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作者:日-乙一 当前章节:13094 字 更新时间:2026-6-23 07:47

「そんなことないです。充分、怖いですよ。例えばその……」

 セールスマンはそう口ごもりながら男の子の寝癖を見つめていた。

「……何かいろいろとコンプレックスを抱いているような言動が、病的で少し怖いかなとか思ったりして」

「コンプレックスだなんて、僕のはそんなたいそうなものじゃないです。ただ、いつも人に笑われているような気がするだけなんです。道ですれ違う犬とか、テレビに映っている女子高生とか、みんな、僕が入学試験に落ちたことを心の中で笑っているんじゃないかって気がするだけなんです」

「ははあ……」セールスマンはそう言うと私の方を見てこの子はなるほど危ないと目で訴えかけながら「あなたは繊細すぎるんですな」と作ったようなやさしい声を出した。

 私は周囲に視線を向けた。機内にいるすべての人間は男の子の言うとおりひどい顔色をしていた。露骨に振り返って見る人間はあまりいないが、全員が私たちの座る最後尾の座席を気にしており、周囲に座っている人々は特に私たちの会話へ耳を傾けているようだった。私は再び男の子へ視線を向けて言った。

「あのう、私とこの人が他の乗客のようにおろおろしてないのは、もしかしたら、失うものがあまりないからなのかもしれません」

 男の子は首を傾げて先を聞きたそうな顔をした。

「確かに墜落死は怖いんですけど……。他の乗客たちに比べて、私とこの人のほうが死ぬことを簡単に受け入れやすいんじゃないかしら」

 私はセールスマンを指差し、彼が自殺するつもりだったことを説明した。私も、高校時代にある男から受けた仕打ちと、その男へ復讐しにいくところだったことを話した。私の体験を聞いた男の子は、さきほどのセールスマンと同様に口元を押さえた。

「以来、男性不信なんです……」

 男の子は少し目を赤くして私の顔を見つめた。言うのをためらうような素振りを何度か見せた後、彼は口を開いた。

「自分にひどいことをしたその男、殺したいですか?」

「ええ、まあ、そうですね。悶え死んでくれたらと思います。でなければ、ほら、私の気持ちが治まらないでしょう。そんな風に、私やこのセールスマンはちょっと幸福から遠い場所にいたんです。だから墜落死という不幸がつきつけられても、心のどこかで、まあ人生こんなもんかもねという気持ちがあるんじゃないかしら」

「だから平気そうに話をしてたんですね……」

 男の子は納得したように頷いた。しばらく無言で何か考えた後、うなだれて口を開いた。

「あなたは強いです。ひどいことをされたのに、死のうなんて考えず、復讐を考えて今まで生きのびてきたんですから」

「まあ、これから死ぬみたいですけどね」

 私がそう言うと、隣でセールスマンが「ハハハ、うまいね」と言った。

 私は身を乗り出して、うなだれている男の子の顔を下から覗き込んだ。彼は驚いて身を少し引いた。

「ねえ、ハイジャックに対するあなたの意気込みを聞かせてくれる?」

 私がそう聞くと、男の子も、セールスマンも、周囲で耳をそばだてていた人々も、訳がわからないという顔をした。

「あなた、何を言い出すんですか」

 セールスマンに肩を押されて私は再び座席に座らされた。

「ねえ、待って。重要なことなの。彼がどれだけの意志でこのことに臨んでいるのかってことは、私が薬を買うか買わないかの判断材料になるの」

「ああ、なるほど。確かに」

 セールスマンは頷いた。

「薬? 何のことですか?」

 男の子が不思議そうに聞いた。私とセールスマンは一瞬だけ目を見合わせて、安楽死のことを話していいものかどうか迷った。しかし結局、注射のことも、それを私が購入してハイジャックが失敗したときにセールスマンが受け取る報酬のことも、すべて話した。

「つまり、あなたはこのセールスマンの持つ注射を買うかどうか悩んでいるんですね?」

 男の子の言葉に私は頷いた。セールスマンが何度か咳払いをした後、男の子に聞いた。

「それで、どうなんでしょう。あなたはどれほどの気持ちで拳銃を撃ってるんですかね。そもそも、自殺するのにどうして私らみんなを道連れにしたがっているんですか?」

 男の子は意外と力強い表情でセールスマンの目を見た。目の圧力から押されるようにセールスマンが少し身を引いた。

「ただもう、憎かったんです」

 男の子はそう口を開いた。

「子供のころからT大に入ることを母から義務付けられて育ったんです。それ以外の人生なんて考えられませんでした。T大に入れなかったら人間じゃないって母は僕に教育を施したんです。そのうち僕自身、T大に入ることが生きる目的になりました」

「卒業後のことは?」とセールスマン。

「何を言ってるんですか、そんなの余生ですよ。ええ、入学できればいいんです。その後のことなんかどうでも。ともかく、そのために僕は勉強をしました。みんながゲームで遊んでいるときも、女の子と遊んでいるときも、ただひたすら勉強だけをしたんです」

「勉強をしてるとき以外は何をしてたの?」と私。

「漬物《つけもの》をつけてました」

 予想しなかった回答に私とセールスマンは顔を見合わせた。

「漬物を漬けるのが趣味だったんです。勉強机の下にいつも置いてました。あれは奥が深いんですよ」

 男の子はそう言うと、野菜の切り方で歯ざわりや漬けあがる時間がかわってくることや、漬物を漬ける際の塩の濃度について語った。そのときの彼の顔は明るかった。

「暗い家の中で一人、黙々と漬物をつけていると、心が落ち着いたんです。小学生のころからずっと……」

「小学生のころからこの子は危なかったらしいねどうも」

 セールスマンが私に小声で囁いた。

「学校ではみんな僕のことを笑っていたみたいです。僕の服装がださいって。怖くて服屋に入れなかったんです。僕なんかが服屋に入ったら店員に笑われるんじゃないかって。僕がおしゃれなんて滑稽でしょう? 母の買って来た服をただ着ていただけでした。自分で買ったものといったらノートや筆記用具だけです。みんながお金を集めてCDとか買っているときに、僕はお小遣いをためて万年筆を買っていたんです。勉強ばかりしていたから学校ではだれからも相手にされませんでした。会話をしても、クラスメイトたちと接点なんてありませんでしたね。みんな陰で僕のことを『臭い』って言ってたんですよ。ちゃんと毎日お風呂に入っていたのに……」

「オリジナリティのない陰口ね」と私は言いながらきっと彼は漬物臭かったのだろうと少し思った。

「母も、親戚も、僕は間違いなくT大にいけると思っていました。でも、だめだったんです」

「なぜ?」とセールスマン。

「入れてくれませんでした」

「だからどうして? 毎年の入試の日に風邪でもひいてたんですか?」

「いいえ」

「迷子の子供を助けていて入試に遅れたとか。溺れている子供を助けてたとか。脳腫瘍で死に掛けている子供の手を握ってやっていたとか」とセールスマンは彼が入試に失敗したあらゆる可能性を口にした。しかし男の子は悲しげに首を横へ振るだけだった。

「僕にも理由はわかりません。納得できなくて先生になぜ自分が落とされるのか尋ねてみました。そしたら……、おまえはT大に入れるレベルじゃない、一生無理だ、諦めろって言われたんです」

 ただ学力が足りなかっただけかよ。だれも口にはしなかったが機内にはそのような空気が満ちた。しかし本人は「そんなのしどい[#「しどい」に傍点]です」と言いながらさめざめと泣きはじめた。

「親も、親戚も、みんな見下げるように僕を見るんです。その気持ちわかりますか。どういったら伝わりますか。T大は無理だと言われても最初は信じられませんでした。でも今年、五回目の受験に失敗して、ようやく僕には無理だと受け入れることができました。そんな僕はこれからどうしたら良いのですか。これまでの二十三年間はどうなってしまうんですか。母は僕にT大へ入るという生き方しか教えてくれなかったんです。もう、自分が情けなくって。情けなくって。恥ずかしいんです。どこにいても笑われているような気がするんです」

 男の子はうなだれて座席の上で前傾姿勢になり、拳銃を持っていない左手で顔を覆った。

 ああ、憎い……。

 彼は呻くように言葉を吐いた。その声は低く地面を掻き毟《むし》るような響きだった。顔に当てられた手のため表情は見えずただ彼の呟きだけが聞こえてきた。

 哄笑《こうしょう》が聞こえる……、クラスメイトたちの笑い声が……。みんなが僕を笑う……。僕の寝癖を……、女の子の手を握ったこともないということを……、みんな心の中で笑っているんだ……。ああ……、もう……、ほっといてください……ほっといてください……。ああ、もう……。世界中にいるすべての人間を殺してまわりたい……。もうだめなんです……。だれか、助けてください……。憎くて憎くてしかたないんです……。

 男の子が顔を覆っている今、飛び掛かって拳銃を奪うチャンスだった。しかしだれもそうはしなかった。その場にいただれもが彼の異様さに動けなかった。彼の心の中にある暗闇が声に乗って肌を突き抜けてきた。

 憎しみ……、憎しみ……、僕がみんなに対している感情の、それが名前です……、みんなが、憎いです……。殺したいです……。絶望を味わわせたい……。世界中のすべての人に……。

 男の子は顔に当てていた手を外した。泣いた後のように赤い目で私を見つめた。彼は無表情だったが、私には一瞬、白目の赤みがまるで炎の赤色のように見えた。

「でも、世界中の人間を殺すなんてできない。だからひとまずこの飛行機を乗っ取ったんです。これなら個人レベルでできるでしょう? 乗客も、墜落場所であるT大校舎にいる人も、理不尽に死ぬ。そしてこのいたたまれないニュースが世界中に報道される。それが僕の望みなんです。ところで僕は少し前からインターネットで漬物の通信販売をしてたんですけど、これが飛ぶように売れまして。年間に三百万円ほどの利益を生んだんです」

「私の収入よりも多いんですけど……」

 セールスマンが呟いた。

「でも、僕の人生の目的はT大だったんです。お金の問題じゃない。ともかくその稼いだお金で拳銃を購入しました」

「だれから?」

「とある路地裏に住んでいた売人です。片言の日本語を話してました。たぶん、中国かどこかの人でしょう。語尾に『〜アル』ってついてましたから」

 そんな中国人って本当にいるのか? と少しだけ私は思ったがだまっていた。

「僕はその男から拳銃と弾丸を購入して飛行機に乗り込んだんです」

「どうやって機内に銃を持ち込めたの? 警備員がいたはずでしょう?」

「札束で頬をぶったら恍惚《こうこつ》とした顔をして通してくれました」

「あ、そう……」

 お金の力って恐ろしい。

「そういうわけで今に至ります」

 男の子は腕時計を確認した。

「ああ、もうこんな時間だ。T大の校舎まであと三十五分ほどです」

 彼は私の目を見た。

「ねえ、僕はこのまま飛行機を落としますよ。でなければ、僕の気がおさまらないんです。みんなに不幸を……、絶対的で圧倒的で理不尽に満ちた死を世界中の人間に知らしめたいんですよ」

 通路を歩いているときに見られたおどおどとした様子は微塵《みじん》もなかった。彼の瞳には必ずこの飛行機を落としてみせるという確信があった。私は決心するとセールスマンに言った。

「注射を買います。この飛行機、墜落するという方に賭けて私は一足早く安楽死します」

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「本当にいいんですか?」

 セールスマンが確認するように聞いた。

「かまいません」

 私は機内を見回した。通路に人が何人も倒れていた。

「私はたった今、この子の目を見て感銘を受けました。そして心から確信したんです。きっとこの飛行機は落ちて機内にいるみんなは地獄にいるような恐怖を味わうだろうって」

「この女、なんちゅうことを」

 セールスマンは呆れたように言った。

「だから私は『安楽死』を買います。決心は変わりません」

 ハンドバッグに入っていた財布をセールスマンに渡した。現金やキャッシュカードに未練はなかった。

 セールスマンが背広の内ポケットから注射器を取り出した。小さな細長いガラス製の注射器に透明な液体が入っており、私や男の子、さらに通路を挟んだ座席に腰掛けている乗客たちの目が一斉にそれへ注目した。

「その小さな注射器の中に入っている澄んだ水に、一人の人間の人生を終わらせる『死』が溶けているんですね?」

 男の子が聞いた。

「苦痛のない、甘い『死』だよ」

 セールスマンはそう言うと私に注射器を差し出した。私は落とさないよう慎重に両手で受け取った。注射器が手のひらに載ってもほとんど重みは感じられなかった。目の高さに持ってきて私は液体を覗いた。透明な液体越しに向こう側の景色が見えた。注射器のガラスのためそれは水飴が伸びたように湾曲していた。周囲から視線が注がれていた。座席から腰を上げて私を振り返っている者もいた。

「……そんなに見られていたら死ににくいんですけど」

 私が言うと機内にいる生きた乗客たちは咳払いをしながら視線をそらしてくれた。

「急がないといけないですよね。薬が効くまで三十分という話だから」

 私は左の袖を捲《まく》り上げた。長袖だったので肘のあたりまでしか露出できなかった。

「私、注射なんてしたことないんですけど、どうすればいいのかしら?」

「適当でいいんですよ。医者の話だと、どこに注射しても死ねるそうですから」

 セールスマンの言葉に自信をつけて、注射器の針に被せられていたカバーを指で外した。細長い銀色の針が空気に触れた。私は少しの間その先端を眺めてから男の子を振り返った。

「私はあなたがこのまま飛行機を落とす方に賭けたわけですからね。がんばってみんなを恐怖のどん底に突き落としてくださいね」

 男の子は元気に頷いた。

「ええ、あなたの安楽死を無駄にはしません」

「さっきからまったく本当にひどい会話だな……」

 セールスマンの呟きを私は無視した。針の先から少し液体を出して中に入り込んでいた空気を抜いた。左腕の肘の内側に針を当てて押し込むと、先端が皮膚を突き破りかすかな痛みが走った。ピストンを押し込んで液体を流し込むと、腕の内側に広がる冷たいものを感じた。

 注射を終えると針を抜いた。空になった注射器をセールスマンが受け取った。私は捲り上げていた袖を下ろして、「では」と言い残し目を閉じた。深い暗闇が眼前に広がった。

「あれ、もうぴくりとも動かなくなりましたね……」

「効くまでに三十分かかるというのは嘘なんです。本当は即効性だったんですよ。そう医者から説明されていました」

「なぜそんな嘘を?」

「ある程度、早い段階で薬の購入を決めてもらわないといけませんでしたからね。だって、あなたが取り押さえられてからでは取引が成り立たないでしょう」

「よく考えればそうですね、なるほど。ということは、あなたは、僕が取り押さえられることを望んでいるわけですね?」

「その方が私の得ではありますね。そうなれば私は彼女の貯金を手に入れることができる。あの薬、じつは医者からただ同然でもらったものなんです。だから丸儲けだ。そのお金で私は新しい人生をはじめるか、それとも少し遊んでからまた自殺を考えるかしたいと思います。……ああ……、新しい人生か……。あなたは生まれ変わった気持ちになって人生をやり直そうとは思わなかったんですか?」

「前向きなことをするには、憎しみが強すぎました。死んだ気持ちになって新しい人生をはじめるだなんて……、僕にはむずかしすぎます……。ところでお願いがあるんです。あなただけじゃなく、この声を聞いているみんなに。立ち上がって飛行機の前の方に座席を移ってほしいんです。最初からいなかったり、途中からいなくなったりで、座席が半分ほど空いているでしょう。みんなに固まって座っていてもらったほうが、僕にとっては見張りやすいんです」

「いいですとも。座席を移動しましょう。でも、前半分に乗客が集まったら、飛行機が傾いて落ちませんかね?」

「どうせ落ちるんですから、問題ないでしょう」

「ですよね。あ、彼女はどうしますか?」

「……ここに置いていきます。通路に倒れている人々もそうです。生きている人間はみんな、前に移って下さい。さあ、これは命令ですよ。それともT大に入れなかった僕なんかの命令は聞けませんか?」

 私はどうやら死んだらしいと判断して目を開けると背伸びをした。首を動かしてマッサージしていると、左手にある窓に気づいた。自分は死ぬ前と同じ状態で座席に腰掛けていた。幽霊になった状態でまだ飛行機内にいつづけているらしかった。

 隣を見たがセールスマンの姿も男の子の姿もなかった。私は死ぬ直前の暗闇で聞いた二人の会話を思い出した。男の子が監視を楽にするため乗客たちを前に集めるという話だった。

 幽霊になった私は立ち上がり前の座席越しに前方を見た。飛行機の前半分に乗客たちの後頭部が密集していた。真ん中ほどから私のいる最後尾の座席まではがらんとして涼しげだった。

 乗客たちのいない後ろ半分には動かない人々が倒れていた。まるで先頭から真ん中までは生きている者の世界、真ん中から後方は死んでいる者の世界という風に区切られているようだった。

 寝癖のある後頭部を見つけた。男の子は乗客たちを見張るため後方の空いている座席の中に腰を下ろしていた。死んでいる者の世界に一人だけで座っている様は寂しそうだった。

 だれも喋らず飛行機のエンジン音だけが聞こえていた。私は通路を静かに歩き男の子の座席に近づいた。通路に倒れている人々を避けて移動し、途中で足元に転がってきた空き缶も、転ばないように注意深く踏み越えた。

 私は男の子の座席の斜め後ろに立って背もたれに手を置いた。寝癖のある頭を真上から見下ろす格好だった。彼は何も見逃すまいとして前方を注視していた。彼の気迫は空気を伝わって私にも届いた。

 私は指先でアンテナのような寝癖をつついた。なるほど幽霊というものはだれにも気づかれず好きな角度から好きなものを触れるものらしいとわかった。同じように好き放題はげ親父の頭をぱしぱし叩けることを考えて、私は、幽霊っていいじゃんと思った。私は獲物を探す鷲のような気持ちで機内を見渡し、密集する後頭部たちの中にひとつだけ肌色をして光を眩しく反射しているハゲあがった後頭部を発見した。さっそくあれを触りに行こうと思った。

 私はその方向に歩きかけた。そのとき、男の子が背伸びをして、持っていた拳銃を隣の席に置いた。私は拳銃が珍しくてなんとなく手にとってみた。ずしりとして重かった。つつくと爪にひびが入りそうなほど硬くて、本当に金属でできているんだなと思った。それにしても幽霊というのは質量のあるものでも持ち上げることができるのかと感心した。拳銃をかまえて格好つけてみたりした。

「あれ? なんで?」

 背伸びを終えた男の子が、背後で婦人警官ごっこをしていた私を振り返って不思議そうな声をあげた。彼の目はしっかりと私にむけられていたので驚いた。

「あなた、私が見えるの? 霊感まであるのね?」

 前に密集して座っていた後頭部たちが振り返った。中の一人が立ち上がった。セールスマンだった。彼は口を大きく開けて「なぜ生きてるんですか!」と叫んだ。私は婦人警官ごっこをやめて、「はあ……、死んだつもりですけど……」と答えた。

「いいえ、死んでません! よく自分の体を見てください! 足だってあるでしょう!」

 私は自分の両足を見下ろして、セールスマンの言うとおりであることを確認した。私はまだ死んでいない、そのことを理解した。注射をしたはずなのに、私は死ねなかった。私は拳銃をセールスマンに向けた。

「騙したわね! 安楽死なんてしてないじゃないの! あなたは私に嘘の薬を売りつけたんだ!」

 セールスマンは銃口から逃れるように座席へ伏せた。頭だけ出して私の方を見た。彼の周囲に座っていた人々は悲鳴をあげて彼から遠ざかろうとした。おかげで機内は混乱した。

「待ってください! 私だって何が起こったんだか……」

 彼は困惑してそう呟いた後、何かに気づいた様子で息を呑み込んだ。

「……あの医者のジジィ、まさか、わざと無害な薬を」

 私は銃口を彼に向けたまま引き金に人差し指を当てた。

「それよりどうしてくれるの!? 安楽死できなかったら、私も墜落死しなくちゃいけないじゃない!」

 セールスマンは背もたれを盾がわりにしながら顔を激しく横に振った。

「待って、待ってください。冷静になって。あなた、手に持っているのが何なのかわかって言ってるんですか?」

「馬鹿にしないで!」

「わかってるんなら、なんで私に向けているんですか!? 向ける相手が違うでしょう!」セールスマンが、私の隣に立っている男の子を指差した。「彼に銃口を突きつけて、降伏を勧告しなさい!」

 私は男の子を振り返った。彼は座席から腰を浮かせて真剣な眼差しで私を見返した。

「私がどうして彼に降伏を呼びかけるのよ! 彼が飛行機を落とす方に私は賭けているのよ!?」

「あんたはバカですか!」

 セールスマンの叫びとともに他の乗客も私に向けてブーイングをした。私は少し冷静に考えて彼らの言い分を理解した。私が男の子の拳銃を取り上げたということは、つまり、もう飛行機が落ちなくて済むということだった。

 私は銃口をセールスマンから男の子へと向けなおした。セールスマンはほっとしたような顔をした。

「ごめんなさいね、さっきはあなたを応援したのに」

 私は男の子に謝った。彼は向けられている銃口を気にする様子もなく静かに首を横に振った。

「別にいいんです」彼は肩をすくめると、上着の内側に右手を入れた。「拳銃ならもう一丁、持ってますから」

 機内に緊張が張り詰めた。乗客たちの表情が強張り、声を出すものも、身動きするものもいなかった。男の子の表情だけ妙に余裕があった。彼は上着とセーターの間に右手を差し込んだ状態で、私の目を見つめていた。

「コートの内ポケットに拳銃を差しているんです。今から右手でそれを取り出してあなたを撃ちます」

 上着の陰になって彼の右手は見えなかった。

「動かないで。右手はそのままにしているのよ」

「撃たれたくなかったら、先に撃つことです……」

 彼はそう言うと口元に笑みを浮かべた。安らいだ静かな表情だった。

「冬の夜、僕が勉強をしていると、いつのまにか窓の外が明るくなっていました。窓を開けると、きんと冷えた空気が息で濁った室内に入ってきて僕の息は白く染まるんです。いつのまにか訪れていた朝の景色は霜できらきらと輝いていました。勉強をがんばったなあという気持ちで幸福になりました。僕はその朝が好きでした。人を大勢殺した僕には、もう見ることが許されない美しい光景ですけれど……」

 彼はそう言うと右手を上着の内側から出して私に向けた。私は咄嗟に引き金を引いた。手のひらに重い塊をぶつけられたような衝撃を受けた。空気の爆発したような風が頬にあたった。機内にいた人間はみんな伏せた。男の子は通路に倒れ、彼の右手には万年筆が握られていた。

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 空が夕焼けにそまるころ、私は彼の子供を膝にのせて彼の部屋でテレビを見ていた。彼の子供は女の子でまだ幼稚園に通っていた。彼女は一人で家にいた。彼女は人見知りせず私になついた。私の膝の上に座ってテレビのニュースをしばらく眺めていたが、少し前から彼女は眠っていた。

 部屋の隅に置かれたテレビのブラウン管には、今日の昼ごろに起きたハイジャック事件に関するニュースが流されていた。飛行機の着陸直後の映像や乗客が飛行機を降りて運ばれていく映像、警察の人間が機内に入る映像などが次々と切り替わった。飛行機から出て保護される乗客たちの中に、一瞬、あのセールスマンや私の顔が見えた。

「最悪のフライトだったね」飛行機を降りた直後にセールスマンの言った言葉を思い出した。彼は両足で揺らぎのない確かな地面を確認していた。「もうしばらくは死ぬことなんて考えたくないな」

 私は救急車に乗せられて病院に運ばれた。わけのわからない液体を腕に注射したため、一応、検査する必要があった。私のほかにも失神していた乗客たちが救急車で病院に運ばれた。

 夢でも見ているのか、私の膝の上で眠っている彼の子供が身動きした。寝顔を私の胸に押し付けて彼女は幸福そうな表情をしていた。彼の部屋はマンションの三階にあった。南側の窓から日差しが入り室内は明るかった。窓際に花の鉢が置かれ、それを眺めていると玄関扉の開かれる音が聞こえてきた。

「ただいま」

 高校時代に聞いて、今もまだ私の記憶にある男の声だった。廊下を踏む足の音が聞こえ、居間の扉が開かれた。彼は部屋の入り口で足を止め、娘を膝に乗せて床に座っている私を見つけた。私たちの視線があった。彼の顔は記憶の中のものとさほど変わっていなかった。彼が昔、私にどのようなひどいことをしたのか詳細は省くものの、その傷跡はまだ私の心にも、体にも、しっかりと残っていた。

「おかえりなさい」

 私はそう言った。彼は一瞬、訝《いぶか》るように私を見たが、私がだれなのかをすぐに覚ったらしく後ずさりをした。

「なんでお前がここに……」

「調べてもらったの」

 私は答えながら、傍らに置いていた包丁をつかんだ。

「それよりも、ここへ来るまでが大変だったのよ。ハイジャックされたり、拳銃を撃ったり……」

「妻はどこだ……」

 彼は立ちすくみ私の持つ包丁を見下ろしたまま聞いた。

「買い物みたいよ。お子さんを部屋に残して」

 膝の上で眠っている彼の娘の首筋に私は包丁の刃を当てた。そのときテレビのスピーカーから私の名前が読み上げられた。画面を振り返ると、私の顔写真が大きく映し出されていた。救出された乗客の一人である私が病院を抜け出して行方不明であるとテレビは語った。警察が私から話を聞くために病室の外にいたことを思い出した。私はトイレへ行くと言い残してそのまま病院を抜け出した。彼はテレビ画面に映っている私の写真と、包丁を持っている私とを見比べていた。

「いったい俺の身に何が起こっているんだ?」

「唐突な展開、そして理不尽な不幸よ。ねえ、自分の身にそういうことが起こるって、あなたは考えたことがある?」

「お願いだ、娘を離してくれ」

 彼は床に膝をついて、高校時代に仲間たちと行なった私へのひどいことを泣いて謝った。部屋の中には彼のすすり泣く声だけが響いた。やがて玄関の扉が開いて彼の奥さんが買い物から戻ってきた。彼女は買い物袋をさげて廊下を歩いてきたが居間の入り口で立ち止まった。膝をついている彼と包丁を持っている私を見て何が起こっているのかわからないという顔をしていた。女の子はあいかわらず私の胸に寝顔を押し付けていた。長い時間、だれも喋らず身動きもしなかった。私は女の子の首に包丁をあてたままニュースを眺めていた。

 やがてテレビ画面にあの男の子の顔が映し出された。ハイジャックをしてスチュワーデスや乗客を殺害した犯人として彼のことは説明されていた。彼が私に撃たれて死ぬ前に話したことを思い出した。霜に覆われた綺麗な朝の話だった。私は女の子の首筋から包丁を離して立ち上がった。

「一日のうちに二人も殺せないわ……」

 私は女の子を膝から下ろして玄関に向かった。居間の入り口で彼やその奥さんとすれ違った。彼は振り返らなかったが、彼の奥さんは困惑した瞳で私を見ていた。

 私は彼の部屋を後にしてマンションを出た。太陽が沈みかけて空は赤色だった。道行く人にぶつかりながら私は走った。どこに向かって走っているのか自分でもわからなかったがとにかく走った。

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初出

カザリとヨーコ   「小説すばる」一九九八年一二月号

血液を探せ!    「小説すばる」一九九九年一二月号

陽だまりの詩《シ》    「小説すばる」二〇〇二年六月号

SO-far そ・ふぁー 「小説すばる」二〇〇一年七月号

冷たい森の白い家  「小説すばる」二〇〇二年二月号

Closet       「青春と読書」二〇〇一年一月号〜三月号

神の言葉      「小説すばる」二〇〇一年二月号

ZOO         異形コレクション『キネマ・キネマ』井上雅彦監修(光文社文庫)

SEVEN ROOMS     『ミステリ・アンソロジー㈼ 殺人鬼の放課後』(角川スニーカー文庫)

落ちる飛行機の中で 書き下ろし

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底本

単行本 集英社刊

二〇〇三年六月三〇日 第一刷

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