「家を出発する時は、ちゃんと血液を持っていたんだな?」
「それはまちがいない。私の膝の上にあったからのう」
タクシーで駅に到着すると列車に乗り込んだ。揺れる列車の中で両手に駅弁を抱えたオモジ医師の姿をワシは覚えていた。
「列車の中で先生は両手に駅弁を持っておったな」
「ああ、そうじゃそうじゃ。よう覚えておるのう。あれはうまかった」
「……血液の入った鞄は?」
「ぐはあっ! しまった! 駅のホームに忘れてきちょる!」
このボケ老人! ワシが叫びそうになったとき、後ろから声がかかった。
「それは大丈夫です。先生の荷物はぼくたちが列車に運びこみましたから。血液の入っていた黒い鞄というのもその時はぼくが持っていました」
ツグヲだった。いつのまにか一階にもどってきていたようだ。
「ではツグヲよ、血液はおまえの部屋に運びこまれていたのか?」
「いいえ、ぼくの部屋にはありませんでした」
息子はかぶりをふった。ワシはがっくりと、自分の肩が下がるのを感じた。心なしか次第に体温が下がっているような気がして、手や足の先が冷たくなっているようだった。
「父さん、なんだか顔が真っ青ですよ」
「そりゃあ、これだけ血が出れば青くなるわい。ツグヲ、ワシは煙草が吸いたい。煙草をくれ」
「だめです。煙草なんて体に悪いですよ。長生きできなくなったらどうするんですか」
「……こういう状況でそれを言うか」
列車を降りるとまたタクシーに乗り込み四十分前後山道を移動してこの別荘までやってきた。いや、その前に駅周辺の繁華街でワシらは食料などの買い物をした。これは別荘へ来た時の恒例行事だった。大量の荷物を持ったままでは買い物しづらいのでツグヲとオモジ医師だけが皆の分の荷物を持って先に別荘へ向かったのだ。
身軽になったワシとナガヲ、そしてツマ子の三人が駅周辺の店先を眺め食料を選んだ。ナガヲが汗をかきながら善人面を崩さないで食料の入った袋を運んでいた。確かケーキ屋の前を通り掛かった時、ツマ子がケーキを買おうと言い出した。
「みんなでケーキを買いましょう。あ、それから包丁も買った方がいいかしら。たしかあの別荘、包丁が一本もなかったから」
その時の彼女の左手に黒い鞄がぶら下がっていたのを唐突に思い出した。その鞄こそオモジ医師の物だったような気がした。
「一つ聞くが、先に別荘へ到着した荷物の中に血液の入った黒い鞄はなかったのか?」
「たぶんなかったと思いますけど……」
ツグヲが自信なさげに答えた。
「ツグヲさんとオモジ先生がタクシーで行ってしまった後、道路上に黒い鞄がぽつんと残されていたの」ツマ子の声が背後から聞こえた。振り返ると二階から下りてきた彼女が椅子の後ろに立っていた。「その鞄、先生のものだと知っていましたから、買い物をする間、わたしが持ち運んでいたのよ」
ワシは医師をにらみ拳を振り上げた。
「どうしてあんたはそんな大切なもんを道路上に忘れるんだ!」
「ああ、その拳はなんじゃ、あんた、この無力な老人に暴力を振るうつもりか! この老い先短い老人に!」
ワシの方が先がないんじゃ!
「そうですよあなた。暴力はいけません。このじじいはもうすっかりボケていらっしゃるのだから奇妙な言動くらい許してあげなさい」
お前こそ血も涙もないんか!
「とにかく鞄はツマ子が持ち歩いていたのだな。お前の部屋に血液の入った鞄はあったのか?」
彼女は首を横に振った。
「この別荘に着いてからどこかに置いたのは確かなんですけど……」
やはり見つからなかったか。ワシの視界はよりぼやけはじめてなんとなく眠くなってきた。これはやばい兆候だと自覚できた。傷口からはまるで砂時計の砂のように血が流れ続けていた。ワシの残り時間が刻々と少なくなっているのが目に見えた。
「でも別荘に鞄があるということは確実ですよね」
「ツグヲくんの言う通りじゃ」
「しかしこの別荘のどこにあると言うんだね」
みんなが腕組みして黙り込んだとき、リビングの入り口の方から善人面のナガヲの声が聞こえた。
「昨日の夜、おれは例の鞄を見ましたよ」
その声にみんなが一斉に振り返った。
「何、本当か!」
「ええ、確かに見ました。このリビングの入り口近くに転がっていました」
「それではナガヲ、おまえは血液を見つけることができたのか?」
「いえ、見つかりません。でも、昨夜、おれが皆の前でカモノハシのモノマネをやった時は確かにそこへ転がっていたのです」
ナガヲの言葉を聞いて昨夜の食事のことを思い出した。ツマ子の作った食事を食べながら、妻と二人の息子たちにそれぞれ芸をやらせたのだった。ナガヲのカモノハシのモノマネは中でもとびきり最悪だった。
「そういえば兄さん、昨夜は父さんに酷《ひど》くばかにされたね」
「だいたいカモノハシという哺乳類だか鳥類だかわからないものを真似するというところが馬鹿なんだわ、血のつながらない息子ながらできの悪い人」
ツグヲとツマ子がそれぞれ口にした。
「うるさいうるさい、カモノハシは悪くない! 馬鹿にするな! カモノハシはオーストラリアに住む原始的な哺乳動物で、みじかい足にみずかきがあるんだぞ! ツマ子こそ今更『だんご3兄弟』の熱唱はないだろう。親父、あれで不機嫌になったんだぞ。あれさえなければ、おれの十八番《おはこ》がうけていたはずなのに。親父がダンゴを嫌いなの知らなかったのかよ」
「知らなかったわよ! 十年前、前の奥さんがダンゴを喉につまらせて死んだなんてこと想像もできなかったもの。交通事故で死んだものとばかり思い込んでいたんだから!」
ワシは口論を聞き流して目を閉じると昨夜のことを思い出そうとした。まるで走馬灯のように昨日のことが次々と瞼の裏側に映し出された。
昨夜、食事をしながら三人の芸を見ていた。順番は、ツマ子、ナガヲ、ツグヲの順だった。ナガヲの芸が終わった時点でワシの不機嫌は最高潮に達していたがツグヲのトランプマジックはなかなかだった。この臆病で何もできない次男坊は、何もできないくせに手品は上手だった。部屋の本棚にはミステリ小説などが多く並んでいた。
かつて彼が星を見ながらぼんやりしている場面に遭遇したことがある。
「ツグヲよ、何を考えているのだね」
「人を殺すトリックを考えているんです」
彼は目をきらきらさせながら言った。しかしワシは吹き出して笑った。
「臆病なお前がそんなもん考え付くかいな。そもそもトリックなんぞ考えてどうする? 小説にするのか? 人を殺すのか? 臆病なお前にはそのどちらもできまい。だから大学を優秀な成績で出ても犬の散歩で一日を潰《つぶ》すという生活しか送れんのだよ」
ツグヲは頭をかきながらにこにこと話を聞いていた。ワシが辛辣《しんらつ》なことを言っても彼はいつも笑うだけの情けない男だった。
昨晩、彼のトランプマジックが終わったときいつのまにか十時になっていた。オモジ医師が宇多田ヒカルの歌を熱唱したいと言い出してそれを止《や》めさせ、ワシは一足先に眠ることにした。ワシは旅行中でも、夜十時に就寝して朝五時に起床という規則正しい生活を送るよう心掛けていた。
寝る前に自分の部屋でオモジ医師の診察を受けて怪我していないことをチェックした。ワシはベッドで横になり窓の外を見ていた。部屋はほぼ正方形の小さなものでベッドは入り口と反対側の壁に設置されていた。ベッドの真横に窓がありそこから星の輝く空が見えていた。立て付けが悪く数センチしか開かないこの窓のおかげで換気は最悪だったが、誰に頼んでも部屋を替わってくれないため別荘に来るといつも同じ部屋を使うことになった。
部屋の扉は開け放たれておりリビングで歓談する妻と二人の息子の声がよく聞こえてきた。ケーキを食べるから運んできてくれというような会話がされていた。
皮膚の感覚がないため体を検査するオモジ医師の手つきはほとんどわからなかった。もしかして検査などせずに眠っているのではないかと心配になった。彼の貧乏ゆすりをするような音がベッドの下から聞こえたのでまさか眠っているということはないだろうと思ったが、振り返るとこのボケ老人はやはりベッド脇の椅子に腰掛けてうつらうつらとしていた。
開け放たれている扉からリビングのテーブルが見えた。丸いケーキを包丁で分けているツマ子の姿がワシの目に映った。
「医者のじいさん、みんながケーキを食べ始めているようだよ」
ワシがそう呟くとオモジ医師はおもむろに椅子から立ち上がり「上に載っているチョコレートの板はワシのもんじゃ!」と叫んで部屋から出て行った。
ワシはやれやれと思いながらベッドから立って入り口に近づきケーキを囲む四人を少し眺めた。ツマ子が包丁を使って器用にそれぞれの皿へ運んでいた。
扉を閉めて鍵を下ろすとワシは室内で一人になった。ワシは電気を消しあくびをひとつすると、ベッドで横になって眠ってしまった。
「たしか親父が部屋へ戻った後、おれたちはケーキを食べたんだよな。血液の入った鞄は、その時はもうリビングの入り口になかったような気がする」
ナガヲの声を聞き、ワシは目を開けて走馬灯のような昨日の思い出から現実の世界へと再び戻ってきた。目の前にはテーブルについた四人がおり、ワシの体からは相変わらず血液が流れ続けていた。体をねじって脇腹を見るとやはりまだ包丁が刺さったままだった。カモノハシの物真似に関する口論はいつのまにか終わっていたらしく、リビングは静かになっていた。
「ナガヲの言葉を信じるなら、ワシが部屋へ引っ込んだ十時までには鞄が消えたことになるんだな」
「その後、たしか十二時にはみんな自分の部屋へ戻ったわね。……あれ?」ツマ子が不思議そうな顔をした。「そういえばこの別荘には包丁が一本しかないんだったわよね……」
だからどうしたんだ? 彼女の言葉を理解できないでいると、ツグヲが「あ、そうか!」と叫んだ。
「ということは、父さんの脇腹に刺さっている包丁って……」
「うむ、これを見てみい。包丁の刃の根元部分に生クリームがついておる」
オモジ医師がテーブル上に血のついた包丁を取り出した。確かにケーキを切り分けた跡が包丁に見られた。
「って、待たんかい! この包丁、いつのまにワシの脇腹から抜いたんだ!」
脇腹を手で探るがいつの間にか包丁の感触はなかった。
「ふっふっふ、隙が多いんじゃよ。私がこっそり包丁を引き抜いても気付かんとはな」
「あんた本当に医者か!?」
ナガヲが腕組みをして善良な主婦をひっかけるセールスマンのような顔を困惑気味にした。
「ううむ、それにしてもケーキを切り分けたのは親父が部屋へ引き上げた後ですよね」
ワシは頷いた。部屋の扉を閉めるとき、切り分けたケーキを包丁で皿に盛るツマ子の姿を覚えていた。
「その後、すぐ鍵をかけたわけですよね。では、その包丁はどうやって生クリームをくっつけて部屋へ侵入したのだろう? あの世の親父も不思議に思っているだろうな……」と、ナガヲ。
ワシはまだ死んどらんがな……。
血が流れ出すぎたせいで頭がくらくらとしてきた。ワシはもう一度、妻と二人の息子に血液の入った鞄がどこかに落ちていないかを調べ上げるよう命じた。もはや舌がよく回らなくなってきたので彼らにかける言葉は思いのほかもつれた。
ナガヲ、ツグヲ、ツマ子が物をひっくり返して血液を探している中、ワシはなんと不愉快な格好で死んでゆくのだろうかと思い始めていた。どいつもこいつも馬鹿だらけだ。ワシの会社をつぶさないだけの度胸と頭の良さを持った後釜がいれば実に愉快に死ねるのだが……。
ワシはオモジ医師の手を借りてリビングの端にあるソファーへ寝かせてもらった。もはや一人で歩く力はなく足が小刻みに震えていた。
「ああ、そういえば!」キッチンで鞄を探していたツマ子が声をあげてソファーにいるワシに近寄ってきた。ナガヲとツグヲも声を聞いてリビングに集まった。「わたしがケーキを運んでいる時、リビングの入り口あたりで何かをふみつぶしたような気がするの。まさか、あれが血液の入った鞄だったのではないかしら……」
「なにぃ、それで、その後どうしたぁ……!」
全身に力が入らないためワシの叫び声はへなへなとしたものになった。
「むかついたからおもいっきり蹴っちゃった」
「ワシの血液がぁ〜……」
「でも、その鞄、今はどこにあるのでしょうか?」
ツグヲが首をかしげた。妻と二人の息子、そして医師の部屋にもないとしたらどこにあるのだろうか。
もうワシは死ぬのだなあと思った。そうなると憎たらしかった妻や息子さえも愛しく感じられた。最後にそれぞれの顔をよく見ておこうとワシは彼らを見つめた。
しかしそれを邪魔するかのように、耄碌《もうろく》しかけた医者が椅子を運んできてワシの目の前に座った。なおかつスポーツ新聞を広げて読み始めた。ワシの視界いっぱいに、昨日行なわれた大相撲の写真が大きく突き出された。死ぬ直前に力士のぶつかりあう写真だなんて、と思った。しかしワシはあることに気づいた。
「おや、オモジ先生、貧乏ゆすりなんてしないんだな」
新聞の下から覗き見える彼の足は落ち着いて床に接地していた。彼は、それがどうかしたかねという声で、「ここ最近、貧乏ゆすり機能をOFFに設定しておるんじゃ」と言いながら新聞を捲《めく》った。
ワシはある可能性を思いつき頭の中にある想像上の豆電球がぴかっと輝いた。
「ツグヲ、ワシの部屋を探してきなさい」
ワシの声は弱々しいものだった。オモジ医師を脇にどけてツグヲがワシの前に出てきた。
「ええ、いやですよ、そんな、怖い。だって血だらけなんだもん、あの部屋」
「ではナガヲ、ワシの部屋の、特にベッドの下を探してくるのだ」
長男は命令に従って部屋に入っていった。ソファーの上から開け放たれたワシの部屋の扉がよく見えた。ベッドの下を探る彼の背中も見えていた。やがて彼が「あった!」と声を出した。リビングに戻ってきた彼の手には、黒い鞄が抱えられていた。
間に合った……。ワシは胸をなでおろした。意識は半分、消えかけていたが、どうやら命をこの世につなぎとめておくことができそうだった。
「でも、どうしてそんなところに……?」
ツマ子が首を傾《かし》げた。
「お前が鞄を蹴ったとき、たぶんワシはベッドの上でオモジ医師に検査されていたんだよ。蹴られた鞄は開け放しておいた扉からワシの部屋へ飛び込んだのだ。ほら、入り口の反対側にベッドがあるだろう。偶然、ベッドの下へ潜《もぐ》り込んだというわけだ」
検査を受けながらワシはベッドの下の方から何か物音がするのを聞いた。それはオモジ医師の貧乏ゆすりだと思っていたが、おそらく鞄の滑り込んできた音だったのだろう。
ナガヲとツマ子は残念そうな顔で鞄を見つめた。ワシはざまあみろという思いでオモジ医師が腕に点滴の針を刺してくれるのを待った。
「オモジ先生、早くしてください。ワシはもう限界だぁ」
「それはできん」鞄の口を開けて中を覗き込んでいた医者はそう言うと残念そうな顔をした。「この鞄、中がからっぽじゃ」
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「中身を入れ忘れたなこのボケじじぃぃぃ……」
半分あの世の淵に踏み込んでいたワシの意識が最後の叫びをあげさせた。しかしそれはまるでなよっとした女の子が眠たげに言ったような声だった。ワシは自分がもう死の入り口の直前まで来ていることを自覚してショックを受けた。すでにワシの生命は最終段階にさしかかっているらしかった。
全身がしびれるような脱力感に包まれた。もはやワシが生き残る方法はなさそうだった。ただ目を閉じて二度と浮かんでこられないほど深い眠りの海へ沈んでゆくだけだった。
かすみはじめる視界の中で、手を左右に振るオモジ医師の姿が見えた。目の前にいるはずの彼が、まるで遠いところにいるようにも見えた。
「ちがうちがう、ちゃんと入れたがな、いや、ほんとに。たぶん、だれかがあらかじめ中身を抜いてしまっていたんじゃよ。あんたに輸血させず確実に殺すためにな」
「本当に中身、入れておいたんだなぁ……」
「ほんとほんと、そこまでボケとらんがな。老人用の紙おむつははめとるけど、そこまでボケとらんがな。O型の血液とか、点滴のチューブとか、ちゃんと入れたがな」
「え、おむつしてるんですか?」とツグヲが驚いたように声をあげた。
「あ、冗談。冗談ですぞ」とオモジ医師はからからと笑った。
笑っとる場合か! ワシは一瞬かっとなったが、チューブという言葉を聞いて何かが心に引っかかった。白みがかった頭の中で、再び豆電球が明るく輝いた。
しかし信じられなかった。思い付いたことをぼんやり考えたが、まさかそのようなことはありえないと思った。
死を間近にしてワシの心はひとつの疑問で満たされていた。はたしてそれは本当に実行されたのだろうか? という疑問だった。
「親父に多額の保険をかけておいてよかったよ」
ナガヲがほっとしたように言った。愚痴を言い返す気力はすでに傷口から流れ出てしまっていた。声を出すのが億劫でたまらなかった。しかし目は開けており長男を睨《にら》みつけることはできた。
「あなた、ちゃんと遺言とか残しているのでしょうね」
ワシは残った力を込めてなんとかうなずいた。実を言うとすでに何年も前から弁護士に遺産の分配について頼んであった。遺産は妻と息子たちにほとんど同じ割合だけ分けられるはずだった。
強烈な睡魔にも似たゆるやかな死がワシの瞼を重くしはじめた。とうとうやってきたか、と思った。死の瞬間を察知したのか四人がソファーのまわりに集まってきてワシを見下ろしていた。ナガヲとツマ子は期待のこもった目をしていた。オモジ医師は複雑な表情だったが、ツグヲは一人だけ離れた場所からワシに向かってウインクした。彼は笑みを浮かべていた。それを見たとき、ワシの中にあった疑問は晴れた。
ツグヲがどのような考えで犯行に及んだのか正直わからなかった。あいつは子供の頃、ぎこちない手つきでワシにトランプの手品を見せてくれた。それに感動してワシがあいつを誉めるとこの上ないくらい嬉しそうな顔をした。これはその延長かもしれなかった。
少なくともワシはあいつに親を殺すほどの度胸があることを知って安心した。昔から弱虫で臆病なやつだと思っておったがこの調子なら会社もしばらくは安泰《あんたい》だろうと思った。
旅行へ行く前から計画していたのだろう。別荘へ来る途中、ツグヲは隙を見てオモジ医師の鞄の中身を抜き取ったのだ。おそらく列車に乗った時だろう。
次の日の早朝、ワシは朝の五時に目覚める。ワシの家族ならばだれでも知っていることだ。しかしその時間よりも以前にツグヲは殺人の準備を行なった。盗んだ血液と点滴のチューブを携《たずさ》え外へ出た。そしてワシの部屋の側へ行き窓を少しだけ開けると窓の隙間にチューブを差し込みO型の血液を眠っているワシの上に振りまいた。窓の鍵が壊れていることや数センチしか開かないことなどはワシが日ごろから愚痴っていたことだからだれもが知っていたことである。
その後ツグヲは空になった血液のパックとチューブを処理してリビングで目覚時計が鳴るのを待った。彼がなぜ生クリームのついた包丁を使ったのか、そしてツマ子がそれを買おうと言い出さなければどうするつもりだったのか、正確なところはわからない。ともかく五時になってワシは目覚めた。
窓から差し込む光で全身が血まみれであることにワシは気付いた。ツグヲはいち早く悲鳴を聞き付けたかのように振る舞い扉を叩いてワシに鍵を開けさせた。部屋に入ってきたツグヲはワシの体を調べるふりをして後ろから包丁を突き刺した。痛みを感じないワシは、あろうことかそれに気付かなかったのだ。
ソファーに横たわるワシを四人の人間が見下ろしていた。彼らの頭上にある蛍光灯がやけに明るく感じられた。ワシは口元に笑みを作り、みんなよりも一歩だけ離れた場所に立っているツグヲヘ「ワシは気づいたぞ」というサインを送った。
「まあ、この人、なんで笑っているのかしら?」
不思議そうなツマ子の声が聞こえてきた。ワシは安心に包まれながら瞼を下ろした。
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陽だまりの詩《シ》
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私は目を開けた。台の上に寝ていた。上半身を起こして辺りを見ると物の散らかった広い部屋だった。椅子に座った男がいた。彼は少し離れたところで考え事をするように黙りこんでいたが私を見ると笑みを浮かべた。
「おはよう……」
彼は椅子に座ったまま言った。上下ともに白色の服を身に着けていた。
「あなたはだれですか?」
私がたずねると彼は立ちあがり部屋の壁際にあるロッカーから服と靴を取り出した。
「きみを作った人間だ」
彼はそう言いながら近づいてきた。天井の白い照明が私と彼を照らした。彼の顔を間近で見た。色素の薄い肌だった。髪の毛は黒である。彼は私の膝の上に服を置いてそれを着るようにと言った。彼が着ているのと同じ白い上下だった。私は何も身に着けていなかった。
「誕生おめでとう」
彼は言った。部屋の中には工具や材料が散らかっていた。彼の足元に分厚い本が落ちている。私はそれを設計図だと認識した。
服を着て彼の後ろについて歩いた。扉やシャッターがいくつも並んだ長い廊下を抜けると上《のぼ》りの階段があった。そこを上がりきったところに扉があり彼が開けると強い光が視界を白くした。太陽の光だった。目覚めた部屋が地下にあったことを私は知った。太陽光線にはじめてさらされわずかに体表面の温度が上昇した。
扉を出ると辺りは草が一面に生えた丘だった。見晴らしがよくなだらかな緑色の斜面が広がっていた。地下へ下りる扉は丘の頂上あたりにあった。私の背丈ほどしかないコンクリート製の直方体に扉がついているだけの代物だった。上部に屋根らしいものはなくコンクリートの平らな面があるだけだったが、そこにも草が生い茂って鳥が巣を作っていた。私の見ている前で空から降りてきた小さな鳥が巣に着地した。
私は地形を把握しようと周囲に目を向けた。丘を囲むように山があった。丘はおそらく直径一キロメートルの球体の上部三分の一をカットしたものと同じ形状と大きさをしていた。山はいずれも樹木に覆われておりこの丘のように草原の広がっている所は他に見当たらなかった。周囲の地形との違和感からこの丘が人工物であることを推測した。
「あの森の中にあるのが家だ」
彼が丘の下のほうを指差して言った。その方向を見下ろすと緑色の丘を下りきったところから山の頂上に向かって唐突に木々が生い茂っていた。茂みの間から尖《とが》った屋根の先端が見えた。
「きみはあの家で僕の世話をすることになる」
私たちはその家へ向かった。
森に近い場所に十字に組まれた白い木の柱が立っていた。十字架と呼ばれるものだとすぐに判断した。丘の地面はほとんど凹凸がなかったがその辺りだけ盛り上がっていた。
「墓だ……」
彼は少しの間、白い十字架を見つめていたが、やがて私を促して再び歩き出した。
家は近くで見ると大きくて古かった。屋根や壁から植物が生えていた。緑色の小さな葉が煉瓦の表面を覆い半ば森と同化していた。家の正面は広い空間になっていた。畑や井戸があり錆びついたトラックが放置されていた。
扉は木製で白いペンキが剥《は》げかかっていた。彼の背中に続いて中に入った。歩くと床板が軋《きし》んだ。
家には一階と二階、そして屋根裏部屋があった。私は一階の台所の隣にある部屋を与えられた。ベッドと窓があるだけの狭い部屋だった。
彼が台所で手招きしていた。
「まずコーヒーを入れてもらいたいんだが……」
「コーヒーは知っていますが作り方がわかりません」
「そうだったね」
彼は棚からコーヒー豆を取り出した。湯を沸かして私の目の前で湯気のたつ二杯のコーヒーを作り上げた。そのうちの一つを私に差し出した。
「作り方は覚えました。次からは私が作ります」
私はそう言いながらカップの中の黒い液体を口に運んだ。唇がカップの縁に触れ高熱の液体が口の中に流れこんだ。
「……私はこの味がきらいです」
そう報告すると彼は頷いた。
「確かそういう設定だった。砂糖を入れるといい」
甘味を増やしたコーヒーを私は飲んだ。目覚めてはじめて体内に流しこむ栄養だった。私のお腹に組みこまれているものは正常に吸収を行なった。
彼はカップをテーブルに置き疲れたように椅子へ座った。台所の窓に金属製の飾りが下がっていた。長さの違う棒状の金属が風に揺れて互いにぶつかり様々な音を出した。音は規則的ではなかった。彼は目を閉じてその音に耳を傾けた。
壁に小さな鏡がかけられていた。私はその正面に立ち自分の顔を見た。私はあらかじめ人間がどのような姿をしているのかを知っていた。そのため鏡に映った自分の姿が人間の女性の顔を忠実に再現したものであることを認識できた。皮膚は白く裏側にある青色の細い血管を薄く透かしていた。しかしそれは皮膚の裏側にそう印刷されているだけである。肌の産毛も植毛されたもので皮膚の細かな凹凸や赤みの存在も装飾である。体温やその他のものをすべて人間に似せてあった。
食器棚の中に古い写真があるのを見つけた。この家を背景に二人の人物が写っている。彼と、白髪頭の男性である。彼を振りかえって、私は質問した。
「あなた以外の人たちはどこにいるのですか?」
彼は椅子に座っており背中しか見えなかった。彼は私を振りかえらずに答えた。
「どこにもいない」
「どこにもいないというのはどういう意味でしょうか?」
彼は、ほとんどの人間がすでに息絶えていることを話した。突然病原菌が空を覆いそれに感染した人間は例外なく二ヶ月で命を失ったという。彼は感染する前に伯父とこの別荘へ引っ越してきたそうだ。しかし伯父はすぐに死んで、それ以来、一人きりで生活していたという。彼の伯父という存在も病原菌で死に、死体は彼がさきほどの丘に埋めたそうだ。白い十字架の墓が伯父のものなのだろう。
「一昨日《おととい》、検査をしたら、僕も感染していることが判明した」
「あなたも死ぬのですね」
背中の上に見えていた彼の後頭部が上下した。
「でも僕は運がいいほうだ。何十年も病原菌とは無縁だった」
年をたずねると彼はもう五十歳に近いという。
「そうは見えません。私の知識に照らし合わせるとあなたは二十歳前後の年齢に見えます」
「そういう処理を施しているんだ」
人間は手術をすることで百二十年は生きられるそうだ。
「病原菌には勝てなかったがね」
台所に設置されている様々なものを確認する。冷蔵庫内には野菜や調味料、解凍すれば食べられる食品などが入っていた。電熱器の上には使ったまま洗っていないフライパンが載っていた。スイッチを入れると電熱器のコイルがゆっくりと熱を発し始めた。
「私に名前をつけてください」
彼に提案した。テーブルに肘をついて彼はしばらく窓の外を見つめていた。庭の地面を覆っている芝生の上を蝶が飛んでいた。
「必要ないだろう」
外の風が窓から入ってくる。下がっている金属製の飾りが揺れて高音を発する。
「僕が死んだら丘に埋葬してほしい。あの十字架の隣に穴を掘って僕に土をかぶせてほしい。きみを作ったのはそのためなんだ」
彼は私の顔を見つめた。
「わかりました。私が作られたのは、この家の家事をするためと、そしてあなたを埋葬するためですね」
彼は頷いた。
「それがきみの存在理由だ」
私はまず家の掃除からはじめた。箒《ほうき》で床を掃き窓を布で拭いた。彼はその間、窓辺の椅子に腰掛けて外を眺めていた。
私が家の中の埃《ほこり》を窓から追い出しているときのことだった。窓のすぐ下に鳥が横たわっているのを見つけた。物音に反応しなかったため死んでいるのだろうと推測した。家の外に出て私は片手で鳥の体をつかみ上げた。手のひらの感知した冷たさが推測の通り鳥が死んでいることを裏付けた。
いつの間にか窓辺に彼が立っていた。家の中から私の手にある鳥の屍骸《しがい》を見つめていた。
「どう処理する?」
彼が質問した。私は森の中に鳥の屍骸を投げた。私の筋肉は成人女性のものと変わらなかったが遠くまで飛ばすことができた。鳥の屍骸は木々の枝に引っかかり葉を散らせながら森の奥へ消えた。
「その意図は?」
彼は首を傾げた。
「分解して肥料になるからです」
私の答えを聞くと、一度、大きく彼は頷いた。
「僕を正しく埋葬するために、きみには『死』を学んでほしい」
彼の話では、私はうまく『死』を理解していないそうだ。私は困惑した。
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私と彼の生活がはじまった。
朝、私は目覚めると、台所にあった桶を持って井戸へ水を汲みに行った。食事や洗濯のための水はすべて井戸水だった。私と彼の住む家は地下に小型の発電設備があり電気だけが豊富にあった。しかし水をポンプで汲み上げるような設備はなかった。
井戸は庭の片隅にあり家の勝手口からそこまで石の敷き詰められた道があったがその道は曲がりくねっていた。私は毎朝、道を無視して井戸までの最短距離を真っ直ぐ進んだ。井戸の周囲には小さな草花が咲いていた。最短距離を歩くと咲いている花を踏むことになった。
井戸に備え付けられた縄つきの桶を投げ込むと深い底の方で着水する音がした。最初に水を汲み上げたとき、水とはこんなに重いものなのかと思った。
水を汲むついでにいつも私は歯磨きをした。目覚めた後の口の中は不快な粘膜に覆われていた。睡眠中、唾液の分泌量が抑えられるためだ。それを歯ブラシで解消した。
歯ブラシのような消耗品や食事の材料は地下の倉庫にあった。私が生まれたあの部屋の隣だった。廊下にあるシャッターを引き上げると巨大な空間があり何十年分という食料が積み上げられていた。水汲みを終えた後、そこから適当なものを運んできて庭でとれた野菜とともに電熱器とフライパンで調理をした。食事のとき必ずいつもコーヒーを入れた。私が料理をしている間に彼は二階の自室からおりてきてテーブルについた。
「昔の写真や記録映像などは残っていないのですか?」
二人で朝食を食べているとき私は尋ねた。食後、片づけが終わった私のところに彼が何枚かの写真を持ってきた。古い写真らしく色|褪《あ》せていた。大勢の人間が生活する町の光景が撮影されていた。高いビルの間を車や人々が行き交っていた。
ある写真の中に彼を見つけた。背後に何かの施設が写っていた。これはどこなのかと聞くと、前に働いていたところだと説明された。
また別の写真の中に女性の姿があった。私と同じ顔、髪型だった。
「きみはよく普及していたんだ」
彼は言った。
家は山と丘の境目あたりにあり、丘とは反対側の方向に山の麓へ延びる道があった。道にだれかの使っている気配はなく雑草が茂っていた。家の前までくると途切れるためこの家が行き止まりなのだとわかった。
「この道を麓へ下りて行くと何がありますか?」
ある日の朝食のとき彼に質問した。
「廃墟だ」
彼はカップを傾けながら返事をした。庭の木々の間から麓がよく見渡せた。彼の言う通り町だったものがあった。今はもうだれも住んでいないらしく壊れた建物とそれを覆う植物が見えた。
また別の朝食のとき、彼がサラダの野菜をフォークに突き刺して私に見せた。野菜の葉に何かがかじった小さな歯形がついていた。その野菜は庭の畑からとってきたものだった。
「兎《うさぎ》が出るんだ」
彼は言った。私と彼は衛生面を気にせず兎のかじった部分でも食べた。しかしできることなら兎の歯形がない葉のほうが良かった。
朝食がすむと私は考えながら家のまわりを歩いた。彼の生命活動が停止するさまを思い浮かべた。私もやがて同じように動きを止める。私のような存在には、活動時間があらかじめ設定されていた。動きを止めるのはまだ先のことではあった。しかし私は自分の活動できる残り時間を秒単位でカウントすることができた。私は手首を耳に当てた。小さなモーターの音を聞いた。これが止まるのだと思った。
丘にある地下へのドアを潜《くぐ》り倉庫の中にスコップがあることを確認していた。彼は丘に埋葬されることを望んでいる。私はスコップで穴を掘る練習をした。
あいかわらず死ぬということがどんなものなのかぴんとこなかった。だからだろうか。穴をいくつ掘っても、「だからなに?」という気がした。
家にある窓のそばにはひとつずつ椅子が置かれてあり、昼の間、彼はいつもそのうちのどれかに腰掛けていた。ほとんどは木製の一人がけの椅子だったが井戸が見える窓辺には長椅子が置かれていた。
何かしてほしいことはないかと私が近寄ると少し微笑《ほほえ》んで何もないと返事をした。ときどきコーヒーを入れて彼に持っていくとありがとうと礼を言われた。そしてまた窓の外に視線を向けて彼はまぶしそうな顔をした。
家の中を探してもどこにもいないときが何度かあった。彼の姿を求めて歩いていると丘に広がる緑色の草原の中に十字架の白と彼の着ている服の白が並んでいるのを見つけた。
私にも墓についての知識はあった。遺体の埋まっている場所である。しかし、彼がその場所へ執着する理由がわからなかった。おそらくすでに彼の伯父は地下で分解され周囲の草へ養分として取りこまれているはずだからだ。
庭の畑にある緑色の野菜は私が作られてこの家にくる前からすでにあった。彼が栽培していたのだろう。その管理は私に引き継がれた。