「ママがあんたを困らせたことが一度としてあったかしら? そりゃああんたをたたいたことくらいはあったけれどそれは全部あんたのためなのよ」
ママが後ろからわたしの首すじをさわりさわりとなでてからキュッと首をしめた。
「や……めて……!」
わたしはもがきながら呻《うめ》いた。
「あんたのそういう声を聞くとむしゃくしゃするの。あんたを今まで育ててきたのはママなんだからもっと尊敬したらどうなの」
ママが手に力をこめるのを感じた。わたしは声を出せなくなった。呼吸もできず、おねがいよママゆるしてなんでもするからと懇願することもできなかった。
一瞬だけ気絶したらしく、気づくとわたしは床に倒れていてよだれをたらしていた。仁王立ちのママが上から見下ろして言った。
「あんたはもう死んだほうがいいよ。近いうちにママが殺してやるから。本当にどうして双子の姉妹でこんなに差が出てしまったのかしら。あんたのしゃべりかたから歩き方まで全部鼻につくのよね」
三冊の小説を没収してママは自分の部屋に消えた。酸素の乗った血液を首から上へ送り込むため心臓がフル回転していた。わたしは床に倒れたままの格好でこの家を逃げ出そうと決心した。
このままこの家にいるのは危ない。ちょっとしたきっかけでママが破裂するように怒ったらわたしは確実に殺されるという確信があった。スズキさんに会いたい。スズキさんとアソとわたしの三人でどこか遠くに行こう。
床に倒れたままそう考えていると重要なことを思い出した。スズキさんにもらった大切な家のカギは、ママの持って行った本の中にはさんで隠していた。
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次の日は土曜日で学校は休みだった。ママは用事があり六時ごろまで帰らないと言って家を出た。カザリは友達と遊ぶために昼からいなくなった。わたしは家で一人になるのを見計らってママの部屋に入った。
ママの部屋に入るのはほとんどはじめてのことだった。普通だったら絶対に入らない。もしもわたしが部屋に入っているところをママに見られたらひどくぶたれることだろう。最悪の場合は死だ。しかし危ないことをしてでもスズキさんにもらった家のカギだけはなんとしても取り返したかった。カギはスズキさんとわたしの大切なつながりだ。本の方はなくなってもきっとスズキさんはゆるしてくれるだろう。でもカギはだめだ。なくしたらわたしがゆるさない。
ママの部屋は几帳面に整頓されてちり一つ落ちていなかった。机には花のささった花瓶があって横にノートパソコンが置いてあった。大きめのベッドがあり、そこでママが寝起きしているのかと思うと不思議な気持ちになった。ベッド脇にCDラジカセがあり、棚にCDケースが並んでいた。わたしには音楽を聴くという習慣がないけれどママとカザリはよくわたしの知らない音楽のことについて話をしていた。
部屋のすみにスズキさんの本が無造作に置かれていた。カギだけを抜き取り強く握り締めた。あとは一目散に部屋を出るだけだった。本はそのまま残していくことにした。本を持ち去ると部屋に入ったことがばれるかもしれないと思ったからだ。
ドアノブをにぎった時、玄関の開く音がした。わたしは動きを止めて音を立てないようにした。だれかが帰ってきたらしかった。部屋を出ると見つかってしまう。耳をすますと玄関をあけた人物がこちらに近づいてくる音が聞こえた。
まわりを見て隠れる場所を探した。ベッドが部屋の壁際にあり、ベッドと壁との間に人間一人が横たわって隠れられるほどの隙間があった。わたしは決心すると素早くそこに体をねじ込ませた。まるで寝相が悪くてベッドから落ちてしまったかのような格好だった。しかしわたしがはまり込むのを想定して配置されたかのように幅はぴったりだった。
ドアの開く音を聞きわたしは身を硬くした。心臓の音が激しくなっていっそのこと止まって静かになってくれと願った。ドアを開けた人物の足音が室内を移動した。ベッドにはさまって顔を伏せていると、ベッド下のすき間を通して部屋の反対側に置かれている姿見が見えた。その姿見にカザリの顔が映りこんだ。部屋に入ってきたのはカザリだったのだとわかった。わたしは姿見のカザリを見つめた。ママの部屋になんの用があるのかわからないが早く出て行ってくれないだろうかと思った。
カザリはまっすぐに棚の前へ移動して中に納まっているCDケースを眺め始めた。鼻歌を歌いながら彼女は棚からCD数枚を抜き取った。どうやらそれらを借りるために部屋へ来たらしいとわかった。彼女は抜き取ったCDケースをそばの机へ無造作に置き再び棚を眺めた。そしてまた数枚を抜き取って無造作に机へ置いた。
そのとき花瓶に当たってしまった彼女の手がベッド下から見える姿見に映りこんだ。わたしはその瞬間、「ああ!」と叫んだ。花瓶が倒れて中の水がママのノートパソコンにすべてぶちまけられてしまったからだ。しかしわたしの声に彼女が気づいた様子はなかった。なぜなら同じタイミングで彼女もまた「ああ!」と叫んでいたからだ。彼女はすぐに花瓶を元に戻したが遅かった。びしょぬれになったパソコンを見下ろして真っ青になった彼女を姿見の中に見た。
彼女は困ったように室内を見回していたがやがて笑みを浮かべた。彼女が移動して姿見に映らない場所へ引っ込んだ。しかしベッド下のすき間から彼女の靴下に覆《おお》われた足首が見えた。彼女の足は室内を移動して部屋の隅に行き置かれていた三冊の本の手前で止まった。スズキさんから借りて取りあげられたわたしの本だった。カザリの手がそれらをつかみあげた。
その後カザリは机に置いたCDを棚に戻した。借りていくことを諦めたようだった。そのかわりに彼女はスズキさんの本を持って部屋を出た。しばらく自室に行ったり居間を横切ったりする彼女の足音が聞こえていた。しかしやがて彼女は自室に落ち着いたらしく足音が聞こえなくなった。
カザリがなんのために本を持って行ったのかわたしはすぐに気づいた。ママが戻ってきて水浸しのパソコンを見たらいったいだれがやったのか疑問に思うだろう。カザリとわたし、どちらがやったのか……。しかしわたしから取り上げた本がなくなっていれば、わたしが本を取り返すために部屋へ入り花瓶を倒したのだとママは考えるはずだった。
ママは今までになく怒るだろうとわたしは想像した。こんなにひどい事件ははじめてだった。わたしは死をもってつぐなうことを要求されるに間違いなかった。わたしは昨日のママの顔を思い出した。仁王立ちでわたしを見下ろすゴムのマスクのような顔だ。
わたしは慎重にベッドと壁の隙間から出ると足音をたててカザリに気づかれないよう部屋を出た。玄関から外に出るとわたしはスズキさんの家に走った。わたしに唯一残された生きる方法はスズキさんにかくまってもらうことだけだった。しかしスズキ家のチャイムをならした時、中から出てきたのはうすく化粧をした女の子だった。
女の子はわたしを頭のてっぺんからつま先まで眺めて言った。
「あなただあれ?」
わたしはこの子がスズキさんの孫であることを直感的に覚った。
「そのう……、スズキさんは……?」
「わたしもスズキだけど? でもきっとあなたが言ってるのはおばあちゃんのことね? おばあちゃんなら死んだわよ。今日の朝、犬がうるさいからって近所の人がたずねてきたら、玄関で倒れて死んでたんだって。風邪をこじらせたそうよ。もう、せっかくの休みなのに朝から呼び出されてこまっちゃった」
昨日、スズキさんが風邪気味だと言っていたのを思い出した。玄関に立つ女の子の背後で数人の歩き回る気配があった。
「エリちゃん、どなただったのー?」
そう家の奥から女性の声が聞こえてきた。女の子が振り返って、「わかんなーい、知らない子ー」と返事をした。わたしに向き直るとため息をつきながら彼女は「勝手に死なれるのも困るのよ。かってた犬、どうすんだろう。保健所につれていくのかしら」と言った。わたしは咄嗟《とっさ》に「神様、今ここでこの子の首を絞めてもいいでしょうか」と思ったがうなだれてスズキさんの家を離れることしかできなかった。
わたしは公園のベンチに座った。かつてアソを発見したベンチだった。大勢の子供が公園で遊んでいた。滑り台を滑り、ブランコを揺らし、力いっぱいに笑っていた。わたしは体を丸めて目を覆った。スズキさんがもうこの世にいないというのが信じられなかった。「あんまりですよー」と思った。
公園の時計が六時をさした。そろそろママが帰ってくる時間だった。約三時間、わたしはベンチに腰掛けてじっとしていた計算になる。気づくと足元に水溜りができていた。わたしの流した涙が多すぎて水溜りになってしまったのだと一瞬思ったが、よく見ると近くの水のみ場から漏れ流れてきた水だった。
わたしは立ち上がった。地の果てまで逃げようと決心した。しかしそのとき視界の端にカザリの姿を見つけた。最初は見まちがいかと思ったけれどたしかにカザリが公園そばの道を歩いていた。彼女の手にはコンビニの袋がぶら下げられており部屋を出て外へ買い物に出ていたらしいとわかった。わたしはカザリを追いかけた。
「カザリ、待って!」
立ち止まり走ってきたわたしを見た彼女は目を丸くした。
「ねえ、カザリ、ママの部屋でやったこと、正直にママへ謝ってちょうだい!」
「そのことを知ってるの!?」
「そうよ、だからお願い、ママにあなたがやったって話して!」
「いやよ! わたしママに怒られたくないもの!」
カザリは頭を強く横に振った。
「お姉ちゃんがかわりに怒られてよ。怒られるの慣れてるでしょう? わたしは怒られるなんてみっともないこといやよ」
わたしはまた息苦しさを感じた。今ここにナイフがあったら自分の心臓を突いて風穴を開け楽になるのにと思った。
「……でも、花瓶はあなたが倒したんでしょう?」
懇願するように彼女へ訴えた。
「もう、頭の足りない人ね! お姉ちゃんがやったことにしてって言ってるでしょう! ママが帰ってきたら、ちゃんとあんたが謝るのよ、わかった!?」
「わたしは……」
ポケットに手をつっこんだ。
「なによっ」
彼女がなじるように言った。血が滲《にじ》むほど強く、ポケットの中でカギを握り締めた。
「わたしは……」
わたしは、彼女のことが心から好きだった。しかしそれは十秒前までのことだった。そう思うと胸につかえていた息苦しいものが溶けて流れて呼吸がらくになった。
「……いえ、いいの。なんでもない。カザリ、聞いてちょうだい……」わたしは決心していた。「残念だけどあなたがやったことをママはもう知っているのよ。これは本当なの。あなたは本を持ち出して、わたしのせいにしようとしたけどママには通じなかったのよ。あなたがコンビニへ買い物に出かけた後、ママが帰ってきたの。わたしは玄関に立って、部屋から聞こえてくるママの怒声を聞いたの。そして公園まで逃げてきたんだけど、ママはちゃんとあなたが花瓶をたおしたことに気づいていたみたいだった」
カザリは顔を真っ青にした。
「気づくはずないわ!」
「気づいたのよ。わたしは玄関からママの声を聞いたの。CDの並んでいる順番が違う、カザリがやったんだ、って。そうママは叫んでいたもの。それであなたが正直にあやまりにくるのを待っているのよ。お願いだから正直にあやまって」
カザリは困惑したようにわたしを見た。
「もう全部ばれてしまっているの?」
わたしは頷《うなず》いた。
「でもお姉ちゃんのように怒られてぶたれるなんて嫌よ!」
わたしは一緒に困惑するふりをして、それから話を持ちかけた。
「……じゃあこうしましょう。わたしがかわりにあやまってあげる」
「どうするの?」
「今日一晩だけ服をとりかえっこするのよ。わたしがカザリの服を着て、カザリがわたしの服を着るの。明日の朝までわたしはカザリのように振る舞って、そのかわりカザリはわたしのようにうつむいて歩くの」
「ばれない?」
「大丈夫、おんなじ顔なんだもん。ただ、カザリはわたしがいつもそうしているように陰気にしていればいいの。そうしていれば安全だから。怒鳴られるのも、ぶたれるのも、全部わたしがかわりにやってあげる。カザリは心配しなくていいよ」
公園のトイレでわたしたちは入れ替わった。カザリは身につけていたものを全部とって髪の毛をぼさぼさに手でかきまわした。わたしの汚れた服を着る時カザリは顔をしかめた。
「この服へんなにおいがするわ!」
カザリの服は綺麗でさらさらしていた。くつしたや腕時計まで全部身につけて手グシでなんとか髪を整えた。うまくいったかどうかわからないけど笑顔をつくってトイレの鏡を覗き込むとなんとかカザリに見えた。その笑顔を見たときスズキさんのことを思い出した。わたしは咄嗟に口元を手で押さえた。両目からなんか水みたいなものが出てきてつまりそれは涙とかそういうやつだったが一生懸命水で顔を洗ってカザリに隠した。
「なにやってんのよ」
わたしがいくら待っても出てこないのでカザリがトイレの入り口に立って憮然とした顔をして言った。
わたしたちは公園を出てマンションに向かった。夕焼けのためにマンションは赤く染まって高く聳《そび》え立っていた。その足元に立って部屋がある十階の窓を見た。さきほどカザリに、ママはすでに帰っていると嘘をついた。彼女にそのことを疑っている様子はなかった。
実際には確認していないがおそらくママはもう帰っているはずだった。六時に帰ると言って時間通りに帰ってこなかったためしが几帳面なママにはこれまでなかった。
「カザリ、あなたは家に帰ったらわたしがいつもしているように振る舞うのよ」
不服そうに彼女は鼻をならした。
「わかってるわよ。それで、どっちが先に帰るの? 一緒に帰るなんて小学二年生のとき以来やってないでしょう? 不自然よ」
わたしたちはじゃんけんをした。三十回連続であいこだった。双子だから出す順番が同じだったのかもしれない。三十一回目でわたしが勝ちわたしに扮装したカザリが先に帰ることとなった。
彼女がマンションの入り口に向かうのを見送った。わたしはマンションの前に生えている木の幹に背中をもたれさせて夕焼けに染まる町を眺めた。彼女がさきほど手に持っていたコンビニの袋はわたしの手に移動していた。膝にあたりコンビニのビニール袋がかさかさと鳴った。
自転車を漕ぐ少年がわたしの前を横切り長い影を引きながら遠ざかっていった。空にかかる雲はまるで内側から発光しているように赤かった。カザリちゃん、と呼ばれて振り返ると同じマンションに住むおばさんがわたしを見ていた。お勉強の調子はどう? がんばってる? おばさんはそう聞いた。ええ、まあまあです、とわたしは答えた。直後にどさりと上から何かが落ちてきておばさんはわっと驚いた。汚れた服を着たわたしと同じ顔が地面に倒れていた。
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わたしは部屋に戻ると死んだカザリのために遺書を書いた。ママの言いつけだった。警察が来るまでの五分以内に書いてちょうだいとママは命令した。引き受けると、あなたはいい子ね、大好きよ、とママは言った。それはわたしがいつも夜中に見る夢の中で聞いていた言葉だった。
ヨーコが死ぬ前に書いた遺書ということになるので文面を考えるのは楽だった。わたしが死にたいと思ったことを書けばよかったのだ。
エンドウヨーコの自殺を疑うものはいなかった。夕日が落ちて薄暗くなり集まっていた野次馬たちが闇にまぎれて見えなくなる頃、わたしとママは部屋で警察に質問されてきとうなことを答えた。ママはわたしの正体に気づいていなかったが、気づいてショックを受けるのは遅くないはずだった。今晩中に荷物をまとめて家を出て遠い地に旅立とうとわたしは決心していた。
夜遅くまで警察の話は続きママとわたしは憔悴《しょうすい》した顔をした。わたしは本当に疲れていたがママのは演技だったらしく警察が帰ると肩をもみながらやれやれと言った。死んでもママに悲しまれないなんてわたしという人間はまったくなんてかわいそうな人だったんだろうと思った。そしてまた、もういないカザリに心の中で深く謝罪した。
ママが自室に入るとわたしはカザリの部屋に引っ込んだ。彼女の部屋は可愛らしいもので溢れていて落ち着かなかった。台所のゴミ箱の隣のほうがずっと落ち着くわねとわたしは感じた。ママが寝静まったのを確認してわたしはバッグに様々なものをつめた。いつも布団のかわりに使っていたぺちゃんこの座布団を詰め込もうとしたら入らなかった。しかたないのでカザリの服を外に出して座布団の入る空間を確保した。
部屋を出てスズキ家に走りアソを迎えに行った。おばあちゃんが死んで引き取りてのいなくなったアソは保健所に連れて行かれるという話をわたしは覚えていた。アソはまだあの家にいるのだろうかという心配はあった。しかし家に到着すると都合よくアソは玄関先に紐でつながれていた。家の中にはスズキさんの子供や孫たちが葬式を行なうために宿泊しているらしい気配があった。アソは追い出されたのだな、と思った。いいじゃん、わたしと同じじゃん、と思った。
アソはわたしを見ると尻尾を振り乱しその動きで竜巻が起こるのではないかというほどよく回転させていた。わたしは紐をはずしアソを誘拐した。
犬と一緒にひとまず駅のある方角へ向かった。スズキさんと、そしてエンドウヨーコさんの葬式に出られなくて申し訳ない気持ちだった。これからどうやって生きていくのか自分でもよくはわからなかった。お金はまったくなくてもしかすると餓死するかもしれなかった。しかしわたしは空腹に慣れていたし、飲食店の出す残飯とかにんじんの切れ端とかそういうものを食べても腹をくださない鉄の胃袋を持っていると自負していた。ポケットの中でカギをぎゅっとにぎりしめるとどうやってでも生きていけるという力がわき「おっしゃー!」と思った。
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血液を探せ!
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目覚時計が鳴ってワシ(六四歳)は目が覚めた。やかましい時計を止めてその手で目をこすると朝の五時でベッドの真横に位置するカーテンのない窓から朝日が差し込んでいた。窓は立て付けが悪く鍵がかからない上に押しても引いても三センチほどしか開かないため部屋を出入りするには扉を抜けるしかなかった。
ワシは自分の手を見てぎょっとした。真っ赤だった。すでに乾燥した赤いものが皮膚にこびりついていた。血だった。さらによく見ると全身が血まみれであることに気付いた。ワシは恐ろしくなり悲鳴をあげた。以前から恐れていた事態がついに起こったと思った。
「何の悲鳴ですか父さん! 鍵を開けてください!」
扉が叩かれた。次男のツグヲ(二七歳)の声だった。鍵がかかっているため部屋に入れないらしかった。ワシはベッドから立ち上がり体のどの部位から血が出ているのかを確かめようとした。
「ど、ど、ど、どこだどこだ、どこから血が出ているのだ!」
動揺しているのが自分でもわかった。しかしどこを怪我しているのかまったくわからなかった。目に血が入ってしまったらしく周囲がかすんで見えた。血の出ている部位探しを諦めてなんとか扉まで歩き部屋の鍵を開けた。
「父さん!」
ツグヲが扉を開けて部屋に入ってきた。ワシの姿を見ると彼は「うわっ!」と叫んだ。
「どどど、どこから血が出ているのだ、調べろ、よく調べるのだツグヲよ!」
かねてよりこの次男坊のことを臆病なやつめと侮《あなど》っておったから、一瞬、逃げ出すかと思った。しかしツグヲは命令に従い「うあー!」とか「うえー!」とかもらしながらワシの背中を調べた。
「あ、ここです! 右の脇腹を怪我しているのですよ父さん!」
言われたところを手探りしてみると何か硬いものがワシの体から生えているのがわかった。
その時、遅まきながらワシの妻であるツマ子(二五歳)と長男のナガヲ(三四歳)が起きてきた。血が目に入ってよく見えないが何事かという表情で部屋をのぞいたようだった。
「どわ!」
「げ!」
という二人の悲鳴が聞こえてきた。
「ツグヲ、このワシの体に生えているものはいったい何なのだね!」
次男は「あー……」と頭の悪そうな声を出して言いにくそうに答えた。
「ぼくの見たところ……、そうですねぇ……、どうも父さんの脇腹から生えているのは、包丁のように見えますねぇ……」
気が遠くなりかけた。右の脇腹から止めどなく血が流れ絨毯《じゅうたん》における染みの面積を増やし続けていた。ワシは包丁が突き刺さったことにまったく気付かなかったのだ。
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十年前にワシは交通事故を起こした。当時、ワシの運転していた車には防弾加工が施されておりスプリンクラーまで搭載していた。金にものをいわせて作らせた戦車のような車だった。助手席には最初の妻が座っていた。
ひどい事故だった。自慢の車は奇怪な鉄の塊と化してこれでよく生き延びられたなと後で不思議に思ったほどだった。
病院のベッドの上でワシは目が覚めた。全身に包帯をまかれていたがどこも痛くなかった。同乗していた妻がどうなったかを知るため病院内を歩き回った。
ワシを見た看護婦は悲鳴をあげた。どうも体の勝手が違うなと思っておったら片足がワシの体重に負けて「の」の字を描いておった。ワシは全身を骨折しており絶対安静なのだと言われた。
ワシは納得できなかった。まったく痛くないのに安静もくそもあるかいな。
後日、医者から説明を受けた。事故の際に、ワシは頭を強く打ち付けていた。そのせいで脳に障害が起きてしまいちょっとした後遺症が残ってしまっていた。痛みを感じる機能がすっぽりと消えてしまっていたのだ。
以来、ワシは怪我におびえるようになった。
新聞なんぞを読んでいる時、なぜかマンガ『ほのぼの君』の四コマ目が真っ赤に塗りつぶされていた。だれかいなこんないたずらしたやつはオチがわからんじゃないかまあオチなんぞあるようなないようなっちゅうマンガやけどなと憤《いきどお》ると、それはワシの指先から流れる血の染みだったということがあった。ワシはペットに土佐犬を飼っているのだがそいつに朝食をやり忘れたためいつのまにかそいつがワシの手を餌がわりにモグモグしていたのが原因だった。
風呂に入るために脱衣場で肌着を脱ぐとなぜか赤い水玉模様ができていた。こんな趣味悪いもんだれが買ったんやと怒るとその水玉はワシの血が染みになったものだった。背中に二、三個、画鋲《がびょう》が刺さっていたのだ。どうやら昼寝していた時、寝相の悪いワシは画鋲の上を転がってしまったらしかった。
そんなふうにふと気付けばいつのまにか血が流れていた。皮膚が釘にひっかかってもワシは気付かなかった。箪笥《たんす》の角に足の小指を打ち付けて骨折したのに気付かないまま二日をすごしたこともあった。
身の危険を感じたワシは、毎日、寝る前に、どこか怪我をしていないか主治医のオモジ先生(九五歳)に診察してもらうようになった。
しかしワシは一抹の不安を完全に拭《ぬぐ》い去ることができないでいた。もしも明日の朝、目が覚めた時、全身が血まみれになっていたらどうしよう。いつもそう怯えながら眠りについた。
事故を起こしたその年、妻を失ってからというもの、ワシの人生は輝きを失った。できの悪い息子たちに囲まれて働き会社を大きくするだけの人生となった。
会社は成長を続けた。しかしろくな跡継ぎもおらずワシは引退できないでいた。笑うことも少なくなりワシは痛みのない世界で怪我に怯える日々を生きていた。
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3
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窓から見える山の風景は早朝のすがすがしい空気に包まれていた。軽やかな鳥のさえずりが血まみれでテーブルについたワシの耳に忌々《いまいま》しく聞こえてきた。テーブルにはツグヲとツマ子がそろっていた。
「あなた、すごい出血だわ。噴水みたい」
ツマ子が口元を押さえて言った。そこへ電話を終えたナガヲが戻ってきた。
「親父、救急車を呼んだけどさ、麓《ふもと》からこの別荘まで早くても三十分かかるそうだぜ。どうする?」
三十分かと内心で呟きながらワシは脇腹の包丁を見た。たしかにさっくりと刺さっていた。太っているため少し体をねじらなければ見えなかった。
「父さん、ねじってはだめだよ。ぞうきんをしぼるみたいに血が出てしまうよ」
「おお、そうだそうだ」
ツグヲの忠告を聞いて体をねじるのをやめた。しかしこの出血では三十分もつまいと思った。ここは山奥の別荘で近くに病院はなかった。
「ツマ子……」ナガヲは年下の継母《ままはは》のことを名前でこう呼んだ。「口に手をあてているけど気分が悪いのか?」
ツマ子は首を横に振った。
「ちがうわよ。こうやって笑いを隠しているだけよ。もううれしくって。この人がようやく死ぬかと思うと」
実を言うとこの女は遺産が目当てでワシと結婚していた。
「なんてことを言うんだいツマ子、おれの親父が死ぬって時に!」ナガヲはワシの方を振り返りまるで保険のセールスマンのような笑顔を作った。ワシは常々この長男のことを『偽善者』と心の中で呼んでいた。「親父、この女に遺産を分け与えることはないよ。会社もおれにまかせていいから大往生してくれ」
「まあよく言うわ。ナガヲさんこそ、借金があるから早く遺産が欲しいくせに」
「うう、この二人の考えていることが怖いよ、父さん」
臆病なツグヲは、椅子をずらして二人から遠ざかった。
「おまえらな、ワシが死にそうな時になんっちゅうことを言うんだ」
「死にそうだからこんな話題してるんじゃないの」
しれっとツマ子がつぶやいた。
この女め、遺言から名前を削除しちゃろうか。
「父さん、怒ってはだめです。血圧が上がると出血が増えます」
ツグヲの声でワシは我にかえり、深呼吸して怒りを収めた。そしてある人物の顔を思い出した。
「そういえばオモジ医師の顔が見えないな」
ワシは旅行へ行く時も必ず彼を同行させた。今回も例外ではなかった。この山奥の別荘に来ている人間は全員でワシの家族と彼を合わせた五人だった。
オモジ医師は高齢のじいさんだった。どれほど高齢の人物かというと、彼を見たほとんどの人が「この先生、大丈夫かしら。他のお医者にかかった方がいいんじゃないかしら。こんな江戸時代から生きているようなじじいに私は命を預けていいのかしら」と心配してしまい別の病院に行ってしまうほどだった。そのため彼の経営する病院はいつもがらがらで、ワシが旅行に同行するよう依頼すると「行きますぞ、行きますぞ」と喜んで病院を放ったらかしてついてきた。
「先生はまだ部屋で眠っているようですね。今こそ出番なのに」とツグヲが言った。
「おれが起こしてこよう」
ナガヲが立ち上がった。オモジ医師の部屋は一階にありワシの部屋の隣だった。悲鳴を聞きつけて真っ先に起きてしかるべきだが、おそらく耳が遠くなって聞こえなかったかあるいはベッドの上で老衰で死んでいるかしているのだろう。部屋の扉はリビングの壁に並んでいるため、医師の部屋の扉を開けて呼んでいるナガヲの背中がよく見えた。
やがて医師が首の後ろを掻きながら部屋から出てくると、ワシや他の者のいるテーブルの元へナガヲと連れ立って歩いてきた。その間もワシの体からは血が流れ出て絨毯に染み込んでいた。
「オモジ先生、眠っていたところ申し訳ありません。ワシを見てください、このざまですよ」
ナガヲが首を横に振った。
「いや、親父、この先生、起きていたぜ」
オモジ医師は白衣のままトコトコとワシに近寄ってきた。彼は旅行へ行く時も常に白衣だった。
「いやー、すまんのう。あんたの悲鳴は聞こえておったのだが、私は毎朝五時十四分からの『ぶらり途中下車の旅』っちゅうテレビ番組をかかさず見ておってのう。どっちかっちゅうと、あんたのことよりその番組の方が大切じゃからなあ」
「この、ヤブ医者……」
ツマ子がぽつりともらした。
「いやまあそれはいいですからワシの体を見てくださいよ」
医師はさっそくワシの傷口を調べはじめた。
「ははあ、包丁が刺さっておるの。こりゃあ、ここでは何ともできん」
「まさか本物の検死を目の前で見るはめになるとは思いませんでした」
ナガヲが呟いた。何が検死じゃ、まだ死んどらんがな。心の中でそう呟きワシはオモジ医師に向き直った。
「先生、ワシはもう助からんのですか?」
「そうじゃの、このままでは『おはスタ』の時間までもつまい。残念なことじゃて」
ツマ子がテーブルの向かい側で目をうるませて頭をふった。
「なんてこと……。願ったりかなったりだわ……」
ワシは彼女を片手で指差しながらもう一方の手でオモジ医師の白衣の裾にしがみついた。
「ああ、この女が憎い。先生、なんとかワシが生き延びる方法はないのでしょうか」
医師は皺《しわ》だらけの顔に笑みを浮かべた。
「まあ慌てなさんな。こんなこともあろうかと、旅行へ行く時は、あんたのために輸血用の血液を持ち歩くことにしておるのだ」
彼の言葉を聞いてワシは膝を打った。時々、彼はワシの腕に注射針を刺して血液を採取していた。それがあまりに頻繁だったため、ひそかにワシの血液はどこかへ売られているんじゃないかと思ったほどだった。しかしあの採取された血は、このような場合のために保存されていたらしいとわかった。オモジ医師の背後に後光が差して見えた。
「救急車が到着するまでそれを輸血しておれば、なんとか生き延びられるじゃろうて。ところで、救急車はもう呼んだのかね?」
この別荘まで三十分かかることを説明した。
「ぎりぎりじゃのう。まあよい、部屋にあんたのための大量の血液があるからの、それを持ってきてやるわい」
オモジ医師はトコトコと自室へ下がった。
「生きる望みが出てきてよかったじゃないか親父」
「本当にそうね。これからもあなたが末永く長生きしてくれるのかと思うと私も嬉しいわ」
さもがっかりという感じでナガヲとツマ子が口にした。ちっ、という舌打ちも聞こえた。
「父さんが死んだら、ぼくはこの二人と暮らすことになるの? そんなの怖すぎるよ!」
ツグヲが今にも泣きそうな顔でワシの肩をゆさぶった。やめんかい血が出るだろうがっ、と次男を引き離したところでオモジ医師が戻ってきた。満面に笑みを浮かべていた。
「ああ、先生、早く血をください。なんとなくふらふらしてきました」
「うむ、それはできん」
なんだと!
「ごめん、血液を入れておいた鞄、どこかに忘れてきちゃった」
今年九五歳になる医者は、そういうと照れくさそうに頭をかいた。
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忘れただとう!?
「なぜかわからんが部屋にないんじゃよう」
ナガヲとツマ子が嬉しそうな顔をした。
「い、家を出発するときは鞄、持っていたじゃないか。いったいどこに忘れてきたというのだね」
「わからん」オモジ医師は首をひねった。「しかし、うーん、この別荘まで持ってきたかのう。途中で乗った列車にでも忘れてきたのかもしれんが。みんなの荷物にまぎれておらんかのう」
さっそく妻と息子たちに自分の荷物を調べるよう命じた。
「でも、もし兄さんやツマ子さんが血液の入った鞄を見つけても父さんに死んでほしいのだから逆に隠しちゃうんじゃないの?」
ツグヲが言った。彼の言うことはもっともだと思った。
「それならばこうしよう、ワシの血液を見つけたものには全財産をくれてやる。会社も土地も全部だ。金が欲しいならなんとしてでも血液を探してくるのだ!」
ナガヲとツマ子がはっとするようにワシの顔を見た。
「あなた、安心して、わたしがすぐに血液を探してくるから!」
「同じく!」
二人はそう言うと階段をかけ上がり二階の自室へ戻った。ツグヲもそれに倣《なら》った。オモジ医師まで白衣の袖をまくりやる気を出しはじめた。
「いや、先生、あんたが見つけても遺産はやらんぞ」
「そうだと思ったよ」
「なあ、この別荘にいるだれかから直接血液をもらうってのはできるのかい?」
「あんたはO型じゃろう? 他の人間は皆、A型、B型、AB型じゃから無理じゃよ」
二階で三人の荷物をひっくり返す音が聞こえた。その間もワシの体から血は流れ続けていた。
「ワシの傷口、止血くらいはできんのかね?」
彼は頷いた。
「愛用のメスは持ってきておるし、裁縫用の糸もあるから、この場で簡単な手術くらいはできるだろう。幸い、麻酔もいらんことだしな」
「頼む、ワシはもうしばらく、生きねばならんのだ。あんな三人に後のことをまかせられるか。長年かけて育てた会社、つぶさせてたまるかい」
「まだ死ねんかね。あんたも大変じゃのう」
医師はそう言うと白衣の懐からさび付いたメスを取り出した。
「ちょっと待てなんなんだそのメスは! 錆が浮いとるやん!」
「なんじゃそのくらい、生死がかかっとる時に!」
オモジ医師のメスを持つ手はプルプル震えていた。
「先生、前に手術をしたのは何年前なんですか!」
「あんたが生まれる前じゃわい」
ワシは怪我人らしくない素早い動作で医師の手からメスをたたき落とした。
「とにかく先生、あんたは血液の入った鞄をどこに忘れてきたのか早く思い出してくれ。あの血液がないとワシは助からん」
ワシは昨日、家を出発した時点から今まで起こった出来事を思い出そうとした。
昨日の朝十時、二台のタクシーを使ってワシらは家を出発した。車の免許を持っているのはワシだけだったが、ワシは十年前の事故以来、ハンドルを握ることはなかった。