逃げていれば、殺されずにすむわ」

「……でも、そのうちに成長して体が大きくなると、溝のトンネルを通れなくなるよ。それに、犯人だって、この部屋に二人を閉じ込めたことくらい覚えてるにちがいないよ。ぼくがいなかったら、きっと探すはずだよ」

「でも、少しの間なら生き延びられるでしょう」

 姉は切羽詰まったように、明日ぼくがそうするようすすめた。しかし、それは時間稼ぎにしか思えなかった。それでも姉は、その間に逃げ出す機会が訪れるかもしれないと考えているらしかった。

 そんな機会などないのだ。ぼくにはそう思えた。ここから逃げる方法など、どこにも見当たらなかった。

 三番目の部屋にいた若い女の人は、死ぬ直前までぼくと話をしていた。彼女は少し変わった名前をしていて、聞いただけではどう書くのかわからなかった。そこで彼女はポケットから手帳を取り出して、弱々しい電球の下で書いて見せた。小さな鉛筆のついた手帳だった。ここへみんなを閉じ込めた人物は、どうやら手帳を取り上げなかったらしく、ポケットの中に入ったままだったそうだ。

 鉛筆の先には無数の歯形があり、芯は不器用に飛び出していた。丸くなった芯を出すため、噛んで木の部分を落としたらしい。

「わたしの両親はね、都会で一人暮らししているわたしにいつも食べ物を送ってくれるの。わたしは一人娘だから、心配なのね。ジャガイモやキュウリの入った段ボール箱、宅配便屋さんが持ってきてくれるんだけど、わたしはいつも会社にいて、受け取れないの」

 彼女は今も自分のアパートの前で、両親の送った荷物を抱え玄関に宅配便屋さんが立っているのではないかと心配していた。話をする彼女の目は、蛆の塊が浮いている溝の濁った水に向けられていた。

「子供のころ、家のそばにあった小川でよく遊んだわ」

 その川は、底の小石まではっきりと見える澄んだ水だったそうだ。ぼくは話を聞いていて、まるで夢の世界のようにその川を想像した。太陽の光が川面に反射し、ゆらいでぽろぽろと崩れて輝くような、明るい世界。頭上高くまで青空が広がっている。重力に反して自分の体がどこまでも上へ上へ落ちていってしまうような、そんな果てしない空だ。

 陰鬱なコンクリートの狭い部屋に閉じ込められ、溝から漂う腐臭と、電球が逆に浮き彫りにする暗闇とに、ぼくはなれはじめていたらしい。ここへくる以前にあったごく普通の世界のことを忘れかけていた。風の吹く外の世界を思い出し、悲しくなった。

 空が見たい。これまでこんなに強く思ったことはなかった。ぼくは閉じ込められる前、どうしてもっとよく雲を眺めておかなかったのだろう。

 昨日、二番目の部屋にいた人とそうしたように、ぼくと彼女は並んで座って話をした。

 彼女もまた、泣き喚いて理不尽さに怒ったりしなかった。ごく普通に、昼下がりの公園のベンチで会話をするように話をした。それは、ここが周囲を灰色の硬い壁に囲まれた部屋だということを少しの間だけ忘れさせてくれた。

 二人で歌をうたいながら、なぜ目の前にいるこの人は殺されるのだろう、とふと疑問に思った。そして、自分も同じように殺されるのだということを思い出した。

 殺される理由を考えてみたが、それは結局、ここに連れてきた人が殺したかったからという、ただそれだけの結論にいつも落ちついた。

 彼女はさきほどの手帳を取り出して、ぼくの手に握らせた。

「あなたがここを出ることができたら、この手帳を両親に渡してほしいの。お願い」

「でも……」

 ぼくが外に出られることなんて、はたしてあるのだろうか? 昨日、二番目の部屋にいた人も、同じようにぼくが外に出ることを期待して十字架のついたネックレスをぼくの首にかけた。しかし、ぼくが外に出られる保証なんてどこにもなかった。

 そう言おうとしたとき、扉の前にだれかの立つ気配がした。

「いけない!」

 彼女は顔を強張らせた。

 ぼくたちは、時間がいつのまにか差し迫っていたことを知った。午後六時がおとずれたのだ。そうなる前にこの部屋から立ち去るはずだったのに、時間の経過を忘れていた。彼女は腕時計を持っていなかったし、いっしょにいる楽しさがぼくを迂闊《うかつ》にした。

「早く逃げて!」

 立ちあがり、ぼくは咄嗟に溝の中に入った。上流の方向へ続く四角いトンネルに飛びこむ。下流の方へ行けば、姉がいる隣の部屋へ行けたはずだったが、上流への穴の方が近くにあったのだ。

 ぼくが穴へ飛び込むと同時に、背後で鉄の重い扉の開く音がした。頭の中が、一瞬、熱くなる。

 ここにみんなを閉じこめた人物が現れたのだ。ぼくはすでにその人物に対して、死ぬ直前にしか姿を見ることがゆるされないような、禁忌の幻想を抱いていた。およそ接近しただけでも指の先から崩れ落ちてしまうような、そんな絶対的な死の象徴として畏怖《いふ》していた。

 胸の動悸が速くなる。

 トンネルを抜け、二番目のだれもいない部屋で立ちあがる。溝の中に立ったまま、深く呼吸した。渡された手帳を、床の上に置く。

 今から三番目の部屋で、ぼくたちを閉じ込めた人物が、彼女を殺すのだ。そう考えて、ぼくはある考えに取りつかれていた。体中が恐怖で震える。それは危険な行為だった。しかし、ぼくはそれを実行しなければならない。

 ぼくと姉は、ここから逃げるのだ。そのための方法を考えているけれど、まだ思い浮かばない。どんな手がかりでもいい、もっと姉は情報を欲しがっていた。ここから這い出て、また空を見るための取っ掛かりを探していた。

 そのためには、これまでそうしたように、まだ謎のまま黒く塗りつぶされている部分をぼくが見て、姉に伝えるしかないのだ。

 謎の部分。それは、ここにぼくたちを閉じ込めた人物の姿、そしてどのように人間を殺しているのかという殺害の手順だった。

 ぼくはもう一度、引き返して、三番目の部屋を覗こうと考えていた。もちろん、あの狭い部屋の中に出てしまっては、たちまち見つかって自分も殺されてしまう。注意深く、溝の中から様子をうかがうだけである。それでも、ぼくは緊張で眩暈がしそうになる。覗いていることがばれたら、明日を待たずに殺されるのだろう。

 溝の下流側、二番目の部屋と三番目の部屋を隔てる壁に、四角い横長の穴がある。たった今、出てきたばかりのそこを前にして膝をついた。水の流れが太ももの裏側に当たり、目の前にある四角い穴へ吸いこまれていく。

 深く呼吸して、音をたてないよう中に入った。水の流れはゆるやかだ。注意していれば、流されることはない。手足をつっぱれば後ろ向きにでも水に逆らって進むことができる。それはこれまでの経験で知っていた。しかしコンクリートの壁は、穢《けが》れた水のせいか、ぬるぬるした膜に覆われて滑りやすくなっている。気をつけなくてはいけない。

 四角いトンネルの中で、水面と天井の間にはほとんど隙間がない。三番目の部屋で何が行なわれているのか見るためには、トンネルの中に潜み、水中で目を開けているしかなかった。

 汚れた水の中でそうすることは気がひけたが、ぼくは目を開けた。

 手足をつっぱって、体をトンネルの中に保ち、三番目の部屋へ出る直前にとどまる。全身の皮膚の表面へ水が絡みつくようにぶつかり、前方へと消えていく。濁った水越しに、ほのかな四角い形の明かりが見える。三番目の部屋にある電球のものだった。

 水流の音に混じり、機械の音がする。

 水の濁りのせいでよく見えないが、黒い人影が動いている。

 ぼくの頬のそばを、何か腐ったものにしがみついた蛆虫の塊が流れて過ぎ去った。

 もっとよく見ようと、ぼくはさらにトンネルの出口付近に近づこうとした。

 手足が滑った。すぐに指先へ力をこめてふんばる。壁に付着していた滑りやすい膜が指をついた部分だけずるずると剥離し、壁に線状の模様ができた。思いのほか水に流されたすえに、体がようやく止まる。頭が、トンネルから出てしまった。

 ぼくは見た。

 さっきまで話をしていた女の人が、血と肉の山になっていた。

 これまで閉まっていたところしか見たことのなかった鉄の扉が開いていた。内側は平らなのに、外側には閂《かんぬき》が見える。みんなを部屋に閉じ込め、死ぬ瞬間まで一人にしておくための門だ。

 男が、いた。人間の死体とも言えないような赤い塊の前に立って、ぼくの方には背中を向けていた。もしも正面を向いていれば、すぐに気づかれていただろう。

 顔を見ることはできなかったが、手に、激しく音を出している電動のこぎりを持っていた。時々、扉の向こう側から聞こえていた機械の音はこれだったのだと気づく。男は棒立ちになったまま無感動に、それを幾度も目の前に突き刺して細かくしている。その瞬間ごとに、ぱっと、赤いものが飛び散る。

 部屋中が、赤い。

 不意に、電動のこぎりの音が部屋の中から消えた。ただ溝を流れる水の音だけが、ぼくと男の間にあった。

 男が、振り返ろうとした。

 ぼくは滑るトンネルの壁に爪をたて、あわてて後退する。男に気づかれてはいないと思う。しかし、一瞬でも遅れていたら目があっていただろう。

 二番目のだれもいない部屋に戻った。しかし、そこも安全とは言えなかった。新しく人が入れられるため、いつ扉が開けられるかわからない。置いていた手帳を拾い、一番目の部屋に向かった。三番目の部屋を通り抜けて姉のいる部屋に行くことは不可能だったからだ。

 一番目の部屋に閉じ込められている女の人のそばに並んで座った。

「何を見たの?」

 ぼくがあまりにもひどい顔をしていたのだろう。彼女は尋ねた。昨晩のうちに連れてこられていた、一番、新しい住人だ。すでにこの七つの部屋の法則は説明していたが、たった今、見たことを説明することができなかった。

 三番目の部屋の女性に渡された手帳を開き、中を読む。水の中をくぐったのでページ同士がぬれてくっつき、めくるのに苦労した。紙はしわくちゃになっていたが、文字は判読できた。

 両親に向けて長い文章が書かれていた。「ごめんなさい」という言葉が繰り返しあった。

●六日目・木曜日

 あの男に会ってしまうのが恐ろしくて、四番目の部屋に戻ることができなかった。一晩、一番目の部屋で過ごした。その部屋にいた女の人はぼくがいることを心から歓迎し、朝食の食パンを多くくれた。それを食べながら、姉が心配しているにちがいないと思っていた。

 ようやく姉のいる部屋に戻る決心がついて、溝のトンネルをくぐると、二番目の部屋に新しく人が入れられていた。最初にぼくを見た人が例外なくそうであるように、その女の人も驚いていた。

 三番目の部屋は空っぽで、血も掃除されていた。ぼくは、昨日いっしょに話をした人の存在を少しでも匂わせるものを探したが、何も見つからない、空虚なコンクリートの部屋だった。

 四番目の部屋に戻ると、姉がぼくに抱きついた。

「見つかって殺されたのだと思ってた!」

 それでも姉は、食パンを食べずにぼくを待っていてくれた。

 今日、六日目の木曜日、ぼくと姉が殺される番のはずだった。

 ぼくは、今まで一番目の部屋にいたことや、食事をわけてもらったことなどを説明した。姉に申し訳なくて、食パンをぜんぶ食べてもいいよぼくはもう食べたから、と言うと、姉は目を赤くして、馬鹿ね、と言った。

 それから、三番目の部屋の人が殺されるとき、溝の中に隠れて犯人の顔を見ようとがんばったことを説明した。

「なんて危ないことするの!」

 姉は怒った。しかし、話が扉のことになると、だまって真剣に聞いた。

 姉は立ちあがり、部屋の壁にはまっている鉄の扉を手で触った。強く、一度だけ拳で叩く。部屋に、重い金属の塊とやわらかい皮膚のぶつかる音が響いた。

 取っ手も何もない扉は、ほとんど壁と同じだった。

「……本当に扉の向こう側は門だったの?」

 ぼくはうなずいた。扉は部屋の内側から見て、右側に蝶番がはまっている。部屋の内側に開き、溝に潜んでいたぼくからはしっかりと扉の表側が見えた。横へスライドするタイプの頑丈そうな門が、確かにあった。

 ぼくはあらためて扉を眺める。壁の中央ではなく、左手よりに扉が取りつけられている。

 姉は怖い顔で扉を睨みつけていた。

 姉の腕時計を見ると、もう昼の十二時だった。夕方、犯人がぼくと姉を殺しにくるまで、あと六時間しかない。

 ぼくは部屋の片隅に座って、渡された手帳を眺めていた。両親のことが書かれていたので、ぼくも親に会いたくなった。みんな、心配しているはずだった。家で夜、眠れないとき、母がよくミルクをレンジで温めてくれたことを思い出す。昨日、汚い水の中で目をあけたためか、涙が流れると痛んだ。

「このままじゃすまさない……、このままじゃ……」

 姉は静かに、憎しみのこもった声を扉に向かってつぶやき続けていた。手が震えていた。振り返ってぼくを見たときの姉の顔は、壮絶で、目の白い部分が獰猛に光っているように見えた。

 昨日までの力がこもっていない瞳ではなかった。まるで何かを決心したような表情だった。

 姉は再度、犯人の体格や持っていた電動のこぎりについてぼくに問いただした。犯人が襲いかかってきたとき戦うつもりなのだ、とぼくは思った。

 男が使っていた電動のこぎりは、ぼくの背丈の半分ほどもあった。地響きのような音をたて、刃の部分が高速で回転する。姉は、そんなものを持った男と、どうやって戦うのだろう? でも、そうしなければぼくたちは死ぬのだ。

 姉は腕時計を見る。

 じきに、あいつがやってきて、ぼくたちを殺す。それが今いるこの世界でのルールなのだ。必ず訪れる、絶対の死。

 姉は、溝をくぐってみんなと話をしてくるようぼくに言いつけた。

 時間はすぐに過ぎ去る。

 溝の中を、これまでどれくらいの人の体が漂って流れたのだろう。ぼくはその穢れた水の中にもぐり、四角いコンクリートの穴を通り抜け、部屋を移動した。

 ぼくと姉のほかに、あの男に閉じ込められているのは五人だった。その中で、溝の水が赤く濁り、かつて人間だったいろいろな破片が流れていくのを見た者は、ぼくたちの部屋より下流にいる三人だ。

 部屋を訪ね、挨拶をする。みんな、今日がぼくと姉の番であることを知っている。口元を押さえて悲しんでくれる。あるいはやがて自分もそうなるのだと絶望した顔をする。ぼくだけでも別の部屋に移動して逃げていればいいとすすめる人もいた。

「これを持って行って」

 五番目の部屋にいた若い女の人は、白いセーターを、パンツだけのぼくに手渡した。

「ここ、曖かいからセーターは必要ないの……」

 そしてぼくを強く抱きしめた。

「幸運が、あなたとお姉さんに訪れますように……」

 そう言うと彼女は喉を震わせた。

 やがて、六時が訪れようとしていた。

 ぼくと姉は、部屋の角に座っていた。扉のあるほうとは反対側の壁と、五番目の部屋を隔てている下流側の壁との、ちょうど角になった部分だ。そこが扉から一番、遠い場所だった。

 ぼくが角に座り、姉はそんなぼくを壁とはさみこむように座っている。ぼくたちは足を投げ出していた。姉の腕がぼくの腕に当たり、体温が伝わってくる。

「外に出たら、まず何をしたい?」

 姉が尋ねた。外に出たら……、そのことはこれまであまりにも考えすぎて、答えがありすぎた。

「わからない」

 でも、両親に会いたい。深呼吸をしたい。チョコレートを食べたい。したいことは無数にあった。たぶん、それが叶《かな》ったら、ぼくは泣き出すと思う。そう姉に伝えると、やっぱり、という表情をした。

 ぼくは腕時計をちらりと確認した。それから、姉が部屋の電球を見ていたので、ぼくもそれを見た。

 この部屋に閉じ込められるまで、ぼくと姉は喧嘩ばかりしていた。どうしてぼくには姉なんて生き物が存在するのだろうかと考えたこともある。毎日、罵り合って、お菓子が一人分だけあれば奪い合った。

 それなのに今こうしていると、ただそこにいるというだけで、力強くなってくる。腕を伝わってくる熱い体温が、この世界にいるのはぼく一人じゃないんだと宣言してくれる。

 姉はあきらかに、他の部屋にいた人たちと違っていた。今まで考えたこともなかったが、ぼくがまだ赤ちゃんのころから姉はぼくのことを知っていたのだ。それは特別なことのように思う。

「ぼくが生まれてきたとき、どう思った?」

 そう質問すると、姉は、急に何を言い出すのだろう、という顔でぼくを見た。

「何これ、って思ったわ。最初に見たとき、あんたはベッドの上にいたのよ。とても小さくて泣いていたの。正直、私に何か関係あるものだとは思えなかったわね」

 それからまた、しばらく沈黙する。会話がないのではなかった。電球が淡く浮かび上がらせるコンクリートの箱の中、水の音だけが静かに流れて、とても深い部分でぼくと姉は言葉を交わしていた気がした。死ぬ、ということが隣り合わせに迫っている中で、心の中が冷静に、まるでゆらぎもしない静かな水面のようになっていく。

 腕時計を見る。

「用意はいい?」

 姉が深呼吸して、聞いた。ぼくはうなずき、神経を張り詰める。もうすぐだった。

 溝の中をただ水が流れている。その音のほかに何かが聞こえないか、ぼくは耳をすませた。

 その状態で数分が過ぎたとき、遠くから、いつも聞こえていた靴の音がぼくの鼓膜を小さく震わせた。姉の腕を触り顎をひいてもう時間なのだということを伝えた。ぼくが立ちあがると、姉も腰をあげる。

 靴音がこの部屋に近づいてくる。

 姉の手がやさしくぼくの頭に載せられ、親指がそっと額に触れた。

 静かな、それは別れの合図だった。

 姉の下した結論。それは、電動のこぎりを持った男と戦っても、所詮《しょせん》は勝ち目がないということだった。ぼくたちは子供で、相手は大人だったのだ。それは悲しいことだけど、事実だった。

 扉の下の隙間に影が落ちる。

 ぼくの心臓は破裂しそうだった。喉の奥から体内にあるすべてのものが逆流するように思えた。心の中が、悲しみと恐怖でいっぱいになる。ここに閉じ込められてからの日々が頭の中に蘇り、死んでいった人たちの顔や声が反響する。

 扉の向こう側で、閂の抜かれる音。

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