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作者:日-乙一 当前章节:15559 字 更新时间:2026-6-23 07:47

 姉は、扉から一番離れた部屋の角を背にして、片膝をついて待ち構えている。ちらりと、ぼくのほうを見た。これから死が訪れる。

 鉄の扉が重く軋み、開かれると、男が立っている。部屋に入ってきた。

 しかしぼくには、顔がよく見えない。ぼんやりと、その男は影のようにぼくの目には映った。死を司《つかさど》り、運んでくるただの黒い人影である。

 電動のこぎりが始動する音。部屋中が激しく震動するような騒々しさに包まれる。

 姉は部屋の角で両腕を広げ、背後を決して見せまいとする。

「弟には指一本、触らせない!」

 姉が叫ぶ。でも、ほとんどその声はのこぎりの音でかき消された。

 ぼくは恐ろしくて、叫び出したかった。そして、殺される瞬間の痛みを想像した。激しく回転する刃に削られるとき、何を考えさせられるのだろう。

 男は、姉の体の陰から見え隠れしているぼくの服を見た。のこぎりを構えて、一歩、姉に近づく。

「こないで!」

 姉は両腕を突き出し、背中をかばって叫んだ。あいかわらず声はかき消されたが、そう叫んだはずだった。なぜなら事前に、そう言うことを決めておいたからだ。

 男がさらに姉へ近づき、回転するのこぎりの刃を姉の突き出した手にぶつけた。

 一瞬、血のしぶきが空気に撒《ま》き散らされる。

 もちろん、すべてはっきりと見えたわけではなかった。男の姿も、姉の手が破裂する瞬間も、ぼくにはぼんやりとしか見えなかった。なぜなら濁った水越しにしか、部屋の中の様子を見ることができなかったからだ。

 ぼくは隠れていた溝のトンネルから這い出し、犯人が開け放していた扉から出た。扉を閉めて、閂をかける。

 部屋の中にあった電動のこぎりの音が、扉にはさまれて小さくなる。部屋の中には、姉と、犯人の男だけが残った。

 姉がぼくの頭に手を載せ、親指でそっと額に触ったときが、ぼくたちの、別れの合図だった。ぼくは次の瞬間、急いで溝の上流側のトンネルに足から体を潜ませていた。上流側に隠れたのは、下流側よりも扉に近かったからだ。

 姉の考えた賭けだった。

 姉は部屋の角で、ぼくの服だけを背中にかばうようにして犯人をひきつける。その間にぼくは、扉から出る。ただそれだけだ。

 ぼくの服は、本当に中身があるようにみせかけなければいけなかった。そのため、みんなからそれぞれ服をわけてもらい、中につめた。本当に小手先の騙しで、通じるのかどうか不安だったけど、数秒間ならきっと大丈夫だと姉は勇気づけた。ぼくをかばうように演技しながら、姉はその服のかたまりをかばっていたのだ。

 姉は、扉から一番、遠い位置で構え、犯人をおびき寄せる。溝のトンネルから這い出すぼくの方を犯人が見ないように注意もひきつけておく。

 犯人が姉にのこぎりの刃を当てようと充分に近づいた瞬間、ぼくは溝から出て、立ちあがり、扉から出る……。

 閂をかけた瞬間、全身が震えた。殺されようとする姉を残して、ぼくは一人だけ、外に出たのだ。姉はぼくを逃がすために、あの電動のこぎりから逃げ惑うことなく、部屋の角で演技し続けたのだ。

 閉ざした扉の向こう側で、電動のこぎりの音がやんだ。

 だれかが内側から扉を叩く。姉の手は切られたから、きっと、犯人の男だろうと思った。

 もちろん、扉は開かない。

 中から、姉の笑い声が聞こえた。高く、劈《つんざ》くような声だった。いっしょに閉じ込められて戸惑っている犯人へ向けた、勝利を示す笑い声だった。

 それでも姉は、おそらくこの後で男に殺されるのだろう。二人だけで部屋に閉じ込められたのだから、これまでにない残忍なやりかたで、殺されるにちがいない。それでも姉は、ぼくを外に逃がすことで、犯人を出し抜いたのだ。

 ぼくは両側を見た。おそらくここは地下なのだろう。窓のない廊下が続いている。一定の距離をおいて、暗闇を照らす電灯と、閂のかけられた扉が並んでいる。扉は全部で七つあった。

 四番目以外の扉の閂を外して開けていった。三番目の部屋にはだれもいないはずだったが、同じように開けた。その部屋でも多くの人が殺されたのだから、そうしなければいけない気がした。

 中にいた人々は、それぞれぼくの顔を見て、静かにうなずいていた。だれひとり、素直に喜ぶ人はいなかった。この計画のことは、みんなに話している。ぼくが外に出ることができたということは、今、この瞬間に姉が殺されかけているということだ。それを、みんなは知っている。

 五番目の部屋から出た女の人は、ぼくを抱きすくめて泣いた。それからみんなで、ただひとつ閉ざされたままの扉の前に集まった。

 中から、まだ姉の笑う声が聞こえてきた。

 電動のこぎりの音が再開する。男は、鉄の扉をのこぎりで切ろうとしているのか、金属の削れる音が響く。しかし、扉が切断される様子はない。

 扉を開けて姉を助けようと言うものはだれもいなかった。事前に、姉がぼくの口を使ってみんなに説明していた。きっと犯人から返り討ちされるだけだろうから、部屋から出られたらすぐに逃げなさい、と。

 ぼくたちは、姉と殺人鬼の閉じ込められた部屋を残して立ち去ることにした。

 地下の廊下を抜けると、上りの階段が見えてくる。それを上がったところは太陽の輝く外の世界のはずだ。薄暗く、憂鬱《ゆううつ》で、寂しさの支配する部屋からぼくたちは脱出するのだ。

 ぼくは涙がとまらなかった。首から十字架のついたネックレスを下げ、片手に両親への謝罪が書かれた手帳を持っている。そして手首には、姉の形見である腕時計をはめていた。防水加工されていない腕時計で、水の中に隠れたとき、壊れてしまったのだろう。針はちょうど午後の六時を指したまま動くのをやめていた。

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 落ちる飛行機の中で

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「ちょっとおたずねしますが、あなたはノストラダムスの予言を信じていましたか?」

 そう話しかけられたので、私は窓の外に浮かんでいる雲から目を離した。話しかけてきたのは右隣の座席に腰掛けていた男だった。灰色の地味な背広を着ており町を歩けば五分で五人はすれ違うようなタイプの人だった。年齢は三十歳ほどで私と同年代だろうと思った。

「予言って、あれですか、一九九九年に世界が滅ぶというやつ」

 聞き返すと男は頷いた。

「知っていますよ。子供のころはやりました。でも……、失礼ですが……」

 私は座席の間から通路の先を見た。

「こんなときに話をするなんて不謹慎ではありませんか」

「こんなときだから話をするのですよ」

 座席は一人掛けのものが三つ横に並んでくっついたような形だった。私は窓際に、男は真ん中に腰掛けており、通路に面した椅子は空のままだった。

「もしかしてナンパですか」

「違いますよ。私は結婚しているんですから。……妻とは離れて暮らしていますけれど」

 男は軽く肩をすくめた。

「ところでノストラダムスの予言です。私ね、信じていたんですよ。一九九九年に絶対、人類は滅ぶ。自分は死ぬんだって」

「同じです。その予言のことを知ったのは小学生のときだったんですけど、怖くて眠れませんでしたね。本当に真剣に自分や両親が死ぬことを考えさせられましたもの。それまでは、死ぬことなんて他人事《ひとごと》でした。私、一九九九年に二十一歳になる計算だったんですけど……」

 男は眉を上げて小さく驚いた。クイズ番組の司会者のような仕草をする男だった。

「じゃあ私と同い年だ。同学年ですね」

「そうなんですか。私、二十一歳までの人生設計しか描けなかったですね」

「結局、滅びなかったですね、世界。オーバーかもしれませんが、あれ以降、余生という感じがしますよ」

 男はため息を吐《つ》くような感慨深い声で言った。私たちは飛行機の最後尾に位置する座席にこしかけていた。私の左側にある四角い窓から青空が見えた。眼下に平たい雲が一面に敷き詰められて大陸の上に羊の群れが押し寄せているようだった。まるで天国のように平和な景色だった。

「この体勢もちょっと疲れてきましたね」

 男は苦笑しながら言った。私たちは腰を折り曲げて前かがみになり座席の陰に隠れるような格好をとっていた。その状態でお互いの肩を寄せ合い声を潜めて会話をしていた。常に背中を曲げた格好のため背骨が軋むようだった。

「思い切り背伸びしたいですが、まあ、仕方ないですよ」

 私の言葉に彼も同意した。彼は座席の隙間に顔をつけた。座席の隙間からは角度的にちょうど通路の先が見えるようになっていた。彼はその状態を保ったまま言った。

「私はね、この飛行機に乗る前からずっと考え続けていたんです。ノストラダムスの予言が外れた一九九九年以降に生まれてきた子供たちは、死ぬということをどう受け止めるのだろうって。絶対に私たちとは死生観に違いがあるはずですよ。一九九九年より前に物心のついた私らは、子供のころ、どんなに楽しく過ごしていてもまるで呪いのようにあの予言が付きまとってすっと影が差し込んできていたんです。滅ぶわけがないと思っていた子だって、もしかしたら、という気持ちがどこかにあったはずです。でも予言の外れた後に物心ついた子供たちは違うでしょうね。世界が滅んだり、自分が死んだり、といったことを考える機会なんてないんじゃないかって」

「あら、それはどうかしら。交通事故も多いし、環境問題も深刻化してるし、ノストラダムスの予言で死ぬことを無理やり考えさせられなくても、大人へ成長する過程でいつか自然にそういうことって考えるんじゃないかしら。そうであってほしいです」

 男は私を一瞬だけ見た。

「なるほどね。あなたの言うとおりかもしれない」

 彼はそう言うと再び座席の隙間から前方を窺《うかが》い口元に自嘲気味の笑みを浮かべた。わずかに飛行機が傾いて、同時に空き缶の転がる音が聞こえてきた。さきほどから傾くたびに、空き缶が通路を行ったりきたりしていた。

「しかし、まさか自分が飛行機の墜落で死ぬことになるとは予想もしなかったですよ。あなた、想像しましたか。これから一時間後に、これ、どこかへ落ちるそうですよ」

「困ります。私にはやろうと思っていたことがあるんですから。墜落で死ぬなんて……、ねえ……、気が進みませんよ……」

 私は肩をすくめるとこころもち頭を上げて前の座席の背もたれ越しに前方を確認した。今が正月やお盆だったら機内は満員だったかもしれないが、座席は半分ほどが埋まっている程度だった。座席に挟まれた通路にあいかわらず犯人は拳銃を手にして立っていた。

 飛行機がハイジャックされたのは、三十分前の離陸直後だった。前の方の席に腰掛けていた大学生風の男の子が立ち上がり荷物の棚から何かを取り出したのがはじまりだった。それを見咎めたスチュワーデスが近寄って危ないですからお座りくださいと言ったところ、男の子は棚のバッグから拳銃らしきものを取り出してスチュワーデスにつきつけた。

「ほっといてください。ほっといてください。僕のことなんか僕のことなんか」

 男の子はそんなわけのわからない言葉を発した。毛玉や糸くずのついた古いセーターの上に染みのある白色のコートを着ていた。髪の毛は天然パーマでくるくる巻いており寝癖が一本だけアンテナのように立っていた。拳銃を持つ彼の手は小刻みに震えて、どうしても拳銃が本物ではなく水鉄砲かなにかに見えた。

「ほっとけません。仕事ですから!」

 スチュワーデスにも拳銃が玩具に見えたらしく彼女は銃口を気にせず強い口調で言った。男の子は少したじろいで座りそうになった。そこにスチュワーデスは勝ち誇った表情で追い討ちをかけた。

「だいたいなんなんですかあなたは、ベルトのサインが消えていないのに立ち上がるなんてどうかしてますよ。それになんですかその服。もうちょっとファッション雑誌とか見て勉強したらどうですか。あなたってダサすぎます!」

 そのとき彼らは飛行機内にいる乗客全員の視線を浴びていた。乗客たちはスチュワーデスに叱られる彼を振り返ってにやにやと馬鹿にするような表情をしていた。男の子は恥ずかしそうに顔を伏せて自分の服を見た。その後、あらためてスチュワーデスに銃口を向けなおして拳銃の引き金を引いた。乾いた音が一発だけ機内に響いてスチュワーデスは通路に倒れた。乗客全員の表情が一転して蒼白になった。全員が動けずに見守る中、大学生風の男の子は操縦室の方へ通路を歩いた。

「みんな、動かないでくださいよ。動いたら撃ちますからね。今から機長と話をしてきますからね。本当にご迷惑かけますね」

 彼は歩きながら言った。頭を何度も下げておろおろとしたみっともない歩き方だった。そのとき前の方の席に座っていた男が立ち上がった。スーツを着こなした格好いい男性だった。

「待ちたまえきみ!」

 彼の声は男の子の声よりも凛々《りり》しくてよく通った。男の子は驚いて困惑したように立ちすくんだ。

「な、なんですか?」

「なんですかじゃないよきみ。花火でスチュワーデスさんを驚かせておいて謝りもせずに!」

「そ、そんなこと言われても……」

 男の子はそう言いながら凛々しいその男性を眺めた。

「良いスーツですねえ……。さぞかしいい大学を出ていい会社に入社できたのでしょうねえ……」

 男の子がうらやましそうに言うと、凛々しい男性は鼻をならしてスーツの襟をただした。

「ふん、まあね。私はT大卒業だよきみ。T大というのはつまり東京大学のことなんだがね」

 男の子はいきなり彼にむけて発砲した。そして機内を振り返って他にT大卒業者がいないかを聞いたがだれも手をあげなかった。男の子が操縦室に立ち去ると機内はどよめきはじめた。しばらくして男の子が戻ってくると再び静かになった。

「みなさん、静かに聴いてください。里帰りする人や行楽地に行く人やらでこの飛行機も半分ほど座席が埋まっています。でも、ご迷惑だとは存じ上げますが、この飛行機は目的地を羽田空港からT大の校舎へと変更させていただきました」

 言葉が全員に染み渡るのを待つように男の子は少し間を空けて続けた。

「今から約一時間半後にT大校舎へぶつけます。みなさん、どうか僕と一緒に死んでください。お願いします。五度目の入学試験に失敗してT大に入れなかった僕はもう死ぬしかないんです……」

 大学生風の男の子は、実は大学生ではなかった。無職の男の子だった。飛行機に乗っていた私たち乗客は、そうして彼の自殺へ付き合わされるはめになった。

 ふたたび銃声が聞こえ私と隣の座席に腰掛けた地味なスーツの男は同時に通路の前方を見た。男の子は困惑したように死体を見つめていた。

「ああ、もう、動かないでくださいって頼んだのに、なんで動くんですか……」

 そう言って彼は銃声に耳を塞いだ周囲の客に対してすまなそうに謝った。男の子の隙をついて拳銃を奪おうとする乗客は次々と現れた。彼らは座席から立ち上がると男の子に背後から飛び掛かろうとした。男の子は落ち着かない様子で常に通路を徘徊し、その仕草や表情はいじめてくださいと言わんばかりの頼りなさだった。そのため簡単にやっつけられると乗客のだれもが思っているようだった。腕に筋肉のない私でもそう思えるくらいなので男の子のいじめられっ子的素質は相当なものだった。全身に纏っている「いじめてオーラ」が嗜虐《しぎゃく》心をくすぐるのだ。

 しかし彼に飛び掛かる乗客は、なぜかどこからか転がってくる空き缶で足を滑らせて転んだ。そして男の子に撃たれて動かなくなるのだった。

 空き缶は飛行機が傾くたびに通路を転がって移動した。人を転ばせた後、また転がってどこか座席の間へ入り込んだ。

「あの子は運に守られてますね……」

 隣の男が前の座席の背もたれに隠れて言った。流れ弾に当たらないよう乗客のほとんどが頭を低くしていた。

「みんな、なんで空き缶を踏んじゃうのかしら。きっと、必死だから足元がおろそかになってるのね……」

 隠れて会話していることを犯人の男の子に見咎められたら何を言われるかわからなかった。しかし頭を低くして座席の陰に隠れているかぎり見つかる様子はなかった。

「空き缶で転ばないのは、幽霊のような足のない存在だけですよ。それにしてもまさか他人の自殺につきあわされるなんてね」

「本当にこの飛行機、落ちるのかしら」

「もしもこれが小説だったとしたら、最後に主人公がなんらかのアクションを起こしてあの子をやっつけるのでしょうけれどね」

「私たち助かるの?」

「さあてね。例えば短編集の最後に収録されるような書き下ろし作品だったらそんなまっとうな結末ではないかもしれませんよ。きっと私は落ちると思うな。私ら乗客は全員、落下と、迫ってくるT大校舎とで、狂うような恐怖を味わうのです」

 男は自分の額を人差し指で押さえ嘆くように首を横へ振った。芝居がかった仕草だった。私はため息をついた。ある目的のためにこの飛行機へ乗ったものの、まさかハイジャックされるとは思わなかった。

 乗った飛行機が落ちて死ぬ、という死に方は嫌いだった。子供の頃から私は安楽死に憧れていた。流れ星を見たら『私が死ぬときは眠るようにお願いします、結婚なんていいですから』とお願いしていたほどだった。

「墜落死は気が乗らないです。どうしましょう」

「ええ、そうですとも。おそらく墜落の瞬間、耐え難い苦痛が襲ってきますよ。骨は折れるし、内臓は飛び出すし、炎に焼かれるし、きっと散々な気持ちでしょうね」

「せめてすぐに死んで楽になりたい……」

「甘いなあ!」

 男は勢い込んで言った。それでも男の子に声が聞こえないよう囁き声ではあった。

「すぐに死ぬなんて甘いですよあなた。何があるかわかりません。中途半端に大丈夫で、支柱がお腹に突き刺さったまま数時間も放置されるかもしれませんよ」

 私は痛みで悶える自分を想像した。腋の下に汗が滲みほとんど吐き気がこみ上げてきそうだった。

「私、できることなら安楽死したいです」

 私の困り果てた呟きを聞くと、彼は男の子に聞こえないよう小さく指を鳴らして笑顔になった。

「その言葉を待っていましたよ」

 私は彼から少し身を離して聞いた。

「あなた、いったい何なんですか。こんなときに指パッチンなんて、非常識にも程《ほど》があります」

「失礼。まだ言ってませんでしたね。私、セールスマンなんです」

 男は背広の内ポケットから何かを取り出すと私に顔を近づけた。

「これを見てください」

 男の差し出した手には小さな注射器が握られていた。中には澄んだ透明な液体が入っていた。

「この薬を注射すれば痛みもなくすうっと死ねますよ。在庫はこれ一本きりです。どうです。買いませんか」

 まただれかが立ち上がり男の子の拳銃を奪おうとしたらしく、空き缶の転がる音と銃声が機内に響いた。

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「つまりこの注射、安楽死の薬なんですか?」

「その通りです。飛行機が落ちる前にこれを注射して自殺すれば恐怖も何も感じずに死ねるのです。この状況に最適の商品でしょう。買うなら早くしないといけませんよ」

「なぜです?」

「注射して薬の効果が表れるまでに三十分ほどかかるんです。今から一時間後に墜落するのだとしたら、これから三十分以内に買うかどうかを決めて注射しないと、効果が出てあの世へ行く前にT大を訪問することになるんです。だから早くお決めなさい」

「あなたは死神か何かですか?」

「一介のセールスマンですよ。そんな私がなぜ安楽死の薬を持っているのか不思議そうな顔をしていますね。いいでしょう。話してあげましょう。私ね、これを使って自殺しようと思っていたのです」

 彼は注射器を背広の内ポケットに戻すと遠くを見るような目で話をはじめた。

「私は子供のころからセールスマンになるのが夢だったのです。変わっているでしょう。先生にも言われました。どこが魅力かって、人と話をして商品を売りつけるというちょっと駆け引きじみたところですよ」

「夢がかなってセールスマンになられたのですね」

 男は頷いたが表情は明るくなかった。

「しかし私には才能がなかった。これまで十年近くセールスしてきましたがさっぱり成績が伸びないんです。後輩にも追い越されて会社での私の立場といったら新入社員よりも下なんです。妻は私に愛想を尽かして家を出て行きました。彼女は今、東京の実家にいるはずなんです」

「人生に絶望して死ぬ決意を?」

 彼は頷いた。

「知り合いに話のわかる医者がいて、大金を払って安楽死の薬を入手したんです」

「ひどいお医者さまです」

「高齢でちょっとボケ気味の医者なんですけどね。ともかく安楽死の薬を手に入れた私は、死に場所へ向かうためにこの飛行機へ飛び乗ったんです」

「じゃあ、飛行機を降りたらどこかで注射するつもりだったんですね?」

「あてつけに妻の実家の玄関先で死のうと思ってたんです。妻が外に出ようとしたら私の死体があるわけですから、きっと驚きますよ。困りますよ。きっと近所から白い目で見られるにちがいないですよ」

「なんて迷惑な!」

「ほっといてください。でもその計画も今となってはぽしゃってしまいました。ハイジャックのおかげでね。残ったのは背広に入れておいた注射器だけです。どうですか、買いませんか。こうなったら私の最後の願いは、セールスマンとして人に何かを売りつけることなんです。どうかこの注射器を購入して、私の人生の最後を満足感で満たしていただけませんか」

 雨で濡れそぼった犬のように哀れっぽい目をして彼は言った。私は少し考えた。悪い話ではないように思えた。

「でも、その注射、高いんでしょう? おいくらですか?」

「財布にどれくらい入ってます?」

 私は座席から頭を出さないよう注意しながらハンドバッグから財布を取り出した。広げて彼に中身を見せた。

「一万円札が三枚と、あとは小銭ですか。おや、銀行のキャッシュカードがありますね。口座にはいくら入ってますか?」

「三百万円ほど」

「では、全部をもらうとしたら三百三万円ですか」

「高すぎます。私の全財産ですよ」

「死んだらお金なんてもっていてもしかたないじゃないですか。どうです、私にキャッシュカードをいただけませんか? もちろん暗証番号も教えてください」

「……そうか、わかった。あなたとあの犯人はコンビを組んでいるのね。飛行機内でハイジャックを起こして安楽死の薬を高値で売りつけるという魂胆なのね」

 セールスマンは吹き出した。

「そんな詐欺のために人を殺しますかって」

 彼は通路に倒れたままだれも片付けないスチュワーデスを顎で指し示した。

「……わかりました、あなたの言うことを信じましょう。でも注射器一本と私の全財産とでは釣り合いませんよ。一万円なら買ってあげます。それでも高いくらいですけど」

 本当はすぐにでも手に入れたかった。どうせ死ぬのだからお金など紙くずのようなものだった。彼に銀行のカードを渡したところで、実際にお金を引き出す機会もなく彼は死ぬのだ。彼もまた墜落する飛行機から逃げ出すことなどできないのだから。しかし私にも意地があった。

「三百三万円なんて、とんでもないです。高すぎます」

「あなたはこんな状況で値切るつもりですか! 一万円なんて値段で買われては私の魂は浮かばれません!」

「あなたの魂なんて知りませんよ。私の生きがいは、商品を値切ることだったんですから。毎日毎日、八百屋や魚屋で値切って値切って値切りまくるのが唯一の楽しみだったんです。キャベツに虫食いの穴があるからとか、魚が痩せているとか、そういう難癖をつけて安くすることだけが、一日のうちで他人というものとまともに言葉を交わす唯一の時間だったんです」

「なんだか暗い生活ですね。仕事場で人と話なんてしなかったんですか?」

「しませんね。漫画喫茶でバイトしてましたけど、話しかけられても無視してます。そもそも他人が怖いと思う性質なんです。だからこの年まで結婚もせず一人暮らししてるんですけれど」

「もったいない、こういってはなんですが、あなた、整った顔立ちをしてらっしゃいます」

「そんなこと知ってます」

「……言うんじゃなかった」

「でもトラウマがあって他人が徹底的に怖いんです。特に男性。昔、ある男の人からひどい目にあわされて……」

「ひどい目……?」

「そうです。文章に書いて出版することすら躊躇《ためら》うようなひどい扱いを受けたのです」

 彼が聞きたそうな素振りを見せたので、私は小さな声で高校生のころに受けた仕打ちを話した。私の心と体に傷跡をつけた男の名前や顔ははっきりとまだ覚えていた。

 私の話を聞いたセールスマンは額に汗を滲ませて吐き気をこらえるように口元へ手をあてた。目を赤くして泣きそうな顔をした。

「あなた、それはひどい……。たとえて言うなら、本格推理小説の犯人が若い女性で、その犯行の動機が過去に受けたレイプ事件だったというのと同じくらい暗澹《あんたん》とした気持ちになりました」

「でしょう? 実は先日、私にひどいことをしたその男の住所がわかったんです。ひそかに探偵に調べさせていました。彼は東京に住んでいるそうなんです」

「なんのために住所なんか……」

「決まってるでしょう。復讐ですよ。探偵の話によると、彼は今、奥さんと子供がいるらしいんです。幸福な家庭を作ってるのを黙って見ていられますか。そう思ってこの飛行機に飛び乗ったんです。羽田空港に到着したら、彼の家に行って、彼の目の前で子供を傷つけてやるつもりだったんです」

「あんたこそはた迷惑じゃないですか!」

「ほっといてください。私のことなんかほっといてください」

 再び空き缶の転がる音と銃声が機内に響いた。いちいち座席の陰から頭を出して確認はしなかったが、まただれかが立ち上がって犯人の男の子に飛び掛かろうとして、転がっている空き缶で足を滑らせ返り討ちにあったようだった。

「まあそれはともかく、一万円は安すぎます。値切ることだけが楽しみだったというあなたには申し訳ないですが」

「人生の最後なんですから、そんな足元を見られたような買い物なんてできません。そもそも、お医者さんからいくらで購入したんですか?」

「たった一本の注射を手に入れるために私は医者へ三百万円を払いましたよ。あのボケ医者に。なにせ一般人が使うには違法なものですからね。高くつきました。でも、ちょうどあなたの口座に入っている金額と同じですね。取引としてつりあってるじゃないですか」

「どこまで信じられるものかしら。本当は三百円で買っていたとしても、三百万円だったって言い張ることは可能です」

 セールスマンが嘘をついているかどうか確かめようとして私は彼の目を見た。彼はすぐに目をそらした。まるで母親の財布から小銭を盗んだ子供のようなよそよそしさだった。

「だって元値を高く言ったほうがいいじゃないかよ……」

 目をそらしたまま悔しそうに彼は小さく呟いた。

 今、彼の持つ安楽死の薬にどれくらいの価値があるものだろうかと考えた。おそらく、飛行機で墜落死するのが怖いという人間ほど高い値をつけるにちがいなかった。しかし薬の価値を左右するのはそれだけだろうか。

「だいたい、なぜあなたはその薬を自分のために使おうとしないのですか?」

「それはあなた、人生の最後に物を売って充実感を得たいからですよ」

 私は考えながら座席から頭を上げ拳銃を持っている男の子を見た。男の子は通路の真ん中に立って不器用な手つきで拳銃に弾を込めていた。その隙をついて正義感に溢れる男性が二人ほど立ち上がり彼に飛び掛かろうとした。しかしやはり空き缶につまずいて転んだり、転ぶ人につかまれ道連れにされて転んだりしていた。銃声が二発鳴って静かになった。

「そうよ、この商談は取引というよりも、一種の賭けなんだ」

 私は気づいてセールスマンを振り返った。彼はぎくりとした表情をした。

「あなたはこう言ったの。『注射して死ぬまで三十分かかります。早く決めて注射しないと飛行機が落ちてしまいます』って。墜落の恐怖から逃れるためには、飛行機が落ち始めるよりも早くに注射する必要があるんです。ここがミソなんだ。もしも、注射した後にあの男の子が取り押さえられて飛行機は無事に羽田空港に着いたとしたら……」

 私は隣の座席で頭を低くしているセールスマンを睨んだ。彼は気まずそうに咳払いした。

「……そうなった場合、注射した私は飛行機が墜落しなかっただなんて知りもせずすやすや死んでいく。本来なら必要なかった商品をつかまされたことさえ気づかない。そしてあなたはハイジャックされた飛行機から生還してその足で銀行に向かい私の口座から有り金を持ち去る。あなたは丸儲けね。医者に払った注射の元値が百円だとしたら、二百九十九万九千九百円の儲けになるのよ」

「……まあそれはひとつの可能性でしょう。私も、ええ、たった今、あなたに教えられてはじめて気づきましたけれど」

「嘘おっしゃい」

「いいですか、あなたが言ったように、確かに飛行機が落ちないって可能性もある。あの男の子を見てください。今にも自分の足を撃ち抜きそうな拙《つたな》い拳銃の扱い方。でも彼には幸運がついているらしくいまだに取り押さえられずハイジャックし続けている。このままあと数十分もすれば飛行機は間違いなくT大の校舎へ墜落するでしょう」

「口からでまかせよ。あなたは薬を買わせようとしてそう言ってるだけ。本心ではあの子がだれかに取り押さえられることに賭けているのよ」

「まあ、そりゃあねえ」

 彼は口元に笑みを浮かべた。まるで狐のように狡猾そうな表情だった。

「その方が私の得になるんなら、それに賭けますけどねえ。ともかくこれではっきりとしましたね、薬を買うかどうかの決め手になる要因が。つまり、あの男の子が立ちはだかる障害にも負けず意志を貫いて自殺を決行すると思うのならあなたは注射を買う。どうせ死ぬんなら墜落死よりも安楽死の方がいいですからなあ。しかしあの子が途中で志半ばにして挫折すると思うのならあなたは薬を買わない。飛行機が墜落しないのに安楽死するなんて馬鹿ですからねえ」

「あなたって意地悪ね。本当に悪趣味な取引よ」

 私は窓の外を見た。あいかわらず外は青と白の二色しか見えなかった。

「でもおもしろいと思う。買うかどうかは、もうしばらく男の子を観察してがんばり具合を見てから決めることにします。時間がもったいないからそれまでに金額を決めましょう」

「ふむ……。まあ、値切るとか値切らないとか言い合いをしましたけれど、実はそんなこと問題ではないようですね。あなたがキャッシュカードの暗証番号を教えるかどうかです」

 言われて私は気づいた。私が注射で死んだ後、彼はいくらでも財布を探ることができるのだ。財布にある三万円は確実に抜かれるはずだった。後は暗証番号を教えるか否かで彼の受け取る金額が変わる。つまり彼の報酬は三万円か三百三万円かのどちらかなのだ。

「まさか暗証番号、あなたの誕生日ではないですよね」

「その通りですよ悪いですか?」

 彼は両眉を上げて驚いた顔をした。

「そんなこと言っていいんですか? さっき財布に免許証が入ってましたね。私はあなたの誕生日がわかる。つまりあなた、注射の値段を三百三万円にしたんですよ」

「いいですとも。人生の最後ですから」

 私が笑みを浮かべてそう言うと、彼もまた笑みを見せた。

「あの……、あなたたち、何でそんなに余裕があるんですか……?」

 肩を寄せ合って会話していた私とセールスマンに頭上から声がかけられた。

「ああ、ちょっと待っててくださいね。大切な商談をまとめているところなんですから」

 セールスマンが顔を上げて言った。声の主を見ると首をしめられたアヒルのような声を出した。

「おや、失礼……」

「いえ、こちらこそ話しかけてすみません。どうぞ商談を続けてください」

 声の主は通路に立っていた。彼の手には拳銃が握り締められており私は目をそれから離すことができなかった。私たちに声をかけたのは犯人の男の子だった。

 近くの座席についていた体の大きないかにも柔道部でしたという男性が立ち上がって男の子に襲い掛かろうとした。私とセールスマンは体を硬くして身構えた。これから目の前で元柔道部員とひ弱な男の子の戦闘が展開されることを想像した。しかし元柔道部員はどこからか転がってきた空き缶で足を滑らせ転倒し頭を座席の角で打ちつけて動かなくなった。男の子は彼の首筋に手をあてて死んでいることを確かめた。

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「さっきからあなたたちのことが気になっていたんです」

 セールスマンの右隣に空いていた座席に腰掛け男の子は言った。三つ並んだ椅子は窓のある左から順番に、私、セールスマン、男の子、という並びで埋まった。私は腕時計を確認した。ハイジャックが起きて約四十五分が経過していた。

「隠れて何か話をしているなあ、というのが見えていたんです。もしかしたら、僕に飛びついて拳銃を奪う計画でも練っているんじゃないか、それとも僕の寝癖や服装のことや学校でつけられたあだ名のことを二人で笑っているんじゃないか、最初はそう思っていたんです。でも、よく見るとあなたたち二人の顔は、うまく言えませんが……、他の乗客と違うんです……」

「そうですか? どんなところが?」

 私は少し前傾姿勢になってセールスマン越しに彼を見て質問した。セールスマンは少し体を引いて私の視線の通りをよくしてくれた。男の子は恥ずかしそうに銃を持っていないほうの手で髪の毛を撫で付けたが、手が過ぎると同時にやはり寝癖はアンテナのように立った。

「他の乗客はみんな、恐怖に怯えているんです……。助かろうとして僕に飛び掛かってくる人だって顔を引きつらせている。すすり泣いている人も、蒼白な顔をしている人も多い。それなのにあなたたち二人だけが、まるで自分の家のリビングで会話をしているような表情をしているんです。あなたたちは僕と拳銃が怖くないんですか? やっぱりこんな僕程度の人間がハイジャックだなんて滑稽すぎて恐怖なんか感じないというんですか? T大に入れなかった人がハイジャックしたらいけないとでも言うんですか?」

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